FC2ブログ

Entries

岩倉市自然生態園

 岩倉市の西端部、東名高速道路近くに自然豊かな公園がある。市が「自然との共生」を目指して、固有のビオトープとして整備した。園内には小川や池、湿地などがあり、この地域に自生する木や草が植栽されている。つい最近まで、どこにでも当たり前に生息していた数多くの生き物を呼び戻そうとするものである。
 入口の近くに「ワークハウス」と呼ぶ建物があって、園の概要を説明するとともに昆虫や植物の標本を展示している。橋やあずま屋(休憩所)、草屋根昆虫館などの施設もあって多様な生態を観察できる。面白いのは「こうもりタワー」(写真の矢印)で、三階ほどの高さに小屋があり、小さな穴から蝙蝠が出入りするという。

岩倉自然生態園

 この生態園は、隣接する津嶋社も一体的に利用できるようになっている。この境内の森はいわゆる照葉樹林で、鬱蒼とした常緑樹に被われている。200年を越えるアラカシもあるという。梅雨時のせいかジメジメと湿気が多い。大木の幹にヤモリが這い登っていた。
 一部はモウソウチクの竹林で、樹林と混交している。その中に珍しい現象を見つけた。朽ちて空洞になったアラカシの幹に、モウソウチクが突き抜けて生育しているのだ。どう見ても途中から入り込んだものではなく、根の中央に穴があって、そこからタケノコが入り込んだものとしか考えられない。

街路樹

 行楽のためのドライブをしている時も、ついつい「街路樹」を観てしまう。“剪定のしかたが良くない!”とか“こんな狭い歩道にケヤキを植えるのはかわいそうだ!!” などとつぶやき、“今は仕事の時じゃないでしょ!” と同乗者にとがめられてしまう。
 海外旅行をしていても、公園や街路樹には目が行く。訪れる町は観光地が多いこともあって、どの町も美しい緑を整えている。特に、古い歴史のある町は建物もアンティークで、街路樹とのコラボレーションが通りの魅力を演出している。

街路樹G

 ハンガリーの町に、あまり背の高くない街路樹が一定の整った形で並んでいた。「スタンダード造り」という型式である。バラの仕立てにも使われるが、一本の幹の上に丸く刈り込んだ枝葉が乗る。
 近寄ってよく見ると、背の高さあたりに「接ぎ木」の痕跡が残っている。日本ではあまり取り入れられていない形態だが、さすが古い園芸技術をもつヨーロッパだと感心した。

街路樹H

飯田市「保寿寺」の大桧

 飯田市竜江、天竜川を見下ろす山際に「しゃくなげ寺」としても知られる禅寺がある。「保寿寺」は鎌倉時代以来の歴史をもち、地域の檀家だけでなく「花の寺」として各地からの参詣者も多い。実は、私も檀家の一人であり、石楠花・紅葉・山野草の大ファンでもある。
 本堂の横、高い石垣の下に巨大な一対のヒノキが聳えている。「南山桧」と呼ぶ。幹廻りは4.5mと3.9m、高さは30mほど、樹齢は700年以上という。創建当時から大切にされてきたが、天保15年(1844)の江戸城二の丸普請、また明治14年(1881)皇居造営の用材として求められたけれど、その都度「嘆願書」を差出して保護してきた銘木である。

保寿寺マップ

 高い石段を登ると室町期建造という黒門があり、さらに昇るとやはり江戸中期以来の鐘楼門がある。鐘楼門をくぐってすぐに池があり、斜面一帯に石楠花が群生している。この庭は250年の歴史をもち、古くから実生のキョウマルシャクナゲを育ててきた。高山に自生するこの種が、標高400mほどのこの寺に群生することは稀有のことと考えられている。
 もう一つのこの寺の魅力は、野生の山野草が豊富なことである。いつ訪れても、石段の脇や水路沿いに小さな花を見つけることができる。乾湿や日当たりなどの環境に適応した自然の植生を、丁寧な除草などの手入れにより保護・育成していることが、一目で感知できる。

保寿寺G

月瀬の大杉

 国道153号を飯田方面に向かい、県境を越えてすぐのところ、下伊那郡根羽村に巨大な杉の木がある。「月瀬の大杉」と呼ぶ。幹まわり14m、高さ40m、樹齢は1800年を超えると推定されている。平成元年に行われた環境庁の調査により、長野県で第一の巨木であると確認されている。
 樹形は、杉らしい円錐形で、まだまだ若々しいスタイルを保っている。根元から1本枝が出ているので少し扁平で、その方向から見るとさらに太く見える。少し離れたところに素掘りの水路があり、そこに太い根が洗われて見えている。土壌条件が良くて遠くまで根を張っている様子が見てとれる。

月瀬大杉G

 近くの月瀬神社のご神木として古くから崇敬されてきたが、幾度かの危機はあった。弘化元年(1844)、江戸城本丸焼失後の復興用材として求められ、あるいは明治41年(1908)の村内神社統合の際には売却も検討されたが、住民の団結により回避することができた。昭和19年に、国の天然記念物に指定されており、永久に保存されることとなっている。

月瀬大杉マップ

伊賀上野の「蓑虫庵」

 伊賀上野は三重県の西端のまち、奈良や滋賀に近く伊勢や名古屋ともそれほど遠くない。名古屋から関西本線に乗ると亀山まで1時間、乗り換え時間を含めてさらに1時間で伊賀上野駅に着く。“伊賀”の名のとおり忍者の里であり、近くには甲賀という町もある。
 伊賀上野城の天守閣に登ると伊賀の盆地を見渡すことができる。鈴鹿山脈の西、木津川上流の伊賀川・名張川の流域である。木津川は西へ流れて京都南部で淀川と合流する。緑に包まれた城郭の一角に、檜皮葺き屋根の個性的な「俳聖殿」が見える。これは、芭蕉生誕300年を記念して建てられたものである。

蓑虫庵マップ

 伊賀上野は松尾芭蕉生誕の地で、若き日を過ごした故郷である。上野の町なかに芭蕉の高弟、服部土芳の草庵がある。豪商木津家に生まれ、服部家を継いで藤堂藩に仕えたが30歳の若さで官を退き、芭蕉に師事して俳諧一筋の生涯を送った。
 茅葺き屋根の門と焼き丸太の木塀に囲まれた樹林の中に「蓑虫庵」が佇んでいる。この名は、芭蕉から送られた“みの虫の 音を聞にこよ 草の庵”という句から採ったものである。土芳は芭蕉没後に、芭蕉を顕彰した『芭蕉句集』などを、この庵で編んだ。

蓑虫庵G

教林坊の庭園

 琵琶湖・西の湖の東に安土城があり、さらに東に観音寺の山がある。その山裾の森の中に、“詫び・さびのかくれ里”といわれる通りの「教林坊」がひっそりと佇んでいる。二つの門と本堂、書院と経蔵が狭い庭園を取り囲むような配置で建つだけの小さなお寺である。
 門から書院までの細い苑路に心温まる看板を見つけた。地表に出た木の根を囲むように丸太が縛ってあり、「もみじの根を保護しています」と記されている。住職の、自然や植物に対する愛情が伝わってくる。パンフレットにも、「苔を踏まないでください」などと書かれている。

教林坊G

 由来書を読むと、推古13年(605)に聖徳太子によって創建されたのだという。寺名は、太子が林の中で教えを説かれたことに由来する。葦葺き屋根の書院は、江戸前期の様式を伝える貴重なものである。その裏側に立つ経蔵が、とても良い。田舎家の土蔵のように、壁は漆喰のない荒壁のままである。
 多くの観光客を招きたいと考えていないのか、公開されるのは4月・5月の休日と11月から12月10日までである。この寺を世に紹介したのは白洲正子の『かくれ里石の寺』、その一節がこの寺の庭園を見事に語っている。~~ここで私の興味をひいたのは、慶長時代の石庭で、いきなり山へつづく急勾配に作ってあり~~日本庭園のおいたちを見せられたような気がする~~

教林坊H


季節通信72ノハナショウブ

湖東・西明寺の「蓬莱庭」

 湖東というのは琵琶湖の東、名古屋側から見ると鈴鹿山脈を超えた山裾一帯のことである。昨秋、紅葉の綺麗な3つのお寺巡りをする日帰りバスツアーに参加した。お仕着せにはなるが、自分の車で探し歩くより気楽で簡単に行ける。昼食にビールが飲めるというのも楽しみのひとつになる。
 西明寺は承和元年(834)に、伊吹山を開山したことでも知られる三修上人が開いた。現存する本堂、三重塔(いずれも国宝)は鎌倉時代の建築という。階段の多い長い参道を登ると仁王様の立つ二天門があり、くぐって中に入ると正面に本堂、右に三重塔がある。

西明寺マップ

 二天門の手前に名勝に指定されている「蓬莱庭」がある。心の字を象った池には、中央に折り鶴に模した鶴島、左(上の写真では右下)に亀島が並んでいる。背後の築山にある立石群は、本堂に安置されている薬師如来や日光・月光菩薩などを表すという。まさに蓬莱の庭である。
 境内一帯には歳を経たモミジが多く、紅葉の名所となっている。冬は日本海からの雪があり、一年中湿り気が多いと思われるので、林床は美しいコケで覆われていた。この美しいお寺は、アメリカのニュース専門放送局・CNNのウェブ特集で「日本の最も美しい場所31選」に選出されている。

西明寺G

高月院の土塀と氷池跡

 松平郷の「高月院」は、いつ訪れても気持ちがいい。人が込み合うなどということはないが、今はさらに閑散としている。この静かなたたずまいが好きだ。特に庭園といったつくりはないが、棚田がしだいに下がってくる途中に、土塀に挟まれた参道がある。心憎いばかりの造形である。
 土塀がいい。腰あたりの高さなので、上(右)を向いても下を見ても広々として遮るものがない。ご住職の話しでは、かなり老朽化しているので近々修理するという。国指定の史跡である墓所の石垣修理なども行っているので、古色蒼然とした土塀もイメージを壊すことなく復元されることと思われる。

高月院G

 棚田の一番下あたりは浅い池や湿地になっている。毎年4月には、ここに水芭蕉の花が咲く。尾瀬のような高層湿原に分布する植物であるので、この地はかなり涼しく水がきれいなのであろう。ちょっと山際に入るとこれほど豊かな自然をもつ豊田市を、羨ましく感ずる。
 池の上の石垣に看板があり、「氷池跡」との説明がある。この池では、明治20年ごろから戦争の始まる昭和16年まで、天然氷を生産していたという。1月から2月末までの間に、池に張った氷を3回ほど切り取り、山かげの氷室に保存して夏に岡崎方面に出荷していた。

高月院マップ


建仁寺の庭

◆◆まだ京都を歩いています。ブログ発信のための取材散歩ができませんので、古い京都旅行の“ネタ”を使って書いています。もともと東山植物園や徳川園の設計・計画にも携わってきましたので、日本庭園には興味があり、京都からの先生による講習会もいくつか受講しています。◆◆

 京都での研修で建仁寺を見学した。祇園から花見通りを南へ進んで突き当ると、建仁寺の東の門に至る。門を入って右へ曲がると方丈が見え、その前面に白砂を使った枯山水がある。土塀の真ん中に唐破風の勅使門?があるのは高台寺方丈の庭に似ているが、この波模様の庭園に違和感はない。(単なる好み?)

建仁寺G

 入り組んだ建物の廊下を渡り歩いていくと、方丈の東に小さな中庭がある。「○△□乃庭」と書かれ、見取り図まで記された木製の看板があった。この閉ざされた空間の中に、大宇宙があるという。中央の樹木の根元周りと砂の描く模様が「丸」、石の井戸が「四角」、手前の砂が「三角」になっている。
 説明版には、「単純な三つの図形は宇宙の根源的形態を示し、密教の6大思想(地水火風空識)を地(□)水(○)火(△)で象徴したものとも言われる」と記されている。建仁寺は建仁2年(1191)に栄西が開山したもので、日本で最初の禅寺と言われている。さすが、庭にも禅問答が隠れている。

建仁寺H


季節通信68菖蒲と水芭蕉




高台寺の庭園

 清水寺から八坂神社へ向かう細道は、観光客の最も多い名所である。両側にお店の並ぶ二年坂を過ぎてしばらく進むと「ねねの道」と表示されている。“ねね”はすなわち太閤秀吉の正妻・北政所の名である。その奥まったところに「高台寺」がある。
 このお寺は、北政所(出家して高台院湖月尼と号した)が秀吉の菩提を弔うために開創したものである。造営に際しては、徳川家康が当時の政治的配慮から多大な財政的援助をしたという。当初は壮麗を極めたというが、江戸中期以降度々の火災にあって多くの堂宇を失ってしまった。

高台寺マップ

 方丈の左に入口があり、庫裏や土蔵のある苑路を行くと茅葺の小さな茶室「遺芳庵」(下左の写真)が見える。趣味人である商人・灰屋紹益が、夫人で寛永の三名妓とも謳われた吉野太夫のために建てたものである。書院から開山堂(上の写真)、さらに霊屋(おたまや:秀吉と北政所の木像を安置)は渡り廊下で結ばれている。
 池を渡る途中に「観月台」がある。唐破風のある檜皮葺の建物で庭にアクセントをつけている。この庭園は小堀遠州の作という。ところが方丈の前にも枯山水の庭がある。真っ白な砂に、同心円や波型の模様が描かれている。私は、高台寺全体の雰囲気からは違和感を覚えてしまう。方丈は大正元年に再建されたとあるので、それ以降に造られた現代作家のデザインであろう。

高台寺G

三色咲分けの花桃

 落語に三題噺というのがある。客席から3つのお題をもらい、何ら脈絡のない3つの言葉を結び付けて1つにまとめる即興の落語である。江戸中期の落語家・三笑亭可落が始めたもので、決まりとして「人の名前」「品物」「場所」の言葉を題目とした。
 今ここで、三題噺で遊んでみよう。「桃介」「ハナモモ」「文化のみち二葉館」である。4月中旬から5月初めに、中央道・園原インターから国道256号の清内路にかけて赤・白・ピンク3色に咲き分けるハナモモが見ごろとなる。近ごろ昼神温泉では、春の観光客誘致の目玉ともなっている。

桃介G

 この珍しいハナモモの品種は、福沢桃介がヨーロッパから持ち帰り、南木曽の「桃介橋」(2013・10・20の記事参照)近くにある別荘で大切に育ててきたものである。清内路の人々がその苗をもらい、国道沿いに植え始めたのが増殖の始まりという。桃介とは、福沢諭吉の娘婿で電力王と呼ばれた人物である。
 名古屋市東区の文化のみちに「二葉館」(2013・11・25)がある。この古い建物は旧・川上貞奴邸で、今は郷土ゆかりの文学資料展示館になっている。貞奴は日本初の女優で、桃介のパートナーでもあった。自らも事業家として名を馳せ、この二葉御殿は起業家や文化人のサロンの役割も果たしていた。
 
 三題噺は落語なので必ず「オチ」があるのですが、この話は残念ながらこれでおしまいです。

桃介H


季節通信66タンポポ

大河内山荘

 竹林の西のはずれあたりに、広大な大河内山荘がある。杉林に折り返しの坂道があり、途中に看板のある門が立っている。時代劇などで知られる大河内傳次郎(私も含め?若い人は知らない)が別荘として造営した日本庭園である。日本映画の黎明期に活躍した俳優で、丹下左膳がはまり役だった。
 若くして成した財の大半を使い、永く消え去ることのない「美」を求めて、自身で庭の設計をしたという。寝殿造り、書院造り、数寄屋造りなど伝統的様式を取り入れた「大乗閣」を始め、いくつかの茶室を巡り歩く回遊式である。「飛び石」や「延べ段」、「あられこぼし」など園路にも変化と工夫がある。遠くの山々を望む展望(借景)も素晴らしい。

大河内山荘G

 竹林界隈は観光客も多いので、お洒落な茶店や小物を売るお店もたくさん並んでいる。京都らしい着物用の下駄を売る店があった。道の角にゴチャゴチャと看板を置いた店?がある。覗いてみると「日本一ちぃちゃな美術館」とある。部屋には何枚かの油絵が飾ってあった。私もいつか「世界一小さな植物園」をつくりたいと考えている(夢)ので、大いに参考になる。

大河内山荘H


季節通信65山笑う

京都 嵯峨野・嵐山

 嵯峨野・嵐山といえば京都でも最も人気の高い観光スポットである。京都北西の嵐山から、桂川が流れ出るあたりを嵯峨野といい、風光明媚なこともあって寺社や山荘が集まっている。天龍寺近くの大河内山荘から野宮神社にかけて、見事な竹林の道がある。手入れの行き届いたモウソウチクの林で、切り取った竹の枝の柵も美しい。背丈ほどに伸びたタケノコが面白い形をしていた。

嵯峨野G

 野宮大神は小さいけれど歴史と雰囲気のある神社である。斎王が、伊勢神宮に赴く前に身を清める場所だという。その様子は、源氏物語「賢木の巻」にも描かれている。入り口の鳥居もユニークである。色が黒く「黒木鳥居」と呼ぶ。樹皮がついたままのクヌギの丸太で出来ている。鳥居としては極めて原始的で、日本最古の形式という。

嵯峨野マップ

◆◆新型コロナウイルスが猛威を振るっています。国内の感染者が5000人に近づき、死者も100人を超える事態です。明日にも緊急事態宣言が発令されるかという報道も聞こえてきます。他人事ではなく、自分や身近な人に感染が及ぶことも充分に有り得ると考えなければなりません。◆◆
◆◆お気づきのように、このブログも最近取材を控えています。そのため、過去の古い写真や中部以外の旅行の思い出などを記事にしているのです。外に出ない分、パソコンを見てくださる方も多いと思いますので、このスタイルで当分続けていきたいと思います。◆◆

足立美術館の日本庭園

 今、日本で一番美しくて人気のある日本庭園は、京や江戸の庭ではなく、島根県の「足立美術館の庭園」だと言われている。近代日本画のコレクションを集めた美術館と日本庭園が緻密に設計されている。美術館には、横山大観を中心に川合玉堂、菱川春草、上村松園、速水御舟などが幅広く収蔵されている。
 出雲大社と松江、足立美術館の3つをテーマに電車旅をした。もう10年も前のことである。出雲は、50m近くの高さをもつ本殿の巨大な3本柱が発見されたという。松江は、小泉八雲の住んだ町を歩きたい。そして足立美術館は絵画よりむしろ、評判の高い日本庭園が見たいというのが旅の目的であった。

足立美

 安来節で有名な山陰線「安来駅」からバスの便がある。中海に流れ込む飯梨川を5kmほど遡ったところ、「どじょうすくい」の体験館近くに足立美術館の庭園はあった。周辺の自然を生かしながら池や芝生を駆使した回遊式日本庭園で、現代の名作庭家と称される中根金作らが手掛けた。
 日本庭園は、お茶室や四阿など建物との調和を考えるのは普通であるが、この庭園ほど意識的に両者を関連付けて設計されている庭園は稀であろう。庭から見た建物も素晴らしいが、美術館の窓から眺められる庭園の景はまことに美しく、まるで一服の絵画のようである。

足立美G


◆◆左の写真が足立美術館の窓から見た庭園である。ところが、かつて私がハンガリーの田園で写した風景写真とあまりにも似ているのでビックリした。なるほど・・・私の美的センスもなかなか捨てたものではない!!◆◆

横井也有宅跡のムクノキ巨木

 名古屋城外堀の南、那古野神社の西に東照ビルがある。その南の中庭にムクノキの巨木がある。根元には小さな祠が祀られており、太い幹にはしめ縄も張られている。幹まわり5m、高さは20m、樹齢は400年と推定されている。ただ、幹に大きな洞があり、コンクリートが埋め込まれている。
 ビルの道路側に、この木の説明版が立っている。この地は、横井也有(1702~1783)宅の跡地であるという。也有は三の丸西隅(現愛知県図書館)に居を構えていたが、53歳で隠居した後、この地に移住したという。

也有宅跡マップ

 横井也有は、知行1000石の尾張藩重臣であるが、和歌・俳諧・書画などを嗜む文人として有名である。特に俳句は「うずら衣」の作者として、俳文の新生面を開拓したと言われている。也有の俳句は、芭蕉やその門人とは一味異なり、洒脱でユーモアな人間批評が含まれている。
 東山植物園の日本庭園の一部に「也有園」があることは1月3日のブログでご紹介した。也有園は、自然林の中にポッカリ開けた明るい林泉で、個性的な八つ橋や鄙びた四阿(あずまや)が点在している。風流人・也有に相応しい、雅趣に富んだ雰囲気を醸し出している。

也有宅跡G

東山植物園の門松

 徳川園の門松はユニークであるが、さらに個性的なのは東山植物園のものである。現在改修工事中の大温室北側一帯に広がる日本庭園、その入り口にも当たる「武家屋敷門」の前に真竹と葦(アシあるいはヨシともいう)で出来た門松が立っている。
 この武家門は、東区筒井に建てられていた兼松家の門で、昭和42年に寄付を受けこの地に復元されている。元亀元年(1570)「姉川の合戦」のとき、兼松又四郎は信長軍の一員として戦った。陣中で正月を迎えたので河原に生えていた葦で簡素な門松をつくったという。兼松家では代々この習わしを守り、植物園でも受け継いでいる。《門松の写真は、植物園提供》

植物園門松G

 武家屋敷門をくぐると「也有園」で、曲水の流れを中心に芝生の庭が広がっている。そこここの植物には、尾張藩士で俳人でもあった横井也有翁の句碑が立っている。“曲水に猪口も流れるる椿かな” “柿ひとつ落ちてつぶれて秋の暮れ”。也有は多くの植物を俳句に詠い込んでおり、その植物を集めた庭である。
 也有園を過ぎると奥池があり、そのほとりに「合掌造りの家」がある。この古民家は岐阜県白川村に建てられていた。鳩ケ谷ダム建設のため水没することとなったので、昭和31年に移築された。その奥はこの建物に相応しい深山風の庭で、渓谷や魚止めの滝にまで行きつくことができる。(手前味噌ですが、也有園・渓流・滝は50年前に私が設計しました)

植物園門松H


季節通信57羽根つき

徳川園の門松

 明けましておめでとうございます。令和はじめての元旦です。今年もよろしくお願いいたします。
新年最初のブログですので、何かお正月らしい話題をと考え、徳川園の門松の写真を撮ってきました。ここの門松は、大変珍しく中央の竹が1本なのです。
 徳川園は東区徳川町にある庭園で、尾張2代藩主光友の隠居所「大曽根御下屋敷(おしたやしき)」の跡地にあります。近世武家文化の殿堂「徳川美術館」と古典籍の宝庫「蓬左文庫」を含み、日本庭園で構成されています。春の新緑、秋の紅葉、5月の牡丹や6月の花菖蒲の名所としても知られています。

徳川園門松G

 門松は、庭園の正面玄関「黒門」の前に据えられています。そもそも門松は、その年の安泰と収穫の無事を祈ってトシガミサマ(正月神)をお迎えする、そのご降臨される場所を示す目印(依代)として立てられます。12月の13日以降に、山から縁起の良い松の木を伐って「松迎え」をします。
 竹は、真横に切った「寸胴(ずんどう)」が元でしたが、斜めに切る「そぎ」を家康が始めました。家康が唯一敗戦をした「三方ヶ原の戦い」の後、武田信玄に対して、“次は斬る”という念を込めたのが始まりだと言います。徳川園では、尾張徳川家が伝えてきた「竹1本の門松」を模して作成しています。

徳川園門松H


季節通信56ネズミモチ

松坂城跡

 松坂城は、秀吉の家臣・蒲生氏郷が天正16年(1588)に築城した。松阪の地は伊勢平野の津と伊勢との中間地にあり、奈良・京都方面へ向かう街道の分岐点に当たる。松坂城は、この交通の要所の小高い「四五百森」(よいほのもり)につくられた平山城である。城跡に立つと、松阪の町並みとその向こうに紀伊の山々を望むことができる。
 氏郷が陸奥黒川(今の福島県)に移封された後、何人かの城主が入城した。元和5年(1619)に徳川頼宜が和歌山城主になると、松坂は和歌山藩領となり、18万石を領する城代が置かれていた。この状態は明治になるまで続き、廃藩後の明治14年に松阪公園となって現在に至っている。

松坂城マップ

 城は、本丸・二ノ丸・三ノ丸・隠居丸・きたい丸からなり、三層の天守が聳えていたが正保元年(1644)の台風で倒壊したと伝えられる。その後、天守閣は再建されることはなく、現在は石垣を残すのみである。公園利用者は階段を登り、石垣の上に立つことができるが、全く柵がなく、安全は〝自己責任?”ということになっている。
 表門を入った遠見櫓の近くに、個性的な建物がある。明治43年の皇太子行啓を記念して飯南郡図書館として建てられたものである。入母屋造りの二階建てが左右対称にあり、真ん中は唐破風の玄関である。昭和52年に図書館が移転した後は、松阪市立歴史民俗資料館として使用されている。

松坂城G

季節通信55松阪菊

鎌倉・鶴岡八幡宮の大銀杏

 今日は令和1年11月11日、何と1が5つも並んでいる。改元の年しか巡り会えない珍しい事象である。さらに10年後には、令和11年11月11日という日がやってくる。このブログは現在530回の発信を数えるが、10年後まで書き続けて1000回を超えたいものと願っている。
 人の命は長くても100年ほどであるが、長寿の樹木イチョウは1000年以上も生き続けるという。鎌倉・鶴岡八幡宮の大石段の脇に1000年を超えると言われる大イチョウがあった。3代将軍源実朝を暗殺(1219)した公暁が隠れていたとも言われる有名なイチョウである。

鎌倉イチョウG

 ところが平成22年(2010)3月10日未明、強風に煽られて、この老樹は根元から倒伏してしまった。鶴岡八幡宮では再生・再起を願って、根元の幹は10mほど西側に移植し(上右の写真)、残された根株(下2枚の写真)も囲いをして保全をすることとした。
 約10年を経た今年秋に訪れてみると、移植した幹の根元から萌芽(ヤゴ)が何本も出ていた。元の位置に残された根株の方からも1本の若木が芽生え、すでに10mほどにも伸びている。イチョウは、進化の過程から見ると原始的な種で、それだけに強靭な生命力をもっているようだ。

鎌倉イチョウのマップ


季節通信52柿すだれ

神宮東公園の噴水と彫刻

 熱田は古くから、東海道の「宮宿」として、また、熱田神宮の門前町として栄えてきた。明治になって後、南北を走る東海道に沿って、国鉄(現JR)東海道線や名鉄本線が敷設された。神宮東地区は、この幹線路を挟んで、熱田神宮の反対側にある。
 神宮東公園は、都市整備公団の賃貸住宅と一体的に整備された地区公園である。面積約10ha,昭和60年(1985)の完成後35年を経て、緑豊な公園に成長している。この公園には、体育館のような取り立てて大きな施設はないが、池や芝生、噴水や彫刻などが整備されていて、住民たちが落ち着いて利用している状況を見ることができる。

神宮東G

 公園は、道路を挟んで南北に分断されているが、歩道デッキにより信号なしで行き来できる。南にはステージや観客スタンドをもつ舗装広場があり、その中心に噴水が設置されている。ケヤキなどの樹林の頭越しに、集合住宅などの高いビルが見える。
 北側には大理石造りの壁泉があり、その池の畔に一体の彫刻が佇んでいる。銘は「待つ日」、二科展評議員も務める津田裕子氏の作である。隣に立つ公園灯も傍らの金属製ベンチも一体的な作品のように思われる。質の良い添景物は、公園の景観や価値を高めてくれると考える。

神宮東マップ


季節通信45花菖蒲


形原温泉「あじさいの里」

 形原温泉郷は、蒲郡港から西へ向かった山裾にある。天正年間というから、戦国の時代に開設された。補陀ヶ池の下にある補陀寺の祖丘禅師が、夢のお告げで湯を掘り当てたという。その後、温泉の湯は枯渇したが、昭和20年の三河大地震のときに再び湧出して復活したという歴史をもつ。
 補陀寺は、神亀3年(726)に建立され、行基の作った馬頭観世音菩薩を祀ると伝えられている。応仁の乱で諸堂のほとんどを焼失してしまったが、観世音像はその難を逃れて現存している。温泉発掘の経緯もあり、現在でも温泉の守護神として信仰されている。

蒲郡あじさいの里G

 「あじさいの里」は、三角形の補陀ヶ池の周辺と堤防の斜面を利用した庭園である。池を回遊する園路や、階段を上り下りしながらアジサイや樹林の風景を観ることができる。120種5万株が植えられており、品種の説明コーナーや鉢植えを売る店もある。
 蒲郡には「紫陽花寺」とも呼ばれる「本光寺」があり、15種1万株を見ることができる。三ヶ根山スカイラインの道路わきには7万本ものアジサイが植えられていて、「あじさいロード」とか「あじさいライン」と呼ばれている。海に近い山の手の土地柄は、アジサイの生育に適しているのだろうと思われる。

蒲郡アジサイの里マップ

鶴舞公園の花菖蒲池

 鶴舞公園は名古屋市初めての公園として、明治42年に開園した。その翌年の明治43年には「第10回関西府県連合共進会」という一大イベントが開催され、名古屋市民の5倍を越えるような入場者があり、この博覧会がきっかけとなって名古屋市が大発展を遂げたといわれている。
 公園の全体設計は、当時第一人者の本多静六と建築家の鈴木貞次が行い、東側の日本庭園部分は、名古屋在住の茶道宗匠が担当した。竜が池(かつてのボート池)西にある花菖蒲池は大正11年に造られたという。公園の整備は博覧会の後、大正の後期まで続いているので、花菖蒲池は公園開設の当初から利用されたものと思われる。

鶴舞公園菖蒲池マップ

 面積1haほどの庭園には3つの池があり、90種2万株のハナショウブが植えられている。一番大きな池には石造りの八ッ橋が架かっていて、中の島には傘亭が建っている。毎年6月初めの日曜日には、池の畔で野点の茶会が開催される。今年は開花中の2週間、雪洞(ぼんぼり)によるライトアップも行なわれた。
 公園中央にある緑化センターの一階ホールで、名古屋花菖蒲会が主催する「鉢花・切花」の展示会(下左)が開催された。菖蒲池から南へ向かう広い園路の両側には、ハナショウブと同じ時期に咲くアジサイが植えられている。花も樹形も小型な姫紫陽花(下右)が満開を迎えていた。

鶴舞公園菖蒲池G

瑞穂運動場と日比野寛先生像

 名古屋市の運動場の歴史は、明治42年(1910)に開園した鶴舞公園の陸上競技場に始まる。しかし、トラックやスタンドの規模が時代の要請に比べて小さくなったことから、昭和16年(1941)に瑞穂運動場に移って拡大された。
 戦後に始まった国民体育大会の第5回目(昭和25年)の開催地に愛知が選ばれ、瑞穂陸上競技場がメインの会場となった。その後、昭和58年の高校総体(インターハイ)や平成6年の「わかしゃち国体」の度ごとに、大改修を施して会場として使用されている。平成6年からは、サッカーJリーグのホームスタジアムとしての役割も果たしている。

瑞穂運動場G

 陸上競技場の南隣に、ラグビー場がある。毎年、地域の高校・大学のリーグ戦や、トップリーグの対戦が行なわれている。今年の秋、日本で初めての「ラグビーワールドカップ」が開催される。全国各地のラグビー場で激戦が繰り広げられるが、当地では、瑞穂よりスタンド数の多い「豊田スタジアム」が選ばれている。
 陸上競技場の正面ゲートの横に、ひとりの男性の銅像が立っている。日本のマラソンの始祖とも言われる日比野寛先生を顕彰して、昭和41年に建てられたものである。日比野先生は長く愛知一中(現旭丘高校)の校長を務められ、身体の強健と精神の健全との一体を教育の理念とした。「病人は病院へ行け、弱いものは歩け、健康な者は走れ、強壮な者は競争せよ」と説いたという。

瑞穂運動場マップ

新野のハナノキ自生地

 ハナノキは、恵那山山麓(愛知・岐阜・長野の県境)の湿地帯にのみ、ごくまれに自生するカエデ科の落葉樹である。非常に貴重な植物であり、早春の花や新緑・秋の紅葉が美しいことから、愛知県の「県木」に指定されている。
 長野県の南端・阿南町の新野地区、国道151号の道路わきに溜池があり、その上流部の湿気の多い谷部にハナノキの自生地がある。最も大きな木の根元に立派な石柱が立っていて「天然記念物坦開村花ノ木自生地」と刻まれている。坦開村(あさげむら)は、この地の旧名である。

新野のハナノキ マップ

 ハナノキは雌雄異株の植物で、どちらも細かい赤い花が木全体にビッシリと咲くが、雄の木には実がつかない。写真の大木は雌の木で、まだ若い実が着いていた。この羽根のある種が周りに飛び散り、一帯にハナノキ林が成立したのであろう。
 この木には、もうひとつ珍しい事柄があります。日本の自生地は限定されているのに、アメリカにごく近縁の「アメリカハナノキ」という種類が生えているのです。このように、同種の植物が飛び離れて分布する現象は「隔離分布」と呼ばれて不思議がられています。

新野ハナノキG

名古屋城のカヤ

 名古屋城の正門をくぐってすぐ左のところに、ボリューム感のある古木が見える。高さ16m、幹周り8mもの巨木で、国の天然記念物に指定されている。樹齢600年と推定されていることから、名古屋城築城の慶長15年(1610)以前から生えていたことになる。
 元和元年(1615)の「大坂夏の陣」は初代藩主・義直の初陣であったが、武運を祈願してカヤの実を食膳に載せたといわれている。以来、尾張藩では、毎年正月祝いの主君の膳に供されたという。

名城カヤG

 カヤは、葉の先端が鋭い棘になる常緑針葉樹である。雌雄異株で雌の木にしか実が成らないが、この木は雌樹である。城内にはオニグルミの林もあるが、これらのカロリーの高いナッツ(木の実)は籠城の際の非常食として保存されていたものと思われる。
 昭和20年(1945)の名古屋城炎上のときにはこのカヤも火を浴びたが、幸いなことに枯損には至らず、今も旺盛な樹勢を保っている。株の根元には、「天然記念物 名古屋城の榧」と記した石柱があり、その隣に木製の説明板が立っている。

名城カヤH


季節通信40甘茶

岩崎城跡

 岩崎川は、日進市と長久手市の境・県農業試験場あたりに端を発し、日進市役所近くで天白川と合流する。岩崎川北の小高い丘の上に岩崎城跡があり、現在は「岩崎城址公園」として整備されている。
 城跡に登ると、眼下に岩崎川・天白川流域の平地が広がるのを見ることができる。現在は、名古屋市東隣りの住宅地として、多くの家々が建ち並んでいる。しかし、往時は激しい戦いの行なわれた地であった。

岩崎城G

 天正12年(1584)、羽柴(豊臣)秀吉と織田・徳川連合軍が戦った「小牧長久手の合戦」において、連合軍方についた丹羽氏はこの城の留守を預かっていた。そこへ秀吉方の池田隊が攻め込み、守備の城兵全員が討ち死にしたのである。
 以後、この城は廃城となり、そのままの形で荒れ果ててしまった。昭和59年、落城400年の記念大祭が行なわれたのを機に、歴史公園とする方針が決まった。今もわずかに形態を残す空堀などを保存しつつ、天守閣や歴史記念館などが新しくつくられている。

岩崎城マップ

作手の大木

 作手には、いくつかの城跡と数多くの神社・仏閣があり、その境内や裏山に古木・大木がありますのでご紹介します。

◆ サクラ・・・石橋城跡は、今は石橋山慈昌寺というお寺になっている。石橋城は奥平氏二代目の弾昌久勝が最初の城主であったが、主君への謀反が露見して攻められ、討ち死にしてしまった。後世、当山の第二世和尚が一族の滅亡を哀れみ、この地を貰い受けて寺にしたという。墓所の斜面に植えられたサクラの大木は、久勝に因んで「弾昌桜」と呼ばれている。

作手大木G

◆ ヒノキ・・・白鳥神社は日本武命を祭神とし、村民は「古宮」と称して崇敬してきた。神社の裏山が「古宮城」で、元亀2年(1573)に甲斐の武田信玄が三河攻略の拠点として築城したものである。境内右手の山への登り口が、古宮城の「虎口」のあったところである。裏山はスギやヒノキの樹林となっているが、その中に一際目立つのが「大ヒノキ」で御神木になっている。樹高29m・幹周り5.8m・樹齢600年といわれている。

作手大木H

◆ コウヤマキ・・・翔龍山甘泉寺は、その境内に「鳥居強右衛門」の墓所があることでも有名である。本堂左手の山裾に国内一の巨樹といわれるコウヤマキがある。この樹は、この寺を開山した和尚が、高野山からついてきた杖を差したところ根付いて成長したのだという。今から600年ほど昔の話である。
 樹高27m・幹周り6.3m、国の天然記念物であり「新・日本名木百選」にも選ばれている。「コウヤマキ」はスギ科コウヤマキ属の常緑針葉樹で、日本と済州島のみに自生する固有種である。平成18年に誕生した悠仁親王の「お印」になっている。

作手大木I

オアシス21(立体公園)

 昨年、「外国人旅行者が選ぶ夏のフォトジェニック観光スポット」ランキング2位という“栄光”に輝いたのが「オアシス21」である。“フォトジェニック”とは“インスタ映え”と同義語で、“写真向け”という意味。因みに1位は北海道・洞爺湖、3位は横浜のラーメン博物館である。
 大都市の人気ランキングで最下位と評せられ、自信を失いそうな名古屋ではあるが、よくよく見てみれば他所に無い自然や文化、人々の暮らしなど良いものもたくさんある。むしろ名古屋の人が自分のまちを知らないがための“アピール不足”ではないかと、これは私の見方である

オアシスG

 オアシス21の敷地約2haには、元は愛知県文化会館とNHK名古屋放送会館があった。昭和50年代後半に両者とも再整備構想がもち上がったのが、公園も含めた3者一体化構想のきっかけである。東隣にあった栄公園(約3.5ha)の一部をNHKと交換する。栄公園を久屋大通公園に含めて面積を増やし(建蔽率)、愛知県芸術文化センターを建てて跡地を公園にするという計画である。
 久屋大通公園の地下には、地下鉄駅やセントラルパーク地下街があるため、芸文センターやNHKとの行き来は、地下・地上・デッキの3つの通路が望ましい。地下広場・地上公園・空中水面(水の宇宙船)をもつ「立体公園」が誕生した理由である。このような公園は全国に例がなく、都市公園法にも想定されていなかった。何度も建設省と協議を重ねて、ようやく認められたものである。

オアシスH

京都御所の庭

 “鳴くよ鶯(うぐいす)平安京”、長岡京から都を移した年号794年を覚えるための語呂合わせである。明治2年(1869)に東京へ遷都するまでの1075年間、京都は日本の都であり続けた。京都御所は天皇の住まいであったが、平安以来何度となく火災などのために場所を移している。現在の位置に定まったのは、14世紀中ごろのことという。
 紫宸殿の北東に広がる庭園は、池を中心とした池泉廻遊式である。「御池庭」と呼ぶ。これもいろいろな変遷を経ているが、今のような形になったのは江戸時代初期であろうと考えられている。手前に小石の州浜が池に向かってなだらかに傾斜し、対岸には豪壮な護岸石組み、いくつかの石橋や土橋、松を中心とした植込みなどを配している。

京都御所マップ

 紫宸殿の南には、2本の樹木が象徴的に植えられている。「左近の桜・右近の橘」である。桜はヤマザクラ、日本の山地に自生する種類である。奈良時代は花と言えば梅であり、左近の樹は梅であったが、平安時代になると桜が好まれるようになり、「左近の桜」が成立したようである。
 「橘(たちばな)」はミカンの仲間、柑橘類に属する。柑橘類は、東南アジアから中国南部を原産地とするが、タチバナは日本の野生種と考えられている。古代から貴族に愛好され、万葉集に67首もの歌が収録されている。ただ、食用というより花や実が鑑賞用として好まれていたようである。

京都御所G
≪左・右は、紫宸殿の階(きざはし)から見たもので、正面から見ると逆になる・・・左の写真が橘、右の写真が桜≫

伊勢神宮の森

 明けましておめでとうございます。平成31年の始まりです。今年は、天皇陛下が4月30日に退位されます。平成は終わりとなり、新しい年号が始まりますので○○元年ともなる年です。記念すべきこの年が、幸多かれと願ってやみません。
 昨年末の12月23日、85歳の誕生日を迎えられた天皇陛下が記者会見されました。記者からの 「現在のご心境と、国民に伝えたいことは」 との質問に、半生を振り返りながら心情を吐露されました。テレビでは、途中のコマーシャルを挟むことなく、全てが一挙に放映されました。お言葉一つひとつに万感の思いが込められており、胸が熱くなりました。

伊勢神宮G

 伊勢神宮 (内宮) は、天皇のご先祖 「天照大神」 を祀る神社です。2000年の昔から、この地にご鎮座しています。宇治橋の前にある大鳥居をくぐると、いよいよ神域に入ります。五十鈴川の清流・参道の白い玉砂利・直径2mを越す杉や楠の大木などが、神宮の清浄さや荘厳さを醸し出します。
 さらに、素木 (しらき) の社殿を囲むうっそうとした森林に “ただならぬ何か” を感じます。神宮の “森厳” を守るために、太古から斧の入らぬ杜なのです。その5000haを越す広大な照葉樹林には、シイ・カシ・クスといった冬にも葉を落とさない樹木が生育しています。

伊勢神宮H


季節通信32ウラジロ

▲ページトップ

Appendix

カレンダー

09 | 2020/10 | 11
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

コンパクト月別アーカイブ

最新記事

         

建設・補償コンサルタント

ランキングに参加しています!

プロフィール

FC2USER480348EQK

Author:FC2USER480348EQK
森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
FC2ブログへようこそ!

最新トラックバック

        

検索フォーム

QRコード

QR
▲ページトップ