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千本松原と長良川大橋

 「木曽三川国営公園」のあるこの地区は、かつて木曽・長良・揖斐の大河川が合流し、水害の絶えない土地であった。「宝暦の治水」は、ドラマや演劇で観るような薩摩藩士の犠牲的な努力により、宝暦4~5年(1754~1755)に行われた。
 明治時代の改修工事により、宝暦当時の堤防は大きく形を変えたが、薩摩藩士たちの植えた「千本の日向松」は今も残っている。中には200年を越える老松もあり、昭和15年に「油島千本松締切堤」として国の史跡に指定されている。

千本松原G

 木曽・長良・揖斐の三川を県道佐屋多度線が跨ぐのは、「立田大橋」「長良川大橋」「油島大橋」である。他の2橋は普通の桁橋であるが、真ん中の長良川大橋は「鋼ローゼ橋」で、銀色のアーチが目立っている。長さ472m、幅員7mである。
 国営公園センター地区に立つ展望タワーに登ると360度視界が開け、水郷地帯の全貌を見ることができる。三川の蛇行の姿、県道の橋の様子、締切堤と松並木。春には見事なチューリップ花壇を見ることができる。ちなみにタワーの高さは65mである。

マップ千本松原

船頭平閘門と木曽川文庫

 木曽川下流域は、木曽・長良・揖斐の3河川が入り乱れて流れていました。物流は舟が主体であり、犬山・岐阜・大垣などは、3河川から伊勢湾を経て名古屋や伊勢と結ばれていました。しかし、明治期の「三川分流工事」によりそれぞれ独立した川になりました。
 これにより洪水は大きく防げるようになりましたが、船便は一々河口を回らなければ隣の川へ行けなくなりました。そこで明治27年(1894)、立田村船頭平地内に閘門を設置することが企画されました。木曽川と長良川の水位差1mを調整して舟を通す装置です。

閘門G

 明治35年に完成し、大正初年までは年間2万隻以上の船が通過しました。木曽川下りの筏も多く、年間1万枚を超えていたといいます。しかし、昭和8年・9年に尾張大橋・伊勢大橋が完成すると陸上交通が発達し、船や筏は減少しました。閘門の現在は、漁船やレジャーボートに使用されています。
 閘門の近くに「木曽川文庫」が昭和62年に設置されました。緑青色の屋根と、レンガ壁の洋風建物です。ここには木曽三川に関する図書や研究論文が収蔵・保存されています。太古の昔より水との戦いを繰り広げてきた「川の歴史」を学ぶ場として、専門家や一般の人に利用されています。

閘門マップ

ぼう僧川水門と野鳥観察小屋

ぼう僧川下流域は、かつての氾濫原や低平地が広がっている。しかし昭和50年以降、周辺部のベッドタウンとして宅地開発が急速に進んできた。静岡県の太平洋沿岸は、東海沖地震あるいは南海トラフ大地震の際には高い津波が予測されており、大きな被害が出ることが恐れられている。
昭和54年から(1979)この地域の津波対策が進められ、平成9年に「ぼう僧川水門」が建設された。水門の型式は「鋼製シェル構造スライドゲート(巻上時ローラー)」という。6門のゲートがあり、それぞれにガラス張りの操作室が備えられている。
 
水門G

 上流側は道路になっていて、操作タワーごとに管理用の鉄の扉が付いている。この入口は洪水時の避難通路を兼ねている。扉の中にはラセン階段があり、避難者は屋上まで登るのである。広場にも看板が立っていて、避難方法が分かりやすく示してある。
 水門周辺は公園になっていて、ハマボウの群落があることは先回ご報告した。その中心地に木造の高床式建物が建っている、これは「野鳥観察小屋」で、水面や中洲に生息する野鳥を観察することができる。カワウを始め、ヒドリガモやカンムリカイツブリ、ユリカモメなどを見ることができる。

水門H

季節通信210カゴノキ


寒狭川頭首工と寒狭橋

 寒狭川は、段戸山(1152m)を水源として南に流れ、長篠で宇連川と合流したのち豊川(とよがわ)と名を変え、豊橋に至って三河湾に注ぐ。合流地点の少し上流に「寒狭川頭首工」がある。ここで堰止めた水は、5.3kmの導水路を通って大野頭首工の上流に送られる。
 寒狭川の方が流域面積が広いので、豊富な雨水を宇連川に移して有効利用する仕組みになっている。寒狭川頭首工の完成は比較的新しく、平成9年である。型式はフィックスタイプ全可動堰で、ローラーゲートを2門もつ。毎秒1.3トンの水を取水することができる。

寒狭川マップ

 「寒狭橋」は、鳳来寺道と対岸とを結ぶ橋である。プラットトラスという型式で、鉛直材は圧縮で斜材は引張材として働く(ハウトラスはその反対)。ちなみに鳳来寺道とは、東海道を御油あたりで枝分かれして、鳳来寺を目指す道である。そのまま北上して足助・香嵐渓に至る。
 寒狭橋の建設年次は、県と市とのデータに齟齬がある。愛知県の台帳によれば昭和5年(1930)となっているが、新城市の資料では昭和39年(1964)と記されている。検証のしようがないが、本ブログの過去の掲載例(約120件)と比較すると、昭和5年ごろの橋と類似していると思う。

寒狭川G


美濃赤坂の杭瀬川

 中山道は京都を出発し、彦根・関ヶ原から美濃赤坂・大垣を経て加納(岐阜)へ向かう。(東海道本線が通っているので紛らわしいが、東海道はもっと南・桑名から亀山方面を通る道である)その重要な関所「不破の関」(現在の関ヶ原)は古代「壬申の乱」(672)以来、東西勢力の激突地であった。
 慶長5年(1600)9月15日、天下分目の「関ヶ原の合戦」が行われた。その前日の14日、合戦の前哨戦とも言える「杭瀬川の戦い」が勃発する。大垣城を拠点と構える石田三成に対し、徳川家康は一歩京に近い「美濃赤坂の岡山」(現在は勝山という)に陣を置いたのである。

杭瀬川マップ

 杭瀬川を挟んだ小競り合いであったが、西軍が勝利を収めた。翌日、三成は城を出て関ヶ原に陣を張る。その後の戦況は、小説やドラマなどで知る通りである。(来年の大河ドラマは「徳川家康」という)城攻めより野戦を得意とする家康の作戦に、三成が誘い出されてしまったのである。
 杭瀬川は濃尾平野の最西端を流れる一級河川である。現在は細い流れであるが、元は大河川であった。洪水により流れが変わって、今は揖斐川が本流となっている。近くに「金生山」という石灰岩の山があり、採掘が行われている。水が綺麗なので、源氏ボタルが生息している。

杭瀬川G

季節通信190ホタルブクロ


弥富の六門樋門

 木曽三川の氾濫に対してこの地域の人たちは、堤防で住居や田畑を囲う「輪中」という方法で防衛してきた。そのために、水を引き入れる「用水杁」と、流し出す「排水杁」という水門を造る必要があった。このことは、2020年8月21日の「立田輪中悪水樋門」のところで説明した。
 その近くに、筏川を堰き止める「六門樋門」があるのを知り取材した。「筏川」とは、江戸時代に木曽桧を筏に組んで流していたところからの命名である。明治35年(1902)に立田輪中の悪水を鍋田川に排出する目的で「悪水樋門」を築造したが、ほとんど排水出来ないことが判明した。

弥富G

 そこで、廃川となっていた筏川に悪水を排出することとなり、明治39年に筏川に接するところに「六門樋門」が築造された。かつては階段を降りたところに狭い橋(足場)があり、堰き止める板を人力で運んだのであろう。現在は樋門の上が、弥富市総合体育館へ渡る「六門橋」として利用されている。
 木曽川から入り組んだところにプレジャーボートの繋留場があり、現代版のゲートがある。船溜まりに流れ込む水路には、古くてすでに廃止となっている水門が残っている。水を制御しなければ安全を保てない土地柄である。近くに「水郷公園」があり、丘の上に伊勢湾台風の記念碑が築かれていた。

弥富マップ

中川橋と日光川水閘門

 中川橋は、2018年5月9日にご報告した。この時はまだ建設途中であったが、現在は完成しているので再度取材した。この橋は、国道23号が分岐して金城ふ頭へ向かう道路が中川運河を渡る橋である。長さ48mのアーチ橋である。
 昭和5年(1930)に完成しており、名古屋市内では最も古い「鋼鉄製アーチ橋」である。90年近く経過して老朽化が著しかったので、架替えが検討されたが、「景観的にも歴史的にも貴重である」として車線を増やして再利用することとなった。いろいろな角度から写した橋の姿を見ていただきたい。

日光川マップ

 日光川水閘門も、平成30年(2018)年に移転再整備が完成した。この地域は全国でも最大の「海抜ゼロメートル」地域であり、この水門は防災の要になっている。「水閘門」という意味が分からなかったが、現地を見て「水門」と「閘門」であることが分かった。閘門は船が通過するゲートである。
 旧水閘門の運用開始は昭和37年(1962)である。伊勢湾台風による災害の3年後に完成した。運用から60年近く経って老朽化したことと、巨大地震による津波が懸念されることから改築が進められたのである。少し上流で、古い水閘門の撤去工事が行われていた。(下右の写真)

日光川G

季節通信191ヤマユリ

新川水門と新川樋門

 油ヶ淵は元々北浦と呼ばれる海の入り江だったが、慶長8年(1603)に幕府により新矢作川が開削されると、海から断ち切られて湖沼となってしまった。ところが出口の水路がなかったので、周辺の低地は水害に悩まされた。そのため、鷲塚方面を開削して「蜆川(ばいがわ)」をつくり新矢作川へ排水した。
 その後、この地域の新田開発が進んで蜆川だけの排水では足らなくなったので、宝永元年(1704)に新たに「新川」を開削して衣浦湾に流すようになった。それでも豪雨のときには冠水が発生するので、昭和10年に「高浜川」を整備して現在の形になっている。

新川水門G

 昭和34年の伊勢湾台風では、高浜川や新川を逆流した高潮により、油ヶ淵上流の長田川や半場川などが氾濫し大きな被害となった。そこで、昭和38年に高浜川・新川に水門や樋門を整備して洪水を防いでいる。新川を取材した。衣浦湾近くに「新川水門」、油ヶ淵近くに「新川樋門」がある。
 新川水門は5基の鋼製ゲートがあり、平常時は全開しているが洪水時には全部閉じられる。新川樋門の方は少し複雑な構造で、上下に動く「主ゲート」と水平に両開きする「マイターゲート」で構成されている。上流の水位が高いときには両方とも開いて排水する。海側の水位が高くなると、主ゲートは開いているがマイターゲートは閉じられる。洪水時には主ゲートも閉じられて、高潮の逆流を防ぐのである。

季節通信160子持ち桂


ガラ紡績の遺構(水車と堰堤)

 矢作川の支流・乙川は三河山間部から西に流れて矢作川に合流する。乙川のさらに支流の男川近くに大きな水車があった。残念なことに数年前に老朽化のために撤去されて今はない。直径6.4mもあり、県内最大級であったという。現在も基盤となる石積みや回転のための軸石は残っている。
 かつて岡崎は、「ガラ紡績」の盛んなところであった。ガラ紡績とは、明治の初めに我が国で発明された機械による紡績技術である。「つぼ」と呼ばれる円筒形の容器にワタを詰め、「つぼ」を回転させながらワタを細く引き出して糸を作る方式である。手紡ぎに近い素朴な風合いの糸ができる。

ガラ紡績マップ

 機械の回転には水車が利用された。岡崎周辺は、三河木綿の産地なので原料が入手しやすい。また、乙川・男川・青木川など、大型の水車を動かすのに十分な水量をもつ川も立地に好条件であった。川沿いに紡績工場が建ち並んでいたが、明治中ごろをピークに近代的な機械に圧迫され衰退してしまった。
 乙川の北を流れる青木川流域にも、ガラ紡績の工場が建ち並んでいた。水車をもつ粗壁の建物が多かったが、今はほとんど見ることができない。ただ、鬼祭りで知られる名刹「滝山寺」の前面に、取水のための三段の堰堤が残されるのみである。機械を回すガラガラという騒音は、昔話になってしまった。

季節通信 ワタ


牛牧(五六)閘門

 岐阜城から10kmほど下流に長良大橋が架かっている。そこに長良川の支流、五六川と犀川が合流している。五六川下流の牛牧・祖父江地区は土地が最も低く、海抜5~6mにすぎない。そのため、大雨の度に長良川から五六川への逆流による浸水で村々は苦しんでいた。
 寛延2年(1749)、幕府直轄地の代官に赴任してきた川崎平右衛門は、この悲惨な状況に心を痛め、牛牧の地に閘門を造ろうと考えた。長い間幕府に働きかけ、ついに宝暦7年(1757)に閘門の完成をみることとなる。これによって川沿いの村々は水害から守られたのである。

牛牧閘門G

 村人たちは、川崎代官の偉徳を偲んで閘門の近くに神社を建てた。「川崎神社」と称する。今も閘門を渡った直ぐの路傍に、小さな祠が祀られている。現在の閘門は明治40年(1907)に再建されたもので、江戸時代の姿を見ることはできない。
 閘門には2基の扉がある。上部の両脇と、下部の中央に階段が設けられている。洪水時には、人の手で扉を閉めるのであろう。構造は石張りであるが、石と石の間は「長七たたき」で固められている。この方法は、コンクリート工法が普及する以前に利用されてきたものである。

季節通信147冬支度


忠節の特殊堤と今泉排水機場

 忠節橋(2017・11・01参照)の上流に面白い欄干がある。これは、歩道からの転落防止を兼ねているが、実は護岸堤防の一部なのである。真ん中の写真を見てもらうと、コンクリートの柱にスリットが入っているのが見て取れる。「特殊堤」というこの構造物は、何気なく見ているとその秘密は分からない。
 実はこれは、大雨のときに「たたみ」を挟むことにより、洪水を防ぐ装置なのである(昭和15年に完成)。忠節橋までの間、延々と続いているところを見ると、近隣の多くの住民が自宅の畳を剥がしてここへ持ち寄ったのであろう。長良川の洪水被害の厳しさと住民の知恵を感ずることができる。

忠節の特殊堤マップ

 忠節橋の500mほど下流に、今泉排水機場がある(昭和8年完成)。長良川の堤防の陸地側に水門と排水ポンプ室が設置されている。この地域一帯は地盤が低く、大雨が降ると長良川の水位の方が高くなってしまう。いわゆる天井川である。
 川の水が陸地側に逆流しないように水門を閉鎖すると、陸側に溜まった水が排水できなくなる。排水機場の大きなポンプで、水を汲み上げることにより水害を防ぐ装置である。近所の住民の方に話しを聞いた。かつて、床下浸水や自動車が水に浸かる被害に遭ったが、今は大丈夫だと話していた。

今泉排水機場G

犬山頭首工・ライン大橋

 犬山城の少し下流に「堰」がある。「犬山頭首工ライン大橋」という。「頭首工」とは、河川から用水へ水を取り入れる低いダムのことを言う。この堰の前後は重要な交通路ともなっていて、下流側に車道(操作橋)、上流側に歩道(管理橋)が並行して走っている。延長は420mである。
 頭首工は、愛知県側の木津用水・宮田用水、岐阜県側の羽島用水へ取水するために建設された。完成は昭和37年(1962)である。頭首工には合計10基のゲートがある。用途は3種類ある。土砂吐2門・可動堰6門・魚道2門である。

犬山頭首工G

 3つの用水はそれぞれ古い歴史をもつ。古くは平安の昔から、濃尾平野を流れる小さな川を利用していた。江戸時代になって木曽川左岸に「御囲堤」ができると、小さな川は締め切られて木曽川からの取水ができなくなった。そのため堤防に杁(取水のための水門)を造り、用水に流して田を灌漑したのである。
 「宮田用水」は慶長3年(1608)に原型ができ、江南や一宮に水を引いた。「木津用水」は慶安元年(1648)に開削され、小牧や春日井を流れている。岐阜県側も水不足に苦しめられてきた。「羽島用水」は比較的新しく、完成は昭和7年(1932)である。3つの用水の延長は45km、付随する用水網を合計すると260kmにもなるという。犬山頭首工は3つの用水の合同取水のための堰である。

犬山頭首工マップ

季節通信143カイノキ

国営木曽三川公園

 「都市公園」は、もともと地方公共団体(県や市町)が設置・管理するものであったが、昭和40年代の公園面積拡大の機運の中で、国も設置できるように法改正が行われた。「国営公園」であり、性質によって2つに分類される。
 ひとつは、国家的な記念事業や我が国固有の文化遺産の保存・活用を目的とした公園である。東京の「昭和記念公園」や奈良の「飛鳥記念公園」などがある。もう一つは都府県の区域を超える広域な公園である。この地域には、長野の「アルプスあずみの公園」や、愛知・岐阜・三重にまたがる「木曽三川公園」がある。

木曽三川G

 木曽三川公園は、計画面積6100haという全国で最も広大な公園である。木曽・長良・揖斐川流域の3つの地域に分かれている。最上流部の「三派川地区」では、淡水魚の水族館「河川環境楽園」や一宮の「138タワーパーク」などが開園している。下流域の「河口地区」には、ハスやスイレンの咲く「船頭平河川公園」や桑名の「カルチャービレッジ」などがある。
 3つの川が合流する地点に展開する「中央水郷地区」は、最も早くに開園した。この流域の歴史・風土・自然を紹介し、65mの展望タワーをもつ「水と緑の館」を中心に、大花壇や芝生広場が広がっている。春のチューリップは特に有名で、関西地区からも観光バスが来るという。

季節通信6花菖蒲
◆「花菖蒲展」は、5月29日~6月6日までです。

柳川のクリーク

  佐賀平野は、九州最大の平野である、筑後川が運んできた土砂が大きな三角州をつくった。連なる有明海は遠浅で、干潟で有名である。堰き止めて海水をかい出せばすぐに干拓地ができる地形である。揚子江流域から渡って来た弥生の民は、絶好の移民地と思ったことだろう。 
 佐賀平野には、今も、網の目のようにクリークが走っている。クリークは、揚子江下流域の生産文化である(2020・01・30の「三角州のクリーク」参照)。日本海を渡って来たボートピープル・弥生の農民は佐賀平野に辿り着き、運河を穿って水田を広げていったのだろう。クリークは交通運輸から水の補給まで、最大のインフラである。

柳川G

 柳川は佐賀県だと思っていた。それは間違いで,矢部川を境に福岡県に属すのである。柳川城の掘割を巡る柳川舟下りでは、クリークの風景を味わうことができる。使用する舟はドンコ舟という独特のもので、かつては水田作業に使われていた。生活のために川面に降りる階段が、そこここにある。
 「御花」と称する料亭があった。柳川藩主の歴史を伝える国指定名勝「立花氏庭園」である。現在は当時の姿そのままに、食事や宿泊ができる料理旅館になっている。
 この地で生まれた北原白秋は、『水郷柳川』の随想の中で、“あの眼の光るのは 星か、蛍か、鵜の鳥か 蛍ならばお手にとろ お星様なら拝みませう”と詠っている。

季節通信102黒松の傷痕

大府市の「明神樋門」

 境川は、三好カントリ―あたりに源を発し、尾張と三河の“境”を流れて衣浦湾に注ぐ。延長約40kmの二級河川である。五箇村川は、豊明市が源流で、境川と並行して流れて大府市で境川に合流する。元々は、江戸時代に灌漑用水を排水するために開削された人口の川である。延長約6km。
 境川には、尾張東部の丘陵地や三河の平地から流れ込む支流がたくさんある。そのひとつ、大府北東部の宝池から流れる川を明神川という。五箇村川は、天井川でもある境川より低い位置を流れているので、明神川を直接境川に流すためには立体交差する必要があった。

修正

 立体交差のための樋門は、元は木製であったが、たびたび洪水により破損するので、明治34年ごろ人造石工法により改修された。この工法は碧南出身の服部長七が考案したもので、「長七たたき」ともいい、コンクリートが導入されるまで広く使用された。
 下左の写真は五箇村川が明神川の下を流れる水門、中央は明神川が境川に注ぐ水門(明神川逆水樋門)である。「たたき」というのは、消石灰と真砂(サバ土)とを水で練り、“たたき固める”ことからいう。明神樋門の人造石は初期の段階で施工されたもので、貴重な近代化遺産のひとつである。

明神樋門G

立田輪中悪水樋門

 木曽・長良・揖斐三川の最下流部は、流路が安定せず絶えず河道が変化していました。上流から流れてきた土砂が堆積しているところは自然堤防といい、人々はそこで耕作を始めました。古くは平安時代(今から1200年前ごろ)から始まったといいます。
 しかし絶えず水害に見舞われるため、集落を堤防で囲む「輪中」を造りました。輪中の内部にたまる生活排水のことを「悪水」と呼びます。輪中の上流部には、水を取り入れる「用水杁」を、下流部には悪水を排出するための「排水杁」が設けられました。「杁」とは、水門のことです。

立田水門G

 「立田輪中悪水樋門」は、そうした排水のために明治34年(1901)に完成しました。干潮時に水位が下がるのを利用して鍋田川に排水する仕組みでしたが、入る水の方が多くて当初の役割を果たしませんでした。そこで、全国的にも珍しい取水のための、「逆潮用水樋門」として使われるようになりました。
 その後、鍋田川の川底が上がり、水中塩分が多くなったことから取水もできなくなってしまいました。今は、産業遺産として公園内に保存されています。上流側(上の写真)には水門があり、上部に「明治三十四年竣工」の文字が、下流側(下の写真)には「立田輪中悪水樋門」の文字が刻まれています。

五条川の「のんぼり洗い」

 鯉のぼりの糊を洗い落す「のんぼり洗い」は、岩倉五条川の初春の風物詩である。町を歩くといたる所に鯉のぼりをモチーフにしたデザインが現れる。市内には、五条川を渡る橋が20本以上架かっているが、それぞれがユニークな名前とデザインをもっている。
 ペーブメントに緋鯉と真鯉が描かれた橋があり、また他の橋では、鋳鉄の欄干が鯉のぼりの透かし彫りになっている。驚いたことに、道路に点々と現れるマンホールの蓋まで「のんぼり洗い」と「桜」のデザインになっていた。

のんぼり洗いG

 のんぼり洗いの行われる豊国橋近く、岩倉街道に面して老舗の「旗屋」がある。屋根の上に恵比寿・大黒の木彫(?)が座っていて、その間にカラフルな看板が架かっている。看板には、国旗・鯉のぼり・幕・幟(のぼり)・印半纏製造と記されている。嘉永時代(1850年ごろ)から代々世襲しているという。
 手染めの鯉のぼりや武者のぼり(絵のぼり)は、色を付けない部分を防染糊でガードして染色する。木曽川を水源とする五条川の冷たくて美しい水が、染め物の発色を良くするのであろう。満開の桜の下でのこの行事は、まだ一度も見たことがないので、来春には必ず来たいと思う。


半纏A

岩倉五条川の桜

 コロナの影響でブログの取材を控えていました。その間、過去に訪れた旅行先、中部圏を越えた各地の「土木文化」をご紹介してきました。しかし、その“ネタ”もついに切れてしまいました。そろそろコロナの危険性も薄くなってきましたので(充分に用心しながら)写真撮影に出かけることにしました。
 これまでに発信した記事の一覧表を見ますと、岐阜・三重・静岡は、わりと隈なく歩き回っています。ところがむしろ、身近な名古屋近郊の町が欠けていることに気づきました。いつでも行けると考え、油断していたように思います。

 そこで、まず岩倉市へ行ってみようと考えました。私の毎々利用する「地下鉄鶴舞線」は、そのまま「名鉄犬山線」に乗り入れていますので、赤池から乗り換えなしで岩倉まで行くことができます。便利な場所なのに、これまで五条川の桜の時に一度訪れただけの気がします。
 今回は、岩倉駅近くにある市役所で自転車を借りて町歩きをしました。面積10㎢と全国で10番目に狭い市域ですし、ほとんど平坦で坂がないのでスイスイと回ることができました。レンタサイクルは観光振興会の運営で、料金はコピー代の10円のみ、担当の方もとても親切に対応してくれました。

五条川桜A

 岩倉は、木曽川が形成した自然堤防の上に発達した集落です。縄文時代から人が住みつき、弥生時代の遺跡も発掘されています。鎌倉・室町の時代には荘園として発展し、戦国時代には織田伊勢守の居城として尾張の中心的な存在でもありました。3台の山車(だし)や円空仏など、いろいろな文化財も豊富です。
 その中でも「五条川の桜」がもっとも有名でしょう。川の中で鯉のぼりの糊を洗い落とす「のんぼり洗い」は、岩倉の春の風物詩になっています。川沿いの桜の古木に面白いものを見つけました。寿命の短いソメイヨシノの後継樹として若木を植えるのでなく、「やご」(根元からの萌芽)を育てようとする取り組みです。桜の木を大切にしようと思う市民の心が伝わる光景です。

五条川桜マップ

チェスキー・クルムロフの護床工

 チェスキー・クルムロフには、ハンガリーのブダペストからオーストリアのウィーンを経て、プラハへ向かう途中で立ち寄った。歩いていると気付かないが、案内看板の立体地図を見ると町の形がよく解る。名の通り、S字に蛇行する川に立地した町である。
 右の図で、右側が王宮を中心とした街、左は教会を囲むように発達した住宅地である。ひとたび戦争となり外敵が押し寄せると、戦士だけでなく住民もろとも滅ぼされてしまうような中世のヨーロッパでは、街そのものを外壁や水面で囲い込む必要があったのであろう。

チェスキー マップ2

 海外旅行をすると、必ず朝早く目が覚めてしまうので、ゴソゴソして迷惑にならないよう「朝散歩」をすることにしている。狭い町なので、1時間ほどですべてを見て歩くことができた。川幅いっぱいに堅固な石造りのダムがあった。急流の激しい水流を穏やかにするために設けられた「護床工」である。
 ヴルタヴァ川としてはまだ上流の位置にあり、アルプスの急斜面も近いので大雨になると激しく流れるのであろう。普段は穏やかな流れであり、水も澄んで美しいので、水辺には生活の香りが色濃く漂っている。レストランのベランダにはハンギング・バスケットが飾られ、住宅地の護岸にはバラが植えられていた。

2チェスキーG

三角州のクリーク(運河)

 中国には古くから、「南船北馬」という言葉がある。北部の黄河流域は草原や丘陵が多く、穀物は畑作の麦である。輸送や移動には“馬”が使われる。これに対して南部の揚子江地域は三角州が多く、運河が張り廻されていて交通手段は“船”である。畑に代って田、麦の代わりに米を作っている。
 北方の国境には、遊牧民族からの攻撃に備えるために「万里の長城」を造った。南部では網の目のようにクリーク(水路)が造られてきた。また、隋の時代(7世紀ごろ)には、北京と杭州を繋ぐ延長2500kmにもおよぶ大水路、「京杭(けいこう)大運河」が完成している。

クリークG

 三角州のクリークは、稲作の民の移動により、日本にも佐賀平野などに伝わっている。今でも福岡県柳川では、クリークを使って舟遊びが楽しめるようになっている。運河の岸辺には民家が立ち並び、水面に向かって階段をつくるなど、水を生活に取り組んでいる様子を見ることができる。
 上と下左の写真は、上海から北へ向かって走る新幹線の中から撮影した。降り立ってクリークの畔を歩くことは出来なかったが、揚子江下流部の水田風景を見ることができた。下右は、北原白秋のふるさと柳川の「水郷川下り」である。

クリークH

木曽川の太田橋と化石林

 岐阜県太田宿近く、木曽川を渡る「太田の渡し」は、中山道の難所のひとつに数えられていました。太田橋が完成し、渡し船が役割を終えたのは昭和2年のことです。太田橋とその下流の今渡ダムについては、2017年10月20日にこのブログでご紹介しましたのでご覧ください。
 今回は、河原まで下りて写真を撮りましたので、違うアングルでの橋の姿になりました。加えて新しい発見がありました。太田橋下流一体に広がる「化石林」を見ることができたのです。化石林とは、太古の時代に森林の樹木が土砂などに埋まり、化石(珪化木)となったものです。

化石林マップ

 平成6年夏、異常渇水のため木曽川の水位が下がった時に、立ったままの化石木が両岸で425本も見つかりました。これだけ大規模な化石林は全国でも初めてで、大変貴重な発見となりました。化石林のある地層は瑞浪層群といい、約1900万年前のものといわれています。
 化石になった樹木の主な種類は、暖地に自生するアオギリの仲間で、今の日本では見ることができません。川岸の水面近くに、根株部分の化石を見ることができました。下の写真では、白っぽい色をした岩のように見えています。化石をよくよく観察すると、年輪のような模様を見ることができます。

化石林G

新城・作手の分水点

 三河の中央地点、作手(平成17年までは作手村、現在は合併して新城市)に2本の川が流れている。ところが、名前はどちらも「巴川」である。西に向かう方は矢作川につながって、豊田・西尾方面へと流れていく。東へ向かった流れは、豊川に注いで豊橋に至る。
 作手盆地の中央あたりに不思議な標柱が建っていて、「分水点」と記されている。普通、「分水嶺」という言葉はよく耳にする。山の稜線を境に、右は日本海へ、左は太平洋に別れるなどの「嶺(みね)」である。しかし、ここは平らな田圃の真ん中にある。ここで流れが左右に分かれるとは不思議な光景である。

作手分水嶺マップ

 作手盆地は標高550mの高原で、周りを700~800mの山々、本宮山・竜頭山・巴山などに囲まれている。太古にあった大きな湖が干上がって、広大な湿地に化したのだという説がある。少なくとも荘園時代から、水田があったともいわれている。
 東へ流れる巴川のほとりに旭小学校の跡地があり、そこに大きなイチョウの木があって根元に看板が立っていた。とても珍しいもので、「オハツキイチョウ」と呼ばれる変種である。“お葉付き”の意で、葉の先端に「おしべ」と同様のヤク(葯=花粉をつくる)が付いているのである。雄の木では全国に2例しかない貴重な木だとの説明が書かれていた。

作手分水嶺G

木曽川・トンボ池の「聖牛」

 「トンボ池」は、木曽川の本流が取り残されてできた池で、「河跡湖」と呼ばれるものである。西に向かって流れていた木曽川が、南へ向きを変えるあたりの右岸、岐阜県笠松町にある。この池の干上がったところに「聖牛」が設置されている。「ひじりうし」と読む。
 「聖牛」とは、角の生えた牛が寝そべっているような形に見えるところからの命名である。元々は丸太を三角錘に組み合わせるが、ここでは耐久性を考えてコンクリート製の四角い柱を鉄線で縛り付けている。根元は、大きな玉石で支えられている。

聖牛マップ

 この砂防施設は、武田信玄が創案したといわれている。洪水時に上流から流されてきた土砂を、岸側に堆積させることで堤防を守ることができる。江戸時代から盛んに築かれ、山梨県の釜無川・笛吹川や静岡県の天竜川・富士川などに設置されている。木曽川の聖牛は大正13年から昭和13年にかけて設置された。
 現在のトンボ池は本流からかなり離れているので、地盤も安定して大きな樹木が繁茂している。このような水湿地にはヤナギのような水を好む植物が自生する。その中に「アカメヤナギ(マルバヤナギ)」の群生があった。この木は、鶴舞公園のベビーゴルフ場にも2本残っている。ここはかつての「鯱ヶ池」の跡地で、やはり水湿地であった。

聖牛G

長良川の鵜飼

 長良川は、岐阜県郡上の大日ヶ岳に源を発し、下流部で揖斐川と合流して伊勢湾に注ぐ。静岡県の柿田川、高知県の四万十川と並んで日本三大清流といわれている。長良川河口堰を除いて、本流にダムのない川である。
 金華山の麓、岐阜公園に近い川原町に鵜飼の屋形船乗り場がある。先日、大学卒業50年 (古い!!) を記念するクラス会があり、旧友とともに鵜飼見物を楽しんだ。乗船前に、鵜匠による説明を聞き、船内で食事をしながら観賞する。真っ暗な川面に、篝火だけを頼りに鵜匠や鵜の動きを見る。幻想的な眺めである。

鵜飼マップ

 鵜飼は、古代では有効な漁法のひとつで、稲作とともに大陸から伝わったという説がある。長良川の鵜飼は1300年もの歴史があり、時の権力者に保護されてきた。織田信長は 「鵜匠」 という地位を与え、徳川家康はたびたびこの地を訪れて鵜飼を見物したという。
 長良川の鵜飼は、日本で唯一の皇室御用達である。鵜匠は 「宮内庁式部職鵜匠」 に位置づけられ、鵜飼用具一式122点は、国の重要有形民俗文化財に指定されている。長良川堤防の脇に鵜匠の家があり、「鵜小屋」 と看板に書かれた建物があった。

鵜飼G

矢作古川分派施設

 矢作川は、長野県平谷村に端を発し、愛知県の豊田市や岡崎市、安城市や西尾市を流れて三河湾に注ぐ。延長117km、流域面積1830平方km、標高差約1900mの一級河川である。かつては、上流からの木材や下流からの塩などが行き来する、重要な交易路であった。
 戦国時代に入ると、三河の国も織田・今川・松平 (徳川) などの戦国大名が覇権を争う舞台となった。大名たちは領土を拡大するだけでなく、勢力を増大するために領土内の農地開発にも取り組んだ。洪水に悩まされてきた矢作川では、大規模な治水工事も行なわれるようになった。

矢作古川マップ

 安土桃山時代 (1590年ごろ) には、秀吉の命により築堤工事が行なわれ、網上に乱流していた矢作川は徐々に一本化された。しかし、八ツ面山 (やつおもてやま) より下流は、依然として洪水が治まることはなかった。江戸時代になって米津方面に向けて新川が開削され、ようやく水害は防止されるようになった。
 上の写真は新川と古川の分岐地点、手前が古川である。平成28年になって、古川の始点に新たな洪水調整のための施設ができた。「矢作古川分派施設」という。高さ約16m、幅約66mの巨大なコンクリート構造物である。この水門により流量を調節することができるようになり、下流域はより安全な地域となった。

矢作古川G

湯谷の「水車製材所」跡

 豊川の河口部には、上流から流れてきた 「いかだ」 の集積地があり、板や柱に加工する製材所が たくさんあった。明治末になって鉄道が通るようになると材木を陸送できるようになり、山間部にも製材所が設置された。
 湯谷にあった 「東川製材所」 もそのひとつで、明治42年 (1909) に建設されたものである。戦後まもなく工場は焼失したが、水車や石組みが残っているという。赤い吊り橋から眺めると、川中の巨石 「馬の背岩」 の左岸にそれらしい痕跡を見ることができる。

湯谷水車G

 国道151号線から回り込んで近くへ行ってみると、確かに鉄製の大きな水車がわずかに頭だけを見せている。土砂や草に埋もれて全貌を見ることはできないが、水車の直径は5.5m、幅は1.22mもあったとのこと。水の力を利用して、ノコギリを回したのであろう。
 水車の水源は、280mもの上流にあった。小さな堰が今も残っていて、川の端に取水口跡がある。水路はすでに埋め立てられていて、今は 「ささやきの小径」 と呼ぶ散策路になっている。この古い温泉郷には、手筒花火や五平餅、天下の奇祭と言われる 「花まつり」 などの伝統的な文化が息づいている。

湯谷水車H

長良川改修と陸閘

 長良川は昭和初期まで、長良橋下流付近で古川・古々川とともに3筋に分かれていた。大雨になると長良川右岸のこの地域に洪水が押し寄せ、家や田畑を荒らすこと度々であった。そこで、古川・古々川を締め切り、長良川一本にする計画が立てられた。
 工事は昭和8年から始められた。長良橋から下流5.6kmの右岸堤防を平均100m北側に移して築造し、河川幅を広げて水を流れやすくした。幅の広い河川敷には、運動場などが整備されて市民の憩いの場になっている。廃止した両河川の跡には水路を造り、排水機によって鳥羽川の方へ流すこととなっている。

長良川防災G

 安全になったこの地域は、広大な敷地を利用した区画整理により、住みやすい住宅地や学園街として蘇った。シンボリックな国際会議場や、デザインの良い高層ホテルなども設置されている。堤防の一角には、この改修工事の概要を記した看板や、石造りの記念碑が立てられている。
 長良橋上流も昔から洪水には悩まされているようで、右岸堤防沿いに防護のための施設が作られている。家々の河川側には、堤防よりさらに高い玉石積みが延々と整備されている。取り付け道路や家の出入口など玉石積みの切れ目には、「陸閘」 と呼ばれる頑丈な鉄板の扉が設置されている。

長良川防災マップ

飛騨古川の瀬戸川と白壁土蔵街

 高山市を過ぎ、富山に向かってさらに北上すると古川の町に至る。この町は戦国時代、秀吉の命を受けた金森氏が飛騨を統一して増島城を築いたのが始まりで、その城下町を基にしてできた町並みである。高山と同様に、飛騨の匠の手による伝統的な木造建築が軒を連ね、新しい建物も周囲との調和を考えて建てられていて、美しい町並みが保存されている。
 町の真ん中を流れる 「瀬戸川」 は、約400年前に増島城の濠の水を利用して、新田開発のために掘られた用水である。まつり会館や匠文化館のあるまつり広場から東に向かって歩くと、美しい水の流れる水路と、平行して軒を並べる白壁土蔵の街を見ることができる

古川水路マップ

 昔の瀬戸川は、野菜なども洗えるきれいな水流だったが、高度成長の時代に著しく汚れてしまった。しかし今は、町の人たちの活動により美しい水を取り戻している。昭和43年に放流された錦鯉が群れを成して泳ぐ風景は、古川の町のシンボルともなっている。
 水路の所々に、水面まで下りることのできる階段が残っているが、これは洗い物のときに使ったなごりであろう。瀬戸川の南側、造り酒屋や和ろうそく店が軒を並べる本通りにも、幅の狭い水路が走っている。この美しい側溝も御影石で造られており、渡りのための石橋もこだわりの造形を見せている。

古川水路A

日本最古の石(放射性同位元素による年代測定)

 放射性同位元素は、α線などの放射線を放射して別の元素に変わっていく。例えば、「ウラン238」 は最終的に 「鉛206」 になる。このときのウランを 「親元素」 といい、鉛を 「娘元素」 という。
 親元素の数が半分になる時間は一定であり、それを 「半減期」 という。ウラン238の半減期は44億6800万年であるという。この性質を利用して、考古学資料や岩石などの年代を測定する方法を 「放射性同位元素による年代測定法」 という。

最古の石マップ

 岐阜県七宗町の飛騨川は、長年の浸食により岩石が削られて川幅の狭い峡谷になっている。水・岩・森・山が美しいので 「飛水峡」 と呼ばれて観光名所となっている。高山本線・上麻生駅近くの国道41号線から青色のトラス橋を渡った対岸に、日本一古いといわれる岩石がある。
 「上麻生礫岩」 といい、昭和45年 (1970) に発見された。その礫岩中に含まれている片麻岩について放射性同位元素による年代測定を行なったところ日本列島最古・20億年前の石であることが判明した。このことは、学術的に地球誕生や列島形成の過程を知る上で、極めて貴重な要素を含んでいると考えられている。

最古の石A

犬山の鵜飼

 鵜飼は、鵜 (海鵜) を訓練し、鮎などの川魚を捕らせる古代漁法である。日本では1300年もの伝統を誇るという。先だって、犬山の木曽川で見学することができた。鵜舟は舳先にかがり火を焚き、鵜匠と船頭2人 (なか乗りととも乗り) が絶妙なコンビネーションで川を下りながら漁をする。
 鵜匠は手に手縄をつけ、縄が交わらないように巧みな手さばきで10羽ほどの鵜を操る。この日の鵜匠は、この地方初めての女性であった。見学者は、犬山遊園駅近くの乗船場から屋形船に乗り、鵜舟に並走しながら、この歴史絵巻を間近に見ることができる。

犬山鵜飼マップ

 下右の写真 (ブログ「園長さんのガーデンライフ」より転載) は、野生のウである。名古屋港ワイルドフラワーガーデン「ブルーボネット」とガーデン埠頭とを結ぶ、水上バスの船着場で撮影した。名古屋港のこの辺りは、ボラなどの魚が多いため、ウの格好の餌捕り場になっている。朝は数100羽が編隊を組んで飛び回り、午後はグループに分かれて休息している様子が見られる。

犬山鵜飼C

 正月から3回連続で、鳥の話題を掲載しました。「朱雀」 「コウノトリ」 「鵜」 です。
 鳥といえば・・・東山動植物園では、昨年暮れにトリインフルエンザが見つかり、休園を続けてきました。しかし、鳥の隔離や消毒などを行なうことでようやく収拾することができ、この13日から開園できることになりました。動物園を訪れることを楽しみにしている子供たちから、たくさん応援の手紙が寄せられたといいます。

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 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
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