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名古屋港の人造石護岸
50年前、植物園の日本庭園を設計している時には、トレーシング・ペーパーに鉛筆で図を書いていた。ゼロックスもなく、青色のコピー機の時代である。久しぶりに、図面をトレース(原図の上に薄紙を当てて写すこと)した。引き出しの奥から「オストリッジ・ペーパー」(懐かしい)を探し出して!!
名古屋港の名港管理組合の入り口に、「人造石」の発掘展示があり、その説明版に古い護岸の断面図が添付されている。写真を撮ってきたのでブログに掲載しようと考えたが、汚れもあってハッキリ見ることができないのである。そこで、昔の腕を揮ってトレース作業に挑んだという次第である。

この人造石の野外展示は、建設工事にともない掘削現場から出土したものの一部である。旧2号地(現ガーデンふ頭)の両側護岸として明治36年(1903)に建設されたという。断片ではあるが、今も石との接着はビクともしていない。
「人造石」は、石灰と種土(花崗岩の風化した土)に水を加えて練り、叩き固めたものである。碧南の服部長七が考案したことから、「長七たたき」とも呼ばれる。貴重な土木遺産であるので、このブログに何度も登場している。例えば、四日市旧港の「潮吹き防波堤」(2013・7・2)や瑞浪市の「牛牧閘門」(2021・12・23)などである。今も現役で使用されている。


名古屋港の名港管理組合の入り口に、「人造石」の発掘展示があり、その説明版に古い護岸の断面図が添付されている。写真を撮ってきたのでブログに掲載しようと考えたが、汚れもあってハッキリ見ることができないのである。そこで、昔の腕を揮ってトレース作業に挑んだという次第である。

この人造石の野外展示は、建設工事にともない掘削現場から出土したものの一部である。旧2号地(現ガーデンふ頭)の両側護岸として明治36年(1903)に建設されたという。断片ではあるが、今も石との接着はビクともしていない。
「人造石」は、石灰と種土(花崗岩の風化した土)に水を加えて練り、叩き固めたものである。碧南の服部長七が考案したことから、「長七たたき」とも呼ばれる。貴重な土木遺産であるので、このブログに何度も登場している。例えば、四日市旧港の「潮吹き防波堤」(2013・7・2)や瑞浪市の「牛牧閘門」(2021・12・23)などである。今も現役で使用されている。


岐阜市「加納城跡」
岐阜市というと、岐阜城を中心とした一つの町を思い浮かべるが、かつて加納町という町と合併してできた町である。加納は、中山道の宿場町で、加納城の城下町でもあった。今も宿場の面影が残り、お城は明治になって廃城となったが、わずかに石垣は残っている。
JR高山本線・岐阜駅の南側一帯が旧加納の町で、名鉄本線にも「加納駅」がある。中山道の宿場の様子や建築的に歴史的価値のある旧町役場については《2014年5月23日》のブログに掲載した。城跡の本丸跡の広場や石垣は国の史跡に指定され、公園として利用されている。

この地には古くからお城があったが、本格的に築城されたのは関ヶ原の戦いの後である。岐阜城を本拠とした織田氏(信長の孫)が追放され、城も廃城となった。その代わりとして慶長7年(1602)に加納城が築城され、家康の娘婿が入城した。その後城主は何家か変わったが、城は明治維新まで続いた。
城跡の一角に古風な門柱が残っている。表札を見ると「岐阜大学教育学部付属・岐阜市立加納小学校」と記してある。建設されたのは、明治30年ごろと考えられている。地元では「赤門」と呼ばれて親しまれており、平成7年に「岐阜の宝100選」に選ばれている。(写真は2014年に撮影)
JR高山本線・岐阜駅の南側一帯が旧加納の町で、名鉄本線にも「加納駅」がある。中山道の宿場の様子や建築的に歴史的価値のある旧町役場については《2014年5月23日》のブログに掲載した。城跡の本丸跡の広場や石垣は国の史跡に指定され、公園として利用されている。

この地には古くからお城があったが、本格的に築城されたのは関ヶ原の戦いの後である。岐阜城を本拠とした織田氏(信長の孫)が追放され、城も廃城となった。その代わりとして慶長7年(1602)に加納城が築城され、家康の娘婿が入城した。その後城主は何家か変わったが、城は明治維新まで続いた。
城跡の一角に古風な門柱が残っている。表札を見ると「岐阜大学教育学部付属・岐阜市立加納小学校」と記してある。建設されたのは、明治30年ごろと考えられている。地元では「赤門」と呼ばれて親しまれており、平成7年に「岐阜の宝100選」に選ばれている。(写真は2014年に撮影)
大垣城石垣「大洪水点」の刻み
大垣の地は、揖斐川が運んできた砂礫が堆積した地形である。扇状地のようでもあり、かつて濃尾平野が海であった時代には三角州であったかも知れない。とにかく水の豊富な町であり、各所に湧水や自噴井戸がある。また大垣城の水堀も含めて、川や水路の多い町でもある。
大垣城の天守閣石垣の角に「刻み線」の入った石がある。「点水洪大」と文字も刻まれている。大正時代に記されているので、右から読んで「大洪水点」の意味である。手前に石碑も立っていて、「明治二十九年大洪水点」とある。建てられたのは大正12年になってからである。

過去に大洪水が何度もあった。戸田氏鉄公治世の慶安3年(1650)に大雨による大被害が出た。城の上から見ると、岐阜から養老まで一面の海であったという。氏鉄は、山の植林や乱伐禁止などの治山にも努めたという。
慶安以上の大水害は明治29年に発生した。その時の水位が石垣に刻まれた目印である。後世の人たちに、二度と悲惨な目に遭ってほしくないとの思いであろう。東北の津波到達点も含めて全国に、災害の記録を残す石碑などが数多く残っているという。先人の教えを、自分の防災に活かす知恵が必要と思う。

大垣城の天守閣石垣の角に「刻み線」の入った石がある。「点水洪大」と文字も刻まれている。大正時代に記されているので、右から読んで「大洪水点」の意味である。手前に石碑も立っていて、「明治二十九年大洪水点」とある。建てられたのは大正12年になってからである。

過去に大洪水が何度もあった。戸田氏鉄公治世の慶安3年(1650)に大雨による大被害が出た。城の上から見ると、岐阜から養老まで一面の海であったという。氏鉄は、山の植林や乱伐禁止などの治山にも努めたという。
慶安以上の大水害は明治29年に発生した。その時の水位が石垣に刻まれた目印である。後世の人たちに、二度と悲惨な目に遭ってほしくないとの思いであろう。東北の津波到達点も含めて全国に、災害の記録を残す石碑などが数多く残っているという。先人の教えを、自分の防災に活かす知恵が必要と思う。

名古屋城の「加藤清正像」
名古屋城も、熊本城に負けず劣らぬ美しい城である。石垣の武者返し (上に行くほど急こう配になる) は、敵を寄せ付けないための実用から造られたが、美観的にも優れている。名古屋城の普請は、多くの外様大名(20家)が命じられたが、天守閣の石垣は加藤清正がその任に当たったという。
天守閣東にある本丸搦手枡形の石垣の中に、たたみ十畳敷きもある巨大な石が嵌めこまれている。ここの分担(帳場割り)は黒田長政であるが、あまりに大きい石なので石積みの名手・加藤清正が運んだと言い伝えられていて、「清正石」 と呼ばれている。

普請の中心的な人物ということもあってか、城内2か所に清正の銅像が建っている。ひとつは二の丸庭園近く、大きな石の上で槍と扇を持った姿である。もう一つは正門前の広場、天守閣を背景に床几に座った像である。城内に掲げられている銅像はこの2体のみであることに、私は違和感を感じている。“なぜ清正なのだろう?”
城郭に設置される銅像は、築城した人や城主が普通であろう。名古屋城の築城を命じたのは徳川家康であり、初代藩主は家康の9男・義直である。三河の出の家康より、尾張中村出身の清正の方を “名古屋人” は好むのかもしれないが、歴史の事実は大切にしなければと、いつも思ってしまう。
◆追 記◆
豊臣秀吉の生誕地、中村区の中村公園・豊国神社東隣に 「妙行寺」 というお寺がある。山門の柱には、「加藤清正公誕生之霊地」と記した看板が設置されている。二人は近所に生まれた幼馴染であったのだ。このお寺の境内に、名古屋城正門前のものにそっくりな銅像が立っている。ここなら全く違和感はない。

天守閣東にある本丸搦手枡形の石垣の中に、たたみ十畳敷きもある巨大な石が嵌めこまれている。ここの分担(帳場割り)は黒田長政であるが、あまりに大きい石なので石積みの名手・加藤清正が運んだと言い伝えられていて、「清正石」 と呼ばれている。

普請の中心的な人物ということもあってか、城内2か所に清正の銅像が建っている。ひとつは二の丸庭園近く、大きな石の上で槍と扇を持った姿である。もう一つは正門前の広場、天守閣を背景に床几に座った像である。城内に掲げられている銅像はこの2体のみであることに、私は違和感を感じている。“なぜ清正なのだろう?”
城郭に設置される銅像は、築城した人や城主が普通であろう。名古屋城の築城を命じたのは徳川家康であり、初代藩主は家康の9男・義直である。三河の出の家康より、尾張中村出身の清正の方を “名古屋人” は好むのかもしれないが、歴史の事実は大切にしなければと、いつも思ってしまう。
◆追 記◆
豊臣秀吉の生誕地、中村区の中村公園・豊国神社東隣に 「妙行寺」 というお寺がある。山門の柱には、「加藤清正公誕生之霊地」と記した看板が設置されている。二人は近所に生まれた幼馴染であったのだ。このお寺の境内に、名古屋城正門前のものにそっくりな銅像が立っている。ここなら全く違和感はない。

伊賀上野城の石垣
伊賀上野城は、伊賀盆地の中ほどにある標高約180mの丘の上に築かれている。北・西・南の3方を川に囲まれた要害の地である。もともとはお寺の伽藍があったが、織田の家臣・筒井氏が城塞の大改修を行い、合わせて城下町の建設も行った。
江戸時代になって、藤堂高虎が伊賀・伊勢の領主となった。高虎は、大坂方への備えとして城郭を拡張、特に西方に高い石垣を巡らせた。ただし5層の天守閣は、慶長17年(1612)に襲った大暴風のため、建設途中に倒壊してしまった。その3年後の元和元年には、大坂夏の陣により豊臣氏が滅んでしまったので、天守閣は実現しないまま江戸時代を終えた。(写真は昭和初期に造った模擬天守)

昭和42年に、お城は国の史跡に指定され、近隣一帯は上野公園として整備された。芭蕉を顕彰する「俳聖殿」や「芭蕉翁記念館」、「伊賀流忍者博物館」などがあり、観光地としても利用されている。
築城の名手・藤堂高虎が築いた石垣は高さが30m近くもあり、日本一の高さを大坂城と競っている。その一部が危険になったのか、積み直し工事が行われていた(10年ほど前に撮影)。形の異なる石一つひとつにナンバーが張り付けられていて、元通りの石垣に戻す作業である。

江戸時代になって、藤堂高虎が伊賀・伊勢の領主となった。高虎は、大坂方への備えとして城郭を拡張、特に西方に高い石垣を巡らせた。ただし5層の天守閣は、慶長17年(1612)に襲った大暴風のため、建設途中に倒壊してしまった。その3年後の元和元年には、大坂夏の陣により豊臣氏が滅んでしまったので、天守閣は実現しないまま江戸時代を終えた。(写真は昭和初期に造った模擬天守)

昭和42年に、お城は国の史跡に指定され、近隣一帯は上野公園として整備された。芭蕉を顕彰する「俳聖殿」や「芭蕉翁記念館」、「伊賀流忍者博物館」などがあり、観光地としても利用されている。
築城の名手・藤堂高虎が築いた石垣は高さが30m近くもあり、日本一の高さを大坂城と競っている。その一部が危険になったのか、積み直し工事が行われていた(10年ほど前に撮影)。形の異なる石一つひとつにナンバーが張り付けられていて、元通りの石垣に戻す作業である。

坂本の里坊と穴太積み
琵琶湖の西岸、比叡山の麓に坂本の町はある。この門前町には約50の里坊が集まっている。里坊とは、山上の延暦寺での修行を終えた老僧が余生をおくる坊舎で、いずれの里坊も見事な庭園をもつ。左の写真はその中でも最も広大な「旧竹林院」境内、曲水のある回遊式庭園である。
赤い個性的な形の鳥居は、山王信仰の総本山「日吉大社」の「山王鳥居(合掌鳥居)」である。文献によれば日吉神社は、崇神天皇7年に日枝の山(ひえのやま:後の比叡山)から移されたという。平安京に都が遷ると、この地が京の鬼門に当たることから、災難除けの社として崇敬されるようになった。

里坊の外周は、自然石を積み上げた石積みに囲われている。この石積みは「穴太積み(あのうづみ)」と呼ばれるもので、穴太の里に住む石垣職人「穴太衆」が手掛けたものである。自然石(野面の石)を巧みに組み合わせ、それぞれの石が噛み合うことによりビクともしない堅固な構造となる。
穴太衆は、古墳の築造などを行っていた石工の末裔ともいう。寺院の石積みなどを行っていたが、安土城の石垣を施工したことで信長や秀吉の城郭づくりを任されるようになり、江戸時代初頭まで多くの城郭の石垣を築いた。構造的に合理的なだけでなく、大小の石が描く模様は景観的にも美しいと思う。

赤い個性的な形の鳥居は、山王信仰の総本山「日吉大社」の「山王鳥居(合掌鳥居)」である。文献によれば日吉神社は、崇神天皇7年に日枝の山(ひえのやま:後の比叡山)から移されたという。平安京に都が遷ると、この地が京の鬼門に当たることから、災難除けの社として崇敬されるようになった。

里坊の外周は、自然石を積み上げた石積みに囲われている。この石積みは「穴太積み(あのうづみ)」と呼ばれるもので、穴太の里に住む石垣職人「穴太衆」が手掛けたものである。自然石(野面の石)を巧みに組み合わせ、それぞれの石が噛み合うことによりビクともしない堅固な構造となる。
穴太衆は、古墳の築造などを行っていた石工の末裔ともいう。寺院の石積みなどを行っていたが、安土城の石垣を施工したことで信長や秀吉の城郭づくりを任されるようになり、江戸時代初頭まで多くの城郭の石垣を築いた。構造的に合理的なだけでなく、大小の石が描く模様は景観的にも美しいと思う。

鐘楼の玉石積
信長街道に面して、善敬寺 (ぜんきょうじ) というお寺がある。山門を入ってすぐ左に立派な鐘楼があるのだが、その台座となる石積みが素晴らしい。大振りな玉石を、楕円形の4面を削って (はつって)、頑丈に組み合わせている。
多くは花崗岩だと思われるが、中には極端に白っぽいものや、鉄錆のような色をした石も混ざっている。中央の一番目立つところに、五弁の花を模ったようなシンボリックな石がはめ込まれている。住職の指示によるものか、石工のこだわりなのか分からないが、石垣作りの心意気が伝わってくる。

玉石は川を流された割れ石が、長年に亘る水の力で角が取れ、丸くなったものと認識している。小さな砂利やソフトボール大の玉石なら有りうると思うのだが、これほど大きな石が最下流部のこの地まで到達するのだろうか? それとも上流部の玉石を舟などで運んで来たのであろうか?
堂卯を巡る細い通路に板石が貼ってある。途中、緩やかに方向を変えるように曲げて造られている。茶庭などの庭造りに使われる手法で、眺めの気分の変化を狙っており、設計者の美意識を感ずることができる。境内に夏の到来を告げるノウゼンカズラが、橙色の花を咲かせていた。

多くは花崗岩だと思われるが、中には極端に白っぽいものや、鉄錆のような色をした石も混ざっている。中央の一番目立つところに、五弁の花を模ったようなシンボリックな石がはめ込まれている。住職の指示によるものか、石工のこだわりなのか分からないが、石垣作りの心意気が伝わってくる。

玉石は川を流された割れ石が、長年に亘る水の力で角が取れ、丸くなったものと認識している。小さな砂利やソフトボール大の玉石なら有りうると思うのだが、これほど大きな石が最下流部のこの地まで到達するのだろうか? それとも上流部の玉石を舟などで運んで来たのであろうか?
堂卯を巡る細い通路に板石が貼ってある。途中、緩やかに方向を変えるように曲げて造られている。茶庭などの庭造りに使われる手法で、眺めの気分の変化を狙っており、設計者の美意識を感ずることができる。境内に夏の到来を告げるノウゼンカズラが、橙色の花を咲かせていた。

浜松城の石垣
浜松城は、徳川家康が壮年期 (29歳~45歳) を過ごしたお城である。この間、織田信長と同盟を結び、「姉川の戦い」 「長篠の戦い」 などに参戦して着実に力をつけていった。ただ、31歳の時に武田信玄と戦った 「三方ヶ原の戦い」 では惨敗し、馬にまたがってこの城まで逃げ帰ったという。そのときの憔悴しきった顔を、生涯の戒めとするために肖像画がとして残している。
城郭は、現在、浜松公園となっている。天守閣は、昭和33年 (1958) に再建されたものであるが、石垣は戦国時代そのままに残されている。

石積みは 「野面積み」 という工法で行なわれている。加工された切り石でなく、自然石をうまく組み合わせながら積み上げていく。ゴツゴツして隙間だらけなので、一見弱そうに見えるけれど、築造してから400年以上経った現在でも、ビクともしないほどに堅固である。下の図 ( 現地の説明版より転用) のように、しっかりした 「根石」 や石の間に挟む 「間石」 「飼石」 、および大量の 「裏込 (栗石) 」 により強度を保っているのである。

城郭は、現在、浜松公園となっている。天守閣は、昭和33年 (1958) に再建されたものであるが、石垣は戦国時代そのままに残されている。

石積みは 「野面積み」 という工法で行なわれている。加工された切り石でなく、自然石をうまく組み合わせながら積み上げていく。ゴツゴツして隙間だらけなので、一見弱そうに見えるけれど、築造してから400年以上経った現在でも、ビクともしないほどに堅固である。下の図 ( 現地の説明版より転用) のように、しっかりした 「根石」 や石の間に挟む 「間石」 「飼石」 、および大量の 「裏込 (栗石) 」 により強度を保っているのである。

岡崎城の堀と石垣
“5万石でも岡崎さまは、お城下まで船がつく” と古謡にも謡われたように、矢作川支流の菅生川 (現在は乙川)は、城の真下まで帆掛け舟が往来していた。菅生川は、また、伊賀川とともに外堀の役割も果たしていた。
築城されたのは康正元年 (1455)のこと。その後、家康の祖父・松平清康がこの地を本拠地とした。天文11年 (1542) この地で生誕した家康は、桶狭間の戦いの後、岡崎城を本城として三河武士を率いつつ戦国武将の道を歩んでいく。

戦国時代のお城であるが、様式は平城である。城の縄張りは (平面構成)、天然の要害ともいえる菅生川を活用しながら、お堀や石垣、土塁を配して複雑な形をした曲輪を形づくっている。
明治になって徳川の時代が去ると、城郭の大部分は取り壊されてしまった。しかし、堀や石垣は今も往時の姿を留めている。現在は桜の名所となっており、多くの市民が花見を楽しんでいる。今年は 「家康没後400年」 に当たり、一年を通じて各種のイベントが開催されている。

築城されたのは康正元年 (1455)のこと。その後、家康の祖父・松平清康がこの地を本拠地とした。天文11年 (1542) この地で生誕した家康は、桶狭間の戦いの後、岡崎城を本城として三河武士を率いつつ戦国武将の道を歩んでいく。

戦国時代のお城であるが、様式は平城である。城の縄張りは (平面構成)、天然の要害ともいえる菅生川を活用しながら、お堀や石垣、土塁を配して複雑な形をした曲輪を形づくっている。
明治になって徳川の時代が去ると、城郭の大部分は取り壊されてしまった。しかし、堀や石垣は今も往時の姿を留めている。現在は桜の名所となっており、多くの市民が花見を楽しんでいる。今年は 「家康没後400年」 に当たり、一年を通じて各種のイベントが開催されている。

長篠城の土塁跡
天正3年 (1575)、天下を狙う甲斐の武田勝頼は長篠城を大軍勢で取り囲んだ。武田勢は1万5千人、守るは徳川方の武将・奥平信昌率いるわずか5百人である。長篠城は、寒狭川 (現豊川) と大野川 (現宇連川) が合流する断崖絶壁、まさに自然の要塞といえる地形にある。また、鳥居強右衛門のエピソードが語るように守兵の意識も高く、織田・徳川連合軍到着まで何とか持ち堪えた。この後、かの有名な「設楽が原」での鉄砲による戦いが始まるのである。

長篠城には城郭が残っていない。この戦いの後、信昌は 「新城」 に新しい城をつくり、ここを廃城としたのである。現在本丸跡は芝生地となっていて、わずかに土塁や石垣、堀が残るばかりである。上の写真は、本丸と二之丸の間の堀と土塁である。この奥に飯田線が走っていて、その向こうに宇連川が流れている。(下の縄張図は南が上になっており、右のマップとは反対ですのでご注意ください)


長篠城には城郭が残っていない。この戦いの後、信昌は 「新城」 に新しい城をつくり、ここを廃城としたのである。現在本丸跡は芝生地となっていて、わずかに土塁や石垣、堀が残るばかりである。上の写真は、本丸と二之丸の間の堀と土塁である。この奥に飯田線が走っていて、その向こうに宇連川が流れている。(下の縄張図は南が上になっており、右のマップとは反対ですのでご注意ください)

旧天守閣の礎石
“尾張名古屋は城でもつ” と永く謳われるように、名古屋城天守閣はまさに名古屋のシンボルである。しかし、現在見られる天守閣は、昭和34年に鉄筋コンクリートで再建されたもので、もともとの天守閣は戦災で焼けてしまった。昭和20年5月14日の名古屋大空襲は、名古屋の街を焼き、国宝の天守閣も本丸御殿も焼き尽くしてしまったのである。

天守閣の北に、大きな石が碁石のように並べられている。これは旧天守閣の礎石で、巨大な建築を支えるために地階の地盤上に置かれていたものである。焼け跡に残されていたが、天守閣再建に当たってこの地に移された。天守閣と本丸御殿が残っていれば、姫路城と二条城に匹敵する存在であり、世界遺産に登録されること間違いなしであろうと思うと、つくづく残念である。


天守閣の北に、大きな石が碁石のように並べられている。これは旧天守閣の礎石で、巨大な建築を支えるために地階の地盤上に置かれていたものである。焼け跡に残されていたが、天守閣再建に当たってこの地に移された。天守閣と本丸御殿が残っていれば、姫路城と二条城に匹敵する存在であり、世界遺産に登録されること間違いなしであろうと思うと、つくづく残念である。

能登西海岸 滝ノ澗の石積み
福浦灯台を見たあとで海岸に沿って走っていると、家々の隙間から不思議な景色が見える。豪壮な住宅 (別荘?) の石垣が、とても美しいのだ。近寄って見ようと思うのだが、細い道が迷路のようになっているので、到着するのにかなりの時間がかかった。

六角形の白い切石が、目地の隙間に剃刀の刃も入らぬほどの精緻さで積み上げられている。さらに、少し膨らみのある “おもて面” が、何ともいえない優しい雰囲気を醸し出しているのだ。石の一つに、制作の年月と石工の名前が掘り込んである。よほど精魂込めて造ったのであろうし、また誇りにも思っているのであろう。

石積みの上、住宅の庭と思しき広場に立派な石碑が立っていて、この石垣建設の由来が記してある。それによると 「滝ノ澗・玉藻前」 との表題があり、以下次のような文章である。「明治のはじめ、帆船で遠く樺太島へ航行、サケ・マス漁場を開拓した二津屋水野彌平が、明治・大正の二代にわたって築いた石垣から海を眺める・・・」
ちなみに、この石積みのことは、観光案内書にも記載が無く、帰ってからネットで調べても見当たらなかった。


六角形の白い切石が、目地の隙間に剃刀の刃も入らぬほどの精緻さで積み上げられている。さらに、少し膨らみのある “おもて面” が、何ともいえない優しい雰囲気を醸し出しているのだ。石の一つに、制作の年月と石工の名前が掘り込んである。よほど精魂込めて造ったのであろうし、また誇りにも思っているのであろう。

石積みの上、住宅の庭と思しき広場に立派な石碑が立っていて、この石垣建設の由来が記してある。それによると 「滝ノ澗・玉藻前」 との表題があり、以下次のような文章である。「明治のはじめ、帆船で遠く樺太島へ航行、サケ・マス漁場を開拓した二津屋水野彌平が、明治・大正の二代にわたって築いた石垣から海を眺める・・・」
ちなみに、この石積みのことは、観光案内書にも記載が無く、帰ってからネットで調べても見当たらなかった。

三重県紀北町の防風石垣
熊野灘に面する紀伊長島は漁業の町である。今年3月に紀勢自動車道が開通したことにより、名古屋からも、より身近な存在となった。その海に 「赤羽川」 が注いでいる。平成16年の大雨により、この川の流域が大洪水の被害にあったことは記憶に新しい。
この地域の山裾には、農家が点在している。その家の周りに一風変わった石垣が積まれている。普通、石垣は法面の段差解消のために積まれるものと考えていた。ところが、この地の石積みは前も後ろも同じ高さの地盤である。土地の人に聞いてみると、台風の時などとても風当たりが強いので、家を守るために石垣を造るのだという。

地図で見ると、確かに農家の裏山は大台ケ原の峰々に連なっている。大台ケ原、大杉谷、尾鷲といえば、日本で一番雨の多いところとして知られている。熊野灘から吹上げる風は、よほど強烈なのであろう。
クレーンなどのない時代に積上げられた石垣の石は、人の手で持ち上がるほどの大きさである。その中に、お地蔵さまの組込まれた石積みを見つけた。なんとも、心あたたまる風景である。

この地域の山裾には、農家が点在している。その家の周りに一風変わった石垣が積まれている。普通、石垣は法面の段差解消のために積まれるものと考えていた。ところが、この地の石積みは前も後ろも同じ高さの地盤である。土地の人に聞いてみると、台風の時などとても風当たりが強いので、家を守るために石垣を造るのだという。

地図で見ると、確かに農家の裏山は大台ケ原の峰々に連なっている。大台ケ原、大杉谷、尾鷲といえば、日本で一番雨の多いところとして知られている。熊野灘から吹上げる風は、よほど強烈なのであろう。
クレーンなどのない時代に積上げられた石垣の石は、人の手で持ち上がるほどの大きさである。その中に、お地蔵さまの組込まれた石積みを見つけた。なんとも、心あたたまる風景である。
