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桶狭間の戦い「祐福寺」と「沓掛城」
NHK大河ドラマ「どうする家康」も佳境に入ってきました。私の家の近くに、桶狭間のときに義元が本陣を構えたと言われる史跡が2か所あるので訪ねてみました。ひとつは東郷町の祐福寺、もう一つは豊明市の沓掛城です。いずれも義元が討たれた前日に宿泊した所となっています。
祐福寺には、後奈良天皇から勅使が遣わされたとき(大永8年=1528)に造営した「勅使門」が残っています。二階が鐘楼となっている山門には木彫の仁王が立っています。阿弥陀堂の横に立札があって「永禄3年5月18日 今川義元公本陣跡」と記されています。

沓掛城は祐福寺の南約2km、豊明高校のすぐ近くにあります。現在は公園となっていて、昔の「城址」の姿をよく留めています。入り口に案内看板が立っていて、本丸・二ノ丸・堀や土塁・侍屋敷の位置などが記してあります。隣の慈光寺というお寺も、当時はお城の敷地だったようです。

これまでに「大高城」や「義元終焉の地」などをブログとして掲載してきましたが、「桶狭間の戦い」の全体像をマップにしてみました。永禄3年の当日、信長や義元がどのような動きをしたかが一目で分かると思います。

祐福寺には、後奈良天皇から勅使が遣わされたとき(大永8年=1528)に造営した「勅使門」が残っています。二階が鐘楼となっている山門には木彫の仁王が立っています。阿弥陀堂の横に立札があって「永禄3年5月18日 今川義元公本陣跡」と記されています。

沓掛城は祐福寺の南約2km、豊明高校のすぐ近くにあります。現在は公園となっていて、昔の「城址」の姿をよく留めています。入り口に案内看板が立っていて、本丸・二ノ丸・堀や土塁・侍屋敷の位置などが記してあります。隣の慈光寺というお寺も、当時はお城の敷地だったようです。

これまでに「大高城」や「義元終焉の地」などをブログとして掲載してきましたが、「桶狭間の戦い」の全体像をマップにしてみました。永禄3年の当日、信長や義元がどのような動きをしたかが一目で分かると思います。

都田テクノポリスと総合公園
「三方ヶ原」と聞くと、徳川家康を思い浮かべる。武田の大軍に蹴散らされて、家康も命からがら浜松城に逃げ帰ったという戦いである。武田軍は諏訪を回って秋葉街道を南下し、二俣城を落とした。家康は浜松城で籠城戦に臨もうとしたところ、武田軍は素通りして浜名湖の堀江城へと進軍した。
武田・徳川の戦いは三方ヶ原で繰り広げられた。この台地は、天竜川と都田川に囲まれた三角形の洪積層台地である。東西10km×南北15kmほどの広さで、標高は25m~110mである。江戸時代は荒れた土地で採草地に過ぎなかったが、明治になって水が引けるとお茶などの畑になった。

昭和59年(1984)に、「浜松地区テクノポリス」開発計画が認められると、台地の西北の都田地区が中核拠点として選ばれた。平成3年までに造成工事が行われ、現在ではいくつかの企業や工業技術センター・静岡大学イノベーションセンターなどの研究機関が事業を進めている。
総面積243haの内訳は、企業用地100ha・住宅用地42ha・公共用地(道路や公園など)101haである。地区の中央に「都田総合公園」がある。広い芝生広場や桜・ツツジなどの樹林がある。道路を跨ぐシンボリックな「北都橋」や、溜池に架かる「増沢の吊り橋」などもある。


武田・徳川の戦いは三方ヶ原で繰り広げられた。この台地は、天竜川と都田川に囲まれた三角形の洪積層台地である。東西10km×南北15kmほどの広さで、標高は25m~110mである。江戸時代は荒れた土地で採草地に過ぎなかったが、明治になって水が引けるとお茶などの畑になった。

昭和59年(1984)に、「浜松地区テクノポリス」開発計画が認められると、台地の西北の都田地区が中核拠点として選ばれた。平成3年までに造成工事が行われ、現在ではいくつかの企業や工業技術センター・静岡大学イノベーションセンターなどの研究機関が事業を進めている。
総面積243haの内訳は、企業用地100ha・住宅用地42ha・公共用地(道路や公園など)101haである。地区の中央に「都田総合公園」がある。広い芝生広場や桜・ツツジなどの樹林がある。道路を跨ぐシンボリックな「北都橋」や、溜池に架かる「増沢の吊り橋」などもある。


桑名城と北大手橋
尾張、伊勢との国境にある美濃「高須藩」は、尾張二代藩主・徳川光友の次男が藩主となって以来、代々尾張家の支藩であった。尾張宗家の嗣子が絶えた時には、尾張家の当主を送り出す。幕末のころには、次男慶勝は尾張、七男容保は会津、九男の定敬(さだあき)は桑名の藩主であった。
激動の時代に松平容保は京都守護職、定敬は京都所司代を務めて幕府を守ろうとした。畿内における最大の戦力であったが、鳥羽伏見の戦いを経て会津、函館まで幕府側として戦い抜いたが敗戦する。明治になっても、桑名藩は、会津と並んで新政府からは敵視し続けられた。

桑名の城は、江戸時代になると本多忠勝が入城し、城郭の増改築や町割りの整備を行った。揖斐川の河口近くに造られた平城である。幾重にも水掘で囲んだ重厚な構えであった。お城に接して東海道の「桑名の宿」(宮の渡しから七里の海路)の湊がある。交通の要衝でもあった。
現在城跡は、「九華公園」として市民に公開されている。堀の跡は水路として、船舶の停留地になっている。水路の護岸の石積みは城郭時代の石垣であり、500mほどが残存している。河口部に個性的な石造りの橋がある、「北大手橋」という。欄干に古い絵図のレリーフが添付されている。
激動の時代に松平容保は京都守護職、定敬は京都所司代を務めて幕府を守ろうとした。畿内における最大の戦力であったが、鳥羽伏見の戦いを経て会津、函館まで幕府側として戦い抜いたが敗戦する。明治になっても、桑名藩は、会津と並んで新政府からは敵視し続けられた。

桑名の城は、江戸時代になると本多忠勝が入城し、城郭の増改築や町割りの整備を行った。揖斐川の河口近くに造られた平城である。幾重にも水掘で囲んだ重厚な構えであった。お城に接して東海道の「桑名の宿」(宮の渡しから七里の海路)の湊がある。交通の要衝でもあった。
現在城跡は、「九華公園」として市民に公開されている。堀の跡は水路として、船舶の停留地になっている。水路の護岸の石積みは城郭時代の石垣であり、500mほどが残存している。河口部に個性的な石造りの橋がある、「北大手橋」という。欄干に古い絵図のレリーフが添付されている。
◆◆桶狭間古戦場◆◆
◆◆NHK大河ドラマが始まりました。今年は「どうする家康」です。このブログは「中部の・・・」ですから、家康や徳川に係わる「土木文化」も数多くご紹介してきました。これから時々思い起こしながら再掲していきたいと思います。◆◆
「桶狭間の戦い」は、信長の天下取りの端緒ともなった戦いであるとともに、家康のデビュー戦でもある。戦国の歴史の中でも最も重要なエポックだと思う。信長が鉄砲を導入した「長篠の合戦」や、家康の天下取りに繋がった「関ヶ原の戦い」に匹敵する歴史の大転換点であった。
桶狭間の地には、今川義元終焉の「桶狭間古戦場跡」以外にも「大高城跡」「鷲津砦」「善照寺砦」など貴重な歴史遺産が公園となって現存している。この地域全体を有機的に結びつけて、この「戦場」のストーリーをもっとアピール(歴史学習や観光)すべきと考える。

「桶狭間」のストーリーは、歴史書や小説によっていろいろ語られるが、私の認識を1枚のポンチ絵にしてみた。真偽のほどは読者の判断にお任せするが、絵(マップ)にするといかにも尤もらしく見えると思いますがいかがでしょう。
◆今川義元は大軍(2万5千人とも言われる)を率いて京へ向かった。尾張など蹴散らす勢いで。
◆今川方の前線基地として、鳴海城と大高場には今川の武将が城を守っていた。
◆織田側は、大高城の周りに「鷲津砦」「丸根砦」を、鳴海城の周囲に「丹下砦」「善照寺砦」を築いて攻め立てた。
◆孤立した大高城には、今川の先鋒「家康隊」が援軍に向かい、食料(兵糧)も運び入れた。
◆今川軍はちょうど昼時だったので長い隊列のまま休憩し昼食を食べていた。(酒も出たという)
◆織田軍は川の対岸に陣地を造って渡河を容易にした(橋頭堡という。中嶋砦がそれである。)
◆信長は10分の1の兵力で、今川隊列の先頭を急襲した。急に雨が降り出したともいう。
◆あわてた今川側は総崩れとなり、とうとう大将の義元までが討たれてしまった。
◆大高城に居た家康は、岡崎城へと引き上げた。これで今川の人質状態が終わった。
「桶狭間の戦い」は、信長の天下取りの端緒ともなった戦いであるとともに、家康のデビュー戦でもある。戦国の歴史の中でも最も重要なエポックだと思う。信長が鉄砲を導入した「長篠の合戦」や、家康の天下取りに繋がった「関ヶ原の戦い」に匹敵する歴史の大転換点であった。
桶狭間の地には、今川義元終焉の「桶狭間古戦場跡」以外にも「大高城跡」「鷲津砦」「善照寺砦」など貴重な歴史遺産が公園となって現存している。この地域全体を有機的に結びつけて、この「戦場」のストーリーをもっとアピール(歴史学習や観光)すべきと考える。

「桶狭間」のストーリーは、歴史書や小説によっていろいろ語られるが、私の認識を1枚のポンチ絵にしてみた。真偽のほどは読者の判断にお任せするが、絵(マップ)にするといかにも尤もらしく見えると思いますがいかがでしょう。
◆今川義元は大軍(2万5千人とも言われる)を率いて京へ向かった。尾張など蹴散らす勢いで。
◆今川方の前線基地として、鳴海城と大高場には今川の武将が城を守っていた。
◆織田側は、大高城の周りに「鷲津砦」「丸根砦」を、鳴海城の周囲に「丹下砦」「善照寺砦」を築いて攻め立てた。
◆孤立した大高城には、今川の先鋒「家康隊」が援軍に向かい、食料(兵糧)も運び入れた。
◆今川軍はちょうど昼時だったので長い隊列のまま休憩し昼食を食べていた。(酒も出たという)
◆織田軍は川の対岸に陣地を造って渡河を容易にした(橋頭堡という。中嶋砦がそれである。)
◆信長は10分の1の兵力で、今川隊列の先頭を急襲した。急に雨が降り出したともいう。
◆あわてた今川側は総崩れとなり、とうとう大将の義元までが討たれてしまった。
◆大高城に居た家康は、岡崎城へと引き上げた。これで今川の人質状態が終わった。
2023年の幕開け
◆◆2023年(令和5年)はうさぎ年、ピョンピョン飛び跳ねるような年にしたいものです。ウサギ・兎と考えて、今までに撮った写真を思い浮かべてみました。語呂合わせもありますが、5枚見つかりましたのでご紹介します。◆◆
① ウサギギク・・・高山植物で、木曽駒ケ岳で見つけました。黄色い花が印象的ですが、名前の由来は葉の形です。対生の葉がウサギの耳に似ているからです。
② ウツギ(別名ウノハナ=卯の花)・・・「オカラ」のことではありません。「卯月」(旧暦の4月)に咲くので。「卯」はウサギのこと。花が真っ白なのでウサギを連想したのかも知れません。
③ 昨年11月8日夜の皆既月食の写真です。よく言われる「ウサギが餅つきをしている」姿がはっきりと写っています。ちなみに下に写っている点は天王星です。

④ 「大黒様と稲葉の白ウサギ」・・・出雲大社の境内にありました。「古事記」で有名な大国主命の物語ですが、このごろの子供たちはこの童話を知っているのでしょうか?
⑤ 15年ほど前にアイルランドの旅をしました。首都ダブリンのメインストリートに、ユニークな「ウサギの彫刻」を見つけました。イギリスの彫刻家バリー・フラナガンの作品です。この人の作品は、名古屋の白川公園にもあります。

① ウサギギク・・・高山植物で、木曽駒ケ岳で見つけました。黄色い花が印象的ですが、名前の由来は葉の形です。対生の葉がウサギの耳に似ているからです。
② ウツギ(別名ウノハナ=卯の花)・・・「オカラ」のことではありません。「卯月」(旧暦の4月)に咲くので。「卯」はウサギのこと。花が真っ白なのでウサギを連想したのかも知れません。
③ 昨年11月8日夜の皆既月食の写真です。よく言われる「ウサギが餅つきをしている」姿がはっきりと写っています。ちなみに下に写っている点は天王星です。

④ 「大黒様と稲葉の白ウサギ」・・・出雲大社の境内にありました。「古事記」で有名な大国主命の物語ですが、このごろの子供たちはこの童話を知っているのでしょうか?
⑤ 15年ほど前にアイルランドの旅をしました。首都ダブリンのメインストリートに、ユニークな「ウサギの彫刻」を見つけました。イギリスの彫刻家バリー・フラナガンの作品です。この人の作品は、名古屋の白川公園にもあります。

岐阜・柳ケ瀬商店街
岐阜駅の北、岐阜公園の西あたりに「柳ケ瀬」と呼ばれる商店街がある。この一帯は明治30年ころから盛り場として出発した。大正期には博覧会ブームの時流に乗って、商業の街としての発展を遂げた。昭和の全盛期には「柳ぶら族」も誕生、美川憲一の「柳ケ瀬ブルース」も大ヒット曲となった。
ところが平成の時代に入り、大きな郊外型のショッピングモールが出来ると、客足の途絶えた柳ケ瀬の大型店舗は次々に徹底してしまった。しかもその跡地は長年放置されるという状態が続いてきた。個人店舗も閉鎖して、「シャッター街」と呼ばれるまでになってしまった。

先日「大ナゴヤ大学」のイベントで、「柳ケ瀬のまち歩き」に参加した。なんと商店街が以前のように賑わいを見せているではないか。「柳ケ瀬日常ニナーレ」という活動が行われているのである。10年ほど前から、ここに移り住んだ建築家などが始めた「リノベーションまちづくり」の一環である。
柳ケ瀬地区とは300m四方のエリアを指し、12の商店通りで構成されている。再生気運の中で、約150店もの新規出店があったという。大店舗も復活している。ちょうどこの日は、月2回の「SAUDAY BUILDING MARKET」の日で、通路に露店が立ち並んでいた。音楽などのストリート・パフォーマンスも行われていた。
ところが平成の時代に入り、大きな郊外型のショッピングモールが出来ると、客足の途絶えた柳ケ瀬の大型店舗は次々に徹底してしまった。しかもその跡地は長年放置されるという状態が続いてきた。個人店舗も閉鎖して、「シャッター街」と呼ばれるまでになってしまった。

先日「大ナゴヤ大学」のイベントで、「柳ケ瀬のまち歩き」に参加した。なんと商店街が以前のように賑わいを見せているではないか。「柳ケ瀬日常ニナーレ」という活動が行われているのである。10年ほど前から、ここに移り住んだ建築家などが始めた「リノベーションまちづくり」の一環である。
柳ケ瀬地区とは300m四方のエリアを指し、12の商店通りで構成されている。再生気運の中で、約150店もの新規出店があったという。大店舗も復活している。ちょうどこの日は、月2回の「SAUDAY BUILDING MARKET」の日で、通路に露店が立ち並んでいた。音楽などのストリート・パフォーマンスも行われていた。
小冊子『なごやの緑』
昭和40年代になると、「大気汚染」や「コンクリート・ジャングル」のアンチテーゼとして、「都市の緑化」が叫ばれるようになった。名古屋市では、市民局に「緑化対策課」を設置して、積極的にこの施策に対応することとなる。後に土木局の緑地課と統合されて「緑政局」へと発展する部局である。
昭和48年(1973)に小冊子『なごやの緑』が発刊される。中日新聞の名古屋市民版に連載されていた「緑」と「名木」をまとめたもので、「緑のガイドブック」とも言える資料である。50年も経過して、保存している人も少ないものと考えられるので、ここにその一部をご紹介する。

表紙及び本山市長の巻頭言、そして「名木」の中から「椙山女学園のカシワ」(筆者の執筆)である。

昭和48年(1973)に小冊子『なごやの緑』が発刊される。中日新聞の名古屋市民版に連載されていた「緑」と「名木」をまとめたもので、「緑のガイドブック」とも言える資料である。50年も経過して、保存している人も少ないものと考えられるので、ここにその一部をご紹介する。

表紙及び本山市長の巻頭言、そして「名木」の中から「椙山女学園のカシワ」(筆者の執筆)である。

ちょっと一休み(私ごとですが)
名古屋市に就職して(東山植物園に勤務)、最初のボーナスで一眼レフのカメラを買いました。憧れのペンタックス。担当が野外植物の管理、日本庭園整備の設計も任されました。趣味と実益を兼ねて、野山を歩いて山野草の写真を撮りました。
リバーサルフィルムで、一番色が良く、長く傷まない「コダックのエクタクローム」を使いました。大事に「お茶箱」にしまってきましたので、50年経った今も、まだ何とか色が残っています。保存している
800種類の中から自慢の4枚を掲載します。

①ツリフネソウ・・・北アルプス登山の帰り道、徳本峠で初めて見付けました。その奇妙な形と美しさに
感動しました。
②ツチアケビ(別名:ヤマノカミノシャクジョウ)・・・稲武で出会ったときに、奇妙すぎて何の仲間かも
分からない。牧野図鑑を1ページ目からめくって調べました。運の悪いことに「ラン科」、889ページ
目(905ページ中)でした。(徹夜)
③イタチササゲ・・・美しい構図を目指しますが、その植物の特色を写しこむように努めます。この写真
はベスト。花も実も、複葉の先端のヒゲまで写し込むことができました。
④ママコナ・・・ピンク色で可愛らしい花です。下の花弁に米粒のような2つの模様があるので「ままこ
菜」と言います。このとき見つけただけで、その後一度も出会っていません。まさに、一期一会です。
リバーサルフィルムで、一番色が良く、長く傷まない「コダックのエクタクローム」を使いました。大事に「お茶箱」にしまってきましたので、50年経った今も、まだ何とか色が残っています。保存している
800種類の中から自慢の4枚を掲載します。

①ツリフネソウ・・・北アルプス登山の帰り道、徳本峠で初めて見付けました。その奇妙な形と美しさに
感動しました。
②ツチアケビ(別名:ヤマノカミノシャクジョウ)・・・稲武で出会ったときに、奇妙すぎて何の仲間かも
分からない。牧野図鑑を1ページ目からめくって調べました。運の悪いことに「ラン科」、889ページ
目(905ページ中)でした。(徹夜)
③イタチササゲ・・・美しい構図を目指しますが、その植物の特色を写しこむように努めます。この写真
はベスト。花も実も、複葉の先端のヒゲまで写し込むことができました。
④ママコナ・・・ピンク色で可愛らしい花です。下の花弁に米粒のような2つの模様があるので「ままこ
菜」と言います。このとき見つけただけで、その後一度も出会っていません。まさに、一期一会です。
飯田の元善光寺
“信州信濃の善光寺”、“牛に曳かれて善光寺”などと謳われる長野市の「善光寺」は、今年、7年毎に行われる「御開帳」の年である。御本尊は日本最古と伝わる「一光三尊阿弥陀如来」で、絶対秘仏となっている。開帳されるのは、秘仏本尊の御身代り「前立本尊」である。
正式名を「善光寺」と呼ぶお寺は、全国に119か所あるという。この近くには、愛知県・稲沢市の「祖父江善光寺東海別院」、岐阜市・伊奈波の「善光寺安乗院」などがある。長野県・飯田市には「元善光寺」がある。皇極元年(642)に長野に遷座するまではここにあったという意味で「元」という。

我が国への仏教伝来は、欽明天皇の御代(538)と言われている。「阿弥陀如来」が百済から贈られてきた。しかし、受け入れを拒む勢力もあり、賛成派の蘇我氏と反対派の物部氏の争いとなった。仏像は、物部氏によって難波の海に沈められてしまったのである。
その後、推古天皇の10年(602)に飯田・座光寺の住人本多善光(よしみつ)が、難波の堀から拾い上げて故郷にお祀りしたのが善光寺の始まりである。
元善光寺には7年ぶりにお詣りをした。国道153号の車中から、立ち退きの家々を数多く見た。リニア中央新幹線の駅舎建設のための工事である。(2020・7・14「リニア飯田駅」参照)

正式名を「善光寺」と呼ぶお寺は、全国に119か所あるという。この近くには、愛知県・稲沢市の「祖父江善光寺東海別院」、岐阜市・伊奈波の「善光寺安乗院」などがある。長野県・飯田市には「元善光寺」がある。皇極元年(642)に長野に遷座するまではここにあったという意味で「元」という。

我が国への仏教伝来は、欽明天皇の御代(538)と言われている。「阿弥陀如来」が百済から贈られてきた。しかし、受け入れを拒む勢力もあり、賛成派の蘇我氏と反対派の物部氏の争いとなった。仏像は、物部氏によって難波の海に沈められてしまったのである。
その後、推古天皇の10年(602)に飯田・座光寺の住人本多善光(よしみつ)が、難波の堀から拾い上げて故郷にお祀りしたのが善光寺の始まりである。
元善光寺には7年ぶりにお詣りをした。国道153号の車中から、立ち退きの家々を数多く見た。リニア中央新幹線の駅舎建設のための工事である。(2020・7・14「リニア飯田駅」参照)

「牧野新聞」
少し変わった話題で・・・昨日の中日新聞夕刊に「牧野新聞」の話題が載っていた。植物学者・牧野富太郎が植物標本(腊葉=押し葉)作成のために使用した新聞紙が、歴史的に貴重な資料だというのだ。40万点が保存され、さらに10万点が発見されたとのこと。
牧野富太郎(1862~1957)は、「日本の植物学の父」とも呼ばれる。多数の新種を発見するなど、黎明期の植物分類学の権威である。一般の人は「牧野日本植物図鑑」によりその名を知っていると思う。その研究のために50万点もの植物標本を残したのである。

「植物標本」と「新聞紙」?と思われるので、植物標本の作り方をご説明しよう。樹木の枝葉や草本は、乾燥した押し葉にすると長く(永久に)保存することができる。枝や葉は新聞紙に挟み、板で抑えて重石を置く。採集旅行の時には板で挟んで強く縛る。湿った新聞紙は毎日取り換えなければならない。
上右の写真は、私が55年ほど前の大学時代に実習で作成した標本である。上手な出来とは言えないが、今でも形がしっかりと残っている。「いつ・どこで・だれが・コバンノキ」を採集したかの証拠となる資料である。写真の「ウバユリ」と「オオウバユリ」は、牧野富太郎が発見し命名した植物である。

牧野富太郎(1862~1957)は、「日本の植物学の父」とも呼ばれる。多数の新種を発見するなど、黎明期の植物分類学の権威である。一般の人は「牧野日本植物図鑑」によりその名を知っていると思う。その研究のために50万点もの植物標本を残したのである。

「植物標本」と「新聞紙」?と思われるので、植物標本の作り方をご説明しよう。樹木の枝葉や草本は、乾燥した押し葉にすると長く(永久に)保存することができる。枝や葉は新聞紙に挟み、板で抑えて重石を置く。採集旅行の時には板で挟んで強く縛る。湿った新聞紙は毎日取り換えなければならない。
上右の写真は、私が55年ほど前の大学時代に実習で作成した標本である。上手な出来とは言えないが、今でも形がしっかりと残っている。「いつ・どこで・だれが・コバンノキ」を採集したかの証拠となる資料である。写真の「ウバユリ」と「オオウバユリ」は、牧野富太郎が発見し命名した植物である。

伊能忠敬測量之跡
伊能忠敬の測量図を見に行ったことがある。2004年10月に、名古屋ドームで開催された「大日本沿海輿地図」の展覧会である。明治に写された伊能大図で、アメリカに渡っていたものが発見されて里帰りしたのだという。
名古屋ドームの人工芝の上に日本列島の形に並べられた。全部で214枚、1枚がタタミ1畳分もあろうかとの大きさ(少しオーバーか?)なので、ライトの選手の守備範囲いっぱいに広げられていた。海岸沿いに細かく描かれた地図を、列島一周歩いて観る。あまり大きいので全体像を見るためには、外野席に登って見なければならない。

伊能忠敬は、江戸中期の地理・暦の学者である。我が国最初の実測地図を作製した。生まれは上総、今の千葉県佐原である。江戸に出て西洋暦法を学び、幕府の命により蝦夷も含め全国を測量した。踏査は55歳から始め、73歳で亡くなるまで続けられた。その間に、4000万歩も歩いたという。
尾張には、享保3年(1803)に訪れている。飛島村の筏川近くに、記念する石碑が立っている。「伊能忠敬測量之跡」である。石の銘板には、ここ大宝新田から御嶽山・恵那山・本宮山の方向に矢印が刻まれている。
今、忠敬の生涯を描いた映画が上映されていると聞いた。主演は中井貴一と北川景子、「大河への道」というタイトルである。私も測量会社の社員であるので、忠敬の苦労話を見ておきたいと思う。
◆◆明日6月3日は「測量の日」です。(2013年6月13日のブログを参照してください)◆◆

名古屋ドームの人工芝の上に日本列島の形に並べられた。全部で214枚、1枚がタタミ1畳分もあろうかとの大きさ(少しオーバーか?)なので、ライトの選手の守備範囲いっぱいに広げられていた。海岸沿いに細かく描かれた地図を、列島一周歩いて観る。あまり大きいので全体像を見るためには、外野席に登って見なければならない。

伊能忠敬は、江戸中期の地理・暦の学者である。我が国最初の実測地図を作製した。生まれは上総、今の千葉県佐原である。江戸に出て西洋暦法を学び、幕府の命により蝦夷も含め全国を測量した。踏査は55歳から始め、73歳で亡くなるまで続けられた。その間に、4000万歩も歩いたという。
尾張には、享保3年(1803)に訪れている。飛島村の筏川近くに、記念する石碑が立っている。「伊能忠敬測量之跡」である。石の銘板には、ここ大宝新田から御嶽山・恵那山・本宮山の方向に矢印が刻まれている。
今、忠敬の生涯を描いた映画が上映されていると聞いた。主演は中井貴一と北川景子、「大河への道」というタイトルである。私も測量会社の社員であるので、忠敬の苦労話を見ておきたいと思う。
◆◆明日6月3日は「測量の日」です。(2013年6月13日のブログを参照してください)◆◆

あいち健康の森
大府市は境川の最下流、衣浦湾入り江の付け根に位置する。面積約33平方キロ、人口約9万3000人の町である。中ほどに東海道本線と武豊線の交差する大府駅があり、北部には伊勢湾岸自動車道や名四国道が走る交通の要所でもある。
市の南部に「健康」をテーマにした巨大な県営施設がある。「あいち健康の森」である。100haの広大な敷地は、「健康ゾーン」「運動ゾーン」「研究ゾーン」「生きがいゾーン」「福祉ゾーン」の5つゾーンに分かれている。その面積の半分・約50haは、都市公園としても位置付けられている。

その中心的施設として「あいち健康プラザ」がある。国内最先端の健康づくりの総合施設である。“健康がもたらす喜び・幸せ・楽しさ”を求めて「健康宿泊館」(63室の宿泊施設)、「健康科学館」(参加体験型展示室)、健康情報館(図書やネット)、「健康開発館」(コース別の教室)がある。
建物は真ん中のアトリウムを中心に、左右に広がっている。アトリウムはガラスのドーム屋根に、壁面も全てガラス張りである。中には池もあり、熱帯植物も植えられている。アトリウムをくぐり抜けると西に向かって広い園路があり、ボランティア活動の拠点「交流センター」につながる。さらにその西側には、大府市経営の「JAあぐりタウン・げんきの郷」がある。とにかく広い。

市の南部に「健康」をテーマにした巨大な県営施設がある。「あいち健康の森」である。100haの広大な敷地は、「健康ゾーン」「運動ゾーン」「研究ゾーン」「生きがいゾーン」「福祉ゾーン」の5つゾーンに分かれている。その面積の半分・約50haは、都市公園としても位置付けられている。

その中心的施設として「あいち健康プラザ」がある。国内最先端の健康づくりの総合施設である。“健康がもたらす喜び・幸せ・楽しさ”を求めて「健康宿泊館」(63室の宿泊施設)、「健康科学館」(参加体験型展示室)、健康情報館(図書やネット)、「健康開発館」(コース別の教室)がある。
建物は真ん中のアトリウムを中心に、左右に広がっている。アトリウムはガラスのドーム屋根に、壁面も全てガラス張りである。中には池もあり、熱帯植物も植えられている。アトリウムをくぐり抜けると西に向かって広い園路があり、ボランティア活動の拠点「交流センター」につながる。さらにその西側には、大府市経営の「JAあぐりタウン・げんきの郷」がある。とにかく広い。

鵜沼宿
鵜沼(美濃)と犬山(尾張)は木曽川を挟んだ対岸に位置し、互いに牽制し合っていた。鵜沼城は15世紀の中ごろに、土岐氏や斉藤氏に仕えた大沢氏が築城したという。現在の犬山橋を渡った、右側に見える岩山が城跡である。その城下に、中山道の鵜沼宿があった。
鵜沼宿は江戸から数えて52番目の宿場で、太田宿と加納宿(岐阜市・2014・5・23参照)の中間にある。太田宿とは3里(12km)ほどであるが、加納宿へは4里以上と長い距離がある。うとう峠を越えて東の見付を曲がると大安寺川の橋を渡る。橋のたもとに大きな枝垂れ柳が植えてあった。

街道の両側には黒い塀や板壁など、かつての旅籠の面影を残す住宅が並んでいる。右には本陣、脇本陣が並んでいたが、本陣は明治になって取り壊され、今は普通の住宅が建っている。脇本陣も失われていたが、古い図面が残っていたため最近復元された。
左側に大きな土蔵造りの建物が2棟並んでいる。これは「菊川酒造」の工場で、今も製造を行っている。この宿場町も近代化が進んでいたが、近年、景観重要建造物の保存改修や脇本陣の復元を行うとともに、電線の地中化やせせらぎ水路を整備するなど景観の保全に力を入れている。

鵜沼宿は江戸から数えて52番目の宿場で、太田宿と加納宿(岐阜市・2014・5・23参照)の中間にある。太田宿とは3里(12km)ほどであるが、加納宿へは4里以上と長い距離がある。うとう峠を越えて東の見付を曲がると大安寺川の橋を渡る。橋のたもとに大きな枝垂れ柳が植えてあった。

街道の両側には黒い塀や板壁など、かつての旅籠の面影を残す住宅が並んでいる。右には本陣、脇本陣が並んでいたが、本陣は明治になって取り壊され、今は普通の住宅が建っている。脇本陣も失われていたが、古い図面が残っていたため最近復元された。
左側に大きな土蔵造りの建物が2棟並んでいる。これは「菊川酒造」の工場で、今も製造を行っている。この宿場町も近代化が進んでいたが、近年、景観重要建造物の保存改修や脇本陣の復元を行うとともに、電線の地中化やせせらぎ水路を整備するなど景観の保全に力を入れている。

引用
犬山城の外堀
犬山城外堀の発掘調査が行われている。場所は大手門と城下町の境界辺りである。見つかった外堀の幅は17.5m、深さは6.5m。水のない空堀で、石垣を造らない素掘りであったことも判明した。これは、江戸時代に描かれた絵図やその記載とほぼ一致しているという。
木曽川左岸に位置する犬山は、尾張と美濃の国堺に当たり、交通上・軍事上の要衝であった。それ以前から城があったが、現在の位置に建てられたのは文禄4年(1595)のことである。江戸時代になって、家康の9男・義直が尾張藩主となるとその御付家老・成瀬氏が入城することとなった。

明治になって廃城となり、門などは撤去され堀は埋められてしまった。しかし天守は保存され、国宝指定された5城のひとつに数えられている。ちなみに他の4城は、姫路城・松本城・彦根城・松江城である。残念ながら、戦前に真っ先に国宝指定された名古屋城は、戦災で焼けてしまった。
犬山城は、つい最近まで個人所有であったことでも有名である。平成16年に公益社団法人に移管された。城の南一帯に並ぶ町屋は、今も古建築が残されている。現在、「伝統的建造物群保存地区」に指定すべく委員会を立ち上げて準備している。指定されれば、愛知県では足助、有松に次いで3番目となる。

木曽川左岸に位置する犬山は、尾張と美濃の国堺に当たり、交通上・軍事上の要衝であった。それ以前から城があったが、現在の位置に建てられたのは文禄4年(1595)のことである。江戸時代になって、家康の9男・義直が尾張藩主となるとその御付家老・成瀬氏が入城することとなった。

明治になって廃城となり、門などは撤去され堀は埋められてしまった。しかし天守は保存され、国宝指定された5城のひとつに数えられている。ちなみに他の4城は、姫路城・松本城・彦根城・松江城である。残念ながら、戦前に真っ先に国宝指定された名古屋城は、戦災で焼けてしまった。
犬山城は、つい最近まで個人所有であったことでも有名である。平成16年に公益社団法人に移管された。城の南一帯に並ぶ町屋は、今も古建築が残されている。現在、「伝統的建造物群保存地区」に指定すべく委員会を立ち上げて準備している。指定されれば、愛知県では足助、有松に次いで3番目となる。

諏訪湖畔の間欠泉
諏訪湖は面白い地形である。周辺の山々から何本もの川となって水が集まり、1本の天竜川から下流へ流れていく。フォッサマグナの西辺・糸魚川静岡構造線と中央構造線(2020・8・9大鹿村参照)の交差部分でもある。諏訪湖が全面的に凍るとその一部がせり上がって1本の筋が現れる。
この珍しい現象は「御神渡り(おみわたり)」と呼ばれ、諏訪大社の「男神(上社)」と「女神(下社)」を結ぶ道だと言われている。この筋道の方向やせり上がりの具合などを見て、その年の豊作や世相を占う神事が行われるという。

諏訪湖遊覧船の船着き場を過ぎたところに「間欠泉センター」があり、その前庭で熱湯と水蒸気が吹き上がる。昭和58年に温泉の掘削を行ったところ、間欠泉が噴出したという。当初は高さ50mまで吹き上がり世界第2位とうたわれたが、今は5mほどに留まっている。
間欠泉のメカニズムは諸説あるが、空洞説がもっともらしい。地下に空洞があり、地熱によって加熱されて水蒸気圧が高まると噴出が始まる。一旦噴出すると気圧が下がって停止し、また上昇すると吹き出すのである。
湖を周遊するランニング道・自転車道・車道の3本が並行して走っている。レンタサイクルで走ったが、水平な道なので楽々走ることができた。

この珍しい現象は「御神渡り(おみわたり)」と呼ばれ、諏訪大社の「男神(上社)」と「女神(下社)」を結ぶ道だと言われている。この筋道の方向やせり上がりの具合などを見て、その年の豊作や世相を占う神事が行われるという。

諏訪湖遊覧船の船着き場を過ぎたところに「間欠泉センター」があり、その前庭で熱湯と水蒸気が吹き上がる。昭和58年に温泉の掘削を行ったところ、間欠泉が噴出したという。当初は高さ50mまで吹き上がり世界第2位とうたわれたが、今は5mほどに留まっている。
間欠泉のメカニズムは諸説あるが、空洞説がもっともらしい。地下に空洞があり、地熱によって加熱されて水蒸気圧が高まると噴出が始まる。一旦噴出すると気圧が下がって停止し、また上昇すると吹き出すのである。
湖を周遊するランニング道・自転車道・車道の3本が並行して走っている。レンタサイクルで走ったが、水平な道なので楽々走ることができた。

神社の注連縄(しめなわ)
ここに4つの神社の写真を並べてみた。大神神社(三輪山)・出雲大社・諏訪大社(下社・秋宮)そして伊勢神宮(外宮)である。並べた理由は、「注連縄(しめなわ)」について考えてみたいからである。3つの神社には注連縄があるが、伊勢神宮だけには架けられていない。
古事記の国譲りの項で、高天原の天照大御神は「豊芦原は我が御子が知らす国ぞ」と仰せられた。そして、地上への使者として建御雷神が遣わされた。それまで地上を治め国づくりに励んできた大国主神は、息子の事代主神に相談すると「天津神の御子に譲りましょう」と答えた。
弟の建御名方神は納得せず、建御雷神に力比べを挑んだ。しかし、軽々と投げ飛ばされて信濃の国まで追いつめられた。弟神は諏訪から出ないことを約束して許され、後に「諏訪大社」に祀られることとなる。大国主命は国譲りの見返りに見事な神社を造ってもらうことになった。「出雲大社」である。

大国主命が国造りに苦心しているとき、海を照らす神が「吾を倭の青垣の東の山の上に祀れ」と告げた。こうして祀られたのが「三輪山の大物主大神」である。この3つの神社は、いずれも国津神・大国主命と縁がある。一方、伊勢神宮は天津神・天照大神を祀っている。この違いが、注連縄の有る無しにかかわるのだろうか?
「注連縄」は、神域と現世を隔てる結界の役目を果たす。古事記では、天岩戸から出た天照大神が二度と岩戸に戻れないように注連縄を張ったという。神社などの神域を囲む注連縄は、‟入ってはいけない”でなく、‟国津神はそこから出てはいけない”という境界を示しているのかも知れない。神々は10月(神無月=出雲では神有月)だけ許されて出雲に集るのである。(私の勝手な推論です)

古事記の国譲りの項で、高天原の天照大御神は「豊芦原は我が御子が知らす国ぞ」と仰せられた。そして、地上への使者として建御雷神が遣わされた。それまで地上を治め国づくりに励んできた大国主神は、息子の事代主神に相談すると「天津神の御子に譲りましょう」と答えた。
弟の建御名方神は納得せず、建御雷神に力比べを挑んだ。しかし、軽々と投げ飛ばされて信濃の国まで追いつめられた。弟神は諏訪から出ないことを約束して許され、後に「諏訪大社」に祀られることとなる。大国主命は国譲りの見返りに見事な神社を造ってもらうことになった。「出雲大社」である。

大国主命が国造りに苦心しているとき、海を照らす神が「吾を倭の青垣の東の山の上に祀れ」と告げた。こうして祀られたのが「三輪山の大物主大神」である。この3つの神社は、いずれも国津神・大国主命と縁がある。一方、伊勢神宮は天津神・天照大神を祀っている。この違いが、注連縄の有る無しにかかわるのだろうか?
「注連縄」は、神域と現世を隔てる結界の役目を果たす。古事記では、天岩戸から出た天照大神が二度と岩戸に戻れないように注連縄を張ったという。神社などの神域を囲む注連縄は、‟入ってはいけない”でなく、‟国津神はそこから出てはいけない”という境界を示しているのかも知れない。神々は10月(神無月=出雲では神有月)だけ許されて出雲に集るのである。(私の勝手な推論です)

三輪山と大神神社
三輪山は山そのものがご神体で、そこには大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が鎮まっている。そのため、大神(おおみわ)神社には本殿はなく、拝殿を通して三輪山を拝むという原初的な形態を留めている。二の鳥居をくぐると長い参道があり、拝殿の後ろにも神の山との区切りとして、謎の多い「三ツ鳥居」が立っている。拝殿、三ツ鳥居とも重要文化財である。
三輪山はピラミッド型の美しく神秘的な形をしている。ご神体であるので、千古斧を入れたことがない。今も、届けを出さなければ「登拝」することができない。7年前の名工大在学中に、先生の調査のお供で登ったことがある。標高467m、往復4kmの岨道には急な坂もあり、3時間ほどを要した。

写真撮影は禁止されているので、記憶をたどって頂上までの様子を再現してみよう。登拝口からすぐに急坂となる。その後しばらく平坦な道を行くと沢流れがあり、標高270mのところに「三光の滝」が落ちている。露出した木の根やぬかるみも多く、足元に注意して歩かなければならない。
さらに100mほど登ると巨大な杉に囲まれた「中津磐座(いわくら)」の巨石がある。樹林はほとんどシイやカシの照葉樹であるが、一部にカラスザンショウなど陽樹の森や笹の草原も混ざっている。山頂には「高宮神社」と「奥津磐座」がある。古代のままの霊威を感じ、身の引き締まる思いをした。

◆◆今日9月21日は中秋の名月です◆◆
三輪山はピラミッド型の美しく神秘的な形をしている。ご神体であるので、千古斧を入れたことがない。今も、届けを出さなければ「登拝」することができない。7年前の名工大在学中に、先生の調査のお供で登ったことがある。標高467m、往復4kmの岨道には急な坂もあり、3時間ほどを要した。

写真撮影は禁止されているので、記憶をたどって頂上までの様子を再現してみよう。登拝口からすぐに急坂となる。その後しばらく平坦な道を行くと沢流れがあり、標高270mのところに「三光の滝」が落ちている。露出した木の根やぬかるみも多く、足元に注意して歩かなければならない。
さらに100mほど登ると巨大な杉に囲まれた「中津磐座(いわくら)」の巨石がある。樹林はほとんどシイやカシの照葉樹であるが、一部にカラスザンショウなど陽樹の森や笹の草原も混ざっている。山頂には「高宮神社」と「奥津磐座」がある。古代のままの霊威を感じ、身の引き締まる思いをした。

◆◆今日9月21日は中秋の名月です◆◆
飛鳥の古宮と大和盆地
飛鳥の里を自転車で走り廻ったことがある。一番の目的は、「大化の改新」に関わる古跡を見ることであった。甘樫の丘に登り、飛鳥川沿いの集落や法興寺(今は飛鳥寺)などを見た。その中に、2つの古宮遺跡があった。「小墾田の宮」と「板葺の宮」である。
「小墾田の宮」は、推古天皇(在位593~628)の宮殿があったと推定されている。田圃の中に説明看板と1本の松の木があった。遣隋使の派遣や隋使来訪時の歓待が行われたという。
「板葺の宮」は、東西156m、南北197mの掘立柱列で囲われた区画があったという。区画の北側にあった高床式の大きな建物と大井戸が検出され、復元されていた。この宮殿が、「乙巳の変」(蘇我入鹿殺害)の舞台となったところである。

大和盆地(奈良盆地)は、北に平城京(奈良:710~794)、南に飛鳥がある。東に石上神社から三輪山にかけての山々、西には矢田丘陵・生駒山地、葛城山系が連なっている。飛鳥川をはじめとする小河川が掌状に集って1つの流れになり、大坂湾へと流れていく。
古代の大和王権にとっては、恰好の都だったのであろう。広大な水田からの恵みを背景とし、瀬戸内海からの交通の便もあり、山々に囲まれて外敵からの防御にも適している。いくつかの宮殿を転々としたが、平安京(京都:794)に遷都するまで、都であり続けた。

◆◆いろいろな資料をもとに作図したオリジナルです。苦心の作です。◆◆
「小墾田の宮」は、推古天皇(在位593~628)の宮殿があったと推定されている。田圃の中に説明看板と1本の松の木があった。遣隋使の派遣や隋使来訪時の歓待が行われたという。
「板葺の宮」は、東西156m、南北197mの掘立柱列で囲われた区画があったという。区画の北側にあった高床式の大きな建物と大井戸が検出され、復元されていた。この宮殿が、「乙巳の変」(蘇我入鹿殺害)の舞台となったところである。

大和盆地(奈良盆地)は、北に平城京(奈良:710~794)、南に飛鳥がある。東に石上神社から三輪山にかけての山々、西には矢田丘陵・生駒山地、葛城山系が連なっている。飛鳥川をはじめとする小河川が掌状に集って1つの流れになり、大坂湾へと流れていく。
古代の大和王権にとっては、恰好の都だったのであろう。広大な水田からの恵みを背景とし、瀬戸内海からの交通の便もあり、山々に囲まれて外敵からの防御にも適している。いくつかの宮殿を転々としたが、平安京(京都:794)に遷都するまで、都であり続けた。

◆◆いろいろな資料をもとに作図したオリジナルです。苦心の作です。◆◆
もし富士山が噴火したら・・・
以前、東京オリンピックの聖火台は「富士山噴火」をイメージしているのではと批判的に書いた。しかし、“これは国民に対する大災害の警告”であると前向きに解釈しよう。防災の日を契機に、富士山が噴火したらどうなるかを考えてみた。

まず、富士山の噴火の歴史を紐解いてみよう。富士山の構造と略年表は以下のとおりである。

富士山火山防災対策協議会が、今年3月に「富士山ハザードマップ」を改訂して公表している。まず「火砕流」と「熔岩流」のマップを見てみよう。静岡県と山梨県の近隣市町には、大きな被害が予測される。下の絵は1万年前に噴火したときの想像図であり、写真はその時に流れた熔岩が今も三島市に残されている状況である。(2016・9・5「三島熔岩流」参照)

最後に「火山灰」の分布図を見てみよう。横浜・東京を越えて、千葉県まで降り注ぐ様子が描かれている。2センチの降灰というのは大変な量である。鹿児島では、桜島が時々噴火して灰を降らすが、数ミリの厚さでも大変なことになるという。降灰は、鉄道・水道・道路交通などに大変な損害を与える。東京都の面積2200平方キロに2センチを掛けると、4400万立法メートルとなる。これは、ダンプトラック1000万台分に相当する。


まず、富士山の噴火の歴史を紐解いてみよう。富士山の構造と略年表は以下のとおりである。

富士山火山防災対策協議会が、今年3月に「富士山ハザードマップ」を改訂して公表している。まず「火砕流」と「熔岩流」のマップを見てみよう。静岡県と山梨県の近隣市町には、大きな被害が予測される。下の絵は1万年前に噴火したときの想像図であり、写真はその時に流れた熔岩が今も三島市に残されている状況である。(2016・9・5「三島熔岩流」参照)

最後に「火山灰」の分布図を見てみよう。横浜・東京を越えて、千葉県まで降り注ぐ様子が描かれている。2センチの降灰というのは大変な量である。鹿児島では、桜島が時々噴火して灰を降らすが、数ミリの厚さでも大変なことになるという。降灰は、鉄道・水道・道路交通などに大変な損害を与える。東京都の面積2200平方キロに2センチを掛けると、4400万立法メートルとなる。これは、ダンプトラック1000万台分に相当する。

東京オリンピックの聖火台
◆◆東京オリンピック2020の開会式が終わって1週間が経つけれど、新聞やテレビのどこからも声が上がらないので私が書くこととします。このブログは、あまり意見や批判を書かないのですが、この件はどうしても指摘しておきたいのです。聖火台の点火についてです。◆◆
開会式の各国選手団の行進やダンスなどの演技を見ていて、背景に気になる物体(富士山型のモニュメント)を見つけた。しかし、まさかそんなことはあるまいと悪い予感を打ち消していた。しかし、クライマックスの聖火の点火で、心配が現実のものとなった。やはり「富士山」は点火台であり、その頂上に聖火が点火されたのである。
このシーンを、富士山の火山噴火と見たのは私だけであろうか? あるいは誰もが、日本の象徴である富士山をモチーフにして世界の人たちにアピールするこのアイデアに、何も問題を感じなかったのだろうか? 私としては「富士山の噴火」は火砕流や降灰をもたらす大災害であり、いくらイベントとはいえ面白・可笑しく扱ってもらっては困るのである。

東京の人たち(神奈川・千葉・埼玉を含む)は、富士山噴火とそれがもたらす大惨事について日頃から警戒心を持っていないのだろうか。関東大震災のような直下型の地震や海溝型(トラフ)による津波と同じように、大被害を生ずるとは考えていないのだろうか。そんな来るかどうかも分からない先の心配などしていられないと言うのだろうか。
300年前の大噴火(1707年の宝永火山の噴火)では、0.7立方キロの火山灰が放出されたという。これが関東平野に降り注ぐと、厚い薄いはあるけれど平均すると10000平方キロの面積(東京都2200平方キロの約5倍)に7cm堆積することとなる。首都圏の機能がパンクしてしまう大惨事である。だから設計者は逆説的に・・・“そのための警鐘を国民に与えた”とでも言いたいのだろうか。
開会式の各国選手団の行進やダンスなどの演技を見ていて、背景に気になる物体(富士山型のモニュメント)を見つけた。しかし、まさかそんなことはあるまいと悪い予感を打ち消していた。しかし、クライマックスの聖火の点火で、心配が現実のものとなった。やはり「富士山」は点火台であり、その頂上に聖火が点火されたのである。
このシーンを、富士山の火山噴火と見たのは私だけであろうか? あるいは誰もが、日本の象徴である富士山をモチーフにして世界の人たちにアピールするこのアイデアに、何も問題を感じなかったのだろうか? 私としては「富士山の噴火」は火砕流や降灰をもたらす大災害であり、いくらイベントとはいえ面白・可笑しく扱ってもらっては困るのである。

東京の人たち(神奈川・千葉・埼玉を含む)は、富士山噴火とそれがもたらす大惨事について日頃から警戒心を持っていないのだろうか。関東大震災のような直下型の地震や海溝型(トラフ)による津波と同じように、大被害を生ずるとは考えていないのだろうか。そんな来るかどうかも分からない先の心配などしていられないと言うのだろうか。
300年前の大噴火(1707年の宝永火山の噴火)では、0.7立方キロの火山灰が放出されたという。これが関東平野に降り注ぐと、厚い薄いはあるけれど平均すると10000平方キロの面積(東京都2200平方キロの約5倍)に7cm堆積することとなる。首都圏の機能がパンクしてしまう大惨事である。だから設計者は逆説的に・・・“そのための警鐘を国民に与えた”とでも言いたいのだろうか。
飛鳥の「甘樫の丘」
「無用の豪族、蘇我氏を倒せ」・・・語呂合わせで「大化の改新」は645年と覚えた。中大兄皇子が中臣鎌足と諮って蘇我氏を滅ぼしたクーデターである。ただ最近では、「大化の改新」はその後の政治改革を指すのであって、事件そのものは「乙巳(いっし)の変」と呼ぶ。
蘇我氏は、専横を極めた「逆臣」と言われてきた。しかし、本当に蘇我蝦夷・入鹿父子は悪逆非道の逆臣だったのだろうか。いやそうではなく、当時、もっとも国際事情に精通した英明な政治家だったという意見もある。聖徳太子と一体になって遣隋使を派遣し、百済から仏教を導入するなど先見の明がある人物だったと。

◆甘樫の丘から見た天の香具山◆飛鳥の谷を流れる飛鳥川◆甘樫の丘からの法興寺跡と宮殿跡
◆「蘇我入鹿の首塚」、この小さなお墓は誰が造ったのだろう? 入鹿は今も甘樫の丘を見ている?
◆法興寺跡には、今では小さな「飛鳥寺」が建っている。
もう一つ大きな功績がある。聖徳太子が建立した「法隆寺」と並ぶ広大な「法興寺」の建設である。(二つ合わせると「仏法の興隆」となる。)この時期、大陸では、唐・高句麗・新羅・百済が勢力争いをしていて不穏であり、いつ日本に戦乱が及ぶかもしれないと蘇我氏は心配していた。
飛鳥の平面図を見ていただこう。法興寺は飛鳥の谷の入り口に位置している。これは宮殿を外敵から守ろうとする意図と見える。逆に南からの敵は馬子(島の大臣)邸で食い止める。谷に突き出た「甘樫の丘」には蘇我氏の邸宅があり、これも専横の証拠と言われてきた。
しかし、見方を変えるとこの丘は敵の状況を見張る恰好の管制塔であり山城でもある。蘇我氏は娘を天皇に輿入れさせた外戚であり、皇室とともに繁栄しようと考えていた。「歴史書」(日本書紀など)は勝者が書き残すものだから、注意して読む必要があると思う。
◆ ちょうどこの原稿を書き上げた日に、我家の庭に「タマムシ」が飛んできた。なんという縁であろう!! 今日では貴重な昆虫なので、数枚の写真に収めたのち空へと放してあげた。

蘇我氏は、専横を極めた「逆臣」と言われてきた。しかし、本当に蘇我蝦夷・入鹿父子は悪逆非道の逆臣だったのだろうか。いやそうではなく、当時、もっとも国際事情に精通した英明な政治家だったという意見もある。聖徳太子と一体になって遣隋使を派遣し、百済から仏教を導入するなど先見の明がある人物だったと。

◆甘樫の丘から見た天の香具山◆飛鳥の谷を流れる飛鳥川◆甘樫の丘からの法興寺跡と宮殿跡
◆「蘇我入鹿の首塚」、この小さなお墓は誰が造ったのだろう? 入鹿は今も甘樫の丘を見ている?
◆法興寺跡には、今では小さな「飛鳥寺」が建っている。
もう一つ大きな功績がある。聖徳太子が建立した「法隆寺」と並ぶ広大な「法興寺」の建設である。(二つ合わせると「仏法の興隆」となる。)この時期、大陸では、唐・高句麗・新羅・百済が勢力争いをしていて不穏であり、いつ日本に戦乱が及ぶかもしれないと蘇我氏は心配していた。
飛鳥の平面図を見ていただこう。法興寺は飛鳥の谷の入り口に位置している。これは宮殿を外敵から守ろうとする意図と見える。逆に南からの敵は馬子(島の大臣)邸で食い止める。谷に突き出た「甘樫の丘」には蘇我氏の邸宅があり、これも専横の証拠と言われてきた。
しかし、見方を変えるとこの丘は敵の状況を見張る恰好の管制塔であり山城でもある。蘇我氏は娘を天皇に輿入れさせた外戚であり、皇室とともに繁栄しようと考えていた。「歴史書」(日本書紀など)は勝者が書き残すものだから、注意して読む必要があると思う。
◆ ちょうどこの原稿を書き上げた日に、我家の庭に「タマムシ」が飛んできた。なんという縁であろう!! 今日では貴重な昆虫なので、数枚の写真に収めたのち空へと放してあげた。

ハンガリー国境の町「ショプロン」
「ベルリンの壁」が崩壊してから、すでに30年以上になる。東西冷戦の象徴として壁が出来たのは昭和36年(1961)のこと。分裂した東ドイツから西ドイツへの人口流出が続いたので、頭を痛めた東ドイツ(ソ連?)政府が鉄条網を張ったのが最初である。その後、コンクリート壁へと強化された。
ハンガリーからオーストリアのウィーンへ向かう途中、国境の町ショプロンに立ち寄った。「ヨーロッパの美しい村30選」に選ばれるほど街並みの美しい町だが、もう一つ有名なことがある。1989年、東ドイツ国民が「ピクニック大会」と称して、隣国のオーストリアへ大量越境した事件の起きた町なのである。

当時、同じ東側陣営であったハンガリーへは東ドイツからの旅行が許されていた。西ドイツ国民は、国境のショプロンに東の市民を集めて西へ脱出させたのである。亡命に手を焼いた東ドイツ政府は、西への旅行を認めることとなり、ひいてはベルリンの壁崩壊へと繫がっていくこととなった。
国境近くに円筒形の石張りモニュメントがあり、当時の写真が貼ってある。バリケードを壊して脱出する市民や、警官と言い争う市民などが写っている。ショプロンの町は教会前広場やシンボルの「火の見塔」など美しい町である。広場の外周には、お茶や食事のできるオープンカフェが並んでいた。
ハンガリーからオーストリアのウィーンへ向かう途中、国境の町ショプロンに立ち寄った。「ヨーロッパの美しい村30選」に選ばれるほど街並みの美しい町だが、もう一つ有名なことがある。1989年、東ドイツ国民が「ピクニック大会」と称して、隣国のオーストリアへ大量越境した事件の起きた町なのである。

当時、同じ東側陣営であったハンガリーへは東ドイツからの旅行が許されていた。西ドイツ国民は、国境のショプロンに東の市民を集めて西へ脱出させたのである。亡命に手を焼いた東ドイツ政府は、西への旅行を認めることとなり、ひいてはベルリンの壁崩壊へと繫がっていくこととなった。
国境近くに円筒形の石張りモニュメントがあり、当時の写真が貼ってある。バリケードを壊して脱出する市民や、警官と言い争う市民などが写っている。ショプロンの町は教会前広場やシンボルの「火の見塔」など美しい町である。広場の外周には、お茶や食事のできるオープンカフェが並んでいた。
📎 「トング散歩」
自宅待機、テレワークも長くなり、書斎?でパソコンと向き合う時間 (このブログ作成など) が長くなった。すると、目も疲れるし姿勢も悪くなる。そこで、散歩を日課とすることにした。
一方、昨年の秋、家の近所に超大型のショッピング・モールが開店した。すると家の前の歩道を歩く人が増え、その結果ゴミが捨てられることとなる。散歩しながら考えた。トングを持って歩こうと。
どうせ、何もしないで歩くだけなら、ついでにゴミを拾おうとの考え。ボランティアという意識はあまりない。あくまで散歩がメインである。私は、このウォーキングを「トング散歩」と名付けた。

携帯付属の万歩計を見るのも楽しみ。概ね3000歩ほど歩く。すると、レジ袋一杯くらい集まる。数はタバコの吸い殻が一番多い。ボリュームはペットボトルや空き缶、マスクも落ちている。
途中、自分の畑があるので立ち寄る。家で食べるだけの野菜を栽培している。大半はスーパーで買うが、自分で作る分ぐらいは無農薬にしようと思っている。少々虫に食われた野菜もOK。
散歩の後は清々しい。ゴミ拾いの楽しさは「なごやのまちを美しくする会」で教えてもらった。古い職場のOB仲間が100人ほどで構成、もう15年も続いている。(表紙の写真は小生の撮影)


一方、昨年の秋、家の近所に超大型のショッピング・モールが開店した。すると家の前の歩道を歩く人が増え、その結果ゴミが捨てられることとなる。散歩しながら考えた。トングを持って歩こうと。
どうせ、何もしないで歩くだけなら、ついでにゴミを拾おうとの考え。ボランティアという意識はあまりない。あくまで散歩がメインである。私は、このウォーキングを「トング散歩」と名付けた。

携帯付属の万歩計を見るのも楽しみ。概ね3000歩ほど歩く。すると、レジ袋一杯くらい集まる。数はタバコの吸い殻が一番多い。ボリュームはペットボトルや空き缶、マスクも落ちている。
途中、自分の畑があるので立ち寄る。家で食べるだけの野菜を栽培している。大半はスーパーで買うが、自分で作る分ぐらいは無農薬にしようと思っている。少々虫に食われた野菜もOK。
散歩の後は清々しい。ゴミ拾いの楽しさは「なごやのまちを美しくする会」で教えてもらった。古い職場のOB仲間が100人ほどで構成、もう15年も続いている。(表紙の写真は小生の撮影)


📎 太陽の恩恵
今、環境問題を考えるとき、「カーボンニュートラル」 という言葉が非常に大切である。“人の活動は二酸化炭素 (C02) 排出を伴うが、それと同じ量の炭酸ガスを吸収する” という概念である。温室効果ガスであるCO2を削減しないと温暖化が進み、人類の滅亡にも繋がるという危機感がある。
日本でも昨年 “2050年までに温室効果ガスの排出をゼロにする” “2050年カーボンニュートラル、脱炭素社会を目指す” という方針が出された。まことに結構な政策であるが、問題はその方法と実践であろう。今後、具体的な方策が示されると思うので注目したい。

上の図は 「光合成 (炭酸同化作用)」 を示した模式図です。小学校で勉強したと思いますがもう一度確認しておきましょう。植物の葉の葉緑素が、空気中の炭酸ガスと根から吸った水により、太陽光のエネルギーでデンプンなどをつくる作用です。酸素をつくり出すとともに気温も下げてくれます。
敦賀の原発廃炉の土地に大規模な太陽光パネルを設置し、その電気を利用して水素ガスを発生させるという記事が載っていました。私は、小規模ながら屋根の上に太陽光発電機を設置し、電力会社に売電を行っています。7年で採算がペイできました。貯蓄効果とともに環境貢献でもあります。


日本でも昨年 “2050年までに温室効果ガスの排出をゼロにする” “2050年カーボンニュートラル、脱炭素社会を目指す” という方針が出された。まことに結構な政策であるが、問題はその方法と実践であろう。今後、具体的な方策が示されると思うので注目したい。

上の図は 「光合成 (炭酸同化作用)」 を示した模式図です。小学校で勉強したと思いますがもう一度確認しておきましょう。植物の葉の葉緑素が、空気中の炭酸ガスと根から吸った水により、太陽光のエネルギーでデンプンなどをつくる作用です。酸素をつくり出すとともに気温も下げてくれます。
敦賀の原発廃炉の土地に大規模な太陽光パネルを設置し、その電気を利用して水素ガスを発生させるという記事が載っていました。私は、小規模ながら屋根の上に太陽光発電機を設置し、電力会社に売電を行っています。7年で採算がペイできました。貯蓄効果とともに環境貢献でもあります。


📎 月を愛でる
銀閣寺の本堂の前に、「向月台」と呼ぶ砂盛りと「銀沙灘(ぎんしゃだん)」という砂敷きがあります。その目的は、正面にある月待山に昇る月を観るためとも、月光を反射させて本堂を照らすためとも言われています。いずれにしろ、月を楽しむための装置に違いありません。
銀閣寺(慈照寺)を造営した室町幕府第8代将軍・足利義政は、15世紀後半の室町中期から戦国初期に生きた人です。この時代は、公家に代って武士が台頭し、文化的にもその担い手になりました。現在でも日本の伝統文化とされる能・茶の湯・生け花などがその基盤を整えた時代です。

殺伐とした戦乱の一方で、風流を愛でたのでしょう。方丈から、庭に昇る月を眺めて楽しみました。秋ならば虫の声を聴いたかも知れません。それに比べて現代人は、ライトアップなど人工的な照明を得ることができましたが、淡い月の光の美しさを忘れてしまいました。
言葉では「十五夜」「中秋の名月」「十三夜」「上弦の月」などと知ってはいますが、どんな月かは理解していませんでした。一度確認しようと百科事典で調べてみましたが、なかなか難しいものです。そこで、自分でその構造?を作図してみました。その成果が下の図です。ご覧ください。

銀閣寺(慈照寺)を造営した室町幕府第8代将軍・足利義政は、15世紀後半の室町中期から戦国初期に生きた人です。この時代は、公家に代って武士が台頭し、文化的にもその担い手になりました。現在でも日本の伝統文化とされる能・茶の湯・生け花などがその基盤を整えた時代です。

殺伐とした戦乱の一方で、風流を愛でたのでしょう。方丈から、庭に昇る月を眺めて楽しみました。秋ならば虫の声を聴いたかも知れません。それに比べて現代人は、ライトアップなど人工的な照明を得ることができましたが、淡い月の光の美しさを忘れてしまいました。
言葉では「十五夜」「中秋の名月」「十三夜」「上弦の月」などと知ってはいますが、どんな月かは理解していませんでした。一度確認しようと百科事典で調べてみましたが、なかなか難しいものです。そこで、自分でその構造?を作図してみました。その成果が下の図です。ご覧ください。

脱線“骨董市”
日本の建築は木材によるが、西洋の建物は石やレンガを使用する。木材は腐るので、おおむね一世代で新しく建て直すが、石の建物は何世代にも亘って住み続ける。家具・調度についても、こちらは新しいものを尊重するが、あちらは古いものを大切にする。一般傾向の話しです。
イギリスの田舎・コッツウォルズには、アンティーク・ショップがたくさんあると聞いたので、その一軒を覗いてみた。戸棚、ランプ、時計、食器など、あらゆるものが揃っている。木製品は張り物でなく、ムクの材木を使用しているので、何度でも削って新しくする。

ハンガリーからクロアチアへ向かう途中の公園で、露店の骨董市が開かれていた。壁掛けの銅製品や、壺・皿・フィギアなど陶製品も並んでいる。ひょっとしてマイセンやヘレンドといった掘り出し物はないかと探してみたが、鑑定する眼力がないので諦めることにした(「何でも鑑定団」のファンです)。
ロンドンの大きな市場の一角にも、骨董店が並んでいた。BOUGHT&SOLDとあるので、買い取りもしてくれるのだろう。ひとつの店は古道具専門である。農器具・大工道具・文房具などが並べられていた。小さなノギスと植物観察用のルーペを買ってしまった。(店主も雰囲気がある)

イギリスの田舎・コッツウォルズには、アンティーク・ショップがたくさんあると聞いたので、その一軒を覗いてみた。戸棚、ランプ、時計、食器など、あらゆるものが揃っている。木製品は張り物でなく、ムクの材木を使用しているので、何度でも削って新しくする。

ハンガリーからクロアチアへ向かう途中の公園で、露店の骨董市が開かれていた。壁掛けの銅製品や、壺・皿・フィギアなど陶製品も並んでいる。ひょっとしてマイセンやヘレンドといった掘り出し物はないかと探してみたが、鑑定する眼力がないので諦めることにした(「何でも鑑定団」のファンです)。
ロンドンの大きな市場の一角にも、骨董店が並んでいた。BOUGHT&SOLDとあるので、買い取りもしてくれるのだろう。ひとつの店は古道具専門である。農器具・大工道具・文房具などが並べられていた。小さなノギスと植物観察用のルーペを買ってしまった。(店主も雰囲気がある)

📎 照葉樹林
日本西南部に分布する「照葉樹の森」は、西に渡って朝鮮半島の先端部、中国の江南・雲南地域、さらにヒマラヤ山脈の中腹にまで連なっている。この森に生育する樹木は、葉の表面がテカテカ光るシイやタブ、カシやツバキなどである。

この森には様々な民族が住んでいるが、その文化には多くの共通性があるという。日本では縄文時代人に当たるが、その特色は、餅や納豆といった粘つくものを食べ、麹の酒やお茶を飲み、絹や漆を使うことである。サトイモやコンニャクなどの根菜,ソバやアワなどの穀物を栽培する。

我が国では、古くから薪炭のための伐採や、スギ・ヒノキなどの植林が進んだために、現在では神社の境内などにしか残っていない。伊勢神宮では2千年の昔から、森厳を守り水源を涵養するために広大な天然林を残してきた。外宮では高倉山の90ha、内宮では神路山や島路山などの5500haである。名古屋市内では、熱田神宮や東谷山の北斜面、徳川園の緑地保全地区などでしか見ることができない。
私事ですが、50数年前の三重大学林学科の卒業論文は、「外宮・高倉山の照葉樹林植生調査」でした。また、6年前、68歳の時に名工大で受講した修士課程の論文は、「外宮照葉樹林の景観調査」でした。

この森には様々な民族が住んでいるが、その文化には多くの共通性があるという。日本では縄文時代人に当たるが、その特色は、餅や納豆といった粘つくものを食べ、麹の酒やお茶を飲み、絹や漆を使うことである。サトイモやコンニャクなどの根菜,ソバやアワなどの穀物を栽培する。

我が国では、古くから薪炭のための伐採や、スギ・ヒノキなどの植林が進んだために、現在では神社の境内などにしか残っていない。伊勢神宮では2千年の昔から、森厳を守り水源を涵養するために広大な天然林を残してきた。外宮では高倉山の90ha、内宮では神路山や島路山などの5500haである。名古屋市内では、熱田神宮や東谷山の北斜面、徳川園の緑地保全地区などでしか見ることができない。
私事ですが、50数年前の三重大学林学科の卒業論文は、「外宮・高倉山の照葉樹林植生調査」でした。また、6年前、68歳の時に名工大で受講した修士課程の論文は、「外宮照葉樹林の景観調査」でした。
📎 森林の文明史
文明が滅びるときには、ひとつのパターンがあるといいます。森林が無くなるのです。古代メソポタミア文明やインダス文明の崩壊などが当てはまります。そのプロセスは ・・・
①人口の増大 ②建築や燃料のために樹木を伐採する ③森林の破壊 ④気候の変動 ⑤食糧不足 ⑥疫病の蔓延 ⑦人口の減少・・・
というのが共通のパターンだそうです(安田喜憲著『気候変動の文明史』より)
日本は森林国といわれ、国土の70%が森林に覆われています。平均気温15℃、年間降水量1500mmという恵まれた気象条件により、放っておいても豊かな森林が成立するのです。西日本ではシイやカシなどの照葉樹林、東日本はブナやナラといった落葉樹林です。

それに比べ年間の降雨量が800mmほどのヨーロッパでは、放牧による草原化もあって、人が大切にしないと森林が育ちません。日本も、戦後に植林した造林地の手入れが悪い(間伐などが行われない)ため、森林の劣化が進んでいて安心はできないのです。
今は亡き名優、森繁久弥さんの名前を思い出しました。“森が繁ると、文明が久しく弥(いや)栄える”と読めるではありませんか。今のコロナの流行が、「⑥疫病の蔓延」に当てはまらなければと願います。
①人口の増大 ②建築や燃料のために樹木を伐採する ③森林の破壊 ④気候の変動 ⑤食糧不足 ⑥疫病の蔓延 ⑦人口の減少・・・
というのが共通のパターンだそうです(安田喜憲著『気候変動の文明史』より)
日本は森林国といわれ、国土の70%が森林に覆われています。平均気温15℃、年間降水量1500mmという恵まれた気象条件により、放っておいても豊かな森林が成立するのです。西日本ではシイやカシなどの照葉樹林、東日本はブナやナラといった落葉樹林です。

それに比べ年間の降雨量が800mmほどのヨーロッパでは、放牧による草原化もあって、人が大切にしないと森林が育ちません。日本も、戦後に植林した造林地の手入れが悪い(間伐などが行われない)ため、森林の劣化が進んでいて安心はできないのです。
今は亡き名優、森繁久弥さんの名前を思い出しました。“森が繁ると、文明が久しく弥(いや)栄える”と読めるではありませんか。今のコロナの流行が、「⑥疫病の蔓延」に当てはまらなければと願います。
📎 地球を測る
地球の周囲を巻尺で測ると(無理!)、4万キロメートルになるそうです。なぜ、そんなにピッタリな数字だと思いますか?・・・答えは、逆に子午線の距離の4000万分の1を「1m」と決めたからです。
1mの基準となるのは、かつては「メートル原器」でした。1879年にフランスでつくられました。白金90%とイリジウム10%の合金で、摂氏0℃のときに1mとなるように設定されています。
1885年になって30本製作され、その1本が日本に送られてきました。現在は筑波にある産業総合研究所に保管され、2012年に国の重要文化財に指定されています。1960年からは、メートル原器の使用はやめて、光の波長を基準とするようになりました。

4万kmを2π(パイ=約3.14)で割ると、地球の半径が計算できます。約6400kmです。これが、地表から地球の芯(中心点)までの距離になります。
我々の生活圏は、この深さに比べると本当にわずかな薄っぺらなものです。飛行機なら上空10000m(10km)、海でいうなら、もっとも深いマリアナ海溝でも底までは10kmほどです。大陸の土壌がどれほどの厚さかは知りませんが、卵の薄皮のようなものでしょう。
写真はアイルランド西海岸の石灰岩台地、氷河により薄皮まで削り取られて骨格が剥き出しになっています。土壌は強風により吹き飛ばされてしまうので、1木1草生育することができません。
1mの基準となるのは、かつては「メートル原器」でした。1879年にフランスでつくられました。白金90%とイリジウム10%の合金で、摂氏0℃のときに1mとなるように設定されています。
1885年になって30本製作され、その1本が日本に送られてきました。現在は筑波にある産業総合研究所に保管され、2012年に国の重要文化財に指定されています。1960年からは、メートル原器の使用はやめて、光の波長を基準とするようになりました。

4万kmを2π(パイ=約3.14)で割ると、地球の半径が計算できます。約6400kmです。これが、地表から地球の芯(中心点)までの距離になります。
我々の生活圏は、この深さに比べると本当にわずかな薄っぺらなものです。飛行機なら上空10000m(10km)、海でいうなら、もっとも深いマリアナ海溝でも底までは10kmほどです。大陸の土壌がどれほどの厚さかは知りませんが、卵の薄皮のようなものでしょう。
写真はアイルランド西海岸の石灰岩台地、氷河により薄皮まで削り取られて骨格が剥き出しになっています。土壌は強風により吹き飛ばされてしまうので、1木1草生育することができません。
📎 ピタゴラスの定理
もうひとつ数学で頭の体操を。今度は幾何学です。中学くらいで「ピタゴラスの定理」というのを習いましたね。“直角三角形の底辺の2乗と垂辺の2乗の和は、斜辺の2乗に等しい”。言葉だと解りにくいので、図にすると理解しやすいかも知れません。

この「定理」は、今から2500年前には知られていたそうです。古代ギリシャの哲学者であり数学者であるピタゴラスが発見しました。敷き詰められた三角形のタイルを見て思いついたのだと言います。下の図を見てください。赤い三角形に面するタイルの数を数えると、aとbは青いタイルで4枚づつ、計8枚。cは緑のタイルで同じく8枚です。確かにa2 + b2 = c2 になります。

我が家のトイレも三角形のタイル張りですが、毎日見ていても何も考えたことがありません。そこが天才と凡人の違いなのでしょう。

この「定理」は、今から2500年前には知られていたそうです。古代ギリシャの哲学者であり数学者であるピタゴラスが発見しました。敷き詰められた三角形のタイルを見て思いついたのだと言います。下の図を見てください。赤い三角形に面するタイルの数を数えると、aとbは青いタイルで4枚づつ、計8枚。cは緑のタイルで同じく8枚です。確かにa2 + b2 = c2 になります。

我が家のトイレも三角形のタイル張りですが、毎日見ていても何も考えたことがありません。そこが天才と凡人の違いなのでしょう。