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諏訪湖畔の間欠泉

 諏訪湖は面白い地形である。周辺の山々から何本もの川となって水が集まり、1本の天竜川から下流へ流れていく。フォッサマグナの西辺・糸魚川静岡構造線と中央構造線(2020・8・9大鹿村参照)の交差部分でもある。諏訪湖が全面的に凍るとその一部がせり上がって1本の筋が現れる。
 この珍しい現象は「御神渡り(おみわたり)」と呼ばれ、諏訪大社の「男神(上社)」と「女神(下社)」を結ぶ道だと言われている。この筋道の方向やせり上がりの具合などを見て、その年の豊作や世相を占う神事が行われるという。

諏訪湖間欠泉マップ

 諏訪湖遊覧船の船着き場を過ぎたところに「間欠泉センター」があり、その前庭で熱湯と水蒸気が吹き上がる。昭和58年に温泉の掘削を行ったところ、間欠泉が噴出したという。当初は高さ50mまで吹き上がり世界第2位とうたわれたが、今は5mほどに留まっている。
 間欠泉のメカニズムは諸説あるが、空洞説がもっともらしい。地下に空洞があり、地熱によって加熱されて水蒸気圧が高まると噴出が始まる。一旦噴出すると気圧が下がって停止し、また上昇すると吹き出すのである。
 湖を周遊するランニング道・自転車道・車道の3本が並行して走っている。レンタサイクルで走ったが、水平な道なので楽々走ることができた。

季節通信134コシアブラ


神社の注連縄(しめなわ)

 ここに4つの神社の写真を並べてみた。大神神社(三輪山)・出雲大社・諏訪大社(下社・秋宮)そして伊勢神宮(外宮)である。並べた理由は、「注連縄(しめなわ)」について考えてみたいからである。3つの神社には注連縄があるが、伊勢神宮だけには架けられていない。
 古事記の国譲りの項で、高天原の天照大御神は「豊芦原は我が御子が知らす国ぞ」と仰せられた。そして、地上への使者として建御雷神が遣わされた。それまで地上を治め国づくりに励んできた大国主神は、息子の事代主神に相談すると「天津神の御子に譲りましょう」と答えた。
 弟の建御名方神は納得せず、建御雷神に力比べを挑んだ。しかし、軽々と投げ飛ばされて信濃の国まで追いつめられた。弟神は諏訪から出ないことを約束して許され、後に「諏訪大社」に祀られることとなる。大国主命は国譲りの見返りに見事な神社を造ってもらうことになった。「出雲大社」である。

神社の注連縄

 大国主命が国造りに苦心しているとき、海を照らす神が「吾を倭の青垣の東の山の上に祀れ」と告げた。こうして祀られたのが「三輪山の大物主大神」である。この3つの神社は、いずれも国津神・大国主命と縁がある。一方、伊勢神宮は天津神・天照大神を祀っている。この違いが、注連縄の有る無しにかかわるのだろうか?
 「注連縄」は、神域と現世を隔てる結界の役目を果たす。古事記では、天岩戸から出た天照大神が二度と岩戸に戻れないように注連縄を張ったという。神社などの神域を囲む注連縄は、‟入ってはいけない”でなく、‟国津神はそこから出てはいけない”という境界を示しているのかも知れない。神々は10月(神無月=出雲では神有月)だけ許されて出雲に集るのである。(私の勝手な推論です)

季節通信129オミナエシ

三輪山と大神神社

 三輪山は山そのものがご神体で、そこには大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が鎮まっている。そのため、大神(おおみわ)神社には本殿はなく、拝殿を通して三輪山を拝むという原初的な形態を留めている。二の鳥居をくぐると長い参道があり、拝殿の後ろにも神の山との区切りとして、謎の多い「三ツ鳥居」が立っている。拝殿、三ツ鳥居とも重要文化財である。
 三輪山はピラミッド型の美しく神秘的な形をしている。ご神体であるので、千古斧を入れたことがない。今も、届けを出さなければ「登拝」することができない。7年前の名工大在学中に、先生の調査のお供で登ったことがある。標高467m、往復4kmの岨道には急な坂もあり、3時間ほどを要した。

三輪山G

 写真撮影は禁止されているので、記憶をたどって頂上までの様子を再現してみよう。登拝口からすぐに急坂となる。その後しばらく平坦な道を行くと沢流れがあり、標高270mのところに「三光の滝」が落ちている。露出した木の根やぬかるみも多く、足元に注意して歩かなければならない。
 さらに100mほど登ると巨大な杉に囲まれた「中津磐座(いわくら)」の巨石がある。樹林はほとんどシイやカシの照葉樹であるが、一部にカラスザンショウなど陽樹の森や笹の草原も混ざっている。山頂には「高宮神社」と「奥津磐座」がある。古代のままの霊威を感じ、身の引き締まる思いをした。

季節通信130ススキ
   ◆◆今日9月21日は中秋の名月です◆◆ 

飛鳥の古宮と大和盆地

 飛鳥の里を自転車で走り廻ったことがある。一番の目的は、「大化の改新」に関わる古跡を見ることであった。甘樫の丘に登り、飛鳥川沿いの集落や法興寺(今は飛鳥寺)などを見た。その中に、2つの古宮遺跡があった。「小墾田の宮」と「板葺の宮」である。
 「小墾田の宮」は、推古天皇(在位593~628)の宮殿があったと推定されている。田圃の中に説明看板と1本の松の木があった。遣隋使の派遣や隋使来訪時の歓待が行われたという。
 「板葺の宮」は、東西156m、南北197mの掘立柱列で囲われた区画があったという。区画の北側にあった高床式の大きな建物と大井戸が検出され、復元されていた。この宮殿が、「乙巳の変」(蘇我入鹿殺害)の舞台となったところである。

飛鳥古宮G

 大和盆地(奈良盆地)は、北に平城京(奈良:710~794)、南に飛鳥がある。東に石上神社から三輪山にかけての山々、西には矢田丘陵・生駒山地、葛城山系が連なっている。飛鳥川をはじめとする小河川が掌状に集って1つの流れになり、大坂湾へと流れていく。
 古代の大和王権にとっては、恰好の都だったのであろう。広大な水田からの恵みを背景とし、瀬戸内海からの交通の便もあり、山々に囲まれて外敵からの防御にも適している。いくつかの宮殿を転々としたが、平安京(京都:794)に遷都するまで、都であり続けた。

奈良盆地マップ
     ◆◆いろいろな資料をもとに作図したオリジナルです。苦心の作です。◆◆

もし富士山が噴火したら・・・

 以前、東京オリンピックの聖火台は「富士山噴火」をイメージしているのではと批判的に書いた。しかし、“これは国民に対する大災害の警告”であると前向きに解釈しよう。防災の日を契機に、富士山が噴火したらどうなるかを考えてみた。

富士山G

 まず、富士山の噴火の歴史を紐解いてみよう。富士山の構造と略年表は以下のとおりである。

富士G

 富士山火山防災対策協議会が、今年3月に「富士山ハザードマップ」を改訂して公表している。まず「火砕流」と「熔岩流」のマップを見てみよう。静岡県と山梨県の近隣市町には、大きな被害が予測される。下の絵は1万年前に噴火したときの想像図であり、写真はその時に流れた熔岩が今も三島市に残されている状況である。(2016・9・5「三島熔岩流」参照)

富士H

最後に「火山灰」の分布図を見てみよう。横浜・東京を越えて、千葉県まで降り注ぐ様子が描かれている。2センチの降灰というのは大変な量である。鹿児島では、桜島が時々噴火して灰を降らすが、数ミリの厚さでも大変なことになるという。降灰は、鉄道・水道・道路交通などに大変な損害を与える。東京都の面積2200平方キロに2センチを掛けると、4400万立法メートルとなる。これは、ダンプトラック1000万台分に相当する。

富士山J

東京オリンピックの聖火台

◆◆東京オリンピック2020の開会式が終わって1週間が経つけれど、新聞やテレビのどこからも声が上がらないので私が書くこととします。このブログは、あまり意見や批判を書かないのですが、この件はどうしても指摘しておきたいのです。聖火台の点火についてです。◆◆

 開会式の各国選手団の行進やダンスなどの演技を見ていて、背景に気になる物体(富士山型のモニュメント)を見つけた。しかし、まさかそんなことはあるまいと悪い予感を打ち消していた。しかし、クライマックスの聖火の点火で、心配が現実のものとなった。やはり「富士山」は点火台であり、その頂上に聖火が点火されたのである。
 このシーンを、富士山の火山噴火と見たのは私だけであろうか? あるいは誰もが、日本の象徴である富士山をモチーフにして世界の人たちにアピールするこのアイデアに、何も問題を感じなかったのだろうか? 私としては「富士山の噴火」は火砕流や降灰をもたらす大災害であり、いくらイベントとはいえ面白・可笑しく扱ってもらっては困るのである。

富士山G

 東京の人たち(神奈川・千葉・埼玉を含む)は、富士山噴火とそれがもたらす大惨事について日頃から警戒心を持っていないのだろうか。関東大震災のような直下型の地震や海溝型(トラフ)による津波と同じように、大被害を生ずるとは考えていないのだろうか。そんな来るかどうかも分からない先の心配などしていられないと言うのだろうか。
 300年前の大噴火(1707年の宝永火山の噴火)では、0.7立方キロの火山灰が放出されたという。これが関東平野に降り注ぐと、厚い薄いはあるけれど平均すると10000平方キロの面積(東京都2200平方キロの約5倍)に7cm堆積することとなる。首都圏の機能がパンクしてしまう大惨事である。だから設計者は逆説的に・・・“そのための警鐘を国民に与えた”とでも言いたいのだろうか。

飛鳥の「甘樫の丘」

 「無用の豪族、蘇我氏を倒せ」・・・語呂合わせで「大化の改新」は645年と覚えた。中大兄皇子が中臣鎌足と諮って蘇我氏を滅ぼしたクーデターである。ただ最近では、「大化の改新」はその後の政治改革を指すのであって、事件そのものは「乙巳(いっし)の変」と呼ぶ。
 蘇我氏は、専横を極めた「逆臣」と言われてきた。しかし、本当に蘇我蝦夷・入鹿父子は悪逆非道の逆臣だったのだろうか。いやそうではなく、当時、もっとも国際事情に精通した英明な政治家だったという意見もある。聖徳太子と一体になって遣隋使を派遣し、百済から仏教を導入するなど先見の明がある人物だったと。

飛鳥マップ2
◆甘樫の丘から見た天の香具山◆飛鳥の谷を流れる飛鳥川◆甘樫の丘からの法興寺跡と宮殿跡
◆「蘇我入鹿の首塚」、この小さなお墓は誰が造ったのだろう? 入鹿は今も甘樫の丘を見ている? 
◆法興寺跡には、今では小さな「飛鳥寺」が建っている。

 もう一つ大きな功績がある。聖徳太子が建立した「法隆寺」と並ぶ広大な「法興寺」の建設である。(二つ合わせると「仏法の興隆」となる。)この時期、大陸では、唐・高句麗・新羅・百済が勢力争いをしていて不穏であり、いつ日本に戦乱が及ぶかもしれないと蘇我氏は心配していた。
 飛鳥の平面図を見ていただこう。法興寺は飛鳥の谷の入り口に位置している。これは宮殿を外敵から守ろうとする意図と見える。逆に南からの敵は馬子(島の大臣)邸で食い止める。谷に突き出た「甘樫の丘」には蘇我氏の邸宅があり、これも専横の証拠と言われてきた。
 しかし、見方を変えるとこの丘は敵の状況を見張る恰好の管制塔であり山城でもある。蘇我氏は娘を天皇に輿入れさせた外戚であり、皇室とともに繁栄しようと考えていた。「歴史書」(日本書紀など)は勝者が書き残すものだから、注意して読む必要があると思う。

◆ ちょうどこの原稿を書き上げた日に、我家の庭に「タマムシ」が飛んできた。なんという縁であろう!! 今日では貴重な昆虫なので、数枚の写真に収めたのち空へと放してあげた。

季節通信117タマムシ



ハンガリー国境の町「ショプロン」

 「ベルリンの壁」が崩壊してから、すでに30年以上になる。東西冷戦の象徴として壁が出来たのは昭和36年(1961)のこと。分裂した東ドイツから西ドイツへの人口流出が続いたので、頭を痛めた東ドイツ(ソ連?)政府が鉄条網を張ったのが最初である。その後、コンクリート壁へと強化された。
 ハンガリーからオーストリアのウィーンへ向かう途中、国境の町ショプロンに立ち寄った。「ヨーロッパの美しい村30選」に選ばれるほど街並みの美しい町だが、もう一つ有名なことがある。1989年、東ドイツ国民が「ピクニック大会」と称して、隣国のオーストリアへ大量越境した事件の起きた町なのである。

ショプロンG

 当時、同じ東側陣営であったハンガリーへは東ドイツからの旅行が許されていた。西ドイツ国民は、国境のショプロンに東の市民を集めて西へ脱出させたのである。亡命に手を焼いた東ドイツ政府は、西への旅行を認めることとなり、ひいてはベルリンの壁崩壊へと繫がっていくこととなった。
 国境近くに円筒形の石張りモニュメントがあり、当時の写真が貼ってある。バリケードを壊して脱出する市民や、警官と言い争う市民などが写っている。ショプロンの町は教会前広場やシンボルの「火の見塔」など美しい町である。広場の外周には、お茶や食事のできるオープンカフェが並んでいた。

📎 「トング散歩」

 自宅待機、テレワークも長くなり、書斎?でパソコンと向き合う時間 (このブログ作成など) が長くなった。すると、目も疲れるし姿勢も悪くなる。そこで、散歩を日課とすることにした。
 一方、昨年の秋、家の近所に超大型のショッピング・モールが開店した。すると家の前の歩道を歩く人が増え、その結果ゴミが捨てられることとなる。散歩しながら考えた。トングを持って歩こうと。
 どうせ、何もしないで歩くだけなら、ついでにゴミを拾おうとの考え。ボランティアという意識はあまりない。あくまで散歩がメインである。私は、このウォーキングを「トング散歩」と名付けた。

トング散歩G

 携帯付属の万歩計を見るのも楽しみ。概ね3000歩ほど歩く。すると、レジ袋一杯くらい集まる。数はタバコの吸い殻が一番多い。ボリュームはペットボトルや空き缶、マスクも落ちている。
 途中、自分の畑があるので立ち寄る。家で食べるだけの野菜を栽培している。大半はスーパーで買うが、自分で作る分ぐらいは無農薬にしようと思っている。少々虫に食われた野菜もOK。
 散歩の後は清々しい。ゴミ拾いの楽しさは「なごやのまちを美しくする会」で教えてもらった。古い職場のOB仲間が100人ほどで構成、もう15年も続いている。(表紙の写真は小生の撮影)

トング散歩H

季節通信105カキツバタ

📎 太陽の恩恵

 今、環境問題を考えるとき、「カーボンニュートラル」 という言葉が非常に大切である。“人の活動は二酸化炭素 (C02) 排出を伴うが、それと同じ量の炭酸ガスを吸収する” という概念である。温室効果ガスであるCO2を削減しないと温暖化が進み、人類の滅亡にも繋がるという危機感がある。
 日本でも昨年 “2050年までに温室効果ガスの排出をゼロにする” “2050年カーボンニュートラル、脱炭素社会を目指す” という方針が出された。まことに結構な政策であるが、問題はその方法と実践であろう。今後、具体的な方策が示されると思うので注目したい。

太陽の恩恵G

 上の図は 「光合成 (炭酸同化作用)」 を示した模式図です。小学校で勉強したと思いますがもう一度確認しておきましょう。植物の葉の葉緑素が、空気中の炭酸ガスと根から吸った水により、太陽光のエネルギーでデンプンなどをつくる作用です。酸素をつくり出すとともに気温も下げてくれます。
 敦賀の原発廃炉の土地に大規模な太陽光パネルを設置し、その電気を利用して水素ガスを発生させるという記事が載っていました。私は、小規模ながら屋根の上に太陽光発電機を設置し、電力会社に売電を行っています。7年で採算がペイできました。貯蓄効果とともに環境貢献でもあります。

太陽の恩恵H

季節通信101オオカンザクラ


📎 月を愛でる

 銀閣寺の本堂の前に、「向月台」と呼ぶ砂盛りと「銀沙灘(ぎんしゃだん)」という砂敷きがあります。その目的は、正面にある月待山に昇る月を観るためとも、月光を反射させて本堂を照らすためとも言われています。いずれにしろ、月を楽しむための装置に違いありません。
 銀閣寺(慈照寺)を造営した室町幕府第8代将軍・足利義政は、15世紀後半の室町中期から戦国初期に生きた人です。この時代は、公家に代って武士が台頭し、文化的にもその担い手になりました。現在でも日本の伝統文化とされる能・茶の湯・生け花などがその基盤を整えた時代です。

月G

 殺伐とした戦乱の一方で、風流を愛でたのでしょう。方丈から、庭に昇る月を眺めて楽しみました。秋ならば虫の声を聴いたかも知れません。それに比べて現代人は、ライトアップなど人工的な照明を得ることができましたが、淡い月の光の美しさを忘れてしまいました。
 言葉では「十五夜」「中秋の名月」「十三夜」「上弦の月」などと知ってはいますが、どんな月かは理解していませんでした。一度確認しようと百科事典で調べてみましたが、なかなか難しいものです。そこで、自分でその構造?を作図してみました。その成果が下の図です。ご覧ください。

月H

脱線“骨董市”

 日本の建築は木材によるが、西洋の建物は石やレンガを使用する。木材は腐るので、おおむね一世代で新しく建て直すが、石の建物は何世代にも亘って住み続ける。家具・調度についても、こちらは新しいものを尊重するが、あちらは古いものを大切にする。一般傾向の話しです。
 イギリスの田舎・コッツウォルズには、アンティーク・ショップがたくさんあると聞いたので、その一軒を覗いてみた。戸棚、ランプ、時計、食器など、あらゆるものが揃っている。木製品は張り物でなく、ムクの材木を使用しているので、何度でも削って新しくする。

骨董市G修正2

 ハンガリーからクロアチアへ向かう途中の公園で、露店の骨董市が開かれていた。壁掛けの銅製品や、壺・皿・フィギアなど陶製品も並んでいる。ひょっとしてマイセンやヘレンドといった掘り出し物はないかと探してみたが、鑑定する眼力がないので諦めることにした(「何でも鑑定団」のファンです)。
 ロンドンの大きな市場の一角にも、骨董店が並んでいた。BOUGHT&SOLDとあるので、買い取りもしてくれるのだろう。ひとつの店は古道具専門である。農器具・大工道具・文房具などが並べられていた。小さなノギスと植物観察用のルーペを買ってしまった。(店主も雰囲気がある)


季節通信95雪割草

📎 照葉樹林

 日本西南部に分布する「照葉樹の森」は、西に渡って朝鮮半島の先端部、中国の江南・雲南地域、さらにヒマラヤ山脈の中腹にまで連なっている。この森に生育する樹木は、葉の表面がテカテカ光るシイやタブ、カシやツバキなどである。

照葉樹林H

 この森には様々な民族が住んでいるが、その文化には多くの共通性があるという。日本では縄文時代人に当たるが、その特色は、餅や納豆といった粘つくものを食べ、麹の酒やお茶を飲み、絹や漆を使うことである。サトイモやコンニャクなどの根菜,ソバやアワなどの穀物を栽培する。

照葉樹J

 我が国では、古くから薪炭のための伐採や、スギ・ヒノキなどの植林が進んだために、現在では神社の境内などにしか残っていない。伊勢神宮では2千年の昔から、森厳を守り水源を涵養するために広大な天然林を残してきた。外宮では高倉山の90ha、内宮では神路山や島路山などの5500haである。名古屋市内では、熱田神宮や東谷山の北斜面、徳川園の緑地保全地区などでしか見ることができない。

 私事ですが、50数年前の三重大学林学科の卒業論文は、「外宮・高倉山の照葉樹林植生調査」でした。また、6年前、68歳の時に名工大で受講した修士課程の論文は、「外宮照葉樹林の景観調査」でした。

📎 森林の文明史

 文明が滅びるときには、ひとつのパターンがあるといいます。森林が無くなるのです。古代メソポタミア文明やインダス文明の崩壊などが当てはまります。そのプロセスは ・・・
①人口の増大 ②建築や燃料のために樹木を伐採する ③森林の破壊 ④気候の変動 ⑤食糧不足 ⑥疫病の蔓延 ⑦人口の減少・・・
というのが共通のパターンだそうです(安田喜憲著『気候変動の文明史』より)
 日本は森林国といわれ、国土の70%が森林に覆われています。平均気温15℃、年間降水量1500mmという恵まれた気象条件により、放っておいても豊かな森林が成立するのです。西日本ではシイやカシなどの照葉樹林、東日本はブナやナラといった落葉樹林です。

森林の文化史G

 それに比べ年間の降雨量が800mmほどのヨーロッパでは、放牧による草原化もあって、人が大切にしないと森林が育ちません。日本も、戦後に植林した造林地の手入れが悪い(間伐などが行われない)ため、森林の劣化が進んでいて安心はできないのです。
 今は亡き名優、森繁久弥さんの名前を思い出しました。“森が繁ると、文明が久しく弥(いや)栄える”と読めるではありませんか。今のコロナの流行が、「⑥疫病の蔓延」に当てはまらなければと願います。

📎 地球を測る

 地球の周囲を巻尺で測ると(無理!)、4万キロメートルになるそうです。なぜ、そんなにピッタリな数字だと思いますか?・・・答えは、逆に子午線の距離の4000万分の1を「1m」と決めたからです。
 1mの基準となるのは、かつては「メートル原器」でした。1879年にフランスでつくられました。白金90%とイリジウム10%の合金で、摂氏0℃のときに1mとなるように設定されています。
 1885年になって30本製作され、その1本が日本に送られてきました。現在は筑波にある産業総合研究所に保管され、2012年に国の重要文化財に指定されています。1960年からは、メートル原器の使用はやめて、光の波長を基準とするようになりました。

地球を測るG

 4万kmを2π(パイ=約3.14)で割ると、地球の半径が計算できます。約6400kmです。これが、地表から地球の芯(中心点)までの距離になります。
 我々の生活圏は、この深さに比べると本当にわずかな薄っぺらなものです。飛行機なら上空10000m(10km)、海でいうなら、もっとも深いマリアナ海溝でも底までは10kmほどです。大陸の土壌がどれほどの厚さかは知りませんが、卵の薄皮のようなものでしょう。
 写真はアイルランド西海岸の石灰岩台地、氷河により薄皮まで削り取られて骨格が剥き出しになっています。土壌は強風により吹き飛ばされてしまうので、1木1草生育することができません。

📎 ピタゴラスの定理

 もうひとつ数学で頭の体操を。今度は幾何学です。中学くらいで「ピタゴラスの定理」というのを習いましたね。“直角三角形の底辺の2乗と垂辺の2乗の和は、斜辺の2乗に等しい”。言葉だと解りにくいので、図にすると理解しやすいかも知れません。

ピタゴラスA

 この「定理」は、今から2500年前には知られていたそうです。古代ギリシャの哲学者であり数学者であるピタゴラスが発見しました。敷き詰められた三角形のタイルを見て思いついたのだと言います。下の図を見てください。赤い三角形に面するタイルの数を数えると、aとbは青いタイルで4枚づつ、計8枚。cは緑のタイルで同じく8枚です。確かにa2 + b2 = c2 になります。

ピタゴラスB

 我が家のトイレも三角形のタイル張りですが、毎日見ていても何も考えたことがありません。そこが天才と凡人の違いなのでしょう。

📎 等比級数(とうひきゅうすう) その2

 もう1題、数学のお遊び。父と母は2人。祖父・祖母は両家を足して4人。その親は8人とだんだん増えていく。4代前は16人、5代前は32人。ここでマージャンの数え方登場。

 イチロク(16)、サンニイ(32)、ロクヨン(64)、イチニッパ(128)、ニゴロ(256)・・・
1代前:2 2:4 3:8 4:16 5:32 6:64 7:128 8:256 9:512 10代前:1024人

 10代前のご先祖様は、約1,000人ということになる。まだまだ・・・
11代前:2千 12:4千 13:8千・・・・18:256千 19:512千 20代前:1024千人  

 すごいことになってきたぞ。20代前の先祖は100万人ということだ。さらに・・・
21代前:2百万 22:4百万 23:8百万・・・・28:256百万 29:512百万 30代前:1024百万人

 すなわち10臆人。俺の身体の中には、10臆人の血が入っているのか?
31代前:2十億・・・・40代前:1024十億人  

 ワーオ!! 40代前には1兆人だ。さてさて親と子の年齢差を25歳とすると、たかだか1,000年前のことだ。この計算どこかで間違っていないだろうか? いやいや、マージャンで鍛えたこの計算能力は信ずるに値する。
 “ご先祖様を敬え!” ということは、自分の血の等比級数的な多様性を大切にせよということか?“子孫繁栄” とは、1,000年後に生きているであろう1兆人の “我が末裔” の幸せを願うことか!!

等比級数G再掲

📎 等比級数 ≪2020・5・10の再掲≫

◆◆コロナのために自宅待機・テレワークを余儀なくされています。毎日家に居るのも辛いことで、同じことの繰り返しは人の脳を疲れさせるようです。そこで頭に刺激を・・・苦手な人も多い数学で一遊び!!◆◆

 皆さんは曽呂利新左衛門のお話をご存知でしょうか。私たちの子供の頃の少年漫画雑誌 (月刊誌) にはなぜか 「豊臣もの」 が多かったように思います (明治政府が家康を腹黒い狸親父にしたかった?)。真田十勇士とか豪傑・塙団右衛門 (ばんだんえもん) とか。その中に曽呂利新左衛門の逸話がありました。
 彼は太閤・秀吉のお伽衆で、お気に入りの侍だったようです (落語の始祖という説もあります)。あるとき秀吉に “好きなだけ褒美を摂らす” と言われ、それなら “米粒1粒、明日は2粒、毎日倍々で100日間” と。それくらいなら大したことはないと秀吉は思ったけれど、それはとんでもないことに・・・

稲のハザG

 今の計算なら、2の99乗ということで大変な量となります。ところが西洋にも同じような話があるのです。チェスを考案した人が王様に褒められ、ご褒美にチェス盤に麦1粒を選びました。チェス盤は8×8なので64桝あります (今、日本の高校に留学中の孫娘から教えられました)。

トウヒキュウスウH再掲

 そこへ麦粒を倍々に乗せていくと2の63乗・・・9,223,372,036,854,775,808粒ということになります。すなわち922京、「京」 は 「兆」 の1万倍ですから莫大な数なのです。先だって、スーパーコンピューターの名前としても話題になりましたね。

◆◆頭の体操になりましたか? エッ!かえって頭が痛くなった!?◆◆

📎 絵っSAY(エッセイ) ≪2020・5・1の改訂≫

 名古屋市緑地部を退職してのち、中部電力の名古屋港ワイルドフラワーガーデン 「ブルーボネット」 に5年弱勤務しました。その間に 「園長さんのガーデンライフ」 と題したブログを377回発信しました。これは植物や庭園に関する “よもやま話” です。(同名の本も自費出版しました)

エッセイG再掲

 中電を退職し、中部復建に技術顧問として勤め始めて早や9年にもなります。その間に 「中部の土木文化見てある記」 というこのブログを650回ほど更新しました。すなわち14年間に亘っての “ブロガー” 生活を続けていることになります。(仕事ではありますが、ほとんど趣味?生甲斐?の域に達しています)

エッセイH再掲

 テーマは異なりますが、私のブログには共通することがあります。文章は短めで、必ず写真を添付することです。むしろ、写真が多くを語る主役であり、文章の方が脇役なのです。私はこの方式を 「絵っSAY」 と名付けました。絵 (写真) が喋るという意味です。
 エッセイ (随筆) と言えるほどのものか否かは読者のご判断にお任せしますが、本人はそのつもりで書いています。英文学者の福原麟太郎という人が、『叡智の文学』 という本の中で次のように述べています。「随筆は知識を書き残すことでなく、意見を吐露することでなく、叡智を人情の乳に溶かしてしたたらせる事である」 と。“叡智を人情の乳に溶かす” とは意味深い言葉ですが、私もその心がけでブログを続けていきたいと思います。

📎 アボガドロ数 ≪2020・6・25の再掲≫

◆◆ブログの目次をつくりながら過去の記事を拾い読みしていて、雑談的な記事に面白い(自我自賛)ものがあることに気がつきました。コロナによる不要不急?な外出ができず、取材写真のストックがなくなりましたので、“雑談記事”をいくつか再掲することとします。◆◆ 

 中日新聞夕刊のコラム欄で名古屋大学の先生が、地球惑星科学科の授業について語っている。内径2cm×高さ2cmの水、すなわち6ミリリットルの水の中に2×1兆×2000億(=4000万京)の水分子が入っているという。
 1円玉の直径がちょうど2cmであり、それを13枚重ねると約2cmになる。6ミリリットルの体積を視覚的に認識しようとすれば、下の写真である。この中に4000万京の水分子が数えられるというのだ。地球惑星科学というのは、何万光年という気の遠くなるような広大な世界から、極微な分子までを学問の範囲としているのだろう。

アボガドロ数G

 この記事を読んでいて、はるか昔の高校時代に習った物理か化学の授業を思い出した。「アボガドロ数」である。1モル(mol)という単位があり、物質量を示す。分子量の数字にグラムをつけた質量に含まれる物質量をいう。
 水の分子は、H20であるので1×2+16=18g(18ミリリットル・・・写真の3倍)が1モルの重さである。1モルの中にある分子の数は・・・≪6×10の23乗≫という数を50年以上経った今も覚えている。ついでに、気体の場合には22.4リットルの体積が1モルである(との記憶である)。

 受験用に必死に覚えたのかもしれないが、それ以上に未知の遠大な(極小な)世界に、好奇心的な興味をもったように思う。なぜなら、受験のためだったらとっくの昔に忘れ果てたであろうに。さらに、「水兵離別バックの船 なあに間があるシップはすぐ来らあ 閣下はスコッチのバクローマン」という「元素の周期表」の暗記方法も思い出した。

アボガドロ数H修正

ロンドンの遊覧バス

 アイルランドの次は、イギリスを巡ってみましょう。とはいうものの、2週間ほどの旅行を1度行ったきりなので、大したレポートはできません。しかも、ロンドンを中心に近郊にあるキューガーデン、ハンプトンコート、少し離れたコッツウォルズを廻っただけで英国全体を見たわけでもないのです。

 大きな都市には、市内巡りの遊覧バスが必ずある(ここは二階建てバス)。私は最初の日にこれを利用する。地図を眺めながらコースを一周すると、都市の骨格が概ね理解できる。名所や見たい施設の位置が分かるし、思わぬ魅力スポットを発見できることもある。翌日から順次目的地を訪れる。

ロンドン遊覧

 テムズ川沿いの国会議事堂と有名な時計台ビッグベン、直径135mという巨大な観覧車「ロンドンアイ」。バッキンガム宮殿には、小雨の中にもかかわらず観光客が群がっていた。2本のクラシックな塔をもつ跳ね橋「タワーブリッジ」は、霧に霞んで見えた。
 有名な施設だけでなく、なんでもない街角を見るのも好きだ。お洒落なレストランやパラソルのあるオープンカフェには、町の人々の生活が感じられる。バスの後に遊覧船に乗ることも多い。水面から見ると、その町の違った景色が見えてくる。

脱線“食料自給率”

 文豪・開高健がどこかで書いていた・・・「ロンドンでは屋台で “フィッシュ・アンド・チップス” といって売っている。ジャガイモの揚げたのと、イワシか何か小魚の揚げたのを。あれを買うと新聞紙を三角にした袋に入れてくれる。そのときに注意しなけりゃいけないっていうのは・・・」
 「あれを下宿までさめずに持って帰りたかったらエロ新聞に包んでもらえっていうのだ。そうしたらいつまでもホカホカあたたかい。まかりまちがっても “タイムズ” で包んでもらっちゃいけない。たちまち冷凍になるそうだ。」彼独特のゆかいな “与太話し” である。

食料自給率G

 ロンドン郊外の田舎町コッツウォルズに、人だかりのしているFISH BARの店があった。フィッシュ&チップスは美味いものじゃないと聞いていたけれど、あんなに並んでいるならと買ってみた。できたてのホカホカは、イギリス人の名誉のために言うのではないが、間違いなく美味しかった。
 今日の本題は、耳の付いたサンドウィッチである。イギリスのスーパーでの、パンコーナーの写真を見てほしい。どれも “耳付き” である。日本のコンビニで売るサンドは、耳をカットしてある。食料自給率40%以下の国であるにもかかわらず。そもそも、パンは耳が一番美味いところなのに。

食料自給率H


季節通信94屁糞蔓修正

安祥城址と歴史博物館

 安祥城の築城の年代は古く、室町時代の永享年間(1429~1441)ごろと考えられている。碧海台地東縁部の半島状の高台に位置していて、周りを湿田に囲まれた天然の要害である。戦国時代には松平氏の居城となり、織田氏との間で数度の攻防があったと伝えられている。
 その後、松平氏の本拠は岡崎に移され、江戸時代は廃城となり畑になっていたという。寛政4年(1792)に了雲院(大乗寺)が移転してきて現在に至っている。城跡全体は現在、安祥城址公園として一般に開放されている。お堀だったかつての地形を生かして、起伏や池のある景観を造っている。

安城歴史博物館

 公園に隣接して、安城市の公民館、歴史博物館、埋蔵文化財センター、市民ギャラリーが設置されている。安城市内には約250か所もの遺跡が知られていて、開発行為などにともなって発掘調査が行われる。出土した遺物は埋蔵文化財センターに保存され、研究・展示が行われる。
 歴史博物館は、矢作川流域の政治・経済・文化に関する資料を展示している。展示室中央に飾られる「人面文壺形土器」は、市内で出土した弥生時代終末期の焼き物である。中央に入れ墨のある人の顔が描かれているが、これほどはっきりとしたものは全国にも例がなく、国の重要文化財に指定されている。

天満宮の牛

 2021年の始まりです。昨年は新型コロナの蔓延など、明るい年だったとは言えません。今年こそ、太陽が輝くような明るい良い年にしたいものです。新年とは言え、人の混雑するような大きな寺社への初詣は憚られてしまいます。近所の氏神様か菩提寺への参拝にしようと思います。
 私は、子供の受験生時代にお参りしたのをきっかけに、毎年、岡崎にある「岩津天神」に初詣することにしていました(今年は行けません)。天満宮は、菅原道真公を祭神とする学問の神社として、多くの人たちに親しまれています。全国に1万2000もの天満宮があるそうです。

天満宮の牛2

 天満宮には必ずと言っていいほど、道真に縁の深い「牛」の像があります。牛の体を撫でると頭が良くなったり、病気が治るなどのご利益があるそうです。上の写真は岩津天神の牛、下は京都・北野天満宮の牛の写真です。
 天満宮にはもう一つ、梅の木が付き物です。「東風(こち)ふかば にほひをこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ」(宝物集)、九州・大宰府に左遷となった道真が京を偲んで詠いました。今年は丑年ですので、牛の話題から始めました。

阿智村の浪合神社と尹良親王御陵墓

 中学・高校時代、歴史の年号を覚えるのが苦手だった。数学や物理の問題を解くのは楽しかったけれど、国語の漢字など暗記ものが好きになれなかった。単に、勉強時間が足らなかっただけかもしれないが。日本史の中でも「南北朝時代」というのは特に分からなくて、今でも実態が掴めない。
 南北朝時代とは、源頼朝が樹立した鎌倉時代が終焉し、足利尊氏の室町幕府が始まる14世紀中ごろの約60年間をいう。後醍醐天皇が吉野に逃れて開いた南朝に対し、京都の朝廷を北朝といい、武家を巻き込んで争いを続けた。後醍醐天皇は自らの皇子を各地に派遣して内乱をくり返した。

浪合神社マップ

 尹良親王(ゆきよししんのう=1364~1424)は後醍醐天皇の孫で、父・宗良親王(むねながしんのう)の討幕の意思を継いで東国各地を転戦した。応永31年(1424)三河・足助へ向かう途中、阿智村・浪合のこの地で、北朝方と戦って敗れ(「浪合合戦」という)自害したという。
 尹良親王を祭神とする浪合(なみあい)神社は、延宝年間(1673~1681)に造営された。石造りの鳥居から続く長い坂の参道には、大きな杉の木が並んでいる。社殿の左奥の樹林の中に、宮内庁管理の「尹良親王御陵墓」がある。親王の御首(みぐし)が埋められた場所という。

浪合神社G

半田市亀崎の「鬼門地蔵」その2

 亀崎の海岸沿いには、波打ち際から直接石垣を築き、その上に建てた家が数多く見られた。残念ながら、昭和34年の伊勢湾台風により、それらの多くの家が波にさらわれてしまった。ただ幸いだったのは、消防団の強い警告の結果、ほとんどの人々が高台に逃れて死者を一人も出さなかったことである。

亀崎 図絵G

 私の友人もその一人であるが、家財道具一切何も持ち出すいとまがなく、唯一買ったばかりのテレビだけを抱えて非難したという。このような危機意識が醸成されたのは、前年に床下までの浸水をもたらした「13号台風」の経験だったかもしれない。

亀崎I

 厳しい荒海に小船で乗り出す漁師の危険や、台風などの自然災害と向き合う中で、祈りの心が生まれたものと思われる。毎年5月3日・4日に開催される「潮干祭り」には、多大な費用と労力が必要とされる。亀崎は、祭りにしろ地蔵にしろ、強い祈りの気持ちをもつ土地柄なのであろう。
 板壁に「舟板」を使った家は、大通りと「せこ」の角の壁に地蔵を嵌めこんでいた。東北角は、多くの家にとって裏側である。勝手口やガスのメーターなど雑然としたところに祠が造られている。軽自動車も通行不可能な「せこ」から、遠くに海が見える。新旧2体の地蔵は、祖父の代に「一人では寂しかろうと」一体増やしたのだという。友人の話しでは、今後も調査を続けていくという。

半田市亀崎の「鬼門地蔵」その1

 半田・亀崎は、♪♪酒蔵・酢の蔵・木綿蔵・・・♪ と唄われる醸造の町である。江戸への廻船は余所より距離が短いことが有利に働き、海運業で大きな富を得たという。その名残りが豪華絢爛な「潮干祭りの山車」として今も伝えられている。因みに「山車」は「やまぐるま」と読む。
 衣浦湾から獲れる海の幸も豊富で、海岸沿いには漁師の家が並んでいた。また、海に突き出た岬の「神前神社」が示すように、高台が直接海に面する地形である。海岸通りから西へ向かうと急な坂道となり、瀬戸内の「尾道」と同じような景観を呈する。狭い「せこ(露地)」に思わぬ文化があった。

亀崎マップ

 私はこの町に中学2年生まで10年ほど暮らしたが、うかつにもこのことは知らなかった。町の至る所に「鬼門地蔵」と呼ばれる祠があることを。先日の中日新聞・県内版で初めて知り、早速、見学することとした。具合のよいことに、亀崎の細部を熟知する同級生に電話すると、案内してくれるという。
 「鬼門」とは、陰陽道で鬼が出入りする忌み嫌う方角で、東北の方向である。その角に神仏を祀ることにより災難を逃れることができるという。古い家々の東北角に「お地蔵さま」が祀られている。地蔵は各地で見られるが、個人々々が祀るのは全国でも稀有なことという。これまでの調査では、70か所ほど確認されている。この日は2時間ほど歩いて10か所をお参りすることができた。

亀崎H


季節通信87千両・万両

閑話「古墳」その7(溜池)

 閑話を終わるつもりだったけれど、志段味地区の航空写真を見ていると、もう一つ語りたくなる。

 科学的、学問的知識はないが、「豪族たちは、農民を指導して溜池や農業用水路をつくったのではないか」と述べた。地図を眺めると≪庄内川―沖積平野(氾濫原)―河岸段丘崖―台地ー丘陵地≫ といった地形の連なりが見えてくる。航空写真を下敷きにして配置図をつくってみた。(労作です!?)
 ◆沖積平野…庄内川に沿って、両岸に氾濫原が広がっている。格好の水田地帯である。
 ◆河岸段丘…高低差5~6m(建物1階分ほど)の崖が続いている。
 ◆台  地…河岸段丘と丘陵地の間の高台。農耕地には不向きで、豪族たちの住居だった?
 ◆丘 陵 地…洪積層の樹林地。木材や落葉堆肥の供給地。(現在はゴルフ場が造成されている)

しだみ航空写真X

しだみ溜池
しだみ断面3


 ■溜  池…丘陵地の谷間に堤防を造り、水を貯めて水田や畑を潤した。(いつできたか知らない)
 ■農業水路…溜池から流れる川の水を水平方向に導き、台地の上の田や畑に引いた。荒地を開墾      
          して生産力を高めたかもしれない。
 ■古  墳…台地の上や、東谷山の山頂にも古墳を造った。
 これらの土木工事は、高度な知識と人夫を使役する統率力が必要であり、まさに豪族がその任を果たしたのではないか?農民にとって豪族は、支配者としてだけでなく、自分たちにも役に立つ、意義のある存在だったと思われる。
 ■石ひろい池…面白い名である。ひょっとしたら古墳の葺石(ふきいし)を採取した跡地かも知れない。 

 思いのまま書きましたが、「古代史ロマン」と考えてお許しください。

シダミューY


閑話「古墳」その6(竪穴式住居)

 閑話の最後です。ちょっと脱線して私の古くからの持論を語らせてください。「竪穴式住居」という言葉についてです。・・・

 私が小学校低学年のとき先生から、「人は右を歩きます。車はどこを走るでしょう?」という問題が出ました。私は「真ん中」と書いてバッテンをもらいました。しかし納得がいかない。「だって、車はいつも真ん中を走っているじゃない。車が左で人が右だったら正面衝突をしちゃう」と思ったのです。田舎の狭い道路だったので、二車線などなく車は真ん中を走っていたのです。
 こんな頑固な子供だったので、中学ぐらいのときに「竪穴式住居」というのを習ってヘソを曲げた。「だって(また!)、横穴なら分かるけれど、縦の穴だったら雨にぬれるし水が溜まってしまう」と思ったのです。大人になって、竪穴式住居でも4本柱を立て、丸太を差し掛けて藁で葺くことを知りました。すると今度は、そのネーミングが気に入りません。「穴と言ってもわずかに窪ませるだけだし、何と言っても立派な屋根があるではないか。外から見れば立派な藁葺きの建物なのに穴とは?」と。

竪穴I

 もう一度、岩倉市史跡公園の2つの建物(2020・7・28に掲載)を見ていただきたい。片や「藁葺き入母屋造りの家」であり、片や「竪穴式住居」です。柱や壁(軸組)の上に「小屋組」が乗れば「建物」で、同じような「小屋組」なのに地面から直接立っていると「穴」というのはおかしいと思います。
 たぶん、理由は分かっています。「竪穴式住居」と命名したのは考古学者だからだと。彼らは発掘が専門です。住居跡を調べていると窪んだ住居跡が発見されたのです。鍾乳洞や岩屋に住んでいた人たちを「横穴式住居」と呼んでいたので、これは「竪穴」だと思ったのでしょう。腐って消えてしまった木材や藁は目に入らなかったのだと思います。(失礼!)

 しかし今は、考古学者だけでなく、建築家や民俗学者、生態学者なども古代住居を研究しています。そろそろ名前を変えて、「窪地式入母屋造り」とか「低床式」などという名を付けたらいかがでしょう。これなら「平地式」「高床式」とも一貫性があると思います。
 もう一度、「竪穴式住居」のイメージ図を見て下さい。赤い矢印の段差が「穴」に見えます?

竪穴K

閑話「古墳」その5

 「しだみ古墳群ミュージアム」に、興味深い埴輪が展示してあった。家の形をした埴輪である。これを見ていて、ある建物を思い出した。伊勢神宮で見た「外幣殿(げへいでん)」である。伊勢神宮特有の「唯一神明造り」という形式の建物である。
 切妻平入り、掘立柱の高床式で、茅葺き屋根の頂部に「鰹木(かつおぎ)」と呼ぶ丸太を乗せる。埴輪を見ると、高床式ではないが柱と壁があり、切妻屋根である。鰹木の様子もそっくりである。これは、古墳をもたらした支配者武族の人たちの建物であろう。

竪穴式G

 これに対し庶民(弥生時代からの稲作農民)の家は、これもパネル展示により知ることができる。いわゆる「竪穴式住居」である。地面を一段低く掘削し、4本柱に丸太を差し掛けて藁や茅で葺く。中で囲炉裏を焚くので、煙出しの穴が必要である。屋根の型式は「入母屋造り」である。
 この形式は、縄文時代にもあったと見られており、弥生時代を過ぎてかなり後々まで農家の生活空間として使い続けられていたという。下の写真は「岩倉市史跡公園の建物」(2020・7・28に掲載)である。「竪穴」と言いながら、立派な屋根のある「建物」なので、私はこの呼び方に疑問をもっている。
 その件は、次回で・・・
 
竪穴式H
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ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
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