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笠寺一里塚のヒガンバナ
今日、9月30日をもって中部復建株式会社を退社します。約12年間、65歳から77歳まで勤めさせていただきました。造園工事の監督業務や自然林の樹木調査も行いましたが、何と言ってもこのブログの発信が一番大きな仕事でした。
愛知・岐阜・三重・静岡各地の街や村の橋や公園、山間部のダムや海岸の堤防など様々な土木施設を訪ね歩きました。車を運転して同行してくださった当社取締役・塚本俊弘氏は、協力者というよりむしろ共同執筆者だったと思います。

最終回の今回は、もう一度「笠寺一里塚」を取り上げます。今から11年前の2013年2月19日の第1回に掲載した記事です。その時に「もう一つの見どころは、秋の彼岸花である」と記しながらその写真は載せていませんでした。今回9月末に撮影に行きましたので、ここに掲載します。
12年間贔屓にしてくださってまことにありがとうございました。今日をもちまして会社のオフィシャルブログとしては終了しますが、私個人で改題しながら続けていきたいと思います。タイトルは「土木文化&ガーデンライフ」にしようと思っています。これからもよろしくお願いいたします。

愛知・岐阜・三重・静岡各地の街や村の橋や公園、山間部のダムや海岸の堤防など様々な土木施設を訪ね歩きました。車を運転して同行してくださった当社取締役・塚本俊弘氏は、協力者というよりむしろ共同執筆者だったと思います。

最終回の今回は、もう一度「笠寺一里塚」を取り上げます。今から11年前の2013年2月19日の第1回に掲載した記事です。その時に「もう一つの見どころは、秋の彼岸花である」と記しながらその写真は載せていませんでした。今回9月末に撮影に行きましたので、ここに掲載します。
12年間贔屓にしてくださってまことにありがとうございました。今日をもちまして会社のオフィシャルブログとしては終了しますが、私個人で改題しながら続けていきたいと思います。タイトルは「土木文化&ガーデンライフ」にしようと思っています。これからもよろしくお願いいたします。

ブログ発信878回
私ごとですが、この9月いっぱいで会社を退職します。12年近く勤めさせていただきました。その間、ブログを878回発信しました。どの記事も、全て現地に足を運んで調査しましたし、写真もごく一部を除いて全て自分で撮影したものです。
「土木施設」は、一歩街へ出れば当たり前に存在しますので、意識的に見たり感じたりするものではありません。しかし、道路でも河川でも公園でも、造るに当たっては技術者や職人たちが汗水たらして工事したものです。そこに目や光を当てたいとするのがこのブログの趣旨でした。
「文化」というと、美術や音楽など芸術性の高いものだという一般概念があります。しかし、「自然をそのままにせず、人類の叡智・技術を駆使して生活に役立てる行為は『文化』である」という思いで、「土木文化」と名付けました。12年のお付き合いの間にお分かりいただけたでしょうか。
中部復建の職員でなくなりますので、「オフィシャル・ブログ」としてはこれで終息させていただきます。しかし、12年の間にブログの作成、すなわち事前調査・現地での写真撮影・帰ってからの執筆などが、私の生甲斐になってしまいました。そこで何らかの形で継続したいと考えています。

以下の数字は、「地域別」と「項目別」の発信数です。上の写真は、一区切りの記念に作った小冊子の表紙です。代表的な記事と878回分の目次、さらに200回を越した「季節通信」についても記してあります。
愛知県 名古屋市 岐阜県 三重県 静岡県 長野県 他都市 外国 その他
243 151 114 67 110 49 69 30 45
道 路 橋 池・川 建 築 公 園 港 鉄道 発電所 その他
69 144 56 149 151 30 51 31 166
「土木施設」は、一歩街へ出れば当たり前に存在しますので、意識的に見たり感じたりするものではありません。しかし、道路でも河川でも公園でも、造るに当たっては技術者や職人たちが汗水たらして工事したものです。そこに目や光を当てたいとするのがこのブログの趣旨でした。
「文化」というと、美術や音楽など芸術性の高いものだという一般概念があります。しかし、「自然をそのままにせず、人類の叡智・技術を駆使して生活に役立てる行為は『文化』である」という思いで、「土木文化」と名付けました。12年のお付き合いの間にお分かりいただけたでしょうか。
中部復建の職員でなくなりますので、「オフィシャル・ブログ」としてはこれで終息させていただきます。しかし、12年の間にブログの作成、すなわち事前調査・現地での写真撮影・帰ってからの執筆などが、私の生甲斐になってしまいました。そこで何らかの形で継続したいと考えています。

以下の数字は、「地域別」と「項目別」の発信数です。上の写真は、一区切りの記念に作った小冊子の表紙です。代表的な記事と878回分の目次、さらに200回を越した「季節通信」についても記してあります。
愛知県 名古屋市 岐阜県 三重県 静岡県 長野県 他都市 外国 その他
243 151 114 67 110 49 69 30 45
道 路 橋 池・川 建 築 公 園 港 鉄道 発電所 その他
69 144 56 149 151 30 51 31 166
イチョウとソテツの進化
今年のNHK朝ドラは、牧野富太郎の生涯を描いていますので面白く見ています。毎回いろいろな植物が紹介されますが、季節外れのものもありますので不思議に思っていました。新聞の紹介記事で、精密な模造品を作っていると知り納得しました。
植物学黎明期の東大植物学教室の状況も描かれていて、その面からも興味深い番組です。その中で、イチョウとソテツの精子発見の話題が出てきます。いずれも生物進化の過程で、シダから種子植物に移行する中間的位置にある種だそうです。

イチョウの精子の発見は、明治29年10月に平瀬作五郎という人が成し遂げました。世界的な大ニュースとなる大発見でした。10年ほど前に東大小石川植物園を見学したとき、大きなイチョウの木に石の記念碑が立っていて、この木が精子発見の木だという説明を聞きました。
ソテツの方も、同じ植物学教室の池野誠一郎が発見しました。ソテツは暖かい土地で良好な生育をしますので、池野は鹿児島まで行って試料を採取したそうです。その子孫が小石川植物園に移植されています。写真は鶴舞公園東門の古木です。

植物学黎明期の東大植物学教室の状況も描かれていて、その面からも興味深い番組です。その中で、イチョウとソテツの精子発見の話題が出てきます。いずれも生物進化の過程で、シダから種子植物に移行する中間的位置にある種だそうです。

イチョウの精子の発見は、明治29年10月に平瀬作五郎という人が成し遂げました。世界的な大ニュースとなる大発見でした。10年ほど前に東大小石川植物園を見学したとき、大きなイチョウの木に石の記念碑が立っていて、この木が精子発見の木だという説明を聞きました。
ソテツの方も、同じ植物学教室の池野誠一郎が発見しました。ソテツは暖かい土地で良好な生育をしますので、池野は鹿児島まで行って試料を採取したそうです。その子孫が小石川植物園に移植されています。写真は鶴舞公園東門の古木です。

千本松原と長良川大橋
「木曽三川国営公園」のあるこの地区は、かつて木曽・長良・揖斐の大河川が合流し、水害の絶えない土地であった。「宝暦の治水」は、ドラマや演劇で観るような薩摩藩士の犠牲的な努力により、宝暦4~5年(1754~1755)に行われた。
明治時代の改修工事により、宝暦当時の堤防は大きく形を変えたが、薩摩藩士たちの植えた「千本の日向松」は今も残っている。中には200年を越える老松もあり、昭和15年に「油島千本松締切堤」として国の史跡に指定されている。

木曽・長良・揖斐の三川を県道佐屋多度線が跨ぐのは、「立田大橋」「長良川大橋」「油島大橋」である。他の2橋は普通の桁橋であるが、真ん中の長良川大橋は「鋼ローゼ橋」で、銀色のアーチが目立っている。長さ472m、幅員7mである。
国営公園センター地区に立つ展望タワーに登ると360度視界が開け、水郷地帯の全貌を見ることができる。三川の蛇行の姿、県道の橋の様子、締切堤と松並木。春には見事なチューリップ花壇を見ることができる。ちなみにタワーの高さは65mである。

明治時代の改修工事により、宝暦当時の堤防は大きく形を変えたが、薩摩藩士たちの植えた「千本の日向松」は今も残っている。中には200年を越える老松もあり、昭和15年に「油島千本松締切堤」として国の史跡に指定されている。

木曽・長良・揖斐の三川を県道佐屋多度線が跨ぐのは、「立田大橋」「長良川大橋」「油島大橋」である。他の2橋は普通の桁橋であるが、真ん中の長良川大橋は「鋼ローゼ橋」で、銀色のアーチが目立っている。長さ472m、幅員7mである。
国営公園センター地区に立つ展望タワーに登ると360度視界が開け、水郷地帯の全貌を見ることができる。三川の蛇行の姿、県道の橋の様子、締切堤と松並木。春には見事なチューリップ花壇を見ることができる。ちなみにタワーの高さは65mである。

船頭平閘門と木曽川文庫
木曽川下流域は、木曽・長良・揖斐の3河川が入り乱れて流れていました。物流は舟が主体であり、犬山・岐阜・大垣などは、3河川から伊勢湾を経て名古屋や伊勢と結ばれていました。しかし、明治期の「三川分流工事」によりそれぞれ独立した川になりました。
これにより洪水は大きく防げるようになりましたが、船便は一々河口を回らなければ隣の川へ行けなくなりました。そこで明治27年(1894)、立田村船頭平地内に閘門を設置することが企画されました。木曽川と長良川の水位差1mを調整して舟を通す装置です。

明治35年に完成し、大正初年までは年間2万隻以上の船が通過しました。木曽川下りの筏も多く、年間1万枚を超えていたといいます。しかし、昭和8年・9年に尾張大橋・伊勢大橋が完成すると陸上交通が発達し、船や筏は減少しました。閘門の現在は、漁船やレジャーボートに使用されています。
閘門の近くに「木曽川文庫」が昭和62年に設置されました。緑青色の屋根と、レンガ壁の洋風建物です。ここには木曽三川に関する図書や研究論文が収蔵・保存されています。太古の昔より水との戦いを繰り広げてきた「川の歴史」を学ぶ場として、専門家や一般の人に利用されています。

これにより洪水は大きく防げるようになりましたが、船便は一々河口を回らなければ隣の川へ行けなくなりました。そこで明治27年(1894)、立田村船頭平地内に閘門を設置することが企画されました。木曽川と長良川の水位差1mを調整して舟を通す装置です。

明治35年に完成し、大正初年までは年間2万隻以上の船が通過しました。木曽川下りの筏も多く、年間1万枚を超えていたといいます。しかし、昭和8年・9年に尾張大橋・伊勢大橋が完成すると陸上交通が発達し、船や筏は減少しました。閘門の現在は、漁船やレジャーボートに使用されています。
閘門の近くに「木曽川文庫」が昭和62年に設置されました。緑青色の屋根と、レンガ壁の洋風建物です。ここには木曽三川に関する図書や研究論文が収蔵・保存されています。太古の昔より水との戦いを繰り広げてきた「川の歴史」を学ぶ場として、専門家や一般の人に利用されています。
