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海外の盆栽ブーム

 盆栽は、小さな陶器などの鉢に樹木を植え、古木や大木などの姿に整えて楽しむ園芸である。大自然を身近に置くという日本独特の文化であるが、近年海外でも大人気であるという。盆栽や常滑焼などの植木鉢を買い付けに来る、海外からの趣味家や園芸店も年々増えている。
 ロンドン郊外で毎年開催される「ハンプトンコート・フラワーショー」でも、盆栽の展示・販売コーナーがあった。完成品の大きな鉢植えも飾られていたが、「初心者用」として安価で売られている苗木もあった。1本2ユーロ、3本では5ユーロと値札が付いていた。

盆愛ブームH

 ハンガリーでは、趣味が嵩じて販売までするようになった知人を訪ねた。入り口に大きな看板があり、「BONSAI」と記してある。日本語がそのままローマ字になっている。中に入ると日本庭園の中に、日陰棚や栽培棚が設えてあった。
 日本と同じようにマツやブナ(西洋ブナ?)、カエデ類などが並んでいる。常滑焼の朱泥鉢や火山岩(軽石)が使われていた。枝振りを矯正するために、針金を捲くのも日本と同じである。自然を愛する精神は、万国共通だと感じた。

盆栽ブームG

季節通信128

庄内緑地

 庄内緑地は、小田井遊水地を兼ねている。庄内川が大洪水となり、水が溢れそうになると、越流堤を越えて水が緑地の中に蓄えられる仕組みになっている。約40ヘクタール、100万トンもの水を調整し、下流域の災害を防止する。
 庄内緑地は、名古屋市では珍しく広さを実感できる公園である。調整池であるために施設づくりが制限されているためでもある。中央あたりに広大な芝生広場がある。シンボリックな時計塔と巨大なケヤキが景色を作っている。シートを広げて、のんびりと寝転んでいる人が多い。

庄内緑地G

 彫刻も噴水も遊び道具を兼ねている。巨大な石の彫刻に子供たちはよじ登り、夏の暑い日は、霧を吹き出す噴水が水遊び場に早変わりする。公園の西の端に「ドッグラン」がある。この公園では犬までが伸び伸びと走り回ることができる。
 早春には菜の花畑が広がっていた。かつて小田井の人々が、菜種油を栽培していた風景を思い起こす。地下鉄庄内緑地駅を起点に庄内緑地の園路を通り、囲繞堤(いにょうてい)を越えると中小田井の町に至る。KIZZRIの人たちは、このルートを新しい散策コースにしたいと考えている。

季節通信124マツバラン

ダブリンの植物園

 アイルランドの首都ダブリンは人口120万人、アイルランド国民の約4分の1が集まっている。街には緑が多く、メイン通りには花や彫刻も飾られて活気に満ちている。都心近くに国立の植物園があるというので訪ねてみた。「グレスナビン植物園」と呼ぶ。
 1795年に、資源植物や農業の研究のために設立された。面積は約20ha、栽培植物は2万種にも及ぶという。入り口近くの温室は、キューガーデンを手掛けた建築家が設計した。外観も瀟洒であるが、中に入って眺めるとさらに美しい。何よりも主役の植物との調和が意図されている。

ダブリンの植物園

 花壇は様々なパターンを持っている。宿根草を駆使したボーダー花壇は、園路側は低く奥に行くほど背の高い植物を植えている。日本の山地に生えるタケニグサも使ってあった。平面花壇やハンギングバスケットを使った立体花壇も美しい。若い女性のガーデナーが花の手入れをしていた。
 奥へ進むと自然を活かした深い森があり、野生のリスが走り回っていた。水生植物を集めた池には、モネの庭を連想させるような橋が架かっている。管理事務所で名古屋の植物園の元職員であると告げると、植物目録を進呈してくれた。正門の前で記念撮影。

季節通信120タケニグサ

平城宮の「東院庭園」

 大化の改新(乙巳の変=645年)を成し遂げた天智天皇の後、壬申の乱を経て天武天皇の世となる。天武の後を継いだ持統天皇(天智の娘・天武の皇后)の孫に当たる文武天皇が早逝すると、その母であり持統の妹である元明が天皇を継ぐ。「平城京」は、文武時代に審議され、元明がその思いを成し遂げて710年に遷都した。(ちなみに持統、元明は女帝である。) 
 「乙巳(いっし)の変」「白村江(はくすきのえ)の戦い」「壬申の乱」と動乱の前世紀であったが、ここへ来て安定してきたのであろう、堂々たる都城の建設が行われたのである。東西4.3km、南北4.8km(天白区の面積と同じくらい)、碁盤割りに区画され、中央に朱雀大路が走る。その北端に平城宮がある。

平城宮マップ

 “鳴くよウグイス平安京”と年号を暗記したように、平安京へ遷都した794年の後には忘れられた都となり、ついには田畑となってしまった。明治・大正期になって歴史考察が行われ、保存会も結成された。平成10年に「朱雀門」が復原され、平成22年には「大極殿」も復原されて「平城遷都1300年祭」が開催された。
 大極殿から見て左側、東端に「東院」がある。その東南角に「東院庭園」があった。昭和47年から発掘調査され、平成5年から復原工事が始まり、10年に一般公開された。平安貴族の「寝殿造り」に先立つ日本庭園の原点とも言える庭であり、奈良時代には歴代天皇が宴会や儀式を行っていたという。

季節通信116ミョウガ

中村公園と豊国神社

 明治16年3月、愛知県令(今の県知事)が、地元の人の案内で豊臣秀吉の旧跡地を訪ねた。藤吉郎生誕の地であるにも拘らず荒れ果ているのを見て、県令は秀吉の霊を慰めるため、新たに神社を建てることを思い立った。「徳川」の江戸時代には「豊臣」はタブーだったのだろう。
 長い松並木を通って鳥居に至る。さらに参道の反り橋を渡った先に本殿がある。賽銭箱のある礼拝所の横に、秀吉の肖像画が掛けられており「祭神 豊臣秀吉公」との看板も添えられている。神社の名前も「豊国神社(とよくにじんじゃ)」という。

豊国神社G

 神社を取り囲む緑地一帯は、中村公園という都市公園になっている。明治34年の開園当初は愛知県営公園であったが、市域拡大により尾張・中村が名古屋市に編入されると、公園も名古屋市所管となった。大正11年のことである。
 神社の東隣に竹藪があって、そこに石のモニュメントと石碑がある。石碑には「豊公誕生之地」と刻まれている。公園の一角に、水面に囲まれた小さな芝の丘があり、「日吉丸となかまたち」と銘打つ彫像がある。日吉丸が仲間たちと遊んだであろう群像を描いている。5人の中には隣で生まれた清正も含まれているかもしれない。(年齢差25歳なのでありえない)

季節通信106ウツギ

西区比良の「蛇池公園」

 荒子の前田利家を掲載したからには、比良の佐々成政も語らねばならない。名古屋市西区、環状2号線の北に光通寺というお寺がある。この境内辺りに「比良城」があったといわれている。天文年間(1532~55)に佐々成政の父・佐々成宗が築いたという。成政はここで生まれた。
 少年のころから信長に仕え、数々の戦いで手柄を立てて越中・富山の城主となった。富山に移った後に比良の城は廃城となったという。天正15年(1587)には、九州平定の功により肥後・熊本の城主となるが、国内一揆の平定に失敗し、秀吉の命により自害することとなる。

蛇池G2

 比良城跡の南一帯に、庄内川河川敷緑地や洗堰緑地など広大な公園が広がっている。その一角に「蛇池」があり、その名にまつわる古くからの伝説がある。この池に大蛇が住むという噂を聞いた信長が、その真偽を確かめようと水を掻い出したが、後から後から水が湧き出して空にすることができず、大蛇も見つからなかったという。
 蛇池公園は、桜の名所である。平成12年の東海豪雨の後、河川改修のために、堤防に植えられていた桜全てが伐採されることとなったが、この公園に接する80本だけは残すことができた(2016・4・12の記事参照)。100年近い古木となったソメイヨシノであるが、土壌条件が良いため今も元気に花を咲かせている。


大宰府天満宮の「くすかき」

 醍醐天皇の昌泰4年(901)、右大臣であった菅原道真は、左大臣・藤原時平らの陰謀により筑紫の国・大宰府に左遷させられた。そして、2年後にこの地で死去したのである。すると都では疫病や異常気象など不吉な出来事が相次ぐようになった。
 6年後には、当の時平が死去するに至り “道真の祟り” と恐れられるようになった。天皇は大宰府に勅使を送り、道真の墓所に社殿を造営した。これが大宰府天満宮の創祀である。今、世界中が疫病に喘いでいるが、これは何の祟りだろう。人間の驕りが自然環境を “左遷” したからではないのか?

大宰府G

 社殿の向って右脇には梅の木が植えられ、「飛梅」との銘板が添えられている。道真を慕って、都から “梅の木が飛んで来た” という伝説の木である。元旦にご紹介した丑の像も置かれていた。境内は鬱蒼とした森に包まれているが、特にクスノキの巨木が目立つ。
 特に大きなクスノキの下に面白いものを見つけた。クスノキの枯れ葉が掃き集められ、山のように積まれているのだ。看板が立てられていて「くすかき」とあり、“・・・千年樟のその場所で 千年分を掻いてみる・・・”と詩が記されている。時は5月、常緑樹のクスノキは新葉が展開すると、前年の古葉を落とすのである。

季節通信97スミレ

 ◆ “ふとした自然のうつくしさ” には、心を癒されます。そんな自然を 「季節通信」 として発信してい
   ます。これまでに100回掲載しました。カテゴリーの目次12から検索してください。◆
 ◆「墨入れ」の写真は、我家を建ててくれた大工さんにお借りしました。日本人は「2点の最短距離
   は直線である」という数学の公式を、古い時代から知っていたのです。◆


薩摩藩主の庭園(仙巌園)

 屋久島へ渡る船の出航まで時間があったので、仙巌園(せんがんえん=磯庭園ともいう)へ行くことにした。薩摩藩主・島津家の元別邸である。万治元年(1658)に第19代当主島津光久によって造園され、歴代当主により改造が繰り返されて今日に至っている。
 この庭園のスケールは壮大である。敷地も広く、後背地の山々も借景の一部であるが、それよりなにより、桜島が築山であり鹿児島湾が池であるというのだ。実際に薩摩藩主は、屋敷や庭園から桜島の噴煙を眺めていたのであろう。

磯庭園G

 園内に曲がりくねった細流れがある。ここでは毎年,3月3日の上巳の節句(桃の節句)に「曲水の宴」が開かれる。この行事は、上流から杯が流れてきて自分のところに辿り着く前に、1首の和歌を詠みあげるというものである。平安貴族から伝わる優雅な遊びである。 
 竹林の看板には「江南竹林」とあり、元文元年(1736)に琉球王国より取り寄せた孟宗竹であると説明されている。ここから全国に広まったという。庭園の隣にある「尚古集成館」は日本初のアーチ式・石造の西欧建築である。島津家に関する史料や薩摩切子・陶器などが展示されている。

季節通信103新芽2題

屋久島の縄文杉

 少し英国の話しが長すぎたようです。ここで国内に戻ることにしましょう。と言ってもネタが尽きていますので、やはり、古くに撮った写真から話題を提供します。

 屋久島へは、鹿児島から高速フェリーで行く。途中で種子島の港に寄る。種子島は平坦な島だが、屋久島は標高1935mの宮之浦岳が聳えているので、海から見るとまるで “鬼が島” のように見える。海岸近くは亜熱帯、山頂付近は亜寒帯という変化に富んだ気候の島である。
 港近くの宿で一泊し、翌早朝にバスで登山口に向かう。登山口からはトロッコ道を延々と4時間歩く。初めて登った10年前には重いペットボトルを持参したが、今回は、途中で湧水を補給できることを知っているので背中の荷は軽い。

屋久島G

 世界遺産に指定されて以来、女性の登山客が増えたこともあってトイレの数が大幅に増えていた。樹冠から頭一つ突き出ている杉のうち、樹齢千年以上を屋久杉という。トロッコ道が尽きると急な登りとなる。雨が多くて滑りやすい登山道だが、木製の階段が整備されているので歩きやすい。
 2時間ほどで縄文杉に到着する。樹齢4千年とも言われる日本一の巨木である。途中ウィルソン株を見ることは3月19日にご紹介した。10年前には触れるほどに近寄ることができたが、観光客が増えて根元を踏み固められる危険性が生じたため、少し離れたデッキからしか観賞できなくなった。

季節通信99イワタバコ


ヒドコート・マナーガーデン

 “ここだけは是非とも見てきなさいよ” と勧められた庭園がある。「ヒドコート・マナーガーデン」である。マナーハウスは、中世における荘園領主の館のことで、その庭のことをマナーガーデンという。ヒドコートは、チッピング・カムデンという町の郊外にある。英国を代表する庭園という。
 最初に訪れた日は定休日で、門は閉ざされ “ごめんなさい(WE ARE SORRY)” と記した看板が出ていた。しかし “是非” と言われている筋合いから、翌日に再訪問することとした。総面積10エイカー(約4ha)の敷地は直線や曲がった生垣により25の異なる庭園に分かれている。

ヒドコートG

 それぞれの庭園では、あらゆる造園的手法が駆使されている。高生垣やトピアリー(動物などを象った刈込み)、ツゲの刈込みで幾何学模様をつくる毛氈花壇、岩組に草花をあしらったロックガーデンなどもある。特に有名なのは、赤い葉や花を使った「レッドボーダー」である。
 庭園のはずれにヒツジが草を食む牧草地があった。実はこれも重要な庭園の要素で “ハハア” という。柵が見当たらないので、ヒツジがこちらへ入ってしまうのではと危惧するのは間違い。庭園との境には段差があってヒツジは侵入できないのである。この趣向にお客が “ハハア” と感心したところからこの名がついた。最後の写真は出口近くのトイレ、緑に包まれた美しいしつらえである。

子持ちカツラ

ハンプトンコート・フラワーショー

 ハンプトンコート宮殿は、ロンドンの南西、テムズ川の上流にある。電車で40分ほどと近く、川の畔に広大な敷地をもつ。元々は王宮であったが、現在は一般公開されて観光の名所になっている。毎年7月上旬に開催される「ハンプトンコート・フラワーショー」の会場でもある。
 今回の旅行を7月に選んだのは、夏休み前で格安チケットが得られることもあるが、この花の祭典が見たいこともあった。このイベントはチェルシー・フラワーショーに並ぶ最大級の園芸ショーで、英国だけでなく世界中から出展者と観客が参加する。

ハンプトンコートG

 あまりに広くて多彩なので、とても1日では回りきれない。大急ぎで概要を見るに留まってしまう。アウトドアでは庭園の展示、例えばミニチュア・ガーデンやキッチン・ガーデン(菜園)など。屋内ではバラの鉢植えや日本式盆栽、野菜(写真はトマト)の展示などがある。
 車やバスの利用者も多いが、電車でのお客も多い。私の乗った車内も満席で、駅からゾロゾロ列をつくって会場へ向かう。この日は最終日だったので、夕方になると庭園は解体され、植えてあった植物は販売される。お気に入りの草花を手に入れて、嬉しそうに会場を後にする人たちもいた。

プラント・ハンターの公園

 英国の田舎コッツウォルズには、独特の色合いの建物が多い。それは、この地方でしか採掘できない“蜂蜜色”の天然石「コッツウォルズ・ストーン」を使っているからである。路地裏から、賑やかな音が聞こえてくる。仕事が終わって、パブを楽しむ人たちの声である。
 広い通り沿いに蜂蜜色の石塀があって、狭い入口が開いている。誰でもが入れる公開緑地のようである。看板があってThe Ernest Wilson Gardenと記してあった。その時は、アーネスト・ウィルソン?どこかで聞いた名前だな、くらいにしか感じなかった。

ウィルソン株G

 日本へ帰ってから調べてみると、たいへん有名なプラント・ハンターであることが解った。アジアの植物を調べ、2000種をヨーロッパに紹介した人物である。日本では、屋久島で直径4mほどもある屋久杉の切株を発見した。「ウィルソン株」という名がついている。
 私は、50代と60代後半の2回「縄文杉」を見に屋久島に渡った。登り6時間、帰り5時間の登山はだんだんきつくなる。登山道沿いにあるウィルソン株の巨大さには、ただただ驚かされる。根株の内部が空洞になっているが、その広さたるや畳の部屋8畳以上であろう。小さな祠が祀られていた。

キューガーデン

 キューガーデンも王立である。正式名称はRoyal Botanic Gardens, Kew、すなわち英国王立キュー植物園である。キューへの憧れは、東山植物園に就職した1969年以来だから30年以上も続いていた(今からなら50年以上前)。大温室「パームハウス」が見たかったのである。
 東山植物園の大温室は、当時はキューを参考にして造られたと言われており(最近は別の温室という説)、「リトルキュー」という愛称もあった。温室前の芝生と花壇のデザインも、キューのそれと酷似していた。本場の温室を見たいというのが私の夢だったのである。

キューガーデンG

 内部から見た温室の鉄骨もお洒落である。階段を登ったデッキもあり、高い位置から熱帯植物を鑑賞することができる。誕生は1759年、面積120ha、収集する植物数は4万種を超えるという。とにかく世界一の植物園である。
 キューの守備範囲は広い。研究機関としての要素も大きく、標本や種子のコレクションも多い。観光や行楽面から、花壇も美しく、周遊のための園内交通手段も充実している。将来を担う子供たちを植物園に引き付けるため、サンルーム内の遊戯場もあった。

リージェントパーク

 空港からの直通電車の終点「パディントン駅」に、ヒルトンホテルが併設されている。慣れないロンドンで迷わないようにと、シンプルに到着できるそのホテルを選んだ。駅のエスカレーターの横に、スーツケースに座ったパディントンベア(熊)の銅像があった。
 この鉄道駅は、今回の英国旅行の最大の目的地「キューガーデン」や「ハンプトンコート」へ行くのに便利であることも選択の一理由である。到着してから気付いたのだが、「ハイドパーク」にも「リージェントパーク」にも近い。大きな公園を見ることは、私の、仕事に繋がる趣味である。

リージェントパークG

 リージェントパークは王立の公園ROYAL PARKで、入り口からして金色の門が輝いている。面積約170ha、大部分は森や湖など自然公園であるが、ラグビー場やテニスコートなどの運動場、ロンドン動物園、イギリス式庭園や子供の遊び場などもある。
 中でもバラ園はつとに有名で、春と秋には400種類、3万本ものバラが咲き誇る。ビビットな色合いの花壇も美しい。芝生広場には音楽堂やモニュメントが点在している。遠くに男性が寝転んでいた。近づいてみると、何とこれは彫刻作品であった。(ちょっと怖い)

季節通信36桃の節句

ハイドパーク

 海外旅行のホテルでは、興奮状態にあるので朝早く目が覚めてしまう。部屋でウロウロするのも迷惑なので、着替えて外へ出る。ロンドンでは、ハイドパークを散歩することにした。早朝の街は静かで、ほとんど人を見かけなかった。
 しかし、公園には先客がいた。ジョギングをする人。園路には舗装されてない部分があって、乗馬コースになっている。湖のむこうに見える煉瓦造りの建物はケンジントン宮殿、ダイアナ妃がご成婚から亡くなられるまでお住まいになっていたことで有名。

ハイドパークG

 公園には大きな池と樹林や草原しかなく、工作物はあまり見かけない。園路沿いに木製のベンチがあって、寄付者の思いが背板に刻み込まれていた。草地には歩く人が自然につくった“獣道”がある。驚いたことに野ウサギまでいたが、人に驚く風もない。ゴミ清掃の車が走っていた。 
 ハイドパークは、ロンドン中心部にある大公園で、面積は約250haもある(ちなみにニューヨークのセントラルパークは320ha、名古屋の東山・平和公園は410ha)。元々は貴族の荘園であり、国王所有の時代もあった。19世紀初めに市民開放されて公園となり、1851年開催の第1回万国博覧会の会場にもなった。

季節通信96ヤナギラン

ダブリンの植物園

 都心近くに国立の植物園があるというので訪ねてみた。グレスネビン植物園という。1759年誕生のキューガーデン(英国王立)ほどではないけれど、1795年設立と歴史は古い。面積20ha、栽培植物数2万種という。(ちなみに東山植物園は1937年設立、27ha,7千種である)
 入口のすぐにある温室は、白くて細い鉄骨で構成された繊細なデザインである。中から見るとさらに、構造の美しさが際立っている。私は温室の評価を、植物との調和ではかることとしている。近年の温室の中には、建築家の主張が強調されて、植物そっちのけという建築を見るからである。

ダブリンの植物園

 ボーダー花壇(園路沿いに宿根草などを植えた細長い花壇)を眺めていると、花ガラ取りの手入れをしている女性ガーデナーがいた。拙い英語で話しかけると、笑顔で応えてくれた。平面花壇や、ハンギングバスケットの立体花壇も見事である。事務所で日本から来たと告げると植物目録をくれた。
 奥へ進むと大木の林立する深い樹林がある。ヨーロッパの公園では、必ずと言っていいほど野生のリスに出会う。人との関係がいいのか、近寄っても逃げる素振りがない。水生植物を栽培する池には、緑色に塗られた橋が架かっている。こういうデザインにも、美的センスが光っている。

ダブリンの公園

 アイルランド最古の大学・トリニティ・カレッジの周辺は、ダブリンでも最もにぎわいのある地区である。歩行者優先のグラフトン・ストリートは大勢の人々がショッピングなどを楽しんでいた。楽器演奏のパフォーマンスやハンギングバスケットなどの花飾りが心を浮き立たせてくれる。
 通りの突き当たったところに大きな公園があった。セント・ステファンズ・グリーン・パーク(8.9ha)という。入口には、いわれのありそうな石造りの門がある。入ってすぐのところは芝生と花壇で、多くの人が寝転んで日光浴をしていた。夏の短いこの国の人たちは、お陽さまの光が大好きなのである。

ダブリンの公園

 公園の中央には円形の花壇や音楽堂があり、その北側にはひょうたん形?の池がある。カモなどの水鳥が泳いでいた。南側は樹林と草地で、工作物はほとんど見られない。“グリーン・パーク”の名のとおり、みどり中心の公園なのだろう。
 公園の外周は頑丈な柵で囲われている(筆者の登場はまれ)。看板には利用時間が記してあって平日は午前8時オープン、日曜・祝日は10時である。閉鎖は暗くなる前(BEFORE DAEKNESS)となっていた。公園に接して新しい交通システム「トラム」が走っている。


季節通信92梅の花

再び「横井也有旧宅のムクノキ」

 植物園時代からの友人が、私のブログを見てメールをくれた。2020年1月12日に掲載した「横井也有宅跡のムクノキ巨木」についてである。関連する古い新聞を添付してくれた。彼は、東山植物園や鶴舞公園などの歴史を調べるため、中央図書館などに入り浸っている学究の人である。
 昭和42年10月7日付けの記事である。“横井也有の屋敷跡に聳えるムクノキが、市住宅供給公社が建てようと計画する「那古野ビル」の邪魔になる”というのだ。公社は、大枝と根の一部を伐りたい考えだが、古くからご神体と崇められてきた古木なので決断がつかないとの内容である。

ムクノキ修正

 移植したらどうだろうと元東山植物園長で、市の文化財委員でもある横井時綱氏(也有の子孫)に相談したところ、大きすぎるし樹勢も弱っているので無理との回答であった。困った公社は市長(杉戸清氏)に相談すると、「建設の名で安易に木を切ることは許さない。大木はできるだけ残せ」との指示だった。それから50数年、今もビルの間に樹勢を張っている。
 道路際に立つ史跡の看板を見て、那古野ビルの中庭に入ってこのムクノキを見つけた。新年早々のブログに掲載したことが友人の便りに繋がり、貴重な古新聞に出会うこととなった。古い土木文化を訪ね歩くこのブログが、“まちの魅力の掘り起こし”に役立てばと思っている。

名古屋城の三の丸庭園

 名古屋城の三の丸には、県庁や市役所、国の機関など、いわゆる官庁が集積している。「官庁街」と称する。その南東角、外堀が直角に曲がる所に名古屋市公館があり、その南に日本庭園がある。「三の丸庭園」という。
 名古屋市の迎賓館である公館の南から石畳(延段)があり、鄙びた枝折戸を潜ると古式豊かな庭園が広がっている。土塁の上の鬱蒼とした森に包まれているので、気付く人も少なく訪れる人数も多くない。隠れた名園と言えるかも知れない。

三の丸庭園

 ルーツを辿ると、明治時代に設置されていた陸軍将校のクラブ「偕行社」の前庭だったという。茶道の宗匠が設計し、地元の造園家が施工したものである。手前には大きな平石を使用した飛び石があり、枯山水の池の奥には滝石組みが配されている。石橋や築山にも巨石が使用されている、
 しかし、それらの豪壮な庭石を見ると、名古屋城二の丸庭園の古図に描かれたものと一致するものがある。特に舟形の石は、間違いなく二の丸庭園のものだろうと考えられている。二の丸跡(今は県体育館)には陸軍第六連隊の兵舎があった。連隊の将校たちが、二の丸庭園を壊したのである。


季節通信91スイセン

明治川神社と永安寺「雲竜の松」

 国道1号、名鉄新安城駅の北に、功績のあった偉人を祀る、由緒ある神社とお寺がある。
 「明治川神社」は、明治用水の通水を祝って創建された神社である。この用水は水不足に悩む碧海台地の人々が、江戸時代より望んだ開発であるが、完成したのは明治13年(1880)になってからである。
 明治用水については、2016年7月27日から3回に亘って、このブログで取り上げているのでご覧いただきたい。明治川神社は「大水上祖神(みくまりのおやのかみ)」始め三柱の水に由縁の深い神々を祀るとともに、明治用水開発に功績のあった4人の偉人を合祀している。

明治川神社マップ

 永安寺は、山門と本堂に加えて、門の前に地蔵堂があるのみの小さなお寺である。その由来書によると、江戸初期のころ刈谷藩から村に対し、宿場へ人馬を提供する「助郷役」が命じられた。庄屋は、村の窮状を訴えて免除を願い出た。宝永5年(1677)、彼は直訴の罪で死罪を賜ったという。 
 しかし願いは届けられ、村の助郷役は免除になった。村人たちは庄屋に感謝し、彼の旧宅に草庵を建立したが、後にお寺として整えられた。目を見張るのは境内いっぱいに広がった松である。高さは低く3方へ長い枝が伸びている。根元の幹は太く地を這っているため風に強く、350年も生き延びている。


季節通信90冬の花

高浜市「森前公園(瓦庭)」と「渡船場跡」

 衣浦大橋を渡りきったすぐの所に、高浜市の「森前公園」がある。この公園は、高浜市の地場産業「瓦」をモチーフにした公園で「瓦庭(がてい)」と称されている。園内の舗装・噴水・モニュメントなど全てに瓦がふんだんに使われている。色は黒一色だがガウディ―のデザインに似たところがある。
 公園の隣に「高浜市やきものの里かわら美術館」という長い名の美術館がある。高浜は、日本一の生産を誇る「三州瓦」の中心地である。その歴史は古く、享保年間(300年前)に始まり、大火の後の江戸での需要が増えたことで大発展した。亀崎の湊などから船で出荷したのであろう。

高浜

 公園の一角に「森前渡船場跡」の石碑が建っている。かつてはこのあたりまでが海で、亀崎まで往復する渡し船の湊になっていた。その起源は明らかではないが、江戸時代、刈谷藩は重要視して「浦役」を庄屋に命じ、船の出入りを取り締まったという。
 昭和31年の衣浦大橋開通に伴い、渡し船の役割を終え湊は廃止になった。亀崎側でも同じで、神前(かみさき)神社の近くに常夜灯が残っているだけである。「亀崎渡船場跡」については、2013年4月16日の「衣浦大橋」の項でご紹介していますのでご覧下さい。

安城市の丈山苑

 紅葉の季節である。愛知県なら足助の香嵐渓、犬山の寂光院や有楽苑、名古屋市内なら東山植物園の合掌造り周辺や、庭としては新しいけれど徳川園の日本庭園が思い浮かぶ。もうひとつ、安城のデンパーク近くの「丈山苑」を思い出した。
 さっそく、ブログの取材を兼ねて安城へ行くこととした。人の混雑する博物館や美術館は、コロナが厳しい今、自分の年齢を考えると避けた方が良いと思う。その点、公園や庭園など広いアウトドアなら、感染の確率も低く、鬱屈した心を晴らすのにも適していると考える。

丈山苑

 京都・東山の「詩仙堂丈山寺」を、友人に案内してもらったことがある。石川丈山(1583~1672)が晩年を過ごした寺である。丈山は徳川家に仕えた武将であったが、大坂夏の陣の後、武士を捨てて学問と風雅を楽しむ身となった。京都一乗寺に建て、終の住処としたのが「詩仙堂」である。
 生まれ故郷である安城市では、丈山を記念するため、詩仙堂にそっくりそのままの庭園を整備した。「丈山苑」である。丸窓のある三階建ての「詩泉閣」を中心に庭園が広がっている。鈎状に曲がった濡れ縁からは、サツキの刈込みを植えた枯山水が眺められる。池や四阿のある池水回遊式庭園では、紅葉したカエデや実を付けた柿の木が美しかった。

季節通信86干し柿



岩倉市自然生態園

 岩倉市の西端部、東名高速道路近くに自然豊かな公園がある。市が「自然との共生」を目指して、固有のビオトープとして整備した。園内には小川や池、湿地などがあり、この地域に自生する木や草が植栽されている。つい最近まで、どこにでも当たり前に生息していた数多くの生き物を呼び戻そうとするものである。
 入口の近くに「ワークハウス」と呼ぶ建物があって、園の概要を説明するとともに昆虫や植物の標本を展示している。橋やあずま屋(休憩所)、草屋根昆虫館などの施設もあって多様な生態を観察できる。面白いのは「こうもりタワー」(写真の矢印)で、三階ほどの高さに小屋があり、小さな穴から蝙蝠が出入りするという。

岩倉自然生態園

 この生態園は、隣接する津嶋社も一体的に利用できるようになっている。この境内の森はいわゆる照葉樹林で、鬱蒼とした常緑樹に被われている。200年を越えるアラカシもあるという。梅雨時のせいかジメジメと湿気が多い。大木の幹にヤモリが這い登っていた。
 一部はモウソウチクの竹林で、樹林と混交している。その中に珍しい現象を見つけた。朽ちて空洞になったアラカシの幹に、モウソウチクが突き抜けて生育しているのだ。どう見ても途中から入り込んだものではなく、根の中央に穴があって、そこからタケノコが入り込んだものとしか考えられない。

街路樹

 行楽のためのドライブをしている時も、ついつい「街路樹」を観てしまう。“剪定のしかたが良くない!”とか“こんな狭い歩道にケヤキを植えるのはかわいそうだ!!” などとつぶやき、“今は仕事の時じゃないでしょ!” と同乗者にとがめられてしまう。
 海外旅行をしていても、公園や街路樹には目が行く。訪れる町は観光地が多いこともあって、どの町も美しい緑を整えている。特に、古い歴史のある町は建物もアンティークで、街路樹とのコラボレーションが通りの魅力を演出している。

街路樹G

 ハンガリーの町に、あまり背の高くない街路樹が一定の整った形で並んでいた。「スタンダード造り」という型式である。バラの仕立てにも使われるが、一本の幹の上に丸く刈り込んだ枝葉が乗る。
 近寄ってよく見ると、背の高さあたりに「接ぎ木」の痕跡が残っている。日本ではあまり取り入れられていない形態だが、さすが古い園芸技術をもつヨーロッパだと感心した。

街路樹H

飯田市「保寿寺」の大桧

 飯田市竜江、天竜川を見下ろす山際に「しゃくなげ寺」としても知られる禅寺がある。「保寿寺」は鎌倉時代以来の歴史をもち、地域の檀家だけでなく「花の寺」として各地からの参詣者も多い。実は、私も檀家の一人であり、石楠花・紅葉・山野草の大ファンでもある。
 本堂の横、高い石垣の下に巨大な一対のヒノキが聳えている。「南山桧」と呼ぶ。幹廻りは4.5mと3.9m、高さは30mほど、樹齢は700年以上という。創建当時から大切にされてきたが、天保15年(1844)の江戸城二の丸普請、また明治14年(1881)皇居造営の用材として求められたけれど、その都度「嘆願書」を差出して保護してきた銘木である。

保寿寺マップ

 高い石段を登ると室町期建造という黒門があり、さらに昇るとやはり江戸中期以来の鐘楼門がある。鐘楼門をくぐってすぐに池があり、斜面一帯に石楠花が群生している。この庭は250年の歴史をもち、古くから実生のキョウマルシャクナゲを育ててきた。高山に自生するこの種が、標高400mほどのこの寺に群生することは稀有のことと考えられている。
 もう一つのこの寺の魅力は、野生の山野草が豊富なことである。いつ訪れても、石段の脇や水路沿いに小さな花を見つけることができる。乾湿や日当たりなどの環境に適応した自然の植生を、丁寧な除草などの手入れにより保護・育成していることが、一目で感知できる。

保寿寺G

月瀬の大杉

 国道153号を飯田方面に向かい、県境を越えてすぐのところ、下伊那郡根羽村に巨大な杉の木がある。「月瀬の大杉」と呼ぶ。幹まわり14m、高さ40m、樹齢は1800年を超えると推定されている。平成元年に行われた環境庁の調査により、長野県で第一の巨木であると確認されている。
 樹形は、杉らしい円錐形で、まだまだ若々しいスタイルを保っている。根元から1本枝が出ているので少し扁平で、その方向から見るとさらに太く見える。少し離れたところに素掘りの水路があり、そこに太い根が洗われて見えている。土壌条件が良くて遠くまで根を張っている様子が見てとれる。

月瀬大杉G

 近くの月瀬神社のご神木として古くから崇敬されてきたが、幾度かの危機はあった。弘化元年(1844)、江戸城本丸焼失後の復興用材として求められ、あるいは明治41年(1908)の村内神社統合の際には売却も検討されたが、住民の団結により回避することができた。昭和19年に、国の天然記念物に指定されており、永久に保存されることとなっている。

月瀬大杉マップ

伊賀上野の「蓑虫庵」

 伊賀上野は三重県の西端のまち、奈良や滋賀に近く伊勢や名古屋ともそれほど遠くない。名古屋から関西本線に乗ると亀山まで1時間、乗り換え時間を含めてさらに1時間で伊賀上野駅に着く。“伊賀”の名のとおり忍者の里であり、近くには甲賀という町もある。
 伊賀上野城の天守閣に登ると伊賀の盆地を見渡すことができる。鈴鹿山脈の西、木津川上流の伊賀川・名張川の流域である。木津川は西へ流れて京都南部で淀川と合流する。緑に包まれた城郭の一角に、檜皮葺き屋根の個性的な「俳聖殿」が見える。これは、芭蕉生誕300年を記念して建てられたものである。

蓑虫庵マップ

 伊賀上野は松尾芭蕉生誕の地で、若き日を過ごした故郷である。上野の町なかに芭蕉の高弟、服部土芳の草庵がある。豪商木津家に生まれ、服部家を継いで藤堂藩に仕えたが30歳の若さで官を退き、芭蕉に師事して俳諧一筋の生涯を送った。
 茅葺き屋根の門と焼き丸太の木塀に囲まれた樹林の中に「蓑虫庵」が佇んでいる。この名は、芭蕉から送られた“みの虫の 音を聞にこよ 草の庵”という句から採ったものである。土芳は芭蕉没後に、芭蕉を顕彰した『芭蕉句集』などを、この庵で編んだ。

蓑虫庵G

教林坊の庭園

 琵琶湖・西の湖の東に安土城があり、さらに東に観音寺の山がある。その山裾の森の中に、“詫び・さびのかくれ里”といわれる通りの「教林坊」がひっそりと佇んでいる。二つの門と本堂、書院と経蔵が狭い庭園を取り囲むような配置で建つだけの小さなお寺である。
 門から書院までの細い苑路に心温まる看板を見つけた。地表に出た木の根を囲むように丸太が縛ってあり、「もみじの根を保護しています」と記されている。住職の、自然や植物に対する愛情が伝わってくる。パンフレットにも、「苔を踏まないでください」などと書かれている。

教林坊G

 由来書を読むと、推古13年(605)に聖徳太子によって創建されたのだという。寺名は、太子が林の中で教えを説かれたことに由来する。葦葺き屋根の書院は、江戸前期の様式を伝える貴重なものである。その裏側に立つ経蔵が、とても良い。田舎家の土蔵のように、壁は漆喰のない荒壁のままである。
 多くの観光客を招きたいと考えていないのか、公開されるのは4月・5月の休日と11月から12月10日までである。この寺を世に紹介したのは白洲正子の『かくれ里石の寺』、その一節がこの寺の庭園を見事に語っている。~~ここで私の興味をひいたのは、慶長時代の石庭で、いきなり山へつづく急勾配に作ってあり~~日本庭園のおいたちを見せられたような気がする~~

教林坊H


季節通信72ノハナショウブ

湖東・西明寺の「蓬莱庭」

 湖東というのは琵琶湖の東、名古屋側から見ると鈴鹿山脈を超えた山裾一帯のことである。昨秋、紅葉の綺麗な3つのお寺巡りをする日帰りバスツアーに参加した。お仕着せにはなるが、自分の車で探し歩くより気楽で簡単に行ける。昼食にビールが飲めるというのも楽しみのひとつになる。
 西明寺は承和元年(834)に、伊吹山を開山したことでも知られる三修上人が開いた。現存する本堂、三重塔(いずれも国宝)は鎌倉時代の建築という。階段の多い長い参道を登ると仁王様の立つ二天門があり、くぐって中に入ると正面に本堂、右に三重塔がある。

西明寺マップ

 二天門の手前に名勝に指定されている「蓬莱庭」がある。心の字を象った池には、中央に折り鶴に模した鶴島、左(上の写真では右下)に亀島が並んでいる。背後の築山にある立石群は、本堂に安置されている薬師如来や日光・月光菩薩などを表すという。まさに蓬莱の庭である。
 境内一帯には歳を経たモミジが多く、紅葉の名所となっている。冬は日本海からの雪があり、一年中湿り気が多いと思われるので、林床は美しいコケで覆われていた。この美しいお寺は、アメリカのニュース専門放送局・CNNのウェブ特集で「日本の最も美しい場所31選」に選出されている。

西明寺G

高月院の土塀と氷池跡

 松平郷の「高月院」は、いつ訪れても気持ちがいい。人が込み合うなどということはないが、今はさらに閑散としている。この静かなたたずまいが好きだ。特に庭園といったつくりはないが、棚田がしだいに下がってくる途中に、土塀に挟まれた参道がある。心憎いばかりの造形である。
 土塀がいい。腰あたりの高さなので、上(右)を向いても下を見ても広々として遮るものがない。ご住職の話しでは、かなり老朽化しているので近々修理するという。国指定の史跡である墓所の石垣修理なども行っているので、古色蒼然とした土塀もイメージを壊すことなく復元されることと思われる。

高月院G

 棚田の一番下あたりは浅い池や湿地になっている。毎年4月には、ここに水芭蕉の花が咲く。尾瀬のような高層湿原に分布する植物であるので、この地はかなり涼しく水がきれいなのであろう。ちょっと山際に入るとこれほど豊かな自然をもつ豊田市を、羨ましく感ずる。
 池の上の石垣に看板があり、「氷池跡」との説明がある。この池では、明治20年ごろから戦争の始まる昭和16年まで、天然氷を生産していたという。1月から2月末までの間に、池に張った氷を3回ほど切り取り、山かげの氷室に保存して夏に岡崎方面に出荷していた。

高月院マップ


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 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
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