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多治見の虎渓山・永保寺

 土岐川が大きくSの字に曲がる右岸、こんもりとした森の中に永保寺が佇んでいる。この地は、領主・土岐氏の山荘であり、鎌倉時代末期には泉石が構えられていたという。現在のような庭園が造られたのは、正和2年 (1313) 夢窓国師が入寺してからのことである。土岐氏の帰依を得て、この山荘を寺にしたのである。
 大きな池に太鼓橋 (無際橋) を架け、渡り切った北側に 「観音閣」 を建立した。太鼓橋の真ん中には、桧皮葺の屋根をもつ 「亭」 があり、庭園の眺めを引き締めている。観音閣は正和3年建設のまま残されており、現在は国宝に指定されている。桧皮葺屋根の4隅の先端が大きく反り返っており、中国の寺院の特色をもっている。

永保寺マップ

 観音閣の西側には、小山のような大きな岩があり、「梵音巌」 と名付けられている。岩山の頂上には、「霊擁」 と呼ぶ六角形の小堂が建てられていて、その横から細流れが滝のように落ちている。円錐形の岩山は、そっくりそのままに池に姿を映しており、小さいけれど逆さ富士のような趣を呈している。
 向かって右側には、本堂、庫裏が並んでいる。庫裏の前に大きなイチョウの木が聳えている。高さ25m、幹周り4m、葉張り20mという大木で創建当時に植えられたということから、約700年以上の樹齢をもつものと思われる。平成15年に本堂と庫裏は火災により全焼してしまったが、このイチョウは被害を受けることがなかった。庭園全体は名勝に指定されている。

永保寺G

名和昆虫博物館

 岐阜公園の南端に、岐阜市歴史博物館と並んで 「名和昆虫博物館」 がある。我が国有数の昆虫博物館で約1万8千種、30万点の標本を所蔵している。歴史も日本で最も古く、設立は明治29年 (1896) に遡ることができる。設立者で、初代館長でもある名和靖は、ギフチョウの発見者としても有名である。まだ若い岐阜県農学校助手の時代に、岐阜郡上の山中で新種の蝶を見つけた。
 最初は「名和昆虫研究所」として発足した。これは、害虫駆除や益虫保護を目的としたものである。明治40年に 「陳列館」 (現在の記念昆虫館)、大正8年に 「博物館」 (上の写真) を開館した。博物館の中には、色鮮やかな蝶や、世界から集められた珍しい昆虫の標本が展示されている。特にこの館の原点ともなった、ギフチョウの説明コーナーも設置されている。

名和昆虫館G

 博物館の前面に、「名和昆虫研究所記念昆虫館」 がある。これは明治40年に建てられた 「陳列館」 を保存するもので、岐阜市の重要文化財に指定されている。設計は、当時名古屋高等工業学校 (現名工大) の校長であり、高名な建築家でもあった武田五一によるものである。
 構造は、一階部分はレンガ積みで、その上に三角形の木造トラスを組んで二階としている。急勾配の鉄板葺き切妻屋根に、4か所の採光出窓を設けて変化をつけている。この形は、当時オーストリアに興った 「セセッション」 と呼ばれる建築様式の流れを汲むもので、日本における代表例の一つに数えられている。

正法寺の大仏

 金華山の山裾に、これほど多くの寺社があることも知らなかったし、これほど立派な大仏様がいらっしゃることも知らなかった。「正法寺の大仏」 は、奈良・鎌倉に次ぐ日本三大大仏と謳われている。正法寺は歴史博物館や名和昆虫館のすぐ近くにあるのに、これまで一度も足を運ぶことがなかった。
 このお寺の第11代和尚は、度重なる大地震や飢饉への厄除けの祈願を立て、2代38年の苦行を経て天保3年 (1832) にようやく、この大釈迦如来像を完成したのだという。高さ13.7mの仏像は、直径60cmのイチョウの丸太を真柱とし、骨格は木材を組み、竹を編みこんで粘土を塗り、お経を張った上に漆を施し、表面に金箔を張った 「乾漆仏」 である。

岐阜大仏マップ

 三層の大仏殿も立派である。正面から見る唐波風造りの屋根や花頭窓が個性的である。薄暗い堂内では、優しいお顔の仏様が、泣いているようにも微笑んでいるようにも見える。右手は 「施無畏印」、左手は 「与願印」 の印相をもっている。胎内仏として薬師如来像が安置されているという。
 お堂の外に出ると立派な多宝塔が目に入る。この塔は江戸中期の作で、当初は伊奈波山の中腹にある伊奈波神社に置かれていたが、明治10年の 「神仏混淆禁止令」 の難を避けるために当寺に移されたものという。日本では長きに亘って神と仏を一つところに祀ってきたが、明治になって禁止の措置が採られた。このため貴重な仏像など、数多くの宝物が廃棄 (廃仏毀釈) されたという。

岐阜大仏G

ささしまライブ24

 久しぶりに 「ささしまライブ」 を見たいと考え、名古屋駅から南の方へ歩いていった。駅周辺の賑わいは笹島の交差点あたりまでで、レジャックを越えるとほとんど人通りが絶えると思っていた。ところが、交差点を越えても若い人たちを中心に、どんどん南へ向かって人々が流れていくのである。私も一緒にしばらく歩いて右へ曲がり、鉄道のガードをくぐると目の前に銀色に輝く真新しい町が広がっていた。
 「ささしまライブ24」 は、旧国鉄の笹島貨物駅 (12.4ha) および中川運河終点の船だまりの水面を一体的に大規模開発する事業である。2027年のリニア新幹線開通を見越して、名古屋の玄関に相応しい商業・ビジネス・観光・文化などの機能を充実しようとするものである。

笹島F

 今日10月2日、その中心ともなるタワービル 「グローバルゲート」 内の「名古屋プリンスホテル」 がオープンした。36階建てのビルの内、31階から36階までを占め、170室の客室と、レストラン・ラウンジ・フィットネスなどの機能をもつホテルである。5階から30階までのオフィスはすでに4月にオープンしている。4階までの低層棟にあるコンベンションホールや商業施設は今月のオープンである。
 グローバルゲートの南の区域には、愛知大学の校舎や映画館などのレジャー施設、中京テレビやジップ名古屋といった報道施設のビルなどが建ち並んでいる。名古屋駅からは、あおなみ線に乗り 「ささしまライブ」 駅で降りると便利である。

笹島マップ2

関宿の塗籠

 関宿の町屋は比較的新しく、最も古いもので18世紀中ごろの建築、明治中ごろまでの建物が半数以上を占めている。道路に面して 「平入り」 の二階建てが一般的で、一階は格子戸、二階は土壁で覆った 「塗籠」 のものが多く見られる。
 一階の庇の下に取り付けられた板張りは 「幕板」 と呼び、店先を風雨から守る霧除けである。座敷の前の出格子も関宿の特徴で、座敷を広くする方法である。近年は、町の魅力向上のため軒下に花を飾る家が多い。

関宿G

 二階の漆喰壁は、もちろん防火を意図したものであるが、一階の黒っぽい格子戸と対比して町全体を明るく見せる効果がある。二階の窓も格子窓であるが、ここも漆喰で塗り固めている。「虫籠窓」 といい、家ごとに様々なデザインが施されている。たぶん、大工や左官の腕の見せ所であったのだろう。
 店の格子戸の前などに、面白い物を見つけた。上げ下げできる棚状のもので、「ばったり」 と呼ぶとの説明が付いていた。商品を並べたり、旅人が座ったりしたという。
 よくよく見ないと気が付かないような小さな施設だが、玄関の柱に金属の輪っかが付いている。これは 「馬つなぎ輪金具」 である。土台に近い低い位置に付いているものもあり、それは牛をつなぐものだという。説明板には、“輪金具に 手綱つながれ 馬や牛” との句が記されていた。

関宿H

関宿の地蔵院

 関は古代から交通の要衝であり、古代三関のひとつ 「鈴鹿関」 が置かれていた。江戸時代には、東海道53次の江戸から数えて47番目の宿場として、参勤交代や伊勢参りの旅人で賑わいを見せていた。現在、旧東海道の宿場町のほとんどが旧態をとどめない中にあって、数少ない町並みを残す町として、昭和59年に 「重要伝統的建造物群保存地区」 に指定されている。
 宿場の東西の端に追分がある。東の追分は、名古屋方面に向かう東海道と伊勢へと至る伊勢別街道との分岐点である。西の追分は、京への道と伊賀から奈良へと向かう大和街道との分かれ道である。関宿の町並みが続く長さは約1.8km、江戸から明治にかけて建てられた古い町家が200軒近くも残されている。

関地蔵院マップ

 宿場の中心に地蔵院がある。このお寺の歴史は古く、天平13年 (741) に遡るという。奈良東大寺の僧・行基が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この地に地蔵菩薩を安置したと伝えられている。日本最古の地蔵菩薩である。
 本堂は寄せ棟づくりの瓦葺。柱や梁、破風などを朱に塗られた鐘楼が印象的である。いずれも国の重要文化財に指定されている。境内を囲う土塀を内側から見ると、柱間ごとに窓が開いていて、中にそれぞれお地蔵様が座っている。“関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろ” と俗謡にも謡われたほど、人々に親しまれてきた寺院である。

関地蔵院A

亀山城と城下町

 伊勢亀山では文永2年 (1265) に関氏により城が築かれたが、元亀4年 (1573) に織田信長により追放されてしまった。新たに築城されたのは天正18年 (1590) に岡本氏が入城したときで、本丸・二之丸・三之丸をつくり、天守閣も建てられたと 『九九五集』 に記録されている。
 その後、城主は8家がめまぐるしく入れ替わったが、石川氏が城主となって以降は安定し、11代で明治を迎えるまで変ることがなかった。しかし、明治6年の廃城令によりほとんどの建造物は取り壊され、現在は多門櫓と石垣・土塁・堀の一部が残されているにすぎない。

亀山城マップ

 多門櫓 (上の写真) は、原位置のまま遺存する県下唯一の城郭建築で、昭和28年に三重県の文化財に指定されている。高さのある見事な石垣は天然石の野面積みで、400年を経た今日でもしっかりと櫓を支えている。
 亀山6万石の城下町は、東海道の宿場町でもある。江戸時代は繁栄を極めたが、明治になって鉄道が開通し、さらに亀山駅が500m以上も離れてできたこともあって、その賑わいは衰退した。しかし、お城周辺の旧東海道沿いには、往古を偲ばせる旧跡も多く、昔の趣を色濃く漂わせている。
 市では平成20年より、「歴史まちづくり法」 に則った 「歴史的風致維持向上計画」 を策定して、一体的な保存整備に取り組んでいる。

亀山城B

大須観音 (真福寺)

                                 ≪2014年1月10日の記事を再掲しました≫
 名古屋城と熱田神宮の中間地点に大須の町がある。江戸時代から大須観音の門前町として栄えた歓楽街で、今もユニークな商店街として賑わっている。

大須観音1

 この大須観音 (真福寺) に日本で最も重要なお文庫 「大須文庫」 があることを知る人は意外に少ない。本堂の左翼 (東側) に木の看板が掲げられているが、本堂の賑わいとは裏腹にひっそりとしている。しかし、ここには、国宝 「古事記」 (真福寺本=現存する最古の写本) や40点以上の重要文化財を含む約15000点もの古典籍が収蔵されているのだ。
 この寺院は、もともとは木曽川中州の岐阜県羽島にあった。しかし、この地は地盤が低く、たびたび水害に襲われていた。徳川家康はこの貴重な蔵書を水難から守るため、慶長17年 (1612) に新しい城下町・名古屋にお寺ごと移転したのである。

大須観音2

 古事記は、かつて東京国立博物館に収蔵されていた。これは、大須観音では充分安全な保存が困難であるとの配慮であったが、名古屋市博物館の完成と名古屋市民の熱意が実を結んで、今は名古屋に帰されている。一昨年、名古屋市博物館で 「古事記1300年・大須観音展」 が開催された。これは大須観音の移転400年を記念するものであった。

大須観音マップ

六華苑(旧諸戸清六邸)

 「桑名の渡し」 近くに、山林王と呼ばれた実業家・諸戸清六氏の旧邸 「六華苑」 がある。約1.8haもの広大な敷地につくられたこの邸宅は、洋館と和館、蔵などの建築物群と池泉回遊式の日本庭園からなり、大正2年に完成している。
 円筒形の塔を持つ洋館部分は、鹿鳴館などを設計して 「日本近代建築の父」 と呼ばれたジョサイア・コンドルの作品である。東側の長屋門から入り、みどり豊かなアプローチを進むと正面に鮮やかな空色をした、螺旋階段を内臓した円筒形4階建ての棟屋が目に入る。通路は、その隣にある白い円柱をもつ玄関車寄せへと導かれていく。

六華園マップ

 南に広がる芝生広場へ回ると、明るい色調の洋館と、黒い屋根瓦や柱で構成された和館とが対照的に並ぶ景色が見える。洋館の一階には幅広いベランダがあり、二階はガラス張りのサンルームになっている。各部屋にある暖炉やシャンデリアは、シンプルなデザインであるが、細部にまで配慮が行き届いている。興味深いのはトイレで、大正の始めからすでに水洗式になっていた。
 コンドルは、明治政府に 「お雇い外国人」 として英国から招かれた建築家である。建築の設計だけでなく、工部大学校造家学科 (現東大) の教授として、多くの建築家を育てた。その中から、辰野金吾や片山東熊などといった有名建築家も巣立った。25歳で来日した後、41歳で日本女性と結婚し、67歳で没するまで日本に滞在した親日家でもある。平成9年に国の重要文化財に指定された。

六華園B

桑名城の「蟠龍櫓」

 桑名城は、揖斐川が伊勢湾に流れ込む河口の近くにある。関ヶ原の戦い直後の慶長6年 (1601)、徳川四天王の一人・本多忠勝は伊勢桑名10万石に封ぜられ、この地に築城を始めた。城は慶長15年に完成したが、その7年後には松平氏が入城し、幕末までこの地を治めた。
 桑名城は、その地形が扇に似ていることから 「扇城」 とも呼ばれていた。江戸時代には、桑名の読み “クワナ” を中国の美しい「九華扇」 と掛け合わせて、九華 (クハナ) と書いていた。城跡一帯は現在、公園として整備されており、「九華 (キュウカ) 公園」と命名されている。お堀と花菖蒲の美しい公園である。                            

桑名城マップ

 歌川広重の浮世絵に見るように、桑名は渡し舟の湊として描かれている。帆舟の奥に描かれているのは城郭の南端、伊勢湾(当時は川でなく海であった) に突き出た「蟠龍櫓」 である。熱田湊から七里の海路を舟で渡ると最初に見えてくるのがこの櫓で、旅人にとっては印象的なシンボルであったのであろう。 
 写真の建物は、高潮警戒時に3つの水門を操作する水門統合管理所である。この位置が、かつての蟠龍櫓があった所であることから、絵図などの資料を参考に外観復元したものである。享和2年 (1802) の絵図では、単層入母屋づくりの屋根に 「蟠龍瓦」が描かれており、その姿も復元されている。「蟠龍」 とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍をいい、航海の守護神として設置されたものと考えられている。遠くに見えるのは、長良川の河口堰である。

桑名城B

地下街のトイレ

 名古屋の都心・栄の地下街 「サカエチカ」 の真ん中に 「クリスタル広場」 がある。一日の通行者が10万人を数え、デートなどの待合わせにもよく使われる所である。この広場のコーナーにあるトイレがこのほどリニューアル・オープンした。以前より明るく美しくなったので、利用者が格段に多くなり、特に女性の利用は3倍にも増えたという。
 トイレの重要さは最近特に見直されており、高速道路のサービスエリアや、観光地、デパートなどの公共的な施設では、競って綺麗なトイレを提供している。海外からの観光客が2000万人を越える今日、内外のお客様のために 「おもてなし」 の心を表す意味もある。政府も平成27年に、「日本トイレ大賞」 という制度を設け、快適・清潔・安全なトイレの整備を奨励するようになった。

栄トイレマップ

 サカエチカのトイレは、“あたかも路地に一歩入ったかのような、都市の喧騒から逃れた心和らぐ憩いの空間” を創出する思いで、「五感で感じる」 「ユニバーサルデザイン」 「おもてなし」 をコンセプトに設計された。特に印象的なのは、白と黒・ブラウンをベースにした清潔感のある色調、中央にあるキッズトイレの可愛らしいデザイン、待合スペースに流れるオルゴールの音色などである。
 昭和44年に開業したサカエチカが再来年50周年を迎えるに当たって、全面的なリニューアルを行なう先駆けとしてのトイレ整備である。設計は当社・中部復建 ㈱ の建築部が受託し、女性の感性を重視するために建築家・山口ゆずみ氏の力をお借りして行なった。

サカエチカE

中山道太田宿の脇本陣

 木曽川が飛騨川と合流し、山地を出たところに美濃太田の平地がある。木曽川は再び鵜沼と犬山の谷間を抜けていよいよ濃尾平野へと流れ出すのである。中山道はここで木曽川を渡ることとなるが、昭和2年 (1927) に太田橋が架かるまでは渡し舟に頼っていた。歌川広重の浮世絵にもその様子が描かれている。平常時で85間 (約155m) もある「太田の渡し」は、中山道の三大難所といわれていた。
 太田の宿は、東西の長さ6町余 (約700m)、本陣・脇本陣・問屋場・旅籠屋など118軒が軒を連ねていた。また宿の西には 「尾張殿地方役人出張役所」 が置かれていた。木曽川を所領する尾張藩にとってこの地は、木曽川を渡った対岸 「美濃」 への橋頭堡であり、中山道を押さえる重要な拠点だったのであろう。

太田宿マップ

 宿場の中ほどに、元本陣の立派な門 (下の写真) が残されている。これは、皇女和宮が徳川14代家茂に嫁ぐため下向した際に新築されたものだという。本陣の門の向い側にある脇本陣は、ほぼ原型のまま保存・使用されている。「旧太田脇本陣林家住宅」 と称し、国の重要文化財に指定されている。主屋は明和6年 (1769) に造られ、表門や袖塀・裏の土蔵などは天保2年 (1831)に建築されたという。主屋の両端には 「うだつ」 があり、この建物の権威を示している。
 この脇本陣には、歴史に残る多くの旅人が宿泊した。槍ヶ岳に初めて登頂して開山した播隆上人は、度々太田宿を訪れ、この林家で没することとなった。板垣退助は明治14年、岐阜で遊説中に刺客に刺され “板垣死すとも自由は死せず” と絶叫して亡くなったが、その前日に逗留したのもこの宿であった。

太田宿A

(ご当主の林由是氏は、昨年末に97歳でお亡くなりになりました。氏は、名古屋花菖蒲会の重鎮として長く会を支えられました。ここに哀悼の意を表します。)

犬山有楽苑の「如庵」

 犬山城の東側、名鉄ホテル南側の庭園 「有楽苑」 の中に国宝 「如庵」 が建てられている。「有楽」 とは、織田有楽斎 (1547~1621) のこと。信長の実弟で 「茶の湯」 創成期に、尾張の生んだ大茶匠である。有楽はもともと武将であったが、晩年は武家を捨て茶人となり、京都建仁寺の正伝院を隠棲の地とした。
 「如庵」 は、その境内に元和4年 (1618) ごろ建てた茶室である。二畳半台目で屋根は柿葺、有楽好みの端正な外観を示している。明治以降は各地を転々とする事態となったが、ようやく有楽の生まれ故郷のこの地に帰りついたのである。隣の建物は、同じように移転してきた 「旧正伝院書院」 であり、国の重要文化財に指定されている。

有楽苑マップ

 建仁寺の塔頭の多くは、明治の廃仏毀釈により廃寺となった。細川家始祖の菩提寺 「永源庵」 も廃止されることとなったが、正伝院と合わせて 「正伝永源院」 とすることにより、その名を残せることとなった。正伝院は、永源庵の地に移転することとなったので、その建物のうち 「如庵」 や 「書院」 は手放さなければならなくなったのであろう。一時は東京に移転していたが、犬山に安住の地を得たのである。
 現在、正伝永源院には、同じような姿形に復元された如庵が建てられている。また、寺の入口近くには、織田有楽斎の石塔が建てられていて、有楽斎の事跡を留めている。

有楽苑B

中津川宿の「うだつ」

 中山道は、名の通り山の中を進む道である。全長135里 (約530km) におよび、69の宿場があるが、そのうち28 (40%) もの宿が長野・岐阜両県に置かれていた。中津川宿は、奈良・平安の時代から街道の要所であり、中山道の中でも特に賑わった宿場のひとつである。
 全長1100m、本陣・脇本陣・旅籠30が軒を並べていた。中津川と四ツ目川に挟まれ、直角の曲がり角「枡形」に当たる位置に二つの立派な建物が残されている。下の写真は造り酒屋で、4本もの 「うだつ」 が上がっている。「うだつ」 は、隣家からの延焼を防ぐ防火のための壁に屋根を付けたものであるが、裕福な家しか上げることができなかったので「うだつがあがらない」という慣用句ができた。蒸し上げたお米を保温するため、藁縄で丁寧に巻かれた大樽が展示されていた。

中津川宿D

 造酒屋との対角線に、面白い形をした 「うだつ」 がある。旧中川家の一部で、2軒が連なる長屋になっている。街道に接する壁の上に立つ 「うだつ」 が、2か所で 「への字」 に曲がっていて個性的である。案内看板には説明されていなかったが、道路が同じ形で曲がっており、道路際いっぱいまで家を建てたため、壁・うだつともに曲げて作ったものと思われる。

中津川宿マップ

岩村の城下町

 駅に隣接する喫茶店で電動のレンタサイクルを借り、岩村の城下町を散策した。城郭自体は急な坂や階段であるが、城下町もお城へ向かって緩やかな登りになっている。寄せ手に対して、坂の上から攻撃できる山城の有利な形態であると思われる。
 古い町並みは、近世以来の商業活動によって栄えた商家により構成されている。全体によく保存整備されており、重要伝統的建造物群保存地区 (重伝建) に指定されている。ちょうど、町の文化や楽しみを紹介するテレビレポートのクルーが取材しているところだった。

岩村城下町マップ

 町の中ごろで、古い建物の改修工事が行なわれていた。「曳家」 により移動するのかと思って近くの人に聞くと、基礎を頑丈にするため一旦持ち上げているのだという。地震に対する備えであろうが、古い建物を保存するには多くの費用も必要である。

岩村城下町B

 江戸時代に建てられ、藩主も度々訪れたという木村邸は、玄関・座敷・書院・庭園などがよく保存されている。囲炉裏のある部屋もあって、町屋の文化と風情を味わうことができる。道路沿いに杉玉を飾っている造り酒屋の奥には、土蔵などで囲まれた中庭があって、地元の山野草などが植え込まれていた。

岩村城下町C

岩村城

 ブログの発信がずいぶんと間が空いてしまいました。12月に入って初めての更新です。実は私のパソコンが壊れてしまったのです。大量の写真やデータが取り出せなくなってしまいましたので、青ざめてしまいましたが、何とか直すことができました。また、気を取り直して発信してまいりますので、アクセスいただきますよろしくお願いいたします。

 岩村城の歴史は古く、鎌倉中期の文治元年 (1185) にまで遡るという。頼朝の重臣加藤氏 (後に遠山氏) が代々居城としてきたが、戦国時代に大きな波乱があった。この地は、甲斐の武田氏にとって上洛のためにはどうしても欲しい場所であり、尾張の織田家にとっても、信濃への道筋の拠点に当たる重要な地であった。
 女城主として名高い “岩村御前” は、織田信長の叔母に当たる女性だという。武田勢の大軍に包囲されながらよく耐えて戦ったが、ついに和議に応じて武田方に付いてしまった。時移って武田が長篠の合戦で大敗した後、岩村城は信長軍に包囲され、岩村御前も和議を許されずに滅ぼされてしまったという。

岩村城E

 岩村城は、日本百名城に選ばれ、また日本三大山城にも数えられている。本丸は、海抜717mもの高地にあり、一之門をくぐってからも更に急な階段や坂道を登ったところにある。右の写真はずっと下方にある太鼓櫓で、藩主の邸宅や藩校「知新館」の近くにある。
 知新館正門の横に綺麗に紅葉した樹形の美しい木があった。説明板によると、ウルシ科のトネリコバハゼノキという種類で、中国では「楷樹」といい孔子の墓所に植えられているという。日本には、湯島聖堂など儒学と特別な関係のあるところに分け与えられていて、この木は湯島聖堂から苗木を譲られたものだという。

岩村城F


中山道 下ノ諏訪宿

下ノ諏訪宿は、中山道と甲州街道の接点にあり、交通や軍事上の重要な地であった。元は、諏訪大社の門前町や温泉地として発展したが、江戸時代になって中山道六十九次の宿場町として賑わった。町並の長さは4町50間 (約530m)、甲州街道の分を含めると8町49間 (約960m) になるという。
 宿場の中ほどに問屋場を兼ねた本陣が置かれ、大名や公家などの宿となった。文久9年 (1861) の皇女和宮が降嫁のため江戸に向かう際には、この本陣・岩波家にお泊りになった。また、明治13年に明治天皇が各地をご巡幸されたときにも、小休所として利用された。現在も建物や庭園の一部が残されていて、町の文化財に指定されている。

下ノ諏訪宿マップ

 両街道が交差する辺りに 「下諏訪町立歴史民族資料館」 があり、宿場や皇女和宮についての資料を展示している。また、建物そのものが明治初期に建てられた旅籠としての展示物になっている。街道に面する表側は「出梁造り」といい、一階の梁を突き出して二階を乗せたもので、旅籠屋だけに許されていた。一階にも二階にも、細かい格子が付けられている。入口には板でできた 「大戸」 が嵌められていて、大名などの荷物の出し入れには利用されたが、普段は 「くぐり戸」 が使われていた。

下ノ諏訪宿D

諏訪の高島城

 天正18年 (1590年)、2万7千石の諏訪城主となった秀吉の家臣・日根野氏は、諏訪湖畔のこの地を選んで城を築いた。もともと安土城や大坂城などを手がけた築城の名手で、見事な名城は湖上に浮いているように見えることから別名 「諏訪の浮城」 とも呼ばれていた。
 関が原の合戦後は、徳川方に属した元の城主諏訪氏が藩主となり、10代270年の長い間、居城として諏訪を治めた。しかし、明治4年 (1871) 廃藩置県が行なわれると、城郭の撤去が決定し、明治8年に天守閣などが壊されてしまった。復興されたのは昭和45年、天守閣と同時に冠木門や角櫓なども復元された。現在、高島公園として公開されている。

高島城マップ

 天守閣の西、美しい松の根元に 「亀石」 と呼ばれる大石がある。元は城内の庭石だったが、明治になって城外の庭園に移されていた。平成19年になって市民の願いもあり、132年ぶりに元に戻すことができた。この石に水をかけると、まるで生きた亀のようになり、願いが叶うという。
 北側には、たくさんの穴の開いた奇妙な石が置かれている。これは 「石集配湯枡」 という。享和3年 (1803)、7代藩主が三之丸に浴場を設けた際に、湯を引くためにつくったものである。木製の 「木樋 (きとよ) 」 をつなぐ枡で、集湯や配湯を行なうための装置である。
高島城A

宮の宿

                                               ≪再掲:2015・4・7≫
 熱田神宮の門前町で「熱田宿」ともいう。天保14年(1843)の記録には、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠248軒あったという。桑名への海上7里の渡し場があり、大垣までの佐屋路・岐阜までの美濃路の分岐点であり、さらに62万石の城下町名古屋の表口として、街道一の賑わいを見せていた。
 江戸時代に描かれた数々の絵図が残されていて、当時の宿場町の様子を知ることができる。文化3年(1806)に成立し、文化13年に転写された「熱田宮全図」(西尾市岩瀬文庫蔵、下の図はその部分)を見ると、停泊する舟の様子や常夜灯・浜鳥居・浜御殿・建ち並ぶ旅籠の様子がよくわかる。鳥居から真っ直ぐ通る道は、熱田神宮への参道である。

宮の宿5

 現在、古い建物はほとんど残っていないが、宮の渡し公園のすぐ北に古風な建物がある。名古屋市指定建造物「丹羽家住宅」である。丹羽家は幕末のころ、伊勢久と称し、脇本陣格の旅籠だった。正面の破風の付いた玄関は、当時の格式の高さを偲ばせている。

宮の宿マップの2

毘沙門天(香久山妙法寺)

 田子の浦港の東、吉原宿と原宿の間に、個性的なお寺がある。「毘沙門天」、正式名称は 「妙法寺」 である。元々は、祈祷を行なう毘沙門堂と、仏事を行なう妙法寺という性格の異なる二つのお堂から成り立っているという。写真左が毘沙門堂で、右端のドーム屋根が妙法寺の錬成道場である。
 沿革によれば、今から1200年ほど前、山伏たちが海抜0mの海岸から富士山に登るための “みそぎ” をした道場が起源だとある。寺領は広大で、3万坪 (10ha) を越える。戦国時代には、甲斐武田氏の東海道進出の砦となり、江戸時代には、徳川御三家紀伊公が長く逗留したこともあった。

毘沙門天マップ

 お堂の中のご神体は拝見できなかったが、境内に石像が立てられていた。毘沙門天は多聞天とも呼び、須弥山中腹の四方の門を守る四天王 (持国天・増長天・広目天・多聞天) の一人である。四天王の信仰は飛鳥時代からあり、聖徳太子が四天王寺をつくったことは広く知られている。
 階段を登って鳥居をくぐると、四方の屋根に龍の飾られた極彩色のお堂があって目を引きつけられる。中国様式で 「龍神香炉堂」 という。旧正月の3日間開催される 「毘沙門天大祭」 は、数十万人の参拝客で賑わうという。このとき、全国からたくさんのダルマ屋が集まることから、全国一の「だるま市」としても有名である。

毘沙門天D

防災倉庫

 富士市新橋町に防災倉庫を見つけた。老人憩いの家を兼ねた公民館の駐車場に建てられている。中は見ていないが、救助のための道具や医薬品、非常食などが貯えられているのだろう。すぐ近くに海抜を示す標識があった。地表から1mほどのところが3.6mと記してある。
 大地震により5mもの津波に襲われると防災倉庫自体が水を被ってしまう。公民館もコンクリート造りではあるが、2階や屋上に逃げ込めば大丈夫なのだろうか?間近に迫るという南海トラフ地震や、かなり以前から危惧されている東海沖地震を考えると、災害への備えはどれだけやってもやり過ぎということはないように思う。

防災倉庫マップ

 沼津市で「狩野川堤」を歩いてみた。60年ほど前に伊豆半島や関東地域を襲った 「狩野川台風」 を思い出す。昭和33年9月27日、神奈川県東部に上陸した台風22号のことである。風害は比較的軽微であったが、時間120mm、総雨量750mmを越える豪雨が伊豆半島の山地に降り、狩野川流域に大被害をもたらしたのである。
 上流域では、戦中・戦後の木材伐採のために荒れている山地が鉄砲水や土石流を起こし、中流域の修善寺あたりでは橋桁にひっかかった流木がダムとなって水を堰きとめ、そのダムが決壊したために下流域で大水害を発生させたのである。流域だけで800人を超す被害者があったという。災害は忘れた頃にやってくるという。伊勢湾台風や阪神淡路大震災、東日本大震災や熊本地震を永く心に刻み、次の災害に備えなければならない。

防災倉庫D

富士山と煙突

 東海道新幹線で東京方面へ向かうときの楽しみのひとつは、車窓から富士山を眺めることである。座席が進行方向左の窓際に取れ、天気が良いという好条件が揃ったときに初めて願いが叶う。海外からの観光客でもなく、新幹線初心者でもないけれど、そんな日は写真に収めようとカメラを構えてしまう。
 ところが富士川を渡り、今こそと思ってもなかなか良い写真は撮れない。手前に電線や家屋、ましてや煙を吐く煙突などが写ってしまうと、写真が台無しになるのである。高速で走る列車から撮ろうなどという物草がいけないのだが、なかなか降り立って写真撮影する余裕はない。せっかくの世界遺産なのだから、いっそ景観に配慮して煙突を無くせば良いとも思うのだが、産業との兼ね合いを考えれば無理な願いかもしれない。

製紙工場マップ

 富士山南側の麓、富士市には製紙会社が多い。紙を作るには大量の水が必要であるが、この地は富士山の伏流水という良質な水が得られるのである。また、東名高速道路や田子の浦港など交通の便が良いので、原料となる古紙の運搬や首都圏への製品の輸送にも好都合なのである。現在、日本製紙富士工場など、製紙工場の数は日本一を誇っている。

製糸工場B

落合宿の本陣とお助け釜

 「木曽路はすべて山の中である」、島崎藤村の 『夜明け前』 の書き出しである。海岸沿いを走る南側の東海道に比べて、北側を進む中山道は、名の通りまさに山中の街道である。中山道が整備されたのは江戸時代初期・寛永年間 (1630年ごろ) のこと。総延長135里 (約520km)、69の宿場があった。東海道より距離は長く登り下りも多いが、大河川の渡しなどを避ける利点もあった。
 落合宿は江戸から44番目、馬籠宿と中津川宿の間にある。幕末の頃の記録 「中山道宿村大概帳」 によれば、宿場町の長さ390mで家の数は75軒だったという。その中に、本陣と脇本陣がそれぞれ1軒、旅籠は14軒が含まれていた。

落合宿マップ

 本陣は、文化年間の度重なる火災により焼失したが、文化15年 (1818) に復興された建物が今も残っている。下の写真に見る立派な門は、加賀前田家から寄進されたものである。文久元年 (1861) 皇女和宮内親王が徳川家に降嫁する折、御小休されるのに使われたほか、明治13年 (1880) の明治天皇行幸にも御小休のために使用されたという。
 宿場の中ほどに丸太の小屋があり、その中に「助け合い大釜」が置かれている。和宮の大通行時には、4日間で2万6千人もの人々が通行したので、暖かいおもてなしをするためにかまどは炊き続けられたという。もともとは、寒天の原料の天草を煮るために作られたものであるが、今は様々なイベントにも使用されている。

落合宿G

清見寺(朝鮮通信使遺跡)

 清水港を見下ろすこの地は、山が海に迫り、自然の要害をなす地勢である。古くは、東北の蝦夷に備えて関所が設けられていたので 「清見関」 と呼ばれていた。戦国時代など戦乱の折には、重要な拠点として、争奪の巷と化すこと多々であったという。今もこの狭い海岸沿いに、東海道本線・東海道新幹線・国道1号線・東名高速道路・清見バイパスが所狭しと並走している。
 関所の傍らに、その鎮護のために仏堂が建てられたのが「清見寺」の始めだという。鎌倉時代の中ごろ弘長2年 (1262) のことで 「清見関寺」 と呼ばれていた。今川氏や徳川家にも庇護を受け、明治維新の変革の際にも荒廃を免れて、今も立派な七堂伽藍が残されている。

清見寺マップ

 山門の柱に、「史蹟 清見寺境内―文部省」 と記す銅張りの看板が架かっている。また、境内の説明板には 「国指定史蹟 朝鮮通信使遺跡」 と書かれている。豊臣秀吉による文禄・慶長の役の後断絶していた李氏朝鮮との国交を回復するため、徳川家康は朝鮮通信使の派遣を提案した。徳川将軍の代替わりの度に来日した使節団の休憩所として使用されたのがこの清見寺である。今も、書画や漢詩に優れた通信使による書や扁額が多数残されている。

清見寺C

由比の宿本陣

 由比の宿は、お江戸日本橋から数えて16番目の宿場町である。江戸時代には、大名が宿泊する本陣1軒、それを補完する脇本陣1軒、普通の人々が泊まる旅籠が32軒あり、相当な賑わいを見せていたという。明治になって本陣は取り壊されてしまったが、表門、石垣、木塀などが残されていて、往時のたたずまいを彷彿とさせている。
 特に、外塀の石積みは堅固なだけでなく、デザイン性にも富んでいる。お施主と石工との美的感性が凝縮されたものであろう。現在は 「由比本陣公園」 の外柵として利用されている。公園内には、浮世絵師・歌川広重の作品などを集めた 「東海道広重美術館」 や観光情報を発信し食事もできる「東海道由比宿交流館」、庭園や芝生広場などが整えられている。

由比宿A

 由比本陣公園の、道路を挟んだ反対側に、藍染の布製品を売る店があった。「正雪紺屋」 と呼ぶ、江戸初期から400年近くも続く染物屋である。手ぬぐいや暖簾といった商品の並ぶ店舗の横に、昔ながらの藍甕 (あいがめ) の並ぶ作業場が残されていて、染物作業の様子を偲ぶことができる。
 「正雪」 とは由比正雪のことで、この紺屋が生家だという。慶安4年 (1651) 江戸幕府改革のため乱 (由比正雪の乱) を起こして久能山に立篭もったが、未然に露見し自刃して果てた。近くの正覚寺に首塚が残っているという。

由比宿マップ

徳川慶喜屋敷跡

 少し歴史のおさらいを・・・ペリーが来航したのが1853年、翌54年に日米・日英・日露和親条約が結ばれる。1859年の安政の大獄を経て翌60年に桜田門外の変、いよいよ日本も鎖国を解き、激動の時代へと入っていく。
 14代将軍・徳川家茂が亡くなったのは1866年、その後を継いだのが15代慶喜である。慶喜は水戸藩主斉昭の7男で、御三卿一橋家の当主になっていた。鳥羽伏見の戦いで官軍に敗れた慶喜は、海路江戸に逃れ、慶喜討伐令を受けて上野寛永寺にて謹慎。西郷隆盛・勝海舟の会談により江戸無血開城。1867年王政復古の大号令が出され、68年明治維新を迎えることとなる。

慶喜屋敷跡マップ

 さて、大政奉還した徳川慶喜は、西郷・山岡鉄太郎 (鉄舟=幕臣) の駿府会談により助命を受け、隠居の身となって駿府 (静岡) に移住することとなった。駿府での住居としたのが、元代官屋敷であったこの屋敷である。駿府城の南西、現在の静岡駅にも程近い所である。池を中心とした美しい庭のあるお屋敷に住み、政治を忘れて趣味に没頭する生活を送った。鉄砲を担いで野山での狩猟をしたり、最先端をいく自転車 (前輪の大きい) を乗り回していたという。
 そのお屋敷は、現在、料亭 「浮月楼」 として、静岡の迎賓館的役割を果たしている。

慶喜屋敷跡C

熊本城

 古くは 「隈本城」 と呼んだ。新しく壮大な城を造ったのは加藤清正である。慶長5年 (1600) の関が原の合戦で功を立てた清正は、肥後52万石を領することとなった。新城落成は慶長12年 (1607) のこと、名を「熊本」に改めたのもこの年である。
 時は流れて明治10年 (1877)、西郷隆盛が野に下って西南戦争を戦ったのがこの城である。ところが開戦3日前に、原因不明の出火によりこの難攻不落の名城は、天守閣をはじめ主要な建物のほとんどを焼失してしまった。現在の天守閣は昭和35年に再建されたものである。

熊本城B

 加藤清正は、築城の名手といわれている。特に石垣造りにはその能力を遺憾なく発揮して、名古屋城など各地の城で足跡を残している。自身の城・熊本城でも堅固な石垣を築き上げた。今でも近づくと、威圧感を感ずるほど豪壮である(下左の写真)。
 下右の写真は、創建当時から残る「宇土櫓」(国の重要文化財)である。地上5階・地下1階という多層櫓で、普通の城郭なら優に天守に匹敵するほどの規模である。現在、熊本を始め九州は未曾有の大地震に見舞われている。熊本城も大被害を受けているが、この櫓は石垣が壊れることもなくしっかりしているという。

 早くこの地震が収まることと、被災された方々の避難生活が、少しでも安楽なものであってほしいと願うばかりである。

 熊本城C



丸子宿の茶屋

 東海道難所のひとつ宇津ノ谷峠は、道幅も1間半 (約2.7m) と狭いが、丸子では2間半、安倍川に至ると3間半と広くなっていく。丸子宿は、街道の両側に人家が並んでいるだけの細長い町並みであったという。
 ここで旅人を慰めたのは、有名な 「とろろ汁」 で、歌川広重の浮世絵 「東海道五十三次」 にもその風景が描かれている。ところが、その絵とまったく同じ茶店が今も残っているのである。茅葺の屋根、手前の庭木、後の丸い山まで同じであるのに驚いた。創業は慶長元年 (1596)、今から400年以上前とのこと。私の訪れた日はお店が休みで、とろろ汁を頂けなかったのが残念である。

丸子宿D

 手前の丸子川に橋があり、その親柱に 「まりこはし」 との銘板が掛かっている。茶屋前の石碑には「鞠子宿」と刻んであることから、丸子は鞠子とも書いたのであろう。
 松尾芭蕉は、この宿で 「梅若菜まりこの宿のとろゝ汁」と詠んでいる。

丸子宿マップ

駿府城

 徳川家康は、駿府に3度住んでいる。最初は天文18年 (1549) から10年ほど、今川氏の人質として少年時代を過ごした。2度目は今川氏が滅びた後、天正14年 (1586) に駿府城を居城とし、天守閣を始めとする二ノ丸までを完成させた。ところがわずか4年後には、秀吉の命によって関東へ転封させられてしまった。
 最後は江戸に幕府を開いてから、慶長12年 (1607) に秀忠に将軍職を譲って大御所となったときである。このときには全国の大名に命じて (天下普請)、お城と城下町の大幅な改造を行なった。当時の実権は、まだ家康が握っていたので、駿府は江戸を凌ぐ政治の中心地となったのである。

駿府城マップ

 天守閣は寛永12年 (1635) の大火で焼失して以来再建されず、安政元年 (1854) の大地震では、建物や石垣などがほとんど全壊してしまった。明治になって陸軍省に献納されたが、昭和24年に静岡市に払い下げられ、今は 「駿府公園」 と名付けられて市民に親しまれている。平成元年に 「巽櫓」 が、同8年には 「二ノ丸東御門」 が復元された。
 ≪上の写真は巽櫓から見た東御門橋、下の写真は南西角にある「坤櫓( ひつじさるやぐら) 」 である。下の図は、土佐光成が宝永年間に描いた 「駿府城下鳥瞰図 (部分) 」 である。現在は、駿府博物館に所蔵されている。≫

駿府城B

掛川城の天守閣と御殿

 掛川の城の歴史は古く、西暦1500年ごろに今川氏が築いたのが最初といわれます。その後、今川氏の勢力拡大に伴って手狭となり、500mほど西の現在地に新たな城が築かれました。しかし、永禄3年 (1560) に今川義元が桶狭間の戦いで討たれると、永禄11年には徳川家康がこの城を攻め取りました。一時期、豊臣秀吉の支配下になり山内一豊が入城しましたが、江戸時代には徳川譜代大名の居城となりました。
 外観の美しい天守閣は 「東海の名城」 と謳われましたが、安政元年 (1854) の東海大地震により損壊し、再建されることもなく明治維新の廃城を迎えます。それから140年を経た平成6年、掛川市民の熱意と努力が実を結び、全国初の本格的木造建築として復元されました。

掛川城B

 天守閣の南東にある二の丸に、御殿が残っています。安政の大地震では御殿も倒壊しましたが、時の城主太田氏によって文久元年(1861)に再建されました。明治になって藩が廃されると、学校や役場として使用されてきました。
 昭和47年から50年にかけて、藩の政治や大名の生活が偲ばれる貴重な建築として保存修理が施され、昭和55年には国の重要文化財に指定されました。現存する城郭御殿としては、京都ニ条城など全国に4か所しかない貴重な建物です。

掛川城マップ
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ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:「園長さんのガーデンライフ」
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