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常滑市の篭池古窯
名鉄常滑線・大野町駅から東へ3kmほど走り、自然林と竹藪とが混交するところにヒッソリとした階段をようやく見つけた。小さな看板があるけれど、なかなか見つけることが出来なかったのである。階段を登りきったすぐにフェンスと上屋に守られた 「篭池古窯」 があった。
篭池3号窯と9号窯が2基並んで横たわっている。知多半島は中世陶器の一大生産地で群を成して分布しており、総数1000基を越えると推測されている。この常滑市久米字篭池にも10数基があったといわれている。

この古窯は、斜面にトンネルを掘り抜いて造られた 「窖窯 (あながま) 」 という構造である。手前 (下) から焚口・燃焼室・分焔柱と続き、焼物を置く焼成室があって煙出しを経て地上に至るものである。焼成室を被っていた天井の部分は陥没して存在しないが、分焔柱は見事に残っている。
この地域では、大甕の生産が盛んであったが、ここでも大半の製品が大甕であったものと考えられている。窯が造られたのは鎌倉時代、13世紀前半と推定されている。昭和36年に愛知県の史蹟に指定された。


篭池3号窯と9号窯が2基並んで横たわっている。知多半島は中世陶器の一大生産地で群を成して分布しており、総数1000基を越えると推測されている。この常滑市久米字篭池にも10数基があったといわれている。

この古窯は、斜面にトンネルを掘り抜いて造られた 「窖窯 (あながま) 」 という構造である。手前 (下) から焚口・燃焼室・分焔柱と続き、焼物を置く焼成室があって煙出しを経て地上に至るものである。焼成室を被っていた天井の部分は陥没して存在しないが、分焔柱は見事に残っている。
この地域では、大甕の生産が盛んであったが、ここでも大半の製品が大甕であったものと考えられている。窯が造られたのは鎌倉時代、13世紀前半と推定されている。昭和36年に愛知県の史蹟に指定された。


東山植物園の窯跡
東山植物園大温室の東を左に折れると、それまでの洋風庭園が一変して和風の庭になる。まず也有園、奥池、その畔に 「合掌造りの家」 があり、その奥は 「日本庭園」 と呼ばれている。この辺りから谷間がだんだん狭くなってくる。順に沼・渓流・池・滝へと登っていき、山間部ならどこにでも見られるような自然風景が演出されている。
その最上流の 「滝」 の隣に杉皮葺きの小屋が建っていて、その中に古い 「登り窯」 (穴釜) が横たわっている。これは、この庭園が整備された昭和47年に発見されたものである。

鎌倉時代に築かれたというこの窯には、東山古窯跡群 H-101号窯 という名が付けられた。窯の周辺からは、皿や壷などの陶器 (須恵器など) が大量に出土して、今も大切に保管されている。焼き物を作るには、良質な粘土と燃料となる薪、そして水が必要であり、この地はそれを充分に満たしていたのである。

東山公園一帯は、猿投山山麓に広がる 「猿投山古窯群」 に連なっていて、多くの古窯が発掘されている。この地域で発生した窯業は、さらに良質な粘土を求めて、北は瀬戸へ、南は常滑へと発展していくのである。この遺跡で貴重なことは、窯の天井部分がわずかではあるが残っていたことである。写真で下方が焚き口、上方が煙出し口で、煙出し口近くに天井を見ることができる。

その最上流の 「滝」 の隣に杉皮葺きの小屋が建っていて、その中に古い 「登り窯」 (穴釜) が横たわっている。これは、この庭園が整備された昭和47年に発見されたものである。

鎌倉時代に築かれたというこの窯には、東山古窯跡群 H-101号窯 という名が付けられた。窯の周辺からは、皿や壷などの陶器 (須恵器など) が大量に出土して、今も大切に保管されている。焼き物を作るには、良質な粘土と燃料となる薪、そして水が必要であり、この地はそれを充分に満たしていたのである。

東山公園一帯は、猿投山山麓に広がる 「猿投山古窯群」 に連なっていて、多くの古窯が発掘されている。この地域で発生した窯業は、さらに良質な粘土を求めて、北は瀬戸へ、南は常滑へと発展していくのである。この遺跡で貴重なことは、窯の天井部分がわずかではあるが残っていたことである。写真で下方が焚き口、上方が煙出し口で、煙出し口近くに天井を見ることができる。
