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笠寺一里塚のヒガンバナ

 今日、9月30日をもって中部復建株式会社を退社します。約12年間、65歳から77歳まで勤めさせていただきました。造園工事の監督業務や自然林の樹木調査も行いましたが、何と言ってもこのブログの発信が一番大きな仕事でした。 
 愛知・岐阜・三重・静岡各地の街や村の橋や公園、山間部のダムや海岸の堤防など様々な土木施設を訪ね歩きました。車を運転して同行してくださった当社取締役・塚本俊弘氏は、協力者というよりむしろ共同執筆者だったと思います。

笠寺一里塚G

 最終回の今回は、もう一度「笠寺一里塚」を取り上げます。今から11年前の2013年2月19日の第1回に掲載した記事です。その時に「もう一つの見どころは、秋の彼岸花である」と記しながらその写真は載せていませんでした。今回9月末に撮影に行きましたので、ここに掲載します。
 12年間贔屓にしてくださってまことにありがとうございました。今日をもちまして会社のオフィシャルブログとしては終了しますが、私個人で改題しながら続けていきたいと思います。タイトルは「土木文化&ガーデンライフ」にしようと思っています。これからもよろしくお願いいたします。

笠寺一里塚H

イチョウとソテツの進化

 今年のNHK朝ドラは、牧野富太郎の生涯を描いていますので面白く見ています。毎回いろいろな植物が紹介されますが、季節外れのものもありますので不思議に思っていました。新聞の紹介記事で、精密な模造品を作っていると知り納得しました。
 植物学黎明期の東大植物学教室の状況も描かれていて、その面からも興味深い番組です。その中で、イチョウとソテツの精子発見の話題が出てきます。いずれも生物進化の過程で、シダから種子植物に移行する中間的位置にある種だそうです。

イチョウG

 イチョウの精子の発見は、明治29年10月に平瀬作五郎という人が成し遂げました。世界的な大ニュースとなる大発見でした。10年ほど前に東大小石川植物園を見学したとき、大きなイチョウの木に石の記念碑が立っていて、この木が精子発見の木だという説明を聞きました。
 ソテツの方も、同じ植物学教室の池野誠一郎が発見しました。ソテツは暖かい土地で良好な生育をしますので、池野は鹿児島まで行って試料を採取したそうです。その子孫が小石川植物園に移植されています。写真は鶴舞公園東門の古木です。

ソテツG



松の傷痕

 先日(8月8日)、中日新聞夕刊「写記・名古屋城~~戦火の記憶~~」の欄に松の木の幹の写真が大きく掲載されていた。「戦時中に燃料にするため、松やにを採取した跡」との説明がある。名古屋城内に残る戦争の傷痕である。
 市役所本庁舎北側のクロマツの街路樹にも大きな傷跡が残っている。この傷はさらに大きく、木肌の部分には「ウルシ掻き」と同じような斜めの切り傷も見ることができる。傷痕は車道側にあるので、歩道を歩く人には気付きにくいかも知れない。

マツの傷痕G

 私が街路樹の担当だった35年ほど前には、強風等による折損・倒壊を防ぐために太い鉄線で保護されていた。現在の様子を見ると、傷痕の周りの樹皮部分のカルスが肥大し、強度も上がっているように見える。樹木自身が78年の間に補強を遂げたのである。
 戦時中に、松の根から採れる「松根油」や幹を傷つけて採取する「松脂」を戦闘機の燃料にしようと考えたのだが、結果はあまりうまくいかなかったようである。出雲に旅行した時に、大社の前の並木や日御碕の赤松林でも同じ光景を見た。全国的に指令が出たのであろう。

マツの傷痕H


ハンガリーでの日本庭園整備

 私事ですが、6月中旬から1か月間ハンガリーに行っていました。ブダペストから西へ1時間半ほど走った「ベスプレム」という町です。近くに、バラトン湖という琵琶湖ほどの湖と「ヘレンド」という磁器で有名な村があります。娘の家族と暮らすことと、日本庭園の整備が目的です。
 日本庭園整備事業は、「欧州文化首都」の一環として企画されたものです。娘がこのプロジェクトの通訳をしていて、その関係で私にオファーしてきたものです。欧州文化都市とは、1985年のアテネを皮切りに、毎年持ち回りで文化的事業を展開するもので、今年はベスプレムが選ばれたのです。

庭園ブログ用G

 30日間で設計図作成から材料調達、自力による施工まで行いました。現地の造園屋さんが手伝ってくれる予定でしたが断られ、すべて自前で行うことになってしまったのです。何とか、石を運ぶクレーン車だけは借りれましたが、あとは家族と日本語教室の生徒さん3人の協力で造りました。
 一番大変だったのは、800kgもある石の運搬と据え付けです。灯籠はネットでドイツから輸入しました。延べ段の板石と玉石を見つけるのにも苦労しました。過去に日本庭園整備の設計や監督は経験しましたが、整備まで行ったのは初めてです。10月にオープンセレモニーがあるそうです。

庭園ブログ用H

長太(なご)の大楠

 年に数回は近鉄に乗ります。津や伊勢、時には奈良方面に行くのに近鉄を使います。白子駅に近づくころに右側の車窓から見ると、水田のただ中に大きなクスノキが見えます。手前の電柱などと比較するとかなりの太さのようです。一度降りて近くへ行ってみたいと、以前から思っていました。
 昨日は伊勢に向かっていました。同じような気持ちで眺めていてビックリ! 枝が枯れているではありませんか。伊勢神宮の調査の帰りに、「箕田(みだ)駅」で途中下車しました。下から見上げると多くの枝が枯れ、「胴吹き」の枝が出ています。これは明らかに根に異常があると思いました。

長太の大楠

 直径2.9m、高さ26m、全国でも有数の大木です。近所で草刈りをしている人に聞くと、「昔は根元に神社があり、近くに池があったけれど埋めてしまった。そのころから弱っている」とのこと。根元周りを見るとロープ柵で囲んであり、車も入れないので「踏圧」ではないように思います。
 箕田駅から2つ目に「楠」という駅があります。この地域にクスノキがたくさんあるからか、この大楠があるから命名されたのでしょう?市の天然記念物にも指定されていて、担当の職員も見に来ているとの話なので、何とか手当を施し、樹勢を回復してほしいと思います。

長太の大楠G

牧野が池緑地と猪高緑地の竹林

 「竹林」と言えば、京都・嵯峨野(上の写真)を思い浮かべる。周辺の寺院や庭園と相俟って人気が高く、多くの観光客が訪れる。それにも負けず劣らぬ竹林が名古屋にもある。牧野ヶ池緑地と猪高緑地である。しかし残念なことに認知度が低く、多くの人々を呼び寄せるまでには至っていない。
 孟宗竹は大陸から伝わったが、13世紀に道元禅師が持ち帰ったという伝承もあるし、薩摩藩主の磯庭園では日本で初めて琉球から取り寄せたともいう。いずれにせよ、農業用の用材などとして使用されてきたが、近年では放置された竹林が多く、雑木林を侵食して迷惑者にもなっている。

竹林G

 牧野ヶ池緑地(中の写真)ではかなり手が入っており、枯れた棹や倒れた竹は綺麗に取り払われている。猪高緑地(下の写真)はまだ整備中の公園であり、現在は地域のボランティアの人たちの活動に支えられている。
 景観の大きな要素となる園路の人止め柵は、三者三様である。京都では、刈りはらった竹の枝を立てて独特の「垣」にしている。この写真では人の背より高くて見通しが悪く、少し鬱陶しい感じがする。牧野ヶ池は、金属かプラスチックの「擬竹」を採用している。猪高は園路舗装も「チップ」を播いただけという野趣な整備で、人止め柵も木杭にロープを張っただけ、あるいは伐採した竹を横に縛っただけの簡素なものである。管理上一長一短だとは思うが、私の好みは猪高方式である。

竹林H

春日井の三ツ又公園と落合公園

春日井市の中央部に「三ツ又ふれあい公園」という公園がある。ここは、東部丘陵地から流れる八田川が合流する地点である。途中、大池緑地や落合公園のため池からも取水している。川沿いに2本の緑道が整備されていて、西側を「みずすまし緑道」、東側は「ふれあい緑道」という。
 三ツ又公園に面白いモニュメントがある。「フォリー柳とカエル」と呼ばれている。小野東風の逸話を表現していて、手すりなどにカエルの彫刻がついている。「フォリー」とは、役割りのない装飾だけの建物をいう。ただ、右半分はローラー滑り台になっていて、遊具の役目は果たしている。

落合公園G

 落合公園は約25haの総合公園である。池を中心に景観が美しく、「日本の都市公園100選」にも選ばれている。ここには、さらに大きな「フォリー・水の塔」が建っている。エレベーターも備えられていて、最上階からは公園全体の景色を見ることができる。
 4月の調査であったが、すでに伸び始めた雑草の草刈りが始まっていた。三ツ又公園では、吊り橋の「むつみ橋」周辺の川の土手をブッシュカッターで、落合公園では、講演会や展示会の出来る「グリーンパレス」近くの芝生を自走式の芝刈り機で作業をしていた。

落合公園マップ

落合公園作業



旧中埜半六邸と庭園

 半田運河は、阿久比川に並行して流れて衣浦湾に注いでいる。運河の西岸、JR半田駅近くに中埜半六のお屋敷があった。現在は市民団体・特定非営利活動法人「半六コラボ」が管理運営し、レストランや貸部屋として利用されている。
 建物は明治22年(1889)に築造された。母屋を始め茶室や9棟の蔵などが建ち並んでいた。昭和40年代には、大相撲名古屋場所において二所ノ関部屋の宿舎に当てがわれ、横綱・大鵬も宿泊していたという。広い庭には土俵もあったのだろう。

半六G

 母屋の南には回遊式の日本庭園があり、現在もその姿を留めている。中央に池があり、灯籠や大きな庭石が据えられている。池は運河と繋がっていて、潮の干満により水面が上下したという。いわゆる「潮入りの庭」であった。
 お屋敷の北側に、中埜酒造の本社工場がある。狭い路地を挟んで黒い板壁の建物が並んでいて、「清酒・国盛」の看板も架かっている。建物の一部は「酒の文化館」になっていて、伝統的な酒造りや古い道具類を観ることができる。

半六H


浦川キャンプ場と滝口の橋

 天竜川の支流「相川」は、浦川あたりで大きくU字型に蛇行している。山裾が半島のように相川に向かってせり出している。半島の西側に広い河川敷があり、その中に半月形の島がある。ここはキャンプ場になっていて、そこへ通ずる吊り橋が2本(1号・2号)架かっている。
 吊橋は、いずれも人道橋で昭和45(1970)年完成。自転車は通行できるが、バイクは不可である。1号橋は長さ96m、幅員は1.9m、床は板張りである。2号橋は長さ74m、幅は同じく1.9mである。しかし、床面は縞鋼板張りと異なっている。

滝口マップ2

 航空写真を見ると、半島部分の中央に野球場が見える。地域の人たちのスポーツの殿堂であろう。相川の両岸に集落があるので、吊り橋は両側の行き来にも使われる。キャンプ場には広い草地があり、テントを張ったりキャンプファイヤーをするのに使われる。樹林の中に丸太小屋もある。
 集落の中央を飯田線が通っている。偶然、鉄橋を渡る電車を撮影することができた。駅構内に貼られている時刻表を見ると、1~2時間に1本なので、これは幸運なことなのだろう。山並みに深い「鞍部」があり、説明看板によれば、ここに中央構造線が走っているという。

滝口マップ



静岡県立森林公園と「空の散歩道」

 静岡県立森林公園は、浜名湖の北・天竜川の右岸・新東名高速道路沿いにある。浜北インターチェンジからが近い。この辺りはいくつかのゴルフコースがあるように、自然豊かな森林地帯である。公園内には天然のアカマツの美林がある。
 植物は1000種類以上、野鳥も約80種類、数多くの昆虫も生息して、四季の変化を楽しませてくれる。散策・アスレチック・デイキャンプなどもできる。木工体験館には、「日曜大工」や「DIY」など、自分で作って楽しもうと志す人々が集まってくる。とにかく森と木を楽しむ公園である。

静岡県立森林公園マップ

 二つの尾根を結ぶ吊り橋があった。「空の散歩道」と名付けられている。長さは150m、谷底の水面からの高さは約50mである。眼下にアカマツなどの森が見える。谷間の向うには、遠くに浜松の町並みを望むことができる。眺望が良い。
 20年ほど前に、熱帯雨林を見るためにボルネオへ行ったことがある。食虫植物の「ネペンテス」や世界で一番大きな花「ラフレシア」を見ることができた。そこで「キャノピーウォーク」を渡ったことがある。背の高い樹林の中を縫って歩く吊り橋だが、「空の散歩道」も少し似た体験ができる。

季節通信36桃の節句


員弁・美鹿の神明杉

 名古屋の冬は寒い。夏も暑くて、あまり恵まれた気候とは言えない。京都も同じようなことが言われるが、こちらは「盆地」がその理由である。名古屋が冬寒いのは「伊吹おろし」の風が冷たいからである。若狭湾・琵琶湖・関ヶ原の窪みが、日本海気候を濃尾平野にもたらすからである。
 三重県の桑名・四日市・津へは「鈴鹿おろし」が吹き下ろす。同じように寒い冬を迎える。伊勢湾は内海なので、太平洋の「黒潮」の暖気を受けることができない。何と言っても、静岡県が最も冬過ごしやすい土地柄であろう。日本アルプスの山々が、北陸からの寒風を遮断してくれる。

美鹿G

 員弁(いなべ)の冬は知らないが、養老山脈と鈴鹿山脈に挟まれた谷あいであるので、冬の木枯らしは厳しいことだろうと思う。名古屋に近いこともあって、山裾の台地にゴルフ場が並んでいる。最近、高速道路の整備も進んでいる。
 美鹿(びろく)という町に杉の巨木があった。「神明杉」という。「大杉社」という神社の、社殿に向かって左側に聳えている。高さは優に30mを超える。二本立ちで、幹回りは4.5mと3mである。樹齢は900年とも言われている。社殿の裏山は照葉樹林で、クス・シイ・サカキなどが鬱蒼と茂っている。

季節通信207河津桜


◆桶狭間古戦場公園◆

 もう40年も前のことで、覚えている人も少ないと思うので記録に留めたい。「桶狭間古戦場跡」は豊明市にもあるが、名古屋市にもあって競合している。名古屋市では大高緑地の東側の、「桶狭間古戦場公園」という区画整理で整備した小さな公園になっている。

 このスケッチは、公園整備前の現地の状況を思い出して描いた。谷間の窪地に「祠」があり、「湧水(泉)」と「杜松(としょう)の枯れ木」があった。絵に描くのを忘れたが、何基もの石碑が立っていた。「泉」は水の勢いがあり、桶を入れるとクルクルと回ったという。「桶狭間」の語源である。この水で義元の首を洗ったと聞いた。「トショウ」はネズミサシのことで、義元のカブトを架けた。

 私はこの状況をそのまま残して公園にすべきと考えた。しかし、区画整理の盛土によりさらに深い窪地になってしまう。残念ながらこの地形は埋め立てられて、現代的な公園になってしまった。私の38年間の公園の仕事の中で、数少ない悔やむべき結果だと思っている。

桶狭間古戦場公園G

季節通信203ドングリ



今年は関東大震災100年目(再掲)

◆◆今日の中日新聞朝刊で知りました。今年は「関東大震災」から100年目だということを。2014年9月1日(防災の日)に掲載した記事の再掲です◆◆

三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎は、明治11年(1878)に、荒廃していた大名屋敷など約3万坪を買い上げ、大規模な庭園づくりを始めた。庭園整備の事業は弟の2代目・弥之助が引き継ぎ、完成をみたのは、弥太郎の長男、3代目・久弥の時代、明治24年(1891)のことである。
 大正12年(1923)9月1日の「関東大震災」の折、この「清澄庭園」に避難した多くの人々は生き延びることができた。それに比べて、墨田区の「被服廠跡地」(6.6ha)に逃げ込んだ約4万人の人々は、ほとんど焼け死んでしまった。その違いは、一方が樹林に囲まれ、池などがあるのに対し、もう一方は樹木もない更地であったからといわれている。近年の研究では「火災旋風」(炎の渦巻)に襲われたのではないかとも考えられている。

 現在は、東京都の所有する都市公園になっており、震災被害の少なかった東半分は、当時のような「清澄庭園」(有料)に、被害の大きかった西半分は、芝生広場を中心とした「清澄公園」として開放されている。

清澄庭園G

季節通信199「クリスマスのヒイラギ」

 クリスマスのイラストには、必ず緑の葉と赤い実の「ヒイラギ」が描かれます。これは「ホーリー」(西洋ヒイラギ)と言って、日本のヒイラギ(上右)とは異なるモチノキ科の植物です。日本で言うならモチノキ(下左)、葉にトゲはありませんが赤い実と緑の葉が似ています。

 ヨーロッパの冬は寒くて陽が短い。何せフランスなら北海道、イギリスではカラフト並みの緯度ですから。色の褪せた雑木林で、緑の葉と赤い実のホーリーはとても目立ち、心を和ませてくれる存在なのでしょう。東山の樹林でも、ソヨゴの実を見ると温かい気持ちになります。

ヒイラギ・クリスマス

鞍ヶ池公園と「虹の架け橋」

 鞍ヶ池公園は、豊田市市街地(合併前)の東部丘陵にある。農業用ため池「鞍ヶ池」一帯に広がる広大な総合公園である。愛知高原国定公園という豊かな自然環境を生かし、子供たちの遊具がある「プレイハウス」、自由に遊べる「芝生広場」、丘の上の「展望台」などがある。
 また、大きなバードホールのある「動物園」や二つの温室を持つ「植物園」もある。動物園に隣接して「観光牧場」や「動物ふれあい広場」も整っている。牧場の手前には名鉄最古の車両が展示され、園内にはトレイン・バスが走っている。いずれも真赤に塗装されて、森林の濃緑・芝生の黄緑と見事に調和している。東海環状自動車道の「鞍ヶ池PA」からも利用でき、交通の便も良好である。

鞍ヶ池H

 公園の中央を、県道343号が南北を分断して走っている。横断歩道が何本かあるが、観光牧場と若草山をつなぐ橋を「虹の架け橋」という。中路式のニールセンローゼ橋、そのアーチが虹のように見える。丘の上部を結んでいるので道路面から15mと高く、見上げるような位置にある。
 昭和59年(1984)に完成、橋長91mで幅員は5mである。県道を走りながらも個性的な景観を見ることができるが、歩いて渡っても面白い形をしている。見る角度によって形が変化する。このようなデザインも含めて、土木学会の「田中賞」を受賞している。

鞍ヶ池G

美濃赤坂のお茶屋屋敷跡

 慶長5年(1600)9月14日、徳川家康は3万人の軍勢で美濃赤坂に到着した。陣を張ったのは「岡山」、標高53mの山というより丘のような高台である。しかし、中山道を見下ろすには格好の展望台となる。現在は「勝山」と呼ぶ。関ヶ原に戦勝した縁起を担いで改名したのであろう。
 岡山の北に「お茶屋屋敷」があった。その東は中山道「赤坂宿」であり、さらに進むと「赤坂湊」があった。このお屋敷は、家康が上洛するときの宿泊場所として造られたものである。茶屋とはいえ城郭形式で、全体を堀と土塁で囲んでいた。四隅には櫓を備え、正面には大手門まであったという。

赤坂 茶屋マップ

 大坂城には未だ豊臣家が存続しており、若き日に信長が襲われた事件を目の当たりにした家康としては、旅先とはいえ厳重な警備を怠らなかったのであろう。名古屋では城内に本丸御殿を造成して宿泊場所に当てた。ちなみに尾張藩主は、二の丸御殿に居住していた。
 家康没後は次第に使用されなくなり、破損が著しくて廃絶されてしまった。明治4年の廃藩置県のときに、村の名主・矢橋氏に払い下げられて現在に至る。中央部分は広大な「牡丹園」として公開されている。敷地の周辺を見ると、土塁・堀の凹凸や古井戸の跡などが残っており、往時を偲ぶことができる。
赤坂 茶屋G

季節通信192「龍舌蘭の花」

 天白区・鴻の巣(植田駅の北 牧野が池緑地の西)に「カトニー(C0TT0NY)」というカフェ・レストランがある。その庭園に、珍しいリュウゼツラン(龍舌蘭=アガベ)の花が咲いたという。テレビのニュースで流していた。
 早速、ランチがてら訪れてみる。カメラ(望遠レンズも)を持って。大正ロマン?といった風情の建物の前に10数台可能な駐車場があり、入り口ゲートをくぐる辺りに高々と聳える花茎があった。道路からもよく見えるので、テレビを見た人か?、スピードを緩めて眺めていく。

 店内の窓際の席は、二階までの吹き抜けになっていて、大きな一枚ガラスの窓が嵌っている。その窓枠が「額縁」になって、まるで絵画を観るようにアガベの全体像が見える。お店全体が「お洒落」な造りになっているが、建築家・造園家はここまで配慮したのだろうか?
 リュウゼツランは、メキシコなどに自生する多肉植物。大きな舌状の葉の縁にトゲがあって、まるで龍の舌のようなので龍舌蘭と呼ぶ。30~50年に1回花を咲かせ、株は枯れてしまう。この店では20年ほど前に植えたという。2階や3階の窓からも撮影させてくれたので、花の写真もゲットできた。

龍舌蘭

蟹江の佐屋川創郷公園

 日光川は、江南に端を発して伊勢湾に注ぐ二級河川である。全長41km、流域面積は約300km2にもおよぶ。もともと、木曽川の運んだ土砂が堆積してできた沖積平野である。海抜は低く、伊勢湾台風で大きな浸水被害の起きた地域である。
 蟹江駅の近くに、日光川に絡みつくように蛇行する佐屋川が流れている。西側の部分は大膳川、川とは呼ぶが半月形の池である。ここはウォーターパークという公園で野球場が3面整備されている。東側の「佐屋川創郷公園」とは「サンサンブリッジ」で連結されている。

蟹江マップ

 「創郷公園」は「総合公園」も意識しているのだろうか。蟹江の中心的施設が集まっている。子どもの森や花菖蒲園、水郷地帯の水車をイメージしたモニュメントもある。河川や田園を見渡せる展望台や、広い駐車場をもつ「蟹江図書館」もある。
 この辺りは、交通の要衝にもなっている。北から名神高速道路、JR関西線、近鉄本線、国道1号線が集まっている。サンサンブリッジを渡っていると、その下を船がくぐっていった。浚渫した土砂を運搬する船のように見えた。

蟹江G

季節通信184シダ


スキー場の活用

 私たちの青年(死語?)時代は “猫も杓子も” スキーをする時代で、ゲレンデはリフトに乗るのに何 10分も行列をつくるほど賑わっていた。その後、ボードの流行する時代があった。最近はスキー人口も減少気味であり、また、暖冬による雪不足もあってどのスキー場も苦戦している。
 せっかく設備投資したリフトやゴンドラを、冬だけでなく春・夏・秋にも使おうと工夫するスキー場がある。先日「季節通信」でご紹介した茶臼山は「シバザクラ」をゲレンデ一面に植栽した。シバザクラは多年草で挿し木により増やすことができる。私の訪れた10年ほど前よりずいぶん面積が増えた。

スキー場の活用G

 白馬五竜スキー場は、北アルプスに展開するスキー場群のひとつである。テレキャビンと呼ぶ8人乗りのゴンドラとリフトを乗り継いで1500mまで登る。ここは「高山植物園」と称して、自生や移植した高山植物を見せている。ヒマラヤの「青いケシ」や高山植物の女王「コマクサ」が見ものである。
 恵那山トンネルを過ぎた辺り、昼神温泉近くのヘブンス園原は “日本一美しい星空” を売り物にしている。新緑・紅葉や花桃も美しいが、夜まで視野に入れた工夫に感心してしまう。
 岐阜県郡上の「ひるがの高原」にあるダイナランドスキー場では、百合園を整備した。斜面を下りながらスカシユリを鑑賞する。

季節通信15高山2


春日井市都市緑化植物園

 昭和40年代から50年代にかけて、全国各地に「都市緑化植物園」が誕生した。その少し前から、「都市の緑化」が叫ばれ、公園・緑地の拡大がうねりとなっていたのである。大気汚染など、都市の環境悪化が問題となっていた時代である。
 都市緑化植物園には、「みどりの相談所」が併設されている。“都市の緑化”には、市民の関わりが大切である。自宅の庭づくりをしたり、公共緑化のボランティアをするためにも“緑に対する”知識が必要となる。緑化相談所とは、緑化講習会を開いたり、電話相談などに対応するところである。

春日井植物園マップ

 春日井都市緑化植物園(グリーンピア春日井)は、岐阜との県境の山々を背景に整備された。温室や洋風花壇を中心に、生垣見本園・菖蒲池・バラ園・椿園・果樹園などがある。北端には「動物ふれあい広場」、南端にはボート池も整っている。
 温室の内部は一風変わっている。ガラス室の中に街並みが設えられ、通路に街路樹風の植栽がされたり建物の壁に花飾りが施されている。このスタイルは、丹波篠山の「花の植物館」が初めて手掛けた手法である。従前の温室内は“あたかも熱帯雨林の自然を再現”していたのに対する新提案であった。

春日井植物園G

碧南の明石公園とスカイブリッジ

 碧南は矢作川の最下流部と衣浦湾に挟まれた台地・平地である。北部に県内唯一の天然湖・油ヶ淵(2018・9・7参照)がある。衣浦湾沿いには臨海工業地帯が立地し、産業道路的な国道247号と衣浦臨海鉄道が並行して走っている。南端には碧南火力発電所がある。
 名鉄三河線の終点・碧南駅や大浜地区周辺は古い港の町並みが残っている。大きなお寺や美術館、九重味醂の本社・工場もある(2014・2・13参照)。名鉄三河線で知立から30分、知多半島の半田からは衣浦トンネルを潜ってすぐ近くである。人口は約7万3000人。 

明石公園G

 油ヶ淵から流れ出る高浜川と新川に挟まれて遊園地機能を備えた明石公園がある。観覧車やメリーゴーランドなど料金は全て100円。大寒の最も寒い時期というのに、親子づれの何組かが来園していた。「サイクルモノレール」や「おとぎ列車・あかしのポッポちゃん」は一組だけの乗車でも稼働しており、優しい公園だと感じた。
 道路と線路の反対側に駐車場があり、渡るための人道橋が架かっている。「スカイブリッジ」という。アーチからワイヤーで吊る構造で「ニールセンローゼ橋」の一種であろう。コンクリート壁の外側に面白い模様が付いている。連続する飛鳥の姿がレリーフ(窪み)になっている。

碧南 再

季節通信163スノーフレーク


あいち健康の森公園

 「あいち健康の森公園」は、“健康施設”と一体になって「森」を構成している。面積51.5ha、体育館・球技場・テニスコートなどの運動施設や、散歩コース・ジョギングコース・芝生広場など体を動かすことによる“健康増進”を意図する施設が整っている。
 プラザの西に「いのちの池」と呼ぶ大きな池がある。夏には一面にハスの花が咲くという。この周りを一周すると1150m、足に負担のかからない柔らかい舗装が施してある。冬季の今も、散歩する人やジョギングをする人が絶えなかった。

健康公園G

 池の北端に、白亜のデッキが張り出している。遠景に見える三角屋根の塔は「給水塔」、白くて高い塔はパラボラアンテナがあるところを見ると「防災無線」であろうか?その真下には駐車場があり、広大な園内で道に迷った時の目印「ランドマーク」にもなっている。
 公園の西端に「ふるさとの森」がある。ここには、全国47都道府県から選ばれた樹木が植えられている。「秋田:スギ」「石川:アテ」「宮崎:フェニックス」などである。近くには、薬になる植物やハーブを集めた「薬草園」、花菖蒲の品種を集めた「菖蒲田」などもある。

季節通信159フキのとう





東山植物園の温室

 東山植物園の温室は、昭和12年(1937)の植物園開園当初から公開されてきました。建設から80年近く経って、鉄骨の腐食など老朽化が目立ってきましたので、平成26年(2014)から解体工事を始め、昨年の春(2021)復元工事を完成しました。この間、7年かかりました。
 この温室は、国内の温室としては最も古く、全熔接による鉄骨造りの貴重な建物として、2006年に国の重要文化財に指定されました。今回、温室の前庭も以前と同じデザインで整備されました。さらに、池が水鏡のように改良されましたので「逆さ温室」も見ることができます。

温室G

 これまでの84年間は、けっして平穏だったわけではありません。戦争時の爆撃では、ガラスが吹き飛んだと言いますし、伊勢湾台風のときにも大きな被害を受けました。昭和40年代の温室建設ブームで各地に大規模な温室が建設される中、もっと大きな温室に建替えるべきという声もありました。その度に、この温室を愛する植物園関係者は肝を冷やしました。しかし、重要文化財になった今は、もうその心配はありません。
 この温室の美しいシンメトリーなデザインは、独自のものではなく、欧米にそのルーツがあります。そのいくつかをご紹介しましょう。
◆世界一古く、コレクションも多いロンドン「キューガーデン」の「パームハウス」(左下)。
◆ニューヨークの「ブルックリン植物園」(右上)は、池の形まで似ているのでビックリしました。
◆アイルランドの「ダブリン植物園」(右下)にも、繊細で美しい温室がありました。

温室H

 令和4年(2022)最初のブログ発信です。ガラス張りで明るく、太陽の光を受けて温かい「東山植物園の温室」から始めました。今年こそコロナを克服して、希望溢れる年にしたいものです。
 

有楽苑の飛び石

 「千利休は渡り六分に景気(景色)四分、古田織部は渡り四分に景気六分」と言ったという。「渡り」とは歩きやすさであり、「景気」とは美しさのことである。庭の園路の中で、「飛び石」や「延べ段」は「用」にも「美」にも重要な役割を果たしている。
 犬山城の東にある「有楽苑」は、国宝「如庵」を擁する名園である。「如庵」は織田有楽斎が、京都・建仁寺の正伝院に、元和4年(1618)に建てた茶室である。訳あってこの地に移築されたが、庭園も有楽好みがそのまま移されたものである。(2020・4・26「国宝・如庵」参照)

有楽苑マップ

 この名園には何度も訪れているが、その度に飛び石の美しさに感動する。苑内には「如庵」を始め、「書院」や「元庵」「弘庵」といった茶室が建てられているが、それらを結ぶ動線にデザインの良い飛び石や延べ段が設えてあるのだ。用も美も備えた通路である。
 有楽苑発行の案内図をお借りして、飛び石・延べ段・霰こぼし(小石を敷き詰めたもの)などの位置と写真を掲載する。「岩栖門(いわすもん)」から入って、「旧正伝院書院」から「含翠門」へ、「弘庵」から「萱門」をくぐって「書院」、「如庵」に至る。最後は「有楽好みの井筒」である。

有楽苑G

有楽苑H

犬山城下「旧奥村邸」の庭園

 犬山城下には、古いお屋敷がたくさん残っている。その中に「旧奥村邸」がある。この建物は、江戸時代の呉服商・奥村氏の住宅である。天保13年(1842)の犬山大火の直後に建設された。瓦葺の二階建てで、壁は黒い漆喰塗りである。
 明治32年(1899)に大規模な修復が行われたが江戸後期の町屋の形態を留めており、貴重な文化遺産といえる。庭園も往時の様子を色濃く残している。門をくぐると右側に玄関があり、飛び石に導かれて真っ直ぐに進むと、塀に囲まれた中庭に至る。

なりたG

 手入れの行き届いた庭木や草花、蘚(こけ)が美しい。各種の灯籠や手水鉢も年代を感じさせる。水琴窟の蹲踞もある。土蔵の横に「銀明水」が湧き出ている。これは木曽川の伏流水で、織田信長が武田勝頼攻めのときに立ち寄って、この水を飲んだと伝えられている。
 建物は、江戸末期の主屋・棟門・米蔵、大正時代までに建てられた金庫蔵・道具蔵・離れ・納屋・渡り廊下・東高塀の9件が登録有形文化財に登録されている。現在、フランチ創作料理の「なり多」として営業している。

なりたH

季節通信137猿


海外の盆栽ブーム

 盆栽は、小さな陶器などの鉢に樹木を植え、古木や大木などの姿に整えて楽しむ園芸である。大自然を身近に置くという日本独特の文化であるが、近年海外でも大人気であるという。盆栽や常滑焼などの植木鉢を買い付けに来る、海外からの趣味家や園芸店も年々増えている。
 ロンドン郊外で毎年開催される「ハンプトンコート・フラワーショー」でも、盆栽の展示・販売コーナーがあった。完成品の大きな鉢植えも飾られていたが、「初心者用」として安価で売られている苗木もあった。1本2ユーロ、3本では5ユーロと値札が付いていた。

盆愛ブームH

 ハンガリーでは、趣味が嵩じて販売までするようになった知人を訪ねた。入り口に大きな看板があり、「BONSAI」と記してある。日本語がそのままローマ字になっている。中に入ると日本庭園の中に、日陰棚や栽培棚が設えてあった。
 日本と同じようにマツやブナ(西洋ブナ?)、カエデ類などが並んでいる。常滑焼の朱泥鉢や火山岩(軽石)が使われていた。枝振りを矯正するために、針金を捲くのも日本と同じである。自然を愛する精神は、万国共通だと感じた。

盆栽ブームG

季節通信128

≪防災の日≫東京都清澄庭園(2014年の再掲)

 三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎は、明治11年 (1878) に、荒廃していた大名屋敷など約3万坪を買い上げ、大規模な庭園づくりを始めた。庭園整備の事業は弟の2代目・弥之助が引き継ぎ、完成をみたのは、弥太郎の長男、3代目・久弥の時代、明治24年 (1891) のことである。
 大正12年 (1923) 9月1日の 「関東大震災」 の折、この 「清澄庭園」 に避難した多くの人々は生き延びることができた。それに比べて、墨田区の 「被服廠跡地」 (6.6ha) に逃げ込んだ約4万人の人々は、ほとんど焼け死んでしまった。その違いは、一方が樹林に囲まれ、池などがあるのに対し、もう一方は樹木もない更地であったからといわれている。近年の研究では 「火災旋風」 (炎の竜巻 )に襲われたのではないかとも考えられている。

清澄庭園A

 現在は、東京都の所有する都市公園になっており、震災被害の少なかった東半分は、当時のような 「清澄庭園」 (有料) に、被害の大きかった西半分は、芝生広場を中心とした 「清澄公園」 として開放されている。上の写真は庭園部分、下は公園部分である。
 ◆◆今日9月1日は「防災の日」、関東大震災から98年目 である◆◆

清澄庭園マップ

季節通信125クズ

庄内緑地

 庄内緑地は、小田井遊水地を兼ねている。庄内川が大洪水となり、水が溢れそうになると、越流堤を越えて水が緑地の中に蓄えられる仕組みになっている。約40ヘクタール、100万トンもの水を調整し、下流域の災害を防止する。
 庄内緑地は、名古屋市では珍しく広さを実感できる公園である。調整池であるために施設づくりが制限されているためでもある。中央あたりに広大な芝生広場がある。シンボリックな時計塔と巨大なケヤキが景色を作っている。シートを広げて、のんびりと寝転んでいる人が多い。

庄内緑地G

 彫刻も噴水も遊び道具を兼ねている。巨大な石の彫刻に子供たちはよじ登り、夏の暑い日は、霧を吹き出す噴水が水遊び場に早変わりする。公園の西の端に「ドッグラン」がある。この公園では犬までが伸び伸びと走り回ることができる。
 早春には菜の花畑が広がっていた。かつて小田井の人々が、菜種油を栽培していた風景を思い起こす。地下鉄庄内緑地駅を起点に庄内緑地の園路を通り、囲繞堤(いにょうてい)を越えると中小田井の町に至る。KIZZRIの人たちは、このルートを新しい散策コースにしたいと考えている。

季節通信124マツバラン

ダブリンの植物園

 アイルランドの首都ダブリンは人口120万人、アイルランド国民の約4分の1が集まっている。街には緑が多く、メイン通りには花や彫刻も飾られて活気に満ちている。都心近くに国立の植物園があるというので訪ねてみた。「グレスナビン植物園」と呼ぶ。
 1795年に、資源植物や農業の研究のために設立された。面積は約20ha、栽培植物は2万種にも及ぶという。入り口近くの温室は、キューガーデンを手掛けた建築家が設計した。外観も瀟洒であるが、中に入って眺めるとさらに美しい。何よりも主役の植物との調和が意図されている。

ダブリンの植物園

 花壇は様々なパターンを持っている。宿根草を駆使したボーダー花壇は、園路側は低く奥に行くほど背の高い植物を植えている。日本の山地に生えるタケニグサも使ってあった。平面花壇やハンギングバスケットを使った立体花壇も美しい。若い女性のガーデナーが花の手入れをしていた。
 奥へ進むと自然を活かした深い森があり、野生のリスが走り回っていた。水生植物を集めた池には、モネの庭を連想させるような橋が架かっている。管理事務所で名古屋の植物園の元職員であると告げると、植物目録を進呈してくれた。正門の前で記念撮影。

季節通信120タケニグサ

平城宮の「東院庭園」

 大化の改新(乙巳の変=645年)を成し遂げた天智天皇の後、壬申の乱を経て天武天皇の世となる。天武の後を継いだ持統天皇(天智の娘・天武の皇后)の孫に当たる文武天皇が早逝すると、その母であり持統の妹である元明が天皇を継ぐ。「平城京」は、文武時代に審議され、元明がその思いを成し遂げて710年に遷都した。(ちなみに持統、元明は女帝である。) 
 「乙巳(いっし)の変」「白村江(はくすきのえ)の戦い」「壬申の乱」と動乱の前世紀であったが、ここへ来て安定してきたのであろう、堂々たる都城の建設が行われたのである。東西4.3km、南北4.8km(天白区の面積と同じくらい)、碁盤割りに区画され、中央に朱雀大路が走る。その北端に平城宮がある。

平城宮マップ

 “鳴くよウグイス平安京”と年号を暗記したように、平安京へ遷都した794年の後には忘れられた都となり、ついには田畑となってしまった。明治・大正期になって歴史考察が行われ、保存会も結成された。平成10年に「朱雀門」が復原され、平成22年には「大極殿」も復原されて「平城遷都1300年祭」が開催された。
 大極殿から見て左側、東端に「東院」がある。その東南角に「東院庭園」があった。昭和47年から発掘調査され、平成5年から復原工事が始まり、10年に一般公開された。平安貴族の「寝殿造り」に先立つ日本庭園の原点とも言える庭であり、奈良時代には歴代天皇が宴会や儀式を行っていたという。

季節通信116ミョウガ

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 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
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