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名古屋城のカヤ

 名古屋城の正門をくぐってすぐ左のところに、ボリューム感のある古木が見える。高さ16m、幹周り8mもの巨木で、国の天然記念物に指定されている。樹齢600年と推定されていることから、名古屋城築城の慶長15年(1610)以前から生えていたことになる。
 元和元年(1615)の「大坂夏の陣」は初代藩主・義直の初陣であったが、武運を祈願してカヤの実を食膳に載せたといわれている。以来、尾張藩では、毎年正月祝いの主君の膳に供されたという。

名城カヤG

 カヤは、葉の先端が鋭い棘になる常緑針葉樹である。雌雄異株で雌の木にしか実が成らないが、この木は雌樹である。城内にはオニグルミの林もあるが、これらのカロリーの高いナッツ(木の実)は籠城の際の非常食として保存されていたものと思われる。
 昭和20年(1945)の名古屋城炎上のときにはこのカヤも火を浴びたが、幸いなことに枯損には至らず、今も旺盛な樹勢を保っている。株の根元には、「天然記念物 名古屋城の榧」と記した石柱があり、その隣に木製の説明板が立っている。

名城カヤH


季節通信40甘茶

岩崎城跡

 岩崎川は、日進市と長久手市の境・県農業試験場あたりに端を発し、日進市役所近くで天白川と合流する。岩崎川北の小高い丘の上に岩崎城跡があり、現在は「岩崎城址公園」として整備されている。
 城跡に登ると、眼下に岩崎川・天白川流域の平地が広がるのを見ることができる。現在は、名古屋市東隣りの住宅地として、多くの家々が建ち並んでいる。しかし、往時は激しい戦いの行なわれた地であった。

岩崎城G

 天正12年(1584)、羽柴(豊臣)秀吉と織田・徳川連合軍が戦った「小牧長久手の合戦」において、連合軍方についた丹羽氏はこの城の留守を預かっていた。そこへ秀吉方の池田隊が攻め込み、守備の城兵全員が討ち死にしたのである。
 以後、この城は廃城となり、そのままの形で荒れ果ててしまった。昭和59年、落城400年の記念大祭が行なわれたのを機に、歴史公園とする方針が決まった。今もわずかに形態を残す空堀などを保存しつつ、天守閣や歴史記念館などが新しくつくられている。

岩崎城マップ

作手の大木

 作手には、いくつかの城跡と数多くの神社・仏閣があり、その境内や裏山に古木・大木がありますのでご紹介します。

◆ サクラ・・・石橋城跡は、今は石橋山慈昌寺というお寺になっている。石橋城は奥平氏二代目の弾昌久勝が最初の城主であったが、主君への謀反が露見して攻められ、討ち死にしてしまった。後世、当山の第二世和尚が一族の滅亡を哀れみ、この地を貰い受けて寺にしたという。墓所の斜面に植えられたサクラの大木は、久勝に因んで「弾昌桜」と呼ばれている。

作手大木G

◆ ヒノキ・・・白鳥神社は日本武命を祭神とし、村民は「古宮」と称して崇敬してきた。神社の裏山が「古宮城」で、元亀2年(1573)に甲斐の武田信玄が三河攻略の拠点として築城したものである。境内右手の山への登り口が、古宮城の「虎口」のあったところである。裏山はスギやヒノキの樹林となっているが、その中に一際目立つのが「大ヒノキ」で御神木になっている。樹高29m・幹周り5.8m・樹齢600年といわれている。

作手大木H

◆ コウヤマキ・・・翔龍山甘泉寺は、その境内に「鳥居強右衛門」の墓所があることでも有名である。本堂左手の山裾に国内一の巨樹といわれるコウヤマキがある。この樹は、この寺を開山した和尚が、高野山からついてきた杖を差したところ根付いて成長したのだという。今から600年ほど昔の話である。
 樹高27m・幹周り6.3m、国の天然記念物であり「新・日本名木百選」にも選ばれている。「コウヤマキ」はスギ科コウヤマキ属の常緑針葉樹で、日本と済州島のみに自生する固有種である。平成18年に誕生した悠仁親王の「お印」になっている。

作手大木I

オアシス21(立体公園)

 昨年、「外国人旅行者が選ぶ夏のフォトジェニック観光スポット」ランキング2位という“栄光”に輝いたのが「オアシス21」である。“フォトジェニック”とは“インスタ映え”と同義語で、“写真向け”という意味。因みに1位は北海道・洞爺湖、3位は横浜のラーメン博物館である。
 大都市の人気ランキングで最下位と評せられ、自信を失いそうな名古屋ではあるが、よくよく見てみれば他所に無い自然や文化、人々の暮らしなど良いものもたくさんある。むしろ名古屋の人が自分のまちを知らないがための“アピール不足”ではないかと、これは私の見方である

オアシスG

 オアシス21の敷地約2haには、元は愛知県文化会館とNHK名古屋放送会館があった。昭和50年代後半に両者とも再整備構想がもち上がったのが、公園も含めた3者一体化構想のきっかけである。東隣にあった栄公園(約3.5ha)の一部をNHKと交換する。栄公園を久屋大通公園に含めて面積を増やし(建蔽率)、愛知県芸術文化センターを建てて跡地を公園にするという計画である。
 久屋大通公園の地下には、地下鉄駅やセントラルパーク地下街があるため、芸文センターやNHKとの行き来は、地下・地上・デッキの3つの通路が望ましい。地下広場・地上公園・空中水面(水の宇宙船)をもつ「立体公園」が誕生した理由である。このような公園は全国に例がなく、都市公園法にも想定されていなかった。何度も建設省と協議を重ねて、ようやく認められたものである。

オアシスH

京都御所の庭

 “鳴くよ鶯(うぐいす)平安京”、長岡京から都を移した年号794年を覚えるための語呂合わせである。明治2年(1869)に東京へ遷都するまでの1075年間、京都は日本の都であり続けた。京都御所は天皇の住まいであったが、平安以来何度となく火災などのために場所を移している。現在の位置に定まったのは、14世紀中ごろのことという。
 紫宸殿の北東に広がる庭園は、池を中心とした池泉廻遊式である。「御池庭」と呼ぶ。これもいろいろな変遷を経ているが、今のような形になったのは江戸時代初期であろうと考えられている。手前に小石の州浜が池に向かってなだらかに傾斜し、対岸には豪壮な護岸石組み、いくつかの石橋や土橋、松を中心とした植込みなどを配している。

京都御所マップ

 紫宸殿の南には、2本の樹木が象徴的に植えられている。「左近の桜・右近の橘」である。桜はヤマザクラ、日本の山地に自生する種類である。奈良時代は花と言えば梅であり、左近の樹は梅であったが、平安時代になると桜が好まれるようになり、「左近の桜」が成立したようである。
 「橘(たちばな)」はミカンの仲間、柑橘類に属する。柑橘類は、東南アジアから中国南部を原産地とするが、タチバナは日本の野生種と考えられている。古代から貴族に愛好され、万葉集に67首もの歌が収録されている。ただ、食用というより花や実が鑑賞用として好まれていたようである。

京都御所G
≪左・右は、紫宸殿の階(きざはし)から見たもので、正面から見ると逆になる・・・左の写真が橘、右の写真が桜≫

伊勢神宮の森

 明けましておめでとうございます。平成31年の始まりです。今年は、天皇陛下が4月30日に退位されます。平成は終わりとなり、新しい年号が始まりますので○○元年ともなる年です。記念すべきこの年が、幸多かれと願ってやみません。
 昨年末の12月23日、85歳の誕生日を迎えられた天皇陛下が記者会見されました。記者からの 「現在のご心境と、国民に伝えたいことは」 との質問に、半生を振り返りながら心情を吐露されました。テレビでは、途中のコマーシャルを挟むことなく、全てが一挙に放映されました。お言葉一つひとつに万感の思いが込められており、胸が熱くなりました。

伊勢神宮G

 伊勢神宮 (内宮) は、天皇のご先祖 「天照大神」 を祀る神社です。2000年の昔から、この地にご鎮座しています。宇治橋の前にある大鳥居をくぐると、いよいよ神域に入ります。五十鈴川の清流・参道の白い玉砂利・直径2mを越す杉や楠の大木などが、神宮の清浄さや荘厳さを醸し出します。
 さらに、素木 (しらき) の社殿を囲むうっそうとした森林に “ただならぬ何か” を感じます。神宮の “森厳” を守るために、太古から斧の入らぬ杜なのです。その5000haを越す広大な照葉樹林には、シイ・カシ・クスといった冬にも葉を落とさない樹木が生育しています。

伊勢神宮H


季節通信32ウラジロ

横浜の三渓園

 横浜市の中心から少し南へ行った本牧地区に、広大な日本庭園がある。「三渓園」 という。この庭園は、明治から大正にかけて製糸・生糸貿易で財を成した原富太郎 (号を三渓という) が造り上げ、明治39年 (1906) に公開したものである。
 もともとは、東京湾に面した “三之谷” と呼ばれる谷あい5万3000坪 (約17.5ha) の敷地に、池や芝生、園路や橋を配し、京都や鎌倉などから集められた17棟の歴史的建造物を建設した。周辺の小高い山や自然の樹林と調和した、見事な景観を見どころとしている。

三渓園G

 上左の写真は 「臨春閣」、紀州徳川家初代藩主が紀ノ川沿いに建てた数奇屋風書院造りの別荘建築である。桧皮葺の屋根の内部には、狩野派の絵師による襖絵などがある (複製・・・本物は三渓記念館で保存)。園路の飛石や沓脱石、石橋などには巨大な石が使用されている。
 ひときわ高い山の上に立つのは 「旧燈明寺 (とうみょうじ) 三重塔」、京都・木津川沿いの廃寺から移築した。三渓が岐阜県出身である縁から、白川郷でダム工事により沈むこととなった合掌造りの家 「旧矢箆原 (やのはら) 家住宅」 もこの地に移っている。
 三渓は、芸術家や文学者など文化人と広く交流したことでも知られている。この庭園は、美術・文学・茶の湯など近代日本文化の一端を育んだ場所でもある。平成19年に国の名勝に指定されている。

三渓園H


季節通信27葛

横浜の日産スタジアム

 正式には 「横浜国際総合競技場」 といい、ネーミングライツ (命名権) により 「日産スタジアム」 と呼ぶ。東海道新幹線の新横浜駅から徒歩15分ほどの位置にある。「第53回国体」 や 「2002FIFAワールドカップ」 開催を念頭に平成10年 (1998) に供用開始した。
 面積は約17ha、建物の高さは52m、観客収容能力は7万2327席と国内最大である。サッカーの横浜F・マリノスのホームグランドとしても知られている。一方、鶴見川の多目的遊水池機能も備えている。鶴見川の増水時には大量の水がスタジアムにも流れ込むため、観客が速く避難できるように安全なペデストリアンデッキ (人工地盤) が設備されている。

横浜G

 先だって、ラグビーのニュージーランド対オーストラリア対抗戦が開催された。学生時代プレーヤーだった私と、オールブラックス (ニュージーランドは真っ黒のユニフォーム) のウォークライ(ハカともいい民族の戦闘前の踊り)大ファンの妻は、何とかチケットを手に入れることができて観戦に行った。
 新横浜駅前から数珠繋ぎの観衆とともに、ワクワクする気持ちで入場した。見たことのない大きなスタンド、美しく刈り込まれた緑の芝生、すでに黒と黄色 (ワラビーズという) のジャーシーの選手が練習をしている。世界一を争う両チームの、期待通りの好ゲームを観ることができた。来年に迫った 「ラグビー・ワールドカップ」 の決勝戦は、この日産スタジアムで開催される。

横浜H

津島神社の大銀杏

 津島は、名のとおり津(港)のある島であった。濃尾平野がまだ海だった太古の時代、津島は桑名と熱田の間に浮かぶ島であり、江戸時代には天王川河口の重要な川湊であった。東海道は、宮宿(熱田)と桑名宿の間が海上交通であったが、海路を避けたい人は陸路の佐屋街道へ迂回した。この道は津島神社の東側を通っている。
 江戸方面からお伊勢参りに旅する人たちは、必ず「津島神社」にも立ち寄る慣わしだった。伊勢神宮だけの参拝では、片参りと言われていたのである。津島の町は、交易の湊町として、また門前町としても多いに賑わいを見せていたという。

津島神社マップ

 津島神社は、欽明天皇元年(540)にご鎮座したという長い歴史をもつ。古くから津島牛頭天王社と呼ばれ、「津島さん」「天王さん」と親しまれてきた。全国に3000を数えるご分霊社の総本山でもある。この地方固有の「屋根神様」としても多く祀られている。
 東に面して、秀吉から寄進を受けた楼門が聳えている。その前面にある大鳥居の脇に樹齢600年ともいわれる公孫樹(いちょう)の大木がある。幹に注連縄が張られて、ご神木になっている。太い枝にはイチョウの古木特有の「乳」が垂れ下がっている。イチョウの樹皮はコルク層に覆われているが、これは樹皮が発達したものである。

津島神社G


季節通信19彼岸花

高山植物園

 日本には植物園が100あまりある (日本植物園協会に加入している植物園)。その中で高山植物園と銘打っているのは、神戸の 「六甲高山植物園」 と長野県の 「白馬五竜高山植物園」 の2か所である。大阪の 「咲くやこの花館」 のように、ガラス室の中を温度調整することにより、高山植物を栽培しているところもあるが、標高も高く、栽培植物だけでなくて自然のお花畑も鑑賞できるのは白馬五竜高山植物園だけであろう。 
 今年7月下旬に、高山植物の写真が撮りたくて訪れてみた。場所は諏訪湖の北、安曇野も過ぎた白馬村にある。この辺りはスキー場のたくさんあるところで、そのゲレンデを利用して植物園にしているのである。

五竜マップ

 駐車場のあるセンターハウスからゴンドラに乗り、標高1500mまで登ったところに植物園がある。さらにスキー用のリフトに乗って山頂まで行くと、自然のお花畑を見ることができる。ゲレンデの斜面を下りながら高山植物を鑑賞できるようになっている。
 植物園は通常、英語でボタニカル・ガーデンというように、庭園的に景観も美しく整備・管理され、その植物の自生地に近い環境も整えている。この園は周囲がまさに “高山” であることから、天然の庭園であり、写真を撮る場合にも、背景を具合よく撮影することができるのである。
 日本の高山植物の女王ともいわれる「コマクサ」、ヨーロッパアルプスで名高い 「エーデルワイス」、ヒマラヤで発見されて話題となった 「青いケシ」 の写真をご紹介します。

五竜G

油ヶ淵水辺公園

 油ヶ淵 (あぶらがふち) は、愛知県内唯一の天然湖沼である。周囲6.3km、面積64ha、平均水深は約3m、海水と淡水の混じりあった汽水湖である。成立の歴史は比較的新しく、江戸時代初期のことである。
 家康の命により矢作新川の開削が行なわれたが、新川への土砂流出を防ぐために米津と鷲塚の間に堤防が設けられた。これにより、入海が遮断され、油ヶ淵の基になる湖沼ができたのだという。「油ヶ淵」 の名称は、息子の漁の安全を祈る母親のために、淵の神が娘に姿を変えて、油の灯で岬を照らしたという伝説に基づいている。

油ヶ淵マップ

 碧南市と安城市に跨る湖沼の周辺に、新たな大公園が整備されつつある。西三河では初めての県営公園 「油ヶ淵水辺公園」 である。水面も含めた全面積は約140ha、広大であるので5つのエリアに分け、それぞれに性格付けをしている。「矢作川水圏」 「自然ふれあい生態園」 「農地の保全」 「交流広場」 「水生花園」 である。
 今年の4月に、自然ふれあい生態園 (安城市側:左の写真) と水生花園 (碧南市側:右の写真) の一部が開園された。さっそく地域の方々がボランティアとして参加していて、花壇づくりや除草などの活動を始めている。一昨年の秋から春にかけて造園工事が行なわれたが、その監督業務を当社が担当させていただいた。

油ヶ淵G

牧野ヶ池緑地

 日進市との市境に近い名古屋市名東区に、面積150haにもおよぶ広大な緑地がある。牧野ヶ池緑地である。戦争中の昭和15年 (1940) に、名古屋市を取巻くいくつかの防空緑地のひとつとして計画決定されたのが始まりである。戦後の昭和32年に、広域公園として利用されるようになった。
 牧野池の歴史はさらに古い。このあたりは、なだらかな丘陵地帯で水利が悪く、昔から旱魃に悩まされてきた。正保3年(1646)、尾張藩の郡奉行が周囲3kmの土地を掘らせて用水を引き、灌漑用の溜池を造成した。それ以来この地域の農業は栄えたという。

牧野池マップ

 面積16haという市内で最も広大な池には、いろいろな渡り鳥が飛来する。かつて江戸時代には、尾張徳川家の御狩場であったという。現在では、野鳥の観察地としても有名である。
 公園面積の大半は、愛知カンツリー倶楽部のゴルフコースが占めている。東西の道路沿いは一般開放され、芝生広場や遊具広場になっている。私の訪れた日には、日用品のバザールが開催されていた。

牧野池G


季節通信15高山2








蟹江宝蓮寺「イブキの大木」

 蟹江川に沿って、「信長街道」 と呼ばれる細い道がある。若かりし織田信長 (19歳のころ) が、清洲攻めのときに通っていった道だと伝えられている。この昔ながらの道沿いには、お寺や神社、小さな祠や古木・大木がたくさんある。
 JR関西線の南側、蟹江川の右岸に 「宝蓮寺」 という浄土真宗大谷派の古刹がある。山門に蓋いかぶさるような大木が見えたので、中へ入ってみた。イブキ (ビャクシン) である。幹の直径は1m、高さは10mを越えると思われるほどの大木である。観光案内書には、樹齢200年以上と記されている。

蟹江イブキマップ

 イブキはヒノキ科の針葉樹で、東北地方から南の太平洋岸に自生する植物である。海岸沿いの崖地など厳しい環境では地を這うように伸びるが、条件の良いお寺などでは堂々とした樹形になる。
 この木も、根元を踏まないように保護されており、幹や太枝がうねるように伸びて荒々しい姿を見せている。イブキは昔から庭園樹として用いられたため、多くの園芸品種が作出されている。「カイズカイブキ」 もそのひとつで、枝が旋回して (ひねって) 伸びる性質をもち、住宅の生垣や中央分離帯の街路樹などとして多く使われている。

蟹江イブキG



季節通信10ネムノキ

新舞子マリンパーク

 「新舞子」 と聞くと、砂浜の美しい海水浴場を思い浮かべる。しかし、戦後の産業開発や伊勢湾台風後の復旧事業などにより、埋立地の工場立地や人工的堤防の整備が進み、白砂青松の風景は消えてしまった。味気ない工場地帯だろうと思っていたのだが、現地を訪れてみて少し安心した。
 再び砂浜が出来ていたのである。新舞子対岸の南5区埋立地の一角に、平成9年に人工海浜 「新舞子マリンパーク」 がオープンしていた。2本の風力発電塔をシンボルマークとした海浜で、憩いのための芝生広場も備えている。夏には多くの海水浴客が訪れ、海の自然に触れながら水遊びを楽しんでいるという。

新舞子マップ

 手前の海岸も単なる堤防でなく、親水性を考慮した階段状の構造になっている。海水は思ったよりも見た目が美しく、工場地帯というより海のリゾート地としての様相を見せている。和風でなく洋風な海水浴場を思わせる風景である。
 堤防際に瀟洒な尖塔をもつ建物があった。教会だろうと思って中を覗くと、どうもレストランのようである。ウェートレスの方にお聞きすると、二階が教会になっていて、結婚式も行なわれると言う。確かに、玄関の扉などにはステンドグラスが嵌っていた。

新舞子G


季節通信7紫陽花

知多市の大草城跡

 名鉄常滑線・おおのまち駅の近くにこんもりとした小山があり、その山上に 「大草城跡」 がある。この城は、この地を拝領していた織田信長の弟・織田長益が築城しようとしたが途中で断念した “幻の城” である。長益が築き始めた天正10年 (1582) に本能寺の変が勃発し、兄・信長が暗殺されてしまったのである。
 長益はその後、長久手の合戦 (1584) からしばらくして秀吉に仕え、摂津の国 (今の大阪) に転封された。そのため築城途中のこの城は、地形 (ちぎょう=土地造成) が終わったところで放棄され、完成することはなかった。長益とは、後に武士をやめて茶人として名を残した 「織田有楽斎」 のことである。

大草城跡マップ

 現在も本丸と二の丸周辺の土塁やお堀が、ほぼ完全な形で残っている。このように保存状態の良い城跡は愛知県でも数少ないという。お城の東隣にある地蔵寺 (左) と津島神社 (右) も、かつての絵図そのままの位置に残っている。ただ、天守閣風の建物は史実と異なる建物で、単なる展望台である。また1kmほど南には、大野衆と呼ばれた水軍の拠点 「大野城」 の跡が残っている。

大草城跡G

とこなめ陶の森小径

 常滑市でも、平成26年に里山整備が行われた。「とこなめ陶の森小径」 という、ちょっとお洒落な名前がついている。この境内森をもつ常石神社は、古くから常滑の地に祀られており、明応3年 (1494) にこの地に遷座したという。煉瓦敷きの長い参道と、高い階段の先に社殿がある。
 小径は、階段の中ごろから横道へ入り、社殿の前を通って境内を一周するコースになっていて、「木かげのこみち」 「陶のこみち」 「ちんじゅの森」 の3ルートに分かれている。この樹林も森厳を守るため太古から斧の入らない森であるため、古木や大木を見ることができる。途中にムクノキ、ツブラジイ、コナラの大木が聳えていた。

常滑の里山G

 この里山のもう一つの特色は、ルートのところどころに焼き物の彫刻が佇んでいることである。休憩所の真ん中や柱の裾にもいくつかの置物が設置されている。園路の脇には、常滑の主要製品である土管にいたずらした (?) ような、愉快な作品があった。
 ルートの途中に、陶芸資料館と陶芸研究所の立派な建物が建っている。資料館では、常滑の人々と焼き物との、古くからのかかわりを知ることができる。研究所では、若い研修生たちが陶業や陶芸の技術を学んでいるという。

常滑の里山マップ

阿久比の里山散策路

 阿久比町では、平成25年と26年にかけて2か所の里山整備が行なわれた。ひとつは多賀神社の境内林、もうひとつは長松山・正盛院の裏山である。多賀社の創建は元和7年 (1621) であり、正盛院の建立は天文13年 (1544) だという。どちらも古い歴史をもつことから、鎮守の森はうっそうと繁る照葉樹林になっている。
 写真左が多賀神社の社殿、右が正盛院の参道と仁王門である。

阿久比

 照葉樹の森は、元々この地方(暖地)に成立する自然植生 (潜在自然植生という) である。シイやカシ、ヤマモモといった常緑広葉樹を主体としているので、“昼なお暗い” 雰囲気の森である。弥生時代以降、人々が生活のために伐採したため、多くの森はマツ、コナラ、アベマキといった明るい二次林に代わっているが、辛うじて寺社の境内にだけ残る森である。
① 多賀社、正盛院、どちらの森でもシイノキが林冠を覆っている。シイノキを外から見ると、モコモコと葉が繁り、まるでブロッコリーのように見える。
② この森を中から見ると、枝葉が競い合って空間を埋め尽くそうとするので、モザイク模様を呈している。葉が厚いので、林内に差し込む光は極端に少ない。
③ 散策路を歩いていて、面白いものを見つけた。シイノキの板根 (ばんこん) である。強風にも耐えられるように、樹木をしっかりと支える目的で発達するもので、熱帯雨林やマングローブの森でよく見るものである。この里山の散策路でも見ることができる、貴重な現象である。

阿久比マップ

知多市岡田の里山散策路

 愛知県では、平成21年から 「あいち森と緑づくり税」 が導入されている。森や緑は、空気の浄化や景観形成など、様々な働きにより人々の暮らしを支えている。ところが近年の都市化や開発により、森や緑の荒廃や減少が著しく進んでいる。将来に向けて樹林を健全な状態で引き継いでいこうとの考えから、この財源を使って様々な事業が行なわれるようになった。
 里山整備もその一環で、民有林や寺社の境内林などを活用して、散策園路づくりなどが行なわれている。知多半島のいくつかの都市において、当社・中部復建 ㈱ が設計に当たったいくつかの里山をご紹介します。まずは知多市岡田地区の「岡田散策路」、“木漏れ日の道” という愛称でも親しまれています。( 「知多市岡田の古い町並み」 については、平成26年8月27日に掲載しました)

里山岡田マップ

 この散策路は、コナラやアベマキを主体とする雑木林と管理の行き届いた竹林などの間を、曲がりくねった山道に導かれていく。入口から ①誘いの森 ②木漏れ日の丘 ③たけのこの里 ④どんぐりの森 ⑤きつねの里 と名付けられた5つのゾーンに分かれている。
 「たけのこの里」 で、可愛らしい訪問者に出会った。近くの保育園園児たちがタケノコ掘りに来ていたのである。たぶん初めての経験であろう楽しい作業に、大声を出してはしゃいでいる。この日のブログ取材には、この事業の設計に当たった当社の職員も同行していましたが、楽しそうに使われている姿を見て仕事のやりがいを感じていました。

里山岡田G


季節通信「タケノコ」

清水寺背景の照葉樹林

 「清水の舞台から飛び降りる」 とは、“非常な決意をした” ことのたとえである。その清水寺は、広隆寺や鞍馬寺とともに、平安京遷都 (794) 以前からの歴史をもつ、数少ない寺院のひとつである。現在では、同じ東山山系の銀閣寺や西部の嵐山、金閣寺などと並んで、最も人気の高い観光名所になっている。ユネスコの世界遺産にも登録されている。
 両側にお店の並ぶ東山道の坂を上っていくと、正面に仁王門と三重の塔が見えてくる。門をくぐって、鐘楼やいくつかのお堂を過ぎると、いよいよハイライトの本堂に至る。本堂の屋根は、寄棟造りの桧皮葺きである。寛永10年 (1633)、徳川家光の寄進により建てられた。建物の前半分が山の斜面にせり出すように建てられており、ここを 「舞台」 と呼ぶ。上から見ても足がすくむが、下から見上げても、139本のケヤキの柱に支えられた舞台は怖く見える。

清水寺マップ

 石段上の、朱塗りの仁王門 (下左の写真) の背景に、こんもりとした照葉樹林の山が見える。冬でも葉を落とすことなく、緑色を保つ常緑広葉樹の森である。舞台からも、奥の院への道をさらに進んだ 「子安堂」 (下右の写真) を取り巻く、うっそうとした森を見ることができる。
 ここの照葉樹林は、シイノキ・クロバイ・サカキなどを構成種とし、この地域に自然に成立する植生である。しかし、長年、薪炭用として伐採されたため、アカマツや落葉広葉樹の森に変化していた。ところが、近年は松くい虫による松枯れや燃料革命の影響により、再び元のようなシイノキを中心とした照葉樹林に戻りつつあるという。

清水寺G

西本願寺のイチョウ

 京都駅から歩いていける距離に、大きなお寺が2つ並んでいる。向かって右が東本願寺、左が西本願寺である。いずれも浄土真宗のお寺であるが、東は大谷派、西は本願寺派の本山である。京都市民には馴染みの寺院で、それぞれ 「お東さん」 「お西さん」 の愛称で呼ばれている。
 先日北野天満宮へ行った後、西本願寺に立ち寄ってみた。バス停近くにある金色の阿弥陀門 (下右の写真) をくぐると、正面に大きな阿弥陀堂が見える。このお寺は、親鸞の廟堂として文永7年 (1272) に創建された後、各地を転々としたが、天正19年 (1591) に秀吉の寄進によりこの地に落ち着くことができた。

西本願寺マップ

 阿弥陀堂の南に建つ御影堂の前に、目を瞠るほど巨大で異様なイチョウの木を見ることができる。樹形が普通のイチョウと異なり、低い位置から水平に長い枝を伸ばしているのだ。これは植栽時から、剪定などの丁寧な手入れが行なわれたためと思われる。御影堂の建立が寛永13年 (1636) であるので、この木の樹齢は400年以上と推定される。
 この老木は、今日に至るまで何度も大火に遭遇しているが、火の粉をものともせずに生き抜いてきた。イチョウは樹皮も厚く耐火力の強い木である。東京都の街路樹にはイチョウが多く植えられていて、「都の木」 に選ばれている。昭和20年の終戦の年、焼け野原となった本郷あたりを歩いていた一人の植物学者 (矢頭献一) は、黒こげとなったイチョウの幹に芽生えた緑色の葉を発見して、生きる希望を与えられたとその著書 『植物百話』 に書き残している。

西本願寺G

農業センターの枝垂れ梅

 名古屋市天白区・地下鉄平針駅から東の方角に広大な荒池緑地が広がっていて、その中心に農業センターがある。もともとは、農業技術の研究や農家の指導のほか、一般市民にも農業について知ってもらうことを目的に昭和40年に開設された施設である。
 園内では、いろいろな品種の野菜や穀物が栽培されるとともに、牛や羊の放牧といった畜産も行なわれている。特に、この地方特産 「名古屋コーチン」 の最大生産地としても有名である。最近ではもうひとつの側面として、人々が憩い安らぐ「農業公園」としても親しまれている。子どもたちにとっては、東山動植物園と同じように 「生き物」 に出会える場としても人気がある。

農業センターマップ

 農業センターでは今が花の真っ盛りである。12品種700本もの規模をもつ枝垂れ梅の庭園は、全国屈指だといわれている。散策園路や芝生広場もあり、冬の寒さからようやく開放された人々がのびのびと花や陽光を楽しんでいた。
 この期間中には、地元農家の新鮮野菜の即売や動物との触れ合い広場などのイベントも開催されている。搾りたての牛乳やその牛乳を使ったソフトクリームも大人気である。名古屋市民だけでなく、広範囲からの行楽客も増えてきて、周辺道路が大渋滞する現象も起きている。

農業センターG

湯河原の梅林(再掲)

 さらに梅の話題を続けます。(2015・03・07掲載) 

 翌日、湯河原にも梅林があるというので訪ねてみた。この梅林は、谷間にある熱海の梅園とは趣を異とし、山の中腹一帯の斜面に広がっている。そのルーツは、戦後まもなく、崖崩れ対策と将来の観光資源を目的として、地元の人たちが植えたものだという。
 後ろに聳える 「幕山」 は、箱根火山の一部で、粘性の高いマグマが噴出して固まった溶岩ドームである。幕山の名前は、南麓に露出した岸壁が遠くから眺めると、舞台の「幕」のように見えることからの命名である。近くで見ると、縦に割れ目のある「柱状節理」であることがわかる。

湯河原A

 梅の木は、その後何度も補植され、今では4000本もの紅梅・白梅が咲き誇る関東随一の梅林となった。日当たりや土壌にも恵まれ、管理も行き届いているのでのびのびと育ち、花付きも良い。谷部には、飲み物や地元の特産品などを販売するブースやお休み所もあって、楽しい雰囲気を醸し出している。

湯河原マップ

熱海の梅園(再掲)

 梅の話題が続きましたので、2年前に訪れた熱海の梅を振り返ってみます。(2015・03・04掲載) 

 今月の初め、MOA美術館で開催されている尾形光琳の作品展を観るために、熱海へ出かけた。尾形光琳300年忌と銘打った特別展で 「紅白梅図屏風」 と 「燕子花図屏風」 の二大国宝を同時に展示したものである。  
 “カキツバタ” の方は、以前このブログの三河八橋の項 (2014・05・26) で取り上げたことがある。しかし、本物を観るのは初めてで、長年の夢を叶えることができたのである。“ウメ” の方は、数十年前に名古屋市博物館で観た覚えがあり、二度目のご対面である。平日ということもあって鑑賞者も少なくゆっくりと観ることができた。

熱海梅林A

 名画鑑賞の後、ちょうど見ごろだというので、近くにある 「熱海梅園」 を訪れた。明治の初めごろ、「健康の元は、温泉と自然」 という考えの下に開設された庭園である。山林約2.5haを整備して、梅や松、カエデなど3000本が植えられたという。真中を流れる川の水を挟んで、白や紅の梅が咲き誇り、まさに “光琳の屏風” さながらの景色を呈していた。

熱海梅林マップ

北野天満宮の梅

 京都の北西、“きぬかけの路” 地区に北野天満宮はある。この路は、JR山陰本線 (嵯峨野線) 花園駅を起点に、妙心寺・仁和寺・龍安寺・金閣寺などといった名刹を巡ることのできる歴史街道である。鴨川の東部に連なる東山地区と並ぶ人気スポットで、今回も多くの観光客が歩いていた。特に外国からのお客様が多く、英語や中国語が飛び交っていた。
 北野天満宮は、菅原道真公 (845~903) を祭神とする全国12000か所もの 「天満宮」 の総本社である。道真は天皇の信頼も厚く、右大臣にまで上り詰めたが、謀反の罪を着せられて大宰府へ左遷させられてしまった。道真の死後、都に天変地異が多発したことから、道真の祟りであると見なされ、「天神さま」 として祀られることとなった。現在も学問の神として、また、お参りをすると受験に効果があるとして信仰を集めている。

北野天満宮マップ

 どこの天満宮にも牛の像が横たわっていて、縁起のために人々が触るのでピカピカに光っている。道真にとって牛は、生まれた年が丑年であったり、生前に牛を飼い、あるいは危機に瀕したときに救われたりといろいろに縁があることから、現在も奉納されているのだという。
 道真と梅も縁が深い。道真が大宰府に流されたときに、都で育てていた梅の木を偲んで・・・
“東風(こち)吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主なしとて 春なわすれそ” と詠んだ句は有名である。また、この梅の木は、道真を追って大宰府まで飛んでいったという 「飛梅」 伝説まで残っている。

北野天満宮G

田原の吉胡貝塚史蹟公園

 三河田原駅から1kmほど北へ行ったところ、汐川が三河湾に注ぐ左岸に 「吉胡貝塚 (よしごかいづか)」 がある。貝塚は、市内北部の蔵王山に続く台地から、縄文時代の海進によって形成された 「海堤」 (かいてい:標高2~3m) にかけて分布している。大正11年・12年に京都大学の研究者により発掘調査が行なわれ、縄文人骨が多数出土したことにより大ニュースとなった。昭和26年には、国により史蹟に指定されている。
 下左の写真は、貝塚資料館のある台地から低地方面に向かって撮影した。写真の中央左に、「史蹟吉胡貝塚」 と刻まれた石碑が立っている。写真中央右には発掘現場の断面が展示されていて、雨により傷まないように屋根が設けられている。斜面には、強い季節風によるために幹の傾いたムクノキの大木が何本か生えていた。

吉胡貝塚G

 発掘された現地にそのまま展示されている貝塚断面では、厚く積もった貝殻の化石を見ることができる。穴の底には埋葬人骨(複製?) も展示されている (下左の写真)。ここで見つかる貝は、ハマグリ、マガキ、アサリを始めとした干潟に生息するもののほか、ダンベイキサゴなどといった外洋のものも含まれている。獣の骨も多く、イノシシやニホンジカも食べられていた。
 資料館の館内には、食事の様子や埋蔵の場面など、人々の生活を描いた模型などが展示されていた。その中に石と木材を組み合わせた道具 (石器) が並んでいる。土を掘るためのスクレーパーや木を切り倒す斧などで、充分に頑丈で機能的な道具だと思われるものであった。

吉胡貝塚H

ローザンベリー多和田

 滋賀県米原の多和田に、比較的新しいフラワーガーデンがある。かつて採石場の敷地だった跡地を、徐々に整備してイングリッシュガーデンに創り上げた。ローズ&ベリーを縮めて 「ローザンベリー」 と呼ぶ。周りを山々に囲まれ、大きな池もあり、そうした豊かな自然を活かしながら庭づくりを始めたのは、2003年からのことだという。
 ガーデンは7つのゾーンに分かれている。「山野草と宿根草の庭」 「サクラとバラの道」 「コニファーガーデン」 「ロックガーデン」 「シャガの庭」 「ローズガーデン」 「キッチンガーデン」 である。それぞれが、池を一周する園路沿いに配置されていて、観覧者はそぞろ歩く間にいろいろな景色と植物を楽しむことができる。

ローザンベリーマップ

 園内には、野菜畑やブドウ園、ブルーベリー畑やヒツジを飼う牧場もあって、体験型農園の要素を持っている。「ガーデンショップ」 や 「ワインショップ」 もあり、「クラフト工房」 や 「パン・ピザ工房」 まであって、一日中楽しむことができる。カフェやレストランでは、安全性の高い材料を使ったオリジナルな料理を食べることができる。
 1990年の大阪花博のころからブームとなった、新しい園芸や花飾りが日本にも定着してきた。人々の人気に応えて、ヨーロッパや北アメリカから学んだ 「ガーデニング」 を体現したフラワーガーデンが各地にできつつある。

ローザンベリーG

人道の丘公園「杉原千畝記念館」

 丸山ダムの北、国道418号線がトンネルでくぐる山の上に 「人道の丘公園」 がある。「人道」 と名付けられたのは、「命のビザ」 で知られる外交官・杉原千畝を記念して作られた公園だからである。公園は、「杉原千畝記念館」 といくつかの広場から成っている。
 広場の中央には、平和を奏でるという意味で、パイプオルガンをイメージしたモニュメントがつくられている。長短160本のステンレスパイプと浅い池、同心円状の段差のある広場となっている。開園は平成4年 (1992) のことであった。

杉原G

 道路を挟んだ北側に、ユニークなデザインの記念館が建てられている。玄関入口上部に嵌め込まれた、45度に傾いた格子の枠組みが印象的である。展示室内部は6つのコーナーとデッキ状の2階とで構成されており、観て歩く間にホロコーストとは何か、千畝はなぜビザを発給したのか、助けられたユダヤの人たちの足跡 (そくせき) などが理解できるようになっている。
 ガラスケースの中に実物の査証 (ビザ) が何枚か展示されているだけでなく、施設案内リーフレットもパスポートの形をしていて、中に千畝手書き文字が印刷されている。広場の入口付近に千畝の胸像が佇んでいる。よく見る肖像写真同様に、きちんとネクタイをした背広姿で、6000人ものユダヤ人を救った、人間愛に満ちた千畝らしい顔立ちを見せている。

杉原H

八百津マップ


平成30年 お正月

 明けましておめでとうございます。平成30年の幕開けです。今年は戌年、私の干支です。還暦、いえいえもう一回り上、古希を越えました。でも、お蔭さまでまだまだ元気ですので、今年も「土木文化」を探して中部地方各地を歩きたいと思います。皆さまから、“ここにこんな施設があるよ” とのお声を期待しています。
 年の始めですので、何かお正月らしい話題をと考え、植物の名に「犬」を用いた木や草があることに気づきました。手持ちの写真を探したところ6種類が見つかりましたのでご紹介します。
◆ イヌマキ・・・マキ科の常緑樹、暖地の山林に自生する。庭木やミカン畑の生垣などに利用され  
 る。実が面白く、コケシのような形をしている。果托は赤く熟し、甘くて食べられる。
◆ イヌビワ・・・クワ科の落葉樹、暖地の海岸近くに自生する。「ビワ」と名付けられているが、 
 イチジクに近い仲間で、小さな実がよく似ている。枝を切ると白い乳が出るのも同じ。
◆ イヌナシ・・・バラ科の落葉樹で、この地方にだけ自生する。ナシの野生種で、実は小さいけ 
 れど梨と同じ形をしている。春に白い花を着けて美しい。東山公園のボート池畔にある。

イヌG

 「イヌ」と呼ばれる植物は、“役に立たない” といった意味を持つ。しかし、それは人間にとって有用か否かによって名付けられたもので、植物に罪はない。人の気づかない環境面で有意義だったり、あるいは将来、品種改良の母体になるかも知れないし、新たな薬用成分が発見されるかも知れないのである。
◆ イヌタデ・・・タデ科の一年草、田の畦などに多い。ヤナギタデは、刺身のツマなどに利用され 
 るが、このタデは役に立たない。しかし赤マンマと呼ばれて「おままごと」使われている。
◆ オオイヌノフグリ・・・ゴマノハグサ科の二年草。早春、畦道に生え空色の小花をつけている。 
 “根ざす地の 温みを感じ いちはやく 空いろ花咲けり みちばた日なたに” 木下利玄の歌。
◆ エノコログサ・・・イネ科の一年草、野原でよく見かける。エノコロは “いぬころ” の意味で穂が犬の 尻尾に似ているから。この穂を使って猫をからかうことから、ネコジャラシとも呼ぶ。

イヌH

龍潭寺の庭園

 龍潭寺の歴史は古く、寺伝によれば奈良時代に行基が開創したとある。宗派は禅宗、臨済宗・妙心寺派に属する。平安時代には、井伊家の元祖・共保が生まれ、この地を治めた。また、南北朝時代には、後醍醐天皇の皇子・宗良親王がこの地を拠点として、北朝方・足利氏と対峙していた。龍潭寺は、宗良親王および井伊家の菩提寺となっている。
 本堂の北側に、小堀遠州の作といわれる庭園がある。縁側、雨落の砂利、芝生があって、池、石組みと刈り込み、そして後背の樹林へと続く禅の庭である。季節によって、春はサツキが咲き、秋にはドウダンツツジやカエデの紅葉が彩りを添える、石と花の名園である。次の写真は、庫裏の北側に突き出した書院から見た景色である。遠近法を巧みに用い、手前に石を多く見せ、遠方には刈り込みを多く使っている。視線の先は、井伊家1000年40代の位牌を祀る御霊屋の方形屋根で終わっている。

龍・庭A

 池は 「心」 の形をした 「心字池」 になっている。庭の中心にある小山には、大きな立ち石と二つの脇石からなる守護石が据えてある (下中央の写真)。池の手前にひとつだけある平らな石は、その上で座禅を組む 「座禅石」 で「礼拝石」ともいう。
 向かって左側は松の木をあしらった 「鶴」 の石組みであり (左の写真)、右側の石組みは 「亀」 を模している (右の写真)。庭の両端には守護石を守るための大きな立ち石があり、「仁王石」 と呼ばれている。
 小堀遠州は近江・長浜の出で、「遠州流」 の茶道を興した戦国から江戸時代初期にかけての文化人である。京都二条城の二の丸庭園を造るなど作庭者としても力量を発揮した。龍潭寺庭園は、国の名勝に指定されている。

龍・庭B

岐阜・橿森神社

 岐阜は織田信長の町である。桶狭間の戦いに勝利した後の永禄10年 (1567)、濃姫の父・斉藤道三を滅ぼした斉藤龍興を破って居城を稲葉山城に移した。この城を岐阜城と改名したが、これが岐阜の初まりである。今年は、この年から数えて450年目に当たることから、市内では各種の記念イベントが開催されている。
 山頂に岐阜城を擁する金華山の南山麓に、橿森神社が鎮座している。「御園」 と呼ぶこのあたりに、信長は 「楽市楽座」 を開いた。既存の独占販売権などを廃して自由に商売のできる、今で言う規制緩和の政策である。これにより岐阜には商人たちが集まることとなり、町は大繁盛することとなる。

岐阜マップ

 楽市の中心に 「市神」 として聳えていたエノキ (下右の写真) が、神社の前に残っていて町の移り変わりを見守っている (代も位置も変わっているようだが)。信長のもたらした繁栄が、今も柳ヶ瀬などの町に引き継がれているのであろう。商業だけでなく文化という面で、お寺もこの山裾に数多く存在する。
 鳥居の横にタブノキの大木があり (下左の写真)、しめ縄とともに説明板も設置されている。この神社の名前は 「橿森」 であるが、「橿」 の字は 「樫 (かし)」 と同じであり、常緑広葉樹のカシを表している。金華山の山を覆うのは、シイやタブ、カシを中心とした照葉樹であることが 「かしもり」 の由来であろう。ここの森林は、暖地に成立する照葉樹林としては、かなり北に位置している。

岐阜G
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 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:「園長さんのガーデンライフ」
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