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鐘楼の玉石積

 信長街道に面して、善敬寺 (ぜんきょうじ) というお寺がある。山門を入ってすぐ左に立派な鐘楼があるのだが、その台座となる石積みが素晴らしい。大振りな玉石を、楕円形の4面を削って (はつって)、頑丈に組み合わせている。
 多くは花崗岩だと思われるが、中には極端に白っぽいものや、鉄錆のような色をした石も混ざっている。中央の一番目立つところに、五弁の花を模ったようなシンボリックな石がはめ込まれている。住職の指示によるものか、石工のこだわりなのか分からないが、石垣作りの心意気が伝わってくる。

鐘楼G

 玉石は川を流された割れ石が、長年に亘る水の力で角が取れ、丸くなったものと認識している。小さな砂利やソフトボール大の玉石なら有りうると思うのだが、これほど大きな石が最下流部のこの地まで到達するのだろうか? それとも上流部の玉石を舟などで運んで来たのであろうか?
 堂卯を巡る細い通路に板石が貼ってある。途中、緩やかに方向を変えるように曲げて造られている。茶庭などの庭造りに使われる手法で、眺めの気分の変化を狙っており、設計者の美意識を感ずることができる。境内に夏の到来を告げるノウゼンカズラが、橙色の花を咲かせていた。

鐘楼マップ

浜松城の石垣

 浜松城は、徳川家康が壮年期 (29歳~45歳) を過ごしたお城である。この間、織田信長と同盟を結び、「姉川の戦い」 「長篠の戦い」 などに参戦して着実に力をつけていった。ただ、31歳の時に武田信玄と戦った 「三方ヶ原の戦い」 では惨敗し、馬にまたがってこの城まで逃げ帰ったという。そのときの憔悴しきった顔を、生涯の戒めとするために肖像画がとして残している。
 城郭は、現在、浜松公園となっている。天守閣は、昭和33年 (1958) に再建されたものであるが、石垣は戦国時代そのままに残されている。

浜松城マップ

 石積みは 「野面積み」 という工法で行なわれている。加工された切り石でなく、自然石をうまく組み合わせながら積み上げていく。ゴツゴツして隙間だらけなので、一見弱そうに見えるけれど、築造してから400年以上経った現在でも、ビクともしないほどに堅固である。下の図 ( 現地の説明版より転用) のように、しっかりした 「根石」 や石の間に挟む 「間石」 「飼石」 、および大量の 「裏込 (栗石) 」 により強度を保っているのである。

浜松城A

岡崎城の堀と石垣

 “5万石でも岡崎さまは、お城下まで船がつく” と古謡にも謡われたように、矢作川支流の菅生川 (現在は乙川)は、城の真下まで帆掛け舟が往来していた。菅生川は、また、伊賀川とともに外堀の役割も果たしていた。
 築城されたのは康正元年 (1455)のこと。その後、家康の祖父・松平清康がこの地を本拠地とした。天文11年 (1542) この地で生誕した家康は、桶狭間の戦いの後、岡崎城を本城として三河武士を率いつつ戦国武将の道を歩んでいく。

岡崎A

 戦国時代のお城であるが、様式は平城である。城の縄張りは (平面構成)、天然の要害ともいえる菅生川を活用しながら、お堀や石垣、土塁を配して複雑な形をした曲輪を形づくっている。
 明治になって徳川の時代が去ると、城郭の大部分は取り壊されてしまった。しかし、堀や石垣は今も往時の姿を留めている。現在は桜の名所となっており、多くの市民が花見を楽しんでいる。今年は 「家康没後400年」 に当たり、一年を通じて各種のイベントが開催されている。

岡崎マップ

長篠城の土塁跡

 天正3年 (1575)、天下を狙う甲斐の武田勝頼は長篠城を大軍勢で取り囲んだ。武田勢は1万5千人、守るは徳川方の武将・奥平信昌率いるわずか5百人である。長篠城は、寒狭川 (現豊川) と大野川 (現宇連川) が合流する断崖絶壁、まさに自然の要塞といえる地形にある。また、鳥居強右衛門のエピソードが語るように守兵の意識も高く、織田・徳川連合軍到着まで何とか持ち堪えた。この後、かの有名な「設楽が原」での鉄砲による戦いが始まるのである。

長篠城B

 長篠城には城郭が残っていない。この戦いの後、信昌は 「新城」 に新しい城をつくり、ここを廃城としたのである。現在本丸跡は芝生地となっていて、わずかに土塁や石垣、堀が残るばかりである。上の写真は、本丸と二之丸の間の堀と土塁である。この奥に飯田線が走っていて、その向こうに宇連川が流れている。(下の縄張図は南が上になっており、右のマップとは反対ですのでご注意ください)

長篠城マップ

旧天守閣の礎石

 “尾張名古屋は城でもつ” と永く謳われるように、名古屋城天守閣はまさに名古屋のシンボルである。しかし、現在見られる天守閣は、昭和34年に鉄筋コンクリートで再建されたもので、もともとの天守閣は戦災で焼けてしまった。昭和20年5月14日の名古屋大空襲は、名古屋の街を焼き、国宝の天守閣も本丸御殿も焼き尽くしてしまったのである。

天守閣マップ

 天守閣の北に、大きな石が碁石のように並べられている。これは旧天守閣の礎石で、巨大な建築を支えるために地階の地盤上に置かれていたものである。焼け跡に残されていたが、天守閣再建に当たってこの地に移された。天守閣と本丸御殿が残っていれば、姫路城と二条城に匹敵する存在であり、世界遺産に登録されること間違いなしであろうと思うと、つくづく残念である。

天守閣礎石縮小


能登西海岸 滝ノ澗の石積み

 福浦灯台を見たあとで海岸に沿って走っていると、家々の隙間から不思議な景色が見える。豪壮な住宅 (別荘?) の石垣が、とても美しいのだ。近寄って見ようと思うのだが、細い道が迷路のようになっているので、到着するのにかなりの時間がかかった。

能登石積み3

 六角形の白い切石が、目地の隙間に剃刀の刃も入らぬほどの精緻さで積み上げられている。さらに、少し膨らみのある “おもて面” が、何ともいえない優しい雰囲気を醸し出しているのだ。石の一つに、制作の年月と石工の名前が掘り込んである。よほど精魂込めて造ったのであろうし、また誇りにも思っているのであろう。

能登石積み5

 石積みの上、住宅の庭と思しき広場に立派な石碑が立っていて、この石垣建設の由来が記してある。それによると 「滝ノ澗・玉藻前」 との表題があり、以下次のような文章である。「明治のはじめ、帆船で遠く樺太島へ航行、サケ・マス漁場を開拓した二津屋水野彌平が、明治・大正の二代にわたって築いた石垣から海を眺める・・・」 
 ちなみに、この石積みのことは、観光案内書にも記載が無く、帰ってからネットで調べても見当たらなかった。

能登石積みマップ

三重県紀北町の防風石垣

 熊野灘に面する紀伊長島は漁業の町である。今年3月に紀勢自動車道が開通したことにより、名古屋からも、より身近な存在となった。その海に 「赤羽川」 が注いでいる。平成16年の大雨により、この川の流域が大洪水の被害にあったことは記憶に新しい。
 この地域の山裾には、農家が点在している。その家の周りに一風変わった石垣が積まれている。普通、石垣は法面の段差解消のために積まれるものと考えていた。ところが、この地の石積みは前も後ろも同じ高さの地盤である。土地の人に聞いてみると、台風の時などとても風当たりが強いので、家を守るために石垣を造るのだという。

紀北町石積み

 地図で見ると、確かに農家の裏山は大台ケ原の峰々に連なっている。大台ケ原、大杉谷、尾鷲といえば、日本で一番雨の多いところとして知られている。熊野灘から吹上げる風は、よほど強烈なのであろう。
 クレーンなどのない時代に積上げられた石垣の石は、人の手で持ち上がるほどの大きさである。その中に、お地蔵さまの組込まれた石積みを見つけた。なんとも、心あたたまる風景である。 

紀北町マップ
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ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:「園長さんのガーデンライフ」
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