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尾瀬の木道
昨日の中日新聞の夕刊に、尾瀬の「歩荷(ぼっか)」の記事が載っていた。私も学生のときに、北アルプスで1度だけ経験したことがある。数10年を経て、初めて尾瀬に行ったときに出会ったこともあり、懐かしく思い出した。
山小屋への物資運搬は、ほとんどの山ではヘリコプターが主流だが、尾瀬では環境保護のため歩荷が主力だという。100kgもの荷物を背負って、10kmの山道を登る。左下の写真の段ボール箱を見ていただきたい。

私の57年前は、たかだか30kgの荷物だった。それでも一度休憩で座ると、立ち上がるのに人の手を借りなければならない。「一本立てよう」というのが休息の合図である。手に持つ「杖」(Y字形)を地面に立てて、荷物の荷重を身体から移す。座らずに立ったままの姿勢で一息つくのである。
尾瀬ヶ原は、東京電力が水力発電の人口湖にするために購入したという。しかし、貴重な高層湿原と湿原植物を破壊するという声が高く、そのまま保存したのである。植物が踏まれて傷まないように「木道」が設置されている。必ず2列作られているが、それはすれ違いと追い抜きのためである。

山小屋への物資運搬は、ほとんどの山ではヘリコプターが主流だが、尾瀬では環境保護のため歩荷が主力だという。100kgもの荷物を背負って、10kmの山道を登る。左下の写真の段ボール箱を見ていただきたい。

私の57年前は、たかだか30kgの荷物だった。それでも一度休憩で座ると、立ち上がるのに人の手を借りなければならない。「一本立てよう」というのが休息の合図である。手に持つ「杖」(Y字形)を地面に立てて、荷物の荷重を身体から移す。座らずに立ったままの姿勢で一息つくのである。
尾瀬ヶ原は、東京電力が水力発電の人口湖にするために購入したという。しかし、貴重な高層湿原と湿原植物を破壊するという声が高く、そのまま保存したのである。植物が踏まれて傷まないように「木道」が設置されている。必ず2列作られているが、それはすれ違いと追い抜きのためである。

半田運河の散策路と「蔵のかけ橋」
知多半島には、豊かな地下水が流れている。そのため古くから酒や酢、醤油などの醸造業が発達した。その繁栄を加速させたのが「半田運河」である。灘などの上方に比べて、江戸への輸送に地の利があった。尾張藩の後押しもあって、廻船業が栄えたのである。
運河の左岸・右岸に黒壁の蔵が建ち並んでいる。上流は「中埜酒造」であり、下流には「ミツカン酢」がある。運河沿いに散策路が整備されていて、歴史を感じながら歩くことができる。運河が交叉する地点には橋が架かっていて「蔵のかけ橋」と名付けられている。

橋からは、ミツカン酢の本社ビルと工場の建物を再利用した「ミツカン・ミュージアム」が見える。半田の酢は、ミツカン創業者の中埜又左衛門が発明した「粕酢」である。それまで捨てられていた酒粕を利用したもので、江戸の「握りずし(早すし)」ブームを巻き起こす元となった。
もうひとつ、醸造の過程で生産される副産物に「たまり」がある。これは、豆みそを熟成するときに、樽の底から滲み出る液体である。醤油とは全く生産方法が異なるもので、色が濃くまったりしてうまみが強い。とくに刺し身に合うので「さしみ醤油」とも呼ばれている。

運河の左岸・右岸に黒壁の蔵が建ち並んでいる。上流は「中埜酒造」であり、下流には「ミツカン酢」がある。運河沿いに散策路が整備されていて、歴史を感じながら歩くことができる。運河が交叉する地点には橋が架かっていて「蔵のかけ橋」と名付けられている。

橋からは、ミツカン酢の本社ビルと工場の建物を再利用した「ミツカン・ミュージアム」が見える。半田の酢は、ミツカン創業者の中埜又左衛門が発明した「粕酢」である。それまで捨てられていた酒粕を利用したもので、江戸の「握りずし(早すし)」ブームを巻き起こす元となった。
もうひとつ、醸造の過程で生産される副産物に「たまり」がある。これは、豆みそを熟成するときに、樽の底から滲み出る液体である。醤油とは全く生産方法が異なるもので、色が濃くまったりしてうまみが強い。とくに刺し身に合うので「さしみ醤油」とも呼ばれている。

桑名宿と矢田立場
東海道五十三次は,宮の宿(熱田)から桑名の宿までは唯一の海路である。「七里の渡し」という。どちらの湊にも鳥居が立っていた。宮には現在はないが、歌川広重の浮世絵を見ると描かれている。桑名は伊勢神宮参りの一の鳥居であり、宮は熱田神宮への一の鳥居であった。
桑名の宿は、桑名城(現在は九華公園)に接して置かれていた。渡し舟は天候に左右されるので、出航待ちのために、やむなく宿泊する人も多かった。江戸時代の調査では、本陣2・脇本陣4・旅籠屋120という数で、五十三次の中では宮宿に次ぐ2番目の大きさだったという。

現在も旧東海道は、舗装の色を変えて分かりやすくなっている。道沿いには、料理旅館などが今も残っている。桑名宿から半里(2km)ほど南へ下った所に「矢田立場」があった。「立場」というのは宿場と宿場の中間にあって、旅人が休憩する茶店などが集まっている所である。
次の四日市宿までは3里8丁の距離がある。五十三次の平均は2里3丁ほどであるので、1.5倍ほど長いことになる。そこで休憩する所が必要であった。「この立場は食物自由にして、河海の魚鱗、山野の蔬菜四時無き事なし」と記録されている。町角に、往時のような火の見櫓が立っていた。

桑名の宿は、桑名城(現在は九華公園)に接して置かれていた。渡し舟は天候に左右されるので、出航待ちのために、やむなく宿泊する人も多かった。江戸時代の調査では、本陣2・脇本陣4・旅籠屋120という数で、五十三次の中では宮宿に次ぐ2番目の大きさだったという。

現在も旧東海道は、舗装の色を変えて分かりやすくなっている。道沿いには、料理旅館などが今も残っている。桑名宿から半里(2km)ほど南へ下った所に「矢田立場」があった。「立場」というのは宿場と宿場の中間にあって、旅人が休憩する茶店などが集まっている所である。
次の四日市宿までは3里8丁の距離がある。五十三次の平均は2里3丁ほどであるので、1.5倍ほど長いことになる。そこで休憩する所が必要であった。「この立場は食物自由にして、河海の魚鱗、山野の蔬菜四時無き事なし」と記録されている。町角に、往時のような火の見櫓が立っていた。

金山宿の「筋骨」と金山橋
飛騨街道は越中街道・鯖街道とも呼ばれ、美濃から飛騨そして越中(富山)を結ぶ重要な街道であった。中山道の太田宿から枝分かれして北上する。金山宿・下呂宿・高山宿・古川宿など、現在も魅力的な町並みを残す宿場町が点在する。
金山宿は、美濃と飛騨の国ざかいにあり、また飛騨川と馬瀬川の合流点にある。幾筋かの街道や脇道が出合う所であり、舟運の拠点「金山湊」があったことから、多くの物資が集められ、経済的にも大きく発展していた。今も重厚な「造り酒屋」や木造三階建ての「お城造りの家」などが残っている。

現在は金山橋により飛騨川と馬瀬川の合流点を跨いでいるが、かつては「大船渡の渡し」により舟で行き来していた。昭和3年(1928)に左岸側に鉄道が開通し、右岸側の宿場町と繋ぐために「金山橋」が架けられた。二重トラス構造の珍しい形をしている。
飛騨街道の両側には、狭い迷路のような脇道が張り巡らされている。「筋骨(きんこつ)」と呼ぶ。家と家、石積みと石積みの間に1m内外の狭い道が続いている。階段を降りた所に「清水」があった。町人の大切な生活用水で、「1号池は飲み水・2号池は冷し物・3号池は食器や野菜洗い・4号池は洗濯物」との規定を記した看板が掲げられている。

金山宿は、美濃と飛騨の国ざかいにあり、また飛騨川と馬瀬川の合流点にある。幾筋かの街道や脇道が出合う所であり、舟運の拠点「金山湊」があったことから、多くの物資が集められ、経済的にも大きく発展していた。今も重厚な「造り酒屋」や木造三階建ての「お城造りの家」などが残っている。

現在は金山橋により飛騨川と馬瀬川の合流点を跨いでいるが、かつては「大船渡の渡し」により舟で行き来していた。昭和3年(1928)に左岸側に鉄道が開通し、右岸側の宿場町と繋ぐために「金山橋」が架けられた。二重トラス構造の珍しい形をしている。
飛騨街道の両側には、狭い迷路のような脇道が張り巡らされている。「筋骨(きんこつ)」と呼ぶ。家と家、石積みと石積みの間に1m内外の狭い道が続いている。階段を降りた所に「清水」があった。町人の大切な生活用水で、「1号池は飲み水・2号池は冷し物・3号池は食器や野菜洗い・4号池は洗濯物」との規定を記した看板が掲げられている。

中山七里と境橋
国道41号は名古屋から小牧・美濃加茂を経て、下呂・高山・飛騨を通って富山に至る。日本列島の最も幅広い所を横断する道路である。JR高山線も岐阜が起点であるが、ほぼ同じルートを走る。途中、飛騨川に沿って北上する。
飛騨金山駅近くに架かる「境橋」から、下呂の「六見橋」あたりまでの渓谷を「中山七里」と呼ぶ。急峻な山地を飛騨川が浸食したもので、奇岩が多く岩ツツジなどもへばりついている。春は桜、秋は紅葉が美しく、夏は蛍が飛び交うという。

「境橋」の架かるこの地は、かつて美濃と飛騨の国境になっていた場所である。尾張と三河の国境いを流れる川を「境川」と呼ぶのと同じであろう。初めて橋で繋がったのは明治12年(1879)のこと。その後、数回に亘って洪水で流されてしまった。現在のものは昭和5年に造られた。
橋を渡った東側に、お地蔵様と簡単な道しるべがある。子安自蔵、住吉権現と刻まれた石柱も立っている。その手前の舗装にマンホールがあって、鋳鉄に「国土地理院・水準点」と記されている。ここは、伊能忠敬が「飛騨の起点」と定めた地点という。

飛騨金山駅近くに架かる「境橋」から、下呂の「六見橋」あたりまでの渓谷を「中山七里」と呼ぶ。急峻な山地を飛騨川が浸食したもので、奇岩が多く岩ツツジなどもへばりついている。春は桜、秋は紅葉が美しく、夏は蛍が飛び交うという。

「境橋」の架かるこの地は、かつて美濃と飛騨の国境になっていた場所である。尾張と三河の国境いを流れる川を「境川」と呼ぶのと同じであろう。初めて橋で繋がったのは明治12年(1879)のこと。その後、数回に亘って洪水で流されてしまった。現在のものは昭和5年に造られた。
橋を渡った東側に、お地蔵様と簡単な道しるべがある。子安自蔵、住吉権現と刻まれた石柱も立っている。その手前の舗装にマンホールがあって、鋳鉄に「国土地理院・水準点」と記されている。ここは、伊能忠敬が「飛騨の起点」と定めた地点という。

刈谷ハイウェーオアシス
伊勢湾岸自動車道「刈谷ハイウェーオアシス」は、岩ヶ池公園と一体となって魅力的な集客施設となっている。東名高速・外環状・名古屋環状など高速道路や1号線・23号線といった国道などが集中する地であり、県道からも入場できるとあって、集客数は日本一と言われている。
岩ヶ池公園は、面積39haの都市計画公園である。溜池でもある岩ヶ池を中心に、自然の雑木林が広がっている。大型の複合遊具を備えた遊園地には、メリーゴーランドやゴーカートがあり、ミニ汽車「かも・かもポッポー」も走っている。全体の開園は平成30年と新しい。

ハイウェーオアシスはもともと、高速道路を走る運転手たちの休憩場所であり、駐車場やトイレ、レストランやショップを備えたものである。しかし、この刈谷ハイウェーオアシスはその概念を越えている。まず、遠くから大きな観覧車が目に入ってくる。
最近、各地のハイウェーオアシスそのものを目的にドライブを楽しむという「レジャー」が流行っているという。刈谷には、地元の名産「えびせんの里」や三河湾で獲れた魚介類を売る店があり、県道側からも人が入る。朝早くから「天然温泉」目当てに、駐車場に並ぶ人もいるくらいである。

岩ヶ池公園は、面積39haの都市計画公園である。溜池でもある岩ヶ池を中心に、自然の雑木林が広がっている。大型の複合遊具を備えた遊園地には、メリーゴーランドやゴーカートがあり、ミニ汽車「かも・かもポッポー」も走っている。全体の開園は平成30年と新しい。

ハイウェーオアシスはもともと、高速道路を走る運転手たちの休憩場所であり、駐車場やトイレ、レストランやショップを備えたものである。しかし、この刈谷ハイウェーオアシスはその概念を越えている。まず、遠くから大きな観覧車が目に入ってくる。
最近、各地のハイウェーオアシスそのものを目的にドライブを楽しむという「レジャー」が流行っているという。刈谷には、地元の名産「えびせんの里」や三河湾で獲れた魚介類を売る店があり、県道側からも人が入る。朝早くから「天然温泉」目当てに、駐車場に並ぶ人もいるくらいである。

山の辺の道
三輪山登拝の後は、お腹が減ったので、「三輪素麺」の店を探す。山の辺の道沿いの、土蔵や日本庭園のあるお店で「冷やしそうめん」と「柿の葉寿司」をいただいた。ここは、素麺発祥の地であり、今なお生産が盛んである。柿の葉寿司も、奈良の郷土料理である。
「山の辺の道」は、弥生時代にできたという最古の道である。三輪山山系のふもとを、南北に約26km貫いている。ところどころ幅広くて、車通行が可能な所もあるが、基本的には人の歩く道である。石畳で舗装されている所もある。 ≪マップは9月13日の図を見てください≫

第10代崇神天皇の時代、疫病などで世が乱れていた時に、大物主大神のお告げでその子孫「大田田根子」を探し出して祀ったところ平安が戻ったという。その社が「若宮社」である。
しばらく北へ進むと「檜原(ひばら)神社」がある。三輪山がご神体であるため本殿はなく、大神神社と “うりふたつ” の「三ツ鳥居」が立っている。それまで宮中にお祀りされていた「八咫の鏡」が、初めて外に出された場所である。
少し開けて水田のある集落に差し掛かると、古い藁葺きの家があった。草葺屋根を残しながら、保存のためにトタンで覆ってある。庭に柿の木が1本。実を食べ、葉で寿司を作るのであろうか。

「山の辺の道」は、弥生時代にできたという最古の道である。三輪山山系のふもとを、南北に約26km貫いている。ところどころ幅広くて、車通行が可能な所もあるが、基本的には人の歩く道である。石畳で舗装されている所もある。 ≪マップは9月13日の図を見てください≫

第10代崇神天皇の時代、疫病などで世が乱れていた時に、大物主大神のお告げでその子孫「大田田根子」を探し出して祀ったところ平安が戻ったという。その社が「若宮社」である。
しばらく北へ進むと「檜原(ひばら)神社」がある。三輪山がご神体であるため本殿はなく、大神神社と “うりふたつ” の「三ツ鳥居」が立っている。それまで宮中にお祀りされていた「八咫の鏡」が、初めて外に出された場所である。
少し開けて水田のある集落に差し掛かると、古い藁葺きの家があった。草葺屋根を残しながら、保存のためにトタンで覆ってある。庭に柿の木が1本。実を食べ、葉で寿司を作るのであろうか。

中小田井の岩倉街道
旧岩倉街道は、犬山・江南・一宮・岩倉から枇杷島・清須に至る道である。岩倉方面の野菜類が枇杷島の青物市場に運ばれ、名古屋城下の人々に供給された。中小田井は、小田井遊水地(庄内緑地)の北に広がる町で、荷車や人の往来が盛んであった。
野菜を満載した車が庄内川の堤防へと登る、急な坂道に差し掛かる手前の町である。空の荷車を曳いて帰る人たちに向けて、味噌や油など生活用品を商う店が立ち並んでいた。このあたりでは、菜種油の栽培が盛んで、かぐわしい油の匂いが通りに香っていたという。

古い町屋の米屋があって、屋号を「わたしん」という。これは、かつて綿を商っていた名残りだという。古い「米のはかり」が置いてあって、今も現役で使われている。白い壁と黒い板の塀に、2連の土蔵が続いている。昭和62年(1987)に、名古屋市の「町並み保存地区」に指定された。
町の歴史と現状を学び、新しい発見をして情報発信しようとするグループが活動している。KIZZURI(きずり)といい、洒落た手作りのパンフレット(マップ)を配布している。古い建造物の保存や活用が中心だが、通りに彩りを添える花や緑にも関心をもって取り組んでいる。

野菜を満載した車が庄内川の堤防へと登る、急な坂道に差し掛かる手前の町である。空の荷車を曳いて帰る人たちに向けて、味噌や油など生活用品を商う店が立ち並んでいた。このあたりでは、菜種油の栽培が盛んで、かぐわしい油の匂いが通りに香っていたという。

古い町屋の米屋があって、屋号を「わたしん」という。これは、かつて綿を商っていた名残りだという。古い「米のはかり」が置いてあって、今も現役で使われている。白い壁と黒い板の塀に、2連の土蔵が続いている。昭和62年(1987)に、名古屋市の「町並み保存地区」に指定された。
町の歴史と現状を学び、新しい発見をして情報発信しようとするグループが活動している。KIZZURI(きずり)といい、洒落た手作りのパンフレット(マップ)を配布している。古い建造物の保存や活用が中心だが、通りに彩りを添える花や緑にも関心をもって取り組んでいる。

ダブリンの道路事情
ダブリン市の面積は318平方キロ、名古屋市(326)とほぼ同じである。しかし、市周辺部は田園や森林が広がっているので、市街地の面積はそれほど広くない。そこに、市民約120万人と首都としての人々の往来があるので、都心部は活気に満ちている。
二階建て遊覧バスで中心部を一周した。運転手は、名古屋ほど幅広くない道路を器用にすり抜けていく。道路は狭いながらもいろいろな工夫が施されていて、駐車スペース・自転車レーン・バスレーンなどがバランスよく配置されている。その中にも広い歩道空間と緑化スペースが確保されていた。

街の中心にLiffey川が流れている。西の丘陵地から流れ出て、イギリスとの間のアイリッシュ海に注ぐ川である。その両側にデッキが張り出されていて、歩行者空間になっている。ところどころ幅の広い所にはオープンカフェやベンチがあって、人々はコーヒーやアイスクリームを楽しんでいる。
街に緑は多いが、それに加えて花やアートが溢れている。メインストリートの歩道には2匹のウサギの彫刻が置いてある。これはウェールズ出身の彫刻家バリー・フラナガンの作品である。この作家の「野兎」は、白川公園に野外展示されている。アーティストたちの活動も盛んで、楽器演奏や曲芸、チョークで舗装に絵を描くパフォーマンスなどが行われていた。


二階建て遊覧バスで中心部を一周した。運転手は、名古屋ほど幅広くない道路を器用にすり抜けていく。道路は狭いながらもいろいろな工夫が施されていて、駐車スペース・自転車レーン・バスレーンなどがバランスよく配置されている。その中にも広い歩道空間と緑化スペースが確保されていた。

街の中心にLiffey川が流れている。西の丘陵地から流れ出て、イギリスとの間のアイリッシュ海に注ぐ川である。その両側にデッキが張り出されていて、歩行者空間になっている。ところどころ幅の広い所にはオープンカフェやベンチがあって、人々はコーヒーやアイスクリームを楽しんでいる。
街に緑は多いが、それに加えて花やアートが溢れている。メインストリートの歩道には2匹のウサギの彫刻が置いてある。これはウェールズ出身の彫刻家バリー・フラナガンの作品である。この作家の「野兎」は、白川公園に野外展示されている。アーティストたちの活動も盛んで、楽器演奏や曲芸、チョークで舗装に絵を描くパフォーマンスなどが行われていた。


中山道「落合の石畳」と「馬籠宿」
「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨(そま)づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。」島崎藤村『夜明け前』冒頭の一節である。
中山道・木曽路を語ろうとしたとき、この名文を超える説明は無理と思い、そのままお借りした。中央線・中津川駅を出発し、「十曲峠」を越えて馬籠宿まで歩いたことがある。ヤマツツジの咲く早春であったが、山道は険しく汗ばむほどであった。4里(16km)ほどの曲がりくねった坂道である。

川沿いの平坦な道から山地に差し掛かると、「落合の石畳」の登りになる。落合宿と馬籠宿の間の「十曲峠」に至る道である。一時は荒れていたというが、文久元年(1861)の皇女・和宮の通行と明治天皇の行幸のときに修理されたという。今も往時の姿をとどめる石畳は、東海道の箱根(2020・2・8掲載の「金谷宿の石畳」参照)とここだけである。
馬籠宿は、中山道六十九次の43番目の宿場であり、木曽11宿の一番南の宿場である。往時の宿場内の家は69軒、本陣1、脇本陣1、旅籠18軒であった。ほぼ中間地点にある旧本陣は、島崎藤村の生家であり、現在は「藤村記念館」になっている。

中山道・木曽路を語ろうとしたとき、この名文を超える説明は無理と思い、そのままお借りした。中央線・中津川駅を出発し、「十曲峠」を越えて馬籠宿まで歩いたことがある。ヤマツツジの咲く早春であったが、山道は険しく汗ばむほどであった。4里(16km)ほどの曲がりくねった坂道である。

川沿いの平坦な道から山地に差し掛かると、「落合の石畳」の登りになる。落合宿と馬籠宿の間の「十曲峠」に至る道である。一時は荒れていたというが、文久元年(1861)の皇女・和宮の通行と明治天皇の行幸のときに修理されたという。今も往時の姿をとどめる石畳は、東海道の箱根(2020・2・8掲載の「金谷宿の石畳」参照)とここだけである。
馬籠宿は、中山道六十九次の43番目の宿場であり、木曽11宿の一番南の宿場である。往時の宿場内の家は69軒、本陣1、脇本陣1、旅籠18軒であった。ほぼ中間地点にある旧本陣は、島崎藤村の生家であり、現在は「藤村記念館」になっている。

大曽根の商店街「OZモール」
大曽根の商店街は、かつて、大須と並ぶ賑やかなアーケード街であったが、大曽根駅一帯の再開発事業により生まれ変わった。アーケードの屋根は撤去し、セットバックにより歩道空間を広くして解放感を演出している。集合的な建物でなく、店舗を一戸建てとし、歩道に向かって三角の屋根が並ぶように統一している。
商店街へ入るには、個性的なモニュメントを潜る。電線は地中化され、電柱はない。トランスは歩道のボックスに収められているが、そのボックスはモニュメントの台座になっている。彫像のテーマは「オズの魔法使い」。ドロシーや魔女、案山子やブリキの木こり、ライオンなどが飾られている。

OZ(オズ)モールは、「大曽根のモール」のイメージであり、「オズの魔法使い」は語呂合わせであろう。三角屋根の三階建に統一された建築、標識やサイン類を同じデザインにした街並みなどにより、先端的な街づくり事例として全国的にも注目を集めている。1993年には第1回愛知まちなみ建築賞を受賞している。
モールの中間地点に小さな街園がある。石の列柱と舗装広場、ここにも三角形にこだわった噴水がある。真ん中に「門」の形をした石造モニュメントがある。しかしよくよく見ると、これは「ギロチン」の形をしている。気づかずに通り過ぎる人を見て、設計者はほくそ笑んでいるのではなかろうか?

商店街へ入るには、個性的なモニュメントを潜る。電線は地中化され、電柱はない。トランスは歩道のボックスに収められているが、そのボックスはモニュメントの台座になっている。彫像のテーマは「オズの魔法使い」。ドロシーや魔女、案山子やブリキの木こり、ライオンなどが飾られている。

OZ(オズ)モールは、「大曽根のモール」のイメージであり、「オズの魔法使い」は語呂合わせであろう。三角屋根の三階建に統一された建築、標識やサイン類を同じデザインにした街並みなどにより、先端的な街づくり事例として全国的にも注目を集めている。1993年には第1回愛知まちなみ建築賞を受賞している。
モールの中間地点に小さな街園がある。石の列柱と舗装広場、ここにも三角形にこだわった噴水がある。真ん中に「門」の形をした石造モニュメントがある。しかしよくよく見ると、これは「ギロチン」の形をしている。気づかずに通り過ぎる人を見て、設計者はほくそ笑んでいるのではなかろうか?

常滑の「やきもの散歩道」
常滑は今でこそ「空港」の町だが、もともとは「焼き物」のまちである。しかし今でも、空港島対岸の丘の上を中心に、昔ながらの陶磁器産業が息づいている。坂道の多い「やきもの散歩道」の中ほどに「土管坂」がある。舗装材にも、土止めの擁壁にも焼き物が使われている。
坂を登っていくと、左側には大口径の土管が縦に並べられている。コンクリート製のヒューム管が一般的になるまでは、この土管が下水管に使われた。右側には「一斗甕?」が積まれている。江戸・明治の廻船業華やかなりし時代に、酒や醤油を江戸に運んだ甕であろう。(1斗は10升=18リットル)

焼き物の歴史を訪ねてみよう。縄文・弥生には「土器」があり、古墳時代には「土師器・須恵器」の時代になる。粘土の豊富な猿投山周辺に、大規模な陶器産業が発達する。東山古窯などに見る「灰釉陶器」である。猿投からさらに陶土を求めて、北は瀬戸や美濃へ行き、南へ行った陶工が常滑を見つけた。常滑焼は「無釉焼締陶」で、急須などに特色を見ることができる。

煉瓦を壁や煙突に積んだ窯が、レストランに利用されていた。お洒落なオープンカフェ。窯は「倒焔式角窯」という形式で、昭和33年(1958)に築造された。酒・酢・ソースのメーカー向けに大型陶器を焼いていたが、昭和47以来、使用中止になっている。新しいピザ窯が風景に馴染んでいる。

◆6月13日に75歳になります。いよいよ後期高齢者、車に枯葉マークを貼らなきゃ。
坂を登っていくと、左側には大口径の土管が縦に並べられている。コンクリート製のヒューム管が一般的になるまでは、この土管が下水管に使われた。右側には「一斗甕?」が積まれている。江戸・明治の廻船業華やかなりし時代に、酒や醤油を江戸に運んだ甕であろう。(1斗は10升=18リットル)

焼き物の歴史を訪ねてみよう。縄文・弥生には「土器」があり、古墳時代には「土師器・須恵器」の時代になる。粘土の豊富な猿投山周辺に、大規模な陶器産業が発達する。東山古窯などに見る「灰釉陶器」である。猿投からさらに陶土を求めて、北は瀬戸や美濃へ行き、南へ行った陶工が常滑を見つけた。常滑焼は「無釉焼締陶」で、急須などに特色を見ることができる。

煉瓦を壁や煙突に積んだ窯が、レストランに利用されていた。お洒落なオープンカフェ。窯は「倒焔式角窯」という形式で、昭和33年(1958)に築造された。酒・酢・ソースのメーカー向けに大型陶器を焼いていたが、昭和47以来、使用中止になっている。新しいピザ窯が風景に馴染んでいる。

◆6月13日に75歳になります。いよいよ後期高齢者、車に枯葉マークを貼らなきゃ。
豊橋市「二川宿の枡形」
古来より交通の要衝であった二川(ふたがわ)は、慶長6年(1601)に江戸幕府により宿駅と定められた。開設当初は二川村と大岩村の二か村で業務を行っていたが、正保元年(1644)に二川村を西に、大岩村を東に移動させ、二川宿と加宿大岩として再構成した。
二川宿は、江戸から数えて33番目の宿場町である。東の白須賀宿からは1里17町(約5.8km)西の吉田宿(豊橋)とは1里20町離れている。宿場の長さは12町16間(約1.3km)、本陣と脇本陣がそれぞれ1軒、旅籠屋が38軒あったという。天保14年(1843)の記録による。

中央近くの本陣を挟んで、東西2か所に「枡形」がある。枡形とは、お城の門と門の間にある方形の広場のこと。出陣のときに兵が集まるところであり、侵入した敵の動きを妨げる効果もある。宿場町の枡形も、道を屈曲させて見通しを妨げる効果はあるが、方形ではないので「鍵の手」と呼んだ方がいいと思う。
二川宿では、「鍵の手」の痕跡が2か所とも見事に残っている。さすがに車の通行のため曲線になってはいるが、あきらかに鍵の手である。古い絵地図にも描かれている「高札」(矢印)の跡もある。高札とは、法令を板面に記して、往来に掲示したものである。ここでは跡を示す石碑が立っている。
この二川宿は5年前にも訪れたことがあり、「本陣」(2015・09・13)「旅籠と商家」(同09・19)としてブログを発信しましたので見てください。
二川宿は、江戸から数えて33番目の宿場町である。東の白須賀宿からは1里17町(約5.8km)西の吉田宿(豊橋)とは1里20町離れている。宿場の長さは12町16間(約1.3km)、本陣と脇本陣がそれぞれ1軒、旅籠屋が38軒あったという。天保14年(1843)の記録による。

中央近くの本陣を挟んで、東西2か所に「枡形」がある。枡形とは、お城の門と門の間にある方形の広場のこと。出陣のときに兵が集まるところであり、侵入した敵の動きを妨げる効果もある。宿場町の枡形も、道を屈曲させて見通しを妨げる効果はあるが、方形ではないので「鍵の手」と呼んだ方がいいと思う。
二川宿では、「鍵の手」の痕跡が2か所とも見事に残っている。さすがに車の通行のため曲線になってはいるが、あきらかに鍵の手である。古い絵地図にも描かれている「高札」(矢印)の跡もある。高札とは、法令を板面に記して、往来に掲示したものである。ここでは跡を示す石碑が立っている。
この二川宿は5年前にも訪れたことがあり、「本陣」(2015・09・13)「旅籠と商家」(同09・19)としてブログを発信しましたので見てください。
リニア飯田駅(仮称)周辺の道路整備
リニア中央新幹線開通の2027年を目標に、各地で開発の機運が高まっている。なにせ、東京まで1時間以内で行けることとなれば、日帰り買い物に利用できるようになるのである。テレワークが進めば、東京勤務の人が甲府や飯田、中津川へ転居することも不可能ではない。
飯田では中央市街地の少し北、元善光寺のある「座光寺」に新駅ができる。JR飯田線にも接続することになると思われるが、何と言っても道路の整備が重要であろう。東京や名古屋と短時間で結ばれても、そこからの時間がロスとなってはリニアの効果が薄くなる。

飯田周辺のショップで配られる情報パンフレットにも、道路網整備の計画が記してあった。リニア新駅を起点に、飯田市街を取り囲むように「外環状」と「内環状」の2ルートが想定されている。外環状は中央道や既存の国道などを経由して、愛知との県境にある平谷・売木・天龍などの村々をつなぐ。
内環状は三遠南信自動車道を延伸して、直径10km程度の都市圏を構築しようとするものである。かつて「日本列島改造論」や「首都移転構想」というのがあったが、今はまったく顧みることなく「東京一極集中」が増々進んでいる。これでは地震や火山だけでなく、コロナによっても人口集中が危険なことを忘れているのではないか。リニアの開通により、過剰人口による東京のリスクが緩和されることを期待したい。

飯田では中央市街地の少し北、元善光寺のある「座光寺」に新駅ができる。JR飯田線にも接続することになると思われるが、何と言っても道路の整備が重要であろう。東京や名古屋と短時間で結ばれても、そこからの時間がロスとなってはリニアの効果が薄くなる。

飯田周辺のショップで配られる情報パンフレットにも、道路網整備の計画が記してあった。リニア新駅を起点に、飯田市街を取り囲むように「外環状」と「内環状」の2ルートが想定されている。外環状は中央道や既存の国道などを経由して、愛知との県境にある平谷・売木・天龍などの村々をつなぐ。
内環状は三遠南信自動車道を延伸して、直径10km程度の都市圏を構築しようとするものである。かつて「日本列島改造論」や「首都移転構想」というのがあったが、今はまったく顧みることなく「東京一極集中」が増々進んでいる。これでは地震や火山だけでなく、コロナによっても人口集中が危険なことを忘れているのではないか。リニアの開通により、過剰人口による東京のリスクが緩和されることを期待したい。

馬車道の石畳(南ボヘミアの城下町)
ヨーロッパの航空写真を眺めていると、見えてくるものがある。イタリア半島の突当りにアルプスの壁があり、北のドイツを隔てている。アルプスの北に丸い山並み、東に逆S字型の低い山脈がある。丸の中がボヘミアの盆地、S字の中がハンガリー平原である。
ボヘミアとその東のモラヴィアを合わせてチェコの国を構成する。さらに東は、かつてはひとつの国であったスロバキアである。アルプスを水源とするヴルタヴァ川(ドイツ語ではモルダウ川)がボヘミア盆地の水を集めて北へ流れ、プラハ(紫色の丸)を通ってハンブルグから北海へと注いでいる。

南ボヘミアに「チェスキー・クルムロフ」(赤い丸)という城下町がある。世界一美しいとも称される古都である。名前の由来が“川がS字に曲がるところ”と言われるとおり、水に囲まれた要害の地である。教会の尖塔を中心に赤い瓦屋根の建物が、形は様々であるが調和を保ちながら並んでいる。
町を歩く道路は小舗石の石畳で、ピカピカに磨かれている。今は自動車であるが、かつては馬車の車輪が石を削ったのであろう。交差点の角には、勢いのある馬車から家を守るために硬い自然石が積まれていた。消火栓も守られているが、その塗装の色合いが何とも可愛らしいではないか。

ボヘミアとその東のモラヴィアを合わせてチェコの国を構成する。さらに東は、かつてはひとつの国であったスロバキアである。アルプスを水源とするヴルタヴァ川(ドイツ語ではモルダウ川)がボヘミア盆地の水を集めて北へ流れ、プラハ(紫色の丸)を通ってハンブルグから北海へと注いでいる。

南ボヘミアに「チェスキー・クルムロフ」(赤い丸)という城下町がある。世界一美しいとも称される古都である。名前の由来が“川がS字に曲がるところ”と言われるとおり、水に囲まれた要害の地である。教会の尖塔を中心に赤い瓦屋根の建物が、形は様々であるが調和を保ちながら並んでいる。
町を歩く道路は小舗石の石畳で、ピカピカに磨かれている。今は自動車であるが、かつては馬車の車輪が石を削ったのであろう。交差点の角には、勢いのある馬車から家を守るために硬い自然石が積まれていた。消火栓も守られているが、その塗装の色合いが何とも可愛らしいではないか。

東海道金谷宿
江戸時代に描かれた「東海道金谷宿案内絵図」と、現代の「現況地図」とを並べると、驚くほどに一致している。もちろん新たな道路や鉄道は付け加えられているが旧東海道はそのまま、昔の面影を辿ることができる。街道沿いに、いくつかの塚や御堂も残っている。

◆鶏頭塚・・・金谷坂の入り口にある。蕉風を広めた俳人「巴静」の句“曙も 夕ぐれもなし 鶏頭華”を記す石碑。
◆庚申堂・・・鶏頭塚の奥にある。古くから土地の人々に信仰されてきた仏堂。庚申とは、陰陽五行説に基づく「干支」のひとつで、道教では延命長寿にご利益のある特別の日という。
◆長寿・すべらず地蔵尊・・・金谷坂の石畳は“すべらない!!”ということから、受験や商売の願いが叶うようにと、町民によって据えられた。
◆芭蕉句碑・・・牧の原台地のお茶畑に立っている。「野ざらし紀行」より“馬に寝て 残夢月遠し 茶の烟”の句を記す石碑。
◆一里塚跡・・・延享3年(1746)の「東海道巡覧記」によれば、“金谷一里塚榎木”とある。現在は、鉄道の土手になっていて看板が立つのみである。


◆鶏頭塚・・・金谷坂の入り口にある。蕉風を広めた俳人「巴静」の句“曙も 夕ぐれもなし 鶏頭華”を記す石碑。
◆庚申堂・・・鶏頭塚の奥にある。古くから土地の人々に信仰されてきた仏堂。庚申とは、陰陽五行説に基づく「干支」のひとつで、道教では延命長寿にご利益のある特別の日という。
◆長寿・すべらず地蔵尊・・・金谷坂の石畳は“すべらない!!”ということから、受験や商売の願いが叶うようにと、町民によって据えられた。
◆芭蕉句碑・・・牧の原台地のお茶畑に立っている。「野ざらし紀行」より“馬に寝て 残夢月遠し 茶の烟”の句を記す石碑。
◆一里塚跡・・・延享3年(1746)の「東海道巡覧記」によれば、“金谷一里塚榎木”とある。現在は、鉄道の土手になっていて看板が立つのみである。

旧東海道「金谷坂の石畳」
昨年連載した「大井川鐵道を遡る旅」は、途中の「長島ダム」までで終わっている。交通手段は車であり、大井川鐵道にも乗っていないので今度は鉄道の旅にしようと思った。先回は春先だったので、紅葉の時期にしようと考えたのだが残念ながら時間がとれず落葉期になってしまった。
新幹線と東海道本線を乗り継いで、まず降り立ったのは金谷駅である。ここから大井川鐵道に乗り換えるのだが、本数が少なく待ち時間があったので、駅近くにある「旧東海道石畳」を歩くこととした。駅の真上の国道473号から見ると駅舎の遠くに見事な富士山を望むことができる。

国道沿いにさらに進むと大きな縦看板があり、旧東海道石畳への入り口を教えてくれる。この石畳は、台地の上にある「日坂宿」と大井川沿い低地の「金谷宿」間の「金谷峠の坂道」に敷設されている。江戸幕府が、近郷集落に助郷を命じて、旅人の便宜のために整備したものである。
近年、この道はコンクリート舗装などに変わってしまい、石畳は30mほどになっていた。しかし平成3年になって、町民600人の参加を得て「平成の道普請」が行われ、430mの石畳が復元された。石の大きさは私の登山靴と同じくらい、直径30cmほどの山石である。現在、島田市の史跡に指定されている。

新幹線と東海道本線を乗り継いで、まず降り立ったのは金谷駅である。ここから大井川鐵道に乗り換えるのだが、本数が少なく待ち時間があったので、駅近くにある「旧東海道石畳」を歩くこととした。駅の真上の国道473号から見ると駅舎の遠くに見事な富士山を望むことができる。

国道沿いにさらに進むと大きな縦看板があり、旧東海道石畳への入り口を教えてくれる。この石畳は、台地の上にある「日坂宿」と大井川沿い低地の「金谷宿」間の「金谷峠の坂道」に敷設されている。江戸幕府が、近郷集落に助郷を命じて、旅人の便宜のために整備したものである。
近年、この道はコンクリート舗装などに変わってしまい、石畳は30mほどになっていた。しかし平成3年になって、町民600人の参加を得て「平成の道普請」が行われ、430mの石畳が復元された。石の大きさは私の登山靴と同じくらい、直径30cmほどの山石である。現在、島田市の史跡に指定されている。

中山道の妻籠宿
京と江戸をむすぶ中山道は、山深い木曽路を通ることから「木曽街道」とも呼ばれていました。「中山道六十九次」のうち、京から28番目となる「妻籠宿」は、中山道と伊那街道が交叉する交通の要衝として、古くから賑わいを見せていました。
木曽川の支流・蘭川に沿った500mほどの間に、本陣・脇本陣・旅籠31軒が建ち並んでいました。明治になって鉄道や道路が新たにつくられ、宿場としての機能を失って衰退の一途をたどりました。しかし昭和40年代に集落保存と景観修復が行われ、昔ながらの町並みが復活しています。

1軒の旅籠の玄関脇に1本のアオギリが植えられていて、軒先につかえたのでしょうかS字型に折れ曲がっています。樹木を大切にする町の人たちの心が垣間見えて、何とも微笑ましい気持ちになりました。落ち葉が迷惑だとか剪定に予算がないとかの理由で伐採してしまう町とは大違いです。
町並みの中ほどに、「妻籠宿本陣」があります。島崎藤村の母の実家で、明治に至るまでは庄屋を兼ねていました。平成7年に復原された建物は、現在「南木曽町博物館」として使用されています。明治6年に開設された郵便御用取扱所は本陣が兼ね、書状集箱(今のポスト)が置かれていました。

木曽川の支流・蘭川に沿った500mほどの間に、本陣・脇本陣・旅籠31軒が建ち並んでいました。明治になって鉄道や道路が新たにつくられ、宿場としての機能を失って衰退の一途をたどりました。しかし昭和40年代に集落保存と景観修復が行われ、昔ながらの町並みが復活しています。

1軒の旅籠の玄関脇に1本のアオギリが植えられていて、軒先につかえたのでしょうかS字型に折れ曲がっています。樹木を大切にする町の人たちの心が垣間見えて、何とも微笑ましい気持ちになりました。落ち葉が迷惑だとか剪定に予算がないとかの理由で伐採してしまう町とは大違いです。
町並みの中ほどに、「妻籠宿本陣」があります。島崎藤村の母の実家で、明治に至るまでは庄屋を兼ねていました。平成7年に復原された建物は、現在「南木曽町博物館」として使用されています。明治6年に開設された郵便御用取扱所は本陣が兼ね、書状集箱(今のポスト)が置かれていました。

鶴岡八幡宮の参道
鶴岡八幡宮は鎌倉八幡宮とも称し、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(1147~1199)ゆかりの神社である。頼朝の先祖である河内源氏2代目棟梁・頼義が、康平6年(1063)にこの地に勧請したのが始まりという。この神社も新年の参拝客が多く、初詣ベスト10の常連である。
(有名な大銀杏につきましては、昨年の11月11日に掲載しましたのでご覧ください)
由比ヶ浜から八幡宮まで、鎌倉の中心をほぼ南北に貫く参道を「若宮大路」という。中央の一段高い歩道と並木を「段葛(だんかずら)」と呼び、八幡宮の境内に位置づけられている。京の朱雀大路を模して、源頼朝が自ら築いたのだという。大型バスも行き来するメイン通りである。

大路に面して大きな酒屋がある。創業は明治33年(1900)、建物は昭和2年に建てられている。伝統的な出桁造りで、重なり合う屋根や長大な差鴨居など重厚な雰囲気である。敷地奥の蔵や運搬用トロッコも残されていて、近代商文化を伝える貴重な遺産となっている。
1本西側には狭くて歩行者優先の「小町通り」が通っている。比較的大きなお店が多い大路に比べて小町の方は小さな店舗で、テイクアウトフードの店やこだわりグッズの店が並んでいる。日傘や帽子を商う各店舗の表情も個性的で、ついつい引き込まれて買いたくなってしまう。


(有名な大銀杏につきましては、昨年の11月11日に掲載しましたのでご覧ください)
由比ヶ浜から八幡宮まで、鎌倉の中心をほぼ南北に貫く参道を「若宮大路」という。中央の一段高い歩道と並木を「段葛(だんかずら)」と呼び、八幡宮の境内に位置づけられている。京の朱雀大路を模して、源頼朝が自ら築いたのだという。大型バスも行き来するメイン通りである。

大路に面して大きな酒屋がある。創業は明治33年(1900)、建物は昭和2年に建てられている。伝統的な出桁造りで、重なり合う屋根や長大な差鴨居など重厚な雰囲気である。敷地奥の蔵や運搬用トロッコも残されていて、近代商文化を伝える貴重な遺産となっている。
1本西側には狭くて歩行者優先の「小町通り」が通っている。比較的大きなお店が多い大路に比べて小町の方は小さな店舗で、テイクアウトフードの店やこだわりグッズの店が並んでいる。日傘や帽子を商う各店舗の表情も個性的で、ついつい引き込まれて買いたくなってしまう。


岩倉街道の中小田井
小田井の名は「田水を司る」の意からと言われている。庄内川右岸にある小田井の村々は、かつて河川の氾濫によって大水害にあい、その歴史は水との戦いであった。尾張藩は、名古屋城下の町を守るために、左岸側の堤防を特に堅固にしたからである。
岩倉街道は、寛文7年(1667)に開通した。枇杷島から小田井、岩倉を経て犬山に至る道である。当時、このあたりで庄内川を渡る橋は枇杷島にしかなく、岩倉方面から野菜類を枇杷島の青物市場(慶長19年(1614)ごろ開設)へ運ぶためには必ず通る街道であった。

重い野菜を積んだ荷車を曳いて、新川や庄内川の堤防を上る坂道は大変であったらしく、中小田井で休憩したりお茶を飲んだという。また、味噌や油など生活用品を買い求めたりしたので、中小田井の街道沿いは賑わいを見せ、商家の立ち並ぶ街が形成された。
今も、何軒かの古い町屋が残っている。黒い板張りの家や土蔵、中二階(厨子二階)のある格子張りの家などである。お米屋さんの店先を覗くと、何とも懐かしい秤(はかり)があり、今も使われているようである。昭和62年に、名古屋市の町並み保存地区に指定された。

岩倉街道は、寛文7年(1667)に開通した。枇杷島から小田井、岩倉を経て犬山に至る道である。当時、このあたりで庄内川を渡る橋は枇杷島にしかなく、岩倉方面から野菜類を枇杷島の青物市場(慶長19年(1614)ごろ開設)へ運ぶためには必ず通る街道であった。

重い野菜を積んだ荷車を曳いて、新川や庄内川の堤防を上る坂道は大変であったらしく、中小田井で休憩したりお茶を飲んだという。また、味噌や油など生活用品を買い求めたりしたので、中小田井の街道沿いは賑わいを見せ、商家の立ち並ぶ街が形成された。
今も、何軒かの古い町屋が残っている。黒い板張りの家や土蔵、中二階(厨子二階)のある格子張りの家などである。お米屋さんの店先を覗くと、何とも懐かしい秤(はかり)があり、今も使われているようである。昭和62年に、名古屋市の町並み保存地区に指定された。

国道256号(秋葉街道)
秋葉街道は、諏訪湖近くの茅野を起点に、高遠・地蔵峠・青崩峠を越え、遠州「秋葉山」へ至る、延長200kmの長い道である。火防(ひぶせ)の神「秋葉山本宮秋葉神社」へ詣でる信仰の道であるとともに、山と海を結ぶ交易の道でもあった。
この谷間の道筋は、まさに中央構造線の断層そのものである。赤石山脈とその前衛たる伊那山脈の間の深い谷が南北一直線に連なり、高遠や大鹿村などを結ぶ道である。天竜川沿いの飯田からは、上久堅から「小川路峠」を越えて秋葉街道本道に合流する道がある。国道256号である。

国道256号は、途中までは車の通れる幅広の舗装道であるが、途中から林道のような地道になり、さらに進むと人ひとりしか通れない山道になってしまう。ところがこの杣道が国道だというのでビックリする。延々と4時間半歩いて小川路峠に辿りついた。
この街道は、かつては秋葉詣の重要な道であった。また、山住みの人々に馬で荷駄を運び上げ、山からは炭や石灰などの産物を下ろす産業道でもあった。切立った崖に転落した牛馬も多かったのであろう。途中に安全祈願のための馬頭観音など観音様が33体置かれていた。(下の写真は、小川路峠から見た赤石山脈、白い雪をかぶった山は標高3121mの赤石岳)


この谷間の道筋は、まさに中央構造線の断層そのものである。赤石山脈とその前衛たる伊那山脈の間の深い谷が南北一直線に連なり、高遠や大鹿村などを結ぶ道である。天竜川沿いの飯田からは、上久堅から「小川路峠」を越えて秋葉街道本道に合流する道がある。国道256号である。

国道256号は、途中までは車の通れる幅広の舗装道であるが、途中から林道のような地道になり、さらに進むと人ひとりしか通れない山道になってしまう。ところがこの杣道が国道だというのでビックリする。延々と4時間半歩いて小川路峠に辿りついた。
この街道は、かつては秋葉詣の重要な道であった。また、山住みの人々に馬で荷駄を運び上げ、山からは炭や石灰などの産物を下ろす産業道でもあった。切立った崖に転落した牛馬も多かったのであろう。途中に安全祈願のための馬頭観音など観音様が33体置かれていた。(下の写真は、小川路峠から見た赤石山脈、白い雪をかぶった山は標高3121mの赤石岳)


サカエチカ(地下街)
地下街とは、地下鉄駅やビルの地下などを結ぶ公共地下通路の両側に、商業施設が発達したものである。名古屋には地下街が多いと言われている。その理由は、道路が広いことと関係しているのではないかと考えられている。これは私の考えだが、名古屋の気候の厳しさもあるのではないか?地下街を通れば、夏の暑さや冬の強風を避けられるのである。
地下街が集中するのは、名古屋駅地区と栄地区である。栄の真ん中、栄交差点の地下に「サカエチカ」がある。延べ床面積約1万4000㎡、商業施設の面積は約6000㎡、80の店舗がTの字に並んでいる。Tの字の交差部分が「クリスタル広場」で、待合わせの名所になっている。

サカエチカが開業したのは昭和44年(1969)、今年でちょうど50年になる。この50周年を契機に、全面的なリニューアル工事が展開されている。耐震性の強化、老朽施設の改修、天井・壁・床などをお洒落に改装する工事などである。
一昨年、トイレが新しくなった(当社・中部復建の設計)。一日10万人もの人々が歩く地下街にあって、もっとも頻繁に使われる施設である。クリスタル広場にはガラスのモニュメントと池があったが、撤去されてイベントもできる広場になった。お正月を迎えて、門松と猪のモニュメントが置かれている。階段も改修予定であるが、現在は、一年中綺麗な「立体花壇」が飾られている。


地下街が集中するのは、名古屋駅地区と栄地区である。栄の真ん中、栄交差点の地下に「サカエチカ」がある。延べ床面積約1万4000㎡、商業施設の面積は約6000㎡、80の店舗がTの字に並んでいる。Tの字の交差部分が「クリスタル広場」で、待合わせの名所になっている。

サカエチカが開業したのは昭和44年(1969)、今年でちょうど50年になる。この50周年を契機に、全面的なリニューアル工事が展開されている。耐震性の強化、老朽施設の改修、天井・壁・床などをお洒落に改装する工事などである。
一昨年、トイレが新しくなった(当社・中部復建の設計)。一日10万人もの人々が歩く地下街にあって、もっとも頻繁に使われる施設である。クリスタル広場にはガラスのモニュメントと池があったが、撤去されてイベントもできる広場になった。お正月を迎えて、門松と猪のモニュメントが置かれている。階段も改修予定であるが、現在は、一年中綺麗な「立体花壇」が飾られている。


薩埵峠(さった峠)
「さった峠」 は、東海道53次の由比宿と興津宿の間に位置する。さった山の標高は100mほどに過ぎないが海岸いっぱいに迫り出しており、旅人は急な坂道を難儀して越えていった。歌川広重の浮世絵には、厳しい崖の道を歩く人々と、駿河湾の向うに望む富士山が描かれている。
明治になって国鉄の東海道本線が計画されるが、山裾の海岸に敷設せざるを得なかった。国道1号線も、線路に沿って走っている。戦後の東名高速道路は、岸辺に余地がないので海中にはみ出す形で建設された。掘削技術の進歩した近年は、東海道新幹線も新東名高速道路もトンネルによりこの山を通過している。

自然環境の厳しい場所には、美しい景色のところが多い。さった峠からの富士山は、息を呑むほど美しく、広重は見事にそれを描いている。東名高速道路のPR写真もまさに峠から撮影したもので、東京・名古屋間で最も魅力的な1枚になっている。
しかし厳しい自然は、災害とも表裏一体である。この崖は地質的に脆弱であり、古くから地すべりの発生する場所としても知られていた。日本の最も重要な交通路がひしめくこの地に、大雨や地震による崩壊が発生するのは何としても避ける必要がある。現在、国による大規模な対策事業が展開されている。

明治になって国鉄の東海道本線が計画されるが、山裾の海岸に敷設せざるを得なかった。国道1号線も、線路に沿って走っている。戦後の東名高速道路は、岸辺に余地がないので海中にはみ出す形で建設された。掘削技術の進歩した近年は、東海道新幹線も新東名高速道路もトンネルによりこの山を通過している。

自然環境の厳しい場所には、美しい景色のところが多い。さった峠からの富士山は、息を呑むほど美しく、広重は見事にそれを描いている。東名高速道路のPR写真もまさに峠から撮影したもので、東京・名古屋間で最も魅力的な1枚になっている。
しかし厳しい自然は、災害とも表裏一体である。この崖は地質的に脆弱であり、古くから地すべりの発生する場所としても知られていた。日本の最も重要な交通路がひしめくこの地に、大雨や地震による崩壊が発生するのは何としても避ける必要がある。現在、国による大規模な対策事業が展開されている。

土岐の下街道高山宿
土岐の高山は、江戸時代には下街道の宿場町として賑わいを見せていた。下街道は恵那槙ヶ根追分から名古屋城下を結ぶ中山道の脇街道であった。中山道より峠が少ないため利便性がよく、善光寺参りや伊勢神宮参りの人々が盛んに往来した。
信州・美濃・尾張から出荷される荷物も、牛馬によりこの街道を行き来した。高山は下街道15里 (約60km) 2日の行程の中間地点であったため、馬継場や宿場として栄えていた。

明治になって天皇陛下は、全国を6回に亘って大規模な巡行を行なった。明治13年には、東京から中山道を通って京都へ向かわれたが、6月にこの下街道・高山宿に立ち寄られた。そのときの記念碑がいくつか残っている。
上中の写真は南宮神社近くの石碑で、「明治天皇観陶聖跡碑」 とある。陛下が陶器づくりの実演をご覧になった所である。上右は 「明治天皇高山御小休所」 とあり、この地に屋敷のあった深萱邸の跡地である。ここでは陛下にお茶を差し上げている。お茶に使用した水は、慈徳院境内で汲み上げたもので、そこには 「明治帝御供水」 と刻まれた碑 (下中の写真) が立っている。


信州・美濃・尾張から出荷される荷物も、牛馬によりこの街道を行き来した。高山は下街道15里 (約60km) 2日の行程の中間地点であったため、馬継場や宿場として栄えていた。

明治になって天皇陛下は、全国を6回に亘って大規模な巡行を行なった。明治13年には、東京から中山道を通って京都へ向かわれたが、6月にこの下街道・高山宿に立ち寄られた。そのときの記念碑がいくつか残っている。
上中の写真は南宮神社近くの石碑で、「明治天皇観陶聖跡碑」 とある。陛下が陶器づくりの実演をご覧になった所である。上右は 「明治天皇高山御小休所」 とあり、この地に屋敷のあった深萱邸の跡地である。ここでは陛下にお茶を差し上げている。お茶に使用した水は、慈徳院境内で汲み上げたもので、そこには 「明治帝御供水」 と刻まれた碑 (下中の写真) が立っている。


津島の古い町並み
津島市の中央を南北に走る古い街道を 「本町筋」 という。また、「津島上街道」 「下街道」とも呼ぶ。上街道は勝幡・甚目寺を経由して名古屋へ向かい、下街道は佐屋街道へと繋がっている。この街道沿いには古い町並みが残っていて、神社やお寺、古民家や土蔵を見ることができる。
駅前の自転車屋さんでレンタサイクルを借り、まず観光交流センターに寄って町の散策地図を手に入れる。この観光交流センターも古い建物で、昭和4年 (1929) に建てられた 「津島信用金庫本店」 を再利用したものである。室内に 「まきわら舟」 の4分の1の実物が飾られている。

南へ下った町角に大きな石の標柱があり、「左・津島神社参宮道」 と刻まれている。津島湊あるいは佐屋街道からの旅人を、津島神社へ案内するための道標であろう。ここから300mほどで、本殿東側の楼門・大鳥居へと到達することができる。
道標の向かい側に白漆喰に黒板壁の大きな家があった。屋根の形は、速水御舟が日本画 「京の家・奈良の家」 で描いたように、上方が凸形の 「むくり屋根」 になっている。軒の上に 「屋根神様」 が祀られている。その隣には、町屋と土蔵が一体になっている家があった。


駅前の自転車屋さんでレンタサイクルを借り、まず観光交流センターに寄って町の散策地図を手に入れる。この観光交流センターも古い建物で、昭和4年 (1929) に建てられた 「津島信用金庫本店」 を再利用したものである。室内に 「まきわら舟」 の4分の1の実物が飾られている。

南へ下った町角に大きな石の標柱があり、「左・津島神社参宮道」 と刻まれている。津島湊あるいは佐屋街道からの旅人を、津島神社へ案内するための道標であろう。ここから300mほどで、本殿東側の楼門・大鳥居へと到達することができる。
道標の向かい側に白漆喰に黒板壁の大きな家があった。屋根の形は、速水御舟が日本画 「京の家・奈良の家」 で描いたように、上方が凸形の 「むくり屋根」 になっている。軒の上に 「屋根神様」 が祀られている。その隣には、町屋と土蔵が一体になっている家があった。


三条通りの商店街
三条通りは近代化の中心地としても発展し、明治期には京都のメインストリートであった。そのため日本銀行の京都支店や中京郵便局が通り沿いに建設された。また、創業300年を越える “ぬい針” で有名な 「福井みすや針」 や京扇子が揃う 「大西京扇堂」 などの老舗も軒を並べている。
京都で最も古いこの商店街は 「三条名店街」 と呼ばれ、古い和風建築と近代的な赤レンガの洋館が入り混じっていて、古都と近代西洋文化の美しい調和の佇まいを残している。

三条大橋のすぐ西には、カリオンのある美しいアーケード街がある。ペーブメントは気品のあるモザイク模様の石張りである。烏丸本通りとの交差点には、京都市の中心地としての象徴 「道路元標」 があるのだが、今度の取材では見逃してしまった。


京都で最も古いこの商店街は 「三条名店街」 と呼ばれ、古い和風建築と近代的な赤レンガの洋館が入り混じっていて、古都と近代西洋文化の美しい調和の佇まいを残している。

三条大橋のすぐ西には、カリオンのある美しいアーケード街がある。ペーブメントは気品のあるモザイク模様の石張りである。烏丸本通りとの交差点には、京都市の中心地としての象徴 「道路元標」 があるのだが、今度の取材では見逃してしまった。


岐阜・川原町の町並み
旧城下町側 (岐阜公園側) から、北の長良川方面に向かうと細い運河があり、3本の橋が架かっている。橋を渡ったあたりを 「川原町」 という。この地域は、江戸時代あるいは信長の時代から重要な湊町として栄えてきた。美濃市の 「上有知湊」(今年9月23日付け) の項で記したように、上流から送られてきた木材や美濃和紙が、この湊で陸揚げされるのである。川原町はそれを扱う問屋町として繁栄した。
これらの材料は、「岐阜提灯」 「岐阜和傘」 「岐阜うちわ」 など岐阜の伝統産業には欠くことのできない品々である。運河や長良川と並行して町屋が並んでいて、上流から湊町・玉井町・元浜町・材木町と呼ばれているが、それぞれ町の役割を現しているのであろう。

この町並みは、幸いなことに濃尾地震のときにも戦争の空襲にも被害を受けることなく、江戸・明治時代の格子組の建物が多く残っている。橋を渡ったすぐのところに町屋を活かしたお洒落なレストランがあり、町の中央あたりには、赤いポストや古風な照明灯を残したカフェ&ギャラリーがある。川に近い通りに、塀に丸窓を空けて花を飾った料理屋も見つけた。
岐阜市では、「長良川プロムナード計画」 の 「湊町ゾーン」 に位置づけ、電線地中化を進めるなど、伝統的な町並みの保存に努めている。

これらの材料は、「岐阜提灯」 「岐阜和傘」 「岐阜うちわ」 など岐阜の伝統産業には欠くことのできない品々である。運河や長良川と並行して町屋が並んでいて、上流から湊町・玉井町・元浜町・材木町と呼ばれているが、それぞれ町の役割を現しているのであろう。

この町並みは、幸いなことに濃尾地震のときにも戦争の空襲にも被害を受けることなく、江戸・明治時代の格子組の建物が多く残っている。橋を渡ったすぐのところに町屋を活かしたお洒落なレストランがあり、町の中央あたりには、赤いポストや古風な照明灯を残したカフェ&ギャラリーがある。川に近い通りに、塀に丸窓を空けて花を飾った料理屋も見つけた。
岐阜市では、「長良川プロムナード計画」 の 「湊町ゾーン」 に位置づけ、電線地中化を進めるなど、伝統的な町並みの保存に努めている。

石薬師寺と一里塚
四日市宿と亀山宿の間は距離が長すぎるため、少し遅れて元和2年 (1616) に 「石薬師宿」 が幕府の命令により設置された。当時から石薬師寺の名は近郊近在に知れ渡っていたので、村名も宿名も 「石薬師」 と名付けられたという。
石薬師寺の開山は古く、遠く奈良時代の神亀3年 (726) である。ご本尊の薬師如来像は、弘法大師が土中から現れた霊石に1日で刻み込んだものと伝えられ、厄除け信仰を集めている。平安時代後期の弘仁3年 (812) のことである。平素は秘仏であるが、12月20日の 「おすす払い」 には洗い清められる。

石薬師宿の西の外れに一里塚がある。塚状の土盛りはないが、川のほとりにエノキの大木が残っている。根元に石碑と石灯籠が建てられていた。この地には古来、西行法師、一休禅師、林羅山、松尾芭蕉など多くの人々が立ち寄り、仏徳を賛嘆し景色を賞嘆している。
近くに佐佐木信綱博士の生誕地があり、現在そこに資料館が建てられている。博士は明治・大正・昭和の長きにわたり、歌人としてまた歌学者として万葉集研究の最高峰を極めた。“蝉時雨 石薬師寺は 広重の 画に見るがごと みどり深しも” の句を残している。

石薬師寺の開山は古く、遠く奈良時代の神亀3年 (726) である。ご本尊の薬師如来像は、弘法大師が土中から現れた霊石に1日で刻み込んだものと伝えられ、厄除け信仰を集めている。平安時代後期の弘仁3年 (812) のことである。平素は秘仏であるが、12月20日の 「おすす払い」 には洗い清められる。

石薬師宿の西の外れに一里塚がある。塚状の土盛りはないが、川のほとりにエノキの大木が残っている。根元に石碑と石灯籠が建てられていた。この地には古来、西行法師、一休禅師、林羅山、松尾芭蕉など多くの人々が立ち寄り、仏徳を賛嘆し景色を賞嘆している。
近くに佐佐木信綱博士の生誕地があり、現在そこに資料館が建てられている。博士は明治・大正・昭和の長きにわたり、歌人としてまた歌学者として万葉集研究の最高峰を極めた。“蝉時雨 石薬師寺は 広重の 画に見るがごと みどり深しも” の句を残している。

日本国道路元標と東京市道路元標
Mile-post あるいは Mile-stone というのは、マイル標石とか里程標という意味である。日本橋の橋詰め広場に、「日本道路元標」 と記されたブロンズのプレートが設置されている。その説明版の英訳には、「Zero Milestone in Japan」 と書かれている。日本のゼロマイル標石の意味になる。
日本橋は、慶長8年 (1603) に架けられ、幕府により五街道の起点と定められた。日本各地への距離はここから測られることになっている。プレートの横に石造りの距離標が置かれていて、ちなみに横浜市29km、名古屋市370km、京都市503km、鹿児島市1469kmなどと刻まれている。

広場の真ん中に、瓦斯塔を模したようなモニュメント (上の写真) が建っていて、柱に 「東京市道路元標」 と記されている。実はこの元標の方が歴史は古く、明治44年 (1911) に日本橋が石造りに架け替えられたとき、橋の中央に設置されたものである。しかし、昭和47年 (1972) に今の位置に移設され、その跡地に 「日本道路原標」 が埋設された。そのプレートは地下にあるので見ることはできない。前述のプレート (下の写真) は、その複製である。
平成11年 (1999) に、米寿を迎えた 「日本橋」 と 「東京市道路元標」 は国の重要文化財に指定された。

日本橋は、慶長8年 (1603) に架けられ、幕府により五街道の起点と定められた。日本各地への距離はここから測られることになっている。プレートの横に石造りの距離標が置かれていて、ちなみに横浜市29km、名古屋市370km、京都市503km、鹿児島市1469kmなどと刻まれている。

広場の真ん中に、瓦斯塔を模したようなモニュメント (上の写真) が建っていて、柱に 「東京市道路元標」 と記されている。実はこの元標の方が歴史は古く、明治44年 (1911) に日本橋が石造りに架け替えられたとき、橋の中央に設置されたものである。しかし、昭和47年 (1972) に今の位置に移設され、その跡地に 「日本道路原標」 が埋設された。そのプレートは地下にあるので見ることはできない。前述のプレート (下の写真) は、その複製である。
平成11年 (1999) に、米寿を迎えた 「日本橋」 と 「東京市道路元標」 は国の重要文化財に指定された。

箱根の杉並木
「箱根八里」 の歌は、鳥居忱作詞・滝廉太郎作曲である。♪♪箱根の山は天下の険 函谷関も物ならず 万丈の山 千仭の谷 前に聳え後に支う 雲は山をめぐり 霧は谷をとざす♪♪ と歌い、
“昼猶闇き杉の並木 羊腸の小径は苔滑か・・・” と続く。子どもの頃から暗記していて、昼でも暗い杉並木が如何ばかりかと想像し、一度は訪ねてみたいと思っていた。
直径が1mを越すような杉の大木が、間隔短く街道の両側に立ち並んでいる。伊勢神宮にも杉の巨木が林立しているが、“羊腸の小径” というほど道幅狭くなく、曲がりくねってもいないので、もっと明るい雰囲気である。箱根はまさに “昼猶闇い” のである。

この杉並木は江戸時代、旅人に木陰を与えたり、風雪から守ったりといった大切な役割を果たしてきた。しかし近年、樹勢の衰えが目立ってきたので昭和末期に活力調査をし、現在まで各種の保護対策を講じている。根元を踏み固めることは樹木にとって最も悪い影響を与えるので、人が入らないようにアジサイを植えたり、遊歩道に砂利を敷くなどを行なっている。
うす暗い並木道を過ぎると、突然視界が開けて明るい芦ノ湖に出る。水面と樹林の向うに雪を被った富士山を望む景観は、どんな造園家でも設計不可能な自然の造形であろうと思われる。

このブログも、とうとう300回目になりました。平成25年3月から始めましたので、ちょうど4年になります。年平均75回の発信ということです。我ながらよく続いていると思いますが 「土木文化」 の範囲が広いので、探せばネタはいくらでも見つかるのです。まだまだ懲りずに続けますので、アクセスのほどよろしくお願いいたします。
“昼猶闇き杉の並木 羊腸の小径は苔滑か・・・” と続く。子どもの頃から暗記していて、昼でも暗い杉並木が如何ばかりかと想像し、一度は訪ねてみたいと思っていた。
直径が1mを越すような杉の大木が、間隔短く街道の両側に立ち並んでいる。伊勢神宮にも杉の巨木が林立しているが、“羊腸の小径” というほど道幅狭くなく、曲がりくねってもいないので、もっと明るい雰囲気である。箱根はまさに “昼猶闇い” のである。

この杉並木は江戸時代、旅人に木陰を与えたり、風雪から守ったりといった大切な役割を果たしてきた。しかし近年、樹勢の衰えが目立ってきたので昭和末期に活力調査をし、現在まで各種の保護対策を講じている。根元を踏み固めることは樹木にとって最も悪い影響を与えるので、人が入らないようにアジサイを植えたり、遊歩道に砂利を敷くなどを行なっている。
うす暗い並木道を過ぎると、突然視界が開けて明るい芦ノ湖に出る。水面と樹林の向うに雪を被った富士山を望む景観は、どんな造園家でも設計不可能な自然の造形であろうと思われる。

このブログも、とうとう300回目になりました。平成25年3月から始めましたので、ちょうど4年になります。年平均75回の発信ということです。我ながらよく続いていると思いますが 「土木文化」 の範囲が広いので、探せばネタはいくらでも見つかるのです。まだまだ懲りずに続けますので、アクセスのほどよろしくお願いいたします。