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JR最古の跨線橋(半田駅)

 JR武豊線は、愛知県で初めて敷設された官営鉄道である。明治19年に武豊~熱田間が営業を開始した。もともとは、東海道線整備工事の資材を、武豊港から名古屋まで運搬する目的をもっていた。3年後に東京~神戸間が開通し、その支線となった大府~武豊間は 「武豊線」 と呼ばれるようになったのである。
 半田は知多半島の主要都市であり、開通と同時に駅ができた。跨線橋が完成したのは明治43年のこと、単線の線路を跨いで反対側のホームへ渡ることが出来るようになった。現在では、「JR最古の跨線橋」 と位置づけられている。因みに、駅舎そのものが一番古いのは隣の亀崎駅である。(このブログ平成25年4月9日参照)

半田駅マップ

 橋を支える鉄柱は円柱になっていて、階段へのゲートは大理石風の白いエンタシスである。渡り廊下の屋根は鉄製トラス、リベット打ち構造である。腰壁は木製板張りで、ペンキ塗が施されている。煉瓦造りの 「油倉庫」 も含めて全体に古色蒼然としていて、「明治」 を感じる雰囲気である。
 駅の外にSLの機関車が保存展示されている。これは昭和45年まで武豊線を走っていた 「C11265」 蒸気機関車である。私は中学二年生まで亀崎に住んでいて、家のすぐ前を走る汽車を見ながら育った。煙を吐いて走る蒸気機関車から、煙の出ないディーゼルカーに切り替わった時には衝撃を受けたことを記憶している。現在は電化されている。

半田駅G


季節通信8百合

新舞子マリンパーク

 「新舞子」 と聞くと、砂浜の美しい海水浴場を思い浮かべる。しかし、戦後の産業開発や伊勢湾台風後の復旧事業などにより、埋立地の工場立地や人工的堤防の整備が進み、白砂青松の風景は消えてしまった。味気ない工場地帯だろうと思っていたのだが、現地を訪れてみて少し安心した。
 再び砂浜が出来ていたのである。新舞子対岸の南5区埋立地の一角に、平成9年に人工海浜 「新舞子マリンパーク」 がオープンしていた。2本の風力発電塔をシンボルマークとした海浜で、憩いのための芝生広場も備えている。夏には多くの海水浴客が訪れ、海の自然に触れながら水遊びを楽しんでいるという。

新舞子マップ

 手前の海岸も単なる堤防でなく、親水性を考慮した階段状の構造になっている。海水は思ったよりも見た目が美しく、工場地帯というより海のリゾート地としての様相を見せている。和風でなく洋風な海水浴場を思わせる風景である。
 堤防際に瀟洒な尖塔をもつ建物があった。教会だろうと思って中を覗くと、どうもレストランのようである。ウェートレスの方にお聞きすると、二階が教会になっていて、結婚式も行なわれると言う。確かに、玄関の扉などにはステンドグラスが嵌っていた。

新舞子G


季節通信7紫陽花

知多市の大草城跡

 名鉄常滑線・おおのまち駅の近くにこんもりとした小山があり、その山上に 「大草城跡」 がある。この城は、この地を拝領していた織田信長の弟・織田長益が築城しようとしたが途中で断念した “幻の城” である。長益が築き始めた天正10年 (1582) に本能寺の変が勃発し、兄・信長が暗殺されてしまったのである。
 長益はその後、長久手の合戦 (1584) からしばらくして秀吉に仕え、摂津の国 (今の大阪) に転封された。そのため築城途中のこの城は、地形 (ちぎょう=土地造成) が終わったところで放棄され、完成することはなかった。長益とは、後に武士をやめて茶人として名を残した 「織田有楽斎」 のことである。

大草城跡マップ

 現在も本丸と二の丸周辺の土塁やお堀が、ほぼ完全な形で残っている。このように保存状態の良い城跡は愛知県でも数少ないという。お城の東隣にある地蔵寺 (左) と津島神社 (右) も、かつての絵図そのままの位置に残っている。ただ、天守閣風の建物は史実と異なる建物で、単なる展望台である。また1kmほど南には、大野衆と呼ばれた水軍の拠点 「大野城」 の跡が残っている。

大草城跡G

常滑市の篭池古窯

 名鉄常滑線・大野町駅から東へ3kmほど走り、自然林と竹藪とが混交するところにヒッソリとした階段をようやく見つけた。小さな看板があるけれど、なかなか見つけることが出来なかったのである。階段を登りきったすぐにフェンスと上屋に守られた 「篭池古窯」 があった。
 篭池3号窯と9号窯が2基並んで横たわっている。知多半島は中世陶器の一大生産地で群を成して分布しており、総数1000基を越えると推測されている。この常滑市久米字篭池にも10数基があったといわれている。

篭池古窯G

 この古窯は、斜面にトンネルを掘り抜いて造られた 「窖窯 (あながま) 」 という構造である。手前 (下) から焚口・燃焼室・分焔柱と続き、焼物を置く焼成室があって煙出しを経て地上に至るものである。焼成室を被っていた天井の部分は陥没して存在しないが、分焔柱は見事に残っている。
 この地域では、大甕の生産が盛んであったが、ここでも大半の製品が大甕であったものと考えられている。窯が造られたのは鎌倉時代、13世紀前半と推定されている。昭和36年に愛知県の史蹟に指定された。

篭池古窯マップ


季節通信6花菖蒲

常滑市の「正住院」

 尾張名所図会は、江戸末期から明治初期にかけて刊行された地誌で、尾張国8郡の名所が文章と絵図により紹介されている。前編7巻、後編6巻、合計13巻からなり、その前編第6巻は知多郡となっていてそこに 「正住院」 も載っている。
 今も常滑駅のすぐ南にある 「正住院」 の絵を見ると、山門から縦に並ぶ本堂や書院、左側の六角堂や手水屋、右の鐘楼や庫裏が精緻に描かれている。本堂横のこんもりした森や書院裏に広がる伊勢湾の様子、対岸の伊勢の国も明瞭である。

正住院A

 正住院を訪ねてみて驚いた。山門や土塀の様子 ①、六角堂や手水屋 ② とその裏山、本堂 ③ や鐘楼などの姿が 「図会」 そのままに残っているのである。絵では書院により隠れてしまっているが、海岸際の石積み ④ もそのままのようである。私の想像では、この石積みは海岸の波に洗われる堤防だったのではと思われる。

正住院マップ

 書院の横に小さな看板が立てられていて、近くの庭石 ⑤ についての説明が書かれている。それによれば、この石は 「徳川家康公腰掛けの石」 であるという。天正10年 (1582) 6月2日、「本能寺の変」 の折、家康は堺から京へ向かっていた。異変を聞いた家康は危険を感じ、伊賀の山を越えて伊勢の国白子から船に乗り、この常滑の湊に辿り着いたのである。命からがら、何とか一息ついて座ったのがこの庭石だったのであろう。

正住院B



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ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:「園長さんのガーデンライフ」
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