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京都三条大橋

 一昨年巡り歩いた旧東海道シリーズの最終段階で、「お江戸日本橋」 についてご紹介した (平成29年3月1日掲載)。ここが東海道五十三次の東の出発点であり、現在は日本の道路元標が置かれている所である。一方で、その終点である 「京都三条大橋」 については、まだ取材しておらずブログ掲載が出来ていなかった。
 今回、京都の庭園視察で訪れた折に、烏丸御池から歩き始めて三条大橋に辿り着くことができた。江戸時代、参勤交代の大名を始め、江戸へ下る人々はここから東海道を歩き始めたのである。橋の下を流れる鴨川の水は、あまり遠くない鞍馬方面の山々から流れ出すので、涼しげで透明である。

三条大橋マップ

 この橋が最初に架けられた年代は明らかではないが、室町時代前期には簡素な構造のものがあったと推定されている。本格的な橋となったのは天正18年 (1590) で、豊臣秀吉の命により大改造が行なわれたと擬宝珠に記録されている。擬宝珠は天正のものと昭和のものが混用されているが、その銘の中に 「天正十八年」 や 「豊臣」 の文字を読み取ることが出来る。
 江戸時代になって東海道の西の起点になると、幕府の公儀橋として維持管理が行われた。元禄以来たびたび改造されてきたが、現在のものは昭和25年に架け替えられたものである。西北の橋詰めに、古い石造りの橋脚が保存・展示されている。

三条大橋G

中川運河の中川橋

 「中川橋」 は、国道23号線が分岐して金城埠頭へ向かう道路が、中川運河を跨ぐ橋である。昭和5年 (1930) に完成しており、名古屋市内では最も古い 「鋼鉄製アーチ橋」 で、長さは48mである。80年以上も経過して老朽化していたが、“景観的にも美しく歴史的にも貴重である” という判断により、車線を増やして再利用することとなった。
 中川運河の最下流部に位置し、ガーデン埠頭に近いので、シートレインランドの観覧車が背景に見える。地下鉄名港線の築地口は、歩いて10分ほどと近い。築地口の交差点に、錨のモニュメントのある噴水がある。この錨は昭和後期に南極観測船として活躍した 「フジ」 のものである。

中川橋マップ

 中川橋の再利用に際しては、橋台の耐震補強をする必要があった。そこで一旦、上流側40mまで橋を移動して新しい土台を構築した。現在は、新しい頑丈な橋台の上に戻されて、橋自体の改修工事まっ最中である。橋の重量は約600トン、大型ジャッキ4台に乗せて、水平を保ちつつ1時間に4メートルという速さで慎重に移動させた。来年の開通を予定している。
 橋の色は鮮やかなオレンジ色、港のシンボルであり、分かりやすいランドマークでもある。新たな橋を新築するよりも費用はかかるかも知れないが、町の魅力を増進するためには素晴らしい方針だったと思われる。

中川橋G

名古屋港の跳上橋

 昨年秋に、名古屋港を船で見学した折 (12月1日に 「ガントリークレーン」 と題してこのブログに掲載)、船中からガーデン埠頭のあたりに、末広橋梁とよく似た跳上橋を遠望した覚えがある。もう1度確認してみようと思い、金山駅周辺の清掃作業 ( 「まちを美しくする会」 の定期活動) の後に名古屋港を訪ねてみた。
 ガーデン埠頭入口にある案内所でマップをもらい、看板図面で位置を確認してから橋があると思われる方向へと歩いていった。堤防沿いがいいと思われたが、工場や倉庫の敷地内になっていて、一般の人では立ち入ることができない。スマホのグーグルマップも見ながら、北側に回りこんで何とか目的地に到達することができた。

名港跳ね上げ橋マップ

 ウィキペディアによれば、この橋は 「名古屋港跳上橋」 と呼ぶとある。説明では、やはり山本卯太郎の設計によるものである。明治42年に、笹島駅と旧2号地の名古屋港駅を結ぶ臨海鉄道・東臨港線が開通した。それを1号地まで延伸するに当たって運河を渡る必要があり、昭和2年 (1927) に運送 (倉庫) 会社の全額寄付により建設されたのだという。橋長63.4m、幅員4.7m。
 当時は頻繁に可動桁が昇降して蒸気機関車や船舶が行き来したが、輸送手段の変遷から次第に使用されなくなり、臨港鉄道そのものが廃線になってしまった。昭和62年からは跳ね上げた状態のまま保存されている。現存する最古の貴重な土木遺産として、平成11年には登録有形文化財に、平成21年には近代化産業遺産に登録されている。
 本体に近い南側へは近づけなかったので見ることが出来なかったのかも知れないけれど、一般道から見ることのできる北側に、説明看板が一つも見当たらなかったのは残念である。

名港跳ね上げ橋G


季節通信「ワラビ」

四日市港の末広橋梁

 明治43年から始まった四日市港修築事業では、埋立てにより末広町と千歳町が出来上がった。その間の水面が千歳運河である。大型船から積み替えられた貨物が、艀 (はしけ) などによりこの運河を行き来した。今も運河の両岸に倉庫が建ち並び、浮き桟橋も設置されている。
 千歳町へは、国鉄線 (JR線) からの引込み線が走っている。この線路が千歳運河を跨ぐのが、「末広橋梁」 である。艀を通すために跳開式の可動橋になっているが、常に跳ね上がった状態で船を通し、列車が来たときだけ橋を降ろすシステムである。下左の写真は運河側から、下右は線路側から見た末広橋梁である。

末広橋梁G

 末広橋梁は、昭和6年 (1931) に架橋されていて、現役としては最古の鉄道可動橋である。全長58m、幅員4mで、全体は5連の桁により構成されている。中央の桁が、第2橋脚の上に建てられた門型鉄柱に、ワイヤーにより跳ね上げられる構造である。第1橋脚の上に小さな小屋があり、この中にいる人により操作される。
 設計は、橋梁コンサルタントとして草分け的存在である山本卯太郎によるものであり、橋梁技術史上も貴重な存在である。また、四日市港の発展の中で、陸上輸送と運河船運が拮抗していた時代状況を物語る土木構造物としても重要な遺産である。現在、国の重要文化財に指定されており、経済産業省からは 「近代化産業遺産」 に認定されている。

末広橋梁マップ

宇賀渓の吊り橋

 員弁川は、鈴鹿山脈と養老山脈の間の平野を流れる川である。鈴鹿山脈北端の御池岳を源流とし、いなべ市や東員町・桑名市を流れて伊勢湾に注ぐ。その中流域の員弁から西に向かう支流・宇賀川が山間部にかかるあたりに 「宇賀渓」 はある。
 宇賀渓キャンプ場の駐車場から見上げると、重なり合った山々の遠くに白い雪を被った竜ヶ岳が見える。宇賀渓は、竜ヶ岳に端を発する宇賀川が花崗岩を浸食してできた渓谷である。数多くの瀑布や深淵、白い砂利の州などがあってハイキングやキャンプ地として人気が高い。

宇賀渓マップ

 遊歩道を登っていくと、いくつかの橋を渡ることとなる。橋の上は視界が開けるので、川原や滝、遠くの山々までの美しい景色を見ることができる。写真左は 「北河内橋」、欄干も含めてコンクリート製で昭和30年に完成した。ここまでは車が通れるが、その先の北河内吊り橋は人のみが通ることができる。昭和31年に開通したこの橋は、延長30m、高さ7m、路面の板張りも簡易で、なかなか冒険心をくすぐる吊り橋である。
 桑名を基点とする国道421号線は、宇賀渓を過ぎるとつづれ折れの石榑峠 (いしぐれとうげ) を越える難所であった。しかし、2011年に延長4.5kmのトンネルができたことにより、八日市や近江八幡方面へ容易に行けるようになった。

宇賀渓G

油皆洞(ゆがいと)橋

 「岐阜の歴史的土木構造物」 という資料でその存在を知り、何とか見てみたいと探したけれどなかなか見つからなかった。道路を右ひだりと何度か行き来した後、地元の方にお聞きしてようやく見つけることができた。八百津町の中心から丸山ダム方面へ向かう町道が、木曽川支流を渡るところにこの貴重な橋は架かっていた。
 「ゆがいと」 とは変わった名前であるが、途中のバス停に 「油皆洞」 という表示があり、橋の銘板に 「油皆洞川」 とあることから、ここの地名であることを知ることができる。木曽川右岸のこの道路は、今の感覚で見れば細い (道の幅は4m程度) が、かつては国道418号に指定されていた。

油皆洞橋G

 左側の親柱には、昭和29年竣工という銘板がある。しかしこの古風な鉄橋は、明治18年ごろにイギリスで製造されたものだという。旧国鉄の東海道線に使われていたものと考えられており、戦後になって転用されたものである。元々が汽車を走らせる設計であることから頑丈な造りとなっていて、トラスには鉄板の補強がされているし、結合部には巨大なボルトが使用されている。
 形式は 「下路平行弦ポニーワーレントラス (ピントラス)」 で、橋長30.5m、幅は3.8mである。周辺の風景には不釣合いなほど骨太な鋼橋であるが、丸山ダム完成の2年前に出来ていることを考えると、資材運搬などと何らかの関連があったのではないかと思われる。

油皆洞橋H

丸山ダムの「のぞみ橋」

 丸山ダムの手前に、今まで見たことの無いような奇妙な形の橋が架かっている。従来型の吊床版橋と違って、下にアーチ構造があるという不思議な形式を採っているのである。これは、PC橋としては不可能とされてきた長スパン (約100m) の橋を実現するために工夫されたもので、橋梁界としては非常に名誉な「田中賞」を平成15年に受賞している。
 田中賞とは、数々の名橋を生み出して橋梁界の育ての親とも呼ばれてきた故田中豊博士を記念して、昭和41年に創設されたものである。のぞみ橋はその高い技術力だけでなく、ユニーク性やデザイン性、さらにはリサイクル可能な経済性も評価されての受賞となった。

のぞみ橋G

 「のぞみ橋」 という名の付いているところをみると、この橋から丸山ダムを望むという意味であろうか。実際に橋を渡っていると、迫力のある丸山ダムがすぐ目の前に見える。のぞみ橋の隣にもう1本、古い吊り橋が架かっているが、この橋からはさらにダムは近い。
 老朽化のうえ幅員も狭いので、車両の通行は禁止されていて、歩行者だけが渡ることができる。主柱に建設の年月を表したプレートが貼り付けてある。昭和22年8月架設と記してあることから、丸山ダム建設 (昭和26年) のために利用されたものと思われる。反対の柱に橋名版も貼り付けてあったが、傷みが激しくて文字を読み取ることはできなかった。

のぞみ橋H

八百津大橋

 国道21号から御嵩町井尻で枝別れし、加茂郡八百津町へ向かう道を 「井尻八百津線」 と呼ぶ。県道358号である。途中、丸山ダムとその下流一帯の 「蘇水峡」 の近くを通る。蘇水峡は岩壁により川幅が狭められる景勝の地で、春の桜や秋の紅葉の名所であり、木曽三川の三十六景に撰ばれている。
 この道路が木曽川と交差する地点に 「八百津大橋」 が架かっている。昭和50年に開通した。橋長356m、幅員は意外に狭く6mである。左右1車線であるが、中央のラインは引かれていない。形式は 「上部平行弦ワーレントラス」 という。

八百津大橋G

 毎年4月に行なわれる 「八百津まつり」 は、3つの巨大な山車が練り歩く 「けんか祭り」 で有名である。3台の山車を合わせると一艘の船の形になるのが特色である。元々舟運で栄えたこの地域の特徴を色濃く残したものと言われている。山車がこの橋を渡るときに、横から見える姿がまさに舟の形をしているという。
 大橋の下流に、1本のコンクリートの柱が見えている。これは、かつて架かっていた吊り橋の名残である。「錦織橋」 と呼ばれた吊り橋で、長さ148m、幅1.5であった。昭和58年9月29日にこの地を襲った豪雨により流されてしまい、この主塔だけが残ったのだという。

八百津大橋H

八百津橋

 八百津の町は、JRの中央線とも高山線からも離れていることもあって、これまで馴染みのない町だった。木曽川沿いの歴史的土木施設について調べていくと、八百津周辺にはいくつかの興味深い施設があることが分かり、訪ねてみることとした。
 木曽川はおおむね北から南へ向かって流れている認識であるが、このあたりでは、東から西へ向かって流れている。濃尾平野の地盤が、鈴鹿山脈の断層に向かって東高西低に傾いていることがその理由であろう。そういえば、庄内川も一旦西に向き、その後南に向かって流れていく。

八百津橋G

 八百津の町の中心地に 「八百津橋」 が架かっている。これは県道381号が、国道418号と繋がるための県道83号に架かる橋である。現在は、平成3年に完成した 「新八百津橋」 が使われている。構造は 「ニールセンローゼ橋」、延長160mで幅員は7.5m、銀色に塗装されている。橋面を支えるのがワイヤーであるので、遠くから見ると中抜けのアーチだけに見える。
 すぐ隣に赤いトラス橋 (ワーレントラス) がある。これは昭和29年に架けられた 「旧八百津橋」 で、現在は歩行者・自転車専用となっている。延長117m、幅員は4.5mと狭いので、近年の道路事情に合わなくなり、新橋の建設となったのである。

八百津マップ

天竜川の鹿島橋

 井伊谷から20kmほど東、秋葉街道 (国道152号) が天竜川を渡るところに架けられている。昭和12年 (1937) に完成したモダンなトラス橋である。全長216m、幅員6m、「上曲弦カンチレバートラス橋」 という形式であり、戦前につくられた橋で現存するものとしては最大スパン (102m) である。橋名の鹿島 (かじま) とは、天竜市 (現浜松市天竜区) の旧名である。
 江戸の昔から、浜松から鹿島を経て秋葉山方面へ向かうには、どうしてもこの地で天竜川を渡らなければならず、当時は渡船に頼らざるを得なかった。しかし増水時には船が出せないことも度々あり、住民や旅人は不便を強いられてきた。明治38年になって簡易な吊橋を架ける計画があったが、完成目前に洪水で流されてしまった。今度は本格的な吊橋をと、明治42年に着工し2年後に完成した。このときは 「天竜橋」 という名で、有料であったという。

鹿島橋マップ

 その後、昭和になって天竜橋が無料になると、交通量はたいへん多くなった。しかし、吊橋であったので大型車両の通行は不可能である。そこで、新たな鉄骨による橋が計画され、昭和10年着工し昭和12年に完成したのがこの 「鹿島橋」 である。現在は、土木学会が選奨する土木遺産に指定されている。
 国道のすぐ上流に、天龍浜名湖鉄道が走っている。この鉄道橋も歴史が古く、昭和15年に造られている。鋼製3連のトラス橋と鋼製7連の桁橋の組み合わせで、全長403mである。この鉄道としては、唯一のトラス橋であり、最も長い橋となっている。白い岩肌を見せる天竜川に、青色と緑色の橋梁が並んで、綺麗な風景を見せている。

鹿島橋G

◆これで今年のブログは終わりです。一覧表を作ってみましたら、これまでに365回になることが分かりました。平成25年2月から始めましたので、5年間、5日に1回のペースで発信してきたことになります。
◆各地を訪ね歩くと、人々に親しまれ利用され続けている 「土木文化」 が、まだまだいくらでもあることが分かります。来年も引き続き、歩き、写真を撮り、文章を書き、マップを作ってまいりたいと思います。多くの皆様のアクセスをよろしくお願い致します。

忠節橋

 忠節とか忖度という言葉は、とっくの昔に死語になっていると思っていた。ところが最近、これらがきちんと生き残っており、忠節を誓ったり忖度を尽くさないと出世できないということが分かってきた。近々第7版が出版される 「広辞苑」 によれば、「忠節」は “君につくす節義” であり、「君」 とは国家元首や自分の仕える主君のことである。

忠節橋マップ

 長良川が金華山の山裾を何度か蛇行するあたり、長良橋と金華橋の下流に 「忠節橋」 が銀色に輝いている。明治になるまで、長良川には橋が架かっておらず 「忠節の渡し」 という渡し舟で結ばれていた。明治7年と14年に二本の橋が架けられたが、両岸の往来は頻繁となり更なる新橋が求められた。明治17年、今より270mほど上流に初代の忠節橋が架けられた。通行料が必要で、人は5厘、馬車は2銭であったという。
 その後、老朽化に伴い、明治31年と45年に架け替えが行なわれた。現在の橋が完成したのは昭和23年のことである。戦時中に着工されたが、コンクリートや鉄鋼などの資材が思うに任せず、戦後になってようやく完成したのである。形式はブレースト・リブ・バランスト・タイドアーチという長い名である。平成17年までは、路面電車も走る併用橋であった。全長266m、幅員17.6m、戦後我が国で造られた最初の大規模橋梁である。

忠節橋G

太田橋と今渡ダム

 美濃賀茂市にある旧中山道 「太田宿」 は、中山道69宿のうち江戸日本橋から数えて51番目の宿場である。中山道はここで木曽川を渡るのだが、「木曽の桟、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」 と謳われたように、この街道の三大難所であった。度重なる水害により、渡船場は次第に上流に移転したが、昭和2年に太田橋が完成するまでは、そのたもとにある渡船場が使われていた。

太田橋G

 太田橋は、旧国道21号線に架かる橋である。三径間連続のワーレントラス橋で、岐阜県では最初の近代的道路鋼橋である。大阪鉄工所が設計・施工した。二車線の車道であるが、後に歩道部分が付け加えられている。現在はその上流に新太田橋があり、国道21号もそちらに移っている。
 新太田橋のさらに上流に今渡ダムがあり、左岸に今渡発電所、右岸には美濃川合発電所を備えている。この発電所は、木曽川の中で最も下流に位置している。昭和14年に完成した。

太田橋マップ

天白川の橋 その16

 名鉄豊田新線の米野木駅周辺は、新駅 (もう古い?) ができたことと区画整理が進んだことにより、このごろ開発が活発である。駅周辺にマンションが建ち並んできたが、この地は名古屋へも、豊田へも通勤できることが人気を呼んでいるのであろう。道路も新設・改良され、岩崎諸輪線の橋も 「米野木橋」 (写真上) の上流に 「米野木大橋」 (写真下) ができて交通の流れが変わっている。

源流D

 天白川の最上流部は、日進市総合運動公園や東郷町の愛知池、みよし市の愛知牧場や三好カントリーなどのある緑豊な地域である。県道名古屋豊田線を遡ると、とうとう天白川の源流と思われる細流れに行き着いた。そこには名商大の広大なキャンパスがあった。三ヶ峯上池という農業用ため池があり、そこから流れ出す水が天白川の始まりである。
 今年6月から天白川に着目し、そこに架かる橋を書き連ねてきましたが、いよいよこれで終了します。ご愛読ありがとうございました。次のシリーズをご期待ください!!

源流マップ

天白川の橋 その15

 折戸から白山へ向かうバス路線の沿道に、市民会館・スポーツセンター・市役所と、日進市の主要施設が並んでいる。その道路が天白川を渡るのが、本郷橋である。そこから500mほど上流、大府から瀬戸へ向かう主要道路 「瀬戸大府線」 に架かるのが新本郷橋である。
 名前からみると、前者の方が古い街道であり、後者の方が新しいバイパスなのであろう。地名や施設名で、その土地の状況を理解することができる。瀬戸大府線は、2005年の愛知万博の折に、会場への重要なアクセスであるため、拡幅整備が図られた。

日進マップ

 天白川の南側を、川に沿って 「名古屋豊田線」 が東西に走っている。現在では国道153号のバイパスで名古屋・豊田間は太く結ばれているが、古くはこの道路も重要な路線であったのだろう。
 藤枝橋は、コンクリートの手すりが特長である。この辺りでは川幅も狭いため、橋の規模もさして大きくはない。橋のたもとに大きなセンダンの木があって、その根元に3体のお地蔵さまが佇んでいた。

日進G

向野橋

 ささしまライブのすぐ西に、JR関西線・近鉄線・あおなみ線など多くの線路を跨ぐ人道橋が架かっている。「向野橋 (こうやばし)」 と呼ぶ。かつては車も走っていたが、老朽化のため平成14年からは自転車・歩行者専用となっている。型式は下路式曲弦プラットトラス (ピントラス) と下路式プレートガーダーの組み合わせである。橋長は119mと長いが、トラスの部分は約85mである。
 このトラス部分の方は、もともと明治32年 (1899) に、京都鉄道により 「保津川橋梁」 として保津川に架けられたものである。米国A&Pロバート社が製造したもので、架橋当時は日本最長であったという。幾多の変遷があった後、昭和5年にこの地に移設された。

向野橋P

 近代的な高層ビル群が、雨後の竹の子のように建設されつつある名駅地区・笹島地区の中にあって、明治の香りを漂わせる 「向野橋」 は、一種の異彩を放っている。アーチとは呼べない角ばった鉄骨が、現代のものに比べて細くて華奢な感じがする。細部を見ても、鉄板の組み合わせやリベットによる接合など、人の手づくりが感じられて、どこか懐かしい雰囲気を味わわせてくれる。
 平成23年に名古屋市の 「認定地域建造物資産」 に指定された。また昨年 (平成28年) には、「土木学会選奨の土木遺産」 に認められた。その理由は、“明治期に架けられた当時最大スパンの典型的米国製トラスが、昭和期に移設転用されて、今なお利用されている希少な例である″ というものである。いつまでも保存・利用してもらいたい、正に 「土木文化」 だと思う。

向野橋Q

天白川の橋 その14

 日進市のこのあたりは、天白川に小川・折戸川・岩崎川などが合流するとともに、県道は57号瀬戸大府線を始め、名古屋から浅田、豊田、岩崎へと向かう主要な路線が走っている。
 国道153号の上流に、手すりが緑色に塗られた西梅森橋と橋桁がだいだい色に塗られた梅森橋が架かっている。天白川も中ほどに差し掛かり、源流の丘陵地や、遠く猿投山も視界に入ってくる。

岩崎マップ

 折戸川との合流地点に、ユニークなデザインのコンクリート橋「野方大橋」がありました。橋のすぐ下に小さな堰があり、ゆたかな水が白く泡立って流れています。堰と橋とが妙に調和が取れていて、昔ながらの農村の風景を残しているように感じました。近くにお寺や神社もあることから、古い集落の中心地だったのかも知れません。
 橋の来歴は分かりませんが、昭和初期の建設のように感じます。この頃はまだ小さな橋にまで、設計に当たっては周りの景色を配慮して、風景に馴染むとともに個性を発揮するようなデザインを考えられた時代だったのでしょうか。コンクリートの手すりに、半円形の丸窓が空けられ、そこに鋳鉄製の枠が嵌められています。何となくユーモラスでゆったりした雰囲気を味わうことができます。

岩崎B

長良川の美濃橋

 長良川は、飛騨山脈・標高2500mの大日岳に端を発し、郡上・美濃・関・岐阜を流れ、揖斐川・木曽川と合わさって伊勢湾に注ぐ大河川である。延長166km・流域面積は約2000平方kmと広大である。因みに、木曽川は229km・5300平方km、揖斐川は121km・1840平方kmである。
 美濃の町は、関が原の合戦でも活躍した高山城主・金森氏が整備した。郡上街道や牧谷街道、長良川水運の上有知湊もある交通の要所である。美濃街道から対岸へ渡り、板取川をさかのぼる牧谷街道へ進むには、前野の渡し舟が頼りであった。ここに長大な吊橋が完成したのは大正5年 (1916) のことである。

美濃橋H

 左岸にある城山「小倉山」から飛び出した岩盤の上に鉄筋コンクリートの主塔を立てた、橋長113m・幅員3.1mの単径間補剛吊橋である。橋桁を、鉄骨トラスで補剛し、橋面は太い丸太の上の板張りである。昭和40年ごろまでは、小型の乗合いバスも行き来していたが、老朽化が激しくなったので、現在は自転車や歩行者専用になっている。
 完成後100年を越えるこの美濃橋は、現存する最古の近代吊橋として平成15年に国の重要文化財に指定された。ちょうどその年に創設された国の大規模修繕の制度にのって、翌年から美濃橋修復の事業が始められた。特に右岸のケーブルの根元が劣化していたので、現代技術を駆使して、アンカレイジ削孔で補強する工事を行なった。アンカレイジとは、釣り橋の主ケーブルを支える重要な基礎のことである。

美濃橋I
美濃橋マップ

天白川の橋 その13

 名古屋高速道路環状2号線は、国道302号の上や下を走っている。天白川は「天白川大橋」で渡っている。この橋には防音装置が設置されており、道幅も広いため圧倒的なボリュームを見せている。
 上下流の河川敷緑地で、草刈が行なわれていた。面積が広大なため、大型の草刈機械で行なわれるが、斜面地を斜めになっても安定して作業のできる機械が走っていた。刈った草を集めるのも機械で、回転するフォークで器用に片側に寄せていく。さらにバックホーによりダンプに積んでいくのである。

平・H

 そこから先は、いよいよ日進市へと入っていく。大橋の1kmほど上流には、国道153号線(バイパス)が走っている。そこまでの間に「新大正橋」と「大正橋」という2本の橋が架かっている。平針から梅森に向かう道路に架かる「大正橋」は、今でこそ狭くて通行量も少ないが、大正時代からあったとすれば、当時は重要な存在であったのだろう。
 国道153号線は、名古屋と長野県飯田を結ぶ重要な道路であるが、特に名古屋・豊田間は交通量が多いので、2車線プラス側道まである立派な道路である。地下鉄も、名古屋市外を走る「名鉄豊田線」と相互乗り入れすることにより、乗り換えることなく行き来することができる。名古屋市と豊田市の強い結びつきを感ずることができる。

平・マップ

天白川の橋 その12

 植田駅、天白スポーツセンターの近くに緑色・赤色という鮮やかな色合いの橋が目につく。緑色は 「天白小橋」 という人道橋、赤色は水を送る水管橋と思われる。その橋端に白い文字で 「塗装記録」 が記してある。年月は2012年、種類はRC-Ⅲ系、下塗りが2回で中塗りと上塗りが各1回とある。塗装の施工会社と塗料の製造会社名も明記してあった。
 少し進むと、飯田街道と交差する。現在は県道58号・名古屋豊田線であるが、北側に広いバイパスができるまでは、国道153号線であった。天白川に架かる橋は 「天白橋」 である。親柱にも橋の名前が刻んであるが、青色の橋桁にも白いペンキで書いてあるのは珍しい。幅の広い歩道には、6角形のプランターが置いてあり、ポーチュラカが鮮やかに咲いていた。

天白橋A

 飯田街道に並行する道路の下には、地下鉄鶴舞線が走っている。割と近距離・約1kmごとに駅がある。八事・塩釜口・植田・原そして平針・赤池へと続いていく。原駅の近くに、植田との中間にあるせいか 「植原橋」 というデザイン性ゆたかな橋がある。納屋橋と同じような半円形のデッキがあり、人々が休息したり語り合ったりできるようにベンチが置いてある。
 橋の中央には真っ赤なモニュメントが、橋詰め広場にはステンレス造りの彫刻が設置されている。

天白橋マップ

天白橋B

天白川の橋 その11

 植田川との合流点の上流に、県道59号の新音聞橋とそこから分岐して植田に至る道の音聞橋がある。このあたりは天白区の中心地で、区役所・警察署・スポーツセンターなどが集中している。また、県道58号・国道153号 (名古屋豊田線=飯田街道) が東西に走り、並行する地下鉄3号線の塩竈駅や植田駅も近くにある。

音聞H

 植田下水処理場の上部にある市民還元施設は広大で、緑ゆたかな公園になっている。子供の遊ぶ遊具や、相撲の土俵まである。広場では、地域の人たちがグラウンド・ゴルフを楽しんでいた。
 このスポーツは、昭和の終わりごろ、鳥取県のある村の生涯スポーツ活動の一環として考案されたもので、現在では全国に広まり、高齢者を中心に多くのファンを獲得している。平らな広場があれば、ホールポストと呼ぶ用具と、ボールとそれを打つクラブがあれば誰にでもでき、ルールも簡単なことから人気のスポーツとなっている。

音聞I

天白川の橋 その10

 天白区役所の南を走る県道220線は、新島田橋で天白川を渡る。そこから少し上流に植田川が合流してくる。二つの川の中州には、植田の下水処理場が地下にあり、上部は公園のような市民施設になっている。そこにユニークな人道橋が架かっている。
 橋の名前は、鷺が寄る橋 「寄鷺橋」 と書いて “きりょうばし” と読む。名前だけでなく、橋の形式も東海地方では珍しい 「ニールセンローゼ型」 である。「ローゼ橋」 はアーチ橋の一種ではあるが、路面を確保する部材にも剛性をもたせ、アーチ部材と力を分担しあって橋を構成する形式である。特に、アーチ部分と補剛桁の間をケーブルにより斜めに張る形式を 「ニールセンローゼ橋」という。

植田マップ

 植田川との合流地点に、とても美しい河川構造物がある。馬蹄形をした水落ちが3段あり、綺麗な水が白い泡を立てて流れている。よく河床の洗掘を防止したり、河床の勾配を緩和するために造られる小さなダムを見ることがあるが、この施設は実に美しいのである。実用的な河川管理上の用途が第一とは考えられるが、この美しさは正に景観向上・修景のために造られたのはないかと思うほどである。
 通りがかりの方に尋ねると、「天白護床工」という名だという。名古屋市の都市景観賞に輝いていると教えてくれた。このような土木施設を出合うと、「土木文化見てある記」というブログを発信している張り合いを感ずることができる。

植田川 護床工

納屋橋

 江戸時代、堀川には7本の橋が架かっていた。北から五条橋・中橋・伝馬橋・納屋橋・日置橋・古渡橋・新橋である(尾府名古屋図=蓬左文庫蔵参照)。納屋橋は上からも下からも真ん中の4番目にあり、最初は慶長15年 (1610) の清洲越しのときに造られたものである。名古屋の城下町は、豊臣方に対する戦略都市として誕生したが、同時に碁盤割の町を中心とした経済の町でもあった。 
 広小路はその中心的存在で、納屋橋は多くの人たちが通行する重要な橋であった (現在でも同じ)。元は、「尾張名陽図会」 に見るような木橋であったので、度々架け替えられている。正保4年 (1647) に改築、元禄13年 (1700) の大火には延焼を免れたが、寛保3年 (1743) に改修されている。明治19年の広小路拡幅改修の時には橋幅を拡張して整備された。

納屋橋マップA

 その後、濃尾震災の被害を受けて、翌年の明治25年 (1892) に改築、明治43年 (1910=鶴舞公園の開園と同時期) には、当時としては新式の鉄石混用の洋風な橋に改築された。当時の費用で10万円という巨費を投じ、4年という工期を要して大正2年に開通したという。
 橋の形式は上路アーチ式、側面から見ると小さなアーチが連なっていて美しい姿形である。石造りの親柱、鋳鉄製の欄干や照明塔も優美なデザインである。欄干の模様に堀川開削総奉行であった福島正則や信長・秀吉・家康3英傑の紋所が飾られているのも面白い。
 橋の中央に半円形のデッキがあって、通行の人が堀川の上流を眺めていた。

納屋橋G

天白川の橋 その9

 天白区役所あたりまで来ると、川幅がずいぶんと広くなり芝生地や散歩道などのある公園になっている。河川の断面は、常時水の流れる部分と大雨などの時だけ水に浸かる 「高水敷き」 とに区分される。高水敷きは普段は陸地になっていて、植物などが繁茂している。この部分を、河川管理者から公園管理者が借り受けて (占用許可という) 公園として市民に利用していただいている。このような公園を 「河川敷緑地」 という。

新島田H
新島田マップ

 この緑地を散策したり、近くの保呂公園を利用する人たちがよく渡るのが 「天白緑地橋」 である。人道橋としては道幅も広く、雰囲気の良いレンガ風の舗装が施してある。さらに、散歩の途中で歩を休め、川の景観を眺められるように半円形のデッキが設けられている。最初の写真も、このデッキから撮ったものである。
 名古屋市の都心部では、堀川に架かる「納屋橋」にも同様なデッキがあって、「広ブラ」 (広小路を夕方ブラブラ歩くこと=今では死語?) する人々のちょっとした憩いの空間になっている。

新島田I
新島田J


天白川の橋 その8

 「平子橋」 を渡る路線は、県道59号線を北沢交差点で枝分かれして、野並住宅近くを通って地下鉄桜通線・桜本町駅に至る道路である。青く塗られた桁橋である。
 もうひとつ北を走る菅田橋との間に、人道峡があり 「野中橋」 と呼ぶ。野並住宅から、中根小学校方面へ渡るのに便利な橋である。桁は、鮮やかな緑色に塗られている。
 赤い色の 「菅田橋」 は、東西でなく南北に走って八事へ至る道である。途中、昭和高校前で左に折れ、弥富通りを経て瑞穂運動場方面へ進むことができる。この橋には、欄干の端に親柱があり、レリーフの彫刻が設置されている。

平子橋A
平子橋B
平子橋C

 菅田橋を西に渡ってすぐの左側に、中根公園という1haほどの公園がある。この公園ですぐに目に入るのは、広場の真ん中に座っている真っ赤なタコのモニュメントである。これは、「プレイ-スカルプチュア」 という遊具で、タコの頭が小山、足が滑り台になっている。
 造園の百科事典によれば、北欧で発達したものであるが、単なる鑑賞のための彫刻でなく、子供が体でぶつかって楽しめる造形作品を目指したものだという。ひところ流行りもあり、名古屋でもいくつか造られたが、普通の富士山などの形をした 「石の山」 の方が多く設置されるようになった。
 公園の端に小さなトイレがあるが、これも可愛らしいデザインになっていた。

平子橋マップ

天龍峡大橋(仮称=建設中)

 三遠南信自動車道 (国道474号) は、三河・遠州 (浜松) と南信州 (飯田) を結ぶ、延長約100kmの高規格道路である。飯田方面からは現在、中央自動車道・飯田山本インターから、天竜峡までが共用されているが、その先、龍江へ向けて工事が進んでいる。
 その中でも最も大規模なのは 「天龍峡大橋」 の建設である。来年度の開通を目指して、着々と工事が進んでいる。橋の長さは280m、形式は鋼上式アーチ橋 (バスケットハンドル型固定アーチ) である。架設の方法は、ケーブル工エレクション斜吊り工法という。

天龍峡大橋マップ

 建設場所は、天龍奥三河国定公園の名勝 「天龍峡」 である。天竜川が深く刻み込んだ断崖絶壁が続く渓谷は、新緑・紅葉の美しい風光明媚な観光地である。橋の形状は、渓谷によく調和するように、スレンダーなアーチを採用した。色彩も周辺の景観に馴染むように 「山鳩色」 にする予定である (上の写真:現地に設置された広報看板)。大橋は自動車専用のため自動車しか通行できないが、桁下に幅2mの歩道を設置し、天龍峡周遊歩道の一部として魅力向上を図ることになっている。
 現在、川の両側に仮設の鉄塔が組まれ、ケーブルにより部材を運搬している (下左の写真)。最近、アーチが繋がり、天竜川の上空に完成を予想できるような姿が現れている。散策路途中の吊橋から下流を見ると、橋の下にJR飯田線の鉄橋や 「天龍下り」の船を見ることができる (下右の写真)。
 さらに下の3枚の写真は、天龍峡の渓谷美を写したものである。スリル満点の吊橋は、よくサスペンス・ドラマの舞台として登場する (このブログでも、平成26年8月15日に紹介した)。

天龍峡大橋H
天龍峡大橋I

天白川の橋 その7

 県道222号は、旧東海道である。このブログのマップから外れてはいるが、少し西には 「笠寺一里塚」 東には千句塚公園など、往時を偲ぶ遺跡がある。笠寺一里塚は平成25年2月19日にご紹介した。千句塚公園には、松尾芭蕉が自ら建立した唯一の石碑 「千鳥塚」 が立っている。貞享4年 (1887)、この地をおとずれたときの歌 “星崎の闇を見よやと啼く千鳥” が刻まれている。天白川を渡る橋は 「天白橋」 という。
 その上流には、地下鉄桜通線が通る 「東海通り」 が走っている。名古屋市東部から都心へ向かう重要な道路であり野並橋が架かっている。橋の西側に野並公園がある。この公園の堤防近くに、鉄塔があり、最上部にカメラが設置されている。分電版の蓋に「CCTV機側装置」と記してあり、野並橋や天白川の水位を絶えず監視する装置であろうか。

野並橋 M

 天白橋と野並橋の中間地点に、支流の藤川が流れ込んでいる。合流地点の2kmほど東に戸笠池があり、この池が源流となっている。小さな川ではあるが、大雨の時には多くの水が流れる重要な河川である。
 河口の名古屋港から5kmあまり遡ってきたが、このあたりまで来ると河川敷に緑が多いことに気づく。水面そのものより、洪水時に水の浸かる河川敷の幅が広い。そこには芝生が張られ、自転車やジョギングなどのできる散策路が通っている。遠く猿投山も見ることができ、なかなか景色の良い天白川である。

野並マップ


天白川の橋 その6

 東海道すなわち国道1号線の 「大慶橋」 から上流を見ると、名鉄本線の鉄橋が見える。名鉄本線は、豊橋から金山・名古屋を経由して岐阜へ向かう路線であるが、途中から河和線・常滑線が合流し、あるいは犬山線・津島線などが乗り入れてくるので、ダイヤは非常に密度が高い。それほど長い時間ではないのに、左右から往復する列車を何本も数えることができた。(上の写真)
 真ん中の写真は、県道36号諸輪名古屋線の 「星園橋」 である。この道路は、愛知郡東郷町と名古屋市港区を結ぶ主要道路で、扇川と並行して走っている。地下鉄徳重駅から名鉄鳴海駅近くを通る便利な道でもある。
 下の写真、淡緑色に塗られているのは自転車・歩行者用で 「星の宮人道橋」 という洒落た名前が付いている。近くに住宅団地もあり、堤防道路とともに散策陽にも使われている。

浦里E

 少し上流の左岸に、鳴海西部土地区画整理事業により生み出された面積約1.5haの近隣公園 「浦里公園」 がある。この公園の一角に立派な銅像が立っている。銘板には 「法学博士雉本朗造先生」 と刻まれている。ドイツに留学して民事訴訟法を学び、大正デモクラシーの時代に活躍した。地元で起きた 「鳴海小作争議」 でも大きな役割を果たしたという。

浦里マップ

天白川の橋その5

 天白川と扇川の合流地点にJR東海道線の鉄橋が架かっている。その10m程上流には、東海道新幹線が走っている。さらに500mほど離れて、東海道すなわち国道1号線が通っている。この3本は、我が国で最も重要な輸送路であり、この地点に災害などが発生して通行止めともなれば、大問題になること間違いない。
 国道1号線に架かる橋を 「大慶橋」 と呼ぶ。緑色に塗られた桁橋に、こげ茶色のガードパイプというシンプルな景観である。橋の端には、いわゆる 「親柱」 というようなものは見当たらず、橋の名前の刻まれた 「橋名板」 もついていない。自動車道路にとって橋は、特別なポイントではなく、通常の路線と同じ通過地点にすぎないのだろうか。

東海道線10

 新幹線のすぐ上流、天白川右岸の堤防の上に 「牛毛神社」 が鎮座している。もともとこの地は、天白川の砂州の発達した所だという。説明版には、創建は文政5年 (1823) と記してあるが、一説によれば太閤検地 (1582~95) のころには既にあったのではないかと考えられている。祭神は須佐之男命とあり、牛頭天王を祀ったものという。
 牛毛の名前は、ここが牛毛海岸のある牛毛村であったことに由来する。昔からの語り伝えによると、津島神社の御神符が毎年のように海岸に流れ着いたことから、村人はこれを神の御神意と解して社を建てたのだという。境内には、大きなムクノキが聳えていた。

東海道線11

天白川の橋 その4

 この地域の大動脈 「名四国道」 は、平面道路の橋を両側から挟むように、上下線が分離して架けられていて、3本の橋が重なっている。ここから上流を眺めると、川の中ほどに流れを分離するような中堤が見える。これは、この地点で合流する扇川を分流するための堤防である。
 この両川を跨ぐように、歩道橋が架けられている。青く塗られた2連のアーチ橋で、「大星橋」 という。石の親柱の左側に 「大星橋」、右側に 「天白川・扇川」 と記してある。

大星橋B

 扇川は、緑区藤塚の大池から発してこの地点まで、約10kmを流れる二級河川である。水源の大池は公園と一体となり、上流部の両側は緑道として桜並木の散歩道になっている。植栽後30年ほど過ぎたソメイヨシノはすくすくと育ち、今では新しい桜の名所になりつつある。
 少し戻って、須佐之男神社の隣に 「源兵衛公園」 という街区公園がある。この公園の砂場に、ブルーのシートがかけられている。これは、犬や猫の排便が砂の上で行なわれて、砂が汚染されるのを防ぐ目的で設置されたものという。砂場の外周を柵で囲う方法や、定期的な砂の清掃などが比較検討された結果、最も有効な方法と考えられている。

大星橋C

天白川の橋 その3

 名鉄常滑線は、現在では中部国際空港セントレアへ送迎する 「特急ミュースカイ」 が走る路線としても知られている。柴田駅のすぐ南に、天白川を跨ぐ鉄橋 「天白川橋梁」 が架かっている。青く塗られたトラス橋に、「天白川橋りょう」 と白ペンキで書かれている。道路に架かる橋の名称は 「○○橋」 というのに対して、鉄道の橋は 「○○橋梁」 と呼ぶようである。
 白ペンキの文字の下に、厚いプレートが熔接されている。建設時に記録として取り付けられたもので、名古屋鉄道株式会社・1962・支間48.00などの文字を見ることができる。建設を担当した宮地(?)工業や使用した材料についての記載もあった。

名鉄 天白川1

 常滑線と並んで架かる国道247号線の橋は 「千鳥橋」 という。そこから名四国道までの間の右岸 (川の上流から見たときの右側) に 「須佐之男神社」 がある。「須佐之男尊」 は神話に登場するイザナギ尊・イザナミ尊の子供で、天照大神の弟に当たる人物である。出雲の国で八岐大蛇 (やまたのおろち) を退治した英雄でもあるが、田や畑を荒らした凶暴な神としても知られている。
 この神社の鳥居の近くに大きな公孫樹 (イチョウ) の木が聳えている。根元に “むらの児とひねもす遊びしこの宮の巨 (おお) き公孫樹は神さびてたつ” との歌が掲げられていた。イチョウは、老木になると樹皮が気根のように垂れ下がる。これは 「イチョウの乳」 とよばれているが、まだ、植物学的な意味は明らかになっていない。

名鉄 天白川2

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 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:「園長さんのガーデンライフ」
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