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高座結御子神社と高蔵貝塚

 高蔵結御子(たかくらむすびみこ)神社は昔から「高蔵さま」といわれ、熱田神宮の御祭神とともにこの地方開発の祖神として仰がれてきた。また、子育ての神様としての信仰も篤く、幼児の成育と虫封じを祈願する風習が東海地方一帯に広く知られている。
 境内は古くから「高座の森」として知られ、クスノキやシラカシ、ケヤキの大木がうっそうと繁り、いわゆる照葉樹の森を形成している。その中には、珍しいカゴノキの古木も混ざっている。境内に入ると周辺の暑さから一転して、涼しくてしっとりとした空気を感ずることができる。

高蔵貝塚マップ

 境内の一角に木製の看板が立っていて、ここに貝塚があった由来を記している。「高蔵貝塚」は明治41年(1908)に、市電の大津町線延長工事のときに発見された。弥生中期の壷型の土器や彫刻の施された馬の骨、歯などが発掘された。
 当時は、まだ弥生文化が石器を使用していたことや、馬を飼育していたこともはっきりしていない時代であったので、この発見により全国でも一躍有名な一大遺跡となった。当時の街の様子は上の古図を見るとよく分かる。(吉田富夫、服部鉦太郎による『名古屋に街が伸びるまで』より引用した)

高蔵貝塚G


季節通信44カゴノキ

高月院(松平家菩提寺)

 司馬遼太郎が、25年間書き続けた名著に『街道をゆく』がある。その最終巻は、NO43の『濃尾参州記』であるが、本の厚さが他のシリーズに比べて半分ほどしかない。それは、愛知のこの取材途中で体調を悪くし、その後急逝したためである。
 絶筆となったその本の、そのまた最終章が「高月院」である。司馬遼太郎は、このときの訪問(平成8年)の30年前にもこの地を訪れていて、とても清らかな印象を覚えているという。以下抜粋して引用・・・
  「高月院はいいですよ」 私は、同行の編集者にわがことのように自慢しておいた。
  白壁だけが、唯一の贅沢だった。規模は小さく、建物もやさしくて、尼僧の庵のようであり、
  いずれにしても私の脳裏にある日本の諸風景のなかでの重要な一風景だった。・・・

高月院マップ

 松平東照宮から東へ向かってなだらかな坂を300mほど登ると、大きな一本松があってその下に松平家菩提寺の門がある。門の扁額は杢の入った厚板で、「高月院」の文字が刻まれている。この門から階段上の中門までの間は少し広い砂利敷きで、両側には漆喰塗りの土塀が連なっている。
 白壁の高さはせいぜい4尺(1.2m)程度で、塀越しにはるか遠くまで見渡すことができる。左を見ると菖蒲池があり、その下方に東照宮の森が見える。右側は棚田で、綺麗に草刈された土手を見せながら段々に登っていく。司馬遼太郎が日本で最も美しいと折り紙を付けた風景である。

高月院G

清洲城

 清洲城は古い歴史をもつ。室町時代の応永12年(1405)に尾張国の守護職・斯波氏が、下津城(稲沢市)の別邸として建てたのが始まりという。この地は、鎌倉街道と伊勢街道の合流する要衝の地であり、文明8年(1476)に下津城が焼失した後は、清洲が尾張国の中心地となった。
 戦国時代の弘治元年(1555)、織田信長が那古野(なごや)城から入城、桶狭間の戦いではこ
の城から出陣したという。今川義元に勝利した後に、この城から天下統一への第一歩を踏み出している。下右の写真は信長の銅像、甲冑に身を固め、桶狭間の方向を睨んでいる。

清洲G

 清洲は、沖積層・濃尾平野の真っ只中、周辺はゆたかで広大な水田地帯が広がっている。東西交通の要でもあり、尾張全体を見渡すことができることから、信長没後も豊臣秀次、福島正則、松平忠吉、徳川義直(名古屋城初代城主)など錚々たる武将が城主となって尾張を治めた。
 信長の跡継ぎを決定するための、かの有名な「清洲会議」もこの城で行なわれた。しかし、関が原の合戦の後、大坂方への防御を固めるための城砦として、家康は熱田台地の北西端、名古屋の地を選択した。それは、清洲の地が低湿地にあり、水攻めに弱みをもつからだと言われている。
(下右は発掘された石垣の写真、軟弱な地盤のため松材による頑丈な「梯子胴木」が施されている)

清洲マップ


 ◆今日から元号が変わって「令和」、代替わりを意味する植物名をもつ「ユズリハ」をご紹介します。
季節通信41譲り葉

名古屋城本丸御殿

 名古屋城・本丸御殿の復元が完成した。昭和20年の大空襲で天守閣とともに焼け落ち、長く礎石だけしか見られない状態が続いてきた。平成21年から復元工事が始まり、昨年6月に完成したのである。天守閣に連なる小天守の東、ま新しい素木の建物がそれである。
 復元に当たっては、昭和初期に作られた実測図が残っていたのが幸いし、江戸時代の文献なども駆使して史実に忠実な建物が再現された。近世書院造りで総面積3100㎡にもおよぶ。屋根は「こけら葺き」、杉板を薄く割って竹釘で打ち付けて重ねていく。

本丸御殿マップ

 当初は、慶長20年(1615)に尾張藩主の住居かつ藩の政庁として、徳川家康の命により建てられたものである。尾張藩は、初代義直(家康の九男)が木曽山を拝領したこともあって、木曽の桧をふんだんに使用することができた。今回も木曽桧をたくさん使っている。
 下左は玄関の車寄、中へ入ると「一之間」「二之間」があり、来訪者を威圧するような虎や豹の襖絵がある。奥にある「上洛殿」(下右)は三代将軍・家光上洛に合わせて増築した建物で、贅を尽したつくりとなっている。格天井、欄間、襖絵などの豪華さに圧倒されそうになる。

本丸御殿G


花見通信3お花見

妙仙寺山門と臥龍の松

 岩崎城の東隣に丹羽氏の菩提寺「妙仙寺」がある。城址公園には、明治40年に妙仙寺和尚の記した「古城の趾」という石碑が立っている。落城の日の4月9日には、討死した城兵の慰霊祭が今も続けられているという。
 妙仙寺の山門は、三間一戸の楼門の形式である。楼門とは二階を持つ門をいう。寛政5年(1793)に再建された後、数度の改修を受けながら今日に至っている。幕末のころ、赤穂四十七士の姿を描く天井画が張られたが、今は取り外されて当寺に保存されている。

妙仙寺マップ

 山門を入り、本堂へと進む石畳の右に見事な松の木がある。まるで龍が横たわっているような姿をしているので「臥龍の松」と呼ぶ。高さ6.7m、枝張りは約12m、幹周りはなんと2.5mもある。日進市にあるクロマツでは最も巨木で、樹齢は400年と推定されている。
 巨樹の周りは、踏圧によって根が傷まないように、御影石の柱とチェーンによる柵が施されている。枝は多くの支柱丸太により保護されている。その丸太の根元に御影石の台座が据えてあるが、水がたまって腐らないように、排水用の切れ込みが入っている。古木を大切にする心とデザインマインドが垣間見えて、素晴らしい文化財だと感じた。

妙仙寺G

ナディアパーク

 市制100周年を記念して平成元年(1989)に開催された「デザイン博覧会」を契機として、名古屋市は「デザイン都市宣言」を行なった。ナディアパークは、その内容を盛り込んだ“国際デザインセンター”事業として建てられたビルである。平成8年に竣工している。
 地上12階・高さ70mのデザイン棟と、23階・108mのビジネス棟のツインタワーで、真ん中にガラス張りのアトリウムがある。アトリウム内広場の公開空地と南にある矢場公園は、階段と幅広いデッキでつながれている。(右の鳥瞰写真は、日建設計が作成した「栄地区ジオラマ」の一部である)

バディアG

 階段の中央に、金色に輝く大きな具象の彫刻が立っている。作者は、日展理事長も務めた文化勲章受章者・富永直樹氏である。守山区在住の篤志家夫妻が、青少年に夢を持ち続けてほしいと寄贈された。作品名は「夢の女神」である。
 幅広のデッキは、道路空間に光を入れるために大きな穴が空いている。ここには建築以前から植えられていたシイノキの大木が残されている。ナディアパークの敷地は、もともと前津中学の分校(夜間は中央高校)であり、南の矢場公園と一体的に利用されていた。名古屋の戦災復興都市計画事業では、より広い防災空間を確保するため、学校と公園とがセットで配置されている。

ナディア マップ


季節通信36桃の節句


名古屋テレビ塔

 名古屋でテレビが初放映されたのは、昭和26年(1951)のことである。その3年後にNHKの本放送が開始された。次いで、中部日本放送(CBC)がテレビ放送を始めたが、そうした新しいメディアの登場の中でテレビ塔が建設された。
 テレビ塔の開業は昭和29年(1954)のことである。高さは180m、当時は日本一高い建物であった。地上100mのところに展望台があり、6月20日の初日には約6000人もの見物客が展望台に登ったという。以来、戦災復興のシンボルである100m道路(久屋大通り)とともに、都心のランドマークとして市民に親しまれている。

テレビ塔G

 時は移り、テレビはアナログからデジタル放送への時代を迎える。テレビ塔はデジタル放送用の送信アンテナを添架するには強度不足と判断されたので、平成23年をもって電波塔としての役割を終えている。現在は瀬戸市にあるデジタルタワーから送信が行なわれている。
 地上高60mを超える塔や煙突は、航空法により赤と白に塗装する必要がある。しかし、このテレビ塔は銀色一色である。それは、法での規制が始まったのが昭和35年からであり、それ以前に建設されたこのテレビ塔には適用されないからである。銀色に光る姿は、「希望の泉」「オアシス21」など、どこからも美しい景観を見せている。(下右の写真は昭和29年当時に撮影)

テレビ塔H

丸栄の壁画

 中日ビルを話題にして、丸栄を掲載しないわけにはいかない。栄の百貨店「丸栄本店」は、すでに昨年6月に閉店している。完成は昭和28年(1953)、松坂屋・名鉄・三越と並んで「4M」と呼ばれて名古屋のデパートの代表であった。65年の長い歴史を閉じることとなったのである。
 建築の設計者は、日本を代表するモダニズム建築家・村野藤吾である。百貨店建築としては建築学会賞を受賞した唯一のものであり、「戦前の建物を基に増改築を重ねた珍しい建物」として評価の高いものであった。下の写真は、閉店記念セールで展示されていた模型である。

丸栄マップ

 この模型でも表されているように、西側の外壁に巨大な壁画が描かれている。高さ22m、横幅は17m、すべて小さなモザイクタイルで制作されている。建築を設計した村野のデザインで、緑色を基調に赤やオレンジ色を加えた、曲線や幾何学形の模様である。現在、保存のための移築先を探しているとのことである。
 丸栄は、大理石やアンモナイトの化石など貴重な石材が使用されていることでも有名である。
もう1つお客にとって印象的だったのは、エレベーターの扉である。作者は、昭和の美人画家・二科展のドンとも呼ばれた東郷青児である。この貴重な美術品も、再利用が検討されているという。

丸栄G

さようなら中日ビル

 名古屋市中心の栄にあり、広く市民に親しまれてきた 「中日ビル」 (正式には中部日本ビルディング) が、来年3月末で閉館する。昭和41年 (1966年) に開館しているので、既に50年以上を経過したことになる。老朽化に加えて、耐震性にも問題があるための立替えである。
 新しいビルは31階建・高さ170mの超高層ビル、床面積は11万㎡と現在の1.3倍となる。商業施設・事務所・多目的ホールに加え、これまでは無かったホテルも入るという。2024年の完成を目指している。

中日ビルG

 中日ビルには、数々の想い出をもつ人も多い。中日劇場で演劇を鑑賞、中日文化センターで色々な習い事、全国物産観光センターで地方の情報を得たりした。地下のレストランや居酒屋、屋上のビアガーデンも懐かしい。平成になってからは使われていないが、回転レストランもあった。
 何といっても、一階ロビーに思い入れが深い人も多いことと思われる。「名駅新幹線壁画前」 「栄クリスタル広場」 そして 「中日ビルロビー」 が名古屋の三大待合わせ場所だったように思う。吹き抜けエスカレーターの天井にあるモザイク画が目印だった。この矢橋六郎氏作になる天井画 「夜空の饗宴」 は、新ビルに移転する方針が決まっている。

中日ビルマップ

 ◆今日は12月31日大晦日、平成30年最後の日です。このブログも今年最後、これまで6年間に450回の発信をしてきました。来年はいよいよ新しい年号が始まります。これからも身を引き締めて「土木文化」を訪ね歩き、情報発信してまいりますので応援方よろしくお願い致します。

季節通信31蕎麦




香嵐渓・足助八幡宮

 「塩の道」 足助宿の入口に、大きな木々に囲まれた神社がある。「足助八幡宮」 という。紅葉と春のカタクリで有名な香嵐渓と、飯田街道を挟んだ反対側にある。香嵐渓の駐車場へ入る交差点にあるのだが、いつも渋滞に気をとられてあまり注目されないかも知れない。
 社伝によれば創建は古く、天武天皇の白鳳2年 (673) という。北に足助川が流れ、東を流れる巴川と合流して今度は西側を区切っている。南東には、飯を山盛りにしたような形の飯盛山が聳えている。東の青竜・西に白虎・南に朱雀・北は玄武と四神相応のめでたい神域といわれている。

足助神社マップ

 人だかりの多い拝殿 (下左の写真) の奥に、ひっそりと本殿 (上の写真) が柵に囲まれて鎮座している。様式は、前面の屋根を長く伸ばした流造りで、いわゆる 「三間社流造・桧皮葺」 である。文政元年 (1466) の再建といわれる。妻飾・像鼻・手挟や蝦虹梁などに特徴があり、室町時代の作として国の重要文化財に指定されている。
 拝殿の正面にひときわ高く聳える杉の大木がある。幹周り6.8m、樹高45.5m、樹齢は500年以上と推定されている。境内の入口近くに小さな木造の建物 (下右の写真) が佇んでいる。これは 「鐘楼」 の名残である。明治になるまで八幡社には神宮寺が併設されていたが、明治維新の神仏分離政策により撤去されてしまったのである。

足助神社G


季節通信26イチョウ

甚目寺の伽藍

 「津島上街道」 は勝幡・甚目寺・清洲を経由して名古屋に至る。甚目寺近くの道路わきに 「右つしまみち」 と刻まれた古い道標が立っていた。お寺の名前が町名にもなっていた 「甚目寺町」 は、今は七宝町・美和町の3つが合併して 「あま市」 になっている。
 “あま” は、もともとの “海部郡” に由来する。海部郡は、尾張の国の西端に位置する広域な平野で、大部分が木曽川の三角州に属し、沖積層と干拓地から成り立っている。古い街道や道端の道標などを見ると、その結びつきの深さを理解できる。

甚目寺G

 「甚目寺」 はその縁起によれば、推古天皇5年に紫金の聖観音像が安置されたことに始まるという。明治末期に発掘された瓦などにより、奈良時代以前に大伽藍があったことが確認されている。江戸時代には、尾張四観音の筆頭の格をもち、現在も節分会には多くの参拝客で賑わっている。
 南大門は、建久7年 (1196) に源頼朝の命により建立されたという。三間一戸の入母屋・柿葺 (こけらぶき) で、左右に仁王様が安置されている。三重塔は、三間三重塔婆で本瓦葺である。擬宝珠の銘に寛永4年 (1627) とあることから、建立年代は明らかである。いずれも国の重要文化財に指定されている。

甚目寺マップ

町並みの商店

 津島神社や天王川公園の界隈を、自転車で散策してみた。町全体が、「湊町」 や 「門前町」 の雰囲気を漂わせ、大正や昭和といった古くて懐かしいお店が点在している。その建物を見ると、構造や構成に共通したものを見ることができる。
 下の写真左はお菓子屋さん、川湊の真ん前にあって旅人へのお土産品を商っていたのであろう。中の写真は参道沿いのお茶屋さん、右は薬局で町の人たちの必需品である。瓦屋根の木造二階建て、ガラス戸も今風のアルミサッシでなく木製である。看板がすでに骨董品のように見える。老朽化も進んでいて耐震性には心配があるが、町並みとしては残して欲しい景観である。

津島のお店G

 “床屋さんの入口が面白いよ” と教えてくれた人がいる。確かに入口のドアが 「ヘの字」 に窪んでいるのである。道路に接して、平行してガラス窓があるのだけれど、ドアのところだけが斜めになっている。その理由をいろいろと、想像たくましく考えてみた。
 上の写真のお菓子屋さんなどは引き戸であるが、床屋さんは洋風に開き戸になっている。外に開くと道路に出てしまうので、空間を取ったのかもしれない。傘を畳むための雨除けにもなっている。他所の町で調べたことがないので一概には言えないが、このあたり共通の大工さんの工夫であったのかも知れない。

津島のお店H

岩国徴古館

 岩国城から下るロープウェーから見ると、眼下に吉香公園が広がっている。この公園は城主の居館跡や武家屋敷跡などが明治になって市民開放されたものである。桜・紅葉・牡丹など四季折々の花が植えられているが、6月末だったので花菖蒲や紫陽花がきれいに咲いていた。
 その一角に 「岩国徴古館」 が建っている。物資統制下の戦時中に、旧藩主吉川家が “郷土に博物館を” という熱い思いで取組んだもので、昭和17年に起工し20年に完成した。設計した佐藤武夫は名古屋生まれ、岩国中学卒業後早稲田大学で建築学を専攻し、後に教授となる。建築音響学の分野を開拓し、日本建築学界の会長まで勤めた名建築家である。

岩国マップ

 この建物は、佐藤武夫が若い学究心を燃やして初めて手がけた作品で、ヨーロッパの古典主義を基本としながらも、自身の建築家としての才気を表したものである。外観はシンプルな直線で構成され、壁面は豪華な石張りなどではなくコンクリートのブロックを積んだような景観である。
 展示室内部は白い漆喰塗りであるが、アーチ状の梁や下部の広がった列柱、木製の階段などに個性が発揮されている。物資の乏しい戦争中につくったとは思えない、豊かさを感じさせる建築である。

岩国G



広島の原爆ドーム

 73年前の今日8月6日午前8時15分、この真上で原子爆弾がさく裂しました。この 「原爆ドーム」 を “土木文化” などの範疇に入れて良いのか迷うところですが、世界遺産にも登録され、人々に注目されることが “核兵器禁止” や “世界平和” にも繋がるものと考え、ここに掲載します。
 高校の修学旅行以来、3度目の訪問になります。毎年の慰霊祭などにより映像ではよく見ますが、改めてドームの前に立つと不思議な感情が込み上げてきます。悲しみ、怒り、恐怖、一つの言葉では言い表せない複雑な感情です。夕方訪れたのですが、かなり長い時間佇んでしまいました。

原爆ドームG

 帰宅時間だったため、会社帰りの市民が川沿いの道、ドームの横を普通に歩いています。広島の人たちには、この強烈なモニュメントも生活の中に取り込まれているのでしょう。私のような観光客、特に外国からの人も多く訪れています。川を挟んだ対岸に座って、ドームを感じている若い人たちもいました。
 原爆ドームから南に向かって一直線に、「原爆の子の像」(上の写真=以前は千羽鶴が架かっていました)・「平和の灯」・「原爆死没者慰霊碑」・「広島平和記念資料館」 (7月までリニューアル工事中) が並んでいます。慰霊碑の前には花がたくさん供えられていました。バラの花壇もちょうど花盛りでした。

原爆ドームG2

西尾城

 西尾城は昔、西条城と呼ばれた。創建は12世紀といわれるが、中世までの規模は定かでなく、城としての形態を整えたのは戦国末期と考えられている。永禄のころ (1560年代) は、今川方が城主であったが、桶狭間の戦いの後、松平方 (後の徳川) の酒井氏が攻め寄せて城を奪取し、「西尾城」 と改名した。
 天正13年 (1585) に酒井氏は、城の大改修を行なった。面積を広げ、深い堀や高い石垣を築き、数か所の櫓や城門を設けた。このときに、二の丸に新しい天守閣を建て、旧天守は本丸の隅櫓として存続させている。

西尾城マップ

 明治6年 (1873) に出された廃城令 (正式には 「全国城郭存廃ノ処分並兵営地撰定方」 という) により、明治5年から10年にかけて、建物の払い下げや塁濠の破壊などが行なわれた。平成になって歴史公園として位置づけられ、本丸の 「丑寅櫓」 (上の写真) や二之丸御殿の正門である 「鍮石門( ちゅうじゃくもん)」 (下の写真) の再建が行なわれた。
 二の丸跡には、京都から 「旧近衛邸」 が移築されている。この建物は、摂家筆頭の近衛家に嫁いだ夫人の縁で、島津家により江戸後期に建てられたものである。書院と茶室からなっており、庭園も美しく整備されていて、お茶会などの催しにも利用できる。また、お茶のまち西尾らしく、いつでもお抹茶のサービスを楽しむことができる。

西尾城G

西尾市の岩瀬文庫 その2

 岩瀬文庫の入口あたりに、青瓦の可愛らしい建物がある。木造板張りの壁を白いペンキで塗った、おとぎ話に出てくるような小さな家である。看板を見ると 「おもちゃ館」 とあり、なるほどと思わせられる。今回は中まで見ることは出来なかったが、子どもの喜ぶようなグッズが展示されているのだろう。
 帰ってから施設案内の冊子を見ると、この建物のもともとは、大正15年に建設された 「岩瀬文庫児童館」 だという。岩瀬弥助は、毎月一定金額を本の購入に当てていた。その中には、子どもたちにも読んでもらいたいとの考えから、児童書も含まれていたものと思われる。この建物も、旧書庫とともに、国の登録文化財に指定された。

岩瀬文庫児童館

 新しいガラス張りのミュージアム全体をカメラに収めようと、芝生広場の外れまで歩いていくと、そこに珍しい木があった。枝全体に直径1センチほどの茶色の実がついている。マメナシ (イヌナシ) という野生の梨で、この東海地方に限って自生する貴重な種類である。
 名古屋にもあるが数少なく、昭和区や守山区の、溜池の畔や湿地に数か所の自生地が確認されているのみである。西尾市でも八ツ面山東の矢作古川の岸辺に自生があるという。岩瀬文庫のマメナシは、今から50年ほど前、開発により伐採されそうになった木を、心ある人たちの手でこの地に移植したものという。

岩瀬文庫マメナシ


季節通信13高山植物

大須文庫 (2014・01・10の再掲)

 岩瀬文庫、蓬左文庫を掲載したならば、「大須(真福寺)文庫」を忘れるわけにはいきません。名古屋・愛知が先人のご努力により、これほど素晴らしい文化を残していただけたということを、我々は再認識しなければいけないと思います。

 名古屋城と熱田神宮の中間地点に大須の町がある。江戸時代から大須観音の門前町として栄えた歓楽街で、今もユニークな商店街として賑わっている。

大須観音1

 この大須観音 (真福寺) に日本で最も重要なお文庫 「大須文庫」 があることを知る人は意外に少ない。本堂の左翼 (東側) に木の看板が掲げられているが、本堂の賑わいとは裏腹にひっそりとしている。しかし、ここには、国宝 「古事記」 (真福寺本=現存する最古の写本) や40点以上の重要文化財を含む約15000点もの古典籍が収蔵されているのだ。
 この寺院は、もともとは木曽川中州の岐阜県羽島にあった。しかし、この地は地盤が低く、たびたび水害に襲われていた。徳川家康はこの貴重な蔵書を水難から守るため、慶長17年 (1612) に新しい城下町・名古屋にお寺ごと移転したのである。

大須観音2

 古事記は、かつて東京国立博物館に収蔵されていた。これは、大須観音では充分安全な保存が困難であるとの配慮であったが、名古屋市博物館の完成と名古屋市民の熱意が実を結んで、今は名古屋に帰されている。一昨年(2012年)、名古屋市博物館で 「古事記1300年・大須観音展」 が開催された。これは大須観音の移転400年を記念するものであった。

大須観音マップ


季節通信14ハス



蓬左文庫の旧書庫 (2014・5・11の再掲)

 岩瀬文庫は、2003年に再整備されましたが、その翌年の2004年には、名古屋の蓬左文庫(徳川園)もリニューアルオープンしています。両者とも我が地方の誇りとなる文化施設ですので、ここに並べて見ていただくために再掲します。 

 名古屋市東区の徳川園には、徳川美術館とともに 「蓬左文庫」 がある。この文庫には、尾張徳川家の旧蔵書を中心に、日本、中国、朝鮮の古典籍約10万点が所蔵されている。中でも有名なのは 「源氏物語 (河内本) 」、最古の写本として重要文化財にも指定されている。
 大御所家康が駿府で亡くなった後、約3000冊の蔵書が初代尾張藩主・義直に相続された。「駿河御譲本」 と呼ぶ。義直は学問を好み、その後も書物を集め続けたが、それらが「 蓬左文庫」 の元になっている。戦後( 昭和25年)、徳川黎明会は文庫を手放すこととなったが、名古屋市にまとめて移管されたので散逸することなく、この地で博物館として公開されている。
蓬左文庫 アルバム

 「旧書庫」 は、尾張徳川家大曽根邸創建時 (明治20年代) に建てられた土蔵2棟を、昭和10年に合体したものである。平成13年の徳川園再整備で曳家移転するまでは、収蔵庫として使用されていた。現在は、美術館と連結した蓬左文庫側のエントランスとして利用されている。今年3月に、園内の黒門や蘇山荘などとともに、国の登録文化財に指定された。
 徳川園の日本庭園は、「春の牡丹」 や 「秋の紅葉」 の名所となっている。

蓬左文庫マップ

西尾市の岩瀬文庫

 西尾市の北西地域、歴史公園や城跡と、矢作川との中間地点に古典籍の博物館 「岩瀬文庫」 がある。岩瀬文庫は、地元の実業家・岩瀬弥助が独力で蒐集した古い時代の書物を公開し、私立の図書館として明治41年 (1908) に誕生したものである。
 慶応3年 (1867) に西尾城下で生まれた弥助は、肥料商を営んだが、商才があったため一代で莫大な財を築き上げた。自身は質素な暮らしをする一方で、学校に土地を寄付したり、鉄道など社会事業にも力を尽した。文庫は、書物を通じて地域貢献をしたいとの思いで設立・公開したものである。

岩瀬文庫G

 開設時の蔵書は約3万冊であったが、現在は8万冊にもおよんでいる。その内容は多岐にわたり、朝廷や公家の資料、本草学者の蔵書、三河地域の史料など古典籍から近代の実用書まで集められている。後奈良天皇自ら写経した般若心経など、国の重要文化財に指定されるものも含まれている。
 文庫の本館は昭和20年の三河地震で倒壊してしまったが、蔵書は赤煉瓦造りの書庫に保管されていたために難を逃れることができた。上の写真右側は、平成15年に 「古書ミュージアム」 としてリニューアルオープンした建物である。正面奥は新しい収蔵庫、手前の煉瓦造りが旧書庫 (国の登録文化財) である。旧書庫正面玄関の脇に、創設者・岩瀬弥助の胸像が立っている。

岩瀬文庫マップ

三条通りの近代建築

 烏丸御池から三条大橋までも、楽しい街歩きだった。昔ながらの道は幅も狭く、車の往来も少ないので、右へ行ったり左に寄ったり自由に写真を撮ることができる。まず目に入ったのは明治か大正を思わせる近代建築、赤い煉瓦造りの建物が何ともエキゾチックである。
 京都といえば、1200年の歴史を感じさせる寺社建造物などを思い浮かべるが、明治以降の近代建築にも優れたものが残っている。名古屋城の天守閣や本丸御殿、都心部の近代建築などが、昭和20年の空襲により焼失してしまったことと思い合わせると、京都が守られたことに羨ましさを感じてしまう。

三条近代建築マップ

 上の写真は 「京都文化博物館・別館」 である。この建物は、明治39年 (1906) に建てられたもので、当初は 「日本銀行京都支店」 であった。昭和43年からは私立の 「平安博物館」 として使われてきたが、昭和63年に京都府に寄贈され、今は 「京都府京都文化博物館」 として利用されている。設計者は、東京駅などを設計した明治時代を代表する建築家・辰野金吾である。
 下の写真は 「中京 (なかぎょう) 郵便局」で ある。建物のエッジの部分や窓枠などを白い御影石で積上げ、壁の部分に赤い煉瓦が積んである。設計は逓信省によるものである。明治35年 (1902) に竣工したルネサンス様式であるが、昭和49年に外壁だけを残して内部は新しい建物に造り変えられている。このような保存方法を 「ファサード保存」 というが、この中京郵便局が日本で初めての試みという。

三条近代建築G

◆今年の夏至は、3日前の6月21日でした。今日は夏至に因んだ話題です。

季節通信9半夏生

常滑市の「正住院」

 尾張名所図会は、江戸末期から明治初期にかけて刊行された地誌で、尾張国8郡の名所が文章と絵図により紹介されている。前編7巻、後編6巻、合計13巻からなり、その前編第6巻は知多郡となっていてそこに 「正住院」 も載っている。
 今も常滑駅のすぐ南にある 「正住院」 の絵を見ると、山門から縦に並ぶ本堂や書院、左側の六角堂や手水屋、右の鐘楼や庫裏が精緻に描かれている。本堂横のこんもりした森や書院裏に広がる伊勢湾の様子、対岸の伊勢の国も明瞭である。

正住院A

 正住院を訪ねてみて驚いた。山門や土塀の様子 ①、六角堂や手水屋 ② とその裏山、本堂 ③ や鐘楼などの姿が 「図会」 そのままに残っているのである。絵では書院により隠れてしまっているが、海岸際の石積み ④ もそのままのようである。私の想像では、この石積みは海岸の波に洗われる堤防だったのではと思われる。

正住院マップ

 書院の横に小さな看板が立てられていて、近くの庭石 ⑤ についての説明が書かれている。それによれば、この石は 「徳川家康公腰掛けの石」 であるという。天正10年 (1582) 6月2日、「本能寺の変」 の折、家康は堺から京へ向かっていた。異変を聞いた家康は危険を感じ、伊賀の山を越えて伊勢の国白子から船に乗り、この常滑の湊に辿り着いたのである。命からがら、何とか一息ついて座ったのがこの庭石だったのであろう。

正住院B



野間の灯台

 衣浦湾にも古くからの良港があるが、伊勢湾側にも多くの港がある。知多木綿などを対岸の桑名や白子に運んだ 「大野湊」、常滑焼を積み出してきた 「常滑港」 は伊勢湾から熊野沿岸まで販路をもっていた。伊勢湾の豊富な魚介類を獲るための漁港も数多く、北から 「鬼崎」 「苅屋」 「小鈴谷」 「上野間」 などの漁港が並んでいる。
 知多半島先端の西側の出っ張りに白亜の 「野間灯台」 が屹立していて、行き交う船舶を守っている。美浜と呼ばれるほど美しい海岸に立つ清楚な姿は、知多の象徴でありランドマークでもある。多くの観光客が灯台を背景に記念写真を撮っていた。

野間灯台マップ

 灯台は、しっかりした岩礁の上に建設された。高さは17m、大正10年 (1921) に点火されて以来、すでに100年近く海を守ってきた。最近は近くの売店で 「南京錠」 を買い求めるカップルが多く、近くの柵に掛けると願いが叶うという。この日は、一組の新郎新婦がウエディングの衣装を着て、前撮り写真を撮影していた。

野間灯台G


季節通信5「バラ園」

田原城跡と田原市博物館

 田原城が築かれたのは、明文12年 (1480) のことである。この時期というのは後土御門天皇の御世で、戦国時代のきっかけともなった応仁の乱 (応仁元年~文明9年) の直後のことである。この城もその荒波に飲まれ、戦国末期には今川義元に攻められたり、徳川家康に攻略されたりした。
 江戸時代に入ってからは安定して三宅氏の治めるところとなったが、明治になって廃城となり建物は取り壊されてしまった。平成になって桜門とその左右の土塀が復興された。平成5年に桜門を入ったすぐ左手に、田原市博物館が開館した。

田原城マップ

 この博物館には、田原藩をはじめとする歴史資料が豊富に収蔵されている。私が訪ねたときには、田原藩の家老職をも務めた南画家・渡辺崋山の作品や資料がたくさん展示されていた。崋山はかの有名な谷文晁に師事し、後に西洋画法も取り入れた独自の様式を完成させた。
 崋山は蘭学者として西洋事情にも明るく、天保10年 (1839) に幕府が外国船を排斥しようとしたモリソン号事件や、鎖国の非を責めた「慎機論(しんきろん)」を記したため、幕府に蟄居を命ぜられてしまった。蘭方医として有名な高野長英も捕らえられて獄に繋がれることとなったこの言論弾圧事件は、「蛮社の獄」 と呼ばれている。

田原城G

多治見の虎渓山・永保寺

 土岐川が大きくSの字に曲がる右岸、こんもりとした森の中に永保寺が佇んでいる。この地は、領主・土岐氏の山荘であり、鎌倉時代末期には泉石が構えられていたという。現在のような庭園が造られたのは、正和2年 (1313) 夢窓国師が入寺してからのことである。土岐氏の帰依を得て、この山荘を寺にしたのである。
 大きな池に太鼓橋 (無際橋) を架け、渡り切った北側に 「観音閣」 を建立した。太鼓橋の真ん中には、桧皮葺の屋根をもつ 「亭」 があり、庭園の眺めを引き締めている。観音閣は正和3年建設のまま残されており、現在は国宝に指定されている。桧皮葺屋根の4隅の先端が大きく反り返っており、中国の寺院の特色をもっている。

永保寺マップ

 観音閣の西側には、小山のような大きな岩があり、「梵音巌」 と名付けられている。岩山の頂上には、「霊擁」 と呼ぶ六角形の小堂が建てられていて、その横から細流れが滝のように落ちている。円錐形の岩山は、そっくりそのままに池に姿を映しており、小さいけれど逆さ富士のような趣を呈している。
 向かって右側には、本堂、庫裏が並んでいる。庫裏の前に大きなイチョウの木が聳えている。高さ25m、幹周り4m、葉張り20mという大木で創建当時に植えられたということから、約700年以上の樹齢をもつものと思われる。平成15年に本堂と庫裏は火災により全焼してしまったが、このイチョウは被害を受けることがなかった。庭園全体は名勝に指定されている。

永保寺G

名和昆虫博物館

 岐阜公園の南端に、岐阜市歴史博物館と並んで 「名和昆虫博物館」 がある。我が国有数の昆虫博物館で約1万8千種、30万点の標本を所蔵している。歴史も日本で最も古く、設立は明治29年 (1896) に遡ることができる。設立者で、初代館長でもある名和靖は、ギフチョウの発見者としても有名である。まだ若い岐阜県農学校助手の時代に、岐阜郡上の山中で新種の蝶を見つけた。
 最初は「名和昆虫研究所」として発足した。これは、害虫駆除や益虫保護を目的としたものである。明治40年に 「陳列館」 (現在の記念昆虫館)、大正8年に 「博物館」 (上の写真) を開館した。博物館の中には、色鮮やかな蝶や、世界から集められた珍しい昆虫の標本が展示されている。特にこの館の原点ともなった、ギフチョウの説明コーナーも設置されている。

名和昆虫館G

 博物館の前面に、「名和昆虫研究所記念昆虫館」 がある。これは明治40年に建てられた 「陳列館」 を保存するもので、岐阜市の重要文化財に指定されている。設計は、当時名古屋高等工業学校 (現名工大) の校長であり、高名な建築家でもあった武田五一によるものである。
 構造は、一階部分はレンガ積みで、その上に三角形の木造トラスを組んで二階としている。急勾配の鉄板葺き切妻屋根に、4か所の採光出窓を設けて変化をつけている。この形は、当時オーストリアに興った 「セセッション」 と呼ばれる建築様式の流れを汲むもので、日本における代表例の一つに数えられている。

正法寺の大仏

 金華山の山裾に、これほど多くの寺社があることも知らなかったし、これほど立派な大仏様がいらっしゃることも知らなかった。「正法寺の大仏」 は、奈良・鎌倉に次ぐ日本三大大仏と謳われている。正法寺は歴史博物館や名和昆虫館のすぐ近くにあるのに、これまで一度も足を運ぶことがなかった。
 このお寺の第11代和尚は、度重なる大地震や飢饉への厄除けの祈願を立て、2代38年の苦行を経て天保3年 (1832) にようやく、この大釈迦如来像を完成したのだという。高さ13.7mの仏像は、直径60cmのイチョウの丸太を真柱とし、骨格は木材を組み、竹を編みこんで粘土を塗り、お経を張った上に漆を施し、表面に金箔を張った 「乾漆仏」 である。

岐阜大仏マップ

 三層の大仏殿も立派である。正面から見る唐波風造りの屋根や花頭窓が個性的である。薄暗い堂内では、優しいお顔の仏様が、泣いているようにも微笑んでいるようにも見える。右手は 「施無畏印」、左手は 「与願印」 の印相をもっている。胎内仏として薬師如来像が安置されているという。
 お堂の外に出ると立派な多宝塔が目に入る。この塔は江戸中期の作で、当初は伊奈波山の中腹にある伊奈波神社に置かれていたが、明治10年の 「神仏混淆禁止令」 の難を避けるために当寺に移されたものという。日本では長きに亘って神と仏を一つところに祀ってきたが、明治になって禁止の措置が採られた。このため貴重な仏像など、数多くの宝物が廃棄 (廃仏毀釈) されたという。

岐阜大仏G

ささしまライブ24

 久しぶりに 「ささしまライブ」 を見たいと考え、名古屋駅から南の方へ歩いていった。駅周辺の賑わいは笹島の交差点あたりまでで、レジャックを越えるとほとんど人通りが絶えると思っていた。ところが、交差点を越えても若い人たちを中心に、どんどん南へ向かって人々が流れていくのである。私も一緒にしばらく歩いて右へ曲がり、鉄道のガードをくぐると目の前に銀色に輝く真新しい町が広がっていた。
 「ささしまライブ24」 は、旧国鉄の笹島貨物駅 (12.4ha) および中川運河終点の船だまりの水面を一体的に大規模開発する事業である。2027年のリニア新幹線開通を見越して、名古屋の玄関に相応しい商業・ビジネス・観光・文化などの機能を充実しようとするものである。

笹島F

 今日10月2日、その中心ともなるタワービル 「グローバルゲート」 内の「名古屋プリンスホテル」 がオープンした。36階建てのビルの内、31階から36階までを占め、170室の客室と、レストラン・ラウンジ・フィットネスなどの機能をもつホテルである。5階から30階までのオフィスはすでに4月にオープンしている。4階までの低層棟にあるコンベンションホールや商業施設は今月のオープンである。
 グローバルゲートの南の区域には、愛知大学の校舎や映画館などのレジャー施設、中京テレビやジップ名古屋といった報道施設のビルなどが建ち並んでいる。名古屋駅からは、あおなみ線に乗り 「ささしまライブ」 駅で降りると便利である。

笹島マップ2

関宿の塗籠

 関宿の町屋は比較的新しく、最も古いもので18世紀中ごろの建築、明治中ごろまでの建物が半数以上を占めている。道路に面して 「平入り」 の二階建てが一般的で、一階は格子戸、二階は土壁で覆った 「塗籠」 のものが多く見られる。
 一階の庇の下に取り付けられた板張りは 「幕板」 と呼び、店先を風雨から守る霧除けである。座敷の前の出格子も関宿の特徴で、座敷を広くする方法である。近年は、町の魅力向上のため軒下に花を飾る家が多い。

関宿G

 二階の漆喰壁は、もちろん防火を意図したものであるが、一階の黒っぽい格子戸と対比して町全体を明るく見せる効果がある。二階の窓も格子窓であるが、ここも漆喰で塗り固めている。「虫籠窓」 といい、家ごとに様々なデザインが施されている。たぶん、大工や左官の腕の見せ所であったのだろう。
 店の格子戸の前などに、面白い物を見つけた。上げ下げできる棚状のもので、「ばったり」 と呼ぶとの説明が付いていた。商品を並べたり、旅人が座ったりしたという。
 よくよく見ないと気が付かないような小さな施設だが、玄関の柱に金属の輪っかが付いている。これは 「馬つなぎ輪金具」 である。土台に近い低い位置に付いているものもあり、それは牛をつなぐものだという。説明板には、“輪金具に 手綱つながれ 馬や牛” との句が記されていた。

関宿H

関宿の地蔵院

 関は古代から交通の要衝であり、古代三関のひとつ 「鈴鹿関」 が置かれていた。江戸時代には、東海道53次の江戸から数えて47番目の宿場として、参勤交代や伊勢参りの旅人で賑わいを見せていた。現在、旧東海道の宿場町のほとんどが旧態をとどめない中にあって、数少ない町並みを残す町として、昭和59年に 「重要伝統的建造物群保存地区」 に指定されている。
 宿場の東西の端に追分がある。東の追分は、名古屋方面に向かう東海道と伊勢へと至る伊勢別街道との分岐点である。西の追分は、京への道と伊賀から奈良へと向かう大和街道との分かれ道である。関宿の町並みが続く長さは約1.8km、江戸から明治にかけて建てられた古い町家が200軒近くも残されている。

関地蔵院マップ

 宿場の中心に地蔵院がある。このお寺の歴史は古く、天平13年 (741) に遡るという。奈良東大寺の僧・行基が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この地に地蔵菩薩を安置したと伝えられている。日本最古の地蔵菩薩である。
 本堂は寄せ棟づくりの瓦葺。柱や梁、破風などを朱に塗られた鐘楼が印象的である。いずれも国の重要文化財に指定されている。境内を囲う土塀を内側から見ると、柱間ごとに窓が開いていて、中にそれぞれお地蔵様が座っている。“関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろ” と俗謡にも謡われたほど、人々に親しまれてきた寺院である。

関地蔵院A

亀山城と城下町

 伊勢亀山では文永2年 (1265) に関氏により城が築かれたが、元亀4年 (1573) に織田信長により追放されてしまった。新たに築城されたのは天正18年 (1590) に岡本氏が入城したときで、本丸・二之丸・三之丸をつくり、天守閣も建てられたと 『九九五集』 に記録されている。
 その後、城主は8家がめまぐるしく入れ替わったが、石川氏が城主となって以降は安定し、11代で明治を迎えるまで変ることがなかった。しかし、明治6年の廃城令によりほとんどの建造物は取り壊され、現在は多門櫓と石垣・土塁・堀の一部が残されているにすぎない。

亀山城マップ

 多門櫓 (上の写真) は、原位置のまま遺存する県下唯一の城郭建築で、昭和28年に三重県の文化財に指定されている。高さのある見事な石垣は天然石の野面積みで、400年を経た今日でもしっかりと櫓を支えている。
 亀山6万石の城下町は、東海道の宿場町でもある。江戸時代は繁栄を極めたが、明治になって鉄道が開通し、さらに亀山駅が500m以上も離れてできたこともあって、その賑わいは衰退した。しかし、お城周辺の旧東海道沿いには、往古を偲ばせる旧跡も多く、昔の趣を色濃く漂わせている。
 市では平成20年より、「歴史まちづくり法」 に則った 「歴史的風致維持向上計画」 を策定して、一体的な保存整備に取り組んでいる。

亀山城B
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 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
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