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赤坂湊跡と美濃赤坂駅

 赤坂宿は江戸から数えて56番目の宿場町である。歌川広重の「木曽街道六十九次」では川(杭瀬川?)を渡る土橋の景色として描かれている。本陣・脇本陣と17軒の旅籠が建ち並んでいた。金生山(きんしょうざん)で採掘される石灰と大理石を利用した工業が興り、大いに繁盛していたという。
 杭瀬川に繋がる運河があり、中山道と交わる地点に川湊があった。肥料用の石灰や建築資材としての大理石などが、船により運搬されていた。現在も、船着き場と常夜灯が残っている。白壁の洋風建物は、明治8年(1875)に建てられた警察屯所で、今は赤坂港会館として使用されている。

赤坂湊G

 赤坂湊は、往時は500艘もの船が往来していた。しかし、東海道本線の支線「美濃赤坂線」の開通により、また下流に水門が出来たことにより廃絶となってしまった。支線は、大正8年(1919)に開通し、昭和3年には石灰石輸送のための西濃鉄道が乗り入れを開始した。
 現在もJR東海(1日18便)・JR貨物(1日3便)として運行している。美濃赤坂駅は、支線開通の年に建設されたままの木造平屋建てである。明治19年築(1886)の武豊線・亀崎駅(2013・4・16参照)ほど古くはないが、ノスタルジックな雰囲気の残る駅舎である。

赤坂駅マップ

亀類繁殖研究施設

 ポートブリッジを渡って右に曲がると水族館へ行くが、左側(海側)は注目したことがなかった。ふと見ると、こじんまりした建物がある。近寄って表札を見ると「亀類繁殖研究施設」とある。“ヘェーこんな施設があるんだ”と思いながら中に入ってみる。自由に入れて、誰もいない。
 室内には、丸や四角の水槽が並んでいる。「人工ふ化場」「子ガメ飼育水槽」には、産まれたばかりの子亀がたくさん群れている。アオウミガメやアカウミガメと表示のある水槽には、比較的大きな亀が泳いでいた。ろ過槽室や機械室などもある。

ウミガメG

 カメの仲間は、世界で257種ほどが知られている。その中で海ガメ類は、わずかに8種類しかいないという。しかも、ほとんどの種が次第に生息数を減らしている。その原因は、食用にされたり、繁殖場の海浜の環境が悪くなるなど人為によるものである。
 この研究施設は、海ガメを中心とした種の保存研究を行う、日本初のユニークな施設である。世界の国々からの研究者も受け入れ、様々な研究が行われている。一般の人の理解を喚起するためにも、もう少し存在をアピール(案内看板など)したら良いのにと感じた。

ウミガメH

季節通信181チカラシバ





名古屋港ポートビルとポートブリッジ

 名古屋港の中心・ガーデンふ頭に、ひときわ異彩を放つビルがある。まるで海に浮かぶ白い帆船のような形をしている。「名古屋港ポートビル」と呼ぶ。名古屋港の陸からも海からも眺めることができ、ランドマークの役割を果たしている。
 昭和59年(1984)年に開館した高さ63mの高層ビルである。内部には管理事務所・会議室やレストランがある。3階と4階は「海洋博物館」、最上階の7階は展望室になっている。このユニークな建築デザインは、「都市景観賞」や「中部建築賞」を受賞している。

ポートビル マップ

 水面を挟んだ西側に「名古屋港水族館」がある。東側の「ポートビル」と結ぶ歩道橋を「ポートブリッジ」という。全長180m、ホップ・ステップ・ジャンプをするように5つのアーチが橋を跨いでいる。水族館への期待感が躍動するような演出である。
 橋の両側にも、港ならではの景色を見ることができる。南側にはボートの船着き場があり、名古屋港周遊の船やブルーボネット行きの水上バスの発着所となっている。北側には、現役を引退した「南極観測船ふじ」が係留されている。「南極の博物館」として余生を送っている。

ポートビルG



四日市旧港の相生橋と水門

 明治時代に開港した四日市港(旧港)は面積的には小さく、広大に展開している現在の港湾の中では極一部の区域でしかない。しかし、現在も稼働しているばかりでなく、歴史的に重要な「旧港」として大切に保存されている。もちろん新しい施設も加わって、新旧相俟って機能を維持している。
 旧港の奥まった運河は、現在はプレジャーボートの繋留場となっている。諏訪新道が運河を跨ぐところに「相生橋」が架かっている。平成7年(1995)に完成した。3連のアーチ橋で、水面に映る姿も美しい。親柱や欄干、照明塔も凝ったデザインである。

四・相生橋G

 運河の出入り口には水門が設置してある。船舶が通行できる高さまで、ゲートが開くようになっている。この地区の海抜は、2.4mとの表記がある。2mほどのコンクリート堤防が巡らせてあるが、いざ津波が押寄せれば乗り越えてしまうかもしれない。出入り口には、防潮扉が備えられている。
 明治時代に造られた「潮吹き防波堤」(2013・07・02参照)は、海側が埋め立てられてオイルタンクが立地しており、そのユニークな機能は失われているが、現物が保存されていて四日市港の歴史の “証人” となっている。旧港の小さな入り江も現役で、何艘かの漁船が停泊していた。

四・水門マップ

四日市・いなばポートライン

 日本の「港湾取扱貨物量ランキング(2019)」によると、1位は名古屋港で総貨物量は1億9500万トンである。2位千葉、3位横浜と続き6位神戸、7位東京、8位大坂である。四日市港は14位で、総貨物量は6000万トンとなっている。
 四日市港は、幕末から明治初期にかけては伊勢湾内において最大の商業港であった。当初の貿易は、食料品・肥料の輸入が中心であったが、次第に綿花や繊維原料となり、戦後は羊毛や石油が主となった。石油化学コンビナートの立地により、現在は典型的な工業港へと発展している。

いなばポートラインマップ

 四日市港の、近代港湾への基礎を築いたのは稲葉三右衛門である。コンクリートもない時代の港湾造成は、想像以上の難工事であったという。稲葉は、私財を投げ打って工事を進め、幾多の困難を乗り越えて完成に漕ぎ着けた。明治32年に開港場として指定された。(2013年6月・7月の四日市旧港参照)
 4年前(2018年)に、「臨港道路霞4号幹線」が開通した。伊勢湾岸道路「みえ川越インターチェンジ」から「四日市港ポートビル」に至る約4kmの自動車道で、海岸沿いや水面の上を走る高架道路である。愛称は「四日市・いなばポートライン」という。開港の功労者・稲葉三右衛門を記念した名称である。


アイルランド西海岸

 アイルランドの西海岸は、まだ地球が丸いと知られていなかった時代には地の果てと思われていた。陸地は、高さ200mもの断崖絶壁で終焉し、その先は荒海である。岸壁を周遊する遊覧船に乗った。今から15年ほど前のアイルランド旅行のときの経験である。
 運がいいとイルカの群れを見ることができるというので、期待して舳先でスタンバイしていたが、残念ながらこの日は運悪く、泳ぐ姿を見ることはできなかった。イルカは、知多などの水族館で、調教された姿しか見たことがないので、野生の生態を見たかったのである。

アイルランド西海岸

 遊覧船が中ほどまで進むと、岸壁から少し離れたところに「烏帽子島」ともいうような縦長の岩が立っていた。荒波に洗われて削られた中で、この硬い岩だけが残ったのであろう。岩の節理は水平な層になっており、柔らかく窪んだところにカモメが規則正しく並んで止まっていた。遠くて見分けがつかなかったが、ウミネコかもしれないと思った。
 途中、アラン諸島を往復する船とすれちがった。縄網みの「アラン模様セーター」は、妻や恋人のオリジナルな手編みである。荒海に漕ぎ出した夫が遭難したときに、セーターの模様で見分けるという悲しい物語が語られる。遊覧船が到着する港近くの集落には、カラフルな建物が建っていた。

季節通信ツバメ
下線文

熱田湊の「東浜御殿」

 東海道唯一の海路「七里の渡し」は、宮宿(熱田湊)と桑名宿を結んでいる。熱田湊には、熱田神宮の一の鳥居が、桑名湊には伊勢神宮の一の鳥居が立っていた。京からの旅人は、鳥居をくぐって熱田神宮を参詣し、江戸からの伊勢詣客は、桑名から伊勢へと向かったのであろう。
 熱田湊の辺りは、今は「歴史公園・宮の渡し公園」になっている。ここには、昔ながらの「常夜灯」が残っており、新たに「時の鐘」も整備されている。しかし、この地に尾張藩の「東浜御殿」があったことを示す遺跡は残っていない。ところが最近、御殿の石垣の巨石が白鳥小学校にあるとの報道があった。(7月27日中日新聞朝刊)

東浜御殿修正

 東浜御殿は、寛永元年(1624)に尾張初代藩主・義直が造営したものという。東海道を往来する公家や大名を供応するためともいうが、京へ上る将軍の宿泊のためであり、江戸時代を通じて泊まったのは三代将軍・家光ただ一人ともいわれている。あの壮大な本丸御殿が、将軍だけの宿泊所だったことを考え合わせれば、さもありなんと思ってしまう。
 その位置は、現在の公園に接する新堀川の水中であると考えられる。そのよすがは、古い絵図や浮世絵に残っている。上の図は、「名古屋并熱田図(なごやならびにあつたず)」(徳川美術館蔵)の部分である。下の絵は、歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」の「宮」、手前に御殿の様子が描かれている。

浜御殿G


季節通信118カモメ

蒲郡・稲生港石積防波堤

 蒲郡の海岸には、たくさんの港が並んでいる。東からラグーナ蒲郡・三谷漁港・蒲郡港・形原漁港・倉舞港・知柄漁港・東幡豆港などである。三河湾のゆたかな魚介類の水揚げのために古くから立地している。
 三河湾に突き出した西浦半島の東海岸、形原漁港の南に「稲生港」がある。この港の歴史は古く、文亀年間(1501~1503)には突堤が築かれたという。明治28年(1895)に船囲堤が修築されたが、これは半円形に水面を囲む小規模なものであった。

稲生港マップ

 現在残されている「稲生港石積防波堤」は長さ171m、高さ6m、花崗岩を積上げた堂々たる堤防である。建造は大正9年(1920)、船主仲間で造ったという石碑が残っており、地元漁民も工事を手伝ったという。平成17年(2005)に土木学会選奨土木遺産に指定された。
 花崗岩は「幡豆石」と呼ばれるものであるが、地元の人たちはこの地に産する「西浦石」であり、このふたつは違うのだという。西浦石は割れやすいのが特徴で、大坂城や名古屋城の石垣にも使われている。防波堤の天端には、石で造った「繋船柱」が5間(9m)間隔で建っているが、これは全国的にも珍しいものという。

稲生港G

津島湊跡(天王川公園)

 天明年間 (1780年代) まで、津島には木曽川の支流 「天王川」 が流れていた。そして、現在の天王川公園辺りに 「津島湊」 という川湊があった。当時の様子を 「尾張名所図絵巻7」 に見ることができる。(下左の図)
 今も同じ場所にある瑞泉寺が手前に描かれ、図の中央左寄りに描かれる入り江が「車河戸」と呼ばれる津島湊である。その入口は 「江口」 と呼ばれていた。現在の公園平面図で見る 「くの字」 に曲がった水面が車河戸の名残を今に伝えている。

天王川公園マップ

 現在の車河戸にも、図絵と同じように島があり、そこに櫓が組まれている (下の写真)。「津島天王祭」 では、5車の 「まきわら船」 に提灯 (ちょうちん) が灯され、車河戸から船出して、江口を通って丸池を漕ぎ渡る。毎年7月第4土曜日・日曜日に開催される夏の風物詩である。現在、国の無形民俗文化財に指定されており、ユネスコの無形文化遺産にも登録されている。

天王川公園G

 今年こそは、まきわら船を見たいと考えていましたが、台風の影響で中止になってしまいました。写真を撮ることができませんでしたので、名所図絵の図版と観光交流センターに展示されていた模型の写真を掲載します。

天王川公園H

富貴の港

 尾張と三河の境に文字通りの 「境川」 が流れ、衣浦湾に流れ込んでいる。衣浦湾三河側の碧南・高浜と知多半島側の半田・武豊一帯の港湾を 「衣浦港」 という。その中で武豊港は、海が荒れることなく水深も深いことから、自然の良港として古くから発展してきた。
 明治になって、国鉄東海道線敷設のための資材運搬用に、武豊港と熱田駅とをつなぐ武豊線が開通している。かつては港まで列車が走っていたが、現在は武豊駅から先は廃線となっている。(平成25年4月2日の本ブログ「武豊停車場と転車台」参照)

富貴マップ

 武豊の南にある富貴の港は、現在ヨットハーバーとして利用されている。このハーバーは、持ち主による自主管理により運営されていて、80艘のヨットが繋留されている。ハーバーの南には新江川 ① が注ぎ、北には新川 ② が流入している。それぞれの河口部には、高潮などを防ぐための樋門・水門が設置されている。
 富貴の地には浦島伝説があって、この海岸から浦島太郎が竜宮城へ行ったのだ伝えられている。今はほとんど見られないが、かつては松の美しい白浜があったという。その昔話を記念して、浦島橋 ③ ・乙姫橋 ④ 2本の橋が架かっている。

富貴G

中川口通船門

 中川運河は昭和5年、名古屋港と名古屋駅の貨物停車場 (旧笹島駅) とを結ぶ運河として誕生した。明治末期以降、名古屋港の貨物輸送は急激に増えており、水上交通路の強化が急務となっていたのである。全長約10km、幅は60~90m、水深は約3mの閘門式・開削運河である。
 中川運河の河口と名古屋港では、1~2mの水位差があるので、船を通航させるには閘門が必要である。その装置が 「通船門」 であり、昭和5年に第一閘門が整備された。最盛期には、通過するために10時間も待たされることがあり、昭和38年に第二閘門が増設された。その構造は、観音開きのマイターゲート式となっている。

中川通船門マップ

 物流の主役がトラック主体となった現在では、平成3年に第一閘門が閉鎖され、第二閘門だけの運用となっている (上の写真①)。 写真の中央 (②) は、中川口ポンプ所で、5基のポンプにより運河側の水を海側へ排水する設備である。右 (③) は、水位調整用の取水門で7門の扉からなっている。昭和48年に排水用として整備されたが、平成2年からは浄化用として使用されている。
 下の写真と図は、名古屋港管理組合のホームページからお借りした。「名古屋版ミニチュアのパナマ運河」 とも呼ばれているが、その様子がよく分かる図版である。
 近年、沿岸用地の新たな利用を展開しようとする 「中川運河再生計画」 が始まっている。

中川通船門G


菖蒲湯

堀川口防潮水門

 堀川は、名古屋城築城時の資材運搬用に開削された運河である。慶長15年 (1610)、徳川家康の命により福島正則が工事を行った。延長は約16km、現在は庄内川水系の1級河川に位置づけられている。昭和34年 (1959) の伊勢湾台風の折には、高潮が堀川を溯上して沿岸に甚大な被害が生じた。
 災害後の復旧・改良事業において、堀川沿岸には川岸いっぱいまで建物が建てられていることから、川岸に防潮堤を新設することは難しい。そこで、河口部に防潮水門を造ることにより被害を防ごうとした。昭和39年8月に完成したのが 「堀川口防潮水門」 である。

堀川口水門マップ

 水門は、名四国道が堀川を跨ぐ 「港新橋」 の下流に位置し、4つのゲートがある。常時は開放されていて、どんな高さの船舶でも航行することができる。高潮や津波の発生時には、下の写真で見るような横向きのジャッキにより扉を閉じる構造になっている。
 平成24年の新聞記事によると、南海トラフ大地震などによる津波には充分に耐えられない恐れがあるという。名港管理組合の発表によると、もともと徐々に水位の上がる高潮を想定して建設された施設であるため、急激に押寄せる津波では変形して閉めることができなくなるかもしれないというのである。補強対策を検討するとあるが、現地を見たところ、水門に続くコンクリート堤防に亀裂が入っており、早期の対策が必要であると考える。

堀川口水門G

名古屋港の高潮防波堤

 昭和34年 (1959) の伊勢湾台風では、5千人近くの犠牲者を出したが、その多くは高潮による水死者であった。最大風速75m、最低気圧は895hPaという猛烈な台風で、紀伊半島から伊勢湾を通り、能登半島へぬけるというコースも最悪であった。
 伊勢湾に到達した時刻も悪く、ちょうど大潮の満潮時に重なっていた。海面は低気圧により吸い上げられ、南から吹き付ける強風のため、高波が伊勢湾北部に押し寄せてきた。さらに悪いことに、この湾はV字型をしているので、押し寄せた海水が折り重なるように堤防を乗り越えたのである。

高潮防波堤マップ

 この反省を踏まえ、災害復興の中で 「高潮防波堤」 が建設された。これは、名古屋港の入口を横切るもので、船舶の通り道は開けながら、西から 「鍋田堤」 「中央堤」 「知多堤」 の3本からなるものである。中央にあるポートアイランドもその一翼を成している。総延長は7.6km、海面からの高さは6.5mであった。
 ところが、建設後50年を経た現在、堤防は老朽化し地盤沈下を起こしているところも出てきた。
今後予想される台風による高潮や、南海トラフ巨大地震による津波を考えて、2017年までに補強工事が行なわれた。これにより、防波堤の高さはNP8.0mということとなり、名古屋港の主要部分はより防護されることとなった。ただ、これで全ての備えができたわけではなく、防波堤より外の区域や河川への遡上などによる被害も予測され、さらなる防災対策が必要と考えられている。

高潮防波堤G

名古屋港のガントリークレーン

 名古屋港を船で一周する機会があった。普段は陸の埠頭から、あるいは高速道路を走りながら港の風景を見ることはあるが、海側から見ることはあまりない。伊勢湾岸道路に架かる名港トリトン西大橋 (今年3月12日の記事参照) も、船から見ると全く違う印象を受ける。
 コンテナ埠頭の岸壁に高々と聳えるクレーンを見る度に、いつも、動物園で見るキリンに似ていると思う。キリンはいつも数匹が並んでいて、天敵に対する警戒心からか、遠くを監視しているような姿勢をしている。港のクレーンも長い4本の足と首を持ち、真っ直ぐ遠くを見るような首の角度までキリンそっくりである。

名港マップ

 近年、船での貨物輸送は、鋼鉄の箱・コンテナにより行なうのが普通である。コンテナの大きさは20フィート (6m) と40フィート(12m) のものがほとんどである。荷物を個々に梱包していた時代に比べると、一括して荷降ろしし、さらにそのままトレーラーに乗せかえることのできるこの方式は、格段に作業効率がよくなっている。
 コンテナを、船から降ろしたり載せたりするには長いアームのクレーンが必要であり、この機械をガントリークレーンという。名古屋港のコンテナ埠頭へ入港する貨物船は、ますます大型化しているので、接岸する海も深くする必要があるし、クレーンも大型化することが求められている。
 東山動物園のキリンの写真が保存してあるのを思い出し、並べてみると、さらに両者が似ていることが確信できる。

名港G

川原町の鵜飼舟と屋根神様

 鵜飼といえば長良川の岐阜か、木曽川の犬山が有名である。ここでは、1300年前から行なわれている古い漁法だという。織田信長も鵜飼を好み、「鵜匠」 という名を付けたのは信長だという説もある。江戸時代には尾張徳川家も、将軍家に鮎を献上するために保護していたという。松尾芭蕉は “おもしろうてやがて悲しき鵜飼かな” という有名な句を残しており、チャップリンも2度に亘ってここを訪れ、“ワンダフル” を連発したという。
 川原町の湊に、屋形船が並んでいる。鵜匠は、かがり火を焚いた鵜舟に乗り、10~12羽の鵜を見事な手さばきで操って鮎を捕らえる。観光客は屋形船に乗り込んで、鵜舟に並走する形で追いかけ、その幻想的な絵巻を見ることができる。長良川温泉街の一角に 「鵜匠の家」 がある。その玄関近くには 「鵜小屋」 があり、板塀には古くなった 「船べり」 が貼り付けてあった。

鵜飼G

 格子戸のある古い町屋を見て回るうちに、通りに面する屋根の上に祠が祀ってあるのを見つけた (下左側の写真)。これは、「屋根神様」 と親しげに呼ばれており、名古屋の西区などでもよく見られるものである (下右側は西区四間道での写真)。秋葉神社・津島神社・伊勢神宮などが祀られているが、3つ合わせて祀るところもある。近隣など狭い範囲の人々の神社であることが多い。
 各種の解説によると、地上に置く土地が得られないために屋根に上げたのだろうと説明されているが、私は、洪水時に水害に遭わないよう高所に置いているのではないかと睨んでいる。この川原町も水害が多かったと思われるし、名古屋の西区のものは、清洲越しにより、水害の多かった清洲の町屋がそのままの伝統を持ち込んだと言えば説明しやすい。この私の仮説は、一度きちんと調べてみたいと思っている。

鵜飼H

上有知湊と曽代用水

 高山城主・金森長近は、慶長6年 (1601) に小倉山城を築き、城下町 「上有知 (こうづち)」 をつくった。その繁栄策として、上有知湊を開き、40艘の舟を置いて水運の拠点とした。この湊は、美濃国・四大川湊として栄え、明治末年に電車が開通するまでは物流の要点であった。
 現在も、川面まで降りる玉石の階段が残っており、石積みの上には灯台が古の面影を守っている。この灯台は、水の守護神・住吉神社の献灯を兼ねていて「住吉灯台」と呼ばれている。江戸末期に建てられたもので、川湊に現存する灯台として全国的にも珍しい貴重な建造物である。
湊と用水A

 上有知湊と小倉山の間に、綺麗な水の 「曽代 (そだい) 用水」 が流れている。江戸時代初期に移住してきた尾張藩出身の喜田氏・林氏と地元の豪農柴山氏が農業の発展を願い、私財すべてを費やして建造したものである。長良川から取水し、美濃から関に至る延長17km、農地約1000haをうるおす農業用水である。建設から350年に亘って地域農業を支え、今なお重要な施設として維持管理されていることや、江戸時代に農民主導で建設されたことが評価されて、平成27年に 「世界かんがい施設遺産」 に指定された。
 このあたりの清流長良川では、子供たちの水遊びが盛んであるが、その反面、痛ましい水の犠牲者も多かった。湊近くには 「川端地蔵」 が立っていて、水難者の霊を慰めるとともに、二度と不幸な事故が起きないようにとの願いをこめて佇んでいる。

湊と用水B

沼津港と魚市場

 沼津港は、狩野川が駿河湾に注ぐ最下流部に古くから栄えた港である。昭和8年に、主として漁船が停泊する 「内港」 が完成し、その外側に大型船が寄港できる「外港」が昭和45年に造成された。内港と外港との間に、大型水門 「びゅうお」 ができあがったのは平成16年のことである。。
 「びゅうお」 は津波に備えるための水門で、東海沖地震などの際には470トンもの重い扉が閉められることになっている。高さ32mの2つのタワーを結ぶガラス張りの回廊は、港湾・千本松原・遠くは富士山まで眺めることのできる展望台になっている。

沼津港マップ

 沼津港の漁獲量は、静岡県内では清水港に続いて2位、全国でも20番以内を保っている。その中でもアジの干物は、昔から特に有名である。現在はそれに加え、金目鯛・かます・ホッケの干物、イカの一夜干しなどが人気で、干物の生産高では全国1位を誇っている。港の東側、狩野川沿いに魚の市場や料理店が並んでいる。また、全国でも珍しい 「深海水族館」 もあって、観光目的や買物目的の観光バス、乗用車で賑わっている。

沼津港D

清水港と次郎長生家

 清水港は、富士山を仰ぎ、三保の松原に囲まれた風光明媚な港で、長崎、神戸とともに日本三大美港と賞せられている。最近では、三保の松原が世界遺産に含まれることとなったこともあり、貿易一辺倒でなく、クルーズ船など観光目的の寄港も比重が大きくなっている。
 この港の歴史はとても古く、「日本書紀」 にも、白村江の戦い (天智2年=663) において清水湊から百済に向かって軍船が出港したと記されている。16世紀には、駿河に侵攻した武田氏が水軍の基地としたといい、徳川家康も戦略の拠点にしたという。江戸時代になると、甲斐や信濃の年貢が集められ、江戸へ回送する港として利用された。

清水港マップ

 明治初年、未だ蒸気船などを嫌う時代に、人々を説きまわって清水を開港場としたのは、清水次郎長である。彼は侠客として名高いが、富士の裾野を開墾したり、江戸から英語教師を招いて青年に教え始めるなど、時代の先覚者でもあった。清水港近くには、生家が残されており、菩提寺の梅蔭禅寺には、次郎長の墓や彫像とともに記念館が建てられている。

清水港M

富士山静岡空港

 島田市と牧之原市に跨る広大な台地に新しくできた、地方管理の空港である。正式名称は静岡空港であるが、愛称の富士山静岡空港と呼ばれることが多い。静岡県民の望み叶って開港したのは、平成21年のことである。1900億円の巨費が投じられ、2500mの滑走路とガラス張りのターミナルビルをもつ空港である。
 現在は13路線、週47便の発着がある。計画では国内便を多く見込んでいたが、関東・関西のちょうど真中に位置することもあって、中国などからの国際便の方が多くの人を運んでいる。昨年は約70万人の旅行客が利用した。

静岡空港マップ

 空港の真下を東海道新幹線が走っている。地元の願いは、空港近くに新幹線の駅をつくることだという。訪れた日は天気がよく、真っ青な空の下にターミナルビルと管制塔が銀色に輝いていた。ちょうど中国東方航空の旅客機が飛び立つところを見た。一瞬のチャンスを逃さぬカメラワークで、富士山と飛行機を同一画面に捉えることができた。

静岡空港D

舞阪漁港と津波避難施設

 浜名湖は、古くは 「遠津淡海 (とおつあわうみ) 」 と呼ばれていた。琵琶湖 (近江) より遠くにある淡水湖の意味で 「遠江 (とおとうみ) 」 の語源でもある。ところが、明応7年 (1498) に発生した大地震と津波により、湖と海とを隔てていた砂堤が決壊して、塩水と淡水が混ざり合う汽水湖になってしまった。決壊した場所は “今切れた” という意味の 「今切(いまぎれ)」 と呼ばれている。現在、浜名湖大橋の架かっている所である。

舞坂漁港マップ

 天竜川や浜名湖の真水が混ざる遠州灘は、植物性や動物性のプランクトンが豊富なため、それをねらう魚が集まってくる。特にマイワシやカタクチイワシの稚魚 「シラス」 は、漁獲高日本一である。天然塩と太陽光により生産される 「シラス干し」 は、新鮮で特別に美味だという。
 舞阪港の東、脇本陣の直ぐ前に、津波避難施設が設置されていた。東海沖地震や南海トラフ地震での被害を少しでも回避しようとの対策である。標識には、海抜3.4mと記してあり、施設の高さ10.5mと合わせて13.9mの屋上へ避難することになる。

舞坂漁港地震

新居関所と今切渡船場

 三河国と遠江国の境界を流れる 「境川」 を渡ると、いよいよ静岡県である。白須賀宿を越え、新居宿を過ぎると遠江 (浜名湖) を船で渡ることになる。その手前で関所を通らなければならない。新居関所という。まず枡形に掲げられた高札を読み、次に瓦葺の大御門をくぐる。
 関所を通行するには、通行手形 (証文、切手ともいう) が必要である。大御門の左手に面番所があり、ここで関所役人の取調べを受ける。江戸幕府は、「入り鉄砲と出女」 を特別厳重に監視していた。すなわち、武器が江戸へ持ち込まれることと、江戸に住む大名の奥方が国許へ帰ることを取り締まったのである。そのための 「女改(おんなあらため)長屋」 という部屋も用意されていた。

新居宿マップ

 この関所は、関が原の戦い直後の慶長5年 (1600) に設置された。当初は、今より少し南側に建てられたが、度重なる災害により2度の移転を繰り返した。現在の建物は安政2年 (1855) に建てられたもので、明治2年 (1869) に廃止されるまで使われてきた。その後は小学校や役場として利用されてきたが、昭和46年に解体修理を行い展示館として公開されている。今では現存する唯一の関所建物として、国の特別史跡に指定されている。
 関所の通過を許されると、いよいよ 「今切の渡船場」 から渡し舟に乗ることになる。対岸は、舞坂渡船場、舞坂宿である。

新居宿B

豊橋市「牛川の渡し」

 道路が川にぶつかると、通常は橋を架ける。しかし、江戸時代には、技術的な問題や戦略上の理由で橋がなく、渡し舟で往来するところがあった。そんな古の雰囲気を今も味わえる渡船場がある。豊橋市の豊川 (一級河川) を渡る 「牛川の渡し」 である。
 この路線はれっきとした道路で、「市道大村町・牛川町175号線」 という名前がついている。道路であるからして、一年中休みはない。ただし、時間は4月~9月は夕方6時まで、10月から3月までは5時までとなっている。船頭さんはこの職について以来、1日も休んだことがないという。

牛川の渡し

 舟は昔ながらの 「竿」 で漕ぐ。起源は平安時代ともいわれているので、1000年も前から変わっていないのかも知れない。小高い樹林の中に船頭さんの待機所があり、お客は 「船よび板」 を木槌でたたいて呼ぶのである。洪水などの危険がある悪天候を除いて、毎日50~60人が乗船する。中には情報を知って日本各地から尋ねてくる人もあるという。自転車の乗船も可能である。

牛川の渡しA

宮の渡し

                                            【再掲:2013・03・05】 
 「宮」とは熱田、「宮の渡し」とは熱田湊のこと。ここから桑名の渡しまでは東海道唯一の海路で、「七里の渡し」とも呼ばれた。天候による足止めなどもあるため、熱田の宿と桑名の宿は、旅籠の数など全国一二の規模であったという。
 有名な安藤(歌川)広重の「東海道五拾三次」の浮世絵でも、「宮」は港の風景として描かれている。帆船や岸壁の石積みなどが描かれる中、右端には常夜灯や熱田神宮の浜鳥居が描かれ、当時の様子を彷彿とさせている。下方に描かれている城郭風の建築物は「浜御殿」である。

宮の宿1

 現在この地は、堀川と新堀川が合流して名古屋港へと流れる交差点であり、歴史公園「宮の渡し公園」となっている。この公園には、昭和30年に復元されたという「常夜灯」が今も残っている。その隣に聳えている鐘楼は、「時の鐘」という。時の鐘は旅人に正確な時刻を知らせるため、尾張二代藩主光友の命により、熱田神宮南に隣接する蔵福寺に設置されたものである。昭和20年の戦火により消失してしまったが、昭和58年に場所を移してこの公園に復元された。

宮の宿2

東海道 桑名宿

 東海道本線や名神高速道路が名古屋から岐阜へ上がり、関が原を抜けて京都・大阪へ向かうので、このルートが “東海道” と思いがちである。しかし、元々の東海道はもっと南を通っている。名古屋熱田湊 (宮の宿) から舟で桑名まで渡り ( 「七里の渡し」 という) 亀山を経由するルートであり、現在整備中の新名神高速道路がこれに近い。関が原は、旧中山道の通過点である。

桑名A

 桑名宿も熱田宿 (昨年3月5日付けのブログ参照) 同様に、渡し舟を待つ旅人で賑わっていた。湊の西には舟番所や高札場が、南側には舟会所や人馬問屋などがあり、大名などが泊まる本陣もあった。しかし、昭和34年の伊勢湾台風により大被害を受け、港の外側に堤防が築かれたので、今では江戸時代と大きく異なる風景を見せている。
 「宮の渡し」 には熱田神宮の最初の鳥居が立っていたが、「桑名の湊」 には伊勢神宮への第一の鳥居が立っている。江戸方面からはるばるお伊勢参りに来た旅人が、伊勢の国に到着して最初にくぐる鳥居である。これは、宇治橋の外側に使われていた鳥居を再利用している。外宮古殿の棟持柱が、遷宮から20年後に3度目のお役に立つこととなるのである

桑名マップ

てらまち大浜

 大浜漁港の周辺には、お寺や蔵、黒塀にはさまれた路地などの古い町並みがある。明和5年 (1768) に1万3千石取りの水野忠友がこの地に陣屋を構えるなど、碧南の中心地として栄えてきた。大浜港は、漁港としてだけでなくこの地域特産 「三州瓦」 の積出し港でもあった。また、矢作川の良質な水を利用して、みりん・酒・しょうゆ・たまり・味噌などの醸造業も発展した。

てらまち大浜A

 この地区のほぼ中央に、新しい美術館が建っている。平成20年に開館した 「藤井達吉現代美術館」 である。地元出身の美術工芸家・藤井達吉の作品を常設展示するほか、各種の企画展を開催する。この美術館の建物は、現代風でありながら周辺の町並みとしっくり馴染んでいる。館内レストランのガラス窓は、向かい側の西方寺太鼓堂を景色としながら、天井からは新宮晋の “動く彫刻” が飾られていて、古風と現代とが見事にマッチしている。

てらまち大浜マップ

碧南の高潮防波堤

 昭和34年9月26日、東海地方は未曾有の大災害に見舞われた。5000人を越える犠牲者を出した伊勢湾台風である。この台風では、高潮による家屋の流失が大きかった。台風の低い気圧が、おりから満潮時だった海水を持ち上げ、さらに、V字型をした伊勢湾に向かって吹き付けた強風が海水を押し上げたのである。名古屋市南部を中心に大被害となった。
 知多半島と西三河に挟まれた衣浦湾でも同様な現象が起こり、半田や碧南に大きな被害が出た。堤防をはるかに越えた海水が沿岸部に襲い掛かったのである。

碧南 A

 伊勢湾台風から4年後の昭和38年、碧南の大浜地区に 「高潮防波堤」 が完成した。二度と高潮による災害が起こらないようにとの対策事業である。これにより、大浜漁港を中心に発展した古い町並み 「大浜てらまち地区」 は、高潮から守られることとなったのである。
 堤外地の埋立地には臨海公園が整備され、臨海体育館 (写真) や碧南海浜水族館、青少年海の科学館などが設置されている。また、その南には衣浦海底トンネルがあり、半田市と行き来することができるようになっている。

碧南 マップ

焼津漁港の運河

 焼津は古くから漁業が盛んで、江戸時代にはすでに相当規模の漁港が形成されていた。明治になって、石油発動機付きの漁船が導入されると、漁場も黒潮流域の彼方にまで広がっていった。さらに昭和には、大型カツオ漁船が進水するなど東洋一の遠洋漁業の基地として栄えるようになる。現在も水揚げ高では、全国一二を争う漁港である。
 海岸線に平行して、1本の運河が走っている。これは、魚や物資を運搬するために、元禄13年(1700)に掘られたものだという。海岸と運河に挟まれた町並みを 「浜通り」 という。ここには、カツオのなまり節などを作る水産加工屋さんが軒を並べている。

焼津 マップ

 一軒のお店の玄関に、不思議な構造物を見つけた。お店の人にお伺いすると、台風などの高潮のときに海水が家屋の中まで浸入しないようにする「板堰」だという。わざわざ板を持ってきて、実際に行うように設置して見せてくれた。

焼津港A

四日市旧港 潮吹き防波堤

 四日市旧港の沖側 (西側) に長さ約200mの防波堤がある。この堤防は特殊な形状をしていて、「潮吹き防波堤 」と呼ばれている。その構造は、高さ3.7mの小堤防と4.7mの大堤防が二重になっており、大堤防には49個の水抜き穴が開いている。台風など大きな波が押し寄せると、大小堤防の間にある溝に海水が入り、五角形の穴から噴出することにより水の勢力を弱めるのである。

潮吹き防波堤 機能図

 この堤防は明治27年 (1894) の、大改修のときに造成された。オランダから来日したお雇い外国人 (内務省技術顧問) ヨハニス・デ・レーケ (1842~1913) の設計と言われている。デ・レーケは30年以上も日本に留まり、全国各地に砂防や治山の土木施設を残している。この地域では、木曽三川の分流工事や中津川の巨石積み堰堤などが有名である。施工は三河の技師服部長七 (1840~1919) が行い、いわゆる 「長七たたき」 により自然石を固めている。

潮吹き堤防2

 現在は、防波堤のさらに沖側が埋め立てられているため、「潮吹き」 を見ることはできない。平成8年、他の港湾施設とともに国の重要文化財に指定された。

潮吹き防波堤 マップ


四日市旧港港湾施設

 四日市港は、江戸時代から伊勢湾の代表的な港として栄えていた。明治になると東京との間に航路が開設されたが、次第に土砂が堆積して汽船の入港が困難になってきた。そこで、四日市の廻船問屋稲葉三右衛門は、私財を投じて港湾の整備を行ったのである。
 明治6年から17年にかけて、約4.6haを埋め立て、半円形防波堤に囲まれた水深2.4m、延長400mの埠頭をもつ港湾を完成したのである。

四日市港A

 その後、明治21年から2年続いた暴風雨により、大きな被害を受けたので同26年から27年にかけて修築が行われた。このときに築造されたのが全長199mの湾曲した 「潮吹き防波堤」 と全長77mの直線の防波堤である。施工は服部長七が行った。この港湾施設は、全国的にみても明治時代の姿をよく残し、我が国の築港技術の近代化課程をよく示すものとして、平成8年に国の重要文化財に指定された。

四日市港B

宮の渡し

 笠寺から東海道を上ると、次の宿場町は「宮」である。宮とは熱田神宮、宮の渡しとは熱田湊のこと。ここから桑名の渡しまでは東海道唯一の海路で、「七里の渡し」とも呼ばれた。天候による足止めなどもあるため、熱田の宿と桑名の宿は、旅籠の数など全国一二の規模であったという。
 有名な歌川(安藤)広重の「東海道五拾三次」の浮世絵にも、「宮」は港の風景として描かれている。帆船や岸壁の石積みなどが描かれる中、右端には常夜灯や熱田神宮の浜鳥居が描かれ、当時の様子を彷彿とさせている。下方に描かれている城郭風の建築物は「浜御殿」である。

800px-Hiroshige,_View_of_a_harbour

 現在この地は、堀川と新堀川が合流して名古屋港へと流れる交差点であり、歴史公園「宮の渡し公園」となっている。この公園には、昭和30年に復元されたという「常夜灯」(左の写真)が今も残っている。その隣に聳えている鐘楼は、「時の鐘」(右の写真)という。時の鐘は旅人に正確な時刻を知らせるため、尾張二代藩主徳川光友の命により、熱田神宮南に隣接する蔵福寺に設置されたものである。昭和20年の戦火により消失してしまったが、昭和58年に場所を移してこの公園に復元された。

常夜灯

宮の渡しマップ
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 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
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