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土岐の下街道高山宿

 土岐の高山は、江戸時代には下街道の宿場町として賑わいを見せていた。下街道は恵那槙ヶ根追分から名古屋城下を結ぶ中山道の脇街道であった。中山道より峠が少ないため利便性がよく、善光寺参りや伊勢神宮参りの人々が盛んに往来した。
 信州・美濃・尾張から出荷される荷物も、牛馬によりこの街道を行き来した。高山は下街道15里 (約60km) 2日の行程の中間地点であったため、馬継場や宿場として栄えていた。

下街道G

 明治になって天皇陛下は、全国を6回に亘って大規模な巡行を行なった。明治13年には、東京から中山道を通って京都へ向かわれたが、6月にこの下街道・高山宿に立ち寄られた。そのときの記念碑がいくつか残っている。
 上中の写真は南宮神社近くの石碑で、「明治天皇観陶聖跡碑」 とある。陛下が陶器づくりの実演をご覧になった所である。上右は 「明治天皇高山御小休所」 とあり、この地に屋敷のあった深萱邸の跡地である。ここでは陛下にお茶を差し上げている。お茶に使用した水は、慈徳院境内で汲み上げたもので、そこには 「明治帝御供水」 と刻まれた碑 (下中の写真) が立っている。

下街道マップ


季節通信25ハロウィン

津島の古い町並み

 津島市の中央を南北に走る古い街道を 「本町筋」 という。また、「津島上街道」 「下街道」とも呼ぶ。上街道は勝幡・甚目寺を経由して名古屋へ向かい、下街道は佐屋街道へと繋がっている。この街道沿いには古い町並みが残っていて、神社やお寺、古民家や土蔵を見ることができる。
 駅前の自転車屋さんでレンタサイクルを借り、まず観光交流センターに寄って町の散策地図を手に入れる。この観光交流センターも古い建物で、昭和4年 (1929) に建てられた 「津島信用金庫本店」 を再利用したものである。室内に 「まきわら舟」 の4分の1の実物が飾られている。

津島の町並みG

 南へ下った町角に大きな石の標柱があり、「左・津島神社参宮道」 と刻まれている。津島湊あるいは佐屋街道からの旅人を、津島神社へ案内するための道標であろう。ここから300mほどで、本殿東側の楼門・大鳥居へと到達することができる。
 道標の向かい側に白漆喰に黒板壁の大きな家があった。屋根の形は、速水御舟が日本画 「京の家・奈良の家」 で描いたように、上方が凸形の 「むくり屋根」 になっている。軒の上に 「屋根神様」 が祀られている。その隣には、町屋と土蔵が一体になっている家があった。

津島の町並みH


季節通信20木犀

三条通りの商店街

 三条通りは近代化の中心地としても発展し、明治期には京都のメインストリートであった。そのため日本銀行の京都支店や中京郵便局が通り沿いに建設された。また、創業300年を越える “ぬい針” で有名な 「福井みすや針」 や京扇子が揃う 「大西京扇堂」 などの老舗も軒を並べている。
 京都で最も古いこの商店街は 「三条名店街」 と呼ばれ、古い和風建築と近代的な赤レンガの洋館が入り混じっていて、古都と近代西洋文化の美しい調和の佇まいを残している。

三条名店街G

 三条大橋のすぐ西には、カリオンのある美しいアーケード街がある。ペーブメントは気品のあるモザイク模様の石張りである。烏丸本通りとの交差点には、京都市の中心地としての象徴 「道路元標」 があるのだが、今度の取材では見逃してしまった。

三条名店街マップ


季節通信11野苺

岐阜・川原町の町並み

 旧城下町側 (岐阜公園側) から、北の長良川方面に向かうと細い運河があり、3本の橋が架かっている。橋を渡ったあたりを 「川原町」 という。この地域は、江戸時代あるいは信長の時代から重要な湊町として栄えてきた。美濃市の 「上有知湊」(今年9月23日付け) の項で記したように、上流から送られてきた木材や美濃和紙が、この湊で陸揚げされるのである。川原町はそれを扱う問屋町として繁栄した。
 これらの材料は、「岐阜提灯」 「岐阜和傘」 「岐阜うちわ」 など岐阜の伝統産業には欠くことのできない品々である。運河や長良川と並行して町屋が並んでいて、上流から湊町・玉井町・元浜町・材木町と呼ばれているが、それぞれ町の役割を現しているのであろう。

川原町G

 この町並みは、幸いなことに濃尾地震のときにも戦争の空襲にも被害を受けることなく、江戸・明治時代の格子組の建物が多く残っている。橋を渡ったすぐのところに町屋を活かしたお洒落なレストランがあり、町の中央あたりには、赤いポストや古風な照明灯を残したカフェ&ギャラリーがある。川に近い通りに、塀に丸窓を空けて花を飾った料理屋も見つけた。
 岐阜市では、「長良川プロムナード計画」 の 「湊町ゾーン」 に位置づけ、電線地中化を進めるなど、伝統的な町並みの保存に努めている。

川原町マップ

石薬師寺と一里塚

 四日市宿と亀山宿の間は距離が長すぎるため、少し遅れて元和2年 (1616) に 「石薬師宿」 が幕府の命令により設置された。当時から石薬師寺の名は近郊近在に知れ渡っていたので、村名も宿名も 「石薬師」 と名付けられたという。
 石薬師寺の開山は古く、遠く奈良時代の神亀3年 (726) である。ご本尊の薬師如来像は、弘法大師が土中から現れた霊石に1日で刻み込んだものと伝えられ、厄除け信仰を集めている。平安時代後期の弘仁3年 (812) のことである。平素は秘仏であるが、12月20日の 「おすす払い」 には洗い清められる。

石薬師寺B

 石薬師宿の西の外れに一里塚がある。塚状の土盛りはないが、川のほとりにエノキの大木が残っている。根元に石碑と石灯籠が建てられていた。この地には古来、西行法師、一休禅師、林羅山、松尾芭蕉など多くの人々が立ち寄り、仏徳を賛嘆し景色を賞嘆している。
 近くに佐佐木信綱博士の生誕地があり、現在そこに資料館が建てられている。博士は明治・大正・昭和の長きにわたり、歌人としてまた歌学者として万葉集研究の最高峰を極めた。“蝉時雨 石薬師寺は 広重の 画に見るがごと みどり深しも” の句を残している。

石薬師寺マップ

日本国道路元標と東京市道路元標

 Mile-post あるいは Mile-stone というのは、マイル標石とか里程標という意味である。日本橋の橋詰め広場に、「日本道路元標」 と記されたブロンズのプレートが設置されている。その説明版の英訳には、「Zero Milestone in Japan」 と書かれている。日本のゼロマイル標石の意味になる。
 日本橋は、慶長8年 (1603) に架けられ、幕府により五街道の起点と定められた。日本各地への距離はここから測られることになっている。プレートの横に石造りの距離標が置かれていて、ちなみに横浜市29km、名古屋市370km、京都市503km、鹿児島市1469kmなどと刻まれている。

道路元標マップ

 広場の真ん中に、瓦斯塔を模したようなモニュメント (上の写真) が建っていて、柱に 「東京市道路元標」 と記されている。実はこの元標の方が歴史は古く、明治44年 (1911) に日本橋が石造りに架け替えられたとき、橋の中央に設置されたものである。しかし、昭和47年 (1972) に今の位置に移設され、その跡地に 「日本道路原標」 が埋設された。そのプレートは地下にあるので見ることはできない。前述のプレート (下の写真) は、その複製である。
 平成11年 (1999) に、米寿を迎えた 「日本橋」 と 「東京市道路元標」 は国の重要文化財に指定された。

道路元標A

箱根の杉並木

 「箱根八里」 の歌は、鳥居忱作詞・滝廉太郎作曲である。♪♪箱根の山は天下の険 函谷関も物ならず 万丈の山 千仭の谷 前に聳え後に支う 雲は山をめぐり 霧は谷をとざす♪♪ と歌い、
“昼猶闇き杉の並木 羊腸の小径は苔滑か・・・” と続く。子どもの頃から暗記していて、昼でも暗い杉並木が如何ばかりかと想像し、一度は訪ねてみたいと思っていた。
 直径が1mを越すような杉の大木が、間隔短く街道の両側に立ち並んでいる。伊勢神宮にも杉の巨木が林立しているが、“羊腸の小径” というほど道幅狭くなく、曲がりくねってもいないので、もっと明るい雰囲気である。箱根はまさに “昼猶闇い” のである。

箱根杉並木A

 この杉並木は江戸時代、旅人に木陰を与えたり、風雪から守ったりといった大切な役割を果たしてきた。しかし近年、樹勢の衰えが目立ってきたので昭和末期に活力調査をし、現在まで各種の保護対策を講じている。根元を踏み固めることは樹木にとって最も悪い影響を与えるので、人が入らないようにアジサイを植えたり、遊歩道に砂利を敷くなどを行なっている。
 うす暗い並木道を過ぎると、突然視界が開けて明るい芦ノ湖に出る。水面と樹林の向うに雪を被った富士山を望む景観は、どんな造園家でも設計不可能な自然の造形であろうと思われる。

箱根杉並木マップ

 このブログも、とうとう300回目になりました。平成25年3月から始めましたので、ちょうど4年になります。年平均75回の発信ということです。我ながらよく続いていると思いますが 「土木文化」 の範囲が広いので、探せばネタはいくらでも見つかるのです。まだまだ懲りずに続けますので、アクセスのほどよろしくお願いいたします。

箱根の関所跡

 路線バスで1時間弱、箱根峠を越えると箱根の関所跡に至る。江戸時代、この関所は最も重要な見張り所で、規模も大きかったという。箱根を越えると、いよいよ関東に入ることとなるので、いわゆる 「入り鉄砲に出女」 に対する取り締まりも厳しかった。箱根山は森が深く、間道などを抜けて関所破りを試みる者もいるので、要所々々に見張り所が置かれていた。
 写真は、西から東へ向かう旅人がくぐる 「京口御門」 である。門の中に見えるのは大番所、役人が通行者を 「関所改め」 する所である。その手前に厩 (うまや) があり、5頭の馬をつなぐようになっていた。その他に、足軽番所や獄舎があり、通行を認められると、東側の江戸口御門から出ることができるようになっていた。

箱根関所マップ

 江戸口御門を抜けると、坂道に差し掛かる。山と芦ノ湖の間の曲がりくねった道である。関所前で寄木細工などを売るお土産屋に古い写真が飾ってあり、往時の様子を伝えている。「箱根名勝・旧関所址」 と記されており、観光客がジープの来るのを待っている。その写真と現在の風景を比べると、ほとんど変わっていないことに気付く。
 その先をさらに進むと、鬱蒼とした杉並木が残っており、昔ながらの旅人になったような気分が味わえる。このあたりは “箱根の山は天下の険 函谷関も物ならず・・・” との唱歌そのものである。芦ノ湖の東端の元箱根には、現在、遊覧船の発着する港がある。ただし、江戸時代には、旅人が舟で渡ることは許されていなかった。

箱根関所B

諏訪湖ジョギングロード

 諏訪湖は、面積約13平方km、周囲16km、平均深さ5m、日本で23番目に大きい湖である。フォッサマグナの西端と中央構造線の交差点にあたり、断層運動により地殻が引き裂かれて生じた断層湖である。
 この1周16kmに、ジョギングロードが整備されている。湖の周りであるのでほぼ平坦であり、路面もアスファルトの上にゴムチップが敷かれているので、足に優しく快適に走れるコースになっている。毎年開催される諏訪湖ハーフマラソンのため、熱心に練習する人たちがいた。今年は10月23日に開催された。

諏訪湖A

 ジョギングロードに平行して、サイクリングロードも整備されている。自転車に乗って、高島城のある上諏訪から下社のある下諏訪の間を往復した。確かに道は水平に近いので、往きは楽に走ることができたが、帰路は向かい風が強く、同じ距離なのに倍以上の時間がかかってしまった。
 途中、いくつかの名所を見ることができる。大きな四ツ手網の仕掛けがあった。諏訪湖では、エビ、コイ、フナ、ワカサギなどが獲れるという。湖を1周する遊覧船の港には、白鳥の形をした遊覧船が停泊していた。人々がたくさん集まっているので何かと聞いてみると、1時間おきの「間欠泉」を待っているとのこと。運良く、すぐに吹き上がるのを見ることができた。

諏訪湖B

桑名宿

                                              ≪再掲」2014・3・15≫
 東海道本線や名神高速道路が名古屋から岐阜へ上がり、関が原を抜けて京都・大阪へ向かうので、このルートが“東海道”と思いがちであるが、元々の東海道はもっと南を通る道である。名古屋熱田湊(宮の宿)から渡し舟で桑名まで渡り(「七里の渡し」と言う)亀山を経由するルートであり、現在整備中の新名神高速道路がこれに近い。関が原は、旧中山道の通過点である。

桑名A

 桑名宿も熱田宿同様に、渡し舟を待つ旅人で賑わっていた。湊の西には舟番所や高札場が、南側には舟会所や人馬問屋などがあり、大名などが泊まる本陣もあった。しかし、昭和34年の伊勢湾台風により大被害を受け、港の外側に堤防が築かれたので、今では江戸時代と大きく異なる風景を見せている。
 「宮の渡し」には熱田神宮の最初の鳥居が立っていたが、「桑名の湊」には伊勢神宮への第一の鳥居が立っている。江戸方面からはるばるお伊勢参りに来た旅人が、伊勢の国に到着して最初にくぐる鳥居である。20年ごとに行われる式年遷宮のおり、内宮・外宮古殿の棟持柱は、宇治橋前後の鳥居として再利用される。その時にそれまで立っていた鳥居は、今度は「関宿」と「桑名湊」に移設されて、東海道から伊勢へ向かうための最初の鳥居となるのである。
桑名マップ

有松の町並み

 昨日10月2日に、有松小学校の講堂で、「重伝建選定記念 ~有松の町並みを活かして~」 というシンポジウムが開催された。会場では、市長を始め地域の公職者や住民、選定に至るまでの調査を行なった学識者やまちづくりに興味をもつ人たちなど300人ほどが集まり、熱心なディスカッションが行なわれた。
 「重伝建地区」 とは、「重要伝統的建造物群保存地区」の略称である。文化財保護法の中で、伝統的な建造物を単独でなく、群としてその歴史的風致を保存しようとする制度である。そのため、塀、石垣といった工作物や庭園、水路といった環境物件も保存の対象となっている。

有松マップ2

 有松は、慶長13年 (1608) に、尾張藩の移住奨励により桶狭間村から独立して開かれた有松村を起源としている。移住者が考案した 「有松絞 (しぼり) 」 が東海道往来者に知れ渡り、産業として大いに発達した。町並みは、絞り商の豪壮な店舗兼住居が建並ぶところに特徴がある。
 重伝建地区は、すでに全国に112か所指定されている。有松はその111番目、愛知県では、足助に次いで2番目と出遅れたが、町並みを保存するという考え方は、最も先端的であったという。大都会に立地するために選択肢が多様であり、関係する住民も多いことから指定までに時間が必要であったようである。
 この日は、恒例の 「山車まつり」 の当日で、3両の山車が町内を練り歩いていた。

有松E

宮の渡し 

≪再掲:2015・4・7≫
 笠寺から東海道を上ると、次の宿場町は「宮」である。宮とは熱田神宮、宮の渡しとは熱田湊のこと。ここから桑名の渡しまでは東海道唯一の海路で、「七里の渡し」とも呼ばれた。天候による足止めなどもあるため、熱田の宿と桑名の宿は、旅籠の数など全国一二の規模であったという。
 有名な歌川(安藤)広重の「東海道五拾三次」の浮世絵にも、「宮」は港の風景として描かれている。帆船や岸壁の石積みなどが描かれる中、右端には常夜灯や熱田神宮の浜鳥居が描かれ、当時の様子を彷彿とさせている。下方に描かれている城郭風の建築物は「浜御殿」である。

宮の宿1

 現在この地は、堀川と新堀川が合流して名古屋港へと流れる交差点であり、歴史公園「宮の渡し公園」となっている。この公園には、昭和30年に復元されたという「常夜灯」が今も残っている。その隣に聳えている鐘楼は、「時の鐘」という。時の鐘は旅人に正確な時刻を知らせるため、尾張二代藩主徳川光友の命により、熱田神宮南に隣接する蔵福寺に設置されたものである。昭和20年の戦火により消失してしまったが、昭和58年に場所を移してこの公園に復元された。

宮の宿2

東海道(伊勢の国)

 昨年4月1日から、このブログは 「東海道」 をテーマに、旧東海道沿いに残る土木遺産や新しい土木施設のご紹介をしてきました。名古屋市熱田の 「宮の宿」 からスタートし、三河地域、遠江地域、駿河地域を進み 「三島宿」 まで歩きました。
 その先の箱根の山は、相模の国に入りますので「中部の土木文化」としては一応ここまでとし、この後は、西へ向かって伊勢の国を歩こうと思います。再び、「熱田宮の宿」 を出発し、船で 「桑名宿」 まで渡りたいと思います ( 「七里の渡し」 ・・・ 実際には近鉄か関西線で行きます)。

東海道 宮 三島

 伊勢の国は現在の三重県で、桑名・四日市・亀山の方面へ進みます。現在のJR東海道線や名神高速道路が、岐阜県から関ヶ原の方を通っていますので、旧東海道もこちらかと思うのは間違いです。このコースは、名古屋から美濃街道を通り、中山道のルートをたどっているのです。どちらかというと、JR関西線が旧東海道沿いに走っていることになります。
 この道は、鈴鹿山系の谷あいを進みますし、これからの取材は秋に入りますので、美しい紅葉の写真もご紹介できると思います。ご期待ください。

東海道マップ

ふじおやま道の駅

 富士山の東裾野にある小山 (おやま) 町は、東名高速道路やJR東海道線が通る交通の要所であり、富士山登山道の須走口など観光の拠点でもある。広大な敷地を利用した 「富士スピードウェイ」 があり、F1日本グランプリなども開催される。また、豊富に湧出る清流に育まれた米やお茶、ワサビなどの特産品が収穫される。
 この町を通る国道246号沿いに、道の駅が平成16年に完成した。「ふじおやま道の駅」 という。国道を走るトラックなどのための広い駐車場や休憩のための庭園、レストランや地元の特産品などを売るショップなどがある。建設のための設計は、当社中部復建の建築部が担当した。

おやまD

 この 「道の駅」 の最大の売り物は、美しい富士山が望めることであり、また、水田や茶畑といった田園風景が眺められることである。そのため、建物は切妻屋根とし、色調も黒と白というシンプルなデザインである。周りの風景との調和をコンセプトとした設計である。
 広場の一角に可愛らしい金太郎のモニュメントがあった。台座からは飲料水が噴出していて、水の豊富なことを象徴している。この町は坂田金時の生誕地であり、童話でお馴染みの足柄山 (金時山) も近くに聳えている。

おやまE

鯖街道・熊川宿

 若狭の国・小浜から北川沿いの細長い平野を遡ると熊川に至る。この辺りからは山地となり、しばらく行って北へ向きを変え、朽木を経て京へ向かう。この道を 「鯖街道」 と呼ぶ。京都まで18里 (約72km) の行程である。
 日本海に面する小浜は、古くから大陸文化の玄関口になっている。中国や朝鮮半島の高い文化がこの港に上陸し、街道を通って奈良や京へ運ばれたのである。東大寺二月堂で行なわれる 「お水取り」 行事は、小浜・神宮寺からの 「お水送り」 と結びついている。

熊川宿マップ

 若狭湾では、多種多様の海産物が獲れるが、18世紀後半からは大量のサバが水揚げされるようになった。サバは、京都の人々にとって大衆魚であり、いろいろな行事にも欠かせないものである。若狭湾から海産物の運ばれるこの道は、いつの頃からか 「鯖街道」 と呼ばれるようになった。
 宿場町で、印象的な建物を見つけた。破風から窓枠、柱から板張りに至るまで、全て 「紅柄塗り」 された家が何軒かある。紅柄 (べんがら・弁柄とも書く) は、鉄分を含む防腐塗料である。「焼鯖」 を売る店の二階は防火のための 「塗込め窓」 になっている。街道の脇に清流の流れる用水があるが、これは何度も火災を経験した宿場町の防火のための知恵である。

熊川宿C

中山道「落合宿」の石畳

 木曽川沿いの落合宿と山の上の馬籠宿の間には、十曲峠という坂道がある。先日、ハイキングがてら取材のために歩いてみた。中津川駅からバスに乗り、落合宿で下車して歩き始める。しばらくは落合川沿いの楽な道であったが次第に急な坂道となり、運動不足の身にとっては息の切れるきつい道であった。
 江戸時代の旅人にとってはまさに難所であったのだろう、歩きやすいように石畳が敷かれている。江戸時代の街道には、並木や一里塚の制度はあったが石畳については何も考えた様子が見られない。そのため、壊れて放置されることも多かったが、地元の人たちの奉仕により復旧されたのだという。
落合宿石畳マップ

 このような石畳はあまり残っておらず、往時の姿を留めているのは東海道の箱根や菊川などごくわずかである。先だって菊川宿 (2016・3・7参照) も歩いたが、石畳の印象が異なるので写真で比べてみたところ、敷いてある石の違いに気がついた。菊川は丸い川石であり、落合は角のある山石である。大きさも異なっている。かつてこのブログにも掲載した熊野古道 (2013・8・5参照) の写真も見てみると、ここではさらに大きな石が使われていることが分かる。それぞれ、現地で調達できる石材を使った結果であろう。

落合宿石畳

菊川坂の石畳

 日坂の急な上り坂を息せき切って登ると、しばらくは平らな台地 「小夜の中山峠」 である。東海道では、箱根峠、鈴鹿峠と並ぶ三大難所に数えられていた。峠付近には真言宗の久延寺があり、悲しい物語をもつ 「夜泣石」 が祀ってある。
 峠を過ぎると、今度は急な下り坂になる。菊川へ向かっての細道は、歩きやすいように玉石の石畳になっている。これは江戸時代後期につくられたもので、長さは380間 (約700m) もあったという。当時は 「助郷」 という制度があって、様々な仕事が地元に命ぜられていた。この石畳は、近隣12か村の農民に割り当てられたものである。

石畳B

 以前、熊野古道 (2013・8・5) の石畳を歩いたことがあるが、そこは1㎡はあろうかと思われる大きな岩を並べたものであった。ここ菊川は、ひとりで持ち上げられるほどの玉石である。道幅は2間 (3.6m) ほどであるが、大量の石を運び上げて敷設するには、大変な困難があったであろう。
 眼下に菊川宿の集落を見るこの石畳は、昭和30~40年代の工事により、多くが破損してしまった。現在は約160mが残るのみである。平成12年に発掘調査が行なわれ、翌年、県の文化財に指定された。

石畳マップ



一号国道

 明治9年 (1876)、太政官の達により国道・県道・里道が指定された。すなわち道路に、重要度によるランク付けが行なわれたことになる。つづいて、明治18年、国道路線に番号が付与された。「一号」 は、東京から横浜まで。「二号」 が東京から大坂港までで、これが今の国道1号に近い路線である。戦後の昭和27年に、新道路法に基づく路線指定がなされ、東京・大阪間が国道1号に指定された。

一号国道D

 静岡県掛川市から旧東海道の細道を訪ね歩いて日坂の宿近くまで来ると、路上に見慣れない標識が埋まっているのを見つけた。「一號國道」 と旧い漢字で記した道路標である。計測はしなかったが、一辺が30cm以上の石標で、土に埋まる部分が50cmほどの頑丈なものである。設置位置を見ると官民境界の杭ではなさそうで、何らかの路線名表示であろうと思われる。
 かつて、東京銀座近くの日本橋を歩いたときに、「日本国道路元標」 なる銅版を見つけたが、この漢字は現代風であった。「一號國道」 の石標はそれより旧くて、貴重なものかもしれない。

一号国道マップ

6本目の東海道(新東名開通)

 「東海道」 を歴史的にみてみよう。
 最初は7世紀、律令制の時代に五畿七道が定められた。これは地域分け (北海道というように) で、七道は西海道・山陰道・山陽道・南海道・北陸道・東山道・東海道を指す。そのうちの東海道には、伊賀・伊勢・尾張・三河から常陸までの15か国が含まれている。時代が下ると、それらの国府を貫く “道路” も「東海道」と呼ぶようになった。
 2番目は平安末期、新しく誕生した鎌倉幕府と京とを結ぶ道である。「京・鎌倉往還」といい、西暦でいうと1200年頃から1600年頃まで続いた道である。現在は、所々に鎌倉街道と呼ばれるその部分が残っている。
 3番目は江戸時代になってから。徳川家康は、江戸を中心とする五街道を整備した。日光街道・奥州街道・中山道・甲州街道そして東海道である。街道には、旅人の便を図るために宿場町や伝馬の制度、並木や一里塚が整備された。
 4番目は明治時代、現東海道すなわち国道1号である。5番目は、名神高速道路と東名高速道路。名神は西宮から小牧までの約190km、昭和40年に開通した。東名は小牧から東京までの約350km、昭和44年に開通した。

新東名

 そしていよいよ 「新東名」 の誕生である。昨日2月13日、浜松いなさJCTから豊田東JCTまでの55kmが開通した。これで、御殿場から豊田までの約200kmが利用できることになり、現東名高速道路の渋滞緩和や、沿道地域の経済的発展などの効果が見込まれている。今後、首都圏との接続や四日市から関西方面への延伸により、第6番目の「東海道」が完成するのである。

≪文章は池田誠一氏の 『なごやの鎌倉街道をさがす』 を参考にした。写真は中日新聞社 ヘリ「あさづる」 から川柳晶寛氏が撮影したものを転載した≫


磐田市 見付の共同溝

 景観は引き算だと思う。“美しい何か” を付け加えるよりも “余分な物” を取り払うことにより美しい景色になる場合が多い。電線の地中化・共同溝の整備は街の美観を高める上で、非常に効果がある。右の写真は、まだ地中化の行なわれていない街路、左は共同溝の完成した町並みである。電柱や電線が無くなりすっきりした街は、空までが美しく見える。

見付の共同溝A

 旧東海道は、磐田駅あたりから北へ向かうが、見付宿に至ると 「姫街道」 と分岐して東の方向へ折れ曲がる。旧見付宿には脇本陣跡や常夜灯、高札場跡や道標といった歴史を物語る記念物も残っているが、商店や銀行といった新しい施設も整っていて活気がある。この街路の電線を地中化し、共同溝ができたのは、平成25年のことである。
 古い街並みで歴史的建造物が多く残っているところでは、伝統的建造物群保存地区として守っていく方法もあるが、古い建物が失われている地区では、この見付宿のような新しい景観づくりを進める方法もあると思う。共同溝整備の設計は、当社・中部復建 ㈱が行なった。下の写真は、変圧機・マンホール・町の案内板である。

見付の共同溝マップ

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ロータリー交差点(ラウンドアバウト)

 ヴェスプレムの町を車で走っていると、ほとんど信号で止まらないことに気がつく。交差点は、おおむね 「ラウンドアバウト」 と呼ぶ、ロータリー形式になっているのである。交差点に差し掛かかった車は、ロータリーを回っている車を優先とし、車のいない隙間に進入することができる。
 日本人の運転者に聞くと、最初は戸惑うけれど慣れればスムーズに利用することができるという。あまり交通量の多い都心部では難しいが、郊外や農村であればメリットも多いと考えられている。日本でも最近研究が進み、豊田市や飯田市で先進的な取り組みを見ることができる。

ラウンドアバウトA

中山道・奈良井宿

 ちょっと東海道を離れて、お盆に訪れた「奈良井宿」の話題を・・・

 木曽路11宿の中で、江戸から2番目に近く、標高がもっとも高い (1197m) 宿場町である。中山道の難所である 「鳥居峠」 を控えて、多くの旅人が宿泊した。「奈良井千軒」 と呼ばれるほど旅籠の数が多く、妻籠宿と並んで栄えたところである。
 奈良井川に沿って約1kmにわたる町並みは、日本で一番長い宿場町である。途中6か所の水場があり、旅人の咽を潤した。建物の屋根は、元々は板葺きの石置きであったが、今は鉄板になっている。長く張り出した軒先の造りが特徴である。

奈良井宿1

 身近な歴史的資産の再確認と継承・維持を目的とした町並み保存運動は、他の地域よりも早く、昭和43年に始まった。昭和53年には国から 「重要伝統的建造物群保存地区」 に指定された。その後も、平成元年に 「手づくり郷土賞」、平成19年に 「美しい日本の歴史的風土百選」、平成21年には 「花の観光地づくり大賞」 に選ばれるなど、景観を活かした地域づくりの先駆けとなっている。

奈良井宿マップ

御油の松並木

 赤坂宿と御油宿の間に堂々とした松並木が残っている。慶長9年に家康の命により整備された東海道松並木の一部で、これだけまとまって見えるところは珍しい。約600mにわたって約300本が並んでいる。周辺がまだ都市化されていない昔ながらの田園地帯で、遠くに望む三河山間地の風景も美しい。昭和19年に、国の天然記念物に指定されている。

御油B

 並木の東端に、「天然記念物 御油ノ松並木」 と記した石柱が立っている。松の幹を見ると、樹皮の割れ目がくっきりとした亀甲模様になっている。これは 「三河黒松」 の大きな特徴であるという。
 ひとつ気になるのが、たくさんの松に 「マツグミ」 が寄生していることである。マツグミは、ヤドリギ科の常緑樹で、マツやモミの枝に根を食い込ませ、水分や養分を奪い取る。松を枯らすことは無いかもしれないが、勢力を弱めることは間違いないものと考えられる。

御油マップ

東海道「藤川宿」跡

                                         ≪再掲:2014・11・11≫
 東海道「藤川宿」は、江戸品川から数えて37番目の宿場町である。三河山間部が終わり、西の平野への入口に当たり、中世から交通の要所であった。慶長6年に伝馬朱印状が与えられて宿場となったが、規模が小さかったので、山中郷から68戸を移転させて体裁を整えたという。
天保14年の「宿村大概帳」によれば、家並みは約1km、戸数302,本陣・脇本陣のほかに旅籠36軒が記されている。宿場町の中ほどに、旧脇本陣の跡があり、現在は「藤川宿資料館」が建てられている(写真右)。

藤川宿マップ

 宿場の出入口を「棒鼻」(棒端とも書く)という。地元に保存されている街道往還図によれば、
「宿囲石垣」と記されている。安藤(歌川)広重の「東海道五十三次」には、この棒鼻が描かれている。朝廷へ馬を献上する幕府の一行が、ちょうど差しかかった場面である。

藤川宿A

知立の来迎寺一里塚

                                             ≪再掲:2014・03・04≫
 平成24年2月にスタートしたこのブログも3年3か月が経過し、これまでに165回の記事を発信しました。内容は、国の「重要文化財」 や土木学会選奨の「土木遺産」といった著名なものから、あまり注目されない隠れたものまで、様々な施設を取り上げてきました。ジャンルも建築物や橋梁といった構造的なものから、並木や湿地といった自然的なものまで、多岐にわたっています。
 最近では月に1000件を超えるアクセスをいただいています。当初の目的の項で書きましたように、“地域の皆さんが、身近に土木文化を感じていただければ” と思いますので、さらに続けてまいります。

知立の一里塚A

 知立の来迎寺一里塚は江戸から数えて84番目、その前は安城市の尾崎一里塚、次は刈谷市の刈谷一里塚である。明治以降の歴史の中で失われたり、残っても片側だけという所が多い中で、ここは両側が残る珍しい一里塚である。塚の上に植えられる木はほとんどが榎(エノキ)であるが、ここは黒松であることもユニークである。   

知立の一里塚マップ

知立の東海道松並木

                                               ≪再掲:2014・2.23≫
 関が原の戦いから間もない慶長9年 (1604)、徳川幕府は東海道を整備した。東海道には53の宿場があるが、知立 (昔は池鯉鮒と書いた) は、江戸日本橋から数えて39番目、岡崎宿と鳴海宿の間にある宿場町である。ここでは 「馬の市」 が有名で、歌川広重の浮世絵でも 「首夏 (陰暦4月) 馬市」 と題した風景が描かれている。

知立松並木マップ

 東海道には、旅人を日差しや風雨から守るために、道の両側に松の木が植えられた。そのほとんどは、新しい自動車道や建物の整備により失われてしまったが、知立市牛田地区には今も約170本が残されている。戦前までは、昼なお暗いほどの大木が繁っていたが、昭和34年の伊勢湾台風により多くが倒れてしまった。昭和45年に150本ほどの補植が行われたが、その後の手入れもよく、立派な並木に育っている。

知立松並木A

豊明の史跡

 有松宿と池鯉鮒宿の間に、大脇村、落合村、阿野村という村々があった。現在の豊明市である。ここに、「桶狭間古戦場伝説地」 という史跡がある。永禄3年 (1560) 年、京都へ向かう2万5000人の今川義元の軍勢を、わずか3000人という織田信長勢が打ち破ったという有名な戦いである。この地が義元終焉の地である。ただし、名古屋市緑区にも、ここで義元が討ち取られたという伝説地が残っている。

豊明マップ

 古戦場から旧東海道を東へ下っていくと、県道57号線の少し手前に 「阿野一里塚」 がある。笠寺からは次の次、約2里 (8km) の位置にある。ここは、かなり形は変形していると思われるが、街道の両側に2基の塚が残っている。
 東海道が整備される以前の東西の道は、鎌倉街道であった。豊明では、少し北側の二村台の辺りを通っていた。海抜約70mの 「二村山」 は、古くからの景勝の地で、山頂からは熱田の海や名古屋の城下町が望めたという。現在は、藤田保健衛生大学病院の建物群に遮られている。

鳴海宿

 「鳴海宿」 は 「宮宿」 から約7km、次の 「池鯉鮒宿」 (現在は知立) までは約11kmの距離にある。重い荷物を持ち、徒歩で行く旅では、これくらいが1日の行程だったのだろうか。正徳元年 (1711)、宿場の中ほどに 「高札」 が設置された。これは、幕府や藩の重要法令を、旅人に周知するためのものである。

鳴海A

 現在の高札 (写真) は平成21年に復元されたもので、元の位置より70mほど北の歩道に立てられている。掲げられている制札は、名古屋市博物館に残されている8枚のうち、5枚を複製したものである。その中に、荷駄の料金表があって興味深い。署名されている成瀬隼人正と竹腰龍若は尾張藩の御附家老である。

鳴海B

 鳴海宿には、本陣1、脇本陣2、旅籠が68軒あったというが、現在はほとんど残っていない。ただ、多くの寺院が集中していることに、その面影を見ることができる。

鳴海マップ

笠寺一里塚

                                       【再掲:2013・02・19】
 宮の宿から約4km東へ行った笠寺観音の近くに、東海道の一里塚が残っている。直径約10mほどの円形の塚で、エノキの大木の根が土まんじゅうを鷲づかみにするような形で伸びている。現在は名古屋市の街園に位置づけられ、地域の憩いの場となっている。
 一里塚は江戸時代に、徳川幕府が旅人の目印となるように築いたもので、一里 (約4km) ごとに道の両側に築かれたものである。今日、完全な形で残っているものはごく少ないという。その中で笠寺一里塚は、片側ではあるが、ほぼ原型を留める形で残っている。

笠寺一里塚その1

 この大木は、かつて大枝が折れたため、その傷跡が大きな洞 (うろ) になっていた。今から20年ほど前に樹医による診断を受け、外科的手術により修復された。今では治癒が進んで傷跡もずいぶん小さくなり、のびのびと枝を伸ばしている。この一里塚のもう一つの見所は、塚の表面を覆いつくすヒガンバナである。9月下旬から10月初旬にかけて、地中から突然に花茎を伸ばして真っ赤な花を咲かせる。春先の今は、濃い緑色の葉が茂っている。

笠寺一里塚その2

宮の宿(シーボルト)

 宮の宿には、参勤交代の大名や伊勢参りの旅人など、多くの人々が宿泊した。松尾芭蕉も名古屋の門人たちと交流するため、たびたび熱田を訪れ、この湊から舟遊びなどを楽しんだという。そのとき 「この海に 草鞋 (わらんじ) 捨てん 笠しぐれ」 という句を残している。
 また、幕末のドイツ人医師・シーボルトも、文政9年 (1826) 2月にオランダ使節団に随行して江戸に参府する際と、4月に長崎へ帰路する際に宿泊している。このとき、名古屋の本草学者・水谷豊文とその門下生・大河内存真、伊藤圭介は、シーボルトから植物学の教えを請うべく、待ち受けて会見した。そのときの様子を 「尾三精華帖」 (下の図) に見ることができる。

シーボルト

 シーボルトは帰国後、日本の植物研究の集大成を 「フローラ・ヤポニカ (日本植物誌) 」 として出版する。彼が持ち帰った500種類もの植物は、今もその一部がオランダ・ライデン大学の植物園に残されている。ライデンは、運河と緑が美しい町である。ライデン大学の日本庭園には、シーボルトの銅像が建てられていた。

シーボルトB
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 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:「園長さんのガーデンライフ」
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