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東京駅

 日本近代建築の父とも称される辰野金吾は、工部大学校(現東京大学工学部)の一期生としてイギリスの建築家ジョサイア・コンドルから建築を学んだ。首席で卒業した彼は、官費留学生としてヨーロッパで幅広く建築を勉強する。帰国後、大学で教育を行いながら多くの建物を設計した。
 「日本銀行本店」「中央停車場(東京駅)」「国会議事堂」3つを手掛けることが目標であったが、そのうち2つ、日本銀行と東京駅の設計は依頼されることができた。東京駅の設計を始めたのは、明治36年(1903)のことであり、足掛け8年を要して完了したのは明治43年になってからである。

東京駅G

 レンガと鉄筋による3階建てで、長さ330m、総面積約9500㎡の豪壮な洋式建築である。南北にそれぞれドーム屋根があり、乗降口となっている。中央の玄関は皇室専用とされ、一般の人が出入りすることはできない。完成・開業は大正3年(1914)である。
 当初の建物は昭和20年(1945)の空襲により大きな被害を受け、その後70年近くは木造八角形の屋根が乗せられていた。昭和の末に、元通りに復元したいとの市民運動が巻き起り、完成したのは平成12年のことである。費用約500億円は、「空中権の売渡し」により捻出したという。
 中央付近に「中央ステーションホテル」の玄関があった。ラグジュアリー(ぜいたく)なホテルなので我々には縁遠いが、利便は最高であり利用率も高いことと思われる。客室数は150室で、駅舎面積の約半分を占めているという。

旧名古屋高等裁判所

 明治になって、日本の司法制度が確立する中で、各地に裁判所が建設された。名古屋では明治11年、丸の内地区に木造の裁判所ができた。大正11年(1922)になって、煉瓦造りの建物が、名古屋控訴院(正式には「名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所庁舎」)として完成する。
 建築様式はネオ・バロック、赤い煉瓦に縁取りは白い御影石、屋根は天然スレートの黒である。中央には緑青色に変色した銅板葺のドームが聳えている。同じころに全国で8か所(宮城・東京・大阪・高松・広島・長崎)の控訴院が出来たが、古い建物が今も残るのは札幌と名古屋だけである。

高裁マップ

 この建物にも危機があった。1970年台になると、高等裁判所(控訴院)の建替え計画が持ち上がったのである。手狭になった裁判所建物を、現地で改築するには旧庁舎は取り壊す必要があるとして、1979年、国は取り壊し撤去を決定する。それに対し、有識者や市民に惜しむ声が高まった。
 名古屋市は新庁舎を現地建替えでなく、官庁街にある公園に移転することを提案し、旧庁舎は保存する方針を希望した。用地が交換され、建物は残されたまま名城公園の一部に編入された。旧庁舎は改修工事が施されたのち国の重要文化財に指定され、現在は市政資料館として再活用されている。
(蛇足ですが・・・都市公園を廃止するには、代替の公園を用意する必要があります。この件は、うまく用地交換ができたので交渉が成立しました。)

季節通信112ネジバナ

知多市岡田の簡易郵便局と防空壕跡

 岡田は曲がりくねった小道と坂の多い町である。木綿蔵の隣に、板張りの洋館がある。「知多岡田簡易郵便局」である。木造二階建て・寄棟屋根・桟瓦葺きで、明治35年(1902)に完成した。現在も使用されているが、瓦斯灯風の街路灯や赤い陶製のポストなど、往時の雰囲気を醸し出している。
 この地に郵便局が初めて出来たのは明治32年のこと。その後、名称変更や移転廃止などを繰り返しながら、平成5年に「知多簡易郵便局」として復活した。簡易郵便局とは、郵政民営化以前に、窓口業務を団体あるいは個人に委託する局をいう。全国に約4000か所あるという。

岡田の郵便局

 坂道の石垣に不思議なものを見つけた。大口径のヒューム管のようだが、排水溝が道路に顔を見せるわけがない。説明の看板があって、戦時中の「防空壕」であることが分かった。昭和18年、本土空襲に備えて、地域住民が自ら掘った壕の入り口である。
 当時は、2か所の口があって、U字型に繋がっていた。度々の名古屋空襲のときには、多くの人々が避難のために中に入ったという。今は入口が閉鎖されているため、中を見ることはできなかった。看板は、「岡田街並保存会」が立てたもので、悲惨な戦争の記憶を風化させないようにとの思いであろう。緑のシダに覆われている。

知多市岡田の「木綿蔵」

 知多市岡田地区は、江戸時代から昭和時代までの風情が色濃く残る町である。坂の多い小道が続き、石垣や古い建物が並んでいる。かつて全国1~2位の生産量を誇った「知多木綿」生産の中心地であった。木綿産業繁栄期には、女工さんたちが3000人も集まっていたという。
 なまこ壁の土蔵と木造寄棟造りの簡易郵便局に挟まれて、堂々とした土蔵造りの建物がある。木造二階建て・切妻屋根に桟瓦葺きの建物は、明治末期から大正初期に建てられた。木綿を収納する倉庫で、荷物を2階へ上げるための滑車や、荷物の梱包をするための広い軒下をもっている。

岡田G

 岡田村は、慶長11年(1606)に3つの村が合併して誕生した。当時から、農作業の合間に女性が木綿を織っていたという。享保年間(1716~35)には、知多木綿は江戸をはじめ全国に販路を広げた。明治になると、動力織機を導入した大量生産の時代に入る。豊田佐吉とも交流があったという。
 戦時中は軍需工場に転用させられたが、戦後は再び輸出産業の花形となった。しかし、昭和40年代になると、周辺国に追い上げられて衰退を余儀なくされている。現在この建物は登録有形文化財に指定され、「岡田街並保存」の中心施設「手織りの里木綿蔵・ちた」として利用されている。館内では、機織りの実演も行なわれていた。

岡田H

季節通信108ワタ


宇治の平等院

 宇治は、京都盆地の東側を縁取る山地にある。平安の時代から貴族の別荘が数多く営まれていた。1000年もの昔に書かれた『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台となった。まさに風光明媚、山紫水明の言葉通りの美しい地域である。
 宇治川は、琵琶湖から流れ出る唯一の河川である。最初は瀬田川と呼び、中流域を宇治川、下って淀川となって大阪湾に注ぐ。宇治のあたりは、京都と滋賀の境に当たる醍醐山地をくの字に曲がるが、峡谷美に富んでいるので「宇治川ライン」とも呼ばれて舟下りの名所になっている。

宇治の平等院G

 藤原道長の子・関白頼通は、永承7年(1052)に末法の世が到来したとして、別荘を寺院に改めることとした。「宇治の平等院」である。朱塗りの柱や梁に瓦屋根が乗る。屋根の両端に金色の鳳凰が羽ばたいている。「鳳凰堂」の名の由来である。
 建築様式は、平安時代の上層住宅の「寝殿造り」である。中央に「主殿」が置かれ、左右に「対屋(たいのや)」が配された左右対称の建物である。前面(南面)には大きな池をもち、舟遊びが行われた。主殿の格子壁に小さな窓があって、ご本尊を外から拝観することができる。

ハマヒルガオ季節通信107

荒子観音寺と円空仏

 地下鉄・高畑駅とあおなみ線・荒子駅の間に荒子公園がある。その南には円空仏で有名な荒子観音寺がある。寺伝によれば創建は古く、天平元年(729)という。その後、場所も移動し、興廃をくり返しながら現在の場所に落ち着いたという。
 山門の西に建つ「多宝塔」は天正5年(1536)に再建された。名古屋市内に現存する最古の建築であり、国の重要文化財に指定されている。本堂は天正4年(1576)前田利家により再建された。利家はもともとこの荒子の土豪で、寺の近くの荒子城を本拠にしていたという。本堂の正面に、利家の家紋「加賀梅鉢」が飾られている。

荒子観音寺

 信長や秀吉に仕えて戦国時代に活躍した利家は、NHK大河ドラマ「利家とまつ~加賀百万石物語~」で人気を博したので、ご覧になられた方も多いと思う。ただ、この荒子の地が登場するのは、ドラマの最初数回だけなのは残念、利家が町づくりに貢献するのも北陸・金沢に限られてしまうのも残念である。
 江戸時代前期の修験僧・円空は、独特の風合いをもつ木彫りの仏像を数多く残した。これまでに発見されたのは5300体と数えられている。北は北海道から、南は奈良県まで全国各地で見つかっているが、愛知県が一番多い。この荒子観音には、全体の4分の1、1255体が発見されている。

季節通信104メタセコイア

大垣城

 関ヶ原の戦いはつとに有名であるが、その前哨戦ともいうべき杭瀬川の戦いや大垣城の攻防はあまり知られていない。関ヶ原の入り口ともいえる大垣の地は、東軍・西軍の勝敗を分ける拠点となる場所である。石田三成はこの城に入城して西軍の本拠とし、全軍の集まるのを待ったのである。
 しかし、東軍・徳川家康の進出があまりにも早かったため、西軍の動揺は大きく三成は西に後退して関ヶ原に陣を敷くこととなった。その後の戦況は大河ドラマなどに見るとおりである。それほど大垣城は重要な地点であり、4重の堀をもつ堅固な要塞であった。

大垣城G

 関ヶ原の合戦の後の大垣城は、「戦いの城」から「行政の城」に転換した。寛永12年(1635)に入封した戸田氏初代の氏鉄(うじかね)は治山・治水に力を入れるなど、人間味あふれる施策を行ったという。以来、明治になって版籍奉還するまで、戸田氏の治世が続くこととなる。
 天守閣は、明治になった後も破却されることなく残存し、昭和11年には国宝に指定された。しかし残念なことに、戦災により焼失してしまった。現在の建物は、昭和34年に外観復元されたものである。西門近くの広場に、天守閣を背景とした氏鉄の騎馬像が立っている。やはり戸田氏初代の英雄像は、この城に似合っていると思う。

稲葉地公園の「アクテノン」

 地下鉄中村公園駅から1kmほど西に、稲葉地公園という近隣公園がある。面積約3.4ha、野球場や遊戯広場などのある緑豊かな公園である。その中ほどに個性的な円筒形の建物が建っている。「演劇練習館」、愛称は「アクテノン」と呼ぶ。
 この建物は、もともとは水道水を配給する「稲葉地配水塔」として、昭和12年に建設されたものである。市街化の進んだ名古屋市西部の水需要に対応したものだが、ポンプ配水が主流となったために短期間で役割を終え、昭和40年から平成3年までは「中村図書館」として再利用されていた。

演劇練習館G

 「名古屋市演劇練習館」は平成7年に完成した。再々利用である。私事になるが、私はこのころ公園部局の施設建設の課で、「ランの館」「徳川園」「鶴舞公園奏楽堂」そして「稲葉地公園の配水塔」の魅力づくりを担当していた。その中の「稲葉地」が、現在の「アクテノン」になっているのである。
 旧配水塔は水の重量を支えるため、コンクリート壁が非常に厚く充分に再利用に堪えられることが分かった。利用方法はいろいろ検討したが、天野鎮雄さん(アマチンさん)が市長に話した一言が決め手となった。「名古屋は発表の場はたくさんあるが、演劇を練習するところが少ない」と。華やかな発表の場も大切だが、それを支える「練習場」のある町こそ、文化的な都市だと仰るのである。

熊本城と水前寺公園

 熊本城は、築城の名手といわれる加藤清正が慶長6年(1601)に着工し、7年かけて完成したものである。城郭の広さは約100ha、その中に天守3、櫓49、城門29を擁する豪壮で堅固な構えである。また、石垣の曲線、漆喰の白と黒い板塀のコントラストなど、美しい城である。
 戦国から江戸時代にかけての城郭であるが、明治になってもう一度歴史の舞台に登場してくる。明治10年(1877)に不平士族が西郷隆盛を盟主に起こした西南戦争である。熊本城に籠城した明治政府軍を西郷軍が攻め立てたが、武者返しが功を奏して侵入を許さなかったという。

熊本G1

 5年前(平成28年)の今日(4月14日)発生した大地震により、甚大な被害を受けた。毎日、テレビで報道される被害の状況を見て、大きな驚きを感じていた。石垣の隅石だけ残り、天守閣の建物が辛うじて倒壊をまぬがれているのである。実はこの写真は、私の娘が地震の3日前に旅行した時のものである。

熊本G2

 熊本のもう一つの名所「水前寺成趣園」(水前寺公園ともいう)は、細川家の初代藩主が寛永13年(1636)ころから造営した庭園である。池を中心とした回遊式で、東海道五十三次を模した景色を点在させている。観光用ポスターでも、富士山を中心としたこのアングルが使用されている。

木骨造りの家

 イギリスの人たちは、ロンドンなどの都会に住むよりも、郊外の田舎に住むことを好むという。もちろん仕事場は都心なので、通勤あるいは週末帰宅ができるくらいの近場であろう。ストラトフォード・アポン・エイボンは、ロンドンから直線距離にして120km、電車で約2時間である。
 この町は、文豪シェイクスピアの故郷として知られ、多くの観光客の訪れる町でもある。歴史は古く、アングロサクソン人の起源をもち、中世には商業都市として栄えていた。ストラトフォードという名は、古い英語でStreet(街道)とFord(川)を意味するという。

木骨造りの家G

 町を歩くと、古風な建物を目にする。「木骨造り」、英語ではTimber Framingという。木材による柱と梁で骨組みを造り、木組みの間に石材や煉瓦あるいは漆喰を詰め込んで壁にする。軸組と壁の両方で荷重を支えるのである。木材の描く模様が家ごとに個性的、大工の美的表現であろう。
 大きな木骨造りの前で、石垣の工事をしていた。へん平な石を横に積んでいく。アイルランドの畑で見たような隙間は造らない。一番上の石だけは、縦に尖った面を上にして積む。侵入防止のためだろうか。そこに小さな木や宿根草を植えて仕上がりである。古建築とよく調和する

バッキンガム宮殿

 市内の観光地巡りは、地下鉄、バス(赤い二階建て)、タクシーを使う。バッキンガム宮殿へはタクシーで行った。最近日本でも使われ始めた、いわゆるロンドン・タクシーである。セダン型と違って、大きなスーツケースが乗るので旅行者にとっては有難い。
 プラタナスの並木のある「ザ・モール」を進むと、正面に宮殿の建物が見えてくる。イギリスは日本と同じ左側通行なので、車に乗っていて違和感がない。宮殿の敷地は約3haだが、広大なセント・ジェームズ・パークに囲まれているので緑ゆたかである。

バッキンガム宮殿

 宮殿の正面広場の真中に、大理石でできたヴィクトリア記念碑がある。これは、19世紀に60年以上も在位したヴィクトリア女王を顕彰したものである。柱の上に金色に輝く勝利の女神が乗っている。広場は緑の芝生と赤いゼラニウムの花で彩られていた。
 ゼラニウムは、湿気の少ないヨーロッパでは旺盛な生育を見せる。まだ綺麗に咲いている花を、ガーデナーたちが剪定していた。宮殿の門には警備の兵士が一人いた。人気の“近衛兵の交代儀式”を多くの観光客が待ちわびていたが、私は諦めて次の目的地に進むこととした。

ダブリンの住宅団地

 ダブリンでは、郊外のマンションに滞在した。都心へ出るには、バスに乗るか少し離れたところからトラムに乗る。1度タクシーで帰宅したが、英語がうまく通じなかったせいで通り過ぎてしまい、ウロウロと迷い走ったこともある。
 広大な敷地の一団の住宅地で、ゲートには「KILGOBBIN WOOD」と記してある。3~4階建ての集合住宅や2階建ての一戸建て住宅が混在している。戸建にはわずかながら庭もついている。構内に車で乗り入れることもできるが駐車場はわずかしか見当たらない。

ダブリン住宅修正

 内部の道路は、緩やかな曲線を描いており、街路樹や芝生がふんだんに取り入れられている。屋根や壁の色はシックな色調で統一されているが、形や大きさに変化があるので、定型的なアパート群というイメージはない。ここでも、洗練された美観センスを感ずることができる。
 住棟間には芝生の広場が多い。子供たちが遊べる遊戯場や、散歩を楽しめる緑地もある。不思議なのは駐車場がほとんどないことだが、その秘密を知ることができた。建物や緑地の下に大きな地下空間があるのだ。そこが駐車場であり、ゴミなどもエレベーターで地下まで持って行くのである。

アイルランドの酒造工場

 東海岸にある首都ダブリンから西海岸へ向かう途中に、キルベガンという村がある。小川に架かる橋の畔に煉瓦造りの煙突が立っていて「WHISKEY」と書いてある。面白い建物だったので写真を撮った。日本へ帰ってから司馬遼太郎の『街道をゆく・愛蘭土紀行Ⅱ』を読んだ。その中に次のような部分があった。まさにこの写真の工場のことを書いたのだろう。以下引用・・・
 「キルベガン・・・ダブリンより西へ90km。路傍に清らかな小川がながれていて、古いウィスキー工場が建っている。建物は石を積んでシックイを塗ったアイルランド農家の建て方で、エントツだけが赤レンガである。“古いウィスキー蒸留所を修復した保存建造物”という意味の掲示が出ているから、村の文化財にちがいない。・・・」 ちなみにスコッチは「WHISKY」と表記し、Eが入っていない。

アイリッシュ酒

 その小川には中洲があって、ヤナギなどの樹木が密生している。そこに簡単な立札が立っていて、「WILDLIFE SANCTUARY」と記してある。すなわち「野生の聖域」を示している。水も、そこに棲む魚も、植物も、訪れる野鳥も大切にしようという思想である。
 アイルランドの名産は、アイリッシュウィスキーと、もうひとつギネスビールがある。ダブリン近くにビール工場があって、試飲つきの見学をさせてもらった。ウィスキーもビールも原料は大麦である。郊外に広大な麦畑があった。

アイリッシュ酒2


季節通信92鬼

巨大ショッピングモール「ららぽーと」

 昨年9月に「ららぽーと愛知東郷」がオープンした。敷地面積約9ha、延べ床面積10万5000㎡、駐車場台数3900台というスケールの大きさである。店舗の数は201、この地域のショッピングモールとしては最大級である。
 ららぽーとの場所は、東郷町役場と「和合ゴルフ場」とに挟まれた位置にある。現在、東郷中央土地区画整理事業(セントラル開発)は70%の進捗率であるが、その目玉的商業施設として誘致された。40haの区画整理面積の約4分の1を占める大事業である。

ららぽーと

 建物の外観は、あまり派手でなくオレンジと茶系の色彩を基調としている。店舗名を表示する看板もそれほど多くなく、全体に上品に仕上げられたと感じている。写真は、中央のアトリウム、ソファーの置かれた休憩ゾーン、曲線を駆使した通路である。
 私の家から歩いて5分という便利さなので、ときどき散歩がてら買い物に行く。レストランやフードコートも充実しているが、まだ利用したことはない。40年ほど前に、田畑や樹林の多い自然環境が好ましくて移り住んだが、高齢となった今では、買い物に便利な「都会」になったことを有難く感ずる。

祐福寺の仁王門

 東郷町にある祐福寺は、その「勅使門」について2013年12月19日にご紹介した。今回は「山門」、鐘楼を兼ねた「仁王門」についてである。祐福寺は、瀬戸・大府線の旧道と名古屋・岡崎線の交差点近くにある。
 私の自宅は、最近開店した「ららぽーと」と東郷町役場の間にあり、祐福寺は散歩の時の目標地点になっている。祐福寺まで30分、境内でストレッチ体操をした後、境川の堤防道路を歩いて帰ると1時間を越え、1万歩近いウォーキングとなる。

祐福寺 修正

 本堂は長い階段を登った上にあり、門を入ったところの広場に面して建つ大きな建物は「阿弥陀堂」である。徳川家康が寄進した阿弥陀如来像や弘法大師像、地蔵菩薩像などが安置されている。阿弥陀堂の隣には、棟の上に煙出しの小屋根を乗せた庫裡がある。
 山門は二階造りの楼門になっている。明治25年に建立されたという。二階には大きな釣鐘がある。戦時の金属回収で供出させられたが昭和24年に再鋳造された。門の左右には見事な仁王様が、阿と吽の口でまさに仁王立ちしている。鳩除けの金網が施してないので、綺麗な写真を撮影することができた。

岩倉神社の「農村舞台」

 西中金駅北側の山裾に、岩倉神社が鎮座している。一段高い石垣の上に本殿があるが、その建物は一回り大きな上屋で保護されている。本殿の前に拝殿があるのは普通であるが、この神社の特色は、さらにその前に「農村舞台」が設置されていることである。 
 舞台は、間口8間、奥行き5間という大きなもので、この地域にある神社の舞台としては最大のものという。また、回転床、すなわち「廻り舞台」が備えられていることも特徴である。江戸時代後期の文化5年(1808)に建立され、昭和30年代までは歌舞伎や芝居の興業が続けられてきた。

農村舞台

 しかし、その後は娯楽の多様化が進み、舞台の使用頻度が少なくなり損傷も激しくなってしまった。それではいけないと、平成12年になって地域の人たちは「石野歌舞伎保存会」を設立して再興を期すこととした。翌13年には廻り舞台も含めた大改修が行われ、14年からは毎年10月に定期公演が開催されている。現在、豊田市の有形民俗文化財に指定されている。
 境内の片隅に、幹が曲がりくねった老大木がある。看板がついていて、「アカメヤナギ」と記されていた。この木は木曽川の河川敷や、鶴舞公園の池畔など水気の多い土地に自生する性質をもっている。ここも、田んぼの近くの傾斜地であった。

松尾芭蕉 生誕の家

 松尾芭蕉は寛永21年(正保元年=1644)に、この伊賀上野の地で生まれた。伊賀鉄道上野市駅から東へ500mほどの所に、その生家が残っている。格子窓のある二階建て、切妻瓦葺屋根の町屋造りである。黄土色で瓦の乗る土塀が長くて印象的、玄関口には石柱と歌碑が立っていた。
 残念ながら現在、建物改修のため中へ入ることはできなかった。門から覗き込むと、玄関前の庭にバショウの木が植えてある。芭蕉が江戸に住んだとき深川に居を構えたが、門人からバショウの木を贈られたのでその庵を「芭蕉庵」と名付けた。さらに自身も「芭蕉」と号するようになった。

芭蕉生家G

 芭蕉は、滑稽や諧謔を主としていた「俳諧」に疑問をもち、「蕉風」と呼ばれる芸術性の高い句風を確立した。後世には、「俳聖」と呼ばれるまでになった。現在公園となっている上野城の一角に、生誕300年記念の「俳聖殿」が建っている。芭蕉の旅姿をイメージした個性的な建物である。
 元禄2年(1689)、45歳になった芭蕉は弟子の曾良を伴い「おくの細道」の旅に出る。陸奥・越後・越前などを巡り、最後は大垣で旅を終える。我々も知る数々の名句が生まれた。生家前の句碑は「古里や臍の緒に泣く年の暮れ」とある。自分が生まれた時の「臍の緒」を見た感懐を詠んでいる。


季節通信82バショウ

大府市延命寺の「文殊楼門」

 武豊線大府駅から500mほど東へ行くと、堂々とした山門のある「延命寺」がある。このお寺は鎌倉時代の創建で、かつては七堂を備えた大規模な伽藍であったという。応仁の乱により焼失してしまったが、その後、緒川城主や尾張藩の庇護を受けて今日に至っている。
 山門は三間一戸・入母屋造りの楼門で、楼上に文殊菩薩が安置されていることから「文殊楼門」と呼ばれている。江戸時代末期の天保7年(1836)に起工し、同11年に竣工した。150年ほど経た昭和61年(1986)に、大規模な解体修理が行われた。

延命寺G

 中央間には、唐戸(開き戸)があり、両端の間には仁王像が安置されている。柱の上の組物(斗栱=桝と肘木)も見事で、牡丹や唐獅子、象などの彫刻も施してある。通常、扉の下には敷居があるが、この門は平らで車でも入れる構造になっている。ただし、隙間を塞ぐための板が嵌まるようになっている。
 門から本堂までの間に大きな水瓶があり、今を盛りと蓮の花が咲いていた。本堂の右横に農家風の茅葺建物があり、「納経所」との看板が掛けてあった。楼門は愛知県指定の文化財であり、大府市指定の文化財にもなっている。

延命寺H

撞木館のタイルとガラス

 撞木館の“大正ロマン”は、大道具(建物や庭園)にも表現されているが、床・壁のタイルや窓のガラスなどといった小道具にも主張されている。タイルは防水性や耐久性に優れ、形・大きさ・色合いや肌触りなどにも個性が発揮できるので、撞木館では内装のいたる所に使用されている。
 ①は洋館2階のサンルーム、床はクリンカータイルで腰壁はスクラッチタイル ②は台所のかまど、黒い釉薬タイルが使われている。③は1階のトイレ、緑色の壁は釉薬タイルである。④は台所の床、6角形のクリンカータイルである。⑤はバスルーム、様々な陶磁器が使用されている。

撞木館ガラスG

 陶磁器商の建てた邸宅だけあって、当然のようにタイルは豪華に使われているが、それにも増して窓などのガラスにも力が入っている。玄関や応接間など主要な場所にはステンドグラスが、和室や台所にもセンスの良い型板ガラスが用いられている。こんな所にも、大正・昭和のレトロが感じられる。
 ⑥は風呂場の入り口、銀杏の枝にとまった小鳥のステンドグラス ⑦は応接間の天窓、3連の窓いっぱいに装飾されている。⑧は玄関土間からホールへの扉 ⑨は縁側と中庭を隔てるガラス戸 ⑩は和室の障子風の戸である。他にも食器戸棚や雪見障子にも型板ガラスを見ることができる。

撞木館ガラスH

文化のみち「撞木館」

 江戸時代、名古屋城の東には武家屋敷が並んでいた。お城に近いほど上級の武士が、離れるほどに下級の武士が屋敷を構えていたという。国道41号東の撞木町あたりは中級の武士が住んでいたところである。「撞木館」は、大正から昭和にかけて活躍していた陶磁器商が建てた邸宅である。
 名古屋に、輸出向けの陶磁器絵付け業が芽生えたのは明治10年以降である。主として九谷方面から画工を集めて上絵付加工を行い、神戸・横浜の外国商館と本格的な取引を始めたのである。明治20年代になると、瀬戸・多治見にも通じる街道や船積みする堀川にも近い東区一帯が、陶磁器産業の一大集積地になった。

撞木館G

 撞木館は、約600坪の武家屋敷の敷地に、庭を囲むような配置で洋館・和館・茶室・土蔵が並んでいる。庭園も、門から玄関まで弧を描いたアプローチ・洋館前のベランダと芝庭・茶室に至る露地・和館と土蔵に囲まれた中庭など多彩である。全体の雰囲気が、まさに“大正ロマン”にあふれている。
 玄関口に当たる洋館には、応接室と食堂、二階に娯楽室があった。和館は、大黒柱のある田の字型の和室や台所などで構成されている。西南隅にある茶室は、二畳半中板向切の構えである。和館の北側に土蔵二棟が連なっている。現在多くの部屋は、展示室や貸室、喫茶室などとして公開されている。


季節通信80アザミ

文化のみち「主税町教会」

 市政資料館(旧高等裁判所)から「文化のみち」を東に進み、国道41号を渡るとすぐに古風な教会が見える。「カトリック主税町教会」である。この地に初めてカトリック教会が置かれたもので、明治20年(1887)のことという。
 フランス人宣教師らが武家屋敷を購入し、長屋を改造して教会とした。その後明治37年に、現在の原型となる聖堂(礼拝堂)が建てられた。正面に急こう配の屋根があり、その上に十字架が立っている。屋根全体を見ると普通の切妻瓦葺である。わずかな造作で雰囲気が出ているので感心する。

高岳駅 修正

 礼拝堂の斜め前に「鐘楼」が建っている。当初は明治23年頃に建てられたが、昭和40年の道路拡幅のため取り壊されてしまった。写真は、平成2年に位置を移して復元されたものである。鐘楼の鐘は、明治23年にフランス・マルセイユで造られたものという。
 芝生の庭の端に「ルルドのマリア様」が設置されている。フランスのルルドの地で、1858年に起きた“聖母マリアの出現”の模様を再現したものである。礼拝堂の横にケヤキの大木が茂っている。直径1mを超す古木で、教会ができる前の武家屋敷の時代からあったものと思われる。

文化のみち教会G

大鹿村「中央構造線博物館」

 中央自動車道・松川インターからまっすぐ(曲がりくねっているが)西に走ると大鹿村に至る。天竜川方面から山脈を見ると、手前の伊那山地に遮られて南アルプスを望むことはできない。冬季、わずかに頭をだした3000m級の山々の、白い雪帽子が見えるだけである。大鹿村はその谷間にある。
 「中央構造線博物館」は名の通り、日本一の大断層を説明する博物館である。駐車場を降りると広場があり、大西山をバックに瀟洒な建物がある。広場にはたくさんの岩石(鉱物)見本が置いてある。園路の中央に直線のブロックが設置され、「中央構造線」と記してある。正にここが断層なのだ。

大鹿村博物館G

 九州から四国、紀伊半島を通って渥美半島、豊橋あたりから北へ曲がって諏訪湖に至る、日本列島の骨格ともいえる地層である。南側・東側を外帯といい、北側・西側を内帯という。このラインの内か外かで、構成する鉱物がまったく異なるという。広場の岩石は、その様子を示している。
 部屋に入ると、さらに詳しく中央構造線が説明されている。日本列島の成り立ち、プレートの動きや火山活動の歴史を、パネルを見ながら学芸員さんが説明してくれる。二階には10畳ほどの大きなジオラマがあり、岩石の縞模様が平面的にも立体的にも分かるようになっている。内容説明は、ぜひ現地で!!

大鹿村博物館マップ


季節通信78タケニグサ

岩倉市史跡公園の建物

 岩倉駅から西へ、自転車で10分ほど走ったところに「大地遺跡」があり、史跡公園として整備されている。ここには、興味深い2つの建物がある。一つは「竪穴住居址」、昭和26年の発掘調査により、この地で発見されたものである。地表より約1m下の砂層の地盤に、住居址の窪みがあった。(上屋は復元)
 規模は、東西約7m、南北約4mの長方形で、角はややまるくなっている。床面は、地盤より20~30cm低い位置にあり、平坦に踏み固められていた。東面の南に寄った所に入口があり、奥に炉があったと考えられている。普通の竪穴住居の柱は4本であるが、この住居には6本あり、2つの部屋に分かれていた点に特色がある。その後建てられるようになった農家の源流を示している。

岩倉住居G

 竪穴住居の隣に、もう少し大きな「鳥居建民家」が建っている。この建物は、昭和30年の調査により東町で発見されたものを、この公園に移築したものである。この地方の農家は、いわゆる「田の字型」と呼ばれる四間取りのものが多いが、この建物はその前身の3間取りになっている。
 田の字での大黒柱に代って主柱が2本あり、柱に梁が架かる姿が神社の鳥居に似ることから「鳥居建民家」と呼ばれている。この構造は、遠く室町時代における農家の形式を残したものであり、極めて貴重な文化財といわれている。

岩倉住居H


長久手のトヨタ博物館

 久しぶりに取材に出かけた。長久手のグリーンロード沿いにある「トヨタ博物館」である。東郷の自宅から県道57号でまっすぐ、30分ほどと意外に近い。10年ほど前に来て以来、2回目である。
 建物は長楕円形、緑青色の屋根にガラス張りの明かり取りが個性的である。道路方面に赤いT字の標識が突き出ているので、すぐに分かる。入り口を入ると、駐車場まではよく手入れされた樹林である。

トヨタ博物館G

 トヨタ自動車が威信をかけて、“自動車の歴史を学び、人と車の豊かな未来のために”つくった博物館である。日米欧の代表的な車両が140台展示されている。
 ガソリン自動車の第1号と言われるベンツ(複製)や1936年にトヨタが初めてつくった1号車など。1920年代の、“ローリング20”のドラマに出てくるようなアメリカ車も並んでいて興味深い。

トヨタ博物館マップ

 戦後のコーナーでは、子供のころに町で見かけた懐かしい車種や、自分が乗ったことのある車も並んでいる。次はどんな車を選ぼうかなどと想像するのも楽しい。
 10数年前と異なり、新たに「文化館」が増設されていた。ここにはミニチュアやプラモデル、世界のナンバープレート、自動車を描いた切手などのコレクションが展示されている。自動車専門の図書館も併設されている。


季節通信76ハンゲショウ




永源寺・方丈の屋根

永源寺G

 永源寺は、琵琶湖に流れる「愛知川」に沿って広大な伽藍をもつ。“あいち”でなく“えちがわ”と読む。擬宝珠のある旦度橋からは、自然豊かな瑞石山と愛知川の間に、静かに佇む永源寺を望むことができる。少し上流には50年ほど前にできた、かんがいと発電のための永源寺ダムがある。

 総門を過ぎ、山門を入ると左手に大きな本堂が見えてくる。康安元年(1361)創建時の建物は火災により焼失し、現在は明和2年(1765)に井伊氏の援助で建立されたものである。屋根は、琵琶湖に生える葦(ヨシ:アシともいう)で葺かれている。これほどの規模の葦葺き屋根は、全国でも珍しいという。

 法堂近くの小さな池に銅で鋳造された噴水があり、その横に「永源寺」と逆さに書かれた看板がある。池に写った文字が、きちんと寺の名前を示している。寂室元光禅師が開山した禅寺であるので、何か禅問答を仕掛けているのだろうか?

永源寺マップ

国宝「如庵」

 もう一度三題噺。今度は「有楽斎」「如庵」「建仁寺」である。京都祇園・花見小路の南に建仁寺がある。その塔頭「正伝永源院」方丈の前庭を拝観した。その右奥に茶室がある。どこかで見たことがあると思ったところ、扁額には「如庵」とある。犬山・有楽苑で何度も訪れた茶室と同じである。
 この茶室は、数奇な歴史をもつ。元和4年(1618)ころ、かの有名な織田有楽斎(信長の弟)が、隠棲の地とした正伝院に、書院とともに建てたものである。明治になって「廃仏毀釈」が荒れ狂う中、正伝院は廃寺となった永源庵(同じ建仁寺塔頭)跡地に移転することを余儀なくされた。

有楽G

 明治末には、如庵・書院ともに東京に移転することとなる。何度も移築されたのち、昭和47年(1972)に名古屋鉄道の所有となり、有楽斎生まれ故郷尾張の地に安住の地を得たのである。犬山城の東隣、名鉄ホテルの敷地内に「有楽苑」として整備されている。
 寛政11年(1799)ころに描かれた「都林泉名勝図会」を見ると、書院と茶室やその前庭などの様子がよく分かる。有楽苑の造りは、この古図にかなり忠実だと思う。一方、元々の由来をもつ正伝永源院では、平成8年に如庵を復元整備したのである。有楽斎・如庵・建仁寺の三題噺でした。

有楽H


季節通信67椿“有楽”

落柿舎

 一人で旅行をしたり、このブログの取材に行くときには、レンタサイクルをよく使用する。小さな町の歴史や文化を見て回る場合、歩くには遠すぎるし車ほどではないという時には自転車がちょうどいい。目的地へ行く道すがら、車では見過ごしてしまうような“小さな発見”もできることがある。
 嵐山の駅近くには、いくつかのレンタサイクル屋さんがある。地形も平らだし、けっこう利用する観光客も多いのだろう。このときは、渡月橋を渡って松尾大社、苔寺、すず虫寺。左岸へ戻って竹林、野宮神社、大河内山荘、そして落柿舎を見た。駐車場を探さなくていい利点もある。

落柿舎マップ

 以前から、「落柿舎(らくししゃ)」という風流な名前だけは知っていた。嵐山の山裾のこんもりした樹林の前に人が集まっている。入り口も狭いので、入園を待って並んでいるのであろう。小さな門構えの扁額に、白い文字で落柿舎と記してある。予想通りの飄々とした庵であった。
 この草庵は、芭蕉の弟子の向井去来の別荘であった。若くして武士を捨て俳諧の道を選んだ人である。芭蕉はここに3度滞在し、「嵯峨日記」を著した。去来本人も「落柿舎ノ記」を残している。たくさん柿が実ったので老商人に売ったところ、嵐が来て一晩のうちに柿すべてが落ちてしまった。去来は気の毒に思い、売ったお金をすべて返してあげたという。名前の由来である。

落柿舎G


季節通信64残雪

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東山植物園の「合掌造りの家」

 東山植物園の日本庭園、奥池のほとりに「合掌造りの家」が建っている。元々は岐阜県大野郡白川村字大牧にあったが、昭和30年ごろから鳩谷ダムの工事が始まり、大牧集落一帯が水没することとなったのである。そこで、この家の所有者太田家から寄贈を受け、昭和31年にこの地に移築されたものである。
 この建物は、集落の中でも最も大きく由緒のあるもので、今から180年前の天保13年(1842)に築造されたという。広さは264㎡、高さは10m、四層茅葺き屋根である。分家をしない次男・三男も含めた大家族が、一緒に住む家であった。

合掌マップ

 一階は柱を使った組み立て式、二階以上がいわゆる「合掌」で丸太による小屋組みになっている。この家を造るのに、釘やカスガイは一切使われていない。丸太は「ねそ」と呼ばれる生木で結束される。「ねそ」とはマンサクのことである。この材は年月を経て乾燥が進むほどに締まっていき、結束がより固くなっていく。
 合掌造りの家は、日本庭園の中心にある。奥池の手前は「也有園」、西の谷は「椿園」になっている。北の奥は、植物園で最も深い谷で、中部地方に自生する植物が生態的に植栽されている。太田家の家は、故郷を離れたが、周りの環境は移築前と同じように自然豊かである。

合掌G


季節通信60早春の花

初詣(川崎大師)

 この三が日、皆さんはどこかへ初詣に行かれましたか?近くの氏神様や菩提寺、あるいは有名な寺社でしょうか?全国の神社・仏閣で、初詣客が最も多いベスト10を選ぶと「川崎大師」は必ず名を連ねるそうです。東京では明治神宮、大阪では住吉大社、名古屋では熱田神宮などが常連です。

 川崎大師の正式名称は「平間寺(へいけんじ)」である。社伝によれば、平間兼乗(ひらまかねのり)という武士が、海中から弘法大師の木像を引揚げて小堂を構えたのだという。大治3年(1128)に、諸国遊化(ゆけ)を行っていた高野山の上人と力を合わせてお寺を建てたのが始まりである。

川崎G

 歴史は古いが、堂宇は新しいものが多い。太平洋戦争により、ほとんどが焼け落ちてしまったからである。大本堂(下左の写真)は昭和39年に落慶した。大山門(上右)は昭和52年、中興塔と呼ばれる八角五重塔(下右)は昭和59年に完成している。
 大山門に向かって150mもの長い参道(上左)が続いている。「仲見世通り」と呼ぶ。厄除けの品や煎餅、饅頭や咳止めの飴などを売る店が軒を連ねている。近郊近在だけでなく、遠くからも信徒が集まる。京浜急行電鉄は東京や横浜に多くの路線をもつが、その元は、明治32年(1899)に川崎駅から大師駅まで開通した大師電気鉄道である。

川崎H


季節通信58芽

東京スカイツリーと浅草観音

 赤坂離宮を見た後に、スカイツリーと浅草へ行きました。いずれも、東京で最も人気の高いスポットです。かたや超現代的な名所であり、他方は歴史のある古典的な観光地です。東京は、新旧の見どころに溢れていて、内外から多くの “トゥーリスト” を集めています。
 東京スカイツリーは、墨田区にあります。電波塔(送信所)として平成24年に開業しました。観光・商業施設やオフィスビルが併設されていて「スカイツリータウン」と呼ばれています。高さは634mでタワーとしては世界一、2位は中国・広州市の広州塔で600m、3位はカナダ・トロント市のCNタワーで553mあります。ちなみに東京タワーは333m、名古屋テレビ塔は180mです。

浅草G

 「浅草(あさくさ)観音」の名で親しまれる「浅草寺(せんそうじ)」は、墨田区近くの台東区にあります。創建は推古天皇36年(628)と伝えられています。聖徳太子の時代であり、みやこから遠く離れた江戸の地にまで仏教が広まっていたかと思うと不思議な気がします。
 古くから信仰の地、歓楽の場として人の集まる所でしたが、明治以降も庶民の盛り場、娯楽地と
して発達しました。明治6年に境内が公園に指定され、明治18年に「仲見世」が近代的な建物になりました。浅草のシンボル「雷門」辺りは、いつもながら内外の観光客でゴッタがえしています。

浅草H


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ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
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