FC2ブログ

Entries

熊本城と水前寺公園

 熊本城は、築城の名手といわれる加藤清正が慶長6年(1601)に着工し、7年かけて完成したものである。城郭の広さは約100ha、その中に天守3、櫓49、城門29を擁する豪壮で堅固な構えである。また、石垣の曲線、漆喰の白と黒い板塀のコントラストなど、美しい城である。
 戦国から江戸時代にかけての城郭であるが、明治になってもう一度歴史の舞台に登場してくる。明治10年(1877)に不平士族が西郷隆盛を盟主に起こした西南戦争である。熊本城に籠城した明治政府軍を西郷軍が攻め立てたが、武者返しが功を奏して侵入を許さなかったという。

熊本G1

 5年前(平成28年)の今日(4月14日)発生した大地震により、甚大な被害を受けた。毎日、テレビで報道される被害の状況を見て、大きな驚きを感じていた。石垣の隅石だけ残り、天守閣の建物が辛うじて倒壊をまぬがれているのである。実はこの写真は、私の娘が地震の3日前に旅行した時のものである。

熊本G2

 熊本のもう一つの名所「水前寺成趣園」(水前寺公園ともいう)は、細川家の初代藩主が寛永13年(1636)ころから造営した庭園である。池を中心とした回遊式で、東海道五十三次を模した景色を点在させている。観光用ポスターでも、富士山を中心としたこのアングルが使用されている。

木骨造りの家

 イギリスの人たちは、ロンドンなどの都会に住むよりも、郊外の田舎に住むことを好むという。もちろん仕事場は都心なので、通勤あるいは週末帰宅ができるくらいの近場であろう。ストラトフォード・アポン・エイボンは、ロンドンから直線距離にして120km、電車で約2時間である。
 この町は、文豪シェイクスピアの故郷として知られ、多くの観光客の訪れる町でもある。歴史は古く、アングロサクソン人の起源をもち、中世には商業都市として栄えていた。ストラトフォードという名は、古い英語でStreet(街道)とFord(川)を意味するという。

木骨造りの家G

 町を歩くと、古風な建物を目にする。「木骨造り」、英語ではTimber Framingという。木材による柱と梁で骨組みを造り、木組みの間に石材や煉瓦あるいは漆喰を詰め込んで壁にする。軸組と壁の両方で荷重を支えるのである。木材の描く模様が家ごとに個性的、大工の美的表現であろう。
 大きな木骨造りの前で、石垣の工事をしていた。へん平な石を横に積んでいく。アイルランドの畑で見たような隙間は造らない。一番上の石だけは、縦に尖った面を上にして積む。侵入防止のためだろうか。そこに小さな木や宿根草を植えて仕上がりである。古建築とよく調和する

バッキンガム宮殿

 市内の観光地巡りは、地下鉄、バス(赤い二階建て)、タクシーを使う。バッキンガム宮殿へはタクシーで行った。最近日本でも使われ始めた、いわゆるロンドン・タクシーである。セダン型と違って、大きなスーツケースが乗るので旅行者にとっては有難い。
 プラタナスの並木のある「ザ・モール」を進むと、正面に宮殿の建物が見えてくる。イギリスは日本と同じ左側通行なので、車に乗っていて違和感がない。宮殿の敷地は約3haだが、広大なセント・ジェームズ・パークに囲まれているので緑ゆたかである。

バッキンガム宮殿

 宮殿の正面広場の真中に、大理石でできたヴィクトリア記念碑がある。これは、19世紀に60年以上も在位したヴィクトリア女王を顕彰したものである。柱の上に金色に輝く勝利の女神が乗っている。広場は緑の芝生と赤いゼラニウムの花で彩られていた。
 ゼラニウムは、湿気の少ないヨーロッパでは旺盛な生育を見せる。まだ綺麗に咲いている花を、ガーデナーたちが剪定していた。宮殿の門には警備の兵士が一人いた。人気の“近衛兵の交代儀式”を多くの観光客が待ちわびていたが、私は諦めて次の目的地に進むこととした。

ダブリンの住宅団地

 ダブリンでは、郊外のマンションに滞在した。都心へ出るには、バスに乗るか少し離れたところからトラムに乗る。1度タクシーで帰宅したが、英語がうまく通じなかったせいで通り過ぎてしまい、ウロウロと迷い走ったこともある。
 広大な敷地の一団の住宅地で、ゲートには「KILGOBBIN WOOD」と記してある。3~4階建ての集合住宅や2階建ての一戸建て住宅が混在している。戸建にはわずかながら庭もついている。構内に車で乗り入れることもできるが駐車場はわずかしか見当たらない。

ダブリン住宅修正

 内部の道路は、緩やかな曲線を描いており、街路樹や芝生がふんだんに取り入れられている。屋根や壁の色はシックな色調で統一されているが、形や大きさに変化があるので、定型的なアパート群というイメージはない。ここでも、洗練された美観センスを感ずることができる。
 住棟間には芝生の広場が多い。子供たちが遊べる遊戯場や、散歩を楽しめる緑地もある。不思議なのは駐車場がほとんどないことだが、その秘密を知ることができた。建物や緑地の下に大きな地下空間があるのだ。そこが駐車場であり、ゴミなどもエレベーターで地下まで持って行くのである。

アイルランドの酒造工場

 東海岸にある首都ダブリンから西海岸へ向かう途中に、キルベガンという村がある。小川に架かる橋の畔に煉瓦造りの煙突が立っていて「WHISKEY」と書いてある。面白い建物だったので写真を撮った。日本へ帰ってから司馬遼太郎の『街道をゆく・愛蘭土紀行Ⅱ』を読んだ。その中に次のような部分があった。まさにこの写真の工場のことを書いたのだろう。以下引用・・・
 「キルベガン・・・ダブリンより西へ90km。路傍に清らかな小川がながれていて、古いウィスキー工場が建っている。建物は石を積んでシックイを塗ったアイルランド農家の建て方で、エントツだけが赤レンガである。“古いウィスキー蒸留所を修復した保存建造物”という意味の掲示が出ているから、村の文化財にちがいない。・・・」 ちなみにスコッチは「WHISKY」と表記し、Eが入っていない。

アイリッシュ酒

 その小川には中洲があって、ヤナギなどの樹木が密生している。そこに簡単な立札が立っていて、「WILDLIFE SANCTUARY」と記してある。すなわち「野生の聖域」を示している。水も、そこに棲む魚も、植物も、訪れる野鳥も大切にしようという思想である。
 アイルランドの名産は、アイリッシュウィスキーと、もうひとつギネスビールがある。ダブリン近くにビール工場があって、試飲つきの見学をさせてもらった。ウィスキーもビールも原料は大麦である。郊外に広大な麦畑があった。

アイリッシュ酒2


季節通信92鬼

巨大ショッピングモール「ららぽーと」

 昨年9月に「ららぽーと愛知東郷」がオープンした。敷地面積約9ha、延べ床面積10万5000㎡、駐車場台数3900台というスケールの大きさである。店舗の数は201、この地域のショッピングモールとしては最大級である。
 ららぽーとの場所は、東郷町役場と「和合ゴルフ場」とに挟まれた位置にある。現在、東郷中央土地区画整理事業(セントラル開発)は70%の進捗率であるが、その目玉的商業施設として誘致された。40haの区画整理面積の約4分の1を占める大事業である。

ららぽーと

 建物の外観は、あまり派手でなくオレンジと茶系の色彩を基調としている。店舗名を表示する看板もそれほど多くなく、全体に上品に仕上げられたと感じている。写真は、中央のアトリウム、ソファーの置かれた休憩ゾーン、曲線を駆使した通路である。
 私の家から歩いて5分という便利さなので、ときどき散歩がてら買い物に行く。レストランやフードコートも充実しているが、まだ利用したことはない。40年ほど前に、田畑や樹林の多い自然環境が好ましくて移り住んだが、高齢となった今では、買い物に便利な「都会」になったことを有難く感ずる。

祐福寺の仁王門

 東郷町にある祐福寺は、その「勅使門」について2013年12月19日にご紹介した。今回は「山門」、鐘楼を兼ねた「仁王門」についてである。祐福寺は、瀬戸・大府線の旧道と名古屋・岡崎線の交差点近くにある。
 私の自宅は、最近開店した「ららぽーと」と東郷町役場の間にあり、祐福寺は散歩の時の目標地点になっている。祐福寺まで30分、境内でストレッチ体操をした後、境川の堤防道路を歩いて帰ると1時間を越え、1万歩近いウォーキングとなる。

祐福寺 修正

 本堂は長い階段を登った上にあり、門を入ったところの広場に面して建つ大きな建物は「阿弥陀堂」である。徳川家康が寄進した阿弥陀如来像や弘法大師像、地蔵菩薩像などが安置されている。阿弥陀堂の隣には、棟の上に煙出しの小屋根を乗せた庫裡がある。
 山門は二階造りの楼門になっている。明治25年に建立されたという。二階には大きな釣鐘がある。戦時の金属回収で供出させられたが昭和24年に再鋳造された。門の左右には見事な仁王様が、阿と吽の口でまさに仁王立ちしている。鳩除けの金網が施してないので、綺麗な写真を撮影することができた。

岩倉神社の「農村舞台」

 西中金駅北側の山裾に、岩倉神社が鎮座している。一段高い石垣の上に本殿があるが、その建物は一回り大きな上屋で保護されている。本殿の前に拝殿があるのは普通であるが、この神社の特色は、さらにその前に「農村舞台」が設置されていることである。 
 舞台は、間口8間、奥行き5間という大きなもので、この地域にある神社の舞台としては最大のものという。また、回転床、すなわち「廻り舞台」が備えられていることも特徴である。江戸時代後期の文化5年(1808)に建立され、昭和30年代までは歌舞伎や芝居の興業が続けられてきた。

農村舞台

 しかし、その後は娯楽の多様化が進み、舞台の使用頻度が少なくなり損傷も激しくなってしまった。それではいけないと、平成12年になって地域の人たちは「石野歌舞伎保存会」を設立して再興を期すこととした。翌13年には廻り舞台も含めた大改修が行われ、14年からは毎年10月に定期公演が開催されている。現在、豊田市の有形民俗文化財に指定されている。
 境内の片隅に、幹が曲がりくねった老大木がある。看板がついていて、「アカメヤナギ」と記されていた。この木は木曽川の河川敷や、鶴舞公園の池畔など水気の多い土地に自生する性質をもっている。ここも、田んぼの近くの傾斜地であった。

松尾芭蕉 生誕の家

 松尾芭蕉は寛永21年(正保元年=1644)に、この伊賀上野の地で生まれた。伊賀鉄道上野市駅から東へ500mほどの所に、その生家が残っている。格子窓のある二階建て、切妻瓦葺屋根の町屋造りである。黄土色で瓦の乗る土塀が長くて印象的、玄関口には石柱と歌碑が立っていた。
 残念ながら現在、建物改修のため中へ入ることはできなかった。門から覗き込むと、玄関前の庭にバショウの木が植えてある。芭蕉が江戸に住んだとき深川に居を構えたが、門人からバショウの木を贈られたのでその庵を「芭蕉庵」と名付けた。さらに自身も「芭蕉」と号するようになった。

芭蕉生家G

 芭蕉は、滑稽や諧謔を主としていた「俳諧」に疑問をもち、「蕉風」と呼ばれる芸術性の高い句風を確立した。後世には、「俳聖」と呼ばれるまでになった。現在公園となっている上野城の一角に、生誕300年記念の「俳聖殿」が建っている。芭蕉の旅姿をイメージした個性的な建物である。
 元禄2年(1689)、45歳になった芭蕉は弟子の曾良を伴い「おくの細道」の旅に出る。陸奥・越後・越前などを巡り、最後は大垣で旅を終える。我々も知る数々の名句が生まれた。生家前の句碑は「古里や臍の緒に泣く年の暮れ」とある。自分が生まれた時の「臍の緒」を見た感懐を詠んでいる。


季節通信82バショウ

大府市延命寺の「文殊楼門」

 武豊線大府駅から500mほど東へ行くと、堂々とした山門のある「延命寺」がある。このお寺は鎌倉時代の創建で、かつては七堂を備えた大規模な伽藍であったという。応仁の乱により焼失してしまったが、その後、緒川城主や尾張藩の庇護を受けて今日に至っている。
 山門は三間一戸・入母屋造りの楼門で、楼上に文殊菩薩が安置されていることから「文殊楼門」と呼ばれている。江戸時代末期の天保7年(1836)に起工し、同11年に竣工した。150年ほど経た昭和61年(1986)に、大規模な解体修理が行われた。

延命寺G

 中央間には、唐戸(開き戸)があり、両端の間には仁王像が安置されている。柱の上の組物(斗栱=桝と肘木)も見事で、牡丹や唐獅子、象などの彫刻も施してある。通常、扉の下には敷居があるが、この門は平らで車でも入れる構造になっている。ただし、隙間を塞ぐための板が嵌まるようになっている。
 門から本堂までの間に大きな水瓶があり、今を盛りと蓮の花が咲いていた。本堂の右横に農家風の茅葺建物があり、「納経所」との看板が掛けてあった。楼門は愛知県指定の文化財であり、大府市指定の文化財にもなっている。

延命寺H

撞木館のタイルとガラス

 撞木館の“大正ロマン”は、大道具(建物や庭園)にも表現されているが、床・壁のタイルや窓のガラスなどといった小道具にも主張されている。タイルは防水性や耐久性に優れ、形・大きさ・色合いや肌触りなどにも個性が発揮できるので、撞木館では内装のいたる所に使用されている。
 ①は洋館2階のサンルーム、床はクリンカータイルで腰壁はスクラッチタイル ②は台所のかまど、黒い釉薬タイルが使われている。③は1階のトイレ、緑色の壁は釉薬タイルである。④は台所の床、6角形のクリンカータイルである。⑤はバスルーム、様々な陶磁器が使用されている。

撞木館ガラスG

 陶磁器商の建てた邸宅だけあって、当然のようにタイルは豪華に使われているが、それにも増して窓などのガラスにも力が入っている。玄関や応接間など主要な場所にはステンドグラスが、和室や台所にもセンスの良い型板ガラスが用いられている。こんな所にも、大正・昭和のレトロが感じられる。
 ⑥は風呂場の入り口、銀杏の枝にとまった小鳥のステンドグラス ⑦は応接間の天窓、3連の窓いっぱいに装飾されている。⑧は玄関土間からホールへの扉 ⑨は縁側と中庭を隔てるガラス戸 ⑩は和室の障子風の戸である。他にも食器戸棚や雪見障子にも型板ガラスを見ることができる。

撞木館ガラスH

文化のみち「撞木館」

 江戸時代、名古屋城の東には武家屋敷が並んでいた。お城に近いほど上級の武士が、離れるほどに下級の武士が屋敷を構えていたという。国道41号東の撞木町あたりは中級の武士が住んでいたところである。「撞木館」は、大正から昭和にかけて活躍していた陶磁器商が建てた邸宅である。
 名古屋に、輸出向けの陶磁器絵付け業が芽生えたのは明治10年以降である。主として九谷方面から画工を集めて上絵付加工を行い、神戸・横浜の外国商館と本格的な取引を始めたのである。明治20年代になると、瀬戸・多治見にも通じる街道や船積みする堀川にも近い東区一帯が、陶磁器産業の一大集積地になった。

撞木館G

 撞木館は、約600坪の武家屋敷の敷地に、庭を囲むような配置で洋館・和館・茶室・土蔵が並んでいる。庭園も、門から玄関まで弧を描いたアプローチ・洋館前のベランダと芝庭・茶室に至る露地・和館と土蔵に囲まれた中庭など多彩である。全体の雰囲気が、まさに“大正ロマン”にあふれている。
 玄関口に当たる洋館には、応接室と食堂、二階に娯楽室があった。和館は、大黒柱のある田の字型の和室や台所などで構成されている。西南隅にある茶室は、二畳半中板向切の構えである。和館の北側に土蔵二棟が連なっている。現在多くの部屋は、展示室や貸室、喫茶室などとして公開されている。


季節通信80アザミ

文化のみち「主税町教会」

 市政資料館(旧高等裁判所)から「文化のみち」を東に進み、国道41号を渡るとすぐに古風な教会が見える。「カトリック主税町教会」である。この地に初めてカトリック教会が置かれたもので、明治20年(1887)のことという。
 フランス人宣教師らが武家屋敷を購入し、長屋を改造して教会とした。その後明治37年に、現在の原型となる聖堂(礼拝堂)が建てられた。正面に急こう配の屋根があり、その上に十字架が立っている。屋根全体を見ると普通の切妻瓦葺である。わずかな造作で雰囲気が出ているので感心する。

高岳駅 修正

 礼拝堂の斜め前に「鐘楼」が建っている。当初は明治23年頃に建てられたが、昭和40年の道路拡幅のため取り壊されてしまった。写真は、平成2年に位置を移して復元されたものである。鐘楼の鐘は、明治23年にフランス・マルセイユで造られたものという。
 芝生の庭の端に「ルルドのマリア様」が設置されている。フランスのルルドの地で、1858年に起きた“聖母マリアの出現”の模様を再現したものである。礼拝堂の横にケヤキの大木が茂っている。直径1mを超す古木で、教会ができる前の武家屋敷の時代からあったものと思われる。

文化のみち教会G

大鹿村「中央構造線博物館」

 中央自動車道・松川インターからまっすぐ(曲がりくねっているが)西に走ると大鹿村に至る。天竜川方面から山脈を見ると、手前の伊那山地に遮られて南アルプスを望むことはできない。冬季、わずかに頭をだした3000m級の山々の、白い雪帽子が見えるだけである。大鹿村はその谷間にある。
 「中央構造線博物館」は名の通り、日本一の大断層を説明する博物館である。駐車場を降りると広場があり、大西山をバックに瀟洒な建物がある。広場にはたくさんの岩石(鉱物)見本が置いてある。園路の中央に直線のブロックが設置され、「中央構造線」と記してある。正にここが断層なのだ。

大鹿村博物館G

 九州から四国、紀伊半島を通って渥美半島、豊橋あたりから北へ曲がって諏訪湖に至る、日本列島の骨格ともいえる地層である。南側・東側を外帯といい、北側・西側を内帯という。このラインの内か外かで、構成する鉱物がまったく異なるという。広場の岩石は、その様子を示している。
 部屋に入ると、さらに詳しく中央構造線が説明されている。日本列島の成り立ち、プレートの動きや火山活動の歴史を、パネルを見ながら学芸員さんが説明してくれる。二階には10畳ほどの大きなジオラマがあり、岩石の縞模様が平面的にも立体的にも分かるようになっている。内容説明は、ぜひ現地で!!

大鹿村博物館マップ


季節通信78タケニグサ

岩倉市史跡公園の建物

 岩倉駅から西へ、自転車で10分ほど走ったところに「大地遺跡」があり、史跡公園として整備されている。ここには、興味深い2つの建物がある。一つは「竪穴住居址」、昭和26年の発掘調査により、この地で発見されたものである。地表より約1m下の砂層の地盤に、住居址の窪みがあった。(上屋は復元)
 規模は、東西約7m、南北約4mの長方形で、角はややまるくなっている。床面は、地盤より20~30cm低い位置にあり、平坦に踏み固められていた。東面の南に寄った所に入口があり、奥に炉があったと考えられている。普通の竪穴住居の柱は4本であるが、この住居には6本あり、2つの部屋に分かれていた点に特色がある。その後建てられるようになった農家の源流を示している。

岩倉住居G

 竪穴住居の隣に、もう少し大きな「鳥居建民家」が建っている。この建物は、昭和30年の調査により東町で発見されたものを、この公園に移築したものである。この地方の農家は、いわゆる「田の字型」と呼ばれる四間取りのものが多いが、この建物はその前身の3間取りになっている。
 田の字での大黒柱に代って主柱が2本あり、柱に梁が架かる姿が神社の鳥居に似ることから「鳥居建民家」と呼ばれている。この構造は、遠く室町時代における農家の形式を残したものであり、極めて貴重な文化財といわれている。

岩倉住居H


長久手のトヨタ博物館

 久しぶりに取材に出かけた。長久手のグリーンロード沿いにある「トヨタ博物館」である。東郷の自宅から県道57号でまっすぐ、30分ほどと意外に近い。10年ほど前に来て以来、2回目である。
 建物は長楕円形、緑青色の屋根にガラス張りの明かり取りが個性的である。道路方面に赤いT字の標識が突き出ているので、すぐに分かる。入り口を入ると、駐車場まではよく手入れされた樹林である。

トヨタ博物館G

 トヨタ自動車が威信をかけて、“自動車の歴史を学び、人と車の豊かな未来のために”つくった博物館である。日米欧の代表的な車両が140台展示されている。
 ガソリン自動車の第1号と言われるベンツ(複製)や1936年にトヨタが初めてつくった1号車など。1920年代の、“ローリング20”のドラマに出てくるようなアメリカ車も並んでいて興味深い。

トヨタ博物館マップ

 戦後のコーナーでは、子供のころに町で見かけた懐かしい車種や、自分が乗ったことのある車も並んでいる。次はどんな車を選ぼうかなどと想像するのも楽しい。
 10数年前と異なり、新たに「文化館」が増設されていた。ここにはミニチュアやプラモデル、世界のナンバープレート、自動車を描いた切手などのコレクションが展示されている。自動車専門の図書館も併設されている。


季節通信76ハンゲショウ




永源寺・方丈の屋根

永源寺G

 永源寺は、琵琶湖に流れる「愛知川」に沿って広大な伽藍をもつ。“あいち”でなく“えちがわ”と読む。擬宝珠のある旦度橋からは、自然豊かな瑞石山と愛知川の間に、静かに佇む永源寺を望むことができる。少し上流には50年ほど前にできた、かんがいと発電のための永源寺ダムがある。

 総門を過ぎ、山門を入ると左手に大きな本堂が見えてくる。康安元年(1361)創建時の建物は火災により焼失し、現在は明和2年(1765)に井伊氏の援助で建立されたものである。屋根は、琵琶湖に生える葦(ヨシ:アシともいう)で葺かれている。これほどの規模の葦葺き屋根は、全国でも珍しいという。

 法堂近くの小さな池に銅で鋳造された噴水があり、その横に「永源寺」と逆さに書かれた看板がある。池に写った文字が、きちんと寺の名前を示している。寂室元光禅師が開山した禅寺であるので、何か禅問答を仕掛けているのだろうか?

永源寺マップ

国宝「如庵」

 もう一度三題噺。今度は「有楽斎」「如庵」「建仁寺」である。京都祇園・花見小路の南に建仁寺がある。その塔頭「正伝永源院」方丈の前庭を拝観した。その右奥に茶室がある。どこかで見たことがあると思ったところ、扁額には「如庵」とある。犬山・有楽苑で何度も訪れた茶室と同じである。
 この茶室は、数奇な歴史をもつ。元和4年(1618)ころ、かの有名な織田有楽斎(信長の弟)が、隠棲の地とした正伝院に、書院とともに建てたものである。明治になって「廃仏毀釈」が荒れ狂う中、正伝院は廃寺となった永源庵(同じ建仁寺塔頭)跡地に移転することを余儀なくされた。

有楽G

 明治末には、如庵・書院ともに東京に移転することとなる。何度も移築されたのち、昭和47年(1972)に名古屋鉄道の所有となり、有楽斎生まれ故郷尾張の地に安住の地を得たのである。犬山城の東隣、名鉄ホテルの敷地内に「有楽苑」として整備されている。
 寛政11年(1799)ころに描かれた「都林泉名勝図会」を見ると、書院と茶室やその前庭などの様子がよく分かる。有楽苑の造りは、この古図にかなり忠実だと思う。一方、元々の由来をもつ正伝永源院では、平成8年に如庵を復元整備したのである。有楽斎・如庵・建仁寺の三題噺でした。

有楽H


季節通信67椿“有楽”

落柿舎

 一人で旅行をしたり、このブログの取材に行くときには、レンタサイクルをよく使用する。小さな町の歴史や文化を見て回る場合、歩くには遠すぎるし車ほどではないという時には自転車がちょうどいい。目的地へ行く道すがら、車では見過ごしてしまうような“小さな発見”もできることがある。
 嵐山の駅近くには、いくつかのレンタサイクル屋さんがある。地形も平らだし、けっこう利用する観光客も多いのだろう。このときは、渡月橋を渡って松尾大社、苔寺、すず虫寺。左岸へ戻って竹林、野宮神社、大河内山荘、そして落柿舎を見た。駐車場を探さなくていい利点もある。

落柿舎マップ

 以前から、「落柿舎(らくししゃ)」という風流な名前だけは知っていた。嵐山の山裾のこんもりした樹林の前に人が集まっている。入り口も狭いので、入園を待って並んでいるのであろう。小さな門構えの扁額に、白い文字で落柿舎と記してある。予想通りの飄々とした庵であった。
 この草庵は、芭蕉の弟子の向井去来の別荘であった。若くして武士を捨て俳諧の道を選んだ人である。芭蕉はここに3度滞在し、「嵯峨日記」を著した。去来本人も「落柿舎ノ記」を残している。たくさん柿が実ったので老商人に売ったところ、嵐が来て一晩のうちに柿すべてが落ちてしまった。去来は気の毒に思い、売ったお金をすべて返してあげたという。名前の由来である。

落柿舎G


季節通信64残雪

続きを読む

東山植物園の「合掌造りの家」

 東山植物園の日本庭園、奥池のほとりに「合掌造りの家」が建っている。元々は岐阜県大野郡白川村字大牧にあったが、昭和30年ごろから鳩谷ダムの工事が始まり、大牧集落一帯が水没することとなったのである。そこで、この家の所有者太田家から寄贈を受け、昭和31年にこの地に移築されたものである。
 この建物は、集落の中でも最も大きく由緒のあるもので、今から180年前の天保13年(1842)に築造されたという。広さは264㎡、高さは10m、四層茅葺き屋根である。分家をしない次男・三男も含めた大家族が、一緒に住む家であった。

合掌マップ

 一階は柱を使った組み立て式、二階以上がいわゆる「合掌」で丸太による小屋組みになっている。この家を造るのに、釘やカスガイは一切使われていない。丸太は「ねそ」と呼ばれる生木で結束される。「ねそ」とはマンサクのことである。この材は年月を経て乾燥が進むほどに締まっていき、結束がより固くなっていく。
 合掌造りの家は、日本庭園の中心にある。奥池の手前は「也有園」、西の谷は「椿園」になっている。北の奥は、植物園で最も深い谷で、中部地方に自生する植物が生態的に植栽されている。太田家の家は、故郷を離れたが、周りの環境は移築前と同じように自然豊かである。

合掌G


季節通信60早春の花

初詣(川崎大師)

 この三が日、皆さんはどこかへ初詣に行かれましたか?近くの氏神様や菩提寺、あるいは有名な寺社でしょうか?全国の神社・仏閣で、初詣客が最も多いベスト10を選ぶと「川崎大師」は必ず名を連ねるそうです。東京では明治神宮、大阪では住吉大社、名古屋では熱田神宮などが常連です。

 川崎大師の正式名称は「平間寺(へいけんじ)」である。社伝によれば、平間兼乗(ひらまかねのり)という武士が、海中から弘法大師の木像を引揚げて小堂を構えたのだという。大治3年(1128)に、諸国遊化(ゆけ)を行っていた高野山の上人と力を合わせてお寺を建てたのが始まりである。

川崎G

 歴史は古いが、堂宇は新しいものが多い。太平洋戦争により、ほとんどが焼け落ちてしまったからである。大本堂(下左の写真)は昭和39年に落慶した。大山門(上右)は昭和52年、中興塔と呼ばれる八角五重塔(下右)は昭和59年に完成している。
 大山門に向かって150mもの長い参道(上左)が続いている。「仲見世通り」と呼ぶ。厄除けの品や煎餅、饅頭や咳止めの飴などを売る店が軒を連ねている。近郊近在だけでなく、遠くからも信徒が集まる。京浜急行電鉄は東京や横浜に多くの路線をもつが、その元は、明治32年(1899)に川崎駅から大師駅まで開通した大師電気鉄道である。

川崎H


季節通信58芽

東京スカイツリーと浅草観音

 赤坂離宮を見た後に、スカイツリーと浅草へ行きました。いずれも、東京で最も人気の高いスポットです。かたや超現代的な名所であり、他方は歴史のある古典的な観光地です。東京は、新旧の見どころに溢れていて、内外から多くの “トゥーリスト” を集めています。
 東京スカイツリーは、墨田区にあります。電波塔(送信所)として平成24年に開業しました。観光・商業施設やオフィスビルが併設されていて「スカイツリータウン」と呼ばれています。高さは634mでタワーとしては世界一、2位は中国・広州市の広州塔で600m、3位はカナダ・トロント市のCNタワーで553mあります。ちなみに東京タワーは333m、名古屋テレビ塔は180mです。

浅草G

 「浅草(あさくさ)観音」の名で親しまれる「浅草寺(せんそうじ)」は、墨田区近くの台東区にあります。創建は推古天皇36年(628)と伝えられています。聖徳太子の時代であり、みやこから遠く離れた江戸の地にまで仏教が広まっていたかと思うと不思議な気がします。
 古くから信仰の地、歓楽の場として人の集まる所でしたが、明治以降も庶民の盛り場、娯楽地と
して発達しました。明治6年に境内が公園に指定され、明治18年に「仲見世」が近代的な建物になりました。浅草のシンボル「雷門」辺りは、いつもながら内外の観光客でゴッタがえしています。

浅草H


東京・迎賓館赤坂離宮

 昨日の中日新聞サンデー版「世界と日本・大図解シリーズ」に、「迎賓館赤坂離宮」が載っていました。今年の秋、期間限定で迎賓館を見学できるというバス旅行があり、この機会にと参加しましたので、その時の写真(絵葉書のように美しい!?)をご紹介します。
 この迎賓館は、明治42年(1909)年に東宮御所として建てられたものです。当時の最高技術が駆使されました。戦後になって迎賓館として改修され、国賓の表敬訪問や首脳会議などに使用されます。10年前に、明治を代表する西洋建築として国宝に指定されています

赤坂G

 白亜の宮殿は、白い花崗岩と緑青の屋根とが美しく調和しています。豊富な水を吹き出す噴水と合わせて眺めると、まるでヨーロッパの宮殿に来たような錯覚に陥ってしまいます。室内もまさに宮殿といった豪華さでしたが、残念ながら撮影禁止ですので、写真を掲載することは出来ません。
 シンメトリーな芝庭の先に、これも白亜の柵と門があります。どこかで似たような雰囲気の門を見た覚えがありました。ロンドン郊外のリージェント・パークです。かつては英国王室の所有する狩猟場でしたが、今は王立公園として公開されています。広大なバラ園がとても綺麗でした。

赤坂H


季節通信30西洋ヒイラギ

中小田井の五所社

 小田井遊水地(庄内緑地)を囲う堤防の下に「五所社」がある。堤防に上って両側を見ると、遊水地側の地盤より、社側の地面の方が低く見える。庄内川や小田井遊水地の堤防が如何に大切であり、これが決壊したら大変なことになると理解できる。
 五所社の由来書を見ると主神は八幡社で、ほかにも神明社・天神社・愛宕社・熊野社、5社を祀っている。天保12年(1841)の「尾張名所図解」に載っているが、創建は詳らかでないという。小田井城主織田氏が天文14年(1545)に修復したときの棟札が残っているので、これより古いものと思われている。

五所社G

 本殿は、かなり高い玉石積みの上に建てられている。これも大水の時の備えかもしれない。本殿以外にも、小さな祠がいくつか点在している。5社のほかに、津島社・秋葉社・国府宮社・金毘羅社などである。
 社群の前面に広場があり、その片隅に公民館や昭和39年に建立された殉国碑が建っている。その南には高い堤防の土手があり、ここにはクスノキやイチョウの大木が生い茂っていて、神社の古さを物語っている。

五所社H


中小田井の願王寺

 中小田井の町並みの中ほどに、大きなお寺がある。善光寺の別院で「願王寺」という。街道からの入り口に神社の象徴「鳥居」が建っている。これは神仏混淆(神仏習合)の名残であろうか。石畳の参道を歩くと「善光寺」と書かれた扁額のある山門に至る。
 山門の左右には、まだ木肌も新しい仁王様が屹立しており、柱には巨大な草鞋が掛けられている。あちらこちらのお寺の山門で仁王像を見ることがあるが、鳩除け?のためか金網が張ってある所がほとんどである。ここは網がないので、綺麗な写真を撮ることができた。

中小田井の寺G

 願王寺の創建は天長6年(829)と伝えられている。元々は天台宗、本山は比叡山延暦寺であるが、明治以降は信州善光寺の別院となった。宗派を問わないので、小田井だけでなく名古屋の西部からも多くの信者を集めたという。
 本堂は、昭和の初めに建立された建物を昭和50年に屋根を取り去り、柱などを残しながら新しい大屋根を架けたものである。ファサードは全面ガラス張りというユニークなデザインで、昭和52年の日本建築学会賞を受賞している。

中小田井の寺H

松坂城「御城番屋敷」

 本丸の南東にある裏門を出てしばらく行くと、お城番の屋敷が並んでいる。瓦葺の長屋が二棟、東棟が10戸、西棟は9戸、合わせて19戸である。建物は高い槇(マキ)の生垣で囲まれ、現在も住む人々の生活を、観光客の目から守っている。真ん中の小路は景観を配慮して、電柱はなく石畳が施されている。
 西棟の最北の1戸は松阪市が借用し、内部を創建当時の姿に復元して一般公開している。建物は5間×5間、いわゆる「田の字」になっており、裏面に角屋が付随して厠などになっている。築後140年を越え、老朽化も進んでいるので、鉄の円柱と鉄線などで補強が行われていた。

城番屋敷マップ

 元々の住民の方が案内員として常駐され、細かく説明してくれた。それによると、“紀州藩主から松坂に遣わされた与力(2~300石取りの藩士)が、家老家の陪臣となるように命ぜられたことに抗議して、安政3年(1856)に脱藩して浪人になった。”
 “その6年後、藩主の直臣として帰参が許され、40石取りの御城番に就いてこの屋敷を与えられた。” のだという。明治になって住民たちは、合資会社「苗秀社」を設立して建物の維持管理に当たってきた。現在は、国の重要文化財に指定されている。

城番屋敷G

名和昆虫博物館(再掲)

 “虫の魅力伝えて100年”・・・昨日の中日新聞夕刊が一面で伝えている。岐阜市岐阜公園に隣接する私設の博物館である。大正8年(1919)10月26日に開館して、昨日がちょうど100年目であった。現存する昆虫専門の博物館としては国内最古という。
 
 岐阜公園の南端に、岐阜市歴史博物館と並んで 「名和昆虫博物館」 がある。我が国有数の昆虫博物館で約1万8千種、30万点の標本を所蔵している。歴史も日本で最も古く、設立は明治29年 (1896) に遡ることができる。設立者で、初代館長でもある名和靖は、ギフチョウの発見者としても有名である。まだ若い岐阜県農学校助手の時代に、岐阜郡上の山中で新種の蝶を見つけた。
 最初は「名和昆虫研究所」として発足した。これは、害虫駆除や益虫保護を目的としたものである。明治40年に 「陳列館」 (現在の記念昆虫館)、大正8年に 「博物館」 (上の写真) を開館した。博物館の中には、色鮮やかな蝶や、世界から集められた珍しい昆虫の標本が展示されている。特にこの館の原点ともなった、ギフチョウの説明コーナーも設置されている。

名和昆虫館G

 博物館の前面に、「名和昆虫研究所記念昆虫館」 がある。これは明治40年に建てられた 「陳列館」 を保存するもので、岐阜市の重要文化財に指定されている。設計は、当時名古屋高等工業学校 (現名工大) の校長であり、高名な建築家でもあった武田五一によるものである。
 構造は、一階部分はレンガ積みで、その上に三角形の木造トラスを組んで二階としている。急勾配の鉄板葺き切妻屋根に、4か所の採光出窓を設けて変化をつけている。この形は、当時オーストリアに興った 「セセッション」 と呼ばれる建築様式の流れを汲むもので、日本における代表例の一つに数えられている。

高座結御子神社と高蔵貝塚

 高蔵結御子(たかくらむすびみこ)神社は昔から「高蔵さま」といわれ、熱田神宮の御祭神とともにこの地方開発の祖神として仰がれてきた。また、子育ての神様としての信仰も篤く、幼児の成育と虫封じを祈願する風習が東海地方一帯に広く知られている。
 境内は古くから「高座の森」として知られ、クスノキやシラカシ、ケヤキの大木がうっそうと繁り、いわゆる照葉樹の森を形成している。その中には、珍しいカゴノキの古木も混ざっている。境内に入ると周辺の暑さから一転して、涼しくてしっとりとした空気を感ずることができる。

高蔵貝塚マップ

 境内の一角に木製の看板が立っていて、ここに貝塚があった由来を記している。「高蔵貝塚」は明治41年(1908)に、市電の大津町線延長工事のときに発見された。弥生中期の壷型の土器や彫刻の施された馬の骨、歯などが発掘された。
 当時は、まだ弥生文化が石器を使用していたことや、馬を飼育していたこともはっきりしていない時代であったので、この発見により全国でも一躍有名な一大遺跡となった。当時の街の様子は上の古図を見るとよく分かる。(吉田富夫、服部鉦太郎による『名古屋に街が伸びるまで』より引用した)

高蔵貝塚G


季節通信44カゴノキ

高月院(松平家菩提寺)

 司馬遼太郎が、25年間書き続けた名著に『街道をゆく』がある。その最終巻は、NO43の『濃尾参州記』であるが、本の厚さが他のシリーズに比べて半分ほどしかない。それは、愛知のこの取材途中で体調を悪くし、その後急逝したためである。
 絶筆となったその本の、そのまた最終章が「高月院」である。司馬遼太郎は、このときの訪問(平成8年)の30年前にもこの地を訪れていて、とても清らかな印象を覚えているという。以下抜粋して引用・・・
  「高月院はいいですよ」 私は、同行の編集者にわがことのように自慢しておいた。
  白壁だけが、唯一の贅沢だった。規模は小さく、建物もやさしくて、尼僧の庵のようであり、
  いずれにしても私の脳裏にある日本の諸風景のなかでの重要な一風景だった。・・・

高月院マップ

 松平東照宮から東へ向かってなだらかな坂を300mほど登ると、大きな一本松があってその下に松平家菩提寺の門がある。門の扁額は杢の入った厚板で、「高月院」の文字が刻まれている。この門から階段上の中門までの間は少し広い砂利敷きで、両側には漆喰塗りの土塀が連なっている。
 白壁の高さはせいぜい4尺(1.2m)程度で、塀越しにはるか遠くまで見渡すことができる。左を見ると菖蒲池があり、その下方に東照宮の森が見える。右側は棚田で、綺麗に草刈された土手を見せながら段々に登っていく。司馬遼太郎が日本で最も美しいと折り紙を付けた風景である。

高月院G

清洲城

 清洲城は古い歴史をもつ。室町時代の応永12年(1405)に尾張国の守護職・斯波氏が、下津城(稲沢市)の別邸として建てたのが始まりという。この地は、鎌倉街道と伊勢街道の合流する要衝の地であり、文明8年(1476)に下津城が焼失した後は、清洲が尾張国の中心地となった。
 戦国時代の弘治元年(1555)、織田信長が那古野(なごや)城から入城、桶狭間の戦いではこ
の城から出陣したという。今川義元に勝利した後に、この城から天下統一への第一歩を踏み出している。下右の写真は信長の銅像、甲冑に身を固め、桶狭間の方向を睨んでいる。

清洲G

 清洲は、沖積層・濃尾平野の真っ只中、周辺はゆたかで広大な水田地帯が広がっている。東西交通の要でもあり、尾張全体を見渡すことができることから、信長没後も豊臣秀次、福島正則、松平忠吉、徳川義直(名古屋城初代城主)など錚々たる武将が城主となって尾張を治めた。
 信長の跡継ぎを決定するための、かの有名な「清洲会議」もこの城で行なわれた。しかし、関が原の合戦の後、大坂方への防御を固めるための城砦として、家康は熱田台地の北西端、名古屋の地を選択した。それは、清洲の地が低湿地にあり、水攻めに弱みをもつからだと言われている。
(下右は発掘された石垣の写真、軟弱な地盤のため松材による頑丈な「梯子胴木」が施されている)

清洲マップ


 ◆今日から元号が変わって「令和」、代替わりを意味する植物名をもつ「ユズリハ」をご紹介します。
季節通信41譲り葉
▲ページトップ

Appendix

カレンダー

03 | 2021/04 | 05
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

コンパクト月別アーカイブ

最新記事

         

建設・補償コンサルタント

ランキングに参加しています!

プロフィール

FC2USER480348EQK

Author:FC2USER480348EQK
森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
FC2ブログへようこそ!

最新トラックバック

        

検索フォーム

QRコード

QR
▲ページトップ