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人道の丘公園「杉原千畝記念館」

 丸山ダムの北、国道418号線がトンネルでくぐる山の上に 「人道の丘公園」 がある。「人道」 と名付けられたのは、「命のビザ」 で知られる外交官・杉原千畝を記念して作られた公園だからである。公園は、「杉原千畝記念館」 といくつかの広場から成っている。
 広場の中央には、平和を奏でるという意味で、パイプオルガンをイメージしたモニュメントがつくられている。長短160本のステンレスパイプと浅い池、同心円状の段差のある広場となっている。開園は平成4年 (1992) のことであった。

杉原G

 道路を挟んだ北側に、ユニークなデザインの記念館が建てられている。玄関入口上部に嵌め込まれた、45度に傾いた格子の枠組みが印象的である。展示室内部は6つのコーナーとデッキ状の2階とで構成されており、観て歩く間にホロコーストとは何か、千畝はなぜビザを発給したのか、助けられたユダヤの人たちの足跡 (そくせき) などが理解できるようになっている。
 ガラスケースの中に実物の査証 (ビザ) が何枚か展示されているだけでなく、施設案内リーフレットもパスポートの形をしていて、中に千畝手書き文字が印刷されている。広場の入口付近に千畝の胸像が佇んでいる。よく見る肖像写真同様に、きちんとネクタイをした背広姿で、6000人ものユダヤ人を救った、人間愛に満ちた千畝らしい顔立ちを見せている。

杉原H

八百津マップ


平成30年 お正月

 明けましておめでとうございます。平成30年の幕開けです。今年は戌年、私の干支です。還暦、いえいえもう一回り上、古希を越えました。でも、お蔭さまでまだまだ元気ですので、今年も「土木文化」を探して中部地方各地を歩きたいと思います。皆さまから、“ここにこんな施設があるよ” とのお声を期待しています。
 年の始めですので、何かお正月らしい話題をと考え、植物の名に「犬」を用いた木や草があることに気づきました。手持ちの写真を探したところ6種類が見つかりましたのでご紹介します。
◆ イヌマキ・・・マキ科の常緑樹、暖地の山林に自生する。庭木やミカン畑の生垣などに利用され  
 る。実が面白く、コケシのような形をしている。果托は赤く熟し、甘くて食べられる。
◆ イヌビワ・・・クワ科の落葉樹、暖地の海岸近くに自生する。「ビワ」と名付けられているが、 
 イチジクに近い仲間で、小さな実がよく似ている。枝を切ると白い乳が出るのも同じ。
◆ イヌナシ・・・バラ科の落葉樹で、この地方にだけ自生する。ナシの野生種で、実は小さいけ 
 れど梨と同じ形をしている。春に白い花を着けて美しい。東山公園のボート池畔にある。

イヌG

 「イヌ」と呼ばれる植物は、“役に立たない” といった意味を持つ。しかし、それは人間にとって有用か否かによって名付けられたもので、植物に罪はない。人の気づかない環境面で有意義だったり、あるいは将来、品種改良の母体になるかも知れないし、新たな薬用成分が発見されるかも知れないのである。
◆ イヌタデ・・・タデ科の一年草、田の畦などに多い。ヤナギタデは、刺身のツマなどに利用され 
 るが、このタデは役に立たない。しかし赤マンマと呼ばれて「おままごと」使われている。
◆ オオイヌノフグリ・・・ゴマノハグサ科の二年草。早春、畦道に生え空色の小花をつけている。 
 “根ざす地の 温みを感じ いちはやく 空いろ花咲けり みちばた日なたに” 木下利玄の歌。
◆ エノコログサ・・・イネ科の一年草、野原でよく見かける。エノコロは “いぬころ” の意味で穂が犬の 尻尾に似ているから。この穂を使って猫をからかうことから、ネコジャラシとも呼ぶ。

イヌH

龍潭寺の庭園

 龍潭寺の歴史は古く、寺伝によれば奈良時代に行基が開創したとある。宗派は禅宗、臨済宗・妙心寺派に属する。平安時代には、井伊家の元祖・共保が生まれ、この地を治めた。また、南北朝時代には、後醍醐天皇の皇子・宗良親王がこの地を拠点として、北朝方・足利氏と対峙していた。龍潭寺は、宗良親王および井伊家の菩提寺となっている。
 本堂の北側に、小堀遠州の作といわれる庭園がある。縁側、雨落の砂利、芝生があって、池、石組みと刈り込み、そして後背の樹林へと続く禅の庭である。季節によって、春はサツキが咲き、秋にはドウダンツツジやカエデの紅葉が彩りを添える、石と花の名園である。次の写真は、庫裏の北側に突き出した書院から見た景色である。遠近法を巧みに用い、手前に石を多く見せ、遠方には刈り込みを多く使っている。視線の先は、井伊家1000年40代の位牌を祀る御霊屋の方形屋根で終わっている。

龍・庭A

 池は 「心」 の形をした 「心字池」 になっている。庭の中心にある小山には、大きな立ち石と二つの脇石からなる守護石が据えてある (下中央の写真)。池の手前にひとつだけある平らな石は、その上で座禅を組む 「座禅石」 で「礼拝石」ともいう。
 向かって左側は松の木をあしらった 「鶴」 の石組みであり (左の写真)、右側の石組みは 「亀」 を模している (右の写真)。庭の両端には守護石を守るための大きな立ち石があり、「仁王石」 と呼ばれている。
 小堀遠州は近江・長浜の出で、「遠州流」 の茶道を興した戦国から江戸時代初期にかけての文化人である。京都二条城の二の丸庭園を造るなど作庭者としても力量を発揮した。龍潭寺庭園は、国の名勝に指定されている。

龍・庭B

岐阜・橿森神社

 岐阜は織田信長の町である。桶狭間の戦いに勝利した後の永禄10年 (1567)、濃姫の父・斉藤道三を滅ぼした斉藤龍興を破って居城を稲葉山城に移した。この城を岐阜城と改名したが、これが岐阜の初まりである。今年は、この年から数えて450年目に当たることから、市内では各種の記念イベントが開催されている。
 山頂に岐阜城を擁する金華山の南山麓に、橿森神社が鎮座している。「御園」 と呼ぶこのあたりに、信長は 「楽市楽座」 を開いた。既存の独占販売権などを廃して自由に商売のできる、今で言う規制緩和の政策である。これにより岐阜には商人たちが集まることとなり、町は大繁盛することとなる。

岐阜マップ

 楽市の中心に 「市神」 として聳えていたエノキ (下右の写真) が、神社の前に残っていて町の移り変わりを見守っている (代も位置も変わっているようだが)。信長のもたらした繁栄が、今も柳ヶ瀬などの町に引き継がれているのであろう。商業だけでなく文化という面で、お寺もこの山裾に数多く存在する。
 鳥居の横にタブノキの大木があり (下左の写真)、しめ縄とともに説明板も設置されている。この神社の名前は 「橿森」 であるが、「橿」 の字は 「樫 (かし)」 と同じであり、常緑広葉樹のカシを表している。金華山の山を覆うのは、シイやタブ、カシを中心とした照葉樹であることが 「かしもり」 の由来であろう。ここの森林は、暖地に成立する照葉樹林としては、かなり北に位置している。

岐阜G

平成記念公園「日本昭和村」

 天皇陛下のご退位が決まって、いよいよ平成の御世も終わることとなる。今朝の新聞報道によれば、再来年の4月には新しい年号になるようである。美濃加茂市に岐阜県の整備した 「平成記念公園・日本昭和村」 がある。平成が過去のものとなりつつある今、「明治」 と同じように 「昭和は遠くなりにけり」 といわれるようになるのであろうか。
 この公園は、昭和30年代の里山をイメージしたもので、広大な園地の中にレストランやショップがあり、SLの形をした園内バスで回ることができる。ここでは、懐かしい時代のいろいろな体験もできることが売りである。囲炉裏のある工房で機織や染色、登り窯やろくろを使っての陶芸教室、広い厨房でパン焼きや蕎麦打ち体験などである。

昭和村G

 村の入口近くに、巨大な 「桂化木」 が展示されていた。この公園内の2000万年前の蜂屋累層という地層から発見されたものである。桂化木とは、火山灰などにより立ったまま埋もれた樹木が、地層中のシリカ (二酸化珪素) に置き換わったものだという。
 樹種は 「メタセコイア」 だと考えられている。この植物は 「生きている化石」 と呼ばれている。最初に報告されたのは化石の中に閉じ込められた葉で、1941年に大阪の三木茂博士が発見した。恐竜などと同様に古代に絶滅したとものと考えられていた。ところが、1945年になって中国揚子江奥地で、この植物の林が発見されて世界中の話題となったのである。
 日本へは、1949年にアメリカから挿し木苗100本が送られてきた。貴重な植物であるので、全国の研究機関や植物園などに分け与えられた。東山植物園へは3本送られており、そのうちの1本が合掌造りの家近くで大きく育っている (下の写真)。繁殖は挿し木や実生により容易にできるので、現在では多くの公園や高速道路のインターチェンジなどに植えられている。

昭和村マップ


防災公園「米野公園」

 向野橋を北に向かって渡り、しばらく行くと現在整備中の 「米野公園」 に至る。この地域は、戦前の耕地整理によって生み出された住宅地が多く、戦災復興や区画整理事業のはざまにあって、建物の老朽化が進んでいた。また、近くに大きな公園がなく、中村公園・白川公園といった広域避難場所へも2km以上離れている。
 以前、「東京の清澄庭園」 (平成26年9月1日=防災の日) の項で掲載したように、いざ大震火災が発生したときに、特に木造住宅密集地では緑豊な広い公園が避難場所として必要である。この地域は長い間、公園整備が望まれてきたが、ようやく現在、整備が進んでいるのである。

米野マップ

 計画面積3.2ha、「防災都市づくり計画」 のひとつに位置づけられ、「住宅密集型公園」 として整備されつつある。公園の中央にある広場は、周囲より一段低くなっており、大雨のときに公園内に降った雨を外に出さないようにできている。
 園路の脇に並んでいる木製のベンチは、「かまどベンチ」 との表示がある。地震などにより焼け出された避難民が、ベンチの座る部分を撤去すると、下から竈 (炉) が出てくる構造である。舗装園路の中ほどにマンホールの蓋のようなものがあるが、これは災害時のトイレである。園内の防災倉庫の中に、便座や組み立て式カーテンなどが入っていて、即席のトイレができるのである。今から20年前の大地震の直後、神戸を視察したことがあるが、一番困るのは水とトイレであるとの話を聞いた。

米野D

野村一里塚

 亀山宿と関宿のちょうど中間点に 「野村一里塚」 がある。このあたりの旧東海道の沿道は住宅地となっており、いにしえのイメージは湧いてこないが、この一里塚の存在でここに街道が走っていたことを思い知らされる。 
 とにかく巨大なムクノキである。幹周り約6m、高さは33m、さえぎる物がないので枝を四方に伸ばしている。土盛りもしっかり残っていて、巨木の根が塚を鷲づかみにしている。慶長9年 (1604) 家康の命により、亀山城主・関氏が築造したものと言われている。もとは街道を挟んで両側に一里塚があった。左側はエノキで、“左榎・右椋”と言われていたが、今はムクノキだけになってしまった。

野村一里塚A

 このブログは、2年前から 「旧東海道のシリーズ」 を書き連ねてきました。最初の稿で名古屋・熱田の 「笠寺一里塚」 を取り上げました。そこから東へ向かい、尾張・三河・遠江・駿河を歩き、東の終点は江戸日本橋まで行き着きました。その後は桑名から伊勢の国を西に向かい、ここ関宿まで辿り着くことができました。
 せっかくですので、西の出発点・京都三条大橋も尋ねてみたいと思っています。旧東海道の見て歩きはこれで終わりますが、4年間続けている 「土木文化見てある記」 は、まだまだ続きますのでご愛読のほどよろしくお願いします。下の写真は出発点の 「笠寺一里塚」 のエノキの大木です。現存する一里塚としては、この野村の一里塚とともに双璧だと思います。

野村一里塚B(笠寺

ワイルドフラワー・ガーデン

 「ワイルドフラワー」 を直訳すると 「野生の花」 という意味になるが、ここでは、種蒔きにより花壇をつくる造園手法をいう。園芸品種や外国産の植物も混ぜられているが、野性的な雰囲気をもつ草花の種を使用する。もともとはアメリカで発達した景観形成技術で、公園やインターチェンジなどの広い区域を、やや粗放的な管理により美しい花畑にしようとする手法である。
 潮見埠頭・新名古屋火力発電所の構内に 「名古屋港ワイルドフラワーガーデン」 がある。愛称は 「ブルーボネット」 と呼ぶ。園名のとおり、ワイルドフラワーをテーマにした自然風庭園で、季節ごとに色々な花を鑑賞できる22の小庭園で構成されている。

ワイルドフラワーA

 平成14年4月に、創立50周年を迎えた中部電力の記念事業として開園した。緩やかな流れのある 「花の谷」 を中心に、500種類を越える樹木や草花が栽培されている。園内のあちこちには、お洒落な園芸を目指して、色の組み合わせや植物の性質に配慮した花壇・コンテナ (鉢植え)・ハンギングバスケットなどが飾られている。
 面積は約4haとあまり広くはないが、きめ細かい手入れが施されているので、園芸好きな人々が数多く訪れる。また、明るく見通しがいいので、デイサービスのお年寄りたちの来園も多い。伊勢湾岸道路のインターから近く、金山や新瑞橋からの直通バスもあり、駐車場も充分に広いけれど、都心からの距離が遠く感ぜられるのか、入場者は年間8万人ほどと伸び悩んでいる。
 私ごとですが、平成19年から5年間、このガーデンで仕事をさせていただきました。
 ≪このブログに張ってあるバナー「園長さんのガーデンライフ」を参照してください≫

ワイルドフラワーB

志賀公園のラジオ塔

 名古屋市北区、名古屋城の北方に志賀公園がある。面積約5haの地区公園で、昭和の初期に、西志賀土地区画整理組合から寄付された敷地を核に整備された公園である。水と緑の豊な公園で、野球場やミニスポーツ広場、花や彫刻を見て歩く散策園路などが備わっている。
 その樹林の一角に、コンクリートづくりで高さ3mほどの施設がある。同じようなものを中村区の中村公園でも見たことがあり、何かなぁと思っていたところ、昨日の中日新聞の記事で知ることができた。地元の自治会長さんたちが疑問に思い、調べた結果 「ラジオ塔」 だということが分かったという。調べるきっかけになったのは、“写真を撮りにきた男性が住民に質問した” と記事にあるが、ひょっとしたらその男性とは私のことかもしれない。

志賀公園マップ

 ラジオ塔とは、戦時中までに全国に建てられたもので、上部に置いたスピーカーからラジオ放送を流し、住民が体操をしたりスポーツ中継を聞いたりしたものである。戦時中は、大本営発表など戦意高揚にも使われていたという。終戦の玉音放送も流れたかもしれない。全国に460か所建てられたが大半は撤去され、現在残るものは数少ないとのこと。
 公園の中央部に、柵で囲まれた立派な石碑が建っている。これは、この地の屋敷に住んでいた織田信長の忠臣 「平手政秀」 の記念碑である。よく大河ドラマなどで、信長の若いころは行状が悪く、父信秀の葬儀で位牌に灰を投げつけるなどのシーンが描かれる。信長の補佐役だった政秀は行く末を案じ、自害してこれを諌めたという。歴史ある公園には、いろいろな物語が残っている。

志賀公園C

地下街の花飾り

 サカエチカのクリスタル広場の中央には、長い間、ガラスのモニュメントが設置されていたが昨年秋に取り外され、その後は催し物などのできるフレキシブルな空間に整備される予定である。サカエチカの全面的リニューアルが完成するまでの間、いろいろな展示・修景が行なわれるが、現在は、「菜の花畑」 になっている。
 郊外のマンションから地下鉄に乗り、都心のオフィスで一日を過ごすといった都会の現代人にとって、自然や農村風景に接する機会は多くない。サカエチカでは、1日10万人もの通行者に、少しでも季節感のある景色を味わっていただこうと、根の付いたナノハナの花壇をつくったのである。ナノハナの苗は、渥美半島観光ビューローが行なっている 「渥美半島菜の花まつり」 ≪1月14日(土)~3月31日(金)≫ の会場から分けていただいた。地下街という日光の当たらない場所で植物を育てるため、LED照明による「植物育成ライト」 を使用している。

サカエチカ菜の花A

 下左の写真は、昨年11月から12月にかけてクリスタル広場に飾られた 「フラワーツリー」 である。金属製の枠組みに組み込まれたカセットに、鉢植えの草花を横向きに植え込む立体花壇である。クリスマスのシーズンだったので、クリスマスツリーにも見えるような植栽とした。草花の種類はプリムラとヘデラである。
 右の写真は、栄交差点から地下街へ降りる8か所の階段に設置した 「フラワーボール」である。これもカセット式の立体花壇である。自社の地下街入口を飾るとともに、栄の街を少しでも綺麗にして市民の潤いにしたいとの栄地下センター ㈱ の思いから実現した施設である。これらの企画・設計および植栽・管理は筆者とその友人たちにより行なわれている。

サカエチカ菜の花B

太田宿のヤドリギ

 脇本陣の隣に中山道会館 「宿り木」 があり、その広場に大きなエノキがシンボルツリーとして聳えている。この老大木は美濃加茂市の保存樹に指定されている。興味深いことは、エノキだけでなく、この樹に寄生しているヤドリギも含めて保存が定められていることである。
 エノキの大木も貴重であるし、ヤドリギも珍しい植物であるので、両者を合わせて保存樹に指定したと思われるのだが、今、困った状態になっている。それは、ヤドリギが繁茂しすぎてエノキの樹勢が弱ってきていることである。現在、樹勢回復の方法を探るため、樹木医に依頼して調査を行なっているとの標示が出されていた。

太田宿ヤドリギマップ

 エノキには野鳥の好む実がたくさん成るし、ヤドリギの実も小鳥に餌を運んでもらうために美味しい果実を枝いっぱいに実らせる。越冬のために飛来してくるヒレンジャクなどの野鳥が、この実を目的に集まってくるという。保存は、そのような自然環境全体を保護しようとするものであろう。
 他の樹の枝に自分の根を食い込ませ、水分や養分を奪い取る 「寄生植物」 は、鳥によって種を運ばせるものが多い。「ヤドリギ」 は、エノキやサクラなどに寄生し、大きな球形の株になる。鳥の糞により、高い位置の枝に付着して発芽する。「ヒノキバヤドリギ」 は、ヒノキの葉に似た形の小さな植物で、ツバキやアセビに寄生する。小さな種子は弾けて飛び出し粘質物で近くの枝に着く。グミのような赤い実を付ける 「マツグミ」 は、マツやモミなどに寄生する。以前、御油宿の東海道松並木でご紹介した。(2015・7・21の記事参照)

太田宿ヤドリギE

椙山女学園の五輪記念樹

 この夏のリオデジャネイロ五輪で、金藤理絵選手が女子200m平泳ぎの金メダルを獲得した。今から80年前・昭和11年 (1936) のベルリン五輪でも、同じ200m平泳ぎで優勝した選手がいる。“前畑、頑張れ!” のラジオ放送でも有名な前畑秀子選手である。
 前畑選手は、名古屋市の椙山女子専門学校に在籍していた。この学校は、明治38年 (1905) 名古屋裁縫女学校として創立し、戦後に中学校・高等学校・大学を続けて開校した名門校である。

椙山E

 このオリンピック大会では、優勝者に金メダルとともにカシワ (正確にはヨーロッパナラ) の苗木が贈られた。これは、血の出るような猛練習を繰り返し、ついにゴールドメダリストになった人々を、嵐に倒れても倒れても芽を吹きなおして大木に成長するカシワの木になぞらえたものである。
 前畑選手は、この記念の苗木を母校の椙山女学園 (千種区山添町) に植栽した。当初のものは枯れてしまったが、現在は2代目が正門近くに育っている。その近くには前畑選手と、やはりオリンピックで活躍した同郷 (和歌山県橋本市) の小島一枝選手とが並んだ胸像が立っている。

椙山マップ

三嶋大社のキンモクセイ

 三島は、伊豆国の国府があった地であり、三嶋大社は伊豆国の一宮であった。源頼朝が平家討伐の旗揚げをしたとき、この社で源氏再興を祈願したことは有名で、その多くの史料が今も宝物殿に収蔵されている。
 大鳥居の南を東海道が東西に走っており、旅人からも崇敬を集めていた。三島の町は、宿場町であり、門前町でもあった。鳥居をくぐると鬱蒼とした参道があり、拝殿の奥に本殿がある。拝殿や本堂などは、国の重要文化財に指定されている。

三嶋大社E

 本殿に向かって右側、石造りの柵の中に、根元周りが3mを越える、「キンモクセイ」 としては巨大な樹がある。樹齢1200年ともいわれる老木で、国の天然記念物に指定され、また、「日本の名木百選」 にも選ばれている。
 キンモクセイとは呼ばれているが、植物分類的には近縁の 「ウスギモクセイ」 という種類である。9月の上旬と下旬の2回花が咲き、開花時にはあたり一面、2里 (8km) 四方まで芳香が漂うといわれている。昭和60年代に樹勢が弱り、枯損の危機を迎えたが、土壌改良などの手当てをした結果、今では回復の兆しを見せている。

三嶋大社マップ

楽寿園

 三島駅のすぐ南に、うっそうとした森がある。ここは、明治維新で活躍した皇族・小松宮親王が明治23年に造営した別邸である。「楽寿園」 といい、昭和27年からは三島市が管理運営する都市公園である。自然林も残した庭園は、名勝だけでなく天然記念物にも指定されている。
 庭園の中ほどにある池は小浜池と呼び、富士山からの伏流水により満々と水を湛えていた。しかし、昭和30年代中ごろからの地下水汲み上げなどにより、満水となることが少なくなってしまった。私の訪れた日も水位20cmほどで、ほとんど池底が見える状態であった。

楽寿園マップ

 池の畔に建つ瀟洒な建物は「楽寿館」といい、京間風の高床式数寄屋造りである。明治20年代の日本画壇を代表する、野口幽谷などが描いた襖絵や天井画などが飾られている。建物は三島市の、絵画などは県の文化財に指定されている。
 庭園の樹木は、この地に自生する樹木を活かしながら、要所要所に庭木を植えたものである。姿形のよい赤松も多く植えられているが、その内の何本かがマツクイムシのせいで元気のないのが気になった。熔岩の上に重なるように根を伸ばした樹木も多く、この庭の古さを示すとともに 「根張り」 の見所にもなっている。

楽寿園D

鶴舞公園の青年団令旨碑壇

 鶴舞公園に、「歴史散歩」 というコースがある。順路に沿って歩くと、100年を越える公園の歴史を知ることができる。スタートはJR中央線鶴舞駅近くのガード、鉄橋の梁に掲げられた 「公園名の扁額」 (陸軍大将桂太郎の揮毫) である。明治42年につくられた噴水塔や奏楽堂を巡って最終16番目に 「青年団令旨碑壇」 が陸上競技場の東端に建っている。
 これは昭和5年に、青年団のスポーツ精神を高揚するために建てられたものである。“国運進展ノ基礎ハ青年ノ修錬ニ・・・” などと書かれているが、文字盤が破損していてよく読めない。よく見ると、名盤は粘土でできているようである。

鶴舞歴史A

 これは、戦時中の金属回収により供出された結果で、その代用として焼き物が貼り付けられたものである。緑化センターの北側には普通選挙法の施行 (大正14年) を記念して建てられた 「普選壇」 がある。こちらも同じように金属回収されたが、昭和42年に青銅版として復元されている。
 鶴舞公園のシンボルでもある噴水塔も例外ではなかった。頂上で水を噴出する水盤も青銅でできているという理由で供出させられてしまった。ようやく復元されたのは昭和52年、地下鉄工事が終わって、噴水が全面復旧されたときである。
 今では「青年団令旨碑壇」のみが、戦争の傷跡を残しているといえる。

鶴舞歴史マップ

笠寺公園 高射砲陣地跡

                                           ≪再掲:2014・8・9≫
 今日8月15日は、71回目の終戦記念日です。戦争を体験したことのない世代が大半を占める今日ですが、戦争を体験した方々の声に耳を傾けるとともに、残されている戦争の傷跡からも学ぶことが多くあると思います。そうした目で見てみますと、名古屋にも沢山の痕跡が残っていますのでご紹介しましょう。

  見晴台は、笠寺台地の東南端にあり、かつては海 (年魚市潟=あゆちがた) に突き出た半島でした。ここには古くから人が住みつき、弥生時代から古墳時代にかけての集落跡が発掘されています。鎌倉時代から室町時代にかけては、隣接する笠寺観音の寺地として、お寺関係の住居群があったといいます。現在は、笠寺公園となっていて、その中心に見晴台考古資料館が建っています。

笠寺高射砲台マップ

 この台地は、海抜15mほどと周りより高いので、戦時中には高射砲陣地として使われました。昭和17年 (1942) に一個中隊が配備され、八八式7.5cm高射砲6門が設置されました。現在は2基の砲座跡 (上の写真) と砲側弾薬庫 (下の写真) が残っており、悲惨な戦争を忘れないための記念施設として保存されています。

笠寺高射砲台B


千種公園の弾痕碑

 「都市公園」 は、面積の大きい全市的なものから、面積は小さいが身近な公園まで、いくつかの種類に分類されている。大きなものは、鶴舞公園や名城公園のような 「総合公園」、瑞穂公園のような 「運動公園」、東山公園のような 「動植物公園」などである。
 地域に根ざした公園では、面積0.25ha程度で遊具と小広場のある 「街区公園」、面積2haほどでソフトボールぐらいのできる 「近隣公園」、野球場やテニスコートなどのある面積4haほどの 「地区公園」がある。名古屋市の千種公園は約6haの地区公園であり、年輪を重ねた大木や「ゆりの花園」などもあって、地域の人たちの憩いの場所になっている。

千種公園マップ

 ゆり園の近くに、古びたコンクリート塀が立っている。よく見ると古いだけでなく、直系10cmほどの丸い穴がいくつか空いている。説明板によれば、この穴は機関銃によるもので、昭和20年3月の空襲時にできたものだという。この地には大正8年より 「名古屋陸軍造兵廠千種製造所」 があって、この塀はその外壁であった。この空襲により、ここで働く69人の尊い命が奪われてしまったのである。戦争の惨禍を忘れずに永遠の平和を願うため、この地に記念碑として残されている。
 今日8月6日は広島に、9日は長崎に原爆が落とされた日である。8月15日は、太平洋戦争終戦の記念日である。

千種公園C

吉原宿の本国寺とバクチノキ

 田子の浦湾の北方、少し小高い山裾に吉原宿がある。この宿は3度におよぶ津波のために移転を余儀なくされ、東海道を迂回させて今の地に整備された。宿の中には多くの寺社があるが、その中に成就山・本国寺という日蓮宗のお寺がある。日蓮宗は鎌倉時代に起こり、総本山は甲斐の身延山にある。山梨県や静岡県で寺院数の割合が高いといわれ、吉原宿の辺りでも多く見かけた。
 本堂の脇に特色ある樹木を見つけた。バクチノキという名前で、意味は「博打の木」である。牧野図鑑によれば、“樹皮がはがれて朱色の木肌が表れるのを、賭博に負けて丸裸になった人” になぞらえたものだという。確かに、幹肌は鮮やかな朱色である。

本国寺マップ

 分類的には、バラ科の常緑樹である。小さな花が穂になって咲くのでサクラには見えないが、葉の付根に密栓があるのを見ると、確かにサクラの仲間だと実感できる。房総半島以西の暖地に、稀に自生するとあるが、これまで見たことはほとんどない。唯一、鹿児島の薩摩藩主の別邸 「磯庭園」 で大木を見たことがある。ユニークな名前とともに、印象深い樹木である。

本国寺A

外宮勾玉池の花菖蒲園

 伊勢市駅を降りて、商店街を500mほど歩くと外宮の入口広場に至る。火除橋を渡ると、いよいよ外宮 (豊受大神宮) の神域である。橋を渡ったすぐ左に手水舎がある。参拝者は、ここで手や口を清めて参道を進んでいく。自然に左側通行になるが、内宮では手水舎が右側にあるので、こちらでは右側を歩くことになっている。
 手水舎のさらに左奥に、大きな池がある。空から見ると勾玉の形をしているので 「勾玉池」 と呼ぶ。この池は、明治になって造られたものである。池畔にはたくさんの花菖蒲が植えられていて、6月に見事な花を見せてくれる。池の南側には、照葉樹林 (西日本の暖地における本来の植生) に覆われた高倉山を見ることができる。

外宮花菖蒲園マップ

 花菖蒲は、日本に自生するノハナショウブを原種として、江戸時代以降に改良が進められた園芸品種群を指す。大きく3つの品種群に分けることができる。ひとつは、江戸で旗本・松平菖翁が作出した品種群で 「江戸系」 と呼ぶ。次は肥後の細川氏が菖翁からもらい受けて、地元で改良したもので「肥後系」という。3つ目は、「伊勢系」で、松阪を中心に伊勢地方で育てられたものである。松阪近くの斎宮周辺には、野生のどんど花 (ノハナショウブ) の自生地が多かったことを考えると、この地方では花菖蒲の栽培が盛んだったであろうと想像できる。

外宮花菖蒲園A
≪左の写真は平成20年の航空写真 右の写真で奥に見える建物は、今回の遷宮をきっかけにつくられた「せんぐう館」≫

斎宮跡

 近鉄山田線、伊勢市駅と松阪駅の中間に 「斎宮駅」 がある。駅の東側一帯が 「斉王」 の暮らした 「斎宮 (さいくう)」 である。「斎王」 とは、天皇に代わって伊勢神宮に仕えるために、都から派遣された女性のことである。天武天皇の御世 (670年ごろ)、娘の 「大来皇女 (おおこのこうじょ)」 を送ったのが最初で、660年後の制度廃止までの間に、60人の斎王が記録されている。
 斎王に仕えた役所は 「斎宮寮」 と呼び、発掘調査が行なわれている最中である。多くの役所が建ち並んでいて、120m四方の敷地が東西7列・南北4列、碁盤目状に並んでいたものと考えられている。9世紀ごろに建てられたもので、長官が重要な儀式などを行なった建物3棟が、平安時代初期の様式で復元されている。

斎宮E

 斎宮駅のすぐ東側の広大な敷地の一画に、当時の情景を再現したジオラマが設置されている。カメラでアップすれば、本物とも見間違うほど精巧にできており、王朝貴族の人形も再現されていて、平安時代を偲ぶことができる。また、「いつきのみや歴史体験館」 や 「斎宮歴史博物館」 もあって、斎宮のこと全てが解る情報センターになっている。

斎宮マップ

清見寺庭園と五百羅漢

 清見寺本堂の北側、急峻な山地との間に池と砂利とで構成された明るい庭園がある。江戸時代初期に築庭され、中期にさらに手が加えられたと伝えられている。家康は殊の外この庭を愛し、駿府城より虎石・亀石・牛石を移してこの庭に配したという。
 池は、ひょうたんの形をしており、真中に石橋が架けられている。前面の砂利敷きは 「銀砂灘」 と称して、月明かりを楽しんだものと思われる。現在、国の名勝に指定されている。

清見寺G

 本堂の横手の斜面に、五百羅漢の石像が並んでいる。五百羅漢尊者は釈迦如来の弟子で、仏典の編集護持に功績のあった方々である。この石像群は江戸中期の天明年間に彫造されたもので、作者は明らかでないが、稀に見る傑作だと賞せられている。
 島崎藤村は、『桜の実の熟す時』 という小説の最後の場面で、この石像のことを語っている。要約して再現すると “興津の清見寺の、本堂の横に苔の蒸した石像があった。・・・誰かしら知った人に逢えるというその相貌を見て行くと、あそこに青木がいた、市川がいたと数えることができた。・・・”
実際、一体一体を見ていくと、それぞれが異なる顔付や表情であり、どこかで見たような顔ばかりが並んでいる。

清見寺H

曼荼羅寺公園のフジ

 江南市にある曼荼羅寺公園は、尾張の名刹 「曼荼羅寺」 境内約4haの内にある。ここでは毎年、津島の天王寺と並ぶ 「二大藤まつり」 が開催される。4月中旬から5月上旬までが見ごろであり、同時にボタンやツツジの花も見ることができる。
 園内に設えられた藤棚は4500㎡と規模が大きく、九尺藤をはじめ野田藤、カピタン藤 (山藤)、八重咲きなど品種も多い。紫・白・ピンクなどの色も豊富であり、特に房の長い花は見事で、まるでオーロラ (見たことはないが) のように揺れている。あたり一面に、甘い香りが漂っている

曼荼羅寺A

 曼荼羅寺は後醍醐天皇の勅願寺で、正中元年 (1324) から5年をかけて造営されたという。唐門をくぐると、塔頭寺院8寺が甍を並べ、その奥に曼荼羅寺正堂が建っている。現在の建物は寛永9年 (1632) に、阿波国主・蜂須賀氏が寄進したものである。入母屋造り、総檜皮葺きで間口13間という重厚なもので、国の重要文化財に指定されている。

曼荼羅寺マップ

亀崎海浜緑地(人工海浜)

 日本一古いといわれる武豊線亀崎駅 (このブログ2013・04・09参照) を降り、掘割を通り抜けると海岸通に至る。ここで毎年5月3日・4日の両日行なわれる 「潮干祭」 は、かつて 「県社」 にも格づけられた 「神前(かみさき)神社」 の祭礼である。その昔、神武天皇東征の折、海からこの地に上陸したとの伝説に因み、5輌の山車を潮干の浜に曳き下ろすことからこの名がついている。
 曳き下ろしを行なう海岸は、かつては堤防がなく、人家の石垣がそのまま波に洗われていた。ところが昭和34年の伊勢湾台風により、海岸沿いの民家は高潮に飲まれてほとんど倒壊してしまった。その後の復旧工事により高い堤防ができたため、この祭礼最大の見せ場である曳き下ろしはできなくなってしまった。その復活は平成5年、堤防にゲートを設けて人口海浜を造成するまで、30年以上の歳月を待たねばならなかったのである。

亀崎祭りA

 この祭の山車は、知多半島中部から南部に広く伝わる 「知多型」 と呼ばれる形態である。構造は、上山と胴山の二層に分かれ、上山には唐破風の屋根がついている。胴山を構成する梁や柱には、細緻な彫刻が施されるとともに、側面と後方の幕は金糸銀糸による豪壮な刺繍で飾られている。かつてこの地を訪れた永六輔氏は、「山辺の高山、海辺の亀崎」 とこの見事な山車を讃えている。
 平成18年に地元の念願が叶って、山車を含めた祭全体が国重要無形民族文化財に指定された。私事ではあるが、筆者は中学生になるまでこの地で育ち、法被を着て山車を曳いたこともある。

≪下左の白黒写真は、平成17年に刊行された 「亀崎潮干祭総合調査報告書」 から抜粋した。下右の図面は、平成18年に配布されたパンフレットから写したものである。≫

亀崎祭りB

蛇池公園の桜

 名古屋市西区の庄内川の北に 「蛇池公園」 がある。正式には洗堰緑地の一部であるが、堤防の陸側にあり、河川敷側の緑地と区別するために別の名前で呼んでいる。中央に 「蛇池」 という、信長にまつわる故事をもつ池があることから、古くから地域の人たちに親しまれてきた。
 洗堰緑地から新川にかけての堤防に、500本以上の桜並木があった。地元の人たちが植え、「守る会」 をつくって育てた樹齢70年を越える老樹である。ところが、平成12年の東海豪雨の際に、新川の堤防が壊れて大きな被害が出たことをきっかけに、全て伐採されることになった。新川の堤防は、掘り上げた砂質の土をそのまま積上げた状態だったので、非常に脆弱である。補強するにはシートにより覆う必要があり、そのためには桜は切らざるを得ないという理由である。

蛇池マップ

 そうした中で、蛇池公園に接する部分だけでも何とかならないかという声が上がってきた。公園側に土盛りして、堤防幅を倍にすれば豪雨による決壊も防げるし、桜も残すことができるのではないかというアイデアである。桜を愛する地元、河川管理者の愛知県、公園を管理する名古屋市が何度も相談を重ねて、約80本を残すことにしたのである。
 堤防補強工事から約15年が過ぎた現在も、蛇池公園のサクラは元気である。新しい堤防の上は芝生地となっていて、格好のお花見場所になっている。一般にソメイヨシノは寿命が短く、5~60年で衰退してしまうのではという見方もある。しかしここでは、植栽地の土壌条件が良く、育成管理も行き届いているため、まだまだ健全な樹勢を見せている。

蛇池B

根尾谷の淡墨桜

 大垣から樽見鉄道に乗り、終点の樽見までは約1時間の電車旅である。前半は平坦な田園地帯、まだ少し花を残したソメイヨシノや、新葉を開いたばかりの柿の果樹園が眼に入る。途中に、大きなスーパーマーケット 「モレラ岐阜」 の駅や、「織部の里もとす」 近くの織部駅などがある。
 残り半分は、美しい水の流れる根尾川渓流と交差しながらの山地である。西国三十三霊場として有名な谷汲山華厳寺の最寄り駅や濃尾大地震の折にできた根尾谷断層観察館近くの駅もある。2両編成の列車には、ハイキング姿の乗客が満席状態である。多くは、淡墨桜が目的なのであろう。

淡墨桜1

 淡墨桜は、植物的には彼岸桜の一種 「エドヒガン」 である。しかし、満開の時には薄ピンクだった花びらが、散り初め時になると 「淡墨(うすずみ)」 のような色になる独特の性質をもっている。樹齢1500年ともいわれる老木で、樹高約17m、枝張りは東西・南北ともに20mを越えている。それよりなにより、根元の幹の太さに感動する。背後のお堂近くには、二世の桜も大きく育っている。
 過去には、伊勢湾台風時の枝折れなど、枯死するかと心配されるほどの危機を何度も経験した。しかし、地元民などの熱意により、若木の根接ぎや空洞の外科手術、根元まわりを踏まれないための柵設置などの保護策を施した結果、現在はずいぶんと元気を取り戻している。大正11年に、国の天然記念物に指定された。

≪上の写真は今年4月10日に撮影 下左は5年前の満開時、下右は10年前の夏に撮った写真≫          
淡墨桜マップ

諏訪原城跡

 天正元年 (1573)、武田勝頼は遠州攻略の拠点とするために、牧ノ原台地に城を築いた。城内に諏訪大明神を祀ったことから 「諏訪原城」 の名がついたといわれている。この城は、駿河から遠江に向う要衝の地にあり、掛川の高天神城攻略のための役割を担っていた。
 天正3年に武田軍が長篠の戦いで敗れると、諏訪原城は徳川家康によって攻め落とされ、牧野城と改名されてしまう。天正9年に、家康は武田に奪われていた高天神城を奪回する。翌年、勝頼は甲府にて自害し、武田家は滅亡することとなる。

諏訪原城マップ

 諏訪原城は、武田流の築城術を駆使した壮大な山城である。武田流の築城方法などが記された 「甲陽軍鑑」 にもこの城のことが記されている。大きな特徴に 「丸馬出」 がある。これは、城の出入り口 「虎口」 の前に設けられた三日月型の堀のことで、防御にも出撃にも使われる拠点のことである。
 今、NHKの大河ドラマで 「真田丸」 が人気を集めているが、真田幸村が大阪城の出城として構築し、徳川軍を大苦戦させた真田丸もこの形式だったと考えられている。
 諏訪原城跡は、現在、国の史跡に指定されている。

諏訪原城C

事任八幡宮の大木

 この神社の創立は未詳であるが、延喜式 (927) に「坂上田村麻呂東征の大同2年 (807) に本宮山より遷座」という記事がある。武家の時代になると八幡信仰が盛んになり、康平5年 (1062) に源頼義が岩清水八幡宮を勧進して、八幡宮を併称するようになった。
 江戸期には徳川幕府も信仰し、社殿の改築などを行なっている。明治になって神社ごとに社格が決められ、県社八幡神社と名付けられた。しかし、社格の廃止された戦後は由緒ある 「事任 (ことのまま) 」 という言葉を復活して、「事任八幡宮」 と称している。

事任八幡宮マップ

 神社の歴史の古さは、境内の樹木に現れている。社殿は、うっそうとした古木・大木で覆われているのだ。鳥居をくぐった参道の左にクスノキの大木がある。高さ約31m、幹周りは6mで根の周りは9mもある。枝は三方に広がって、参詣者を包み込むようである。社殿のすぐ右奥にはスギの大木がある。こちらはさらに大きく樹高、太さともクスノキを上回っている。推定樹齢1000年ともいわれ、「八幡宮の大杉さん」 と親しみを込めて呼ばれている。どちらも掛川市の文化財・天然記念物に指定されている。

事任八幡宮A

羽豆神社社叢

 知多半島の先端、師崎漁港を見下ろす丘の上に、羽豆神社が鎮座している。社伝によると、祭神は 「建稲種命 (タケイナタネミコト) 」 で、尾張氏の祖神であるという。名前からみると、稲作農業に縁があるのだろうか。創立は白鳳年間、今から1300年も昔のことである。
 この神社には、「紺紙金字妙法蓮花経」 および 「阿弥陀経」 九巻が納められている。いずれも、現在、県の文化財に指定されている。

羽豆神社マップ

 羽豆神社周辺の岬一帯に広がる樹林は、かつては、ウバメガシやマツの大木が群生し、原生林のような景観を呈していた。しかし、昭和34年の伊勢湾台風により大きな被害を受けて壊れてしまった。今は、ウバメガシやトベラ、モチノキといった樹高の低い常緑樹が群生し、こんもりとした森冠を形成している。それでもこの社叢は、この地域の貴重な自然を残すものとして、国の天然記念物に指定されている。

羽豆神社A

善導寺大楠

 東海道本線 「磐田駅」 は、駅舎や周辺のビルが新しくなり、駅前広場も整備が進んでいる。その新しい町の中央に、並外れて大きなクスノキが聳えている。「善導寺大楠」 と呼ばれているとおり、ここはもともと 「旭光山善導寺」 が建っていたところである。このお寺は、応安4年 (1371) に旭光房が善導大師の像を負って念仏道場を開いたところであるが、昭和42年に他所へ移転した。残された大楠は、現在、駅前広場のシンボルツリーとなっている。

大楠マップ

 この巨木の樹齢は700年と推定されており、胸高直径は2mを越すものと思われる。高さはそれほど高くないが、横に張った太い枝と地面を覆うような根張りが樹齢の古さを感じさせる。伊勢神宮や熱田神宮などでも巨大な老楠を見ることができるが、クスノキが長寿であることには特別な理由がある。台風などの大風のとき、クスノキの小枝はパキパキと折れやすいので、強風が吹く前に吹き飛んでしまい、風圧を避けることにより倒木を防ぐのである。

大楠A

大名庭園

 先日、金山の都市センターにおいて、「尾張の殿様が愛した庭園と園芸植物」 と題してシンポジウムが開催された。これは、日本植物園協会設立50周年の記念事業として企画されたものであり、もりころパークで開催中だった 「第32回全国都市緑化あいちフェア」 の応援事業も兼ねたものである。植物園協会における大きなテーマは、「ふるさとの植物をまもろう」 というものであり、園芸が盛んなこの名古屋が会場として選ばれたのである。
 基調講演は、中京大の准教授・白根孝胤氏による 「尾張徳川家の殿様と庭園趣味」 。名古屋城二之丸庭園や大曽根御下屋敷、江戸の戸山御庭などの紹介が語られた。

大名庭園A
   ≪尾張藩江戸 「戸山屋敷の龍門の滝」 (名古屋市博物館特別展の図録より)≫

 続いて、事例紹介として、江戸時代の園芸文化に詳しい名古屋園芸の小笠原左衛門尉亮軒氏から 「名古屋朝顔」 の話題があり、名城つばきの会会長の岡島徳岳氏からは 「名古屋城御殿つばきと尾張の椿」 についての説明があった。
 最後に、3人の講師を交えたパネルディスカッションが行なわれたが、そのコーディネーターは植物園協会の会員である私が務めさせていただいた。尾張の地は、江戸時代の昔から殿様や家臣、町人から農民に至るまで園芸が好まれ、お城から武家屋敷、寺院や町屋にも庭園や花壇がつくられて、花や樹木が栽培されていた。それは、幕末や明治になって尾張本草学として実を結び、園芸生産日本一の愛知として現在にまで引き継がれている。そのような伝統のあるこの地では、大テーマである “ふるさとの植物、すなわち自然植物だけでなく園芸植物も含めて保存していこう” というのがシンポジウムの結論であった。

大名庭園B
        ≪現在の徳川園 (旧大曽根御下屋敷跡地)・・・これから紅葉が綺麗になる≫

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 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:「園長さんのガーデンライフ」
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