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由比地すべり対策事業 その1

 さった山の急斜面は、地質的に脆弱で地すべりの起る危険性が高い。そこで、国土交通省は 「由比地すべり対策」 の事業を行なっている。先日、私も加入する土木の勉強会グループ 「研友会」 で、その現場を見学させていただいた。
 地すべりは、様々な要因 (地形・地質・地質構造・地下水など) が組み合わさって発生するため、地すべり対策工の種類も多岐に渡っているとのことである。大きく分けると 「抑制工」 と 「抑止工」 に分けられ、この両対策工を組み合わせて、効率的な対策を行なっているとの説明があった。

富士砂防I

 「抑止工」 は、構造物の持つ抵抗力を利用して、地すべりの動きの一部もしくは全部を直接止める方法である。ここでは 「深礎杭」 を採用している。深礎杭とは、地下に大きな杭を造り、杭の抵抗力で地すべりの移動を止めるものである。現在、直径5m、長さ37~88mという巨大な杭61基の整備を実施中である。左は完成、右はコンクリート打ちを行なっている状況の写真である。

富士砂防J

足助八幡宮の祭礼

 足助八幡宮の例祭は、毎年10月第二の土曜日に 「試楽祭」、日曜日に 「本楽祭」 が開催され、合わせて 「足助祭り」 と称されている。試楽祭では神輿渡御、山車引き廻しが行なわれ、本楽際では加えて火縄銃や棒の手の奉納が行なわれる。
 この祭が今のような形になったのは、江戸後期の文化11年 (1814) と考えられている。古くから足助の惣社として人々の崇敬を集めていた八幡宮の伝統を、今に伝える祭である。神輿は黄色い装束の若い神職に担がれ、本殿の前から出発し域内を巡回する。

足助祭礼G

 それに先立って境内では、火縄銃の奉納が演じられる。各地域ごとの法被を着た10名ほどの若者が、輪に並んで順に発砲 (空砲) する。町中に激しい爆発音が響き渡る。火縄銃は、町を守るために各戸に保管されているものだという。
 山車を町内に引き廻す動きは見られなかったが、4台揃って宮入りしている姿を見ることができた。この山車は 「足助型」 と呼ばれ、前方に出役棚があり、車輪に16個の樫の齣爪を履かせるなど独自の形式を持っている。祭が終わると解体され、町ごとの郷蔵に保管される。豊田市の有形民俗文化財に指定されている。

足助祭礼H

土岐市の高山城跡

 庄内川は、岐阜県内では 「土岐川」 と呼ばれている。水源は恵那市の夕立山で、瑞浪・土岐・多治見の盆地を流れ、玉野渓谷を抜けて春日井市高蔵寺で濃尾平野に出る。名古屋市の北と西を迂回して、伊勢湾に注いでいる。
 土岐川の氾濫原を見下ろす細長い丘陵の上に、「高山城」 の跡がある。標高183m、麓からの高さは約57mである。通称 「サバ」 と呼ばれる砂岩層の断崖上に築かれていた。山頂の城跡に建てられた展望台から眺めると、土岐川と川沿いの細長い盆地が手に取るように見える。

土岐高山城マップ

 築城は承久の乱 (じょうきゅうのらん=1221年) の頃という。源氏の流れを汲む美濃源氏・土岐氏一族の高山氏により創建された。時代は下って戦国時代、織田信長の臣下となった高山城主は、この城を強固な要塞と成して守護に当たったが、武田の大軍の前に敗れ去った。
 現在、山上の城跡は、市民の憩いの場として整備されている。「高山城高山宿史蹟保存会」 のホームページには、城の想像図が掲載されていて、往時の様子を知ることができる。城跡を取巻く森林は 「城跡の森」 と名付けられて 「自然保護公園」 に位置づけられている。

土岐高山城G


季節通信22からたち

山車の独楽(ごま)

 半田市亀崎の 「潮干祭」 は、5輌の山車を潮干の浜へ “曳き下ろし” することで有名です。その昔、神武天皇が東征する折に、海からこの地に上陸したとの伝説に因んだ行事です。毎年5月3日・4日 (雨天順延) に開催されます。今年は久しぶりに、4日の日曜日に訪れてみました。
 世界遺産に登録されたこともあって、年々行楽客が増えています。曳き下ろしの浜辺は黒山の人だかりで、写真を写す隙間がありません。そこで、カメラを頭の上に持ち上げ、手探りで撮ったのがこの一枚です。何とか勇壮な曳き下ろしの様子を、皆さまにお届けすることができました

亀崎祭りマップ

 街中を引き回すときには、豪華な山車を間近に見ることができます。柱や梁の細緻な木彫や、金糸・銀糸による刺繍模様の豪華な幔幕などが見事です。下の写真の先頭は西組 「花王車」、2輌目が田中組 「神楽車」 です。そのほかに中切組 「力神車」、石橋組 「青龍車」、東組 「宮本車」 があります。
 「山車」 は、一般的には 「ダシ」 と読みますが、ここ亀崎では 「ヤマ」 あるいは 「ヤマグルマ」 と呼びます。約200もの部品から構成されていますが、毎年分解して大切に保管されています。車輪は 「独楽 (ごま) 」 といい、直径90センチ、厚さ30~40センチで、黒松の丸太材を用います。普段は消耗や亀裂を防ぐために海の干潟に埋めておき、一ヶ月ほど前に掘り出します。沿道に、神楽車の古い「独楽」が飾ってありました。

亀崎祭りG

宮島・厳島神社の大鳥居

 厳島神社の創建は、推古元年 (593) と伝えられている。その後、仁安3年 (1168) に、平清盛によって現在のような社殿に造営された。建築様式は 「寝殿造り」、平安貴族の住居のつくりである。浅瀬の海中に回廊が伸び、「池泉」 が設けられる前面は瀬戸内の海という趣向である。
 清楚に配列された柱や梁は鮮やかな朱塗り、屋根は荘厳な檜皮葺である。床は厚みのある板敷き、柱の立つ土台は平らな面をもつ自然石になっている。木柱の根元は、打ち寄せる海水にさらされている。平家滅亡後も鎌倉時代に再建され、その後も毛利氏や豊臣氏などの庇護に支えられて今日に伝えられている。

宮島G

 本社の拝殿から108間 (約200m) 沖に大鳥居が立っている。高さ約16m、棟の長さは24mである。主柱の太さは、周り31尺 (約9m)、4本の控柱 (稚児柱という) に支えられながら
自重で立っているという。満潮時は海中に浮かんでいるように見えるが、潮が引くと砂浜を渡って根元まで近寄ることができる。
 現在の大鳥居は8代目、明治8年 (1875) に完成した。材は 「楠 (くすのき)」 で、宮崎県と香川県から伐り出されたものである。昭和26年に根元の大修理が行なわれたが、その時に切り取られた部分が社殿の前に展示されていた。私の背丈よりもはるかに高く、直径3mはあろうかと思われる。厳島神社および前面の海、背後に聳える弥山原始林を含む約430haの森林は、平成8年にユネスコの世界遺産に登録された。

宮島G2


季節通信17木曽駒

蟹江の造り酒屋

 蟹江川流域は、木曽川や庄内川の三角州であり、砂などの堆積した沖積層の地層である。そのため、川沿いには豊富な伏流水が湧き出ている。また、この地域は原料となる米の産地であり、名古屋という大消費地にも近い。さらに蟹江川は、原材料や製品の運搬にも便利であった。すなわち酒造りの条件が満たされているのである。
 明治の初めごろには、蟹江町内だけでも10数軒もの造り酒屋があったという。現在でも2社のメーカーが生産・販売を続けている。

蟹江造酒屋マップ

 蟹江川のすぐ西側には、人工的な日光川が流れ、それに絡みつくように、古い佐屋川が蛇行しながら流れている。蟹江川の流れは比較的緩く、川岸の堤防もコンクリートで固められ、運河の様相を呈している。堤防に向かって登る坂道沿いに、明治以来の造り酒屋の土蔵や黒壁の板塀が連なっていた。
 直売もしている酒屋に入っていくと、通路脇に酒樽ならぬ酒造タンクが並んでいた。そのひとつに11、698リットルとの文字が書かれている。一升瓶 (1.8リットル) に換算すると約650本にもなる。大正時代の記録には、年間約360キロリットルもの製造をしていたという。

蟹江造酒屋G


季節通信12「竹」

聚楽園の大仏

 野間の灯台よりも2m背が高い、19mの大仏様である。名鉄 「聚楽園駅」 の東側、小高い丘を登ったところ、東海市の 「しあわせ村」 公園の頂に聳えている。山道を辿り歩き、階段に差し掛かると両側に仁王が立ち、木の間隠れに大仏様のお顔が見える。
 大正5年に、名古屋在住の実業家が 「大正天皇御大典記念」 として大仏建立を思い起こした。昭和2年 (1923) に 「昭和天皇御成婚記念事業」 としてようやく完成し、開眼供養を行なったものである。当初は宗教的な色彩は濃くなく、胎内に入ることができるなど観光目的が強かったという。しかし、昭和58年に所有者が変わり、現在は曹洞宗 「大仏寺」 の所管となっている。

しゅう楽園G

 「しあわせ村」 は、東海市の健康と福祉の拠点施設で平成9年にオープンした。保険福祉センターや温浴ゾーンのある 「健康ふれあい交流館」 やお茶室「嚶鳴庵」、散策路のところどころにある「トリム広場」などで構成されている。
 大仏様のある頂上広場から海側を見ると、新日鉄の製鉄工場が広がっており、遠くには名港トリトンのタワーも見える。駅前の広場には、尾張藩校 「明倫堂」 の督学(学長)を務めた細井平州の生誕地を示す石碑が建っている。

しゅう楽園マップ

新企画:「季節通信」

 このブログ「中部の土木文化見てある記」は、平成25年2月から始めましたので、はや5年を越えたことになります。そして、発信件数は現在397件、もうすぐ400件に到達します。この間、読者の皆様からのたくさんのアクセスや、当社(中部復建株式会社)社員の激励に助けられて続けることができました。
 今回、新たに「季節通信」として、そのときどきの季節感ある話題を「付録」として添付することにしました。これは、「土木文化」の記事が、ともすれば硬い話題になりがちですので、読者の皆さんに季節感ある情報を差し上げたいとの思いから発想したものです。
 土木文化の取材に歩いていますと、季節季節の花や新緑、秋の紅葉など美しい風景に出会います。私は元々植物や庭園に興味をもつ者ですので、ついついそういった写真も撮ってしまうのです。土木に関わりがない写真も、この5年間でずいぶん貯まってしまいました。そんな写真に小文を添えてご紹介したいと思います。

季節通信「シャクナゲ(石楠花)」
 ツツジの仲間は美しい花を咲かせますが、その中でもシャクナゲは、花の集まりと緑の葉のコントラストにより一段と綺麗で豪華です。最近、石楠花寺とも呼ぶ美しいお寺2か所を見てきましたのでご紹介します。例年は5月初旬ですが、今年は1週間ほど早いそうです。
 ◆上:長野県飯田市の保寿寺。境内の斜面一面にキョウマルシャクナゲが咲いていました。
 ◆下:奈良県宇陀市の室生寺。入口門から奥の院の階段までホンシャクナゲが綺麗でした。

石楠花G
石楠花H

員弁のセメント工場

 桑名インターを降りて、員弁の谷に入ったときから気になる山があった。鈴鹿山脈の頂のひとつに横縞模様がくっきりと見えているのである。砕石の採掘だろうか、あるいは藤原岳は石灰岩の山であるので、石灰岩採取かも知れないと考えていた。
 宇賀渓を見た後、次の目的地 「中里貯水池」 に向かう途中、車中からセメント工場の煙突が見えてきた。工場の壁にHOKUSEI REMICONの文字が記してある。いなべ市の北勢レミコンの工場である。水平に山を削りながらそのまま工場に運び、生コンを生産している会社である

いなべの石灰岩マップ

 伊吹山の北側にもセメント工場があるのを知っている。大垣・赤坂でも石灰岩の採掘が行なわれているという。このあたりには、豊富な石灰の地層があるのであろう。セメントは、建築や土木にとって必須の材料であるのでやむを得ないが、藤原岳に連なるこの山が、どこまで削られるのか心配にはなる。
 石灰の地層は、大昔には珊瑚礁であったと認識しているが、ヨーロッパの北部にも石灰岩台地があるので驚く。左の写真はアイルランドの西海岸、かつて地球が丸いとは思われていなかった時代に、地の果てと考えられていた。海はアラン諸島の浮かぶ大西洋、ケルンの奥に写る人物は私。不毛の石灰岩台地を4時間も歩いて草臥れ果てた姿である。
 右の写真はイタリア半島の対岸の国クロアチアである。かつてはユーゴスラビアを構成していた国である。アドレア海に面する海岸地方も石灰岩ばかりであった。こういった景色を見ると、石灰岩は無尽蔵かと思えてくる。

いなべの石灰岩G

渥美半島・田原市の花フェスタ

 一般の人にはあまり知られていないが、愛知県は昭和37年から50年以上も連続で花の生産日本一である。それも、第2位の県の約3倍もの生産量を誇っていて、「花の王国」 と呼ばれている。中でも、バラ・キク・洋ラン・サボテンは1位、カーネーション・シクラメンは2位にランクされている。
 そのことを背景に、愛知県では毎年 「あいち花フェスタ」 を開催しているが、今年は 「in東三河」 と銘打って田原市での開催となった。会場は渥美半島の根元、豊橋鉄道・田原線の三河田原駅近くにある田原文化会館と総合体育館 (下の写真) である。開催日は温暖の地 「渥美」 に相応しく、早春の花が咲き乱れる2月9日~12日までの4日間であった。

田原マップ

 田原市の文化会館と総合体育館は一体の建築物で、正面入口の吹き抜けホールに巨大なハート型の枠組みがあり、白・ピンク・紫といった花が組み込まれている。しかも白くペイントされた木の枠が照明により緑色・ピンク色・紫色に変化するので、幻想的な雰囲気を醸し出している。さらに図書館のある2階のデッキから眺めることもできて、誰もが携帯などで写真を撮っていた。
 メイン会場の体育館では、いくつかのブースが美を競い合って展示されていた。ちょうどバレンタインデーと重なることから、「愛」をテーマとしたものが多く、花の色もピンク・白・紫といったパステルカラーの淡い組み合わせである。鉢植えの品評会や生け花の陳列、舞台では和太鼓の演奏なども行なわれていた。

田原G

気比神宮の大鳥居

 「神宮」 号を名乗る神社は現在24を数え、いずれも皇室とゆかりの深い神社である。福井県敦賀市にある 「気比神宮」 は、2000年の歴史をもつ格式の高い神宮で、「越前の国一ノ宮」 とも呼ばれている。主祭神の気比大神 (伊奢沙別命) は二千有余年の昔にこの地に降臨されたと伝承されている。文武天皇の大宝2年 (702) に、仲哀天皇と神功皇后も合祀されたという。
 表参道の入口にある大鳥居は、春日大社・厳島神社とともに 「日本三大木造鳥居」 と賞せられている。高さ36尺 (10.9m)、柱間24尺で、本朱漆塗である。訪れたときには、塗装が行なわれた直後と思われ、光り輝くように美しかった。由緒書きによれば、材木は佐渡から伐採奉納された 「榁樹」 であるという。「榁 (むろ)」 を図鑑で調べると、標準和名 「ネズ」 のことである。この木は、短いトゲの葉をもつ針葉樹で、高さ10m・直径30cmに成長すると記してある。そうしてみるとこの鳥居は、最大級のネズを使用していることになる。現在は国の重要文化財に指定されている。

気比神宮G

 本殿の南正面に、俳人松尾芭蕉の銅像がある。芭蕉は 「おくのほそ道」 の旅で、月を詠むことを目的の一つとしていた。8月14日、敦賀に到着したその夕方に、気比神宮に夜参して美しい月を眺め、“月清し 遊行の持てる 砂の上” という句を残している。
 「月」 から連想して、先日の 「月食」 をご紹介します。1月31日、夜9時ぐらいから欠け始め、10時ごろには、全く地球の影に隠れてしまいました。すると、暗いけれどまん丸な赤っぽい月が姿を現しました。写真は、半分ほど欠けた月です。何枚か撮影しましたが、欠けた部分も薄く写っている写真はこれ1枚ですので掲載します。

気比神宮マップ

チェスキー・クルムロフ その2

 チェスキー・クルムロフの美しさは、蛇行する清流や町を取巻く豊かなみどり、城や教会の優れた建築物群、赤瓦で統一された家々の佇まいなどによるものと思われる。しかし町を歩くとそれだけでなく、人々の暮らしの中にもその要因があるように感ずる。長い歴史の中では、意に反して美しからざる行為もあったろうと思われるが、人々は自分たちの美的感覚を磨き、誇りを守る強い意志をもち続けてきたものと想像できるのである。

チェスキーマップ

【上左】 川沿いのレストランは、水面に向かってベランダを突出し、涼しげな食事の場を提供している。手すりに架けられたゼラニウムのハンギングバスケットが印象的である。
【上右】 川の転落防止柵はとてもシンプルで、過度な構造を持たない。芝生や点々と植えられたバラも手入れが行き届いている。
【下左】 道路のペイブメントは小舗石貼りで、長年の使用によりツルツルに磨かれている。家の角は、馬車の衝突にも耐えられるように、石で補強してあった。
【下右】 子供たちも旅行者に対してフレンドリーで、通学の小学生たちがカメラに向かって表情を見せてくれた。

チェスキーJ

チェスキー・クルムロフ その1

 土岐川の大きな蛇行を地図に描いていて、前にもどこかで同じような地形の町へ行ったことを思い出した。東欧チェコの 「チェスキー・クルムロフ」 歴史地区である。オーストリアとの国境に近い南ボヘミア州の小さな町で、「世界一うつくしい町」 のひとつと謳われている。近年、観光地としても知られるようになり、日本からの訪問者も増えているという。
 町の形は下左の図 (現地の案内看板を撮影した) のように、北に流れる 「モルドウ川」 がほとんど短絡するかと思われるほどに蛇行し、その半島状の高台にお城が建てられている。この町と城は、1300年代にボヘミアの有力貴族の所有となり、水運を使った手工業の交易が盛んに行なわれて繁栄した。16世紀には、ルネサンス様式の建物が数多く建てられて今も残っている。一時期荒廃したこともあるが、1960年代の 「プラハの春」 以降徐々に修復され、1992年に世界遺産に登録されるに至った。

チェスキーG

 上右の写真は、町並みから見上げたお城の塔である。切り立った岩山の上に建っていて、市内のどの通りからも見ることができる。下左は、城郭の高台から川を挟んだ南側を見た写真である。美しい赤瓦に統一された家々の中心に、黒くて高い屋根と尖塔をもつ教会が見えている。
 下右は、川の流れをコントロールするための落差工である。モルドウ川は、オーストリアに端を発し、ボヘミア盆地の水を集めて北に向かい、プラハを越えてドイツにまで流れるチェコ最長の川である。このあたりは、まだ上流で森の中を流れているため、水は透明で美しい。因みにチェスキーとは 「ボヘミアの」 の意で、クルムロフは 「川の湾曲部」 という意味である。

チェスキーH

西郷さんの銅像

 東京・上野公園の 「西郷隆盛像」 はあまりにも有名である。山手線上野駅の公園口を出てすぐの、少し高台に立っている。建設は明治31年、宮内省からの資金と全国2万5千人以上の寄付金によるものという。西郷像の作者は、明治の彫刻家・高村光雲である。像の身長は、実物の2倍近い3.7m、同じくらいの台座に乗っているので見上げるように高い。
 鹿児島空港の近くにも西郷像があった。観光客用の写真撮影スポットになっていて、緋毛氈の腰掛で一緒に座って写真を撮ることができる。後に立つ女性像は篤姫で、ちょうど大河ドラマで人気のあった10年ほど前の写真である。

西郷さんG

 西郷隆盛は、明治維新の立役者のひとりで、勝海舟との会談により江戸城無血開城に導いたことでも有名である。しかし明治6年、征韓論に関して大久保利通らと意見が対立し、下野して鹿児島に帰った。その後、士族の反乱が続く中、私学生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、破れて城山で自刃することとなった。明治10年のことである。
 今年のNHK大河ドラマは「西郷どん(せごどん)」、明日1月7日スタートである。明治維新の歴史観がいろいろ議論される中、今回どのような西郷像が描かれるのか、今から楽しみにしている。
 下の写真は、薩摩藩主・島津氏の別邸・磯庭園(仙巌園)から見た桜島である。

西郷さんマップ

井伊谷の墓所

 龍潭寺に接して宗良 (むねなが) 親王を祀る 「井伊谷宮」 があり、社殿の奥に陵墓が築かれている。宗良親王は後醍醐天皇の皇子で、南北朝時代 (1332~1391) に、南朝・吉野朝方の将軍として各地を転戦した。元中2年 (1385) にこの地で亡くなられたが、神社ができたのは明治5年のことである。社殿の前にシイノキの大木が聳えている (写真上左)。
 先週日曜日のNHKでは、「おんな城主直虎」 の最終回が放映された。柴咲コウ演ずる直虎はとうとう没することになるが、後を継いだ直政は徳川の家臣として功を上げ、徳川時代260年に亘って幕府の屋台骨を支える名家となった。龍潭寺の境内には、井伊家初代の共保から直虎、直政、幕末の大老・直弼に至るまで、歴代の祖霊を祀る墓所がある (写真上右)。

井伊の墓G

 龍潭寺から井伊谷城へ行く途中に、2つの歴史を物語るお墓がある。ひとつは 「井殿の塚」 と呼ばれる井伊直満と弟・直義の供養塔である。二人は家老の讒言により謀反の疑いをかけられ、今川義元により殺害された。供養塔は、タブノキの大木の根元に、ひっそりと佇んでいる。
 他のひとつは、その家老の息子・小野但馬守政次終焉の地である。政次は、直虎の幼馴染であるが、今川との間に挟まれて葛藤する。ドラマでは、高橋一生がこの複雑な役柄を好演して人気を博した。終焉の地に墓石はなく、ただ白くて大きな石がその標だという。
 「井伊谷宮」 のシイノキといい、「井殿の塚」 のタブノキといい、どちらも暖地に成育する樹木である。周辺の山の植生を遠くから眺めても照葉樹林であることが分かり、この地の暖かさを知ることができる。

井伊の墓マップ

井伊谷城址

 今年のNHK大河ドラマ 「おんな城主直虎」は、今週末、いよいよ最終回を迎える。今川、武田、徳川といった強力な戦国大名に挟まれた 「井伊谷 (いいのや)」 の城主・次郎法師直虎の波乱に満ちた一生の物語である。井伊家といえば彦根城や、幕末に名を馳せた大老・井伊直弼を頭に浮かべることができるが、戦国時代の井伊家の歴史は知らなかった。大河ドラマが始まったのは昭和38年 (1963) のことで今年は56回目になるが、その第1回目は「花の生涯」、井伊直弼の物語であった。
 井伊家発祥の地 「井伊谷」 は、浜名湖の北、井伊谷川流域の狭い平野にある。しかし、この地はミカン栽培に適するほど温暖であり、石灰岩を基盤とする安定した土地で地震にも強いことから、弥生・古墳の時代から人々が住み着いてきた。平地には井伊家の居館、武士や農民の住居などがあり、標高115mの丘の上に井伊谷城が築かれていた。

井伊谷マップ

 直虎が出家して修行を積んだという 「龍潭寺」 近くに、井伊家初代・共保が産湯に使った井戸がある (上の写真)。その奥にこんもりと見えるのが城址のある丘陵である。山の斜面はかなりの急な勾配で、山頂には土塁が築かれるなど、攻める側には厳しい山城であったと思われる。
 城址からは、井伊谷の里を一望することができる。中央の樹林の中に龍潭寺があり、その隣に南北朝時代の宗良親王を祀る 「井伊谷宮」 が鎮座している。宗良親王はこの地を本拠に、50年あまりに亘り、南朝・吉野朝のために活躍したという。とにかく多くの物語のある土地柄である。

井伊谷G

道三塚と信長廟

 司馬遼太郎の 「国盗り物語」 は、戦国時代に一介の油売りから身を起こし、美濃国の城主になった斉藤道三と、尾張の国に生まれ、破天荒な政略・軍略でとうとう天下を取った織田信長とを主人公にした歴史小説である。1973年に、NHKの大河ドラマとしても放映された。
 岐阜市中心部から長良川を渡ると、金華山の山並みから一転して、平らな平野が広がる。長良川の右岸堤防から眺めると、野球場や競技場のあるメモリアルセンターや、ユニークなドーム型の国際会議場などを見ることができる。その北側の旧田園地帯に、悲劇の英雄二人の墓所、「道三塚」と「信長廟」が、奇しくも所を近くして並んでいる。

道三マップ

 道三は娘を信長に嫁がせて、信長と会見した折に彼の能力を見抜き “我が子たちは、あのうつけの門前に馬をつなぐことになる” と語ったという。その後、嫡子・斉藤義龍と折り合い悪くなり、弘治2年 (1556) 長良川の戦いで命を落とすこととなる。遺体は斉藤家の菩提寺住職の手で、この地に埋葬されたものである。
 信長の廟は織田家菩提所崇福寺に 「織田信長公父子廟」 として設置されている。親子は天正10年 (1582) に、本能寺において明智光秀に討たれた。側室であった小倉なべが、信長の遺品を集めてこの寺に葬ったと伝えられている。参道から寺の正面前を左に折れ、枯山水の庭を過ぎて本堂裏側へ回ったところに、静かに墓碑は佇んでいる。

信長G

刈谷の「依佐美送信所」跡地

 かつて刈谷の田園地帯に、高さ250m、名古屋のテレビ等よりはるかに高い鉄塔が聳えていた。「依佐美送信所」 と呼ばれ、8基の鉄塔が長さ1800m、16条の長波アンテナを支えていた。周りに高い建物もないので遠くからでもよく見えて、一種のランドマークにもなっていた。
 第一次世界大戦が始まった大正3年当時は、日本と海外との通信は3本の海底ケーブルのみで、その全てが欧米の通信会社の所有であった。そうした中、大正14年に逓信省が、依佐美村に送信所の建設を決定し、昭和3年着工、4年に完成する運びとなった。同年にワルシャワへの送信が開始されたのである。一時期、短波需要が拡大し依佐美の役割は減ったが、潜水艦への水中の通信のためには長波の方が有利なため、再び利用が活発となった。(写真左は、平成9年に撤去された後に残された鉄塔の基部と記念館、右は、直流の発電機である。)

よさみA

 第二次大戦後は在日アメリカ海軍に接収され、米軍潜水艦の通信に使用されることとなった。しかし、平成6年には役割を終えて日本に返還され、9年に撤去されることとなったのである。跡地は、基礎だけのモニュメントが残され、記念館とともに歴史の語り部となっている。
 約3.5haという広大な敷地は、公園として一般に開放され、遊具広場やイングリッシュガーデンとなっている。利用者の休憩や、ボランティアの人たちの集いのための 「フローラルプラザ」 には、小さなサンルームがあって、サボテンなどが植えられていた。

よさみマップ

能褒野王塚古墳

 「古事記」 は、我が国に残る最も古い書物であり、はるかな神代の昔から歴史時代まで記された貴重な “歴史資料” でもある。今から1300年以上もの昔、天武天皇の時代に準備され、その姪 (天智天皇の娘) にあたる元明天皇の和銅5年 (712) に完成したという。
 稗田阿礼という語り部の口述を、太安万呂という学者が古代文に表したものといわれている。上・中・下の三巻からなり、上巻は宇宙の始まりから語られ、中巻は初代・神武天皇から15代・応神天皇の御世まで、下巻は16代・仁徳天皇から33代・推古天皇までの伝承が記されている。

のぼのマップ

 中巻の、第12代・景行天皇の条に、その息子 「倭建命 (やまとたけるのみこと) 」 の記事が詳しく述べられている。小碓命と呼ばれていた幼時から、猛々しい気性であった命に、天皇は西の熊襲征伐を命じ、帰るとすぐまた東の荒ぶる神を従わせるよう命令した。草原で火に囲まれ、草薙の剣で難を逃れたり、海峡での荒波では、后の犠牲により救われたという神話が今も語られている。
 そのあとで命は、熱田の美夜受姫(みやずひめ)のもとに剣を預けたまま、今度は伊吹山の神を討ち取りに出かけるが、ここで体を壊してしまう。病に陥った命は、三重県・亀山あたりの 「能褒野 (のぼの) 」 の地で亡くなった。
 御幣川と安楽川の合流点に、全長90m、高さ9mの前方後円墳がある。築造は4世紀末ごろと考えられ、明治12年に 「景行天皇皇子日本武尊能褒野墓」 と定められた。明治18年、その近くに命を祀る 「能褒野神社」 が創社された。
 古事記の最も古い写本 「真福寺本」 (国宝) は、名古屋の大須観音 (真福寺) に保存されている。

のぼのD

伊勢国分寺跡

 国分寺は天平13年 (741)、聖武天皇の詔により各国官営寺院として設置されたものである。三重県には、国の指定する 「国分寺跡」 が2か所ある。ひとつは、上野市の 「伊賀国分寺」 で、もうひとつがこの 「伊勢国分寺」 である。鈴鹿川左岸の海抜43mの高台に位置し、水害の恐れのない眺望のよいところにある。長い歴史の変遷を経て、奈良時代の規模や形態は失われているが、発掘によりその区域や一部の形態が明らかになっている。
 中央部に講堂跡と思われる土壇や境内西端の土塁の一部が残っていて、当時の様子を偲ぶことができる。講堂は、仏教の講義や説教が行なわれる建物で、寺院の中心的施設ある。旧地表から30cmほどの高さの基壇上には、元の位置を保ってはいないものの、数点の礎石が置かれている。

伊勢国分寺マップ

 基壇の規模は、東西33.2m×南北21.2mと広大である。南面には、幅2m×長さ1.8mの階段が3か所あり、その規模から考えると、基壇の高さは1mを越えていたものと考えられている。創建時の基壇化粧 (外装) の資材は、「台形塼 (せん) 」 の2段積みであったことが確認されている。「台形塼」 とは、断面が台形の煉瓦のことで、この伊勢国分寺独特のものだという。
 遺跡中央に2基の石碑が立っていて、古い方は大正11年10月、史跡に指定されたときに建てられたものである。国道から細い農村集落の道を進むと、さらに細い道があって、その角に 「史蹟国分寺跡道」 と刻まれた道標が立っていた。

伊勢国分寺B

半田市亀崎の潮干祭

 木造建築の鉄道駅としては日本一古いといわれる武豊線亀崎駅 (このブログ2013・04・09参照) を降り、掘割を通り抜けると海岸通に至る。ここで毎年5月3日・4日の両日行なわれる 「潮干祭」 は、かつて 「県社」 にも格づけられた 「神前(かみさき)神社」 の祭礼である。その昔、神武天皇東征の折、海からこの地に上陸したとの伝説に因み、5輌の山車を潮干の浜に曳き下ろすことからこの名がついている。
 曳き下ろしを行なう海岸は、かつては堤防がなく、人家の石垣がそのまま波に洗われていた。ところが昭和34年の伊勢湾台風により、海岸沿いの民家は高潮に飲まれてほとんど倒壊してしまった。その後の復旧工事により高い堤防ができたため、この祭礼最大の見せ場である曳き下ろしはできなくなってしまった。その復活は平成5年、堤防にゲートを設けて人口海浜を造成するまで、30年以上の歳月を待たねばならなかったのである。

亀崎祭りA

 この祭の山車は、知多半島中部から南部に広く伝わる 「知多型」 と呼ばれる形態である。構造は、上山と胴山の二層に分かれ、上山には唐破風の屋根がついている。胴山を構成する梁や柱には、細緻な彫刻が施されるとともに、側面と後方の幕は金糸銀糸による豪壮な刺繍で飾られている。かつてこの地を訪れた永六輔氏は、「山辺の高山、海辺の亀崎」 とこの見事な山車を讃えている。
 平成18年に地元の念願が叶って、山車を含めた祭全体が国重要無形民族文化財に指定された。さらにこの度、ユネスコの文化遺産にも登録されることとなった。私事ではあるが、筆者は中学生になるまでこの地で育ち、法被を着て山車を曳いたこともある。

亀崎祭りB

≪下左の白黒写真は、平成17年に刊行された 「亀崎潮干祭総合調査報告書」 から抜粋した。下右の図面は、平成18年に配布されたパンフレットから写したものである。≫


知立神社の祭礼

                                      ≪再掲: 2015・05・22≫
 普通は 「知立まつり」 といい、毎年5月2日と3日の2日間行なわれる。祭りの歴史は古く、江戸時代・承応2年 (1653) から続いているという。5つの町から高さ7m、重さ5tもあるという山車が繰り出される。本祭りと間祭りが1年おきに行なわれ、本祭りには、山車の台上で 「山車文楽」 と 「からくり」 (いずれも国の重要無形民俗文化財) が上演される。

知立神社祭礼A

 山車は、旧東海道を練り歩くが、道幅が狭いので交差点を曲がるのに苦労する。車体のうしろ側を持ち上げ、前輪を軸に直角に回転するのである。このとき、屈強な若者が力限りに持ち上げ、回転が終わると一気にドスンと落とすのである。このパフォーマンスは、祭りのハイライトとなっている。ちなみに車輪は、松の大木を輪切りにしたものである。
  
知立神社祭礼マップ

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)の補助機関が、我が国18府県33件の祭りで「山・鉾・屋台行事」を無形文化遺産に登録するよう勧告した。その中の5か所が愛知県である。これまで、県内には、1つもユネスコの遺産がなかったので、一度に5か所を指定されたことは、とても嬉しいことである。
 1.知立市 山車文楽とからくり
 2.津島市・愛西市 尾張津島天王祭の車楽舟行事
 3.犬山市 犬山祭の車山行事
 4.半田市 亀崎潮干祭の山車行事
 5.蟹江町 須成祭の神葭(みよし)流し


古川祭「起こし太鼓」

 毎年4月19・20の両日、飛騨古川に春を告げる 「古川まつり」 が開催される。気多若宮神社の例祭であるこのお祭は、古式ゆかしい神輿行列や屋台行列に加えて勇壮な「起こし太鼓」が行なわれることから、天下の奇祭ともいわれている
 19日の夕刻から、絢爛豪華な9台の屋台が町内を厳かに曳航される。屋台の重さは約2トン、上中下の三段構造になっていて、それぞれ性質に合わせて異なる種類の木材が使用されている。繊細な彫刻、華麗な金具、漆黒や朱の塗りなど、随所に職人の技を見ることができる。大人2人が一組となって演ずる獅子舞も祭りの賑わいを高めている。この度、日本全国33の祭の一つとしてユネスコの無形文化遺産に登録されることとなった。

古川祭A

 この祭りがもっとも異彩を放つのは、19日夜から20日未明まで繰り広げられる 「起こし太鼓」 である。数百人のさらし姿の裸男たちが、大太鼓を載せた櫓 (やぐら) を担いで町内を練り歩く。町の辻々では 「付け太鼓」 と呼ばれる小太鼓を持った、これも裸の男たちが、我先に櫓に迫ろうと攻防戦を繰り広げる。4月とはいえ、奥飛騨の気候はまだ寒い。少し山に登れば樹林の下に雪が残っている。しかし、それぞれの町内が威信をかけて先陣を争う攻防戦は迫力があり、男たちの熱気は白い湯気となって立ち昇る。
 樹林の残雪は、不思議なことに根元周りだけが融けて黒い地肌が見えている。これは 「雪根開き」 と呼ぶ現象である。春になって活動を始めた木の根が、地下から温度の高い水を盛んに吸うようになり、根元周りが暖かくなるためと考えられている。

古川祭B

飛鳥「キトラ古墳」

 平成29年・2017年が始まりました。干支 (えと) は酉年ですので、鳥に因んだ話題から・・・
 昨秋、奈良・飛鳥を訪ねました。キトラ古墳の見学が目的です。国営 「飛鳥歴史公園」 5地区のうちキトラ地区は現在整備中でしたが、「四神の館」 「キトラ古墳壁画体験館」 は完成していて観ることができました。
 館内には、キトラ古墳の玄室が実物どおりに再現されており、四方の壁に描かれた四神の壁画を見ることができます。正面・北側の壁には蛇と亀が絡み合う 「玄武」、右側・東には 「青龍」、左側・西は 「白虎」 が描かれています。入口・南の石扉の裏側に「朱雀」 が見事に残っています。鎌倉時代に盗掘されていますが、扉をこじ開けるために破砕した部分が、かろうじて壁画にかからなかったのです。キジのように細身で頭に冠のような飾りをつけた朱雀が、今まさに飛び立たんとする姿が描かれています。

キトラ古墳F

 キトラ古墳は、体験館から少し登った丘の上にありました。古墳からは平地の集落がかなり下方に望めます。斜面上の円墳は、直径9.4m、高さ2.4mという小さくて可愛らしい形をしています。7~8世紀に造られたもので、天武天皇の皇子もしくは側近の高官のお墓だと考えられています。1983年に発見されて、大きな話題を呼びました。大陸風壁画のあるこの古墳は、高松塚古墳に匹敵する重要な遺跡として「特別史跡」に指定されています。

キトラ古墳G

ふたたび「土木の日」(土木文化について)

 3年前、平成25年11月18日のブログで、「土木の日」 について記載しました。今日も11月18日ですので、再び話題にしたいと思います。この日を 「土木の日」 に決めたのは、下の図のように漢字を分解すると 「十一月十八日」 になるからで、そのほかの特別な理由はないようです。でも、面白いアイデアだと思います。

土木の日

 このブログは 「中部の土木文化見てある記」 と銘打っています。「土木」 とは・・・広辞苑によると、
“家屋・道路・堤防・橋梁・港湾・空港・鉄道・上下水道・河川・公園など、すべて木材や鉄材、土石などを使用する工事”とありますので、掲載する記事はかなり広い範囲に拡げています。
 
 次に「文化」ですが、「文化」 を定義するのはなかなか難しいようです。同じく広辞苑によれば、                       ①世の中が進歩して文明になること。文明開化。  
②文徳で民を教え導くこと。 とあって、
③番目に・・・ “(culture) 自然を自然のままに委ねておくことなく、技術を通じて人間の一定の生活目的に役立たせること(文化活動)。” とあります。

 「土木文化」 でいう 「文化」 とは、③で定義した内容に近いと思います。2つを合わせると、“すべて木材や鉄材、土石などを使用して、工事・技術を通じて人間の一定の生活目的に役立たせること。” となるのでしょうか。小難しい話になりましたがご容赦ください。

 さらに、ウィキペディアによれば、“人間が社会の成員として獲得する知識・信仰・芸術・道徳・法律・慣行など振る舞いの複合された総体のことである。” となっています。ますます分かりにくくなりますが、以下 「○○文化」 と名付けられている言葉を列記することで、「文化」 の意味を理解したいと思います。  
 地理的なもの・・・「日本文化」 「下町文化」 など。 歴史的なもの・・・「縄文文化」 「室町文化」など。
 人の活動の種類・・・「出版文化」 「食文化」 「園芸文化」 など。 「土木文化」 もこの中でしょう。
  「社風」 「校風」 「家風」 というのも、文化の文字はありませんが文化の中に入ると思います。

諏訪大社の御柱

 天下の大祭 「御柱祭」 は、7年に1度、申年と寅年に行なわれます。諏訪大社御宝殿を造営するお祭で、その四隅に御柱を建てるのです。その様子は、毎回テレビ放送などで見ることができますが、たいへんに豪快なもので、特に100mもの急斜面を坂落とす場面はスリルを感じます。事実、怪我をする人もあります。
 左の写真は、上社本宮の 「一の柱」、右の写真は柱を立て起こすシーン(昭和61年朝日新聞社発行の 『週刊朝日百科日本の歴史』 からお借りしました) です。高さ5丈5尺 (約17m) 直径4尺 (1.2m) の樅 (モミ) の木です。山から切倒した後、御柱置場に集められ、そこから数千人の氏子の奉仕により20数kmを曳行されるのです。

御柱A

 このお祭は何時から始まったのでしょう。同じく 『朝日百科』 では、縄文時代から同様な巨木の祭があったと記されています。金沢市のチカモリ遺跡から発掘された柱痕からすると、約8トンもの大木が曳かれて建てられたと考えられるというのです。その様子が挿絵として掲げられています。
 諏訪湖周辺を散策すると、あちこちに御柱を見ることができます。高島城内の護国神社にもありましたし、普通の住宅地の祠にも、その四隅に真新しい柱が立てられていました。諏訪の人たちは、7年に一度の御柱の年になると、先祖伝来の血が騒ぐのだと思います。

御柱B

万治の石仏

 春宮の近く、砥川を100mほど遡ったところに、心温まるような石仏がお座りになっている。伝説によると、春宮に石の大鳥居を造るとき、この石を材料にしようとノミを入れたところ傷口から血が流れ出したので、石工たちはおそれを感じて仕事を止めてしまったとのこと。
 その夜石工の夢枕に、上原 (茅野市) に良材があると告げられ、そこで見つけた石材で鳥居を完成することができたのだという。石工たちは、この大石に阿弥陀如来を祀って記念とした。万治3年11月1日 (1660) のことである。

石仏C

 この日本人離れしたお顔の仏さまを地元の人たちは大切に守ってきて、地籍も字石仏としている。昭和になって、かの有名な彫刻家・岡本太郎や小説家・新田次郎が絶賛したことから一躍話題となり、雑誌などに紹介されるとともに、訪れる人も多くなった。
 近くには、諏訪湖に注ぎ込む清流・砥川が流れている。石仏の隣に大きな中州があって、赤い橋で渡れるようになっている。この島は、どんなに大水が出ても絶対に流されないので、下社の七不思議に数えられている。

石仏マップ

諏訪大社(下社・春宮)

 秋宮から、さらに1kmほど奥まった砥川のほとりに、春宮が鎮座している。中山道からの入口には立派な石造りの鳥居があり、その右に大きく諏訪大社と刻まれた石柱が立っている。境内は、本宮、秋宮同様に鬱蒼とした樹林で覆われている。
 このあたりの植生は、ケヤキやカツラなど落葉広葉樹とスギ、ヒノキといった針葉樹との混交林である。その点で、シイノキやクスノキなどの常緑広葉樹に覆われる伊勢神宮や熱田神宮とは、景観を大きく異としている。春宮の御神体は杉である。

春宮マップ

 春宮の中心的建築は、正面中央にある拝殿と門を兼ねたような形式の幣拝殿、その左右にある回廊形式の片拝殿、それらの背後にある東西宝殿からなっている。その配置は秋宮と同じであるが、造営者は異なり地元の大工柴宮が請け負っている。幣拝殿は見事な彫刻で飾られているが、これは秋宮の棟梁と腕を競って彫られたものだという。
 下社の祭神は、2月から7月まで春宮に鎮座し、8月1日の御舟祭で秋宮に遷座して半年を経た後、2月1日に春宮に帰座することになっている。

春宮B

諏訪大社(下社・秋宮)

 下社は、上社とは諏訪湖を挟んだ反対側にある。上社本宮の御神体は山 (守屋山) であるが、下社は樹木で、春宮は杉、秋宮はイチイであるという。いずれも本殿を持たず、自然そのものを御神体とする古い神社形態を残している。
 秋宮の社殿は、中央に幣拝殿があり、その左右に片拝殿がある。どちらも安永10年 (1791)、諏訪高島藩主の命により、立川流初代棟梁が造営したものである。幣拝殿は二重楼門造りで、全体に見事な彫刻が施されている。

秋宮C

 左右の片拝殿の前面に、幹肌の白い珍しい樹木が植えられている。銘板が添えられていて、昭和天皇ご天覧の白松(三葉の松)であるとの説明が記されている。枯れ落ちた松の葉は、ほとんどバラバラになってしまうが、ごく稀に3本揃っているものがあり、それを拾うと縁起が良いとのことである。
 社殿の周りは鬱蒼とした樹林で、神楽殿 (下の写真) の横にはケヤキやスギの大木が聳えている。この日は、空が真っ青な晴天で、その下で見事な菊の展覧会が開かれていた。

秋宮D

諏訪大社(上社)

 天下の奇祭 「御柱祭」 で有名な諏訪大社は、長野県の中央にある諏訪湖の湖畔に鎮座している。
我が国で最も古い神社の一つで、信濃国一之宮に位置付けられ、全国1万を超える諏訪神社の総本社でもある。御祭神として、大国主命の御子 「建御名方神 (たけみなかたのかみ) 」 とその妃 「八坂刀売神 (やさかとめのかみ) 」 が祀られている。
 諏訪大社は、諏訪湖を挟んで南の上社と北の下社からなっている。さらに上社は本宮と前宮、下社は春宮と秋宮に分かれている。この神社の御社殿は、前宮を除いて本殿はなく、幣殿や拝殿、あるいは両方を兼ねた幣拝殿が建てられている。その多くは、国の重要文化財に指定されている。

諏訪上社マップ

 上社本宮の参道を歩き、その両側に生い茂る樹木を調べてみた。最も目を見張るのはケヤキの大木で、直径2mを超すような古木を何本も見ることができた。その中でも 「二の柱」 近くにある 「大欅」 は境内最古といわれ、樹齢1000年と推定されている。次に目立つのはスギ、ヒノキ、サワラ、モミ、ツガといった針葉樹で、直径5~60cmほどの大木が林立している。
 小さな樹でありながら立派な柵で保護されているのは、「榖の木 (かじのき) 」 である。高島藩主諏訪氏の家紋にも使われ、上社、下社の神紋としてもデザイン化されている植物 (コウゾの仲間) である。

諏訪上社A
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ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:「園長さんのガーデンライフ」
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