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明知鉄道と極楽駅

 明知鉄道は、中央線と分岐して恵那から明智までの約25kmをつなぐローカル線である。もともとは、改正鉄道敷設法により静岡県掛川から愛知県武節を経て岐阜県大井 (恵那) まで結ぶ計画であった。昭和8年 (1933)、その部分として明智までが開業したものである。
 昭和43年に、国鉄再生のため赤字83線が廃止の提言を受けたが、その中の一つに加えられた。しかし、地元の人々の強い願いを受け、岐阜県や恵那市、中津川市、地元銀行などが中心となって出資し、第三セクターとして存続することとなった。開業は昭和60年 (1985) のことである。

明知鉄道マップ

 経営を助けるための様々な工夫が施されている。「寒天列車」 や 「きのこ列車」 といったイベントを開催したり、地元企業の協力を得てラッピング列車を走らせるなどである。左の写真は、様々な色や模様で飾られたラッピング列車がすれちがうところである。
 駅の名前も、地元の関心を高めるため一般募集を行なっている。「極楽駅」 は、平安末期から室町時代に建てられていた「極楽寺」に因んだネーミングである。かつて大いに繁栄した民衆寺で、地域に慣れ親しまれて字名として残っている。跡地には夥しい出土品が発掘されているという。駅名表示板の横に、「幸せ地蔵」 と呼ぶ可愛らしい石像が立っていて、台座には“あしたもいい日になりますように” と刻まれていた。

明知鉄道A

中山道 下ノ諏訪宿

下ノ諏訪宿は、中山道と甲州街道の接点にあり、交通や軍事上の重要な地であった。元は、諏訪大社の門前町や温泉地として発展したが、江戸時代になって中山道六十九次の宿場町として賑わった。町並の長さは4町50間 (約530m)、甲州街道の分を含めると8町49間 (約960m) になるという。
 宿場の中ほどに問屋場を兼ねた本陣が置かれ、大名や公家などの宿となった。文久9年 (1861) の皇女和宮が降嫁のため江戸に向かう際には、この本陣・岩波家にお泊りになった。また、明治13年に明治天皇が各地をご巡幸されたときにも、小休所として利用された。現在も建物や庭園の一部が残されていて、町の文化財に指定されている。

下ノ諏訪宿マップ

 両街道が交差する辺りに 「下諏訪町立歴史民族資料館」 があり、宿場や皇女和宮についての資料を展示している。また、建物そのものが明治初期に建てられた旅籠としての展示物になっている。街道に面する表側は「出梁造り」といい、一階の梁を突き出して二階を乗せたもので、旅籠屋だけに許されていた。一階にも二階にも、細かい格子が付けられている。入口には板でできた 「大戸」 が嵌められていて、大名などの荷物の出し入れには利用されたが、普段は 「くぐり戸」 が使われていた。

下ノ諏訪宿D

土木工事(三遠南信自動車道「イタチ川大橋」)

 長野県飯田市で行なわれている 「イタチ川大橋」 の工事現場を見学させていただいた。三遠南信自動車道というのは、愛知県三河、静岡県浜松 (遠州) と長野県飯田 (南信州) を結ぶことからの命名である。現在、南からは鳳来峡ICまで、北からは天竜峡ICまで開通しており、それぞれ、その先が工事中となっている。
 飯田では、天竜川を跨ぐ橋と、もう少し山へ入った 「イタチ川」 に架かる橋を整備中である。「イタチ川大橋」 は、一本の橋脚の両側へ片持ち梁を伸ばす 「Tラーメン橋」 という構造である。現在下部工は完成し、梁の左右バランスを取りながら延伸しているところであった。橋脚の高さは約75m、箱桁の長さは206mである。コンクリートの総量は、約2500㎥にもおよぶという。この形式の橋としては全国2番目の長さであると、国道事務所監督官の方から説明していただいた。

イタチ橋A

 作業用のエレベーターに載せていただいて、橋の上に登ることができた。工事用の資材が整然と置かれており、横断幕には安全を喚起するため 「指差呼称で危険ゼロ」 と記してある。高所での作業による転落などの危険も多く、安全に対する厳しい姿勢が伝わってくる。
 橋の上からの景色が素晴らしい。手前の山から天竜川沿いの町や田園を越えて、ピラミッド型の風越山 (飯田の人たちは親しみを込めて 「権現山」 と呼ぶ) や中央アルプスの峰々が見える。道路が完成すれば、春の新緑や秋の紅葉が楽しめるドライブコースになるものと思われる。

イタチ橋マップ

ふたたび「土木の日」(土木文化について)

 3年前、平成25年11月18日のブログで、「土木の日」 について記載しました。今日も11月18日ですので、再び話題にしたいと思います。この日を 「土木の日」 に決めたのは、下の図のように漢字を分解すると 「十一月十八日」 になるからで、そのほかの特別な理由はないようです。でも、面白いアイデアだと思います。

土木の日

 このブログは 「中部の土木文化見てある記」 と銘打っています。「土木」 とは・・・広辞苑によると、
“家屋・道路・堤防・橋梁・港湾・空港・鉄道・上下水道・河川・公園など、すべて木材や鉄材、土石などを使用する工事”とありますので、掲載する記事はかなり広い範囲に拡げています。
 
 次に「文化」ですが、「文化」 を定義するのはなかなか難しいようです。同じく広辞苑によれば、                       ①世の中が進歩して文明になること。文明開化。  
②文徳で民を教え導くこと。 とあって、
③番目に・・・ “(culture) 自然を自然のままに委ねておくことなく、技術を通じて人間の一定の生活目的に役立たせること(文化活動)。” とあります。

 「土木文化」 でいう 「文化」 とは、③で定義した内容に近いと思います。2つを合わせると、“すべて木材や鉄材、土石などを使用して、工事・技術を通じて人間の一定の生活目的に役立たせること。” となるのでしょうか。小難しい話になりましたがご容赦ください。

 さらに、ウィキペディアによれば、“人間が社会の成員として獲得する知識・信仰・芸術・道徳・法律・慣行など振る舞いの複合された総体のことである。” となっています。ますます分かりにくくなりますが、以下 「○○文化」 と名付けられている言葉を列記することで、「文化」 の意味を理解したいと思います。  
 地理的なもの・・・「日本文化」 「下町文化」 など。 歴史的なもの・・・「縄文文化」 「室町文化」など。
 人の活動の種類・・・「出版文化」 「食文化」 「園芸文化」 など。 「土木文化」 もこの中でしょう。
  「社風」 「校風」 「家風」 というのも、文化の文字はありませんが文化の中に入ると思います。

諏訪の高島城

 天正18年 (1590年)、2万7千石の諏訪城主となった秀吉の家臣・日根野氏は、諏訪湖畔のこの地を選んで城を築いた。もともと安土城や大坂城などを手がけた築城の名手で、見事な名城は湖上に浮いているように見えることから別名 「諏訪の浮城」 とも呼ばれていた。
 関が原の合戦後は、徳川方に属した元の城主諏訪氏が藩主となり、10代270年の長い間、居城として諏訪を治めた。しかし、明治4年 (1871) 廃藩置県が行なわれると、城郭の撤去が決定し、明治8年に天守閣などが壊されてしまった。復興されたのは昭和45年、天守閣と同時に冠木門や角櫓なども復元された。現在、高島公園として公開されている。

高島城マップ

 天守閣の西、美しい松の根元に 「亀石」 と呼ばれる大石がある。元は城内の庭石だったが、明治になって城外の庭園に移されていた。平成19年になって市民の願いもあり、132年ぶりに元に戻すことができた。この石に水をかけると、まるで生きた亀のようになり、願いが叶うという。
 北側には、たくさんの穴の開いた奇妙な石が置かれている。これは 「石集配湯枡」 という。享和3年 (1803)、7代藩主が三之丸に浴場を設けた際に、湯を引くためにつくったものである。木製の 「木樋 (きとよ) 」 をつなぐ枡で、集湯や配湯を行なうための装置である。
高島城A
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ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:「園長さんのガーデンライフ」
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