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五条橋と中橋
堀川は、慶長15年(1610)に名古屋城築城のために開削された。港から、石材や木材が舟によって運搬された。堀川には、江戸時代に7本の橋が架けられたという。上流から、五条橋・中橋・伝馬橋・納屋橋・日置橋・古渡橋・尾頭橋である。
「五条橋」は、清州の五条川に因んだ橋である。清洲越しのときに移設したという。五条橋を渡ると円頓寺商店街に至る。橋から2番目の角を曲がると「四間道」である。堀川・土蔵・広い道によって、西からの火災から「お城」を守るための防火帯である。今の橋は、昭和13年竣工である。

次の橋は、五条橋と伝馬橋の間にあるので「中橋」と名付けられた。現在の橋は、大正6年(1917)に架けられたものである。日本に現存する道路用鋼桁橋としては、4番目に古い橋である。石造りの親柱に「なかはし」「大正六年九月」と刻まれている。
石積みの橋台、鋼製の橋脚ともに大正期のオリジナルである。橋脚は、たいへん華奢な構造である。溝型鋼が小鉄板とリベットで縫い合わされたもので、鉄道の橋梁などには見られるが、川の橋としてはとても珍しいという。

「五条橋」は、清州の五条川に因んだ橋である。清洲越しのときに移設したという。五条橋を渡ると円頓寺商店街に至る。橋から2番目の角を曲がると「四間道」である。堀川・土蔵・広い道によって、西からの火災から「お城」を守るための防火帯である。今の橋は、昭和13年竣工である。

次の橋は、五条橋と伝馬橋の間にあるので「中橋」と名付けられた。現在の橋は、大正6年(1917)に架けられたものである。日本に現存する道路用鋼桁橋としては、4番目に古い橋である。石造りの親柱に「なかはし」「大正六年九月」と刻まれている。
石積みの橋台、鋼製の橋脚ともに大正期のオリジナルである。橋脚は、たいへん華奢な構造である。溝型鋼が小鉄板とリベットで縫い合わされたもので、鉄道の橋梁などには見られるが、川の橋としてはとても珍しいという。

外堀の本町橋
現在の名古屋都心・南北のメイン・ストリートは大津通りだが、江戸時代は「本町筋」だった。本丸の正門を出て、侍町である三の丸を南へ進むと「本町門」に至る。門を出て外堀に架かる橋が「本町橋」である。そこから南に下る、大須を経て熱田へ向かう中央道であった。
大津橋のところの石垣を見ると、道路拡幅のために石垣の改造が行われている。しかし、本町橋のたもとの石垣は隅石もあって昔のとおりに残されている。幅員は4間、碁盤割りの道路幅3間より広くなっていた。現在は、護国神社近くの交通量の少ない道である。

江戸時代は木製の土橋であったと思われるが、今は鉄筋コンクリート製、下部は煉瓦アーチである。明治44年(1911)に架け替えられた。親柱に「本町橋」「明治四十四年七月」と刻まれている。土塁の大木や外堀通りの街路樹が繁っていて、夏の取材だったけれど暑さを感じなかった。
北東側の樹林の中に踏み分け道があって、辿っていくと石碑が立っている。御影石のレリーフに、馬と犬と鳩の絵が描かれている。「軍馬」「軍犬」「軍鳩」(伝書鳩?)の文字も記されていて、戦争で命を落とした動物の慰霊碑であることが分かる。
大津橋のところの石垣を見ると、道路拡幅のために石垣の改造が行われている。しかし、本町橋のたもとの石垣は隅石もあって昔のとおりに残されている。幅員は4間、碁盤割りの道路幅3間より広くなっていた。現在は、護国神社近くの交通量の少ない道である。

江戸時代は木製の土橋であったと思われるが、今は鉄筋コンクリート製、下部は煉瓦アーチである。明治44年(1911)に架け替えられた。親柱に「本町橋」「明治四十四年七月」と刻まれている。土塁の大木や外堀通りの街路樹が繁っていて、夏の取材だったけれど暑さを感じなかった。
北東側の樹林の中に踏み分け道があって、辿っていくと石碑が立っている。御影石のレリーフに、馬と犬と鳩の絵が描かれている。「軍馬」「軍犬」「軍鳩」(伝書鳩?)の文字も記されていて、戦争で命を落とした動物の慰霊碑であることが分かる。
入鹿池と入鹿大橋
入鹿池は周囲16km、面積152ha。人工の溜池としては我が国最大である。下流域の犬山市やその南の小牧市、西に位置する丹羽郡などへ灌漑している。五条川などいくつかの河川を堰き止める堤防は、高さ27m、延長120mの土堰堤である。斜面に「いるか池」の文字が描かれていた。
入鹿池の歴史は、江戸時代初期に遡ることができる。木曽川の氾濫が人々を苦しめていたので、慶長14年(1609)、徳川家康は「御囲堤」と呼ばれる堤防を築いて治水を行ったのである。しかし、それまで田畑を潤していた何本かの支流が全て廃川になってしまった。
そこで木曽川から取水する用水路を整備する必要が生じた。般若用水や大江用水(宮田用水)などが開削された。さらに、新田開発の行われていた丘陵地の高台に灌漑するために、この入鹿池が整備されたのである。

「入鹿大橋」は、県道・春日井犬山線が、入鹿池に注ぐ五条川を跨ぐ橋である。昭和62年(1987)完成、長さ114m、型式はニールセン・アーチである。アーチ部分は真っ赤に塗られている。対岸の入鹿池の堤防から見ると、吊り下げのワイヤーは透き通って見えないので、まるで「赤い虹」のように見える。


入鹿池の歴史は、江戸時代初期に遡ることができる。木曽川の氾濫が人々を苦しめていたので、慶長14年(1609)、徳川家康は「御囲堤」と呼ばれる堤防を築いて治水を行ったのである。しかし、それまで田畑を潤していた何本かの支流が全て廃川になってしまった。
そこで木曽川から取水する用水路を整備する必要が生じた。般若用水や大江用水(宮田用水)などが開削された。さらに、新田開発の行われていた丘陵地の高台に灌漑するために、この入鹿池が整備されたのである。

「入鹿大橋」は、県道・春日井犬山線が、入鹿池に注ぐ五条川を跨ぐ橋である。昭和62年(1987)完成、長さ114m、型式はニールセン・アーチである。アーチ部分は真っ赤に塗られている。対岸の入鹿池の堤防から見ると、吊り下げのワイヤーは透き通って見えないので、まるで「赤い虹」のように見える。

