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佐久間の中部(なかべ)橋

 浜松市は平成の市町村合併により市域面積が広がり、全国では高山市に次いで第2位である。約1560平方km、名古屋市327平方kmの約5倍である。因みに愛知県で一番広いのは、やはり稲武や小原を合併した豊田市で、26位・約920平方kmである。
 天竜川を遡った愛知・長野との県境地域は「北遠」と呼ぶ。遠州の北部という意味であろう。天竜・春野・龍山・佐久間・水窪の5地区を指す。その中で「佐久間地区」は、人口2800人ほどの村落である。地区の中央を天竜川が流れ、町は右岸側と左岸側に二分されている。

中部橋G

 この地域では天竜川が北向きに流れているので、右岸が東で左岸は西ということになる。右岸にはJR飯田線が通り、中部天竜駅や佐久間小学校がある。左岸には国道473号が走り、消防署や郵便局が建っている。左右の町を結ぶのは、「中部橋」という人道橋である。
 中部と書いて「なかべ」と読む。地元では親しげに「なかっぺ橋」と呼ぶ。昭和12年完成、長さ約170m、幅1.6mの「鋼トラスで補剛された吊り橋」である。もう一本、県道291号に「中部大橋」が架かっている。赤い二連のアーチ橋である。

中部橋マップ


佐久間の原田橋

 天竜川は、佐久間ダムの下流で大きく逆もどりし、北に向かって流れている。そのV字の部分に、支流の相川が合流している。JR飯田線は下川合駅と中部天竜駅が右岸にあり、国道473号線は左岸を走っている。国道が天竜川を跨ぐのが「原田橋」である。
 現在の原田橋は3代目で、令和2年開通の真新しい橋である。橋長284m、幅員は8mの2車線である。初代は大正4年(1914)に架設された木製補剛桁の吊り橋であった。長さ約112m、幅員は2.4m。地元出身の原田氏の寄付によるものである。

原田橋マップ

 昭和31年(1956)、佐久間ダム建設のため資材運搬が必要となり、幅の広い橋に架け替えとなった。2代目は、鉄筋コンクリート補剛桁の吊り橋で、幅は5.5m、長さは約139mである。活荷重は9トンで設計されていた。
 この2代目の橋は、平成27年(2015)1月に天竜川右岸で発生した土砂崩れにより落橋してしまった。現地で見ると、山の高い位置から崩落が起こったようである。緑のない地肌は、モルタルや金網で保護されている。古い橋台や親柱の銘板は残されたままになっている。

原田橋G

季節通信219青もみじ


大垣・水門川の橋 その7

26 高  橋: 昭和36年(1961)・・・26の橋の最後。県道18号・大垣~一宮線に架かっている。           
                       橋の中央に芭蕉の俳句が掲げられている。

26高橋G

 今回は、水門川をたどって26の橋を訪ね歩いた。大垣にはもう一本の散歩道がある。松尾芭蕉の句碑のある道で、やはり駅近くの牛屋橋を起点に、終点も同じ高橋である。
 高橋は、芭蕉の「奥の細道」むすびの地である。元禄2年(1689)、門人・河合曾良を伴って江戸を出発した。東北・北陸を経て、大垣のこの地で俳諧・紀行の旅を終える。150日間、600里(2400km)の長旅であった。
 芭蕉はこの後、「伊勢の遷宮をおがまんとまた舟に乗り」、船町・住吉の湊から水門川を桑名まで下ったのである。奥の細道むすびの句は「蛤のふたみにわかれて行く秋ぞ」である。

26高橋H


大垣・水門川の橋 その6

24 貝 殻 橋: 昭和46年(1971)・・・橋のたもとに船町の道標「右京みち・左江戸道」。
25 住 吉 橋: 昭和55年(1980)・・・赤い欄干。燈台と湊跡が近い。

その6G

≪船町湊跡と住吉燈台≫・・・
◆船町湊は、江戸から明治にかけて、桑名とを結ぶ運河「水門川」の川湊で、物資や人の往来の中心であった。
◆住吉燈台は、天保11年(1840)に建てられた。高さ8mの寄棟造り、最上部の四方に油紙障子を嵌めこみ燈火を入れた。
◆明治になると蒸気船が就航したが、昭和に入ると陸上輸送の発達に伴い衰退した。

その6H

季節通信218愛岐トンネル




大垣・水門川の橋 その5

21 俵   橋: 昭和45年(1970)・・・近くに飯沼慾斎の邸宅跡がある。
22 美登鯉橋: 昭和53年(1978)・・・「四季の広場」への入り口。直角に曲がり川幅が広い。
23 虹 の 橋:  昭和61年(1986)・・・滝・四阿が眺められ、川面には鯉が泳ぐ。

その5G

季節通信217菖蒲

大垣・水門川の橋 その4

⑯ 丸の内橋: 昭和58年(1983)・・・右岸には、藩主戸田氏の菩提寺「圓通寺」がある。
⑰ 興 文 橋: 昭和57年(1982)・・・左岸は、地方裁判所などのある官庁街。白い高欄。
⑱ 清 水 橋: 昭和28年(1953)・・・レンガタイルの高欄。東西の幹線道路。
⑲ 西外側橋: 昭和53年(1978)・・・左岸に、大垣市役所がある。
⑳ 竹  橋: 昭和41年(1966)・・・水門川は、ここでS字にカーブする。

その5G

季節通信216スミレの語源

大垣・水門川の橋 その3

⑫ 龍の口橋: 昭和40年(1965)・・・親柱に龍のレリーフがある。
⑬ 武者溜橋: 昭和32年(1957)・・・親柱の上に城郭の彫刻が乗っている。
⑭ 花 月 橋: 平成7年(1995) ・・・欄干に桜の模様がある。
⑮ 八幡大橋: 昭和49年(1974)・・・橋上広場がある。北には八幡神社がある。

その3G

季節通信215山菜採り


大垣・水門川の橋 その2

⑦ 貴 船 橋: 昭和54年(1979)・・・大垣城東総門跡、貴船神社が近い。
⑧ 小 原 橋: 昭和37年(1962)・・・中央に円形デッキ。橋下に遊歩道。
⑨ 新 大 橋: 昭和30年(1955)・・・駅から南下する大通り。赤い欄干。中央に現代アート。
⑩ 東外側橋: 平成元年(1989) ・・・親柱は常夜灯風モニュメント。
⑪ 高 岡 橋: 昭和54年(1979)・・・下流に川下りの船着き場がある。

その2G

大垣・水門川の橋 その1

① 新牛屋橋: 昭和53年(1978)・・・大垣駅近く。恵比寿大神の境内に山車倉がある。
② 牛屋橋:  昭和44年(1969)・・・欄干に日陰棚がある。
③ 平和橋:  昭和33年(1958)・・・親柱に外灯が付いている。
④ 岐阜町橋: 昭和61年(1986)・・・レンガタイルの手すり。
⑤ 最上橋:  昭和60年(1985)・・・円形のデッキに照明灯がある。
⑥ 赤坂口橋: 建設年不明・・・擬木の手すり。道路幅員が広い。 

その1G

大垣・水門川の26の橋

大垣A

 大垣城は天文4年(1535)に築かれ、関ヶ原の戦いでも大きな役割を果たした。城と城下町のあるこの地は、揖斐川の扇状地であり水の豊かなところである。市の中心を流れる水門川は、かつては大垣城の外堀を兼ねていた。河口部の桑名とを結ぶ、重要な水運の運河でもあった。
(2014・2・7「大垣城」&2014・6・30「自噴井戸」参照)

 時あたかも桜満開の良き日に、ブログの取材に訪れた。水門川には個性的な26の橋が架けられており、美しい川の水と相俟って町の魅力を発揮している。和船による舟下りは、川面から桜を観るという優雅な遊びであり、船着き場には多くの観光客が並んでいた。

大垣マップ

菊川の潮騒橋と高松川の水門

 浜松御前崎自転車道線(県道376号)を東へ進むと、いよいよ御前崎に近づいてくる。一級河川菊川の河口に「潮騒橋」が架かっている。サイクリングの自転車・歩行者専用である。全長232m、幅員3m、平成7年(1995)年に完成した。
 「4径間連続上路式PC吊床版橋」という構造形式で、世界でも類を見ない珍しい形だという。普通は上にあるアーチが、下向きに垂れるようになっている。「吊床版」というように、最下部のコンクリート版が吊り橋のような「引張りの力」が働いているのであろう。高く評価されていて、土木学会「田中賞」を授与されている。

潮騒橋G

 どこかでよく似た形を見た覚えがある。岐阜県丸山ダムの下に架かっている「のぞみ橋」(このブログの2018年2月9日参照)である。「端部分離型上路式PC吊床版橋」という同じような型式である。平成15年(2003)完成で、やはり「田中賞」を受賞している。

潮騒橋H

 潮騒橋の中ほどに展望・休憩用のデッキ部分があり、アート・モニュメントが置かれている。ここから上流側を眺めるととんがり帽子の水門が見える。これは菊川の支流「高松川」の水門で、高潮や想定されている東海地震の津波に対する防御施設である。

潮騒橋マップ

季節通信212ショウジョウバカマ



はまぼう橋

 天竜川の東10kmほどのところに太田川が流れている。その河口近くに「ぼう僧川」という二級河川が合流している。磐田あたりの三角州の水を集める川で、延長は13kmほどである。流域の気温は年平均16~17度と温暖である。
 太田川との合流地点から1kmほど上流に「はまぼう橋」という自転車専用の橋が架かっている。丸パイプによるアーチ橋であるが、吊り材のワイヤーがななめになっている「ニールセンローゼ橋」という型式である。浜名湖御前崎自転車道の一環で、そのまま堤防沿いに走って北へと進む。

はまぼうマップ

 橋名の「はまぼう」は植物の名前で、ハイビスカスの仲間である。関東以西の温かい海岸に分布する。ぼう僧川の両岸に、約150本が自生している。遠州灘では唯一の群落であり、「静岡県の自然百選」に選ばれている。夏に、フヨウやワタに似た形の黄色い花を咲かせる。
 水門近くの公園には「野鳥観察小屋」があるが、そのまわりに40本ほどのハマボウが植えられている。これは水門整備の折に、高校生たちが移植したものである。河川堤防の近くに樹高5mほどに育っていて、樹林内を歩ける小道もある、今回の取材は冬だったので、果実しか見られなかった。

はまぼうG

季節通信213カタクリ


浜松御前崎自転車道の「掛塚橋」

 静岡県の海岸沿いに4つのサイクリングロードがある。西から ①浜名湖周遊自転車道 ②浜松・御前崎自転車道 ③静岡・御前崎自転車道 ④静岡・清水自転車道である。合計の距離は約200kmと長い。今後、伊豆半島地区での整備も進めていく。
 浜松からは、磐田・袋井・掛川を通って御前崎へ至る。天竜川の、河口から2番目に「掛塚橋」が架かっている。延長は約900m、トラス橋であるが一定の距離に「山」がある。構造上に意味があるのか、単にデザインなのかも知れない。昭和30年(1955)に開通した。

サイクリングマップ

 当初は有料道路であったが、15年後に無料開放されている。幅員が狭く二車線しかないので、歩行者や自転車の通行はできなかった。現在は上流脇に自転車道が添架されて、サイクリングロードに指定されている。
 この橋を一目見た時から「これは亀崎の衣浦大橋にそっくりだ」(2013・4・9&2020・12・7参照)と感じた。写真を比較すればお分かりのように、間違いなく同じ設計・デザインであることは一目瞭然である。完成は昭和31年、スタート時に有料であったことも同じである。

掛塚橋G

猪鼻湖神社と瀬戸橋

 浜名湖は、全国で10番目の面積をもつ。しかし形が複雑なので、外周の距離は3番目に長い。それは4つの枝湾をもつからである。細江湖・松見湖・庄内湖・猪鼻湖である。1498年の明応地震のときに、砂州が決壊して海と繋がったので、汽水湖となった。魚など生物が豊富に生息する。
 猪鼻湖は北西に位置する。水深は深く、最深部では16mもある。湖面ではカキの養殖が、西岸ではミカンの栽培が盛んである。大きく突き出した大崎半島と本城山との間に狭い「猪鼻瀬戸」があり、二本の橋が架かっている。瀬戸橋と新瀬戸橋である。

猪鼻マップ

 半島の先端は「猪鼻(いのはな)」と呼ばれて岩盤が剥き出しになっている。ここには猿田彦命を祀る「猪鼻湖神社」が鎮座している。細い岩場の参道を進むとコンクリート製の鳥居があり、さらに進むと赤い太鼓橋がある。岩の隙間に根を伸ばした松の木の間に社殿があった。
 西の本城山と東の大崎半島を結ぶのは新旧の瀬戸橋である。旧瀬戸橋は昭和30年(1955)に完成、長さ137mの吊り橋である。幅員が狭くて一車線しかないので、信号により交互に通行する。巨大なコンクリートの固まり・アンカーレージが民家の庭先にあるので驚いた。

猪鼻G

季節通信209ユキヤナギ

津の「江戸橋」と四日市の「笹川パークブリッジ」

 三重大学の学生が名古屋から通学しようとすると、普通は近鉄を利用することとなる。津駅のひとつ手前の「江戸橋駅」は、特急は止まらないが急行は停車する。名古屋から1時間ほどなので、津に下宿せずに名古屋から通う学生も多い。
 江戸橋駅からは、志登茂川を跨ぐ「江戸橋」を渡って国道23号・通称伊勢街道に出る。大学のキャンパスは道路の反対側なので、交通量の多い国道を横断しなければならない。「江戸橋横断歩道橋」ができたのは昭和47年(1972)のことである。

江戸橋マップ

 50年ほど経った平成30年ごろ、河川改修に伴って市道の付け替えが必要となり、この歩道橋は撤去されることとなった。通常歩道橋は、道路幅員が様々な所に架かっているので、再利用される例は少ない。ところが、四日市の笹川団地の公園に適しているということで移転が決まったのである。
 笹川団地は四日市郊外に、50年ほど前に造成された大団地である。交通量の多い環状道路を挟んだ両側に笹川西公園がある。新設小学校の通学路にもなっていることから、安全に渡れる横断歩道橋が求められたのである。両側が公園であるので、長さや、面積を取るスロープ設置も問題にならなかった。今は、子供たちから「ぐるぐる階段」の愛称をもらって親しまれている。

笹川マップ

「香嵐橋」と「飯盛山・香積寺」

 香嵐渓を訪れる人は多いけれど、飯盛山(いいもりやま)北斜面のカタクリや待月橋周辺の紅葉を観ることで満足してしまい、奥の方まで行かない人もいるようです。もう少し上流へ進めば、茅葺きの「三州足助屋敷」や赤い吊り橋「香嵐橋」などがあり、山の中腹には「香積寺」もあります。
 「香嵐橋」は長さ43m、幅1.8mの吊り橋です。如何にも山奥へ来たような気分に浸ることができます。このあたりまで来ると、紅葉やカタクリ(3月)以外の季節でも豊富な山野草が出迎えてくれます。植物図鑑でも持って歩けば、楽しめること請け合いです。

香嵐渓GH

 標高254mの飯盛山の中腹に「香積寺」があります。江戸初期に、このお寺の住職が山全体にモミジを植えることを思いついたそうです。後世にこれほどの人を集める、先見の明があったのでしょう。「桜は1週間だけれど紅葉は1か月楽しめますよ」と教えてくれた人がいます。
 その話を聞いて、私も東山植物園にモミジの苗木をたくさん植えました。50年前のことです。今では、植物園の紅葉は市内随一と言われています。
 扁額を「山盛りの飯」と読んでしまいました。本当は右から読んで「はんせいざん」です。しっとりと、心の落ち着く山寺です。
香積寺G

季節通信200山野草

香嵐渓「巴橋」と「待月橋」

 前々回の三河湖のマップで、巴川は足助の地点で鋭角に向きを変えることが分かった。北向きから南へ曲がるところが香嵐渓である。この地方最大の紅葉の名所である。川の美しさも含めて、京都の嵐山・渡月橋に匹敵するのではと思う。
 国道153号・飯田街道は、かつて足助の市街地を通っていたが、現在は二つのトンネルをもつバイパスができたために、ずいぶんスムーズに通過できるようになった。しかし、春のカタクリと秋の紅葉のときは、追分まで車が並んでしまう。

香嵐渓マップ

 旧道が巴川を渡るのが「巴橋」である。5連の鉄筋コンクリート・アーチ橋で高欄もコンクリート製である。昭和12年(1937)の開通である。その先にある伊勢神トンネル(1960)はまだ「伊世賀美隧道」(1897)の時代であり、それに比較するとずいぶん斬新な設計であったのだろう。
 嵐山の「渡月橋」は亀山上皇の感想から名付けられた。香嵐渓の「待月橋」も同じような命名であろう。紅葉を観るためにも、紅葉を写すためにもなくてはならない橋である。紅葉の時期は大渋滞、駐車場にもなかなか入れない。お勧めは雨天である。車は少ないし、幻想的な景色が見られる。

香嵐渓G

季節通信204キウイ


新東名高速「豊田アローズブリッジ」

 ブログの取材などのために高速道路を走るとき、よくこの橋を渡る。名港のトリトン(2017・3・12)も巨大でシンボリックだが、この橋はさらにビッグなイメージである。停車するわけにはいかないので、フロントガラス越しに何回か写真を撮った。一度、地上から眺めてみたいと思っていた。
 下から見るとそのボリュームにびっくりする。特に橋脚の基部というか橋台というか、コンクリートの固まりはもの凄い。幅は50mを越えるものと思われる。主塔の高さは110m。橋長820m、幅員約45m、「波形ウェーブPC複合斜張橋」という。平成17年(2005)に完成している。

アローズマップ

 新東名高速道路が矢作川を越える地点に架かっている。完成時には、まだ伊勢湾岸道路と言っていた。愛知万博開幕直前の開通であり、自動車での来場を想定しての供用開始であった。その前年には、土木学会に認められて「田中賞・作品部門」を授与されている。
 「アローズ」というのは英語で「複数の矢」を意味する。矢作川の「矢」も意識しているのであろう。私はその形から、いつも「竪琴」を連想してしまう。現在のハープでなく、古典的な「ライアー・ハープ」である。鶴舞公園の奏楽堂の屋根飾りに使われているモニュメントに似ていると思う。

アローG

豊田大橋と久澄橋

 昨年はサッカーのワールドカップで盛り上がったが、4年前(2019)にはラグビーワールドカップが国中を熱狂させた。豊田市でも予選の4試合が開催され、海外からの応援団を含めてたくさんの観客が詰めかけた。観客の多くは、豊田市駅を降りて「豊田大橋」を渡ってスタジアムへ向かう。
 その様子は、2019年10月に4回に亘ってご報告した。「豊田大橋」は、バスケットハンドル型ニールセンローゼ橋という形式で、長さは約475mである。平成11年(1999)の完成。スタジアムと同じ黒川紀章の設計によるので、両者を合わせて一体のデザインとなっている。

豊田大橋G

 豊田大橋の1本下流に、もうひとつ白亜の橋梁が架かっている。「久澄橋」という。長さ274m、幅員25m、二つの大きなアーチのある単弦ローゼ橋である。独創的なデザインと景観の両立、構造の統一性などが評価されて、平成6年度(1994)の土木学会田中賞を受賞している。
 松平や稲武方面へ行くときによく通る橋である。豊田の市街地を抜け、視界が広々と開ける。矢作川河川敷の芝生も美しく、上流に見える真っ白なスタジアムや大橋と調和している。黒川紀章のアートを鑑賞しながら走る、心地良い空間である。

豊田大橋マップ

長良川の美濃橋(再び)

 長良川に架かる「美濃橋」は、大正5年(1916)に完成した現存する最古の近代吊橋です。平成15年(2003)には国の重要文化財に指定されています。詳細については≪2017年9月23日≫にご紹介しましたので参照してください。
 今回再び取材したのは、この“老兵”が大手術を受け、再び若返ったからです。100年近く現役で働いてきて、ケーブルや補剛の桁が腐食するなど満身創痍の状態でした。10年前に修復に取り掛かった時の大命題は「構造形式や外観を出来るだけ残すこと」だったそうです。

美濃橋 旧

 特に右岸のアンカレイジ部のケーブルが劣化し、強度は70%に落ちていました。ケーブルは建設当時スウェーデンから輸入したものですので取り替えることなく現役で使い続けることとしました。広範囲で腐食が確認された「補剛桁」には修復の過程で新たな発見もあったそうです。
 ただ直すだけでなく、新たな魅力づくりにも工夫がなされました。夜間照明です。真っ白な「主塔」や真赤な「手すり」は青空の下で見ても美しいけれども、ライトを浴びた姿はさらに幻想的だそうです。修復を担当した技師は、上下流や近くのホテルで上からも見てほしいと話しています。

美濃橋 新

季節通信199門松


板取川の松谷橋

 国道256号を地図で見ると、いやに曲がりくねっている。それもそのはず、蛇行の多い板取川に沿って走っているからである。板取川は、岐阜と福井の県境・両白山地を水源とし、美濃市あたりで長良川に合流する。
 北へ向かっていた256号が、大きく東へ曲がって郡上八幡へ向かうあたりの支流に「松谷橋」が架かっている。その新しい橋の一本奥に、いわば「旧松谷橋」が残っている。川幅が狭く、藪が繁っているので確認はできなかったが、この橋の型式は「RC方杖ラーメン構造」だという。

板取川マップ

 昭和9年に建設されているが、この時代のものとしては非常に珍しい構造だという。「方杖ラーメン橋」とは橋脚を斜めに配したラーメン橋で、深い谷など橋脚を立てられない場合などに用いられる。 上部構造の見かけの支間を小さくできるメリットがある。
 横から見た場合の美観に優れていて、鋼橋の採用事例が多い。以前ご紹介(2022・8・30)した名古屋城近くの「筋違橋」はまさにそれで、大変美しい橋である。
 下に模式図を添付します。

板取川G

季節通信198


桐谷の不動と渡し場跡(吊り橋)

 鳳来寺や秋葉山への祈りの道は、明治時代からは別所街道を北へ上る道であった。江戸時代には大野からそのまま右岸を北上し、桐谷で渡し船に乗って左岸へ渡っていた。古(いにしえ)は「大野桐谷の渡し」と呼び、現在は吊り橋に変わっている。
 「桐谷」というのは、今から600年の昔、この谷に桐の大木があったという逸話から名付けられた。「桐の大木の洞には鳳凰が住んでおり、仙人がその鳥に乗って鳳来寺との間を行き来した」という。大野宿の人々は、この聖地に道中の安全を願って「不動明王」を祀ったのである。

桐谷G

 旅人が舟を降りると、そこには「不道明王の祠」があり、近くに「不動滝」が落ちている。合わせて見ると一幅の山水画を見るようである。つづれ折りの杣道を登ると再び街道に戻る、人々は、そのまま北へ進んで秋葉山を目指すか、少し戻って大野宿に宿泊したかも知れない。
 このコースは、現在「東海自然歩道」に指定されている。新城山間部のこの辺りでは、「阿寺の七滝」「鳳来寺」「四谷の千枚田」といった観光名所をつなぐ一本道である。広域的には、東京「高尾国定公園」から大阪「箕面国定公園」を結ぶ総延長1690kmにもおよぶハイキング道である。

季節通信197東海自然歩道



三河大野駅と大野橋

 JR飯田線・三河大野駅は不思議な構造をしている。駅舎の改札(無人)を通るとすぐにトンネルがあり、線路の下を潜って階段を登り、1面2線のプラットホームに出る。駅舎は平成8年に改築した比較的新しい建物で、丸太を横積みにしたログハウスのような構造である。
 開業したのは大正12年、鳳来寺鉄道の延伸に伴うものである。昭和18年(1943)には国有化し、国鉄飯田線の駅となった。御多分に漏れず、鉄道は家の立ち並ぶ「宿場」を避けて宇連川の対岸に敷設されている。宿場町に行くには橋を渡る必要があり、駅のすぐ前に「大野橋」が架かっている。

大野駅G

 駅開設時には、既設の橋爪橋(初代大野橋)という吊り橋があった。別所街道と宿場を結ぶ橋である。鉄道駅の出来た大正13年には、車の通行できる広い幅の吊り橋(2代目)が完成している。現在のものは3代目、昭和32年(1957)に架けられた鉄橋である。
 車で走っていると平凡に見えるが、下から見るとトラスに組んだ鉄骨の構造に驚いてしまう。リベットにより複雑に組み合わされていて、厚さは10mを越えるものと思われる。大野橋に併行してもう1本の橋がある。これは「専用橋」といい、日本電信電話公社が昭和48年に架設したものである。

大野橋G

峰之澤橋と「渡らずの鉄橋」

 秋葉ダムが堰き止める水面は約190ha、「秋葉湖」と呼ぶ。水が綺麗なのでアユ漁が盛ん。友釣りを楽しむ人も多い。国道152号沿いにソメイヨシノが植えられていて(10kmに1000本)、開花時には「千本桜祭り」とともに「秋葉ダムさくらマラソン」も開催される。
 秋葉湖の両岸を航空写真で見ると、ほとんど山林で町はない。しかし、所々に「ポツンと一軒家」ではないが、小さな集落が散在している。秋葉湖の中ほどに、人の歩ける吊り橋がある。「峰之澤橋」という。長さ157m、昭和32年(1957)に完成した。集落と国道とをむすんでいるのだろう。

渡らずG

 飯田線は不思議なルートを通る。愛知県では、天竜川支流の「相川」を斜めに北上するが、中部天竜駅辺りからトンネルを潜って、中央構造線の静岡県「水窪川(みさくぼがわ)」沿いに走る。水窪駅を過ぎると、再びトンネルを通って伊那谷・長野県「天竜川」に戻る。
 水窪駅の手前に面白い鉄橋がある。「渡らずの鉄橋」と呼ぶ。飯田線のレールは、集落の茶畑を通過すると水窪川に突入するが、対岸に渡ることなく河川敷の途中から元の左岸(写真では右側)に戻るのである。川の中や河川敷に林立するコンクリートの橋脚が、奇妙な光景をつくっている。

渡らずマップ

秋葉橋と気田川橋

 秋葉街道は、信州南部と遠州とを結ぶ「信仰の道」です。「秋葉神社」に詣でる人たちが歩きました。また、遠州からは塩、信州からは山の幸が運ばれる道でもありました。北からは、赤石山脈(南アルプス)と伊那山脈の間の険しい道で、途中、青崩峠・地蔵峠・分杭峠などの難所がありました。
 秋葉山の麓に「秋葉山本宮・秋葉神社」が鎮座しています。創建は和銅2年(709)と伝えられ、火防・火伏の神さま「秋葉大権現」と称して国中の信仰を集めています。江戸時代には全国に「秋葉講」が結成されて、「秋葉詣」が行われました。今でも台所などにお札を貼る家があります。(我が家にもあります)

秋葉I

 秋葉街道から枝分かれして気田川に沿って進む道があります。天竜川を渡る橋が「秋葉橋」、気田川は「気田川橋」を渡ります。いずれも吊り橋ですが、秋葉橋は板張りの人道橋です。長さ210mは天竜川に架かるつり橋としては一番長いものです。主塔はまるで高圧電線の鉄塔のよう、手すりは華奢なネットです。昭和46年に完成しました。
 気田川橋は、トラスで補強された鉄橋で車も走ることができます。昭和32年(1957)竣工、長さ約190mです。秋葉山南麓を流れる「気田川」は清流で知られ、地元の人は「日本一きれいな川」と誇っています。鮎釣りやホタルの名所にもなっています。

秋葉橋G

稲武大橋・瑞龍寺・風のつり橋

 飯田街道(国道153号)は、昭和52年に城山トンネルができるまでは、城山を迂回するルートだった。現在は国道の北側、古い町並みの残る旧道がそれである。名倉川(矢作川の支流)に立派な鉄橋が架けられたのは大正15年のことである。「稲武大橋」という。
 この当時は、貴重な鉄骨を使った橋は少なく、その製作技術も圧巻だったという。橋を渡っている時は、ごく平凡な橋にしか見えない。しかし、河原へ降りて下から見ると、その苦心の跡を見ることができる。細いアングル材を鉄板とリベットで繋ぎ合わせて、トラスとアーチの構造に仕上げている。

稲武マップ

 どんぐりの湯とトンネル、橋を過ぎた左側に、枝垂れ桜の大木がある。花の時季に寄ってみたいと思うのだが、いつも通過してしまう。瑞龍寺という古刹の境内に植えられている。正保元年(1644)ごろの植栽、高さ8m、幹回り3.4m。県の天然記念物に指定されている。
 名倉川の少し上流へ国道257号で遡ると、木製の吊り橋が架かっている。「風のつり橋」と名付けられている。橋を渡った正面に見える小山は「大井平公園」といい、秋の紅葉は見事である。このあたりの名倉川は水が綺麗で、夏はホタルが飛び交うという。

稲武G

季節通信127イバラ餅


佐屋街道・尾頭橋と八熊線・住吉橋

 金山駅の西南、国道19号の交差点に古色を帯びた道標が立っている。「西左:なごや道」「西右:宮海道」「南左:さや海道 つしま道」と刻まれている。江戸時代の重要な道案内である。「海道」とあるのは、「宮」「さや」から、それぞれ舟での旅となるからであろう。
 東海道は「宮宿」(熱田)から「桑名宿」まで海上の舟旅となる。「七里の渡し」という。船旅を避けたい人のために陸路の迂回路があった。「佐屋街道」あるいは「姫街道」という。堀川を「尾頭橋」で、庄内川を「万場」で渡る。佐屋宿から川舟に乗って3里下って「桑名宿」に至る。

佐屋街道G
佐屋街道H

 佐屋街道の南に八熊通りが走っている。現在はこちらの方が発展していて道幅も広い。堀川に架かる橋も堂々としている。「住吉橋」という。江戸時代の七橋には含まれていない。八熊通りは国道29号・名古屋―弥富線の、名古屋市内の名称である。かつて存在した八熊村の名称を引き継いだものであろう。
 交通量が増えて道路拡幅を考えたとき、既存の街道には商店や民家が建て並んでいて移転は難しい。近くにバイパスとして新しい道路を造るのが常套である。八熊通りが堀川と交差するのが「住吉橋」である。型式は名古屋市内では珍しい「ラーメン橋台橋」、3連アーチの美しい外観が特徴である。このデザインは、関東大震災の復興橋梁として都市河川に多く採用されたものという。

佐屋愛道I

桜橋と伝馬橋

 江戸時代、東西の主要道路は広小路か伝馬町であり、菅原町という細い通り(今は桜通り)には橋がなく、中橋か伝馬橋へ迂回するしかなかった。昭和12年に名古屋汎太平洋博覧会が開催されるに当たって、名古屋駅が笹島から北へ移転した。その正面から東へ伸びる道路として整備されたのが桜通りであり、堀川に架かる橋が「桜橋」である。

桜橋G

 「伝馬」とは、宿場をつなぐ馬のことである。飯田街道は泥江が起点で、伝馬町を通って八事へ向い、足助・稲武を経て信州・飯田までつながっている。美濃路は熱田から発し、本町通りを伝馬町筋で西に曲がって泥江から北上する。
 泥江の交差点は7本の道の出入り口で、戦前までは信号のないロータリー(今で言うラウンドアバウト)であった。現在の名古屋駅のあたりに馬車屋があり、馬がたくさん居たという。堀川の船便や鉄道輸送もあり、物流の中心地であった。
 「伝馬橋」も五条橋と同じで、清洲越しで運ばれた。当時は、長さ11間5尺(約22m)の板橋で、高欄には擬宝珠が付いていた。現在のものは大正9年(1920)に架け替えられた。単純RCアーチ橋としては、中部地方では最古期のものである。橋の畔には材木商などが集まっていた。現在は街園になっている。
 
伝馬橋G

外堀の御園橋と県立図書館

 かつて栄に「県立図書館」があった。現在の「オアシス21」の場所である。高校生や受験生の「勉強室」があり、多くの若者が足繁く利用していた。私はあまり使ったことはないが、玄関を入った直ぐのホールに「防人(さきもり)」の木彫があったことを覚えている。今どこにあるのだろう?
 平成4年(1992)、隣の「旧栄公園」内に「愛知県芸術文化センター」が整備された。それに伴い、「愛知県文化会館」はその役目を終える。「美術館」と「ホール」は、拡張されて芸文センター内に整備されたが、「図書館」は名古屋城内に移転された。三の丸の西北角である。(前回のマップ参照)

御園橋G - コピー

 外堀を渡るのは「御園橋」である。県立図書館は、かつて「御園門」のあった所にある。一階は広いロビーになっていて、喫茶コーナーで買ったコーヒーを飲みながら閲覧することもできる。大きなガラス窓から、間近に迫る土塁の巨木が目に入ってくる。栄のときとは一味違う読書室である。
 御園橋は、明治44年(1911)に完成したが、今のような欄干に修景されたのは平成2年のことである。市内唯一の明治期の鋼橋(単純鈑桁)で、リベット仕上げの橋としては我が国でも最古級といえる。かつては橋の下を瀬戸電が走っていた。
 石垣の角に文化財の説明版が立っている。この地が「大原幽学」の生誕地であるという。幽学は江戸時代後期の農政学者、農民指導者。下総国香取郡長部村(現在の千葉県旭市)を拠点に、天保9年(1838年)に「先祖株組合」という農業協同組合を創設した。世界で初の試みという。

御園橋H - コピー

筋違橋と西北隅櫓

 「筋違橋」を“すじちがいばし”と読んでいたので、宿場町などで見る「枡形」のような形状と思っていた。雁木(がんぎ=ぎざぎざ)のように直角に曲がっていると。しかし読みは“すじかいばし”、「はすかい」の意味である。そういえば、建物の壁に補強材として入れる「筋交い」と同じ発音である。
 ネットで調べると、同じ名の橋が大阪にも東京にも、また鎌倉にもある(あった)ことが分かった。川(堀)に対して斜めに架かる橋を呼ぶ時の、標準語?なのであろう。費用を考えれば川と直角にすれば、最短距離で架橋することができる。はすかいに橋を架けるのには、それなりの事情があったのだろう。

筋違橋G

 名古屋城の西北端、お濠に沿って北へ向かう道路に架かっている。東北から流れてきた堀川が、斜めに流れているので、橋を「はすかい=筋違い」に架ける必要が生じたのだろう。現在の橋は、昭和8年(1933)に完成した。方杖ラーメン橋という形式、戦前のものは珍しいという。
 現在の名古屋城では、水の入ったお濠はあまり見られない。水面の向うに白亜の櫓が見える。「西北隅櫓」(重要文化財)という。「清洲櫓」とも呼ぶ。名古屋城築城の折、清州を町ごと移転(清洲越し)したが、その時に清洲城(2019・5・1参照)の「小天守」を移築したと伝えられている。

季節通信192テッポウユリ



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 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
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