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大府市延命寺の「文殊楼門」

 武豊線大府駅から500mほど東へ行くと、堂々とした山門のある「延命寺」がある。このお寺は鎌倉時代の創建で、かつては七堂を備えた大規模な伽藍であったという。応仁の乱により焼失してしまったが、その後、緒川城主や尾張藩の庇護を受けて今日に至っている。
 山門は三間一戸・入母屋造りの楼門で、楼上に文殊菩薩が安置されていることから「文殊楼門」と呼ばれている。江戸時代末期の天保7年(1836)に起工し、同11年に竣工した。150年ほど経た昭和61年(1986)に、大規模な解体修理が行われた。

延命寺G

 中央間には、唐戸(開き戸)があり、両端の間には仁王像が安置されている。柱の上の組物(斗栱=桝と肘木)も見事で、牡丹や唐獅子、象などの彫刻も施してある。通常、扉の下には敷居があるが、この門は平らで車でも入れる構造になっている。ただし、隙間を塞ぐための板が嵌まるようになっている。
 門から本堂までの間に大きな水瓶があり、今を盛りと蓮の花が咲いていた。本堂の右横に農家風の茅葺建物があり、「納経所」との看板が掛けてあった。楼門は愛知県指定の文化財であり、大府市指定の文化財にもなっている。

延命寺H

撞木館のタイルとガラス

 撞木館の“大正ロマン”は、大道具(建物や庭園)にも表現されているが、床・壁のタイルや窓のガラスなどといった小道具にも主張されている。タイルは防水性や耐久性に優れ、形・大きさ・色合いや肌触りなどにも個性が発揮できるので、撞木館では内装のいたる所に使用されている。
 ①は洋館2階のサンルーム、床はクリンカータイルで腰壁はスクラッチタイル ②は台所のかまど、黒い釉薬タイルが使われている。③は1階のトイレ、緑色の壁は釉薬タイルである。④は台所の床、6角形のクリンカータイルである。⑤はバスルーム、様々な陶磁器が使用されている。

撞木館ガラスG

 陶磁器商の建てた邸宅だけあって、当然のようにタイルは豪華に使われているが、それにも増して窓などのガラスにも力が入っている。玄関や応接間など主要な場所にはステンドグラスが、和室や台所にもセンスの良い型板ガラスが用いられている。こんな所にも、大正・昭和のレトロが感じられる。
 ⑥は風呂場の入り口、銀杏の枝にとまった小鳥のステンドグラス ⑦は応接間の天窓、3連の窓いっぱいに装飾されている。⑧は玄関土間からホールへの扉 ⑨は縁側と中庭を隔てるガラス戸 ⑩は和室の障子風の戸である。他にも食器戸棚や雪見障子にも型板ガラスを見ることができる。

撞木館ガラスH

文化のみち「撞木館」

 江戸時代、名古屋城の東には武家屋敷が並んでいた。お城に近いほど上級の武士が、離れるほどに下級の武士が屋敷を構えていたという。国道41号東の撞木町あたりは中級の武士が住んでいたところである。「撞木館」は、大正から昭和にかけて活躍していた陶磁器商が建てた邸宅である。
 名古屋に、輸出向けの陶磁器絵付け業が芽生えたのは明治10年以降である。主として九谷方面から画工を集めて上絵付加工を行い、神戸・横浜の外国商館と本格的な取引を始めたのである。明治20年代になると、瀬戸・多治見にも通じる街道や船積みする堀川にも近い東区一帯が、陶磁器産業の一大集積地になった。

撞木館G

 撞木館は、約600坪の武家屋敷の敷地に、庭を囲むような配置で洋館・和館・茶室・土蔵が並んでいる。庭園も、門から玄関まで弧を描いたアプローチ・洋館前のベランダと芝庭・茶室に至る露地・和館と土蔵に囲まれた中庭など多彩である。全体の雰囲気が、まさに“大正ロマン”にあふれている。
 玄関口に当たる洋館には、応接室と食堂、二階に娯楽室があった。和館は、大黒柱のある田の字型の和室や台所などで構成されている。西南隅にある茶室は、二畳半中板向切の構えである。和館の北側に土蔵二棟が連なっている。現在多くの部屋は、展示室や貸室、喫茶室などとして公開されている。


季節通信80アザミ

文化のみち「主税町教会」

 市政資料館(旧高等裁判所)から「文化のみち」を東に進み、国道41号を渡るとすぐに古風な教会が見える。「カトリック主税町教会」である。この地に初めてカトリック教会が置かれたもので、明治20年(1887)のことという。
 フランス人宣教師らが武家屋敷を購入し、長屋を改造して教会とした。その後明治37年に、現在の原型となる聖堂(礼拝堂)が建てられた。正面に急こう配の屋根があり、その上に十字架が立っている。屋根全体を見ると普通の切妻瓦葺である。わずかな造作で雰囲気が出ているので感心する。

高岳駅 修正

 礼拝堂の斜め前に「鐘楼」が建っている。当初は明治23年頃に建てられたが、昭和40年の道路拡幅のため取り壊されてしまった。写真は、平成2年に位置を移して復元されたものである。鐘楼の鐘は、明治23年にフランス・マルセイユで造られたものという。
 芝生の庭の端に「ルルドのマリア様」が設置されている。フランスのルルドの地で、1858年に起きた“聖母マリアの出現”の模様を再現したものである。礼拝堂の横にケヤキの大木が茂っている。直径1mを超す古木で、教会ができる前の武家屋敷の時代からあったものと思われる。

文化のみち教会G

大鹿村「中央構造線博物館」

 中央自動車道・松川インターからまっすぐ(曲がりくねっているが)西に走ると大鹿村に至る。天竜川方面から山脈を見ると、手前の伊那山地に遮られて南アルプスを望むことはできない。冬季、わずかに頭をだした3000m級の山々の、白い雪帽子が見えるだけである。大鹿村はその谷間にある。
 「中央構造線博物館」は名の通り、日本一の大断層を説明する博物館である。駐車場を降りると広場があり、大西山をバックに瀟洒な建物がある。広場にはたくさんの岩石(鉱物)見本が置いてある。園路の中央に直線のブロックが設置され、「中央構造線」と記してある。正にここが断層なのだ。

大鹿村博物館G

 九州から四国、紀伊半島を通って渥美半島、豊橋あたりから北へ曲がって諏訪湖に至る、日本列島の骨格ともいえる地層である。南側・東側を外帯といい、北側・西側を内帯という。このラインの内か外かで、構成する鉱物がまったく異なるという。広場の岩石は、その様子を示している。
 部屋に入ると、さらに詳しく中央構造線が説明されている。日本列島の成り立ち、プレートの動きや火山活動の歴史を、パネルを見ながら学芸員さんが説明してくれる。二階には10畳ほどの大きなジオラマがあり、岩石の縞模様が平面的にも立体的にも分かるようになっている。内容説明は、ぜひ現地で!!

大鹿村博物館マップ


季節通信78タケニグサ

岩倉市史跡公園の建物

 岩倉駅から西へ、自転車で10分ほど走ったところに「大地遺跡」があり、史跡公園として整備されている。ここには、興味深い2つの建物がある。一つは「竪穴住居址」、昭和26年の発掘調査により、この地で発見されたものである。地表より約1m下の砂層の地盤に、住居址の窪みがあった。(上屋は復元)
 規模は、東西約7m、南北約4mの長方形で、角はややまるくなっている。床面は、地盤より20~30cm低い位置にあり、平坦に踏み固められていた。東面の南に寄った所に入口があり、奥に炉があったと考えられている。普通の竪穴住居の柱は4本であるが、この住居には6本あり、2つの部屋に分かれていた点に特色がある。その後建てられるようになった農家の源流を示している。

岩倉住居G

 竪穴住居の隣に、もう少し大きな「鳥居建民家」が建っている。この建物は、昭和30年の調査により東町で発見されたものを、この公園に移築したものである。この地方の農家は、いわゆる「田の字型」と呼ばれる四間取りのものが多いが、この建物はその前身の3間取りになっている。
 田の字での大黒柱に代って主柱が2本あり、柱に梁が架かる姿が神社の鳥居に似ることから「鳥居建民家」と呼ばれている。この構造は、遠く室町時代における農家の形式を残したものであり、極めて貴重な文化財といわれている。

岩倉住居H


長久手のトヨタ博物館

 久しぶりに取材に出かけた。長久手のグリーンロード沿いにある「トヨタ博物館」である。東郷の自宅から県道57号でまっすぐ、30分ほどと意外に近い。10年ほど前に来て以来、2回目である。
 建物は長楕円形、緑青色の屋根にガラス張りの明かり取りが個性的である。道路方面に赤いT字の標識が突き出ているので、すぐに分かる。入り口を入ると、駐車場まではよく手入れされた樹林である。

トヨタ博物館G

 トヨタ自動車が威信をかけて、“自動車の歴史を学び、人と車の豊かな未来のために”つくった博物館である。日米欧の代表的な車両が140台展示されている。
 ガソリン自動車の第1号と言われるベンツ(複製)や1936年にトヨタが初めてつくった1号車など。1920年代の、“ローリング20”のドラマに出てくるようなアメリカ車も並んでいて興味深い。

トヨタ博物館マップ

 戦後のコーナーでは、子供のころに町で見かけた懐かしい車種や、自分が乗ったことのある車も並んでいる。次はどんな車を選ぼうかなどと想像するのも楽しい。
 10数年前と異なり、新たに「文化館」が増設されていた。ここにはミニチュアやプラモデル、世界のナンバープレート、自動車を描いた切手などのコレクションが展示されている。自動車専門の図書館も併設されている。


季節通信76ハンゲショウ




永源寺・方丈の屋根

永源寺G

 永源寺は、琵琶湖に流れる「愛知川」に沿って広大な伽藍をもつ。“あいち”でなく“えちがわ”と読む。擬宝珠のある旦度橋からは、自然豊かな瑞石山と愛知川の間に、静かに佇む永源寺を望むことができる。少し上流には50年ほど前にできた、かんがいと発電のための永源寺ダムがある。

 総門を過ぎ、山門を入ると左手に大きな本堂が見えてくる。康安元年(1361)創建時の建物は火災により焼失し、現在は明和2年(1765)に井伊氏の援助で建立されたものである。屋根は、琵琶湖に生える葦(ヨシ:アシともいう)で葺かれている。これほどの規模の葦葺き屋根は、全国でも珍しいという。

 法堂近くの小さな池に銅で鋳造された噴水があり、その横に「永源寺」と逆さに書かれた看板がある。池に写った文字が、きちんと寺の名前を示している。寂室元光禅師が開山した禅寺であるので、何か禅問答を仕掛けているのだろうか?

永源寺マップ

国宝「如庵」

 もう一度三題噺。今度は「有楽斎」「如庵」「建仁寺」である。京都祇園・花見小路の南に建仁寺がある。その塔頭「正伝永源院」方丈の前庭を拝観した。その右奥に茶室がある。どこかで見たことがあると思ったところ、扁額には「如庵」とある。犬山・有楽苑で何度も訪れた茶室と同じである。
 この茶室は、数奇な歴史をもつ。元和4年(1618)ころ、かの有名な織田有楽斎(信長の弟)が、隠棲の地とした正伝院に、書院とともに建てたものである。明治になって「廃仏毀釈」が荒れ狂う中、正伝院は廃寺となった永源庵(同じ建仁寺塔頭)跡地に移転することを余儀なくされた。

有楽G

 明治末には、如庵・書院ともに東京に移転することとなる。何度も移築されたのち、昭和47年(1972)に名古屋鉄道の所有となり、有楽斎生まれ故郷尾張の地に安住の地を得たのである。犬山城の東隣、名鉄ホテルの敷地内に「有楽苑」として整備されている。
 寛政11年(1799)ころに描かれた「都林泉名勝図会」を見ると、書院と茶室やその前庭などの様子がよく分かる。有楽苑の造りは、この古図にかなり忠実だと思う。一方、元々の由来をもつ正伝永源院では、平成8年に如庵を復元整備したのである。有楽斎・如庵・建仁寺の三題噺でした。

有楽H


季節通信67椿“有楽”

落柿舎

 一人で旅行をしたり、このブログの取材に行くときには、レンタサイクルをよく使用する。小さな町の歴史や文化を見て回る場合、歩くには遠すぎるし車ほどではないという時には自転車がちょうどいい。目的地へ行く道すがら、車では見過ごしてしまうような“小さな発見”もできることがある。
 嵐山の駅近くには、いくつかのレンタサイクル屋さんがある。地形も平らだし、けっこう利用する観光客も多いのだろう。このときは、渡月橋を渡って松尾大社、苔寺、すず虫寺。左岸へ戻って竹林、野宮神社、大河内山荘、そして落柿舎を見た。駐車場を探さなくていい利点もある。

落柿舎マップ

 以前から、「落柿舎(らくししゃ)」という風流な名前だけは知っていた。嵐山の山裾のこんもりした樹林の前に人が集まっている。入り口も狭いので、入園を待って並んでいるのであろう。小さな門構えの扁額に、白い文字で落柿舎と記してある。予想通りの飄々とした庵であった。
 この草庵は、芭蕉の弟子の向井去来の別荘であった。若くして武士を捨て俳諧の道を選んだ人である。芭蕉はここに3度滞在し、「嵯峨日記」を著した。去来本人も「落柿舎ノ記」を残している。たくさん柿が実ったので老商人に売ったところ、嵐が来て一晩のうちに柿すべてが落ちてしまった。去来は気の毒に思い、売ったお金をすべて返してあげたという。名前の由来である。

落柿舎G


季節通信64残雪

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東山植物園の「合掌造りの家」

 東山植物園の日本庭園、奥池のほとりに「合掌造りの家」が建っている。元々は岐阜県大野郡白川村字大牧にあったが、昭和30年ごろから鳩谷ダムの工事が始まり、大牧集落一帯が水没することとなったのである。そこで、この家の所有者太田家から寄贈を受け、昭和31年にこの地に移築されたものである。
 この建物は、集落の中でも最も大きく由緒のあるもので、今から180年前の天保13年(1842)に築造されたという。広さは264㎡、高さは10m、四層茅葺き屋根である。分家をしない次男・三男も含めた大家族が、一緒に住む家であった。

合掌マップ

 一階は柱を使った組み立て式、二階以上がいわゆる「合掌」で丸太による小屋組みになっている。この家を造るのに、釘やカスガイは一切使われていない。丸太は「ねそ」と呼ばれる生木で結束される。「ねそ」とはマンサクのことである。この材は年月を経て乾燥が進むほどに締まっていき、結束がより固くなっていく。
 合掌造りの家は、日本庭園の中心にある。奥池の手前は「也有園」、西の谷は「椿園」になっている。北の奥は、植物園で最も深い谷で、中部地方に自生する植物が生態的に植栽されている。太田家の家は、故郷を離れたが、周りの環境は移築前と同じように自然豊かである。

合掌G


季節通信60早春の花

初詣(川崎大師)

 この三が日、皆さんはどこかへ初詣に行かれましたか?近くの氏神様や菩提寺、あるいは有名な寺社でしょうか?全国の神社・仏閣で、初詣客が最も多いベスト10を選ぶと「川崎大師」は必ず名を連ねるそうです。東京では明治神宮、大阪では住吉大社、名古屋では熱田神宮などが常連です。

 川崎大師の正式名称は「平間寺(へいけんじ)」である。社伝によれば、平間兼乗(ひらまかねのり)という武士が、海中から弘法大師の木像を引揚げて小堂を構えたのだという。大治3年(1128)に、諸国遊化(ゆけ)を行っていた高野山の上人と力を合わせてお寺を建てたのが始まりである。

川崎G

 歴史は古いが、堂宇は新しいものが多い。太平洋戦争により、ほとんどが焼け落ちてしまったからである。大本堂(下左の写真)は昭和39年に落慶した。大山門(上右)は昭和52年、中興塔と呼ばれる八角五重塔(下右)は昭和59年に完成している。
 大山門に向かって150mもの長い参道(上左)が続いている。「仲見世通り」と呼ぶ。厄除けの品や煎餅、饅頭や咳止めの飴などを売る店が軒を連ねている。近郊近在だけでなく、遠くからも信徒が集まる。京浜急行電鉄は東京や横浜に多くの路線をもつが、その元は、明治32年(1899)に川崎駅から大師駅まで開通した大師電気鉄道である。

川崎H


季節通信58芽

東京スカイツリーと浅草観音

 赤坂離宮を見た後に、スカイツリーと浅草へ行きました。いずれも、東京で最も人気の高いスポットです。かたや超現代的な名所であり、他方は歴史のある古典的な観光地です。東京は、新旧の見どころに溢れていて、内外から多くの “トゥーリスト” を集めています。
 東京スカイツリーは、墨田区にあります。電波塔(送信所)として平成24年に開業しました。観光・商業施設やオフィスビルが併設されていて「スカイツリータウン」と呼ばれています。高さは634mでタワーとしては世界一、2位は中国・広州市の広州塔で600m、3位はカナダ・トロント市のCNタワーで553mあります。ちなみに東京タワーは333m、名古屋テレビ塔は180mです。

浅草G

 「浅草(あさくさ)観音」の名で親しまれる「浅草寺(せんそうじ)」は、墨田区近くの台東区にあります。創建は推古天皇36年(628)と伝えられています。聖徳太子の時代であり、みやこから遠く離れた江戸の地にまで仏教が広まっていたかと思うと不思議な気がします。
 古くから信仰の地、歓楽の場として人の集まる所でしたが、明治以降も庶民の盛り場、娯楽地と
して発達しました。明治6年に境内が公園に指定され、明治18年に「仲見世」が近代的な建物になりました。浅草のシンボル「雷門」辺りは、いつもながら内外の観光客でゴッタがえしています。

浅草H


東京・迎賓館赤坂離宮

 昨日の中日新聞サンデー版「世界と日本・大図解シリーズ」に、「迎賓館赤坂離宮」が載っていました。今年の秋、期間限定で迎賓館を見学できるというバス旅行があり、この機会にと参加しましたので、その時の写真(絵葉書のように美しい!?)をご紹介します。
 この迎賓館は、明治42年(1909)年に東宮御所として建てられたものです。当時の最高技術が駆使されました。戦後になって迎賓館として改修され、国賓の表敬訪問や首脳会議などに使用されます。10年前に、明治を代表する西洋建築として国宝に指定されています

赤坂G

 白亜の宮殿は、白い花崗岩と緑青の屋根とが美しく調和しています。豊富な水を吹き出す噴水と合わせて眺めると、まるでヨーロッパの宮殿に来たような錯覚に陥ってしまいます。室内もまさに宮殿といった豪華さでしたが、残念ながら撮影禁止ですので、写真を掲載することは出来ません。
 シンメトリーな芝庭の先に、これも白亜の柵と門があります。どこかで似たような雰囲気の門を見た覚えがありました。ロンドン郊外のリージェント・パークです。かつては英国王室の所有する狩猟場でしたが、今は王立公園として公開されています。広大なバラ園がとても綺麗でした。

赤坂H


季節通信30西洋ヒイラギ

中小田井の五所社

 小田井遊水地(庄内緑地)を囲う堤防の下に「五所社」がある。堤防に上って両側を見ると、遊水地側の地盤より、社側の地面の方が低く見える。庄内川や小田井遊水地の堤防が如何に大切であり、これが決壊したら大変なことになると理解できる。
 五所社の由来書を見ると主神は八幡社で、ほかにも神明社・天神社・愛宕社・熊野社、5社を祀っている。天保12年(1841)の「尾張名所図解」に載っているが、創建は詳らかでないという。小田井城主織田氏が天文14年(1545)に修復したときの棟札が残っているので、これより古いものと思われている。

五所社G

 本殿は、かなり高い玉石積みの上に建てられている。これも大水の時の備えかもしれない。本殿以外にも、小さな祠がいくつか点在している。5社のほかに、津島社・秋葉社・国府宮社・金毘羅社などである。
 社群の前面に広場があり、その片隅に公民館や昭和39年に建立された殉国碑が建っている。その南には高い堤防の土手があり、ここにはクスノキやイチョウの大木が生い茂っていて、神社の古さを物語っている。

五所社H


中小田井の願王寺

 中小田井の町並みの中ほどに、大きなお寺がある。善光寺の別院で「願王寺」という。街道からの入り口に神社の象徴「鳥居」が建っている。これは神仏混淆(神仏習合)の名残であろうか。石畳の参道を歩くと「善光寺」と書かれた扁額のある山門に至る。
 山門の左右には、まだ木肌も新しい仁王様が屹立しており、柱には巨大な草鞋が掛けられている。あちらこちらのお寺の山門で仁王像を見ることがあるが、鳩除け?のためか金網が張ってある所がほとんどである。ここは網がないので、綺麗な写真を撮ることができた。

中小田井の寺G

 願王寺の創建は天長6年(829)と伝えられている。元々は天台宗、本山は比叡山延暦寺であるが、明治以降は信州善光寺の別院となった。宗派を問わないので、小田井だけでなく名古屋の西部からも多くの信者を集めたという。
 本堂は、昭和の初めに建立された建物を昭和50年に屋根を取り去り、柱などを残しながら新しい大屋根を架けたものである。ファサードは全面ガラス張りというユニークなデザインで、昭和52年の日本建築学会賞を受賞している。

中小田井の寺H

松坂城「御城番屋敷」

 本丸の南東にある裏門を出てしばらく行くと、お城番の屋敷が並んでいる。瓦葺の長屋が二棟、東棟が10戸、西棟は9戸、合わせて19戸である。建物は高い槇(マキ)の生垣で囲まれ、現在も住む人々の生活を、観光客の目から守っている。真ん中の小路は景観を配慮して、電柱はなく石畳が施されている。
 西棟の最北の1戸は松阪市が借用し、内部を創建当時の姿に復元して一般公開している。建物は5間×5間、いわゆる「田の字」になっており、裏面に角屋が付随して厠などになっている。築後140年を越え、老朽化も進んでいるので、鉄の円柱と鉄線などで補強が行われていた。

城番屋敷マップ

 元々の住民の方が案内員として常駐され、細かく説明してくれた。それによると、“紀州藩主から松坂に遣わされた与力(2~300石取りの藩士)が、家老家の陪臣となるように命ぜられたことに抗議して、安政3年(1856)に脱藩して浪人になった。”
 “その6年後、藩主の直臣として帰参が許され、40石取りの御城番に就いてこの屋敷を与えられた。” のだという。明治になって住民たちは、合資会社「苗秀社」を設立して建物の維持管理に当たってきた。現在は、国の重要文化財に指定されている。

城番屋敷G

名和昆虫博物館(再掲)

 “虫の魅力伝えて100年”・・・昨日の中日新聞夕刊が一面で伝えている。岐阜市岐阜公園に隣接する私設の博物館である。大正8年(1919)10月26日に開館して、昨日がちょうど100年目であった。現存する昆虫専門の博物館としては国内最古という。
 
 岐阜公園の南端に、岐阜市歴史博物館と並んで 「名和昆虫博物館」 がある。我が国有数の昆虫博物館で約1万8千種、30万点の標本を所蔵している。歴史も日本で最も古く、設立は明治29年 (1896) に遡ることができる。設立者で、初代館長でもある名和靖は、ギフチョウの発見者としても有名である。まだ若い岐阜県農学校助手の時代に、岐阜郡上の山中で新種の蝶を見つけた。
 最初は「名和昆虫研究所」として発足した。これは、害虫駆除や益虫保護を目的としたものである。明治40年に 「陳列館」 (現在の記念昆虫館)、大正8年に 「博物館」 (上の写真) を開館した。博物館の中には、色鮮やかな蝶や、世界から集められた珍しい昆虫の標本が展示されている。特にこの館の原点ともなった、ギフチョウの説明コーナーも設置されている。

名和昆虫館G

 博物館の前面に、「名和昆虫研究所記念昆虫館」 がある。これは明治40年に建てられた 「陳列館」 を保存するもので、岐阜市の重要文化財に指定されている。設計は、当時名古屋高等工業学校 (現名工大) の校長であり、高名な建築家でもあった武田五一によるものである。
 構造は、一階部分はレンガ積みで、その上に三角形の木造トラスを組んで二階としている。急勾配の鉄板葺き切妻屋根に、4か所の採光出窓を設けて変化をつけている。この形は、当時オーストリアに興った 「セセッション」 と呼ばれる建築様式の流れを汲むもので、日本における代表例の一つに数えられている。

高座結御子神社と高蔵貝塚

 高蔵結御子(たかくらむすびみこ)神社は昔から「高蔵さま」といわれ、熱田神宮の御祭神とともにこの地方開発の祖神として仰がれてきた。また、子育ての神様としての信仰も篤く、幼児の成育と虫封じを祈願する風習が東海地方一帯に広く知られている。
 境内は古くから「高座の森」として知られ、クスノキやシラカシ、ケヤキの大木がうっそうと繁り、いわゆる照葉樹の森を形成している。その中には、珍しいカゴノキの古木も混ざっている。境内に入ると周辺の暑さから一転して、涼しくてしっとりとした空気を感ずることができる。

高蔵貝塚マップ

 境内の一角に木製の看板が立っていて、ここに貝塚があった由来を記している。「高蔵貝塚」は明治41年(1908)に、市電の大津町線延長工事のときに発見された。弥生中期の壷型の土器や彫刻の施された馬の骨、歯などが発掘された。
 当時は、まだ弥生文化が石器を使用していたことや、馬を飼育していたこともはっきりしていない時代であったので、この発見により全国でも一躍有名な一大遺跡となった。当時の街の様子は上の古図を見るとよく分かる。(吉田富夫、服部鉦太郎による『名古屋に街が伸びるまで』より引用した)

高蔵貝塚G


季節通信44カゴノキ

高月院(松平家菩提寺)

 司馬遼太郎が、25年間書き続けた名著に『街道をゆく』がある。その最終巻は、NO43の『濃尾参州記』であるが、本の厚さが他のシリーズに比べて半分ほどしかない。それは、愛知のこの取材途中で体調を悪くし、その後急逝したためである。
 絶筆となったその本の、そのまた最終章が「高月院」である。司馬遼太郎は、このときの訪問(平成8年)の30年前にもこの地を訪れていて、とても清らかな印象を覚えているという。以下抜粋して引用・・・
  「高月院はいいですよ」 私は、同行の編集者にわがことのように自慢しておいた。
  白壁だけが、唯一の贅沢だった。規模は小さく、建物もやさしくて、尼僧の庵のようであり、
  いずれにしても私の脳裏にある日本の諸風景のなかでの重要な一風景だった。・・・

高月院マップ

 松平東照宮から東へ向かってなだらかな坂を300mほど登ると、大きな一本松があってその下に松平家菩提寺の門がある。門の扁額は杢の入った厚板で、「高月院」の文字が刻まれている。この門から階段上の中門までの間は少し広い砂利敷きで、両側には漆喰塗りの土塀が連なっている。
 白壁の高さはせいぜい4尺(1.2m)程度で、塀越しにはるか遠くまで見渡すことができる。左を見ると菖蒲池があり、その下方に東照宮の森が見える。右側は棚田で、綺麗に草刈された土手を見せながら段々に登っていく。司馬遼太郎が日本で最も美しいと折り紙を付けた風景である。

高月院G

清洲城

 清洲城は古い歴史をもつ。室町時代の応永12年(1405)に尾張国の守護職・斯波氏が、下津城(稲沢市)の別邸として建てたのが始まりという。この地は、鎌倉街道と伊勢街道の合流する要衝の地であり、文明8年(1476)に下津城が焼失した後は、清洲が尾張国の中心地となった。
 戦国時代の弘治元年(1555)、織田信長が那古野(なごや)城から入城、桶狭間の戦いではこ
の城から出陣したという。今川義元に勝利した後に、この城から天下統一への第一歩を踏み出している。下右の写真は信長の銅像、甲冑に身を固め、桶狭間の方向を睨んでいる。

清洲G

 清洲は、沖積層・濃尾平野の真っ只中、周辺はゆたかで広大な水田地帯が広がっている。東西交通の要でもあり、尾張全体を見渡すことができることから、信長没後も豊臣秀次、福島正則、松平忠吉、徳川義直(名古屋城初代城主)など錚々たる武将が城主となって尾張を治めた。
 信長の跡継ぎを決定するための、かの有名な「清洲会議」もこの城で行なわれた。しかし、関が原の合戦の後、大坂方への防御を固めるための城砦として、家康は熱田台地の北西端、名古屋の地を選択した。それは、清洲の地が低湿地にあり、水攻めに弱みをもつからだと言われている。
(下右は発掘された石垣の写真、軟弱な地盤のため松材による頑丈な「梯子胴木」が施されている)

清洲マップ


 ◆今日から元号が変わって「令和」、代替わりを意味する植物名をもつ「ユズリハ」をご紹介します。
季節通信41譲り葉

名古屋城本丸御殿

 名古屋城・本丸御殿の復元が完成した。昭和20年の大空襲で天守閣とともに焼け落ち、長く礎石だけしか見られない状態が続いてきた。平成21年から復元工事が始まり、昨年6月に完成したのである。天守閣に連なる小天守の東、ま新しい素木の建物がそれである。
 復元に当たっては、昭和初期に作られた実測図が残っていたのが幸いし、江戸時代の文献なども駆使して史実に忠実な建物が再現された。近世書院造りで総面積3100㎡にもおよぶ。屋根は「こけら葺き」、杉板を薄く割って竹釘で打ち付けて重ねていく。

本丸御殿マップ

 当初は、慶長20年(1615)に尾張藩主の住居かつ藩の政庁として、徳川家康の命により建てられたものである。尾張藩は、初代義直(家康の九男)が木曽山を拝領したこともあって、木曽の桧をふんだんに使用することができた。今回も木曽桧をたくさん使っている。
 下左は玄関の車寄、中へ入ると「一之間」「二之間」があり、来訪者を威圧するような虎や豹の襖絵がある。奥にある「上洛殿」(下右)は三代将軍・家光上洛に合わせて増築した建物で、贅を尽したつくりとなっている。格天井、欄間、襖絵などの豪華さに圧倒されそうになる。

本丸御殿G


花見通信3お花見

妙仙寺山門と臥龍の松

 岩崎城の東隣に丹羽氏の菩提寺「妙仙寺」がある。城址公園には、明治40年に妙仙寺和尚の記した「古城の趾」という石碑が立っている。落城の日の4月9日には、討死した城兵の慰霊祭が今も続けられているという。
 妙仙寺の山門は、三間一戸の楼門の形式である。楼門とは二階を持つ門をいう。寛政5年(1793)に再建された後、数度の改修を受けながら今日に至っている。幕末のころ、赤穂四十七士の姿を描く天井画が張られたが、今は取り外されて当寺に保存されている。

妙仙寺マップ

 山門を入り、本堂へと進む石畳の右に見事な松の木がある。まるで龍が横たわっているような姿をしているので「臥龍の松」と呼ぶ。高さ6.7m、枝張りは約12m、幹周りはなんと2.5mもある。日進市にあるクロマツでは最も巨木で、樹齢は400年と推定されている。
 巨樹の周りは、踏圧によって根が傷まないように、御影石の柱とチェーンによる柵が施されている。枝は多くの支柱丸太により保護されている。その丸太の根元に御影石の台座が据えてあるが、水がたまって腐らないように、排水用の切れ込みが入っている。古木を大切にする心とデザインマインドが垣間見えて、素晴らしい文化財だと感じた。

妙仙寺G

ナディアパーク

 市制100周年を記念して平成元年(1989)に開催された「デザイン博覧会」を契機として、名古屋市は「デザイン都市宣言」を行なった。ナディアパークは、その内容を盛り込んだ“国際デザインセンター”事業として建てられたビルである。平成8年に竣工している。
 地上12階・高さ70mのデザイン棟と、23階・108mのビジネス棟のツインタワーで、真ん中にガラス張りのアトリウムがある。アトリウム内広場の公開空地と南にある矢場公園は、階段と幅広いデッキでつながれている。(右の鳥瞰写真は、日建設計が作成した「栄地区ジオラマ」の一部である)

バディアG

 階段の中央に、金色に輝く大きな具象の彫刻が立っている。作者は、日展理事長も務めた文化勲章受章者・富永直樹氏である。守山区在住の篤志家夫妻が、青少年に夢を持ち続けてほしいと寄贈された。作品名は「夢の女神」である。
 幅広のデッキは、道路空間に光を入れるために大きな穴が空いている。ここには建築以前から植えられていたシイノキの大木が残されている。ナディアパークの敷地は、もともと前津中学の分校(夜間は中央高校)であり、南の矢場公園と一体的に利用されていた。名古屋の戦災復興都市計画事業では、より広い防災空間を確保するため、学校と公園とがセットで配置されている。

ナディア マップ


季節通信36桃の節句


名古屋テレビ塔

 名古屋でテレビが初放映されたのは、昭和26年(1951)のことである。その3年後にNHKの本放送が開始された。次いで、中部日本放送(CBC)がテレビ放送を始めたが、そうした新しいメディアの登場の中でテレビ塔が建設された。
 テレビ塔の開業は昭和29年(1954)のことである。高さは180m、当時は日本一高い建物であった。地上100mのところに展望台があり、6月20日の初日には約6000人もの見物客が展望台に登ったという。以来、戦災復興のシンボルである100m道路(久屋大通り)とともに、都心のランドマークとして市民に親しまれている。

テレビ塔G

 時は移り、テレビはアナログからデジタル放送への時代を迎える。テレビ塔はデジタル放送用の送信アンテナを添架するには強度不足と判断されたので、平成23年をもって電波塔としての役割を終えている。現在は瀬戸市にあるデジタルタワーから送信が行なわれている。
 地上高60mを超える塔や煙突は、航空法により赤と白に塗装する必要がある。しかし、このテレビ塔は銀色一色である。それは、法での規制が始まったのが昭和35年からであり、それ以前に建設されたこのテレビ塔には適用されないからである。銀色に光る姿は、「希望の泉」「オアシス21」など、どこからも美しい景観を見せている。(下右の写真は昭和29年当時に撮影)

テレビ塔H

丸栄の壁画

 中日ビルを話題にして、丸栄を掲載しないわけにはいかない。栄の百貨店「丸栄本店」は、すでに昨年6月に閉店している。完成は昭和28年(1953)、松坂屋・名鉄・三越と並んで「4M」と呼ばれて名古屋のデパートの代表であった。65年の長い歴史を閉じることとなったのである。
 建築の設計者は、日本を代表するモダニズム建築家・村野藤吾である。百貨店建築としては建築学会賞を受賞した唯一のものであり、「戦前の建物を基に増改築を重ねた珍しい建物」として評価の高いものであった。下の写真は、閉店記念セールで展示されていた模型である。

丸栄マップ

 この模型でも表されているように、西側の外壁に巨大な壁画が描かれている。高さ22m、横幅は17m、すべて小さなモザイクタイルで制作されている。建築を設計した村野のデザインで、緑色を基調に赤やオレンジ色を加えた、曲線や幾何学形の模様である。現在、保存のための移築先を探しているとのことである。
 丸栄は、大理石やアンモナイトの化石など貴重な石材が使用されていることでも有名である。
もう1つお客にとって印象的だったのは、エレベーターの扉である。作者は、昭和の美人画家・二科展のドンとも呼ばれた東郷青児である。この貴重な美術品も、再利用が検討されているという。

丸栄G

さようなら中日ビル

 名古屋市中心の栄にあり、広く市民に親しまれてきた 「中日ビル」 (正式には中部日本ビルディング) が、来年3月末で閉館する。昭和41年 (1966年) に開館しているので、既に50年以上を経過したことになる。老朽化に加えて、耐震性にも問題があるための立替えである。
 新しいビルは31階建・高さ170mの超高層ビル、床面積は11万㎡と現在の1.3倍となる。商業施設・事務所・多目的ホールに加え、これまでは無かったホテルも入るという。2024年の完成を目指している。

中日ビルG

 中日ビルには、数々の想い出をもつ人も多い。中日劇場で演劇を鑑賞、中日文化センターで色々な習い事、全国物産観光センターで地方の情報を得たりした。地下のレストランや居酒屋、屋上のビアガーデンも懐かしい。平成になってからは使われていないが、回転レストランもあった。
 何といっても、一階ロビーに思い入れが深い人も多いことと思われる。「名駅新幹線壁画前」 「栄クリスタル広場」 そして 「中日ビルロビー」 が名古屋の三大待合わせ場所だったように思う。吹き抜けエスカレーターの天井にあるモザイク画が目印だった。この矢橋六郎氏作になる天井画 「夜空の饗宴」 は、新ビルに移転する方針が決まっている。

中日ビルマップ

 ◆今日は12月31日大晦日、平成30年最後の日です。このブログも今年最後、これまで6年間に450回の発信をしてきました。来年はいよいよ新しい年号が始まります。これからも身を引き締めて「土木文化」を訪ね歩き、情報発信してまいりますので応援方よろしくお願い致します。

季節通信31蕎麦




香嵐渓・足助八幡宮

 「塩の道」 足助宿の入口に、大きな木々に囲まれた神社がある。「足助八幡宮」 という。紅葉と春のカタクリで有名な香嵐渓と、飯田街道を挟んだ反対側にある。香嵐渓の駐車場へ入る交差点にあるのだが、いつも渋滞に気をとられてあまり注目されないかも知れない。
 社伝によれば創建は古く、天武天皇の白鳳2年 (673) という。北に足助川が流れ、東を流れる巴川と合流して今度は西側を区切っている。南東には、飯を山盛りにしたような形の飯盛山が聳えている。東の青竜・西に白虎・南に朱雀・北は玄武と四神相応のめでたい神域といわれている。

足助神社マップ

 人だかりの多い拝殿 (下左の写真) の奥に、ひっそりと本殿 (上の写真) が柵に囲まれて鎮座している。様式は、前面の屋根を長く伸ばした流造りで、いわゆる 「三間社流造・桧皮葺」 である。文政元年 (1466) の再建といわれる。妻飾・像鼻・手挟や蝦虹梁などに特徴があり、室町時代の作として国の重要文化財に指定されている。
 拝殿の正面にひときわ高く聳える杉の大木がある。幹周り6.8m、樹高45.5m、樹齢は500年以上と推定されている。境内の入口近くに小さな木造の建物 (下右の写真) が佇んでいる。これは 「鐘楼」 の名残である。明治になるまで八幡社には神宮寺が併設されていたが、明治維新の神仏分離政策により撤去されてしまったのである。

足助神社G


季節通信26イチョウ

甚目寺の伽藍

 「津島上街道」 は勝幡・甚目寺・清洲を経由して名古屋に至る。甚目寺近くの道路わきに 「右つしまみち」 と刻まれた古い道標が立っていた。お寺の名前が町名にもなっていた 「甚目寺町」 は、今は七宝町・美和町の3つが合併して 「あま市」 になっている。
 “あま” は、もともとの “海部郡” に由来する。海部郡は、尾張の国の西端に位置する広域な平野で、大部分が木曽川の三角州に属し、沖積層と干拓地から成り立っている。古い街道や道端の道標などを見ると、その結びつきの深さを理解できる。

甚目寺G

 「甚目寺」 はその縁起によれば、推古天皇5年に紫金の聖観音像が安置されたことに始まるという。明治末期に発掘された瓦などにより、奈良時代以前に大伽藍があったことが確認されている。江戸時代には、尾張四観音の筆頭の格をもち、現在も節分会には多くの参拝客で賑わっている。
 南大門は、建久7年 (1196) に源頼朝の命により建立されたという。三間一戸の入母屋・柿葺 (こけらぶき) で、左右に仁王様が安置されている。三重塔は、三間三重塔婆で本瓦葺である。擬宝珠の銘に寛永4年 (1627) とあることから、建立年代は明らかである。いずれも国の重要文化財に指定されている。

甚目寺マップ

町並みの商店

 津島神社や天王川公園の界隈を、自転車で散策してみた。町全体が、「湊町」 や 「門前町」 の雰囲気を漂わせ、大正や昭和といった古くて懐かしいお店が点在している。その建物を見ると、構造や構成に共通したものを見ることができる。
 下の写真左はお菓子屋さん、川湊の真ん前にあって旅人へのお土産品を商っていたのであろう。中の写真は参道沿いのお茶屋さん、右は薬局で町の人たちの必需品である。瓦屋根の木造二階建て、ガラス戸も今風のアルミサッシでなく木製である。看板がすでに骨董品のように見える。老朽化も進んでいて耐震性には心配があるが、町並みとしては残して欲しい景観である。

津島のお店G

 “床屋さんの入口が面白いよ” と教えてくれた人がいる。確かに入口のドアが 「ヘの字」 に窪んでいるのである。道路に接して、平行してガラス窓があるのだけれど、ドアのところだけが斜めになっている。その理由をいろいろと、想像たくましく考えてみた。
 上の写真のお菓子屋さんなどは引き戸であるが、床屋さんは洋風に開き戸になっている。外に開くと道路に出てしまうので、空間を取ったのかもしれない。傘を畳むための雨除けにもなっている。他所の町で調べたことがないので一概には言えないが、このあたり共通の大工さんの工夫であったのかも知れない。

津島のお店H
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ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
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