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旧中埜半六邸と庭園
半田運河は、阿久比川に並行して流れて衣浦湾に注いでいる。運河の西岸、JR半田駅近くに中埜半六のお屋敷があった。現在は市民団体・特定非営利活動法人「半六コラボ」が管理運営し、レストランや貸部屋として利用されている。
建物は明治22年(1889)に築造された。母屋を始め茶室や9棟の蔵などが建ち並んでいた。昭和40年代には、大相撲名古屋場所において二所ノ関部屋の宿舎に当てがわれ、横綱・大鵬も宿泊していたという。広い庭には土俵もあったのだろう。

母屋の南には回遊式の日本庭園があり、現在もその姿を留めている。中央に池があり、灯籠や大きな庭石が据えられている。池は運河と繋がっていて、潮の干満により水面が上下したという。いわゆる「潮入りの庭」であった。
お屋敷の北側に、中埜酒造の本社工場がある。狭い路地を挟んで黒い板壁の建物が並んでいて、「清酒・国盛」の看板も架かっている。建物の一部は「酒の文化館」になっていて、伝統的な酒造りや古い道具類を観ることができる。

建物は明治22年(1889)に築造された。母屋を始め茶室や9棟の蔵などが建ち並んでいた。昭和40年代には、大相撲名古屋場所において二所ノ関部屋の宿舎に当てがわれ、横綱・大鵬も宿泊していたという。広い庭には土俵もあったのだろう。

母屋の南には回遊式の日本庭園があり、現在もその姿を留めている。中央に池があり、灯籠や大きな庭石が据えられている。池は運河と繋がっていて、潮の干満により水面が上下したという。いわゆる「潮入りの庭」であった。
お屋敷の北側に、中埜酒造の本社工場がある。狭い路地を挟んで黒い板壁の建物が並んでいて、「清酒・国盛」の看板も架かっている。建物の一部は「酒の文化館」になっていて、伝統的な酒造りや古い道具類を観ることができる。

旧中埜家住宅
♪♪・・・知多の半田は蔵のまち 酒蔵・酢の蔵・木綿蔵・・・♪♪と歌う「半田音頭」というのがあったと思うのだけれど、今は謳わないのだろうか? ネットで探しても出てこない。ただ、この町が江戸時代から醸造や繊維など、海運を活かして発展してきたことは確かである。
中埜半六家は、江戸から明治にかけて海運業や醸造業で富を築いた。ミツカン酢を創業した中埜又左衛門家とは同族で、ともに半田運河一帯の整備に取り組み、近世以降の半田の発展の原動力となった。今も、運河沿いに建ち並ぶ蔵や博物館、屋敷や庭園は半田の魅力を発信している。

旧中埜家住宅は、第10代半六が明治44年(1911)に別荘として建てたものである。欧州留学中に見た西洋の住宅の美しさに心惹かれて、それを模して建築したものと言われている。デザインは「ハーフティンバー」と言われる洋式、柱や梁の間に白壁があるのが特徴である。
設計は名古屋高等工業学校教授の鈴木禎次、明治後期から昭和初期にかけてこの地方中心に活躍した名建築家である。鶴舞公園の噴水塔や奏楽堂も手掛けた。名工大の入り口近くに、彼を顕彰する記念碑が立っている。

中埜半六家は、江戸から明治にかけて海運業や醸造業で富を築いた。ミツカン酢を創業した中埜又左衛門家とは同族で、ともに半田運河一帯の整備に取り組み、近世以降の半田の発展の原動力となった。今も、運河沿いに建ち並ぶ蔵や博物館、屋敷や庭園は半田の魅力を発信している。

旧中埜家住宅は、第10代半六が明治44年(1911)に別荘として建てたものである。欧州留学中に見た西洋の住宅の美しさに心惹かれて、それを模して建築したものと言われている。デザインは「ハーフティンバー」と言われる洋式、柱や梁の間に白壁があるのが特徴である。
設計は名古屋高等工業学校教授の鈴木禎次、明治後期から昭和初期にかけてこの地方中心に活躍した名建築家である。鶴舞公園の噴水塔や奏楽堂も手掛けた。名工大の入り口近くに、彼を顕彰する記念碑が立っている。

半田赤レンガ建物 その2
この建物については、すでに平成25年(2013・9・23)にご報告した。ただし、その時はまだ改修工事の前で、平成26・27年に耐震補強などが施された。平成16年に登録文化財、21年に近代産業遺産、26年には半田市指定第1号の景観重要建造物に指定されている。
赤レンガ建物は、明治31年(1898)に「丸三麦酒」(のちのカブトビール)の製造工場として誕生した。戦時中は中島飛行機の衣料倉庫として使用された。戦後は日本初の「コーンスターチ」を作る工場となった。すなわち、この地は「コーンスターチ発祥の地」でもある。

平成になり工場が稼働停止して取り壊されることとなった。しかし、建物は300万個(東京駅に次いで2位)ものレンガが使われている貴重な遺産であり、保存の機運が高まった。平成27年に改修が終わってからは、クラブハウスや企画展示室、カフェ・ビアホール・ショップなどとして使われている。
駐車場からは、名古屋停車場(現名古屋駅)前に建っていた広告塔が目に入る。建物の裏側に回ると戦中に機関銃掃射により傷ついたレンガ壁を見ることができる。前面の平屋棟は、ヨーロッパでよく見る木骨造り(ハーフティンバー)になっている。
(下の写真は、2021・3・12の「木骨造りの家」より)

赤レンガ建物は、明治31年(1898)に「丸三麦酒」(のちのカブトビール)の製造工場として誕生した。戦時中は中島飛行機の衣料倉庫として使用された。戦後は日本初の「コーンスターチ」を作る工場となった。すなわち、この地は「コーンスターチ発祥の地」でもある。

平成になり工場が稼働停止して取り壊されることとなった。しかし、建物は300万個(東京駅に次いで2位)ものレンガが使われている貴重な遺産であり、保存の機運が高まった。平成27年に改修が終わってからは、クラブハウスや企画展示室、カフェ・ビアホール・ショップなどとして使われている。
駐車場からは、名古屋停車場(現名古屋駅)前に建っていた広告塔が目に入る。建物の裏側に回ると戦中に機関銃掃射により傷ついたレンガ壁を見ることができる。前面の平屋棟は、ヨーロッパでよく見る木骨造り(ハーフティンバー)になっている。
(下の写真は、2021・3・12の「木骨造りの家」より)

佐久間ダム
佐久間ダムの説明をするには、ダム近くの「電力館」に掲げられている「説明看板」と「新聞記事」をお借りするのが手っ取り早い。看板には詳細な構造図が掲載されており、新聞ではこの事業に対する関係者の意気込みが伝わってくる。以下記事の抜粋・・・
「日本一の佐久間ダム・・・ダムの高さは約150m、これまでの最高・木曽川三浦ダムの2倍、丸ビルの5倍である。長さは270mでその上部は幅4mの道路となる。堰き止める水の総容量は3億3千万立方m、大きな人口湖となる。面積は諏訪湖の2倍、貯水量は琵琶湖の2分の1」

「この水を直径7m、1.15kmのトンネルで発電所に導き、145mの落差を利用して最大36万kwを発電する。総工費250億円、アメリカ式の大型土木機械を活用して2年半の短期で完成させる。昭和31年(1956)には本格送電を始める」
私が小学生のころ、「佐久間ダム」というニュースは「凄い」という印象だった。その後の半世紀の間にさらに巨大なダムが建設されたが、佐久間ダムは今でも日本第8位の大きさを誇っている。今まで近くを通りながら一度も見たことのない巨大事業の足跡を、今回初めて辿ることができた。


「日本一の佐久間ダム・・・ダムの高さは約150m、これまでの最高・木曽川三浦ダムの2倍、丸ビルの5倍である。長さは270mでその上部は幅4mの道路となる。堰き止める水の総容量は3億3千万立方m、大きな人口湖となる。面積は諏訪湖の2倍、貯水量は琵琶湖の2分の1」

「この水を直径7m、1.15kmのトンネルで発電所に導き、145mの落差を利用して最大36万kwを発電する。総工費250億円、アメリカ式の大型土木機械を活用して2年半の短期で完成させる。昭和31年(1956)には本格送電を始める」
私が小学生のころ、「佐久間ダム」というニュースは「凄い」という印象だった。その後の半世紀の間にさらに巨大なダムが建設されたが、佐久間ダムは今でも日本第8位の大きさを誇っている。今まで近くを通りながら一度も見たことのない巨大事業の足跡を、今回初めて辿ることができた。


佐久間の中部(なかべ)橋
浜松市は平成の市町村合併により市域面積が広がり、全国では高山市に次いで第2位である。約1560平方km、名古屋市327平方kmの約5倍である。因みに愛知県で一番広いのは、やはり稲武や小原を合併した豊田市で、26位・約920平方kmである。
天竜川を遡った愛知・長野との県境地域は「北遠」と呼ぶ。遠州の北部という意味であろう。天竜・春野・龍山・佐久間・水窪の5地区を指す。その中で「佐久間地区」は、人口2800人ほどの村落である。地区の中央を天竜川が流れ、町は右岸側と左岸側に二分されている。

この地域では天竜川が北向きに流れているので、右岸が東で左岸は西ということになる。右岸にはJR飯田線が通り、中部天竜駅や佐久間小学校がある。左岸には国道473号が走り、消防署や郵便局が建っている。左右の町を結ぶのは、「中部橋」という人道橋である。
中部と書いて「なかべ」と読む。地元では親しげに「なかっぺ橋」と呼ぶ。昭和12年完成、長さ約170m、幅1.6mの「鋼トラスで補剛された吊り橋」である。もう一本、県道291号に「中部大橋」が架かっている。赤い二連のアーチ橋である。

天竜川を遡った愛知・長野との県境地域は「北遠」と呼ぶ。遠州の北部という意味であろう。天竜・春野・龍山・佐久間・水窪の5地区を指す。その中で「佐久間地区」は、人口2800人ほどの村落である。地区の中央を天竜川が流れ、町は右岸側と左岸側に二分されている。

この地域では天竜川が北向きに流れているので、右岸が東で左岸は西ということになる。右岸にはJR飯田線が通り、中部天竜駅や佐久間小学校がある。左岸には国道473号が走り、消防署や郵便局が建っている。左右の町を結ぶのは、「中部橋」という人道橋である。
中部と書いて「なかべ」と読む。地元では親しげに「なかっぺ橋」と呼ぶ。昭和12年完成、長さ約170m、幅1.6mの「鋼トラスで補剛された吊り橋」である。もう一本、県道291号に「中部大橋」が架かっている。赤い二連のアーチ橋である。
