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岩国徴古館

 岩国城から下るロープウェーから見ると、眼下に吉香公園が広がっている。この公園は城主の居館跡や武家屋敷跡などが明治になって市民開放されたものである。桜・紅葉・牡丹など四季折々の花が植えられているが、6月末だったので花菖蒲や紫陽花がきれいに咲いていた。
 その一角に 「岩国徴古館」 が建っている。物資統制下の戦時中に、旧藩主吉川家が “郷土に博物館を” という熱い思いで取組んだもので、昭和17年に起工し20年に完成した。設計した佐藤武夫は名古屋生まれ、岩国中学卒業後早稲田大学で建築学を専攻し、後に教授となる。建築音響学の分野を開拓し、日本建築学界の会長まで勤めた名建築家である。

岩国マップ

 この建物は、佐藤武夫が若い学究心を燃やして初めて手がけた作品で、ヨーロッパの古典主義を基本としながらも、自身の建築家としての才気を表したものである。外観はシンプルな直線で構成され、壁面は豪華な石張りなどではなくコンクリートのブロックを積んだような景観である。
 展示室内部は白い漆喰塗りであるが、アーチ状の梁や下部の広がった列柱、木製の階段などに個性が発揮されている。物資の乏しい戦争中につくったとは思えない、豊かさを感じさせる建築である。

岩国G



広島の原爆ドーム

 73年前の今日8月6日午前8時15分、この真上で原子爆弾がさく裂しました。この 「原爆ドーム」 を “土木文化” などの範疇に入れて良いのか迷うところですが、世界遺産にも登録され、人々に注目されることが “核兵器禁止” や “世界平和” にも繋がるものと考え、ここに掲載します。
 高校の修学旅行以来、3度目の訪問になります。毎年の慰霊祭などにより映像ではよく見ますが、改めてドームの前に立つと不思議な感情が込み上げてきます。悲しみ、怒り、恐怖、一つの言葉では言い表せない複雑な感情です。夕方訪れたのですが、かなり長い時間佇んでしまいました。

原爆ドームG

 帰宅時間だったため、会社帰りの市民が川沿いの道、ドームの横を普通に歩いています。広島の人たちには、この強烈なモニュメントも生活の中に取り込まれているのでしょう。私のような観光客、特に外国からの人も多く訪れています。川を挟んだ対岸に座って、ドームを感じている若い人たちもいました。
 原爆ドームから南に向かって一直線に、「原爆の子の像」(上の写真=以前は千羽鶴が架かっていました)・「平和の灯」・「原爆死没者慰霊碑」・「広島平和記念資料館」 (7月までリニューアル工事中) が並んでいます。慰霊碑の前には花がたくさん供えられていました。バラの花壇もちょうど花盛りでした。

原爆ドームG2

西尾城

 西尾城は昔、西条城と呼ばれた。創建は12世紀といわれるが、中世までの規模は定かでなく、城としての形態を整えたのは戦国末期と考えられている。永禄のころ (1560年代) は、今川方が城主であったが、桶狭間の戦いの後、松平方 (後の徳川) の酒井氏が攻め寄せて城を奪取し、「西尾城」 と改名した。
 天正13年 (1585) に酒井氏は、城の大改修を行なった。面積を広げ、深い堀や高い石垣を築き、数か所の櫓や城門を設けた。このときに、二の丸に新しい天守閣を建て、旧天守は本丸の隅櫓として存続させている。

西尾城マップ

 明治6年 (1873) に出された廃城令 (正式には 「全国城郭存廃ノ処分並兵営地撰定方」 という) により、明治5年から10年にかけて、建物の払い下げや塁濠の破壊などが行なわれた。平成になって歴史公園として位置づけられ、本丸の 「丑寅櫓」 (上の写真) や二之丸御殿の正門である 「鍮石門( ちゅうじゃくもん)」 (下の写真) の再建が行なわれた。
 二の丸跡には、京都から 「旧近衛邸」 が移築されている。この建物は、摂家筆頭の近衛家に嫁いだ夫人の縁で、島津家により江戸後期に建てられたものである。書院と茶室からなっており、庭園も美しく整備されていて、お茶会などの催しにも利用できる。また、お茶のまち西尾らしく、いつでもお抹茶のサービスを楽しむことができる。

西尾城G

西尾市の岩瀬文庫 その2

 岩瀬文庫の入口あたりに、青瓦の可愛らしい建物がある。木造板張りの壁を白いペンキで塗った、おとぎ話に出てくるような小さな家である。看板を見ると 「おもちゃ館」 とあり、なるほどと思わせられる。今回は中まで見ることは出来なかったが、子どもの喜ぶようなグッズが展示されているのだろう。
 帰ってから施設案内の冊子を見ると、この建物のもともとは、大正15年に建設された 「岩瀬文庫児童館」 だという。岩瀬弥助は、毎月一定金額を本の購入に当てていた。その中には、子どもたちにも読んでもらいたいとの考えから、児童書も含まれていたものと思われる。この建物も、旧書庫とともに、国の登録文化財に指定された。

岩瀬文庫児童館

 新しいガラス張りのミュージアム全体をカメラに収めようと、芝生広場の外れまで歩いていくと、そこに珍しい木があった。枝全体に直径1センチほどの茶色の実がついている。マメナシ (イヌナシ) という野生の梨で、この東海地方に限って自生する貴重な種類である。
 名古屋にもあるが数少なく、昭和区や守山区の、溜池の畔や湿地に数か所の自生地が確認されているのみである。西尾市でも八ツ面山東の矢作古川の岸辺に自生があるという。岩瀬文庫のマメナシは、今から50年ほど前、開発により伐採されそうになった木を、心ある人たちの手でこの地に移植したものという。

岩瀬文庫マメナシ


季節通信13高山植物

大須文庫 (2014・01・10の再掲)

 岩瀬文庫、蓬左文庫を掲載したならば、「大須(真福寺)文庫」を忘れるわけにはいきません。名古屋・愛知が先人のご努力により、これほど素晴らしい文化を残していただけたということを、我々は再認識しなければいけないと思います。

 名古屋城と熱田神宮の中間地点に大須の町がある。江戸時代から大須観音の門前町として栄えた歓楽街で、今もユニークな商店街として賑わっている。

大須観音1

 この大須観音 (真福寺) に日本で最も重要なお文庫 「大須文庫」 があることを知る人は意外に少ない。本堂の左翼 (東側) に木の看板が掲げられているが、本堂の賑わいとは裏腹にひっそりとしている。しかし、ここには、国宝 「古事記」 (真福寺本=現存する最古の写本) や40点以上の重要文化財を含む約15000点もの古典籍が収蔵されているのだ。
 この寺院は、もともとは木曽川中州の岐阜県羽島にあった。しかし、この地は地盤が低く、たびたび水害に襲われていた。徳川家康はこの貴重な蔵書を水難から守るため、慶長17年 (1612) に新しい城下町・名古屋にお寺ごと移転したのである。

大須観音2

 古事記は、かつて東京国立博物館に収蔵されていた。これは、大須観音では充分安全な保存が困難であるとの配慮であったが、名古屋市博物館の完成と名古屋市民の熱意が実を結んで、今は名古屋に帰されている。一昨年(2012年)、名古屋市博物館で 「古事記1300年・大須観音展」 が開催された。これは大須観音の移転400年を記念するものであった。

大須観音マップ


季節通信14ハス



蓬左文庫の旧書庫 (2014・5・11の再掲)

 岩瀬文庫は、2003年に再整備されましたが、その翌年の2004年には、名古屋の蓬左文庫(徳川園)もリニューアルオープンしています。両者とも我が地方の誇りとなる文化施設ですので、ここに並べて見ていただくために再掲します。 

 名古屋市東区の徳川園には、徳川美術館とともに 「蓬左文庫」 がある。この文庫には、尾張徳川家の旧蔵書を中心に、日本、中国、朝鮮の古典籍約10万点が所蔵されている。中でも有名なのは 「源氏物語 (河内本) 」、最古の写本として重要文化財にも指定されている。
 大御所家康が駿府で亡くなった後、約3000冊の蔵書が初代尾張藩主・義直に相続された。「駿河御譲本」 と呼ぶ。義直は学問を好み、その後も書物を集め続けたが、それらが「 蓬左文庫」 の元になっている。戦後( 昭和25年)、徳川黎明会は文庫を手放すこととなったが、名古屋市にまとめて移管されたので散逸することなく、この地で博物館として公開されている。
蓬左文庫 アルバム

 「旧書庫」 は、尾張徳川家大曽根邸創建時 (明治20年代) に建てられた土蔵2棟を、昭和10年に合体したものである。平成13年の徳川園再整備で曳家移転するまでは、収蔵庫として使用されていた。現在は、美術館と連結した蓬左文庫側のエントランスとして利用されている。今年3月に、園内の黒門や蘇山荘などとともに、国の登録文化財に指定された。
 徳川園の日本庭園は、「春の牡丹」 や 「秋の紅葉」 の名所となっている。

蓬左文庫マップ

西尾市の岩瀬文庫

 西尾市の北西地域、歴史公園や城跡と、矢作川との中間地点に古典籍の博物館 「岩瀬文庫」 がある。岩瀬文庫は、地元の実業家・岩瀬弥助が独力で蒐集した古い時代の書物を公開し、私立の図書館として明治41年 (1908) に誕生したものである。
 慶応3年 (1867) に西尾城下で生まれた弥助は、肥料商を営んだが、商才があったため一代で莫大な財を築き上げた。自身は質素な暮らしをする一方で、学校に土地を寄付したり、鉄道など社会事業にも力を尽した。文庫は、書物を通じて地域貢献をしたいとの思いで設立・公開したものである。

岩瀬文庫G

 開設時の蔵書は約3万冊であったが、現在は8万冊にもおよんでいる。その内容は多岐にわたり、朝廷や公家の資料、本草学者の蔵書、三河地域の史料など古典籍から近代の実用書まで集められている。後奈良天皇自ら写経した般若心経など、国の重要文化財に指定されるものも含まれている。
 文庫の本館は昭和20年の三河地震で倒壊してしまったが、蔵書は赤煉瓦造りの書庫に保管されていたために難を逃れることができた。上の写真右側は、平成15年に 「古書ミュージアム」 としてリニューアルオープンした建物である。正面奥は新しい収蔵庫、手前の煉瓦造りが旧書庫 (国の登録文化財) である。旧書庫正面玄関の脇に、創設者・岩瀬弥助の胸像が立っている。

岩瀬文庫マップ

三条通りの近代建築

 烏丸御池から三条大橋までも、楽しい街歩きだった。昔ながらの道は幅も狭く、車の往来も少ないので、右へ行ったり左に寄ったり自由に写真を撮ることができる。まず目に入ったのは明治か大正を思わせる近代建築、赤い煉瓦造りの建物が何ともエキゾチックである。
 京都といえば、1200年の歴史を感じさせる寺社建造物などを思い浮かべるが、明治以降の近代建築にも優れたものが残っている。名古屋城の天守閣や本丸御殿、都心部の近代建築などが、昭和20年の空襲により焼失してしまったことと思い合わせると、京都が守られたことに羨ましさを感じてしまう。

三条近代建築マップ

 上の写真は 「京都文化博物館・別館」 である。この建物は、明治39年 (1906) に建てられたもので、当初は 「日本銀行京都支店」 であった。昭和43年からは私立の 「平安博物館」 として使われてきたが、昭和63年に京都府に寄贈され、今は 「京都府京都文化博物館」 として利用されている。設計者は、東京駅などを設計した明治時代を代表する建築家・辰野金吾である。
 下の写真は 「中京 (なかぎょう) 郵便局」で ある。建物のエッジの部分や窓枠などを白い御影石で積上げ、壁の部分に赤い煉瓦が積んである。設計は逓信省によるものである。明治35年 (1902) に竣工したルネサンス様式であるが、昭和49年に外壁だけを残して内部は新しい建物に造り変えられている。このような保存方法を 「ファサード保存」 というが、この中京郵便局が日本で初めての試みという。

三条近代建築G

◆今年の夏至は、3日前の6月21日でした。今日は夏至に因んだ話題です。

季節通信9半夏生

常滑市の「正住院」

 尾張名所図会は、江戸末期から明治初期にかけて刊行された地誌で、尾張国8郡の名所が文章と絵図により紹介されている。前編7巻、後編6巻、合計13巻からなり、その前編第6巻は知多郡となっていてそこに 「正住院」 も載っている。
 今も常滑駅のすぐ南にある 「正住院」 の絵を見ると、山門から縦に並ぶ本堂や書院、左側の六角堂や手水屋、右の鐘楼や庫裏が精緻に描かれている。本堂横のこんもりした森や書院裏に広がる伊勢湾の様子、対岸の伊勢の国も明瞭である。

正住院A

 正住院を訪ねてみて驚いた。山門や土塀の様子 ①、六角堂や手水屋 ② とその裏山、本堂 ③ や鐘楼などの姿が 「図会」 そのままに残っているのである。絵では書院により隠れてしまっているが、海岸際の石積み ④ もそのままのようである。私の想像では、この石積みは海岸の波に洗われる堤防だったのではと思われる。

正住院マップ

 書院の横に小さな看板が立てられていて、近くの庭石 ⑤ についての説明が書かれている。それによれば、この石は 「徳川家康公腰掛けの石」 であるという。天正10年 (1582) 6月2日、「本能寺の変」 の折、家康は堺から京へ向かっていた。異変を聞いた家康は危険を感じ、伊賀の山を越えて伊勢の国白子から船に乗り、この常滑の湊に辿り着いたのである。命からがら、何とか一息ついて座ったのがこの庭石だったのであろう。

正住院B



野間の灯台

 衣浦湾にも古くからの良港があるが、伊勢湾側にも多くの港がある。知多木綿などを対岸の桑名や白子に運んだ 「大野湊」、常滑焼を積み出してきた 「常滑港」 は伊勢湾から熊野沿岸まで販路をもっていた。伊勢湾の豊富な魚介類を獲るための漁港も数多く、北から 「鬼崎」 「苅屋」 「小鈴谷」 「上野間」 などの漁港が並んでいる。
 知多半島先端の西側の出っ張りに白亜の 「野間灯台」 が屹立していて、行き交う船舶を守っている。美浜と呼ばれるほど美しい海岸に立つ清楚な姿は、知多の象徴でありランドマークでもある。多くの観光客が灯台を背景に記念写真を撮っていた。

野間灯台マップ

 灯台は、しっかりした岩礁の上に建設された。高さは17m、大正10年 (1921) に点火されて以来、すでに100年近く海を守ってきた。最近は近くの売店で 「南京錠」 を買い求めるカップルが多く、近くの柵に掛けると願いが叶うという。この日は、一組の新郎新婦がウエディングの衣装を着て、前撮り写真を撮影していた。

野間灯台G


季節通信5「バラ園」

田原城跡と田原市博物館

 田原城が築かれたのは、明文12年 (1480) のことである。この時期というのは後土御門天皇の御世で、戦国時代のきっかけともなった応仁の乱 (応仁元年~文明9年) の直後のことである。この城もその荒波に飲まれ、戦国末期には今川義元に攻められたり、徳川家康に攻略されたりした。
 江戸時代に入ってからは安定して三宅氏の治めるところとなったが、明治になって廃城となり建物は取り壊されてしまった。平成になって桜門とその左右の土塀が復興された。平成5年に桜門を入ったすぐ左手に、田原市博物館が開館した。

田原城マップ

 この博物館には、田原藩をはじめとする歴史資料が豊富に収蔵されている。私が訪ねたときには、田原藩の家老職をも務めた南画家・渡辺崋山の作品や資料がたくさん展示されていた。崋山はかの有名な谷文晁に師事し、後に西洋画法も取り入れた独自の様式を完成させた。
 崋山は蘭学者として西洋事情にも明るく、天保10年 (1839) に幕府が外国船を排斥しようとしたモリソン号事件や、鎖国の非を責めた「慎機論(しんきろん)」を記したため、幕府に蟄居を命ぜられてしまった。蘭方医として有名な高野長英も捕らえられて獄に繋がれることとなったこの言論弾圧事件は、「蛮社の獄」 と呼ばれている。

田原城G

多治見の虎渓山・永保寺

 土岐川が大きくSの字に曲がる右岸、こんもりとした森の中に永保寺が佇んでいる。この地は、領主・土岐氏の山荘であり、鎌倉時代末期には泉石が構えられていたという。現在のような庭園が造られたのは、正和2年 (1313) 夢窓国師が入寺してからのことである。土岐氏の帰依を得て、この山荘を寺にしたのである。
 大きな池に太鼓橋 (無際橋) を架け、渡り切った北側に 「観音閣」 を建立した。太鼓橋の真ん中には、桧皮葺の屋根をもつ 「亭」 があり、庭園の眺めを引き締めている。観音閣は正和3年建設のまま残されており、現在は国宝に指定されている。桧皮葺屋根の4隅の先端が大きく反り返っており、中国の寺院の特色をもっている。

永保寺マップ

 観音閣の西側には、小山のような大きな岩があり、「梵音巌」 と名付けられている。岩山の頂上には、「霊擁」 と呼ぶ六角形の小堂が建てられていて、その横から細流れが滝のように落ちている。円錐形の岩山は、そっくりそのままに池に姿を映しており、小さいけれど逆さ富士のような趣を呈している。
 向かって右側には、本堂、庫裏が並んでいる。庫裏の前に大きなイチョウの木が聳えている。高さ25m、幹周り4m、葉張り20mという大木で創建当時に植えられたということから、約700年以上の樹齢をもつものと思われる。平成15年に本堂と庫裏は火災により全焼してしまったが、このイチョウは被害を受けることがなかった。庭園全体は名勝に指定されている。

永保寺G

名和昆虫博物館

 岐阜公園の南端に、岐阜市歴史博物館と並んで 「名和昆虫博物館」 がある。我が国有数の昆虫博物館で約1万8千種、30万点の標本を所蔵している。歴史も日本で最も古く、設立は明治29年 (1896) に遡ることができる。設立者で、初代館長でもある名和靖は、ギフチョウの発見者としても有名である。まだ若い岐阜県農学校助手の時代に、岐阜郡上の山中で新種の蝶を見つけた。
 最初は「名和昆虫研究所」として発足した。これは、害虫駆除や益虫保護を目的としたものである。明治40年に 「陳列館」 (現在の記念昆虫館)、大正8年に 「博物館」 (上の写真) を開館した。博物館の中には、色鮮やかな蝶や、世界から集められた珍しい昆虫の標本が展示されている。特にこの館の原点ともなった、ギフチョウの説明コーナーも設置されている。

名和昆虫館G

 博物館の前面に、「名和昆虫研究所記念昆虫館」 がある。これは明治40年に建てられた 「陳列館」 を保存するもので、岐阜市の重要文化財に指定されている。設計は、当時名古屋高等工業学校 (現名工大) の校長であり、高名な建築家でもあった武田五一によるものである。
 構造は、一階部分はレンガ積みで、その上に三角形の木造トラスを組んで二階としている。急勾配の鉄板葺き切妻屋根に、4か所の採光出窓を設けて変化をつけている。この形は、当時オーストリアに興った 「セセッション」 と呼ばれる建築様式の流れを汲むもので、日本における代表例の一つに数えられている。

正法寺の大仏

 金華山の山裾に、これほど多くの寺社があることも知らなかったし、これほど立派な大仏様がいらっしゃることも知らなかった。「正法寺の大仏」 は、奈良・鎌倉に次ぐ日本三大大仏と謳われている。正法寺は歴史博物館や名和昆虫館のすぐ近くにあるのに、これまで一度も足を運ぶことがなかった。
 このお寺の第11代和尚は、度重なる大地震や飢饉への厄除けの祈願を立て、2代38年の苦行を経て天保3年 (1832) にようやく、この大釈迦如来像を完成したのだという。高さ13.7mの仏像は、直径60cmのイチョウの丸太を真柱とし、骨格は木材を組み、竹を編みこんで粘土を塗り、お経を張った上に漆を施し、表面に金箔を張った 「乾漆仏」 である。

岐阜大仏マップ

 三層の大仏殿も立派である。正面から見る唐波風造りの屋根や花頭窓が個性的である。薄暗い堂内では、優しいお顔の仏様が、泣いているようにも微笑んでいるようにも見える。右手は 「施無畏印」、左手は 「与願印」 の印相をもっている。胎内仏として薬師如来像が安置されているという。
 お堂の外に出ると立派な多宝塔が目に入る。この塔は江戸中期の作で、当初は伊奈波山の中腹にある伊奈波神社に置かれていたが、明治10年の 「神仏混淆禁止令」 の難を避けるために当寺に移されたものという。日本では長きに亘って神と仏を一つところに祀ってきたが、明治になって禁止の措置が採られた。このため貴重な仏像など、数多くの宝物が廃棄 (廃仏毀釈) されたという。

岐阜大仏G

ささしまライブ24

 久しぶりに 「ささしまライブ」 を見たいと考え、名古屋駅から南の方へ歩いていった。駅周辺の賑わいは笹島の交差点あたりまでで、レジャックを越えるとほとんど人通りが絶えると思っていた。ところが、交差点を越えても若い人たちを中心に、どんどん南へ向かって人々が流れていくのである。私も一緒にしばらく歩いて右へ曲がり、鉄道のガードをくぐると目の前に銀色に輝く真新しい町が広がっていた。
 「ささしまライブ24」 は、旧国鉄の笹島貨物駅 (12.4ha) および中川運河終点の船だまりの水面を一体的に大規模開発する事業である。2027年のリニア新幹線開通を見越して、名古屋の玄関に相応しい商業・ビジネス・観光・文化などの機能を充実しようとするものである。

笹島F

 今日10月2日、その中心ともなるタワービル 「グローバルゲート」 内の「名古屋プリンスホテル」 がオープンした。36階建てのビルの内、31階から36階までを占め、170室の客室と、レストラン・ラウンジ・フィットネスなどの機能をもつホテルである。5階から30階までのオフィスはすでに4月にオープンしている。4階までの低層棟にあるコンベンションホールや商業施設は今月のオープンである。
 グローバルゲートの南の区域には、愛知大学の校舎や映画館などのレジャー施設、中京テレビやジップ名古屋といった報道施設のビルなどが建ち並んでいる。名古屋駅からは、あおなみ線に乗り 「ささしまライブ」 駅で降りると便利である。

笹島マップ2

関宿の塗籠

 関宿の町屋は比較的新しく、最も古いもので18世紀中ごろの建築、明治中ごろまでの建物が半数以上を占めている。道路に面して 「平入り」 の二階建てが一般的で、一階は格子戸、二階は土壁で覆った 「塗籠」 のものが多く見られる。
 一階の庇の下に取り付けられた板張りは 「幕板」 と呼び、店先を風雨から守る霧除けである。座敷の前の出格子も関宿の特徴で、座敷を広くする方法である。近年は、町の魅力向上のため軒下に花を飾る家が多い。

関宿G

 二階の漆喰壁は、もちろん防火を意図したものであるが、一階の黒っぽい格子戸と対比して町全体を明るく見せる効果がある。二階の窓も格子窓であるが、ここも漆喰で塗り固めている。「虫籠窓」 といい、家ごとに様々なデザインが施されている。たぶん、大工や左官の腕の見せ所であったのだろう。
 店の格子戸の前などに、面白い物を見つけた。上げ下げできる棚状のもので、「ばったり」 と呼ぶとの説明が付いていた。商品を並べたり、旅人が座ったりしたという。
 よくよく見ないと気が付かないような小さな施設だが、玄関の柱に金属の輪っかが付いている。これは 「馬つなぎ輪金具」 である。土台に近い低い位置に付いているものもあり、それは牛をつなぐものだという。説明板には、“輪金具に 手綱つながれ 馬や牛” との句が記されていた。

関宿H

関宿の地蔵院

 関は古代から交通の要衝であり、古代三関のひとつ 「鈴鹿関」 が置かれていた。江戸時代には、東海道53次の江戸から数えて47番目の宿場として、参勤交代や伊勢参りの旅人で賑わいを見せていた。現在、旧東海道の宿場町のほとんどが旧態をとどめない中にあって、数少ない町並みを残す町として、昭和59年に 「重要伝統的建造物群保存地区」 に指定されている。
 宿場の東西の端に追分がある。東の追分は、名古屋方面に向かう東海道と伊勢へと至る伊勢別街道との分岐点である。西の追分は、京への道と伊賀から奈良へと向かう大和街道との分かれ道である。関宿の町並みが続く長さは約1.8km、江戸から明治にかけて建てられた古い町家が200軒近くも残されている。

関地蔵院マップ

 宿場の中心に地蔵院がある。このお寺の歴史は古く、天平13年 (741) に遡るという。奈良東大寺の僧・行基が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この地に地蔵菩薩を安置したと伝えられている。日本最古の地蔵菩薩である。
 本堂は寄せ棟づくりの瓦葺。柱や梁、破風などを朱に塗られた鐘楼が印象的である。いずれも国の重要文化財に指定されている。境内を囲う土塀を内側から見ると、柱間ごとに窓が開いていて、中にそれぞれお地蔵様が座っている。“関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろ” と俗謡にも謡われたほど、人々に親しまれてきた寺院である。

関地蔵院A

亀山城と城下町

 伊勢亀山では文永2年 (1265) に関氏により城が築かれたが、元亀4年 (1573) に織田信長により追放されてしまった。新たに築城されたのは天正18年 (1590) に岡本氏が入城したときで、本丸・二之丸・三之丸をつくり、天守閣も建てられたと 『九九五集』 に記録されている。
 その後、城主は8家がめまぐるしく入れ替わったが、石川氏が城主となって以降は安定し、11代で明治を迎えるまで変ることがなかった。しかし、明治6年の廃城令によりほとんどの建造物は取り壊され、現在は多門櫓と石垣・土塁・堀の一部が残されているにすぎない。

亀山城マップ

 多門櫓 (上の写真) は、原位置のまま遺存する県下唯一の城郭建築で、昭和28年に三重県の文化財に指定されている。高さのある見事な石垣は天然石の野面積みで、400年を経た今日でもしっかりと櫓を支えている。
 亀山6万石の城下町は、東海道の宿場町でもある。江戸時代は繁栄を極めたが、明治になって鉄道が開通し、さらに亀山駅が500m以上も離れてできたこともあって、その賑わいは衰退した。しかし、お城周辺の旧東海道沿いには、往古を偲ばせる旧跡も多く、昔の趣を色濃く漂わせている。
 市では平成20年より、「歴史まちづくり法」 に則った 「歴史的風致維持向上計画」 を策定して、一体的な保存整備に取り組んでいる。

亀山城B

大須観音 (真福寺)

                                 ≪2014年1月10日の記事を再掲しました≫
 名古屋城と熱田神宮の中間地点に大須の町がある。江戸時代から大須観音の門前町として栄えた歓楽街で、今もユニークな商店街として賑わっている。

大須観音1

 この大須観音 (真福寺) に日本で最も重要なお文庫 「大須文庫」 があることを知る人は意外に少ない。本堂の左翼 (東側) に木の看板が掲げられているが、本堂の賑わいとは裏腹にひっそりとしている。しかし、ここには、国宝 「古事記」 (真福寺本=現存する最古の写本) や40点以上の重要文化財を含む約15000点もの古典籍が収蔵されているのだ。
 この寺院は、もともとは木曽川中州の岐阜県羽島にあった。しかし、この地は地盤が低く、たびたび水害に襲われていた。徳川家康はこの貴重な蔵書を水難から守るため、慶長17年 (1612) に新しい城下町・名古屋にお寺ごと移転したのである。

大須観音2

 古事記は、かつて東京国立博物館に収蔵されていた。これは、大須観音では充分安全な保存が困難であるとの配慮であったが、名古屋市博物館の完成と名古屋市民の熱意が実を結んで、今は名古屋に帰されている。一昨年、名古屋市博物館で 「古事記1300年・大須観音展」 が開催された。これは大須観音の移転400年を記念するものであった。

大須観音マップ

六華苑(旧諸戸清六邸)

 「桑名の渡し」 近くに、山林王と呼ばれた実業家・諸戸清六氏の旧邸 「六華苑」 がある。約1.8haもの広大な敷地につくられたこの邸宅は、洋館と和館、蔵などの建築物群と池泉回遊式の日本庭園からなり、大正2年に完成している。
 円筒形の塔を持つ洋館部分は、鹿鳴館などを設計して 「日本近代建築の父」 と呼ばれたジョサイア・コンドルの作品である。東側の長屋門から入り、みどり豊かなアプローチを進むと正面に鮮やかな空色をした、螺旋階段を内臓した円筒形4階建ての棟屋が目に入る。通路は、その隣にある白い円柱をもつ玄関車寄せへと導かれていく。

六華園マップ

 南に広がる芝生広場へ回ると、明るい色調の洋館と、黒い屋根瓦や柱で構成された和館とが対照的に並ぶ景色が見える。洋館の一階には幅広いベランダがあり、二階はガラス張りのサンルームになっている。各部屋にある暖炉やシャンデリアは、シンプルなデザインであるが、細部にまで配慮が行き届いている。興味深いのはトイレで、大正の始めからすでに水洗式になっていた。
 コンドルは、明治政府に 「お雇い外国人」 として英国から招かれた建築家である。建築の設計だけでなく、工部大学校造家学科 (現東大) の教授として、多くの建築家を育てた。その中から、辰野金吾や片山東熊などといった有名建築家も巣立った。25歳で来日した後、41歳で日本女性と結婚し、67歳で没するまで日本に滞在した親日家でもある。平成9年に国の重要文化財に指定された。

六華園B

桑名城の「蟠龍櫓」

 桑名城は、揖斐川が伊勢湾に流れ込む河口の近くにある。関ヶ原の戦い直後の慶長6年 (1601)、徳川四天王の一人・本多忠勝は伊勢桑名10万石に封ぜられ、この地に築城を始めた。城は慶長15年に完成したが、その7年後には松平氏が入城し、幕末までこの地を治めた。
 桑名城は、その地形が扇に似ていることから 「扇城」 とも呼ばれていた。江戸時代には、桑名の読み “クワナ” を中国の美しい「九華扇」 と掛け合わせて、九華 (クハナ) と書いていた。城跡一帯は現在、公園として整備されており、「九華 (キュウカ) 公園」と命名されている。お堀と花菖蒲の美しい公園である。                            

桑名城マップ

 歌川広重の浮世絵に見るように、桑名は渡し舟の湊として描かれている。帆舟の奥に描かれているのは城郭の南端、伊勢湾(当時は川でなく海であった) に突き出た「蟠龍櫓」 である。熱田湊から七里の海路を舟で渡ると最初に見えてくるのがこの櫓で、旅人にとっては印象的なシンボルであったのであろう。 
 写真の建物は、高潮警戒時に3つの水門を操作する水門統合管理所である。この位置が、かつての蟠龍櫓があった所であることから、絵図などの資料を参考に外観復元したものである。享和2年 (1802) の絵図では、単層入母屋づくりの屋根に 「蟠龍瓦」が描かれており、その姿も復元されている。「蟠龍」 とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍をいい、航海の守護神として設置されたものと考えられている。遠くに見えるのは、長良川の河口堰である。

桑名城B

地下街のトイレ

 名古屋の都心・栄の地下街 「サカエチカ」 の真ん中に 「クリスタル広場」 がある。一日の通行者が10万人を数え、デートなどの待合わせにもよく使われる所である。この広場のコーナーにあるトイレがこのほどリニューアル・オープンした。以前より明るく美しくなったので、利用者が格段に多くなり、特に女性の利用は3倍にも増えたという。
 トイレの重要さは最近特に見直されており、高速道路のサービスエリアや、観光地、デパートなどの公共的な施設では、競って綺麗なトイレを提供している。海外からの観光客が2000万人を越える今日、内外のお客様のために 「おもてなし」 の心を表す意味もある。政府も平成27年に、「日本トイレ大賞」 という制度を設け、快適・清潔・安全なトイレの整備を奨励するようになった。

栄トイレマップ

 サカエチカのトイレは、“あたかも路地に一歩入ったかのような、都市の喧騒から逃れた心和らぐ憩いの空間” を創出する思いで、「五感で感じる」 「ユニバーサルデザイン」 「おもてなし」 をコンセプトに設計された。特に印象的なのは、白と黒・ブラウンをベースにした清潔感のある色調、中央にあるキッズトイレの可愛らしいデザイン、待合スペースに流れるオルゴールの音色などである。
 昭和44年に開業したサカエチカが再来年50周年を迎えるに当たって、全面的なリニューアルを行なう先駆けとしてのトイレ整備である。設計は当社・中部復建 ㈱ の建築部が受託し、女性の感性を重視するために建築家・山口ゆずみ氏の力をお借りして行なった。

サカエチカE

中山道太田宿の脇本陣

 木曽川が飛騨川と合流し、山地を出たところに美濃太田の平地がある。木曽川は再び鵜沼と犬山の谷間を抜けていよいよ濃尾平野へと流れ出すのである。中山道はここで木曽川を渡ることとなるが、昭和2年 (1927) に太田橋が架かるまでは渡し舟に頼っていた。歌川広重の浮世絵にもその様子が描かれている。平常時で85間 (約155m) もある「太田の渡し」は、中山道の三大難所といわれていた。
 太田の宿は、東西の長さ6町余 (約700m)、本陣・脇本陣・問屋場・旅籠屋など118軒が軒を連ねていた。また宿の西には 「尾張殿地方役人出張役所」 が置かれていた。木曽川を所領する尾張藩にとってこの地は、木曽川を渡った対岸 「美濃」 への橋頭堡であり、中山道を押さえる重要な拠点だったのであろう。

太田宿マップ

 宿場の中ほどに、元本陣の立派な門 (下の写真) が残されている。これは、皇女和宮が徳川14代家茂に嫁ぐため下向した際に新築されたものだという。本陣の門の向い側にある脇本陣は、ほぼ原型のまま保存・使用されている。「旧太田脇本陣林家住宅」 と称し、国の重要文化財に指定されている。主屋は明和6年 (1769) に造られ、表門や袖塀・裏の土蔵などは天保2年 (1831)に建築されたという。主屋の両端には 「うだつ」 があり、この建物の権威を示している。
 この脇本陣には、歴史に残る多くの旅人が宿泊した。槍ヶ岳に初めて登頂して開山した播隆上人は、度々太田宿を訪れ、この林家で没することとなった。板垣退助は明治14年、岐阜で遊説中に刺客に刺され “板垣死すとも自由は死せず” と絶叫して亡くなったが、その前日に逗留したのもこの宿であった。

太田宿A

(ご当主の林由是氏は、昨年末に97歳でお亡くなりになりました。氏は、名古屋花菖蒲会の重鎮として長く会を支えられました。ここに哀悼の意を表します。)

犬山有楽苑の「如庵」

 犬山城の東側、名鉄ホテル南側の庭園 「有楽苑」 の中に国宝 「如庵」 が建てられている。「有楽」 とは、織田有楽斎 (1547~1621) のこと。信長の実弟で 「茶の湯」 創成期に、尾張の生んだ大茶匠である。有楽はもともと武将であったが、晩年は武家を捨て茶人となり、京都建仁寺の正伝院を隠棲の地とした。
 「如庵」 は、その境内に元和4年 (1618) ごろ建てた茶室である。二畳半台目で屋根は柿葺、有楽好みの端正な外観を示している。明治以降は各地を転々とする事態となったが、ようやく有楽の生まれ故郷のこの地に帰りついたのである。隣の建物は、同じように移転してきた 「旧正伝院書院」 であり、国の重要文化財に指定されている。

有楽苑マップ

 建仁寺の塔頭の多くは、明治の廃仏毀釈により廃寺となった。細川家始祖の菩提寺 「永源庵」 も廃止されることとなったが、正伝院と合わせて 「正伝永源院」 とすることにより、その名を残せることとなった。正伝院は、永源庵の地に移転することとなったので、その建物のうち 「如庵」 や 「書院」 は手放さなければならなくなったのであろう。一時は東京に移転していたが、犬山に安住の地を得たのである。
 現在、正伝永源院には、同じような姿形に復元された如庵が建てられている。また、寺の入口近くには、織田有楽斎の石塔が建てられていて、有楽斎の事跡を留めている。

有楽苑B

中津川宿の「うだつ」

 中山道は、名の通り山の中を進む道である。全長135里 (約530km) におよび、69の宿場があるが、そのうち28 (40%) もの宿が長野・岐阜両県に置かれていた。中津川宿は、奈良・平安の時代から街道の要所であり、中山道の中でも特に賑わった宿場のひとつである。
 全長1100m、本陣・脇本陣・旅籠30が軒を並べていた。中津川と四ツ目川に挟まれ、直角の曲がり角「枡形」に当たる位置に二つの立派な建物が残されている。下の写真は造り酒屋で、4本もの 「うだつ」 が上がっている。「うだつ」 は、隣家からの延焼を防ぐ防火のための壁に屋根を付けたものであるが、裕福な家しか上げることができなかったので「うだつがあがらない」という慣用句ができた。蒸し上げたお米を保温するため、藁縄で丁寧に巻かれた大樽が展示されていた。

中津川宿D

 造酒屋との対角線に、面白い形をした 「うだつ」 がある。旧中川家の一部で、2軒が連なる長屋になっている。街道に接する壁の上に立つ 「うだつ」 が、2か所で 「への字」 に曲がっていて個性的である。案内看板には説明されていなかったが、道路が同じ形で曲がっており、道路際いっぱいまで家を建てたため、壁・うだつともに曲げて作ったものと思われる。

中津川宿マップ

岩村の城下町

 駅に隣接する喫茶店で電動のレンタサイクルを借り、岩村の城下町を散策した。城郭自体は急な坂や階段であるが、城下町もお城へ向かって緩やかな登りになっている。寄せ手に対して、坂の上から攻撃できる山城の有利な形態であると思われる。
 古い町並みは、近世以来の商業活動によって栄えた商家により構成されている。全体によく保存整備されており、重要伝統的建造物群保存地区 (重伝建) に指定されている。ちょうど、町の文化や楽しみを紹介するテレビレポートのクルーが取材しているところだった。

岩村城下町マップ

 町の中ごろで、古い建物の改修工事が行なわれていた。「曳家」 により移動するのかと思って近くの人に聞くと、基礎を頑丈にするため一旦持ち上げているのだという。地震に対する備えであろうが、古い建物を保存するには多くの費用も必要である。

岩村城下町B

 江戸時代に建てられ、藩主も度々訪れたという木村邸は、玄関・座敷・書院・庭園などがよく保存されている。囲炉裏のある部屋もあって、町屋の文化と風情を味わうことができる。道路沿いに杉玉を飾っている造り酒屋の奥には、土蔵などで囲まれた中庭があって、地元の山野草などが植え込まれていた。

岩村城下町C

岩村城

 ブログの発信がずいぶんと間が空いてしまいました。12月に入って初めての更新です。実は私のパソコンが壊れてしまったのです。大量の写真やデータが取り出せなくなってしまいましたので、青ざめてしまいましたが、何とか直すことができました。また、気を取り直して発信してまいりますので、アクセスいただきますよろしくお願いいたします。

 岩村城の歴史は古く、鎌倉中期の文治元年 (1185) にまで遡るという。頼朝の重臣加藤氏 (後に遠山氏) が代々居城としてきたが、戦国時代に大きな波乱があった。この地は、甲斐の武田氏にとって上洛のためにはどうしても欲しい場所であり、尾張の織田家にとっても、信濃への道筋の拠点に当たる重要な地であった。
 女城主として名高い “岩村御前” は、織田信長の叔母に当たる女性だという。武田勢の大軍に包囲されながらよく耐えて戦ったが、ついに和議に応じて武田方に付いてしまった。時移って武田が長篠の合戦で大敗した後、岩村城は信長軍に包囲され、岩村御前も和議を許されずに滅ぼされてしまったという。

岩村城E

 岩村城は、日本百名城に選ばれ、また日本三大山城にも数えられている。本丸は、海抜717mもの高地にあり、一之門をくぐってからも更に急な階段や坂道を登ったところにある。右の写真はずっと下方にある太鼓櫓で、藩主の邸宅や藩校「知新館」の近くにある。
 知新館正門の横に綺麗に紅葉した樹形の美しい木があった。説明板によると、ウルシ科のトネリコバハゼノキという種類で、中国では「楷樹」といい孔子の墓所に植えられているという。日本には、湯島聖堂など儒学と特別な関係のあるところに分け与えられていて、この木は湯島聖堂から苗木を譲られたものだという。

岩村城F


中山道 下ノ諏訪宿

下ノ諏訪宿は、中山道と甲州街道の接点にあり、交通や軍事上の重要な地であった。元は、諏訪大社の門前町や温泉地として発展したが、江戸時代になって中山道六十九次の宿場町として賑わった。町並の長さは4町50間 (約530m)、甲州街道の分を含めると8町49間 (約960m) になるという。
 宿場の中ほどに問屋場を兼ねた本陣が置かれ、大名や公家などの宿となった。文久9年 (1861) の皇女和宮が降嫁のため江戸に向かう際には、この本陣・岩波家にお泊りになった。また、明治13年に明治天皇が各地をご巡幸されたときにも、小休所として利用された。現在も建物や庭園の一部が残されていて、町の文化財に指定されている。

下ノ諏訪宿マップ

 両街道が交差する辺りに 「下諏訪町立歴史民族資料館」 があり、宿場や皇女和宮についての資料を展示している。また、建物そのものが明治初期に建てられた旅籠としての展示物になっている。街道に面する表側は「出梁造り」といい、一階の梁を突き出して二階を乗せたもので、旅籠屋だけに許されていた。一階にも二階にも、細かい格子が付けられている。入口には板でできた 「大戸」 が嵌められていて、大名などの荷物の出し入れには利用されたが、普段は 「くぐり戸」 が使われていた。

下ノ諏訪宿D

諏訪の高島城

 天正18年 (1590年)、2万7千石の諏訪城主となった秀吉の家臣・日根野氏は、諏訪湖畔のこの地を選んで城を築いた。もともと安土城や大坂城などを手がけた築城の名手で、見事な名城は湖上に浮いているように見えることから別名 「諏訪の浮城」 とも呼ばれていた。
 関が原の合戦後は、徳川方に属した元の城主諏訪氏が藩主となり、10代270年の長い間、居城として諏訪を治めた。しかし、明治4年 (1871) 廃藩置県が行なわれると、城郭の撤去が決定し、明治8年に天守閣などが壊されてしまった。復興されたのは昭和45年、天守閣と同時に冠木門や角櫓なども復元された。現在、高島公園として公開されている。

高島城マップ

 天守閣の西、美しい松の根元に 「亀石」 と呼ばれる大石がある。元は城内の庭石だったが、明治になって城外の庭園に移されていた。平成19年になって市民の願いもあり、132年ぶりに元に戻すことができた。この石に水をかけると、まるで生きた亀のようになり、願いが叶うという。
 北側には、たくさんの穴の開いた奇妙な石が置かれている。これは 「石集配湯枡」 という。享和3年 (1803)、7代藩主が三之丸に浴場を設けた際に、湯を引くためにつくったものである。木製の 「木樋 (きとよ) 」 をつなぐ枡で、集湯や配湯を行なうための装置である。
高島城A

宮の宿

                                               ≪再掲:2015・4・7≫
 熱田神宮の門前町で「熱田宿」ともいう。天保14年(1843)の記録には、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠248軒あったという。桑名への海上7里の渡し場があり、大垣までの佐屋路・岐阜までの美濃路の分岐点であり、さらに62万石の城下町名古屋の表口として、街道一の賑わいを見せていた。
 江戸時代に描かれた数々の絵図が残されていて、当時の宿場町の様子を知ることができる。文化3年(1806)に成立し、文化13年に転写された「熱田宮全図」(西尾市岩瀬文庫蔵、下の図はその部分)を見ると、停泊する舟の様子や常夜灯・浜鳥居・浜御殿・建ち並ぶ旅籠の様子がよくわかる。鳥居から真っ直ぐ通る道は、熱田神宮への参道である。

宮の宿5

 現在、古い建物はほとんど残っていないが、宮の渡し公園のすぐ北に古風な建物がある。名古屋市指定建造物「丹羽家住宅」である。丹羽家は幕末のころ、伊勢久と称し、脇本陣格の旅籠だった。正面の破風の付いた玄関は、当時の格式の高さを偲ばせている。

宮の宿マップの2
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 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:「園長さんのガーデンライフ」
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