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浜松御前崎自転車道の「掛塚橋」
静岡県の海岸沿いに4つのサイクリングロードがある。西から ①浜名湖周遊自転車道 ②浜松・御前崎自転車道 ③静岡・御前崎自転車道 ④静岡・清水自転車道である。合計の距離は約200kmと長い。今後、伊豆半島地区での整備も進めていく。
浜松からは、磐田・袋井・掛川を通って御前崎へ至る。天竜川の、河口から2番目に「掛塚橋」が架かっている。延長は約900m、トラス橋であるが一定の距離に「山」がある。構造上に意味があるのか、単にデザインなのかも知れない。昭和30年(1955)に開通した。

当初は有料道路であったが、15年後に無料開放されている。幅員が狭く二車線しかないので、歩行者や自転車の通行はできなかった。現在は上流脇に自転車道が添架されて、サイクリングロードに指定されている。
この橋を一目見た時から「これは亀崎の衣浦大橋にそっくりだ」(2013・4・9&2020・12・7参照)と感じた。写真を比較すればお分かりのように、間違いなく同じ設計・デザインであることは一目瞭然である。完成は昭和31年、スタート時に有料であったことも同じである。

浜松からは、磐田・袋井・掛川を通って御前崎へ至る。天竜川の、河口から2番目に「掛塚橋」が架かっている。延長は約900m、トラス橋であるが一定の距離に「山」がある。構造上に意味があるのか、単にデザインなのかも知れない。昭和30年(1955)に開通した。

当初は有料道路であったが、15年後に無料開放されている。幅員が狭く二車線しかないので、歩行者や自転車の通行はできなかった。現在は上流脇に自転車道が添架されて、サイクリングロードに指定されている。
この橋を一目見た時から「これは亀崎の衣浦大橋にそっくりだ」(2013・4・9&2020・12・7参照)と感じた。写真を比較すればお分かりのように、間違いなく同じ設計・デザインであることは一目瞭然である。完成は昭和31年、スタート時に有料であったことも同じである。

猪鼻湖神社と瀬戸橋
浜名湖は、全国で10番目の面積をもつ。しかし形が複雑なので、外周の距離は3番目に長い。それは4つの枝湾をもつからである。細江湖・松見湖・庄内湖・猪鼻湖である。1498年の明応地震のときに、砂州が決壊して海と繋がったので、汽水湖となった。魚など生物が豊富に生息する。
猪鼻湖は北西に位置する。水深は深く、最深部では16mもある。湖面ではカキの養殖が、西岸ではミカンの栽培が盛んである。大きく突き出した大崎半島と本城山との間に狭い「猪鼻瀬戸」があり、二本の橋が架かっている。瀬戸橋と新瀬戸橋である。

半島の先端は「猪鼻(いのはな)」と呼ばれて岩盤が剥き出しになっている。ここには猿田彦命を祀る「猪鼻湖神社」が鎮座している。細い岩場の参道を進むとコンクリート製の鳥居があり、さらに進むと赤い太鼓橋がある。岩の隙間に根を伸ばした松の木の間に社殿があった。
西の本城山と東の大崎半島を結ぶのは新旧の瀬戸橋である。旧瀬戸橋は昭和30年(1955)に完成、長さ137mの吊り橋である。幅員が狭くて一車線しかないので、信号により交互に通行する。巨大なコンクリートの固まり・アンカーレージが民家の庭先にあるので驚いた。


猪鼻湖は北西に位置する。水深は深く、最深部では16mもある。湖面ではカキの養殖が、西岸ではミカンの栽培が盛んである。大きく突き出した大崎半島と本城山との間に狭い「猪鼻瀬戸」があり、二本の橋が架かっている。瀬戸橋と新瀬戸橋である。

半島の先端は「猪鼻(いのはな)」と呼ばれて岩盤が剥き出しになっている。ここには猿田彦命を祀る「猪鼻湖神社」が鎮座している。細い岩場の参道を進むとコンクリート製の鳥居があり、さらに進むと赤い太鼓橋がある。岩の隙間に根を伸ばした松の木の間に社殿があった。
西の本城山と東の大崎半島を結ぶのは新旧の瀬戸橋である。旧瀬戸橋は昭和30年(1955)に完成、長さ137mの吊り橋である。幅員が狭くて一車線しかないので、信号により交互に通行する。巨大なコンクリートの固まり・アンカーレージが民家の庭先にあるので驚いた。


桶狭間の戦い「祐福寺」と「沓掛城」
NHK大河ドラマ「どうする家康」も佳境に入ってきました。私の家の近くに、桶狭間のときに義元が本陣を構えたと言われる史跡が2か所あるので訪ねてみました。ひとつは東郷町の祐福寺、もう一つは豊明市の沓掛城です。いずれも義元が討たれた前日に宿泊した所となっています。
祐福寺には、後奈良天皇から勅使が遣わされたとき(大永8年=1528)に造営した「勅使門」が残っています。二階が鐘楼となっている山門には木彫の仁王が立っています。阿弥陀堂の横に立札があって「永禄3年5月18日 今川義元公本陣跡」と記されています。

沓掛城は祐福寺の南約2km、豊明高校のすぐ近くにあります。現在は公園となっていて、昔の「城址」の姿をよく留めています。入り口に案内看板が立っていて、本丸・二ノ丸・堀や土塁・侍屋敷の位置などが記してあります。隣の慈光寺というお寺も、当時はお城の敷地だったようです。

これまでに「大高城」や「義元終焉の地」などをブログとして掲載してきましたが、「桶狭間の戦い」の全体像をマップにしてみました。永禄3年の当日、信長や義元がどのような動きをしたかが一目で分かると思います。

祐福寺には、後奈良天皇から勅使が遣わされたとき(大永8年=1528)に造営した「勅使門」が残っています。二階が鐘楼となっている山門には木彫の仁王が立っています。阿弥陀堂の横に立札があって「永禄3年5月18日 今川義元公本陣跡」と記されています。

沓掛城は祐福寺の南約2km、豊明高校のすぐ近くにあります。現在は公園となっていて、昔の「城址」の姿をよく留めています。入り口に案内看板が立っていて、本丸・二ノ丸・堀や土塁・侍屋敷の位置などが記してあります。隣の慈光寺というお寺も、当時はお城の敷地だったようです。

これまでに「大高城」や「義元終焉の地」などをブログとして掲載してきましたが、「桶狭間の戦い」の全体像をマップにしてみました。永禄3年の当日、信長や義元がどのような動きをしたかが一目で分かると思います。

佐鳴湖
三方ヶ原の南端にはいくつかの谷筋があり、その一つに佐鳴湖が入り込んでいる。太古には海と繋がっていたが、2000年ほど前に切り離され自然湖となった。しかし今でも、満潮になると海水が流入して汽水状態になるという。
南北に約2km・東西に500mほど、周囲5.5km・面積約1.1平方キロの湖である。ひところは生活排水や事業排水が流れ込み、日本で最も汚染された湖であった。近年は改良が進み、第1位の汚名は返上されている。

佐鳴湖からは2本の川が流れ出し、浜名湖へと放流される。「旧新川」の流れ出し口には「富士見水門」があって、水の流出・流入をコントロールしている。二段式のローラーゲートで平成14年に完成した。もう1本の「新川放水路」は、平成12年に完成している。
湖の西側の台地には大平台という団地がある。湖との間の河岸段丘の樹林は「佐鳴湖公園」として整備されている。団地からは「大平大橋」を渡って浜松方面へ行くことができる。「ローゼ橋」という形式のアーチ橋である。
公園の南端に「佐鳴湖漕艇場」がある。昭和34年の国体ではボート競技の会場となった。この日は、中学生が練習のために集まっていた。


南北に約2km・東西に500mほど、周囲5.5km・面積約1.1平方キロの湖である。ひところは生活排水や事業排水が流れ込み、日本で最も汚染された湖であった。近年は改良が進み、第1位の汚名は返上されている。

佐鳴湖からは2本の川が流れ出し、浜名湖へと放流される。「旧新川」の流れ出し口には「富士見水門」があって、水の流出・流入をコントロールしている。二段式のローラーゲートで平成14年に完成した。もう1本の「新川放水路」は、平成12年に完成している。
湖の西側の台地には大平台という団地がある。湖との間の河岸段丘の樹林は「佐鳴湖公園」として整備されている。団地からは「大平大橋」を渡って浜松方面へ行くことができる。「ローゼ橋」という形式のアーチ橋である。
公園の南端に「佐鳴湖漕艇場」がある。昭和34年の国体ではボート競技の会場となった。この日は、中学生が練習のために集まっていた。


都田テクノポリスと総合公園
「三方ヶ原」と聞くと、徳川家康を思い浮かべる。武田の大軍に蹴散らされて、家康も命からがら浜松城に逃げ帰ったという戦いである。武田軍は諏訪を回って秋葉街道を南下し、二俣城を落とした。家康は浜松城で籠城戦に臨もうとしたところ、武田軍は素通りして浜名湖の堀江城へと進軍した。
武田・徳川の戦いは三方ヶ原で繰り広げられた。この台地は、天竜川と都田川に囲まれた三角形の洪積層台地である。東西10km×南北15kmほどの広さで、標高は25m~110mである。江戸時代は荒れた土地で採草地に過ぎなかったが、明治になって水が引けるとお茶などの畑になった。

昭和59年(1984)に、「浜松地区テクノポリス」開発計画が認められると、台地の西北の都田地区が中核拠点として選ばれた。平成3年までに造成工事が行われ、現在ではいくつかの企業や工業技術センター・静岡大学イノベーションセンターなどの研究機関が事業を進めている。
総面積243haの内訳は、企業用地100ha・住宅用地42ha・公共用地(道路や公園など)101haである。地区の中央に「都田総合公園」がある。広い芝生広場や桜・ツツジなどの樹林がある。道路を跨ぐシンボリックな「北都橋」や、溜池に架かる「増沢の吊り橋」などもある。


武田・徳川の戦いは三方ヶ原で繰り広げられた。この台地は、天竜川と都田川に囲まれた三角形の洪積層台地である。東西10km×南北15kmほどの広さで、標高は25m~110mである。江戸時代は荒れた土地で採草地に過ぎなかったが、明治になって水が引けるとお茶などの畑になった。

昭和59年(1984)に、「浜松地区テクノポリス」開発計画が認められると、台地の西北の都田地区が中核拠点として選ばれた。平成3年までに造成工事が行われ、現在ではいくつかの企業や工業技術センター・静岡大学イノベーションセンターなどの研究機関が事業を進めている。
総面積243haの内訳は、企業用地100ha・住宅用地42ha・公共用地(道路や公園など)101haである。地区の中央に「都田総合公園」がある。広い芝生広場や桜・ツツジなどの樹林がある。道路を跨ぐシンボリックな「北都橋」や、溜池に架かる「増沢の吊り橋」などもある。

