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佐屋街道・尾頭橋と八熊線・住吉橋

 金山駅の西南、国道19号の交差点に古色を帯びた道標が立っている。「西左:なごや道」「西右:宮海道」「南左:さや海道 つしま道」と刻まれている。江戸時代の重要な道案内である。「海道」とあるのは、「宮」「さや」から、それぞれ舟での旅となるからであろう。
 東海道は「宮宿」(熱田)から「桑名宿」まで海上の舟旅となる。「七里の渡し」という。船旅を避けたい人のために陸路の迂回路があった。「佐屋街道」あるいは「姫街道」という。堀川を「尾頭橋」で、庄内川を「万場」で渡る。佐屋宿から川舟に乗って3里下って「桑名宿」に至る。

佐屋街道G
佐屋街道H

 佐屋街道の南に八熊通りが走っている。現在はこちらの方が発展していて道幅も広い。堀川に架かる橋も堂々としている。「住吉橋」という。江戸時代の七橋には含まれていない。八熊通りは国道29号・名古屋―弥富線の、名古屋市内の名称である。かつて存在した八熊村の名称を引き継いだものであろう。
 交通量が増えて道路拡幅を考えたとき、既存の街道には商店や民家が建て並んでいて移転は難しい。近くにバイパスとして新しい道路を造るのが常套である。八熊通りが堀川と交差するのが「住吉橋」である。型式は名古屋市内では珍しい「ラーメン橋台橋」、3連アーチの美しい外観が特徴である。このデザインは、関東大震災の復興橋梁として都市河川に多く採用されたものという。

佐屋愛道I

桜橋と伝馬橋

 江戸時代、東西の主要道路は広小路か伝馬町であり、菅原町という細い通り(今は桜通り)には橋がなく、中橋か伝馬橋へ迂回するしかなかった。昭和12年に名古屋汎太平洋博覧会が開催されるに当たって、名古屋駅が笹島から北へ移転した。その正面から東へ伸びる道路として整備されたのが桜通りであり、堀川に架かる橋が「桜橋」である。

桜橋G

 「伝馬」とは、宿場をつなぐ馬のことである。飯田街道は泥江が起点で、伝馬町を通って八事へ向い、足助・稲武を経て信州・飯田までつながっている。美濃路は熱田から発し、本町通りを伝馬町筋で西に曲がって泥江から北上する。
 泥江の交差点は7本の道の出入り口で、戦前までは信号のないロータリー(今で言うラウンドアバウト)であった。現在の名古屋駅のあたりに馬車屋があり、馬がたくさん居たという。堀川の船便や鉄道輸送もあり、物流の中心地であった。
 「伝馬橋」も五条橋と同じで、清洲越しで運ばれた。当時は、長さ11間5尺(約22m)の板橋で、高欄には擬宝珠が付いていた。現在のものは大正9年(1920)に架け替えられた。単純RCアーチ橋としては、中部地方では最古期のものである。橋の畔には材木商などが集まっていた。現在は街園になっている。
 
伝馬橋G

外堀の御園橋と県立図書館

 かつて栄に「県立図書館」があった。現在の「オアシス21」の場所である。高校生や受験生の「勉強室」があり、多くの若者が足繁く利用していた。私はあまり使ったことはないが、玄関を入った直ぐのホールに「防人(さきもり)」の木彫があったことを覚えている。今どこにあるのだろう?
 平成4年(1992)、隣の「旧栄公園」内に「愛知県芸術文化センター」が整備された。それに伴い、「愛知県文化会館」はその役目を終える。「美術館」と「ホール」は、拡張されて芸文センター内に整備されたが、「図書館」は名古屋城内に移転された。三の丸の西北角である。(前回のマップ参照)

御園橋G - コピー

 外堀を渡るのは「御園橋」である。県立図書館は、かつて「御園門」のあった所にある。一階は広いロビーになっていて、喫茶コーナーで買ったコーヒーを飲みながら閲覧することもできる。大きなガラス窓から、間近に迫る土塁の巨木が目に入ってくる。栄のときとは一味違う読書室である。
 御園橋は、明治44年(1911)に完成したが、今のような欄干に修景されたのは平成2年のことである。市内唯一の明治期の鋼橋(単純鈑桁)で、リベット仕上げの橋としては我が国でも最古級といえる。かつては橋の下を瀬戸電が走っていた。
 石垣の角に文化財の説明版が立っている。この地が「大原幽学」の生誕地であるという。幽学は江戸時代後期の農政学者、農民指導者。下総国香取郡長部村(現在の千葉県旭市)を拠点に、天保9年(1838年)に「先祖株組合」という農業協同組合を創設した。世界で初の試みという。

御園橋H - コピー

筋違橋と西北隅櫓

 「筋違橋」を“すじちがいばし”と読んでいたので、宿場町などで見る「枡形」のような形状と思っていた。雁木(がんぎ=ぎざぎざ)のように直角に曲がっていると。しかし読みは“すじかいばし”、「はすかい」の意味である。そういえば、建物の壁に補強材として入れる「筋交い」と同じ発音である。
 ネットで調べると、同じ名の橋が大阪にも東京にも、また鎌倉にもある(あった)ことが分かった。川(堀)に対して斜めに架かる橋を呼ぶ時の、標準語?なのであろう。費用を考えれば川と直角にすれば、最短距離で架橋することができる。はすかいに橋を架けるのには、それなりの事情があったのだろう。

筋違橋G

 名古屋城の西北端、お濠に沿って北へ向かう道路に架かっている。東北から流れてきた堀川が、斜めに流れているので、橋を「はすかい=筋違い」に架ける必要が生じたのだろう。現在の橋は、昭和8年(1933)に完成した。方杖ラーメン橋という形式、戦前のものは珍しいという。
 現在の名古屋城では、水の入ったお濠はあまり見られない。水面の向うに白亜の櫓が見える。「西北隅櫓」(重要文化財)という。「清洲櫓」とも呼ぶ。名古屋城築城の折、清州を町ごと移転(清洲越し)したが、その時に清洲城(2019・5・1参照)の「小天守」を移築したと伝えられている。

季節通信192テッポウユリ



養老の源氏橋

 今度は、源義朝である。家康は四日市から船で常滑に渡った(2022・6・26)が、義朝もやはり小舟で野間へ逃れた。平治元年(1159)、平治の乱で平清盛に敗れた義朝は、勢力圏である関東に落ち延びるため東へと向かっていた。途中、大垣の青墓という所から舟で知多へ渡ることとした。
 養老駅のすぐ東に「源氏橋」という石橋がある(前回の図面参照)。ここから乗船したという記念の橋だが、川は2~3mの細い水路である。南に流れて、揖斐川の支流・津屋川に合流する。義朝の主従5人が「柴舟」という小さな川舟に乗ったというが、果たしてそのまま伊勢湾を渡れたのだろうか。

源氏橋G

 現在、石橋は車道から少し離れたところに架かっている。橋台は石積みだが、橋脚も高欄も切石造りである。親柱に仮名?で「げんじはし」と記してある。もう一つの柱には、「明治十三年」と刻まれている。高欄の石板に源義朝の家紋「笹竜胆(ささりんどう)」がレリーフとなって描かれている。
 野間まで逃げ延びることができたが、頼りにした知人の裏切りにより風呂場で討たれてしまった。野間大坊には義朝のお墓があり、後世の人たちが木刀を奉げている。(2020・6・21参照)
 鎌倉時代、江戸時代、それぞれが始まる前段で、歴史が変わるかもしれない大事件があった。

源氏橋H

揖斐川橋梁(東海道本線)

 残りの2本の橋梁をご紹介しよう。東海道本線で現在使われている「揖斐川橋梁」と、今は道路(歩行者と自転車専用)として使用されている「旧揖斐川橋梁」である。「旧橋梁」については、すでにこのブログに掲載(2014年2月5日)しているが、再度話題に乗せたい。
 グリーン色に塗られた「揖斐川橋梁」は、東海道本線としては3代目である。初代(旧橋梁)は明治20年(1887)、二代目は大正2年に供用開始されている。現在の橋は昭和36年からで、2代目のものは昭和60年に撤去された。初代の旧橋梁は平成20年に、国の重要文化財に指定された。

国鉄橋梁G

 現在の揖斐川橋梁は複線で、延長約305m、下路平行弦ワーレントラスの5連である。上流に並行して走る「旧揖斐川橋梁」や「樽見線の揖斐川橋梁」と比べると、デザイン的には少し簡素に見える。建設時の、戦後間もない昭和30年代を考えると、美観よりも機能性を重視したのだろうか。
 旧揖斐川橋梁の上部構造の鉄骨部分は、イギリス人技術者の設計によるものである。製作もイギリスの「パテント・シャフト&アクスルトゥリー社」が行った。鉄骨にプレートが張り付けてある。橋脚の煉瓦構造の写真は8年前に撮ったものである。橋の色を見ると、塗装が新しく塗り替えられている。

国鉄橋梁H

揖斐川橋梁(樽見鉄道)と揖斐大橋

 鉄道が揖斐川を跨ぐ橋梁が3本ある。南から順に、①JR東海道本線「揖斐川橋梁」、②「旧揖斐川橋梁」(2014・2・5掲載)、③樽見鉄道・樽見線(2013・12・9参照)「揖斐川橋梁」である。ここでは、樽見鉄道の橋梁をご紹介する。
 樽見鉄道の前身「国鉄樽見線」は、昭和10年に着工したが戦争により一時中断、揖斐川橋梁も工事に入ったが完成直前に撤去されてしまった(金属回収?)。再開されて開通したのは戦後、昭和31年になってからである。橋梁は新設でなく、御殿場線の5か所のトラス橋を再利用した。
 写真で左端の台形の橋は長さ100フィート(約30m)、大正5年の川崎造船所製である。右の5連のトラス橋は各200フィート、明治33年のAアンドP・ロバーツ製である。昭和59年に3セクの樽見鉄道に移管した。カラフルな1両編成の車両が走っていた。

揖斐大橋マップ

 少し下流の県道31号に、「揖斐大橋」が架かっている。長さ約385m、幅員約15mのワーレントラス橋である。昭和8年に完成したときには鉄道との併用であったが、鉄道計画は事業化されず昭和39年に道路専用橋となった。岐阜と大垣を道路(県道31号)と鉄道で結ぼうとの計画があったのである。

揖斐大橋G

平和橋

 昭和12年(1937)、港区で「名古屋汎太平洋平和博覧会」が開催された。「産業の振興」・「文化の発展」・「平和と親善」を目的とするもので、78日間の期間中に480万人の入場者を得たという。平和橋は、この時に建設されたもので、博覧会の主旨「平和」の文字に因んで名付けられた。
 この年は、東洋一と謳われた名古屋駅の駅舎が完成し、また東山動物園・植物園も開園した年である。100万都市名古屋が目覚ましく発展した時期である。博覧会の会場は都心から離れた場所であったので、市電が延伸整備された。平和橋の幅員が非常に広いのは、真ん中を市電が走ったためであろう。

平和橋マップ

 平和橋は、港北運河を跨ぐ橋である。港北運河は、中川運河の支線として開削されたもので、当時は艀(はしけ)による物流が盛んであった。橋のクリアも船舶が通行できる高さだったと思われる。現在は、運河の一部(平和橋の下も含む)は埋め立てられて「港北公園」となっている。
 博覧会会場は、現在「港アクルス」(2019・3・11参照)として再開発されている。住宅ゾーンや商業ゾーンなどがあり、その中心に「ららぽーと」が営業している。ららぽーとの南に「水上バス」の船着き場がある。港北運河・中川運河や名古屋港を運行する船である。

平和橋G

季節通信174ラムズイアー



保曽井神社の太鼓橋(曽井のそり橋)

 四日市は、海岸の港と標高1212mの御在所岳の中間にある。その間を国道477号が結んでいる。東海道は追分の地で伊勢街道と枝分かれするが、その手前、三滝川を渡ったところで右に曲がると477号(湯の山街道)である。
 緩い坂道を登っていくと右に「曽井町」があり、東名阪自動車道の四日市インターに至る。インターを通過してさらに西に向かうと、個性的な展示で名高い「パラミタミュージアム」がある。池田満寿夫の陶彫などを収集している。7年ほど前に世界の植物画(ボタニカルアート)を観に行ったことがある。

保曽井神社H

 1300年の歴史をもち、豊かな源泉に恵まれた湯の山温泉に「御在所岳ロープウェー」の登り口がある。全長2160m、標高差780mを12分ほどで登りきる。白く塗られた鉄塔は高さ60m、日本一高い支柱である。晴れた日には、近鉄の車中から遠望することができる。
 曽井町に「保曽井神社」がある。曽井には、伊勢神宮にお米を納める「御厨」があった。「御厨(みくり・みくりや)」は、「神の台所」を意味する。保曽井神社は御厨の成立と深い関係にあるという。長い参道の入り口に石造りの太鼓橋がある。長さ2.1m、幅1.5mの小さなものだが頑丈なつくりである。欄干の柱に6個の擬宝珠をもつ。天明6年(1786)に架けられたもので、神社にとっては貴重な宝物である。

保曽井神社G

四日市の「思案橋」と常滑の「腰掛石」

 ブログを10年も書いていると(760回発信)、面白いことに出会う。四日市旧港西の「思案橋」という謂われのある橋を取材したところ、徳川家康がここで思案に暮れたことからの命名とのこと。それを聞いて、常滑の「正住院」というお寺に、家康の「腰掛石」があったことを思い出した。
 天正10年(1582)6月、家康は安土で織田信長のもてなしを受けた後、堺でくつろいだ遊覧の旅をしていた。そこに、京都・本能寺で信長が明智光秀に殺されたとの知らせが入ったのである。身の危険を感じた家康は、伊賀の山越えをして三河・岡崎に逃げ帰る道を選んだ。

思案橋G

 何とか山賊の攻撃などを凌いで、伊勢の国・四日市に到着したのがこの地である。昔は、「築地」と呼ばれる港の入口の州浜であったという。そこに架かる土橋の上で、陸路を行った方が良いのか、海路を舟に乗った方が助かるのか思案したのだという。
 現在は、広くなった道路の両側にモニュメントとしての「思案橋」が造られている。橋のたもとにはヤナギの古木も植えてある。
 何とか無事に伊勢湾を渡った家康は、尾張の国の常滑に上陸した。その港近くのお寺・正住院で、ホッとして座った石が「家康公腰掛の石」(2018・5・31参照)として伝わっているのである。

家康の石G

季節通信43フタバアオイ

顕正寺山門とつんつく橋

 四日市あすなろう鉄道・内部線(2014・9・17参照)・日永駅の西に、面白い2つの施設がある。ひとつは顕正寺山門であり、もう一つは天白川に架かる「つんつく橋」である。この辺りは、四日市港と鈴鹿山系御在所岳・鎌ヶ岳の中間地点に位置する平野である。
 顕正寺の山門は、寺院には似つかわしくない形をしている。「高麗門」という形式で、通常は城郭の門として設置される。2本の本柱の上に切妻屋根が載り、控え柱の上にも切妻の小屋根を載せている。元は鈴鹿の神戸城にあった門を、明治9年(1876)に移築したものだという。

つんつく橋マップ

 「つんつく橋」は何の変哲もないコンクリート橋である。架かる天白川も小さな川で、橋長も長くなく幅員も左右一車線と歩道で構成されている。しかし、高欄に面白いレリーフが添えられている。「日永つんつく踊り」を描いた作品である。
 この踊りは、日永地区に古くから伝わる郷土色豊かな踊りである。その起源については、滝川一益の命により、母親の隠居所あるいは天白川の堤防を築くための「地固め」のときに歌ったのが始まりとの伝承がある。今でも、6月第一土曜日に両聖寺境内で、保存会を中心に開催されている。(踊りの写真は四日市観光協会のホームページから転載した)

つんつく橋G

臨港橋と末広橋梁

 港には、船が着岸したり荷物を運搬したりする突堤や運阿が張り巡らされている。陸側の末広町と出島の千歳町の間に千歳運河が流れている。この運河を跨ぐ道路と鉄道に、2つの珍しい「跳ね橋」が架かっている。(前回のマップ参照)
 鉄道は四日市駅から枝分かれした臨港線で、出島に渡ってから二手に分かれて島の先端まで運行する。跳ね橋は「末広橋梁」という(下の写真=2013・07・08参照)。この日は平日だったので、橋は跳ね上がったままで列車が運行するときだけに下ろされる。(休日はその逆)

臨港橋

 道路に架かる橋は「臨港橋」という。こちらは常時は車が通れるように閉っていて、船舶が通る時だけ70度跳ね上がる。橋の中央付近にある機械室に管理人がいて、船が近づくと操作するシステムになっている。その人の話によると、通行回数は1日に数件だという。
 現在の橋は3代目で、平成3年(1991)に完成した。初代は昭和6年(1931)だという。親柱は、地元の焼き物「万古焼」のタイルが貼ってある。可動部の手すりに斜めの切れ目がある。いろいろな方角から時間をかけて写真を撮っていたが、残念ながら跳ね上がるシーンを見ることはできなかった。

季節通信171エゴノキ




東谷山と東谷橋

 東谷山は、守山区と瀬戸市の境界にある。標高は198mあり、名古屋の最高峰となっている。古くから信仰された霊山で、熱田神宮の奥の院としても信仰を集めた。また、山中や麓に多くの古墳があることでも知られている(2020・11・29「古墳」参照)。山裾には「東谷山フルーツパーク」がある。
 庄内川に架かる東谷橋は、JR中央線・高蔵寺駅の南約500mの位置にある。県道53号と15号を結ぶ橋でもあって普段から交通量は多いが、フルーツパークの「枝垂れ桜」の咲く季節には大渋滞となる。明治以前は渡し船、大正になって木橋が架けられた。現在の橋は昭和33年(1958)に架け替えられたものである。長さ160m、幅6mのデッキトラス橋である。

東谷橋G

 橋を渡りきってフルーツパークへと向かう交差点に案内板が立てられている。しかし、車道外の部分に工事用のバリケードがあり、あまり美しい景観とは言えない。県立大学の案内板はあるが、最近整備された「志段味古墳群」の案内は見当たらない。二つの文化・観光施設の導入部であり、春日井市からの玄関口でもあることを考えると、少し配慮に欠けていると思われる。
 気を取り直して橋の上から東谷山を眺めてみよう。5月の初めだったので、シイノキの花が森を金色に染めていた。東谷山の北斜面は、この地方に残された貴重な「照葉樹林」なのである。信仰のある山として、古来からの自然林が守られてきたのであろう。
≪名古屋市内でのまとまった照葉樹林(シイやカシ、サカキなどの森)は、熱田神宮と徳川園とここだけである≫

東谷橋マップ

季節通信176サカキ

多治見橋

 名古屋の城下は、東海道や中山道など主要街道から離れていた。そこでそれらと結ぶ脇街道が発達する。「下(した)街道」は、名古屋から中山道大井宿に至る道である。内津峠を越えて多治見を経由する。現在の国道19号やJR中央線に近いルートである。
 多治見は古くから陶器の町として知られる。七世紀初頭から始められ、志野や織部といった美濃焼に発展している。多治見の街道沿いには今も歴史を物語る町名が残っている。本町・中町・上町・栄町、明治町・大正町などという名もある。土岐川を跨ぐのが「多治見橋」である。

多治見橋G

 明治の初めまでは、水量の少ない冬季には土橋が架かっていたが、夏は渡し船であった。初めて本格的な板橋が架けられたのは、明治13年(1880)の明治天皇行幸のときである。長さ110m、幅4mだったという。しかし、翌年洪水により流失してしまった。その後、4代目まで木製であった。
 鉄筋コンクリートの永久橋が出来たのは昭和12年、現在の「多治見橋」である。延長115m、幅員11m。当時は国道であったが、19号がバイパスに移った後は県道15号となっている。平成になって欄干や照明灯などの修景が行なわれた。


木曽川の橋3本

 木曽川の流れは、三派川地区を過ぎると急に川幅が狭くなる。ここには道路や鉄道の橋が集中している。県道14号(岐阜街道)の「木曽川橋」、名鉄本線、JR東海道本線にそれぞれ架かる「木曽川橋梁」である。また、新しい国道22号(名岐バイパス)の橋も架かっている。
 「木曽川橋」(上の写真)は昭和12年に開通、“下路ブレースドリブタイドアーチ橋”で橋長462m、幅員9mである。昭和39年(1964)に歩道が添架された。歴史的に見ると、渡し船(宝江の渡し)に代って「舟橋」が出来たのが明治11年、明治43年には「木鉄混合」の“下路ポニーダブルワーレントラス橋”が架けられた。

木曽川3本の橋G

 名鉄名古屋本線の「木曽川橋梁」(中)は、鉄錆色に塗られているためか古めかしく見える。“下路曲弦ワーレントラス橋”で長さ485m、複線式である。名古屋鉄道が昭和9年に合併した美濃電気軌道から引き継いだため、橋梁の前後が曲線になっており名古屋本線高速化のネックになっているという。
 JR東海道本線の「木曽川橋梁」(下の写真)は、名鉄と違って上り線と下り線が分かれて2本の橋梁になっている。当初に架けられたのは明治20年。単線であったが明治42年に、下流にもう1本下り線が追加された。その後老朽化のための架け替えが行われ、現在のものは上り線が昭和46年、下り線は昭和33年に架けられたものである。いずれも長さ約620m、9連のトラス橋である。

季節通信166ユズリハ



河田橋(こうだばし)

 愛知県一宮市の浅井町河田と岐阜県各務原市川島河田町は、安土桃山時代の大洪水により木曽川の流れが変わるまでは同じ一つの村であった。今は、南派川を挟んで左岸と右岸に分かれている。これを繋ぐのが「河田橋」である。“こうだばし”と読む。(前回のマップ参照)
 車道と歩道の2本が並んでいる。長さはどちらも約260m。車道の幅員は6m、昭和33年(1958)に開通した。歩道は幅員2.25m、少し遅れて昭和49年(1974)に追加された。鮮やかな青色に塗装され、遠景の「138タワー」や「伊吹山」「養老山系」とともに美しい景観をつくっている。

河田橋G

 元々この地点には、「河田渡船」という渡し船が連絡していた。しかし、洪水などにより度々欠航となるので、大正11年になって初代の河田橋(木製、長さ約140m、幅3.6m)が架けられた。昭和になり交通量も増えたため2代目(木製、長さ200m、幅3m)に架け替えられたが、洪水のため破損や流失が起こったので、鋼鉄製の現在の橋に架け替えられたのである。
 型式は「ワーレントラス」、橋の側面に建設などの履歴を記したプレートが取り付けられていて車道、歩道それぞれの完成年月日を知ることができる。また、塗装に関する「仕様」も明記してあった。

季節通信187イタドリ


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新川橋

 県道50号は名古屋碧南線と呼ばれる主要地方道である。名古屋から大府、刈谷、高浜を経て碧南に至る。高浜市内では名鉄三河線と並行し、県道43号・岡崎碧南線とつながって大浜の港町まで続く。沿道には商店・西芳寺・藤井達吉近代美術館・九重味醂本社工場などが集積している。
 古くから重要な道路であったので、新川が開削された当時(宝永2年=1705)から橋が架けられていた。平成9年に改築された現在の橋の建設は、並々ならぬ力の入れようであった。有名建築家に設計を依頼して、個性的なデザインに仕上がっている。

新川橋G

 海へと漕ぎ出す「帆舟」の形のオブジェが橋を覆っている。赤い支柱に支えられた白いアーチをくぐるという珍しい橋である。歩道の手すりは波型になっていて、川に向かってデッキの役割を果たしている。支柱の根元には小さな「係船柱(ボラード)」があって「港」のイメージを強く演出している。
 新川は沿岸に発達した工場などへの海運の役割も担っていたという。現在も漁船などが係留されている。さらに、海に向かってプレジャーボートの基地がある。新川橋の上流には「衣浦マリーナ」、下流には「碧南マリーナ」がある。水面から釣り上げた船を補修するドックも備えられている。

新川橋H

季節通信161立体花壇


フォレストブリッジ

 「いのちの池」に架かる「フォレストブリッジ」は、健康の森の大動脈を構成している。「あいち健康プラザ」のアトリウムを抜けて階段を下ると橋があり、目線はガラス張りの「交流センター」へと向かう。交流センターの建物は、園路の幅だけ空間となっていて、そのまま西へ進むことになる。
 そこにはフォレスト最大の駐車場がある。車で来た人は、今の説明の反対のルートで歩くことになる。西側からプラザを眺めると、フォレストブリッジの先にアトリウムが聳え、個性的な橋と一体となって美しい建築景観を呈している。

橋G

 この橋の力学的構造は、アーチである。アーチからワイヤーによって橋面が吊り下げられている。両側のアーチの基部は近接しており。上へ行くほど開いている。この形がデザインの“みそ”であろう。真ん中の写真を見ていただくと解るように、橋を歩く人にとって非常に開放的な空間になっている。
 (正式に言うと「逆台形断面でV字に開いたアーチリブの中路式固定アーチ型ローゼ桁のデザイン」と言うらしい。)
 橋を下から見ると、太いアーチの鉄骨が力強く、安定感を感ずることができる。「いのちの池」に架かる橋であることを考え合わせると、頑健な背骨かあばら骨を連想してしまう。

橋H

宝橋と子どもの森

 国道155号と分岐して南へ走る道路を「健康の森線」と呼ぶ。なだらかに曲がりながら、樹林の中を走る快適な道である。私は年に3~4回半田へ行くためにこの道を通る。時には「げんきの郷」に立ち寄り、新鮮な野菜や魚を買うこともある。
 この道路を横断する歩道橋は、本園と東園とをつないでいる。「宝橋」といい「子どもの森架け橋」とも呼ぶ。長さ35m、白く塗装された斜張橋である。渡った先には「子どもの森」がある。全長120mものローラーすべり台や各種のコンビネーション遊具があって、子供も大人も一緒に楽しめるようになっている。

宝橋H

 東園には「ほたるの里」がある。樹林の中の水路を使って森岡自治区の「ホタル保存会」がボランティア活動として管理しているという。毎年6月に観察会を催している。私もかつて(50年前)東山植物園でホタルの飼育を経験しているので興味がある。一度見学してみたいと思う。

季節通信158ホテケノザ



刈谷の岩ヶ池オアシス橋

 主要地方道・県道56号は「名古屋―岡崎線」とも呼ばれる。その中間地点の刈谷で、伊勢湾岸道路「ハイウェーオアシス」に接する。ここでは現在、ETC専用のスマートインターチェンジの整備が行われている。高速道路への乗り降りができるようになるので、さらに交通が活発になろう。
 県道が「岩ヶ池」を渡る位置に「オアシス橋」が架かっている。長さ84m・幅13m、型式は「5連アーチカルバート構造」である。主要地方道ではこの型式は前例がないので、構造の安全性や耐震性について専門家による検討委員会が設置され、慎重に設計が進められた。

オアシス橋G

 また、この位置は岩ヶ池公園区域にあるので、自然景観との調和を重視する必要もあった。今回の取材は冬だったので、水に映る姿は見られなかったが、アーチ橋は“メガネ橋”のように見えるのであろう。壁面も茶系統の落ち着いた色合いのタイルで、風景と馴染んでいる。
 施工はプレキャストのアーチ部材を連結した後、中詰め材として「気泡モルタル」を充填した。発砲スチロールとコンクリートの中間的性状をもち、土の半分ほどの重さで軟弱地盤の盛土などに適している。路面は耐久性も考え、RC路盤の上にアスファルトを被せたコンポジット舗装になっている。歩道のステンレス製の手すりや、半円形に張り出したバルコニーもデザイン性を強調している。

季節通信157ヤブレガサ


岡崎城下・5つの橋 その5

⑤明代橋(みょうだいばし)
 名鉄東岡崎駅から乙川を越えて、井田交差点までの道を「モダン道路」と呼ぶ。モダンとは、現代的・近代的という意味で、大正時代や昭和初期によく使われた言葉である。県道477号のこの道路は、昭和初期に開通した。当時としては斬新だったのであろう。
 現在の明代橋は昭和12年に完成した。全長114m、幅員約16m、型式は5径間鉄筋コンクリートゲルバーT桁橋である。モダン道路の橋ということで意匠にも拘り、親柱には「すずらん灯」が飾られていた。(今はない)橋のふもとの松の大木が印象的である。

 明代橋G

 歴史的には、大正5年に「明大寺橋」という木橋が架けられたのが最初で、4年後の大正9年に架け変え工事が行われた。木造ハウ式構橋(トラス)の板橋で、橋長は114mと現在と同じだが幅員は3.6mと狭いものであった。

季節通信152林床の植物


岡崎城下・5つの橋 その4

④ 桜城橋
 令和2年に開通した新しい橋である。全長121m、幅員19m、面積2000㎡という広大なもので「橋の上の公園」といった趣きである。構造はコンクリート造りであるが、表面は地元の木材・ヒノキを使用して落ち着いた雰囲気を演出している。(上空からの写真は岡崎市ホームページからの転載)

桜城橋 空から

 まちの玄関・名鉄東岡崎駅と籠田公園とを結ぶ動線になっていて「街中へのお迎え空間」と謳っている。橋上で、今まさに木造の枠組みを製作中であった。大工さんにお伺いすると、イベントの休憩所とのこと。「桜城橋」の名は、公募で集まった4000件の候補の中から選ばれた。
 桜城橋の北には、緑豊かな中央緑道が連なっている。ここには、徳川四天王と呼ばれる武将の彫像が置かれている。太鼓を敲きながら叫んでいる姿は坂井忠次、4人の中で最も長老である。槍をもつのは本多忠勝、「家康に過ぎたるもの」と称せられた。生涯で57回の合戦に出陣したが、一度も怪我をすることがなかったという。
 彫刻は岡崎名産の伝統的工芸品「岡崎石工品」で作られている。

桜城橋G

季節通信153早春の花





岡崎城下・5つの橋 その3

③殿橋
 この位置は岡崎城にとって重要な場所であり、古くは正保2年(1645)に橋が架けられた。もちろん木橋であり、明治38年(1905)に架け替えられた橋も木造であった。明治・大正の時代には、馬車鉄道や岡崎電気鐵道の電車が橋の上を走ったという。
 現在の橋は、昭和2年に完成した。当時としては最新鋭の技術で建設された鉄筋コンクリート橋である。中央に複線の市電が通り、両側に車道と歩道が設けられた。デザインはどこから見ても美しい。橋脚は規則的に並んでいて、四角い穴を連続して見ることができる。親柱や歩道の手すりにも、凝った意匠が施されている。今は市電は走っていない。

殿橋G

 歩道を歩いて渡ってみた。中央辺りから見るお城の姿がとても美しい。江戸時代には、町の人々はお城を畏敬の念で仰いでいたのであろう。堤防の落葉樹はソメイヨシノ、その背景の常緑樹はマツ、桜の時季が楽しみである。

城景色

季節通信150虎の尾


岡崎城下・5つの橋 その2

②潜水橋
 乙川のこのあたりは、高水敷が公園になっている。大雨以外のときは、芝生や広場で遊ぶことができる。もちろん桜のシーズンには、多くの人々がシートなどを広げてお花見を楽しんでいる。この公園の左岸と右岸を結んでいるのが「潜水橋」である。
  「潜水橋」は、「沈下橋」あるいは「もぐり橋」とも呼ばれる。大雨などによる洪水時に、川の水中に潜ってしまう橋をいう。堤防の上をつなぐ橋に比べて短い距離で橋ができるメリットはあるが、洪水時には使えない。
 橋に物が絡んで水流を阻害するというデメリットもある。「もぐり橋」の中には転落防止の柵がないものもあるがこの橋には手すり柵がある。洪水時にはゴミや草木などが引っかからないように、柵を倒すことにより水流の妨げを避ける構造になっている。

潜水橋G

季節通信151アオキ




岡崎城下・5つの橋

 ♪♪五万石でも岡崎様は アー ヨイコノシャンセ お城下まで舟が着く ションガイナ・・・♪♪
 江戸小唄・端唄に詠われている。江戸時代、岡崎藩は家康誕生の地として別格の扱いを受けて繁栄を誇っていた。人と物の動きも頻繁で、陸路としては東海道がお城の北を走っている。
 矢作川・乙川は外堀の役目もあるが、水運としても重要であったのだろう。三河湾から矢作川を経て、乙川により「お城下」まで船便が往航していた。

◆岡崎城の南を流れる乙川(別名:菅生川)に、面白い橋がいくつかあるのでご紹介しましょう。
◆下流から・・・①名鉄本線菅生川橋梁 ②潜水橋 ③殿橋 ④桜城橋 ⑤明代橋 です。
◆いずれも歩いて廻れる距離にありますので、桜の時季などに見て廻ることをお勧めします。

乙川の橋

① 名鉄本線・菅生川橋梁
 「乙川」は、またの名を「菅生川(すごうがわ)」というので「菅生川橋梁」と呼ぶ。ちなみに道路に架かるものは「橋」といい、鉄道のものは「橋梁」という。
 この橋梁は、名鉄の前身である「愛知電気鐵道株式会社」が大正12年(1923)に建設したものである。この鉄道会社は明治43年(1910)に設立され、愛知県南東部で事業を展開したが、昭和10年(1935)に「名岐鉄道」と合併して「名古屋鉄道(名鉄)」となった。

乙川①G

岡崎市東公園の観月橋

 岡崎城から東へ3kmほどの、平野が終わって山地にかかる辺りに「東公園」がある。面積約27haの総合公園、紅葉や桜の名所であり動物園もある。池は元々農業用のため池で、カモなどが飛来する自然豊かな景観を保っている。橋で渡る浮御堂があり、池側から樹林などを見ることができる。
 池に連続して花菖蒲園がある。6月には100品種・1万株の花を楽しむことができる。桜・動物園・
浮御堂・花菖蒲園と並べてみると、名古屋の鶴舞公園(昭和12年まで動物園があった)に似ていると思う。開園が昭和3年(1928)と古く、この時代の郊外型総合公園の類型なのかもしれない。

東公園修正

 瓢箪池の窪んだところに木製の太鼓橋「観月橋」が架かっているのも鶴舞(胡蝶池の鈴菜橋=今はコンクリート製)と共通である。池岸にはたくさんのカエデが植えられていて、太鼓橋から見る秋の紅葉は見事である。名の通りこの橋からは綺麗な月が見られるのだろう。池に映るのかも知れない。
 橋脚まで木製の橋を管理するのは大変である。何年かごとに大補修あるいは架け替えをする必要があろう。しかし、和風の庭園景観の中では、橋そのものが添景物としての役割をもっている。観光の名所でも、木製の橋が大きな意味をもつところがある。例えば伊勢神宮の「宇治橋」(2016・5・26参照)や京都の「三条大橋」(2018・6・20参照)などが有名である。

季節通信149冬の渡り鳥

長良大橋と犀川制水樋門

 ニューヨーク・ウォール街で昭和4年(1927)に起こった株の大暴落をきっかけに、世界大恐慌が始まった。その影響を受け、日本経済も大混乱を巻き起こした。政府は積極的な財政支出を推進し、農村を中心に大規模な公共土木工事を行なったのである。
 長良大橋の建設は、失業者への救済対策のひとつとして行われた。昭和8年完成。全長約385m、幅員15mの曲線ワーレントラス橋である。当初は、鉄道も併用する予定であったので、リベットを多用した重厚な構造となっている。橋の上から上流を眺めると、左側に墨俣城を見ることができる。

長良大橋G

 「墨俣城」いわゆる「一夜城」は、永禄9年(1566)織田信長の美濃攻めの際、木下藤吉郎が短期間に築いたという。河川を越えて敵方に造る拠点を「橋頭堡」という。この砦を足掛かりに信長は美濃攻めを成功させる。藤吉郎の出世ストーリーである。
 (水際にお城の形の歴史博物館が建っている。ただ、名古屋城や大垣城に似た天守閣の形態は、
  歴史考察的にいかがなものだろう?)
 五六川は、犀川と合流したのち長良川に注ぐ。下の写真は、本流と並行して流れる水路の水をコントロールするための樋門である。鉄筋コンクリート造り、昭和9年(1934)に完成した。後方に見えるのは本流との間の水門である。

犀川樋門G

季節通信148トナカイ


犬山城崖下の橋と隧道

 犬山城は、木曽川から切り立った崖の上に聳えている。船で着岸して攻めようにも、鎧兜を着て崖を登ることは不可能であろう。そのような崖を切り裂いて、昭和4年(1929)に観光のための道路が造られた。城の東には、濠を兼ねた郷瀬川が流れている。その河口部に「彩雲橋」が架けられた。
 岩盤をコンクリートで補足しながら橋台と橋脚を築く。鉄材は、鉄道のレールを利用している。2連のアーチ橋、緑色に塗装された瀟洒なデザインである。橋上を走っていると、手すりがコンクリート製なので、ごく平凡な橋にしか見えない。しかし下から眺めると、3mほどの滝とともに一服の絵画のようである。今年、土木学会選奨の土木遺産に認定された。

犬山の橋G

 一方通行の狭い道を西に進むとトンネルがある。長さ20mほど、幅も高さも2.5mほどと小さな「隧道」であるが、何と手掘りで穿ったものである。トンネルの壁はモルタルなどが塗られておらず、岩盤が剥き出しである。ここの地層はチャートと呼ばれる堆積岩であり、その褶曲を見ることができる。
 このトンネルは、道路開通のために掘ったものではなく、名古屋市が木曽川から水道を引くため造った取水口を管理するために穿ったものである(大正3年完成)。現在は使われていないが、水門のローラーゲートが今も残されている(写真の矢印)。観光道路整備に当たり、この古いトンネルが利用されたのである。

犬山隧道GG

季節通信142スズランノキ

④前橋

 今も使用されている橋が1つあった。「前橋」という。「どんぐりの湯」から国道153号をさらに北へ進み、長野との県境・大野瀬トンネルの手前にある。現在の「新前橋」を渡ったすぐの左側に見ることができる。矢作川の支流・野入川に架かる橋である。大正8年に開通した。
 橋長約17m、幅員4mのRC開腹アーチ橋である。橋のたもとに木製の看板があって、そこに建設中の写真が掲げられている。足場に支えられた、まだ型枠の残るコンクリートアーチが写っている。橋台は、がっしりした石積みで出来ている。建設に携わった人たちも写っている。

前橋マップ

 看板には、映画「星めぐりの町」撮影の模様が説明してある。監督・黒土三男により、小林稔侍・荒井陽太・壇蜜などが出演している。各地の映画祭でグランプリを受賞した名作である。豊田市一帯でロケが行われたが、大野瀬町の「前橋」は、映画を象徴するシーンとして何度も登場するという。

前橋G

◆◆これで4つの橋の報告を終わります。共通して感じることは、100年以上の橋がよくぞ残されたとの思いです。新しい橋が完成すれば、古い橋は“御用済み”となり、撤去されたかもしれません。地域の人々の愛着があったのでしょう。今、豊田市が修繕を検討しています。映画撮影に使われたように、古い橋なりの活かされ方が見つかればいいと思います。◆◆

季節通信135ミズヒキ

③ウルシゼ橋

 道の駅「どんぐりの里いなぶ」を過ぎてトンネルをくぐり、最初の信号交差点で左に曲がる。しばらく進んで「川手トンネル」の直前で右に折れる。トンネルができるまでは、この道路が主要な道であったのであろう。現在も地域の「どんぐりバス」が走行している。
 さらに古い路線に「ウルシゼ橋」が架かっている。この橋も通行禁止になっている。「RC開腹アーチ橋」、橋長約28m、幅員3.4m、開通は大正7年である。「開腹」というのは、アーチの上部に柱を立てて隙間をつくり、透けて見える構造を言う。コンクリートなどで充填されているものは「充腹アーチ橋」と呼ぶ。

ウルシデ橋G

 4つの橋の中で、唯一河原に降りて写真を撮ることができた。橋台・アーチ・柱・梁・橋面・手すりまで全てコンクリートで出来ている。下から概観を眺めたところ、100年以上経過しているのに鉄筋などの剥き出しなどを見ることができない。よほど丁寧に工事をしたのであろう。
 川手トンネルは、“愛知県で唯一のメロディートンネル”という個性をもっている。車が走行速度を守って走ると、タイヤとの摩擦で音楽が鳴る。曲目は「どんぐりころころ」である。ただし、恵那方面に向かう車だけが聞くことができる。入り口の壁にもどんぐりや紅葉の絵が描いてあった。

ウルシデ橋マップ

季節通信132コンニャク


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 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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Author:FC2USER480348EQK
森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
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