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美濃赤坂のお茶屋屋敷跡

 慶長5年(1600)9月14日、徳川家康は3万人の軍勢で美濃赤坂に到着した。陣を張ったのは「岡山」、標高53mの山というより丘のような高台である。しかし、中山道を見下ろすには格好の展望台となる。現在は「勝山」と呼ぶ。関ヶ原に戦勝した縁起を担いで改名したのであろう。
 岡山の北に「お茶屋屋敷」があった。その東は中山道「赤坂宿」であり、さらに進むと「赤坂湊」があった。このお屋敷は、家康が上洛するときの宿泊場所として造られたものである。茶屋とはいえ城郭形式で、全体を堀と土塁で囲んでいた。四隅には櫓を備え、正面には大手門まであったという。

赤坂 茶屋マップ

 大坂城には未だ豊臣家が存続しており、若き日に信長が襲われた事件を目の当たりにした家康としては、旅先とはいえ厳重な警備を怠らなかったのであろう。名古屋では城内に本丸御殿を造成して宿泊場所に当てた。ちなみに尾張藩主は、二の丸御殿に居住していた。
 家康没後は次第に使用されなくなり、破損が著しくて廃絶されてしまった。明治4年の廃藩置県のときに、村の名主・矢橋氏に払い下げられて現在に至る。中央部分は広大な「牡丹園」として公開されている。敷地の周辺を見ると、土塁・堀の凹凸や古井戸の跡などが残っており、往時を偲ぶことができる。
赤坂 茶屋G

季節通信192「龍舌蘭の花」

 天白区・鴻の巣(植田駅の北 牧野が池緑地の西)に「カトニー(C0TT0NY)」というカフェ・レストランがある。その庭園に、珍しいリュウゼツラン(龍舌蘭=アガベ)の花が咲いたという。テレビのニュースで流していた。
 早速、ランチがてら訪れてみる。カメラ(望遠レンズも)を持って。大正ロマン?といった風情の建物の前に10数台可能な駐車場があり、入り口ゲートをくぐる辺りに高々と聳える花茎があった。道路からもよく見えるので、テレビを見た人か?、スピードを緩めて眺めていく。

 店内の窓際の席は、二階までの吹き抜けになっていて、大きな一枚ガラスの窓が嵌っている。その窓枠が「額縁」になって、まるで絵画を観るようにアガベの全体像が見える。お店全体が「お洒落」な造りになっているが、建築家・造園家はここまで配慮したのだろうか?
 リュウゼツランは、メキシコなどに自生する多肉植物。大きな舌状の葉の縁にトゲがあって、まるで龍の舌のようなので龍舌蘭と呼ぶ。30~50年に1回花を咲かせ、株は枯れてしまう。この店では20年ほど前に植えたという。2階や3階の窓からも撮影させてくれたので、花の写真もゲットできた。

龍舌蘭

蟹江の佐屋川創郷公園

 日光川は、江南に端を発して伊勢湾に注ぐ二級河川である。全長41km、流域面積は約300km2にもおよぶ。もともと、木曽川の運んだ土砂が堆積してできた沖積平野である。海抜は低く、伊勢湾台風で大きな浸水被害の起きた地域である。
 蟹江駅の近くに、日光川に絡みつくように蛇行する佐屋川が流れている。西側の部分は大膳川、川とは呼ぶが半月形の池である。ここはウォーターパークという公園で野球場が3面整備されている。東側の「佐屋川創郷公園」とは「サンサンブリッジ」で連結されている。

蟹江マップ

 「創郷公園」は「総合公園」も意識しているのだろうか。蟹江の中心的施設が集まっている。子どもの森や花菖蒲園、水郷地帯の水車をイメージしたモニュメントもある。河川や田園を見渡せる展望台や、広い駐車場をもつ「蟹江図書館」もある。
 この辺りは、交通の要衝にもなっている。北から名神高速道路、JR関西線、近鉄本線、国道1号線が集まっている。サンサンブリッジを渡っていると、その下を船がくぐっていった。浚渫した土砂を運搬する船のように見えた。

蟹江G

季節通信184シダ


スキー場の活用

 私たちの青年(死語?)時代は “猫も杓子も” スキーをする時代で、ゲレンデはリフトに乗るのに何 10分も行列をつくるほど賑わっていた。その後、ボードの流行する時代があった。最近はスキー人口も減少気味であり、また、暖冬による雪不足もあってどのスキー場も苦戦している。
 せっかく設備投資したリフトやゴンドラを、冬だけでなく春・夏・秋にも使おうと工夫するスキー場がある。先日「季節通信」でご紹介した茶臼山は「シバザクラ」をゲレンデ一面に植栽した。シバザクラは多年草で挿し木により増やすことができる。私の訪れた10年ほど前よりずいぶん面積が増えた。

スキー場の活用G

 白馬五竜スキー場は、北アルプスに展開するスキー場群のひとつである。テレキャビンと呼ぶ8人乗りのゴンドラとリフトを乗り継いで1500mまで登る。ここは「高山植物園」と称して、自生や移植した高山植物を見せている。ヒマラヤの「青いケシ」や高山植物の女王「コマクサ」が見ものである。
 恵那山トンネルを過ぎた辺り、昼神温泉近くのヘブンス園原は “日本一美しい星空” を売り物にしている。新緑・紅葉や花桃も美しいが、夜まで視野に入れた工夫に感心してしまう。
 岐阜県郡上の「ひるがの高原」にあるダイナランドスキー場では、百合園を整備した。斜面を下りながらスカシユリを鑑賞する。

季節通信15高山2


春日井市都市緑化植物園

 昭和40年代から50年代にかけて、全国各地に「都市緑化植物園」が誕生した。その少し前から、「都市の緑化」が叫ばれ、公園・緑地の拡大がうねりとなっていたのである。大気汚染など、都市の環境悪化が問題となっていた時代である。
 都市緑化植物園には、「みどりの相談所」が併設されている。“都市の緑化”には、市民の関わりが大切である。自宅の庭づくりをしたり、公共緑化のボランティアをするためにも“緑に対する”知識が必要となる。緑化相談所とは、緑化講習会を開いたり、電話相談などに対応するところである。

春日井植物園マップ

 春日井都市緑化植物園(グリーンピア春日井)は、岐阜との県境の山々を背景に整備された。温室や洋風花壇を中心に、生垣見本園・菖蒲池・バラ園・椿園・果樹園などがある。北端には「動物ふれあい広場」、南端にはボート池も整っている。
 温室の内部は一風変わっている。ガラス室の中に街並みが設えられ、通路に街路樹風の植栽がされたり建物の壁に花飾りが施されている。このスタイルは、丹波篠山の「花の植物館」が初めて手掛けた手法である。従前の温室内は“あたかも熱帯雨林の自然を再現”していたのに対する新提案であった。

春日井植物園G

碧南の明石公園とスカイブリッジ

 碧南は矢作川の最下流部と衣浦湾に挟まれた台地・平地である。北部に県内唯一の天然湖・油ヶ淵(2018・9・7参照)がある。衣浦湾沿いには臨海工業地帯が立地し、産業道路的な国道247号と衣浦臨海鉄道が並行して走っている。南端には碧南火力発電所がある。
 名鉄三河線の終点・碧南駅や大浜地区周辺は古い港の町並みが残っている。大きなお寺や美術館、九重味醂の本社・工場もある(2014・2・13参照)。名鉄三河線で知立から30分、知多半島の半田からは衣浦トンネルを潜ってすぐ近くである。人口は約7万3000人。 

明石公園G

 油ヶ淵から流れ出る高浜川と新川に挟まれて遊園地機能を備えた明石公園がある。観覧車やメリーゴーランドなど料金は全て100円。大寒の最も寒い時期というのに、親子づれの何組かが来園していた。「サイクルモノレール」や「おとぎ列車・あかしのポッポちゃん」は一組だけの乗車でも稼働しており、優しい公園だと感じた。
 道路と線路の反対側に駐車場があり、渡るための人道橋が架かっている。「スカイブリッジ」という。アーチからワイヤーで吊る構造で「ニールセンローゼ橋」の一種であろう。コンクリート壁の外側に面白い模様が付いている。連続する飛鳥の姿がレリーフ(窪み)になっている。

碧南 再

季節通信163スノーフレーク


あいち健康の森公園

 「あいち健康の森公園」は、“健康施設”と一体になって「森」を構成している。面積51.5ha、体育館・球技場・テニスコートなどの運動施設や、散歩コース・ジョギングコース・芝生広場など体を動かすことによる“健康増進”を意図する施設が整っている。
 プラザの西に「いのちの池」と呼ぶ大きな池がある。夏には一面にハスの花が咲くという。この周りを一周すると1150m、足に負担のかからない柔らかい舗装が施してある。冬季の今も、散歩する人やジョギングをする人が絶えなかった。

健康公園G

 池の北端に、白亜のデッキが張り出している。遠景に見える三角屋根の塔は「給水塔」、白くて高い塔はパラボラアンテナがあるところを見ると「防災無線」であろうか?その真下には駐車場があり、広大な園内で道に迷った時の目印「ランドマーク」にもなっている。
 公園の西端に「ふるさとの森」がある。ここには、全国47都道府県から選ばれた樹木が植えられている。「秋田:スギ」「石川:アテ」「宮崎:フェニックス」などである。近くには、薬になる植物やハーブを集めた「薬草園」、花菖蒲の品種を集めた「菖蒲田」などもある。

季節通信159フキのとう





東山植物園の温室

 東山植物園の温室は、昭和12年(1937)の植物園開園当初から公開されてきました。建設から80年近く経って、鉄骨の腐食など老朽化が目立ってきましたので、平成26年(2014)から解体工事を始め、昨年の春(2021)復元工事を完成しました。この間、7年かかりました。
 この温室は、国内の温室としては最も古く、全熔接による鉄骨造りの貴重な建物として、2006年に国の重要文化財に指定されました。今回、温室の前庭も以前と同じデザインで整備されました。さらに、池が水鏡のように改良されましたので「逆さ温室」も見ることができます。

温室G

 これまでの84年間は、けっして平穏だったわけではありません。戦争時の爆撃では、ガラスが吹き飛んだと言いますし、伊勢湾台風のときにも大きな被害を受けました。昭和40年代の温室建設ブームで各地に大規模な温室が建設される中、もっと大きな温室に建替えるべきという声もありました。その度に、この温室を愛する植物園関係者は肝を冷やしました。しかし、重要文化財になった今は、もうその心配はありません。
 この温室の美しいシンメトリーなデザインは、独自のものではなく、欧米にそのルーツがあります。そのいくつかをご紹介しましょう。
◆世界一古く、コレクションも多いロンドン「キューガーデン」の「パームハウス」(左下)。
◆ニューヨークの「ブルックリン植物園」(右上)は、池の形まで似ているのでビックリしました。
◆アイルランドの「ダブリン植物園」(右下)にも、繊細で美しい温室がありました。

温室H

 令和4年(2022)最初のブログ発信です。ガラス張りで明るく、太陽の光を受けて温かい「東山植物園の温室」から始めました。今年こそコロナを克服して、希望溢れる年にしたいものです。
 

有楽苑の飛び石

 「千利休は渡り六分に景気(景色)四分、古田織部は渡り四分に景気六分」と言ったという。「渡り」とは歩きやすさであり、「景気」とは美しさのことである。庭の園路の中で、「飛び石」や「延べ段」は「用」にも「美」にも重要な役割を果たしている。
 犬山城の東にある「有楽苑」は、国宝「如庵」を擁する名園である。「如庵」は織田有楽斎が、京都・建仁寺の正伝院に、元和4年(1618)に建てた茶室である。訳あってこの地に移築されたが、庭園も有楽好みがそのまま移されたものである。(2020・4・26「国宝・如庵」参照)

有楽苑マップ

 この名園には何度も訪れているが、その度に飛び石の美しさに感動する。苑内には「如庵」を始め、「書院」や「元庵」「弘庵」といった茶室が建てられているが、それらを結ぶ動線にデザインの良い飛び石や延べ段が設えてあるのだ。用も美も備えた通路である。
 有楽苑発行の案内図をお借りして、飛び石・延べ段・霰こぼし(小石を敷き詰めたもの)などの位置と写真を掲載する。「岩栖門(いわすもん)」から入って、「旧正伝院書院」から「含翠門」へ、「弘庵」から「萱門」をくぐって「書院」、「如庵」に至る。最後は「有楽好みの井筒」である。

有楽苑G

有楽苑H

犬山城下「旧奥村邸」の庭園

 犬山城下には、古いお屋敷がたくさん残っている。その中に「旧奥村邸」がある。この建物は、江戸時代の呉服商・奥村氏の住宅である。天保13年(1842)の犬山大火の直後に建設された。瓦葺の二階建てで、壁は黒い漆喰塗りである。
 明治32年(1899)に大規模な修復が行われたが江戸後期の町屋の形態を留めており、貴重な文化遺産といえる。庭園も往時の様子を色濃く残している。門をくぐると右側に玄関があり、飛び石に導かれて真っ直ぐに進むと、塀に囲まれた中庭に至る。

なりたG

 手入れの行き届いた庭木や草花、蘚(こけ)が美しい。各種の灯籠や手水鉢も年代を感じさせる。水琴窟の蹲踞もある。土蔵の横に「銀明水」が湧き出ている。これは木曽川の伏流水で、織田信長が武田勝頼攻めのときに立ち寄って、この水を飲んだと伝えられている。
 建物は、江戸末期の主屋・棟門・米蔵、大正時代までに建てられた金庫蔵・道具蔵・離れ・納屋・渡り廊下・東高塀の9件が登録有形文化財に登録されている。現在、フランチ創作料理の「なり多」として営業している。

なりたH

季節通信137猿


海外の盆栽ブーム

 盆栽は、小さな陶器などの鉢に樹木を植え、古木や大木などの姿に整えて楽しむ園芸である。大自然を身近に置くという日本独特の文化であるが、近年海外でも大人気であるという。盆栽や常滑焼などの植木鉢を買い付けに来る、海外からの趣味家や園芸店も年々増えている。
 ロンドン郊外で毎年開催される「ハンプトンコート・フラワーショー」でも、盆栽の展示・販売コーナーがあった。完成品の大きな鉢植えも飾られていたが、「初心者用」として安価で売られている苗木もあった。1本2ユーロ、3本では5ユーロと値札が付いていた。

盆愛ブームH

 ハンガリーでは、趣味が嵩じて販売までするようになった知人を訪ねた。入り口に大きな看板があり、「BONSAI」と記してある。日本語がそのままローマ字になっている。中に入ると日本庭園の中に、日陰棚や栽培棚が設えてあった。
 日本と同じようにマツやブナ(西洋ブナ?)、カエデ類などが並んでいる。常滑焼の朱泥鉢や火山岩(軽石)が使われていた。枝振りを矯正するために、針金を捲くのも日本と同じである。自然を愛する精神は、万国共通だと感じた。

盆栽ブームG

季節通信128

≪防災の日≫東京都清澄庭園(2014年の再掲)

 三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎は、明治11年 (1878) に、荒廃していた大名屋敷など約3万坪を買い上げ、大規模な庭園づくりを始めた。庭園整備の事業は弟の2代目・弥之助が引き継ぎ、完成をみたのは、弥太郎の長男、3代目・久弥の時代、明治24年 (1891) のことである。
 大正12年 (1923) 9月1日の 「関東大震災」 の折、この 「清澄庭園」 に避難した多くの人々は生き延びることができた。それに比べて、墨田区の 「被服廠跡地」 (6.6ha) に逃げ込んだ約4万人の人々は、ほとんど焼け死んでしまった。その違いは、一方が樹林に囲まれ、池などがあるのに対し、もう一方は樹木もない更地であったからといわれている。近年の研究では 「火災旋風」 (炎の竜巻 )に襲われたのではないかとも考えられている。

清澄庭園A

 現在は、東京都の所有する都市公園になっており、震災被害の少なかった東半分は、当時のような 「清澄庭園」 (有料) に、被害の大きかった西半分は、芝生広場を中心とした 「清澄公園」 として開放されている。上の写真は庭園部分、下は公園部分である。
 ◆◆今日9月1日は「防災の日」、関東大震災から98年目 である◆◆

清澄庭園マップ

季節通信125クズ

庄内緑地

 庄内緑地は、小田井遊水地を兼ねている。庄内川が大洪水となり、水が溢れそうになると、越流堤を越えて水が緑地の中に蓄えられる仕組みになっている。約40ヘクタール、100万トンもの水を調整し、下流域の災害を防止する。
 庄内緑地は、名古屋市では珍しく広さを実感できる公園である。調整池であるために施設づくりが制限されているためでもある。中央あたりに広大な芝生広場がある。シンボリックな時計塔と巨大なケヤキが景色を作っている。シートを広げて、のんびりと寝転んでいる人が多い。

庄内緑地G

 彫刻も噴水も遊び道具を兼ねている。巨大な石の彫刻に子供たちはよじ登り、夏の暑い日は、霧を吹き出す噴水が水遊び場に早変わりする。公園の西の端に「ドッグラン」がある。この公園では犬までが伸び伸びと走り回ることができる。
 早春には菜の花畑が広がっていた。かつて小田井の人々が、菜種油を栽培していた風景を思い起こす。地下鉄庄内緑地駅を起点に庄内緑地の園路を通り、囲繞堤(いにょうてい)を越えると中小田井の町に至る。KIZZRIの人たちは、このルートを新しい散策コースにしたいと考えている。

季節通信124マツバラン

ダブリンの植物園

 アイルランドの首都ダブリンは人口120万人、アイルランド国民の約4分の1が集まっている。街には緑が多く、メイン通りには花や彫刻も飾られて活気に満ちている。都心近くに国立の植物園があるというので訪ねてみた。「グレスナビン植物園」と呼ぶ。
 1795年に、資源植物や農業の研究のために設立された。面積は約20ha、栽培植物は2万種にも及ぶという。入り口近くの温室は、キューガーデンを手掛けた建築家が設計した。外観も瀟洒であるが、中に入って眺めるとさらに美しい。何よりも主役の植物との調和が意図されている。

ダブリンの植物園

 花壇は様々なパターンを持っている。宿根草を駆使したボーダー花壇は、園路側は低く奥に行くほど背の高い植物を植えている。日本の山地に生えるタケニグサも使ってあった。平面花壇やハンギングバスケットを使った立体花壇も美しい。若い女性のガーデナーが花の手入れをしていた。
 奥へ進むと自然を活かした深い森があり、野生のリスが走り回っていた。水生植物を集めた池には、モネの庭を連想させるような橋が架かっている。管理事務所で名古屋の植物園の元職員であると告げると、植物目録を進呈してくれた。正門の前で記念撮影。

季節通信120タケニグサ

平城宮の「東院庭園」

 大化の改新(乙巳の変=645年)を成し遂げた天智天皇の後、壬申の乱を経て天武天皇の世となる。天武の後を継いだ持統天皇(天智の娘・天武の皇后)の孫に当たる文武天皇が早逝すると、その母であり持統の妹である元明が天皇を継ぐ。「平城京」は、文武時代に審議され、元明がその思いを成し遂げて710年に遷都した。(ちなみに持統、元明は女帝である。) 
 「乙巳(いっし)の変」「白村江(はくすきのえ)の戦い」「壬申の乱」と動乱の前世紀であったが、ここへ来て安定してきたのであろう、堂々たる都城の建設が行われたのである。東西4.3km、南北4.8km(天白区の面積と同じくらい)、碁盤割りに区画され、中央に朱雀大路が走る。その北端に平城宮がある。

平城宮マップ

 “鳴くよウグイス平安京”と年号を暗記したように、平安京へ遷都した794年の後には忘れられた都となり、ついには田畑となってしまった。明治・大正期になって歴史考察が行われ、保存会も結成された。平成10年に「朱雀門」が復原され、平成22年には「大極殿」も復原されて「平城遷都1300年祭」が開催された。
 大極殿から見て左側、東端に「東院」がある。その東南角に「東院庭園」があった。昭和47年から発掘調査され、平成5年から復原工事が始まり、10年に一般公開された。平安貴族の「寝殿造り」に先立つ日本庭園の原点とも言える庭であり、奈良時代には歴代天皇が宴会や儀式を行っていたという。

季節通信116ミョウガ

中村公園と豊国神社

 明治16年3月、愛知県令(今の県知事)が、地元の人の案内で豊臣秀吉の旧跡地を訪ねた。藤吉郎生誕の地であるにも拘らず荒れ果ているのを見て、県令は秀吉の霊を慰めるため、新たに神社を建てることを思い立った。「徳川」の江戸時代には「豊臣」はタブーだったのだろう。
 長い松並木を通って鳥居に至る。さらに参道の反り橋を渡った先に本殿がある。賽銭箱のある礼拝所の横に、秀吉の肖像画が掛けられており「祭神 豊臣秀吉公」との看板も添えられている。神社の名前も「豊国神社(とよくにじんじゃ)」という。

豊国神社G

 神社を取り囲む緑地一帯は、中村公園という都市公園になっている。明治34年の開園当初は愛知県営公園であったが、市域拡大により尾張・中村が名古屋市に編入されると、公園も名古屋市所管となった。大正11年のことである。
 神社の東隣に竹藪があって、そこに石のモニュメントと石碑がある。石碑には「豊公誕生之地」と刻まれている。公園の一角に、水面に囲まれた小さな芝の丘があり、「日吉丸となかまたち」と銘打つ彫像がある。日吉丸が仲間たちと遊んだであろう群像を描いている。5人の中には隣で生まれた清正も含まれているかもしれない。(年齢差25歳なのでありえない)

季節通信106ウツギ

西区比良の「蛇池公園」

 荒子の前田利家を掲載したからには、比良の佐々成政も語らねばならない。名古屋市西区、環状2号線の北に光通寺というお寺がある。この境内辺りに「比良城」があったといわれている。天文年間(1532~55)に佐々成政の父・佐々成宗が築いたという。成政はここで生まれた。
 少年のころから信長に仕え、数々の戦いで手柄を立てて越中・富山の城主となった。富山に移った後に比良の城は廃城となったという。天正15年(1587)には、九州平定の功により肥後・熊本の城主となるが、国内一揆の平定に失敗し、秀吉の命により自害することとなる。

蛇池G2

 比良城跡の南一帯に、庄内川河川敷緑地や洗堰緑地など広大な公園が広がっている。その一角に「蛇池」があり、その名にまつわる古くからの伝説がある。この池に大蛇が住むという噂を聞いた信長が、その真偽を確かめようと水を掻い出したが、後から後から水が湧き出して空にすることができず、大蛇も見つからなかったという。
 蛇池公園は、桜の名所である。平成12年の東海豪雨の後、河川改修のために、堤防に植えられていた桜全てが伐採されることとなったが、この公園に接する80本だけは残すことができた(2016・4・12の記事参照)。100年近い古木となったソメイヨシノであるが、土壌条件が良いため今も元気に花を咲かせている。


大宰府天満宮の「くすかき」

 醍醐天皇の昌泰4年(901)、右大臣であった菅原道真は、左大臣・藤原時平らの陰謀により筑紫の国・大宰府に左遷させられた。そして、2年後にこの地で死去したのである。すると都では疫病や異常気象など不吉な出来事が相次ぐようになった。
 6年後には、当の時平が死去するに至り “道真の祟り” と恐れられるようになった。天皇は大宰府に勅使を送り、道真の墓所に社殿を造営した。これが大宰府天満宮の創祀である。今、世界中が疫病に喘いでいるが、これは何の祟りだろう。人間の驕りが自然環境を “左遷” したからではないのか?

大宰府G

 社殿の向って右脇には梅の木が植えられ、「飛梅」との銘板が添えられている。道真を慕って、都から “梅の木が飛んで来た” という伝説の木である。元旦にご紹介した丑の像も置かれていた。境内は鬱蒼とした森に包まれているが、特にクスノキの巨木が目立つ。
 特に大きなクスノキの下に面白いものを見つけた。クスノキの枯れ葉が掃き集められ、山のように積まれているのだ。看板が立てられていて「くすかき」とあり、“・・・千年樟のその場所で 千年分を掻いてみる・・・”と詩が記されている。時は5月、常緑樹のクスノキは新葉が展開すると、前年の古葉を落とすのである。

季節通信97スミレ

 ◆ “ふとした自然のうつくしさ” には、心を癒されます。そんな自然を 「季節通信」 として発信してい
   ます。これまでに100回掲載しました。カテゴリーの目次12から検索してください。◆
 ◆「墨入れ」の写真は、我家を建ててくれた大工さんにお借りしました。日本人は「2点の最短距離
   は直線である」という数学の公式を、古い時代から知っていたのです。◆


薩摩藩主の庭園(仙巌園)

 屋久島へ渡る船の出航まで時間があったので、仙巌園(せんがんえん=磯庭園ともいう)へ行くことにした。薩摩藩主・島津家の元別邸である。万治元年(1658)に第19代当主島津光久によって造園され、歴代当主により改造が繰り返されて今日に至っている。
 この庭園のスケールは壮大である。敷地も広く、後背地の山々も借景の一部であるが、それよりなにより、桜島が築山であり鹿児島湾が池であるというのだ。実際に薩摩藩主は、屋敷や庭園から桜島の噴煙を眺めていたのであろう。

磯庭園G

 園内に曲がりくねった細流れがある。ここでは毎年,3月3日の上巳の節句(桃の節句)に「曲水の宴」が開かれる。この行事は、上流から杯が流れてきて自分のところに辿り着く前に、1首の和歌を詠みあげるというものである。平安貴族から伝わる優雅な遊びである。 
 竹林の看板には「江南竹林」とあり、元文元年(1736)に琉球王国より取り寄せた孟宗竹であると説明されている。ここから全国に広まったという。庭園の隣にある「尚古集成館」は日本初のアーチ式・石造の西欧建築である。島津家に関する史料や薩摩切子・陶器などが展示されている。

季節通信103新芽2題

屋久島の縄文杉

 少し英国の話しが長すぎたようです。ここで国内に戻ることにしましょう。と言ってもネタが尽きていますので、やはり、古くに撮った写真から話題を提供します。

 屋久島へは、鹿児島から高速フェリーで行く。途中で種子島の港に寄る。種子島は平坦な島だが、屋久島は標高1935mの宮之浦岳が聳えているので、海から見るとまるで “鬼が島” のように見える。海岸近くは亜熱帯、山頂付近は亜寒帯という変化に富んだ気候の島である。
 港近くの宿で一泊し、翌早朝にバスで登山口に向かう。登山口からはトロッコ道を延々と4時間歩く。初めて登った10年前には重いペットボトルを持参したが、今回は、途中で湧水を補給できることを知っているので背中の荷は軽い。

屋久島G

 世界遺産に指定されて以来、女性の登山客が増えたこともあってトイレの数が大幅に増えていた。樹冠から頭一つ突き出ている杉のうち、樹齢千年以上を屋久杉という。トロッコ道が尽きると急な登りとなる。雨が多くて滑りやすい登山道だが、木製の階段が整備されているので歩きやすい。
 2時間ほどで縄文杉に到着する。樹齢4千年とも言われる日本一の巨木である。途中ウィルソン株を見ることは3月19日にご紹介した。10年前には触れるほどに近寄ることができたが、観光客が増えて根元を踏み固められる危険性が生じたため、少し離れたデッキからしか観賞できなくなった。

季節通信99イワタバコ


ヒドコート・マナーガーデン

 “ここだけは是非とも見てきなさいよ” と勧められた庭園がある。「ヒドコート・マナーガーデン」である。マナーハウスは、中世における荘園領主の館のことで、その庭のことをマナーガーデンという。ヒドコートは、チッピング・カムデンという町の郊外にある。英国を代表する庭園という。
 最初に訪れた日は定休日で、門は閉ざされ “ごめんなさい(WE ARE SORRY)” と記した看板が出ていた。しかし “是非” と言われている筋合いから、翌日に再訪問することとした。総面積10エイカー(約4ha)の敷地は直線や曲がった生垣により25の異なる庭園に分かれている。

ヒドコートG

 それぞれの庭園では、あらゆる造園的手法が駆使されている。高生垣やトピアリー(動物などを象った刈込み)、ツゲの刈込みで幾何学模様をつくる毛氈花壇、岩組に草花をあしらったロックガーデンなどもある。特に有名なのは、赤い葉や花を使った「レッドボーダー」である。
 庭園のはずれにヒツジが草を食む牧草地があった。実はこれも重要な庭園の要素で “ハハア” という。柵が見当たらないので、ヒツジがこちらへ入ってしまうのではと危惧するのは間違い。庭園との境には段差があってヒツジは侵入できないのである。この趣向にお客が “ハハア” と感心したところからこの名がついた。最後の写真は出口近くのトイレ、緑に包まれた美しいしつらえである。

子持ちカツラ

ハンプトンコート・フラワーショー

 ハンプトンコート宮殿は、ロンドンの南西、テムズ川の上流にある。電車で40分ほどと近く、川の畔に広大な敷地をもつ。元々は王宮であったが、現在は一般公開されて観光の名所になっている。毎年7月上旬に開催される「ハンプトンコート・フラワーショー」の会場でもある。
 今回の旅行を7月に選んだのは、夏休み前で格安チケットが得られることもあるが、この花の祭典が見たいこともあった。このイベントはチェルシー・フラワーショーに並ぶ最大級の園芸ショーで、英国だけでなく世界中から出展者と観客が参加する。

ハンプトンコートG

 あまりに広くて多彩なので、とても1日では回りきれない。大急ぎで概要を見るに留まってしまう。アウトドアでは庭園の展示、例えばミニチュア・ガーデンやキッチン・ガーデン(菜園)など。屋内ではバラの鉢植えや日本式盆栽、野菜(写真はトマト)の展示などがある。
 車やバスの利用者も多いが、電車でのお客も多い。私の乗った車内も満席で、駅からゾロゾロ列をつくって会場へ向かう。この日は最終日だったので、夕方になると庭園は解体され、植えてあった植物は販売される。お気に入りの草花を手に入れて、嬉しそうに会場を後にする人たちもいた。

プラント・ハンターの公園

 英国の田舎コッツウォルズには、独特の色合いの建物が多い。それは、この地方でしか採掘できない“蜂蜜色”の天然石「コッツウォルズ・ストーン」を使っているからである。路地裏から、賑やかな音が聞こえてくる。仕事が終わって、パブを楽しむ人たちの声である。
 広い通り沿いに蜂蜜色の石塀があって、狭い入口が開いている。誰でもが入れる公開緑地のようである。看板があってThe Ernest Wilson Gardenと記してあった。その時は、アーネスト・ウィルソン?どこかで聞いた名前だな、くらいにしか感じなかった。

ウィルソン株G

 日本へ帰ってから調べてみると、たいへん有名なプラント・ハンターであることが解った。アジアの植物を調べ、2000種をヨーロッパに紹介した人物である。日本では、屋久島で直径4mほどもある屋久杉の切株を発見した。「ウィルソン株」という名がついている。
 私は、50代と60代後半の2回「縄文杉」を見に屋久島に渡った。登り6時間、帰り5時間の登山はだんだんきつくなる。登山道沿いにあるウィルソン株の巨大さには、ただただ驚かされる。根株の内部が空洞になっているが、その広さたるや畳の部屋8畳以上であろう。小さな祠が祀られていた。

キューガーデン

 キューガーデンも王立である。正式名称はRoyal Botanic Gardens, Kew、すなわち英国王立キュー植物園である。キューへの憧れは、東山植物園に就職した1969年以来だから30年以上も続いていた(今からなら50年以上前)。大温室「パームハウス」が見たかったのである。
 東山植物園の大温室は、当時はキューを参考にして造られたと言われており(最近は別の温室という説)、「リトルキュー」という愛称もあった。温室前の芝生と花壇のデザインも、キューのそれと酷似していた。本場の温室を見たいというのが私の夢だったのである。

キューガーデンG

 内部から見た温室の鉄骨もお洒落である。階段を登ったデッキもあり、高い位置から熱帯植物を鑑賞することができる。誕生は1759年、面積120ha、収集する植物数は4万種を超えるという。とにかく世界一の植物園である。
 キューの守備範囲は広い。研究機関としての要素も大きく、標本や種子のコレクションも多い。観光や行楽面から、花壇も美しく、周遊のための園内交通手段も充実している。将来を担う子供たちを植物園に引き付けるため、サンルーム内の遊戯場もあった。

リージェントパーク

 空港からの直通電車の終点「パディントン駅」に、ヒルトンホテルが併設されている。慣れないロンドンで迷わないようにと、シンプルに到着できるそのホテルを選んだ。駅のエスカレーターの横に、スーツケースに座ったパディントンベア(熊)の銅像があった。
 この鉄道駅は、今回の英国旅行の最大の目的地「キューガーデン」や「ハンプトンコート」へ行くのに便利であることも選択の一理由である。到着してから気付いたのだが、「ハイドパーク」にも「リージェントパーク」にも近い。大きな公園を見ることは、私の、仕事に繋がる趣味である。

リージェントパークG

 リージェントパークは王立の公園ROYAL PARKで、入り口からして金色の門が輝いている。面積約170ha、大部分は森や湖など自然公園であるが、ラグビー場やテニスコートなどの運動場、ロンドン動物園、イギリス式庭園や子供の遊び場などもある。
 中でもバラ園はつとに有名で、春と秋には400種類、3万本ものバラが咲き誇る。ビビットな色合いの花壇も美しい。芝生広場には音楽堂やモニュメントが点在している。遠くに男性が寝転んでいた。近づいてみると、何とこれは彫刻作品であった。(ちょっと怖い)

季節通信36桃の節句

ハイドパーク

 海外旅行のホテルでは、興奮状態にあるので朝早く目が覚めてしまう。部屋でウロウロするのも迷惑なので、着替えて外へ出る。ロンドンでは、ハイドパークを散歩することにした。早朝の街は静かで、ほとんど人を見かけなかった。
 しかし、公園には先客がいた。ジョギングをする人。園路には舗装されてない部分があって、乗馬コースになっている。湖のむこうに見える煉瓦造りの建物はケンジントン宮殿、ダイアナ妃がご成婚から亡くなられるまでお住まいになっていたことで有名。

ハイドパークG

 公園には大きな池と樹林や草原しかなく、工作物はあまり見かけない。園路沿いに木製のベンチがあって、寄付者の思いが背板に刻み込まれていた。草地には歩く人が自然につくった“獣道”がある。驚いたことに野ウサギまでいたが、人に驚く風もない。ゴミ清掃の車が走っていた。 
 ハイドパークは、ロンドン中心部にある大公園で、面積は約250haもある(ちなみにニューヨークのセントラルパークは320ha、名古屋の東山・平和公園は410ha)。元々は貴族の荘園であり、国王所有の時代もあった。19世紀初めに市民開放されて公園となり、1851年開催の第1回万国博覧会の会場にもなった。

季節通信96ヤナギラン

ダブリンの植物園

 都心近くに国立の植物園があるというので訪ねてみた。グレスネビン植物園という。1759年誕生のキューガーデン(英国王立)ほどではないけれど、1795年設立と歴史は古い。面積20ha、栽培植物数2万種という。(ちなみに東山植物園は1937年設立、27ha,7千種である)
 入口のすぐにある温室は、白くて細い鉄骨で構成された繊細なデザインである。中から見るとさらに、構造の美しさが際立っている。私は温室の評価を、植物との調和ではかることとしている。近年の温室の中には、建築家の主張が強調されて、植物そっちのけという建築を見るからである。

ダブリンの植物園

 ボーダー花壇(園路沿いに宿根草などを植えた細長い花壇)を眺めていると、花ガラ取りの手入れをしている女性ガーデナーがいた。拙い英語で話しかけると、笑顔で応えてくれた。平面花壇や、ハンギングバスケットの立体花壇も見事である。事務所で日本から来たと告げると植物目録をくれた。
 奥へ進むと大木の林立する深い樹林がある。ヨーロッパの公園では、必ずと言っていいほど野生のリスに出会う。人との関係がいいのか、近寄っても逃げる素振りがない。水生植物を栽培する池には、緑色に塗られた橋が架かっている。こういうデザインにも、美的センスが光っている。

ダブリンの公園

 アイルランド最古の大学・トリニティ・カレッジの周辺は、ダブリンでも最もにぎわいのある地区である。歩行者優先のグラフトン・ストリートは大勢の人々がショッピングなどを楽しんでいた。楽器演奏のパフォーマンスやハンギングバスケットなどの花飾りが心を浮き立たせてくれる。
 通りの突き当たったところに大きな公園があった。セント・ステファンズ・グリーン・パーク(8.9ha)という。入口には、いわれのありそうな石造りの門がある。入ってすぐのところは芝生と花壇で、多くの人が寝転んで日光浴をしていた。夏の短いこの国の人たちは、お陽さまの光が大好きなのである。

ダブリンの公園

 公園の中央には円形の花壇や音楽堂があり、その北側にはひょうたん形?の池がある。カモなどの水鳥が泳いでいた。南側は樹林と草地で、工作物はほとんど見られない。“グリーン・パーク”の名のとおり、みどり中心の公園なのだろう。
 公園の外周は頑丈な柵で囲われている(筆者の登場はまれ)。看板には利用時間が記してあって平日は午前8時オープン、日曜・祝日は10時である。閉鎖は暗くなる前(BEFORE DAEKNESS)となっていた。公園に接して新しい交通システム「トラム」が走っている。


季節通信92梅の花

再び「横井也有旧宅のムクノキ」

 植物園時代からの友人が、私のブログを見てメールをくれた。2020年1月12日に掲載した「横井也有宅跡のムクノキ巨木」についてである。関連する古い新聞を添付してくれた。彼は、東山植物園や鶴舞公園などの歴史を調べるため、中央図書館などに入り浸っている学究の人である。
 昭和42年10月7日付けの記事である。“横井也有の屋敷跡に聳えるムクノキが、市住宅供給公社が建てようと計画する「那古野ビル」の邪魔になる”というのだ。公社は、大枝と根の一部を伐りたい考えだが、古くからご神体と崇められてきた古木なので決断がつかないとの内容である。

ムクノキ修正

 移植したらどうだろうと元東山植物園長で、市の文化財委員でもある横井時綱氏(也有の子孫)に相談したところ、大きすぎるし樹勢も弱っているので無理との回答であった。困った公社は市長(杉戸清氏)に相談すると、「建設の名で安易に木を切ることは許さない。大木はできるだけ残せ」との指示だった。それから50数年、今もビルの間に樹勢を張っている。
 道路際に立つ史跡の看板を見て、那古野ビルの中庭に入ってこのムクノキを見つけた。新年早々のブログに掲載したことが友人の便りに繋がり、貴重な古新聞に出会うこととなった。古い土木文化を訪ね歩くこのブログが、“まちの魅力の掘り起こし”に役立てばと思っている。

名古屋城の三の丸庭園

 名古屋城の三の丸には、県庁や市役所、国の機関など、いわゆる官庁が集積している。「官庁街」と称する。その南東角、外堀が直角に曲がる所に名古屋市公館があり、その南に日本庭園がある。「三の丸庭園」という。
 名古屋市の迎賓館である公館の南から石畳(延段)があり、鄙びた枝折戸を潜ると古式豊かな庭園が広がっている。土塁の上の鬱蒼とした森に包まれているので、気付く人も少なく訪れる人数も多くない。隠れた名園と言えるかも知れない。

三の丸庭園

 ルーツを辿ると、明治時代に設置されていた陸軍将校のクラブ「偕行社」の前庭だったという。茶道の宗匠が設計し、地元の造園家が施工したものである。手前には大きな平石を使用した飛び石があり、枯山水の池の奥には滝石組みが配されている。石橋や築山にも巨石が使用されている、
 しかし、それらの豪壮な庭石を見ると、名古屋城二の丸庭園の古図に描かれたものと一致するものがある。特に舟形の石は、間違いなく二の丸庭園のものだろうと考えられている。二の丸跡(今は県体育館)には陸軍第六連隊の兵舎があった。連隊の将校たちが、二の丸庭園を壊したのである。


季節通信91スイセン

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ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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Author:FC2USER480348EQK
森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
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