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中山道「落合の石畳」と「馬籠宿」

 「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨(そま)づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。」島崎藤村『夜明け前』冒頭の一節である。
 中山道・木曽路を語ろうとしたとき、この名文を超える説明は無理と思い、そのままお借りした。中央線・中津川駅を出発し、「十曲峠」を越えて馬籠宿まで歩いたことがある。ヤマツツジの咲く早春であったが、山道は険しく汗ばむほどであった。4里(16km)ほどの曲がりくねった坂道である。

馬籠宿マップ

 川沿いの平坦な道から山地に差し掛かると、「落合の石畳」の登りになる。落合宿と馬籠宿の間の「十曲峠」に至る道である。一時は荒れていたというが、文久元年(1861)の皇女・和宮の通行と明治天皇の行幸のときに修理されたという。今も往時の姿をとどめる石畳は、東海道の箱根(2020・2・8掲載の「金谷宿の石畳」参照)とここだけである。
 馬籠宿は、中山道六十九次の43番目の宿場であり、木曽11宿の一番南の宿場である。往時の宿場内の家は69軒、本陣1、脇本陣1、旅籠18軒であった。ほぼ中間地点にある旧本陣は、島崎藤村の生家であり、現在は「藤村記念館」になっている。

季節通信114バジル

大曽根の商店街「OZモール」

 大曽根の商店街は、かつて、大須と並ぶ賑やかなアーケード街であったが、大曽根駅一帯の再開発事業により生まれ変わった。アーケードの屋根は撤去し、セットバックにより歩道空間を広くして解放感を演出している。集合的な建物でなく、店舗を一戸建てとし、歩道に向かって三角の屋根が並ぶように統一している。
 商店街へ入るには、個性的なモニュメントを潜る。電線は地中化され、電柱はない。トランスは歩道のボックスに収められているが、そのボックスはモニュメントの台座になっている。彫像のテーマは「オズの魔法使い」。ドロシーや魔女、案山子やブリキの木こり、ライオンなどが飾られている。

オズモールマップ

 OZ(オズ)モールは、「大曽根のモール」のイメージであり、「オズの魔法使い」は語呂合わせであろう。三角屋根の三階建に統一された建築、標識やサイン類を同じデザインにした街並みなどにより、先端的な街づくり事例として全国的にも注目を集めている。1993年には第1回愛知まちなみ建築賞を受賞している。
 モールの中間地点に小さな街園がある。石の列柱と舗装広場、ここにも三角形にこだわった噴水がある。真ん中に「門」の形をした石造モニュメントがある。しかしよくよく見ると、これは「ギロチン」の形をしている。気づかずに通り過ぎる人を見て、設計者はほくそ笑んでいるのではなかろうか?

季節通信109リンデンバウム

常滑の「やきもの散歩道」

 常滑は今でこそ「空港」の町だが、もともとは「焼き物」のまちである。しかし今でも、空港島対岸の丘の上を中心に、昔ながらの陶磁器産業が息づいている。坂道の多い「やきもの散歩道」の中ほどに「土管坂」がある。舗装材にも、土止めの擁壁にも焼き物が使われている。
 坂を登っていくと、左側には大口径の土管が縦に並べられている。コンクリート製のヒューム管が一般的になるまでは、この土管が下水管に使われた。右側には「一斗甕?」が積まれている。江戸・明治の廻船業華やかなりし時代に、酒や醤油を江戸に運んだ甕であろう。(1斗は10升=18リットル)

常滑G

 焼き物の歴史を訪ねてみよう。縄文・弥生には「土器」があり、古墳時代には「土師器・須恵器」の時代になる。粘土の豊富な猿投山周辺に、大規模な陶器産業が発達する。東山古窯などに見る「灰釉陶器」である。猿投からさらに陶土を求めて、北は瀬戸や美濃へ行き、南へ行った陶工が常滑を見つけた。常滑焼は「無釉焼締陶」で、急須などに特色を見ることができる。

常滑H

 煉瓦を壁や煙突に積んだ窯が、レストランに利用されていた。お洒落なオープンカフェ。窯は「倒焔式角窯」という形式で、昭和33年(1958)に築造された。酒・酢・ソースのメーカー向けに大型陶器を焼いていたが、昭和47以来、使用中止になっている。新しいピザ窯が風景に馴染んでいる。

季節通信7紫陽花
◆6月13日に75歳になります。いよいよ後期高齢者、車に枯葉マークを貼らなきゃ。

豊橋市「二川宿の枡形」

 古来より交通の要衝であった二川(ふたがわ)は、慶長6年(1601)に江戸幕府により宿駅と定められた。開設当初は二川村と大岩村の二か村で業務を行っていたが、正保元年(1644)に二川村を西に、大岩村を東に移動させ、二川宿と加宿大岩として再構成した。
 二川宿は、江戸から数えて33番目の宿場町である。東の白須賀宿からは1里17町(約5.8km)西の吉田宿(豊橋)とは1里20町離れている。宿場の長さは12町16間(約1.3km)、本陣と脇本陣がそれぞれ1軒、旅籠屋が38軒あったという。天保14年(1843)の記録による。

二川宿枡形G

 中央近くの本陣を挟んで、東西2か所に「枡形」がある。枡形とは、お城の門と門の間にある方形の広場のこと。出陣のときに兵が集まるところであり、侵入した敵の動きを妨げる効果もある。宿場町の枡形も、道を屈曲させて見通しを妨げる効果はあるが、方形ではないので「鍵の手」と呼んだ方がいいと思う。
 二川宿では、「鍵の手」の痕跡が2か所とも見事に残っている。さすがに車の通行のため曲線になってはいるが、あきらかに鍵の手である。古い絵地図にも描かれている「高札」(矢印)の跡もある。高札とは、法令を板面に記して、往来に掲示したものである。ここでは跡を示す石碑が立っている。

 この二川宿は5年前にも訪れたことがあり、「本陣」(2015・09・13)「旅籠と商家」(同09・19)としてブログを発信しましたので見てください。

リニア飯田駅(仮称)周辺の道路整備

 リニア中央新幹線開通の2027年を目標に、各地で開発の機運が高まっている。なにせ、東京まで1時間以内で行けることとなれば、日帰り買い物に利用できるようになるのである。テレワークが進めば、東京勤務の人が甲府や飯田、中津川へ転居することも不可能ではない。
 飯田では中央市街地の少し北、元善光寺のある「座光寺」に新駅ができる。JR飯田線にも接続することになると思われるが、何と言っても道路の整備が重要であろう。東京や名古屋と短時間で結ばれても、そこからの時間がロスとなってはリニアの効果が薄くなる。

リニア飯田駅マップ

 飯田周辺のショップで配られる情報パンフレットにも、道路網整備の計画が記してあった。リニア新駅を起点に、飯田市街を取り囲むように「外環状」と「内環状」の2ルートが想定されている。外環状は中央道や既存の国道などを経由して、愛知との県境にある平谷・売木・天龍などの村々をつなぐ。
 内環状は三遠南信自動車道を延伸して、直径10km程度の都市圏を構築しようとするものである。かつて「日本列島改造論」や「首都移転構想」というのがあったが、今はまったく顧みることなく「東京一極集中」が増々進んでいる。これでは地震や火山だけでなく、コロナによっても人口集中が危険なことを忘れているのではないか。リニアの開通により、過剰人口による東京のリスクが緩和されることを期待したい。

リニア飯田駅G


馬車道の石畳(南ボヘミアの城下町)

 ヨーロッパの航空写真を眺めていると、見えてくるものがある。イタリア半島の突当りにアルプスの壁があり、北のドイツを隔てている。アルプスの北に丸い山並み、東に逆S字型の低い山脈がある。丸の中がボヘミアの盆地、S字の中がハンガリー平原である。
 ボヘミアとその東のモラヴィアを合わせてチェコの国を構成する。さらに東は、かつてはひとつの国であったスロバキアである。アルプスを水源とするヴルタヴァ川(ドイツ語ではモルダウ川)がボヘミア盆地の水を集めて北へ流れ、プラハ(紫色の丸)を通ってハンブルグから北海へと注いでいる。

チェスキー マップ

 南ボヘミアに「チェスキー・クルムロフ」(赤い丸)という城下町がある。世界一美しいとも称される古都である。名前の由来が“川がS字に曲がるところ”と言われるとおり、水に囲まれた要害の地である。教会の尖塔を中心に赤い瓦屋根の建物が、形は様々であるが調和を保ちながら並んでいる。
 町を歩く道路は小舗石の石畳で、ピカピカに磨かれている。今は自動車であるが、かつては馬車の車輪が石を削ったのであろう。交差点の角には、勢いのある馬車から家を守るために硬い自然石が積まれていた。消火栓も守られているが、その塗装の色合いが何とも可愛らしいではないか。

チェスキーG

東海道金谷宿

 江戸時代に描かれた「東海道金谷宿案内絵図」と、現代の「現況地図」とを並べると、驚くほどに一致している。もちろん新たな道路や鉄道は付け加えられているが旧東海道はそのまま、昔の面影を辿ることができる。街道沿いに、いくつかの塚や御堂も残っている。

金谷宿マップ

◆鶏頭塚・・・金谷坂の入り口にある。蕉風を広めた俳人「巴静」の句“曙も 夕ぐれもなし 鶏頭華”を記す石碑。
◆庚申堂・・・鶏頭塚の奥にある。古くから土地の人々に信仰されてきた仏堂。庚申とは、陰陽五行説に基づく「干支」のひとつで、道教では延命長寿にご利益のある特別の日という。
◆長寿・すべらず地蔵尊・・・金谷坂の石畳は“すべらない!!”ということから、受験や商売の願いが叶うようにと、町民によって据えられた。
◆芭蕉句碑・・・牧の原台地のお茶畑に立っている。「野ざらし紀行」より“馬に寝て 残夢月遠し 茶の烟”の句を記す石碑。
◆一里塚跡・・・延享3年(1746)の「東海道巡覧記」によれば、“金谷一里塚榎木”とある。現在は、鉄道の土手になっていて看板が立つのみである。

金谷宿G

旧東海道「金谷坂の石畳」

 昨年連載した「大井川鐵道を遡る旅」は、途中の「長島ダム」までで終わっている。交通手段は車であり、大井川鐵道にも乗っていないので今度は鉄道の旅にしようと思った。先回は春先だったので、紅葉の時期にしようと考えたのだが残念ながら時間がとれず落葉期になってしまった。
 新幹線と東海道本線を乗り継いで、まず降り立ったのは金谷駅である。ここから大井川鐵道に乗り換えるのだが、本数が少なく待ち時間があったので、駅近くにある「旧東海道石畳」を歩くこととした。駅の真上の国道473号から見ると駅舎の遠くに見事な富士山を望むことができる。

金谷坂石畳G

 国道沿いにさらに進むと大きな縦看板があり、旧東海道石畳への入り口を教えてくれる。この石畳は、台地の上にある「日坂宿」と大井川沿い低地の「金谷宿」間の「金谷峠の坂道」に敷設されている。江戸幕府が、近郷集落に助郷を命じて、旅人の便宜のために整備したものである。
 近年、この道はコンクリート舗装などに変わってしまい、石畳は30mほどになっていた。しかし平成3年になって、町民600人の参加を得て「平成の道普請」が行われ、430mの石畳が復元された。石の大きさは私の登山靴と同じくらい、直径30cmほどの山石である。現在、島田市の史跡に指定されている。

金谷坂石畳マップ

中山道の妻籠宿

 京と江戸をむすぶ中山道は、山深い木曽路を通ることから「木曽街道」とも呼ばれていました。「中山道六十九次」のうち、京から28番目となる「妻籠宿」は、中山道と伊那街道が交叉する交通の要衝として、古くから賑わいを見せていました。
 木曽川の支流・蘭川に沿った500mほどの間に、本陣・脇本陣・旅籠31軒が建ち並んでいました。明治になって鉄道や道路が新たにつくられ、宿場としての機能を失って衰退の一途をたどりました。しかし昭和40年代に集落保存と景観修復が行われ、昔ながらの町並みが復活しています。

妻籠宿マップ

 1軒の旅籠の玄関脇に1本のアオギリが植えられていて、軒先につかえたのでしょうかS字型に折れ曲がっています。樹木を大切にする町の人たちの心が垣間見えて、何とも微笑ましい気持ちになりました。落ち葉が迷惑だとか剪定に予算がないとかの理由で伐採してしまう町とは大違いです。
 町並みの中ほどに、「妻籠宿本陣」があります。島崎藤村の母の実家で、明治に至るまでは庄屋を兼ねていました。平成7年に復原された建物は、現在「南木曽町博物館」として使用されています。明治6年に開設された郵便御用取扱所は本陣が兼ね、書状集箱(今のポスト)が置かれていました。

妻籠宿G

鶴岡八幡宮の参道

 鶴岡八幡宮は鎌倉八幡宮とも称し、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(1147~1199)ゆかりの神社である。頼朝の先祖である河内源氏2代目棟梁・頼義が、康平6年(1063)にこの地に勧請したのが始まりという。この神社も新年の参拝客が多く、初詣ベスト10の常連である。
 (有名な大銀杏につきましては、昨年の11月11日に掲載しましたのでご覧ください)
 由比ヶ浜から八幡宮まで、鎌倉の中心をほぼ南北に貫く参道を「若宮大路」という。中央の一段高い歩道と並木を「段葛(だんかずら)」と呼び、八幡宮の境内に位置づけられている。京の朱雀大路を模して、源頼朝が自ら築いたのだという。大型バスも行き来するメイン通りである。

鎌倉参道マップ

 大路に面して大きな酒屋がある。創業は明治33年(1900)、建物は昭和2年に建てられている。伝統的な出桁造りで、重なり合う屋根や長大な差鴨居など重厚な雰囲気である。敷地奥の蔵や運搬用トロッコも残されていて、近代商文化を伝える貴重な遺産となっている。
 1本西側には狭くて歩行者優先の「小町通り」が通っている。比較的大きなお店が多い大路に比べて小町の方は小さな店舗で、テイクアウトフードの店やこだわりグッズの店が並んでいる。日傘や帽子を商う各店舗の表情も個性的で、ついつい引き込まれて買いたくなってしまう。

鎌倉参道G


季節通信33七草粥

岩倉街道の中小田井

 小田井の名は「田水を司る」の意からと言われている。庄内川右岸にある小田井の村々は、かつて河川の氾濫によって大水害にあい、その歴史は水との戦いであった。尾張藩は、名古屋城下の町を守るために、左岸側の堤防を特に堅固にしたからである。
 岩倉街道は、寛文7年(1667)に開通した。枇杷島から小田井、岩倉を経て犬山に至る道である。当時、このあたりで庄内川を渡る橋は枇杷島にしかなく、岩倉方面から野菜類を枇杷島の青物市場(慶長19年(1614)ごろ開設)へ運ぶためには必ず通る街道であった。

中小田井マップ

 重い野菜を積んだ荷車を曳いて、新川や庄内川の堤防を上る坂道は大変であったらしく、中小田井で休憩したりお茶を飲んだという。また、味噌や油など生活用品を買い求めたりしたので、中小田井の街道沿いは賑わいを見せ、商家の立ち並ぶ街が形成された。
 今も、何軒かの古い町屋が残っている。黒い板張りの家や土蔵、中二階(厨子二階)のある格子張りの家などである。お米屋さんの店先を覗くと、何とも懐かしい秤(はかり)があり、今も使われているようである。昭和62年に、名古屋市の町並み保存地区に指定された。

中小田井G

国道256号(秋葉街道)

 秋葉街道は、諏訪湖近くの茅野を起点に、高遠・地蔵峠・青崩峠を越え、遠州「秋葉山」へ至る、延長200kmの長い道である。火防(ひぶせ)の神「秋葉山本宮秋葉神社」へ詣でる信仰の道であるとともに、山と海を結ぶ交易の道でもあった。
 この谷間の道筋は、まさに中央構造線の断層そのものである。赤石山脈とその前衛たる伊那山脈の間の深い谷が南北一直線に連なり、高遠や大鹿村などを結ぶ道である。天竜川沿いの飯田からは、上久堅から「小川路峠」を越えて秋葉街道本道に合流する道がある。国道256号である。

小川路峠G

 国道256号は、途中までは車の通れる幅広の舗装道であるが、途中から林道のような地道になり、さらに進むと人ひとりしか通れない山道になってしまう。ところがこの杣道が国道だというのでビックリする。延々と4時間半歩いて小川路峠に辿りついた。
 この街道は、かつては秋葉詣の重要な道であった。また、山住みの人々に馬で荷駄を運び上げ、山からは炭や石灰などの産物を下ろす産業道でもあった。切立った崖に転落した牛馬も多かったのであろう。途中に安全祈願のための馬頭観音など観音様が33体置かれていた。(下の写真は、小川路峠から見た赤石山脈、白い雪をかぶった山は標高3121mの赤石岳)

小川路峠マップ


季節通信42クロモジ


サカエチカ(地下街)

 地下街とは、地下鉄駅やビルの地下などを結ぶ公共地下通路の両側に、商業施設が発達したものである。名古屋には地下街が多いと言われている。その理由は、道路が広いことと関係しているのではないかと考えられている。これは私の考えだが、名古屋の気候の厳しさもあるのではないか?地下街を通れば、夏の暑さや冬の強風を避けられるのである。
 地下街が集中するのは、名古屋駅地区と栄地区である。栄の真ん中、栄交差点の地下に「サカエチカ」がある。延べ床面積約1万4000㎡、商業施設の面積は約6000㎡、80の店舗がTの字に並んでいる。Tの字の交差部分が「クリスタル広場」で、待合わせの名所になっている。

サカエチカG

 サカエチカが開業したのは昭和44年(1969)、今年でちょうど50年になる。この50周年を契機に、全面的なリニューアル工事が展開されている。耐震性の強化、老朽施設の改修、天井・壁・床などをお洒落に改装する工事などである。
 一昨年、トイレが新しくなった(当社・中部復建の設計)。一日10万人もの人々が歩く地下街にあって、もっとも頻繁に使われる施設である。クリスタル広場にはガラスのモニュメントと池があったが、撤去されてイベントもできる広場になった。お正月を迎えて、門松と猪のモニュメントが置かれている。階段も改修予定であるが、現在は、一年中綺麗な「立体花壇」が飾られている。

サカエチカH


季節通信33七草粥

薩埵峠(さった峠)

 「さった峠」 は、東海道53次の由比宿と興津宿の間に位置する。さった山の標高は100mほどに過ぎないが海岸いっぱいに迫り出しており、旅人は急な坂道を難儀して越えていった。歌川広重の浮世絵には、厳しい崖の道を歩く人々と、駿河湾の向うに望む富士山が描かれている。
 明治になって国鉄の東海道本線が計画されるが、山裾の海岸に敷設せざるを得なかった。国道1号線も、線路に沿って走っている。戦後の東名高速道路は、岸辺に余地がないので海中にはみ出す形で建設された。掘削技術の進歩した近年は、東海道新幹線も新東名高速道路もトンネルによりこの山を通過している。

富士砂防G

 自然環境の厳しい場所には、美しい景色のところが多い。さった峠からの富士山は、息を呑むほど美しく、広重は見事にそれを描いている。東名高速道路のPR写真もまさに峠から撮影したもので、東京・名古屋間で最も魅力的な1枚になっている。
 しかし厳しい自然は、災害とも表裏一体である。この崖は地質的に脆弱であり、古くから地すべりの発生する場所としても知られていた。日本の最も重要な交通路がひしめくこの地に、大雨や地震による崩壊が発生するのは何としても避ける必要がある。現在、国による大規模な対策事業が展開されている。

富士砂防H

土岐の下街道高山宿

 土岐の高山は、江戸時代には下街道の宿場町として賑わいを見せていた。下街道は恵那槙ヶ根追分から名古屋城下を結ぶ中山道の脇街道であった。中山道より峠が少ないため利便性がよく、善光寺参りや伊勢神宮参りの人々が盛んに往来した。
 信州・美濃・尾張から出荷される荷物も、牛馬によりこの街道を行き来した。高山は下街道15里 (約60km) 2日の行程の中間地点であったため、馬継場や宿場として栄えていた。

下街道G

 明治になって天皇陛下は、全国を6回に亘って大規模な巡行を行なった。明治13年には、東京から中山道を通って京都へ向かわれたが、6月にこの下街道・高山宿に立ち寄られた。そのときの記念碑がいくつか残っている。
 上中の写真は南宮神社近くの石碑で、「明治天皇観陶聖跡碑」 とある。陛下が陶器づくりの実演をご覧になった所である。上右は 「明治天皇高山御小休所」 とあり、この地に屋敷のあった深萱邸の跡地である。ここでは陛下にお茶を差し上げている。お茶に使用した水は、慈徳院境内で汲み上げたもので、そこには 「明治帝御供水」 と刻まれた碑 (下中の写真) が立っている。

下街道マップ


季節通信25ハロウィン

津島の古い町並み

 津島市の中央を南北に走る古い街道を 「本町筋」 という。また、「津島上街道」 「下街道」とも呼ぶ。上街道は勝幡・甚目寺を経由して名古屋へ向かい、下街道は佐屋街道へと繋がっている。この街道沿いには古い町並みが残っていて、神社やお寺、古民家や土蔵を見ることができる。
 駅前の自転車屋さんでレンタサイクルを借り、まず観光交流センターに寄って町の散策地図を手に入れる。この観光交流センターも古い建物で、昭和4年 (1929) に建てられた 「津島信用金庫本店」 を再利用したものである。室内に 「まきわら舟」 の4分の1の実物が飾られている。

津島の町並みG

 南へ下った町角に大きな石の標柱があり、「左・津島神社参宮道」 と刻まれている。津島湊あるいは佐屋街道からの旅人を、津島神社へ案内するための道標であろう。ここから300mほどで、本殿東側の楼門・大鳥居へと到達することができる。
 道標の向かい側に白漆喰に黒板壁の大きな家があった。屋根の形は、速水御舟が日本画 「京の家・奈良の家」 で描いたように、上方が凸形の 「むくり屋根」 になっている。軒の上に 「屋根神様」 が祀られている。その隣には、町屋と土蔵が一体になっている家があった。

津島の町並みH


季節通信20木犀

三条通りの商店街

 三条通りは近代化の中心地としても発展し、明治期には京都のメインストリートであった。そのため日本銀行の京都支店や中京郵便局が通り沿いに建設された。また、創業300年を越える “ぬい針” で有名な 「福井みすや針」 や京扇子が揃う 「大西京扇堂」 などの老舗も軒を並べている。
 京都で最も古いこの商店街は 「三条名店街」 と呼ばれ、古い和風建築と近代的な赤レンガの洋館が入り混じっていて、古都と近代西洋文化の美しい調和の佇まいを残している。

三条名店街G

 三条大橋のすぐ西には、カリオンのある美しいアーケード街がある。ペーブメントは気品のあるモザイク模様の石張りである。烏丸本通りとの交差点には、京都市の中心地としての象徴 「道路元標」 があるのだが、今度の取材では見逃してしまった。

三条名店街マップ


季節通信11野苺

岐阜・川原町の町並み

 旧城下町側 (岐阜公園側) から、北の長良川方面に向かうと細い運河があり、3本の橋が架かっている。橋を渡ったあたりを 「川原町」 という。この地域は、江戸時代あるいは信長の時代から重要な湊町として栄えてきた。美濃市の 「上有知湊」(今年9月23日付け) の項で記したように、上流から送られてきた木材や美濃和紙が、この湊で陸揚げされるのである。川原町はそれを扱う問屋町として繁栄した。
 これらの材料は、「岐阜提灯」 「岐阜和傘」 「岐阜うちわ」 など岐阜の伝統産業には欠くことのできない品々である。運河や長良川と並行して町屋が並んでいて、上流から湊町・玉井町・元浜町・材木町と呼ばれているが、それぞれ町の役割を現しているのであろう。

川原町G

 この町並みは、幸いなことに濃尾地震のときにも戦争の空襲にも被害を受けることなく、江戸・明治時代の格子組の建物が多く残っている。橋を渡ったすぐのところに町屋を活かしたお洒落なレストランがあり、町の中央あたりには、赤いポストや古風な照明灯を残したカフェ&ギャラリーがある。川に近い通りに、塀に丸窓を空けて花を飾った料理屋も見つけた。
 岐阜市では、「長良川プロムナード計画」 の 「湊町ゾーン」 に位置づけ、電線地中化を進めるなど、伝統的な町並みの保存に努めている。

川原町マップ

石薬師寺と一里塚

 四日市宿と亀山宿の間は距離が長すぎるため、少し遅れて元和2年 (1616) に 「石薬師宿」 が幕府の命令により設置された。当時から石薬師寺の名は近郊近在に知れ渡っていたので、村名も宿名も 「石薬師」 と名付けられたという。
 石薬師寺の開山は古く、遠く奈良時代の神亀3年 (726) である。ご本尊の薬師如来像は、弘法大師が土中から現れた霊石に1日で刻み込んだものと伝えられ、厄除け信仰を集めている。平安時代後期の弘仁3年 (812) のことである。平素は秘仏であるが、12月20日の 「おすす払い」 には洗い清められる。

石薬師寺B

 石薬師宿の西の外れに一里塚がある。塚状の土盛りはないが、川のほとりにエノキの大木が残っている。根元に石碑と石灯籠が建てられていた。この地には古来、西行法師、一休禅師、林羅山、松尾芭蕉など多くの人々が立ち寄り、仏徳を賛嘆し景色を賞嘆している。
 近くに佐佐木信綱博士の生誕地があり、現在そこに資料館が建てられている。博士は明治・大正・昭和の長きにわたり、歌人としてまた歌学者として万葉集研究の最高峰を極めた。“蝉時雨 石薬師寺は 広重の 画に見るがごと みどり深しも” の句を残している。

石薬師寺マップ

日本国道路元標と東京市道路元標

 Mile-post あるいは Mile-stone というのは、マイル標石とか里程標という意味である。日本橋の橋詰め広場に、「日本道路元標」 と記されたブロンズのプレートが設置されている。その説明版の英訳には、「Zero Milestone in Japan」 と書かれている。日本のゼロマイル標石の意味になる。
 日本橋は、慶長8年 (1603) に架けられ、幕府により五街道の起点と定められた。日本各地への距離はここから測られることになっている。プレートの横に石造りの距離標が置かれていて、ちなみに横浜市29km、名古屋市370km、京都市503km、鹿児島市1469kmなどと刻まれている。

道路元標マップ

 広場の真ん中に、瓦斯塔を模したようなモニュメント (上の写真) が建っていて、柱に 「東京市道路元標」 と記されている。実はこの元標の方が歴史は古く、明治44年 (1911) に日本橋が石造りに架け替えられたとき、橋の中央に設置されたものである。しかし、昭和47年 (1972) に今の位置に移設され、その跡地に 「日本道路原標」 が埋設された。そのプレートは地下にあるので見ることはできない。前述のプレート (下の写真) は、その複製である。
 平成11年 (1999) に、米寿を迎えた 「日本橋」 と 「東京市道路元標」 は国の重要文化財に指定された。

道路元標A

箱根の杉並木

 「箱根八里」 の歌は、鳥居忱作詞・滝廉太郎作曲である。♪♪箱根の山は天下の険 函谷関も物ならず 万丈の山 千仭の谷 前に聳え後に支う 雲は山をめぐり 霧は谷をとざす♪♪ と歌い、
“昼猶闇き杉の並木 羊腸の小径は苔滑か・・・” と続く。子どもの頃から暗記していて、昼でも暗い杉並木が如何ばかりかと想像し、一度は訪ねてみたいと思っていた。
 直径が1mを越すような杉の大木が、間隔短く街道の両側に立ち並んでいる。伊勢神宮にも杉の巨木が林立しているが、“羊腸の小径” というほど道幅狭くなく、曲がりくねってもいないので、もっと明るい雰囲気である。箱根はまさに “昼猶闇い” のである。

箱根杉並木A

 この杉並木は江戸時代、旅人に木陰を与えたり、風雪から守ったりといった大切な役割を果たしてきた。しかし近年、樹勢の衰えが目立ってきたので昭和末期に活力調査をし、現在まで各種の保護対策を講じている。根元を踏み固めることは樹木にとって最も悪い影響を与えるので、人が入らないようにアジサイを植えたり、遊歩道に砂利を敷くなどを行なっている。
 うす暗い並木道を過ぎると、突然視界が開けて明るい芦ノ湖に出る。水面と樹林の向うに雪を被った富士山を望む景観は、どんな造園家でも設計不可能な自然の造形であろうと思われる。

箱根杉並木マップ

 このブログも、とうとう300回目になりました。平成25年3月から始めましたので、ちょうど4年になります。年平均75回の発信ということです。我ながらよく続いていると思いますが 「土木文化」 の範囲が広いので、探せばネタはいくらでも見つかるのです。まだまだ懲りずに続けますので、アクセスのほどよろしくお願いいたします。

箱根の関所跡

 路線バスで1時間弱、箱根峠を越えると箱根の関所跡に至る。江戸時代、この関所は最も重要な見張り所で、規模も大きかったという。箱根を越えると、いよいよ関東に入ることとなるので、いわゆる 「入り鉄砲に出女」 に対する取り締まりも厳しかった。箱根山は森が深く、間道などを抜けて関所破りを試みる者もいるので、要所々々に見張り所が置かれていた。
 写真は、西から東へ向かう旅人がくぐる 「京口御門」 である。門の中に見えるのは大番所、役人が通行者を 「関所改め」 する所である。その手前に厩 (うまや) があり、5頭の馬をつなぐようになっていた。その他に、足軽番所や獄舎があり、通行を認められると、東側の江戸口御門から出ることができるようになっていた。

箱根関所マップ

 江戸口御門を抜けると、坂道に差し掛かる。山と芦ノ湖の間の曲がりくねった道である。関所前で寄木細工などを売るお土産屋に古い写真が飾ってあり、往時の様子を伝えている。「箱根名勝・旧関所址」 と記されており、観光客がジープの来るのを待っている。その写真と現在の風景を比べると、ほとんど変わっていないことに気付く。
 その先をさらに進むと、鬱蒼とした杉並木が残っており、昔ながらの旅人になったような気分が味わえる。このあたりは “箱根の山は天下の険 函谷関も物ならず・・・” との唱歌そのものである。芦ノ湖の東端の元箱根には、現在、遊覧船の発着する港がある。ただし、江戸時代には、旅人が舟で渡ることは許されていなかった。

箱根関所B

諏訪湖ジョギングロード

 諏訪湖は、面積約13平方km、周囲16km、平均深さ5m、日本で23番目に大きい湖である。フォッサマグナの西端と中央構造線の交差点にあたり、断層運動により地殻が引き裂かれて生じた断層湖である。
 この1周16kmに、ジョギングロードが整備されている。湖の周りであるのでほぼ平坦であり、路面もアスファルトの上にゴムチップが敷かれているので、足に優しく快適に走れるコースになっている。毎年開催される諏訪湖ハーフマラソンのため、熱心に練習する人たちがいた。今年は10月23日に開催された。

諏訪湖A

 ジョギングロードに平行して、サイクリングロードも整備されている。自転車に乗って、高島城のある上諏訪から下社のある下諏訪の間を往復した。確かに道は水平に近いので、往きは楽に走ることができたが、帰路は向かい風が強く、同じ距離なのに倍以上の時間がかかってしまった。
 途中、いくつかの名所を見ることができる。大きな四ツ手網の仕掛けがあった。諏訪湖では、エビ、コイ、フナ、ワカサギなどが獲れるという。湖を1周する遊覧船の港には、白鳥の形をした遊覧船が停泊していた。人々がたくさん集まっているので何かと聞いてみると、1時間おきの「間欠泉」を待っているとのこと。運良く、すぐに吹き上がるのを見ることができた。

諏訪湖B

桑名宿

                                              ≪再掲」2014・3・15≫
 東海道本線や名神高速道路が名古屋から岐阜へ上がり、関が原を抜けて京都・大阪へ向かうので、このルートが“東海道”と思いがちであるが、元々の東海道はもっと南を通る道である。名古屋熱田湊(宮の宿)から渡し舟で桑名まで渡り(「七里の渡し」と言う)亀山を経由するルートであり、現在整備中の新名神高速道路がこれに近い。関が原は、旧中山道の通過点である。

桑名A

 桑名宿も熱田宿同様に、渡し舟を待つ旅人で賑わっていた。湊の西には舟番所や高札場が、南側には舟会所や人馬問屋などがあり、大名などが泊まる本陣もあった。しかし、昭和34年の伊勢湾台風により大被害を受け、港の外側に堤防が築かれたので、今では江戸時代と大きく異なる風景を見せている。
 「宮の渡し」には熱田神宮の最初の鳥居が立っていたが、「桑名の湊」には伊勢神宮への第一の鳥居が立っている。江戸方面からはるばるお伊勢参りに来た旅人が、伊勢の国に到着して最初にくぐる鳥居である。20年ごとに行われる式年遷宮のおり、内宮・外宮古殿の棟持柱は、宇治橋前後の鳥居として再利用される。その時にそれまで立っていた鳥居は、今度は「関宿」と「桑名湊」に移設されて、東海道から伊勢へ向かうための最初の鳥居となるのである。
桑名マップ

有松の町並み

 昨日10月2日に、有松小学校の講堂で、「重伝建選定記念 ~有松の町並みを活かして~」 というシンポジウムが開催された。会場では、市長を始め地域の公職者や住民、選定に至るまでの調査を行なった学識者やまちづくりに興味をもつ人たちなど300人ほどが集まり、熱心なディスカッションが行なわれた。
 「重伝建地区」 とは、「重要伝統的建造物群保存地区」の略称である。文化財保護法の中で、伝統的な建造物を単独でなく、群としてその歴史的風致を保存しようとする制度である。そのため、塀、石垣といった工作物や庭園、水路といった環境物件も保存の対象となっている。

有松マップ2

 有松は、慶長13年 (1608) に、尾張藩の移住奨励により桶狭間村から独立して開かれた有松村を起源としている。移住者が考案した 「有松絞 (しぼり) 」 が東海道往来者に知れ渡り、産業として大いに発達した。町並みは、絞り商の豪壮な店舗兼住居が建並ぶところに特徴がある。
 重伝建地区は、すでに全国に112か所指定されている。有松はその111番目、愛知県では、足助に次いで2番目と出遅れたが、町並みを保存するという考え方は、最も先端的であったという。大都会に立地するために選択肢が多様であり、関係する住民も多いことから指定までに時間が必要であったようである。
 この日は、恒例の 「山車まつり」 の当日で、3両の山車が町内を練り歩いていた。

有松E

宮の渡し 

≪再掲:2015・4・7≫
 笠寺から東海道を上ると、次の宿場町は「宮」である。宮とは熱田神宮、宮の渡しとは熱田湊のこと。ここから桑名の渡しまでは東海道唯一の海路で、「七里の渡し」とも呼ばれた。天候による足止めなどもあるため、熱田の宿と桑名の宿は、旅籠の数など全国一二の規模であったという。
 有名な歌川(安藤)広重の「東海道五拾三次」の浮世絵にも、「宮」は港の風景として描かれている。帆船や岸壁の石積みなどが描かれる中、右端には常夜灯や熱田神宮の浜鳥居が描かれ、当時の様子を彷彿とさせている。下方に描かれている城郭風の建築物は「浜御殿」である。

宮の宿1

 現在この地は、堀川と新堀川が合流して名古屋港へと流れる交差点であり、歴史公園「宮の渡し公園」となっている。この公園には、昭和30年に復元されたという「常夜灯」が今も残っている。その隣に聳えている鐘楼は、「時の鐘」という。時の鐘は旅人に正確な時刻を知らせるため、尾張二代藩主徳川光友の命により、熱田神宮南に隣接する蔵福寺に設置されたものである。昭和20年の戦火により消失してしまったが、昭和58年に場所を移してこの公園に復元された。

宮の宿2

東海道(伊勢の国)

 昨年4月1日から、このブログは 「東海道」 をテーマに、旧東海道沿いに残る土木遺産や新しい土木施設のご紹介をしてきました。名古屋市熱田の 「宮の宿」 からスタートし、三河地域、遠江地域、駿河地域を進み 「三島宿」 まで歩きました。
 その先の箱根の山は、相模の国に入りますので「中部の土木文化」としては一応ここまでとし、この後は、西へ向かって伊勢の国を歩こうと思います。再び、「熱田宮の宿」 を出発し、船で 「桑名宿」 まで渡りたいと思います ( 「七里の渡し」 ・・・ 実際には近鉄か関西線で行きます)。

東海道 宮 三島

 伊勢の国は現在の三重県で、桑名・四日市・亀山の方面へ進みます。現在のJR東海道線や名神高速道路が、岐阜県から関ヶ原の方を通っていますので、旧東海道もこちらかと思うのは間違いです。このコースは、名古屋から美濃街道を通り、中山道のルートをたどっているのです。どちらかというと、JR関西線が旧東海道沿いに走っていることになります。
 この道は、鈴鹿山系の谷あいを進みますし、これからの取材は秋に入りますので、美しい紅葉の写真もご紹介できると思います。ご期待ください。

東海道マップ

ふじおやま道の駅

 富士山の東裾野にある小山 (おやま) 町は、東名高速道路やJR東海道線が通る交通の要所であり、富士山登山道の須走口など観光の拠点でもある。広大な敷地を利用した 「富士スピードウェイ」 があり、F1日本グランプリなども開催される。また、豊富に湧出る清流に育まれた米やお茶、ワサビなどの特産品が収穫される。
 この町を通る国道246号沿いに、道の駅が平成16年に完成した。「ふじおやま道の駅」 という。国道を走るトラックなどのための広い駐車場や休憩のための庭園、レストランや地元の特産品などを売るショップなどがある。建設のための設計は、当社中部復建の建築部が担当した。

おやまD

 この 「道の駅」 の最大の売り物は、美しい富士山が望めることであり、また、水田や茶畑といった田園風景が眺められることである。そのため、建物は切妻屋根とし、色調も黒と白というシンプルなデザインである。周りの風景との調和をコンセプトとした設計である。
 広場の一角に可愛らしい金太郎のモニュメントがあった。台座からは飲料水が噴出していて、水の豊富なことを象徴している。この町は坂田金時の生誕地であり、童話でお馴染みの足柄山 (金時山) も近くに聳えている。

おやまE

鯖街道・熊川宿

 若狭の国・小浜から北川沿いの細長い平野を遡ると熊川に至る。この辺りからは山地となり、しばらく行って北へ向きを変え、朽木を経て京へ向かう。この道を 「鯖街道」 と呼ぶ。京都まで18里 (約72km) の行程である。
 日本海に面する小浜は、古くから大陸文化の玄関口になっている。中国や朝鮮半島の高い文化がこの港に上陸し、街道を通って奈良や京へ運ばれたのである。東大寺二月堂で行なわれる 「お水取り」 行事は、小浜・神宮寺からの 「お水送り」 と結びついている。

熊川宿マップ

 若狭湾では、多種多様の海産物が獲れるが、18世紀後半からは大量のサバが水揚げされるようになった。サバは、京都の人々にとって大衆魚であり、いろいろな行事にも欠かせないものである。若狭湾から海産物の運ばれるこの道は、いつの頃からか 「鯖街道」 と呼ばれるようになった。
 宿場町で、印象的な建物を見つけた。破風から窓枠、柱から板張りに至るまで、全て 「紅柄塗り」 された家が何軒かある。紅柄 (べんがら・弁柄とも書く) は、鉄分を含む防腐塗料である。「焼鯖」 を売る店の二階は防火のための 「塗込め窓」 になっている。街道の脇に清流の流れる用水があるが、これは何度も火災を経験した宿場町の防火のための知恵である。

熊川宿C

中山道「落合宿」の石畳

 木曽川沿いの落合宿と山の上の馬籠宿の間には、十曲峠という坂道がある。先日、ハイキングがてら取材のために歩いてみた。中津川駅からバスに乗り、落合宿で下車して歩き始める。しばらくは落合川沿いの楽な道であったが次第に急な坂道となり、運動不足の身にとっては息の切れるきつい道であった。
 江戸時代の旅人にとってはまさに難所であったのだろう、歩きやすいように石畳が敷かれている。江戸時代の街道には、並木や一里塚の制度はあったが石畳については何も考えた様子が見られない。そのため、壊れて放置されることも多かったが、地元の人たちの奉仕により復旧されたのだという。
落合宿石畳マップ

 このような石畳はあまり残っておらず、往時の姿を留めているのは東海道の箱根や菊川などごくわずかである。先だって菊川宿 (2016・3・7参照) も歩いたが、石畳の印象が異なるので写真で比べてみたところ、敷いてある石の違いに気がついた。菊川は丸い川石であり、落合は角のある山石である。大きさも異なっている。かつてこのブログにも掲載した熊野古道 (2013・8・5参照) の写真も見てみると、ここではさらに大きな石が使われていることが分かる。それぞれ、現地で調達できる石材を使った結果であろう。

落合宿石畳
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ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
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