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名鉄山崎川橋梁と陸閘門

 山崎川の下流域では、たびたび氾濫が起こっている。名鉄呼続駅あたりの海抜は約2mである。伊勢湾台風のような高潮や、今後予想される南海トラフ大地震による津波が発生すれば、大きな災害が起こることも懸念されている。
 名鉄本線の橋梁が山崎川に架けられたのは大正6年(1917)のことである。その後、山崎川の堤防は氾濫対策として嵩上げされた。しかし、山崎川橋梁はそのままの高さであったので、線路から逸水する危険があった。昭和39年(1964)にその対策として造られたのが「陸閘門」である。

名鉄H

 洪水の危険性が高まると、線路をゲートにより閉鎖して水を防ぐ装置である。もちろん左岸・右岸両方に設置されている。現地に設置された表示板によれば、ゲートの長さは9.55m、高さは1.0m、重量は3.3トンである。
 陸閘門が閉鎖されれば、電車は通行止めとなって乗客への影響は大きい。1990年から2018年までの28年間に、16回もの閉鎖があったという。名古屋市には、山崎川から天白川までの名鉄本線を高架化する計画がある。

名鉄G

JR飯田線・浦川駅

 最近はとんとご無沙汰ですが、飯田線はよく利用しました。妻の実家が温田駅近くにあり、里帰りや夏の避暑のために子供を連れて乗ったのです。その頃は急行が何本かあり、車内販売も廻ってきました。新城から先は山岳地帯なので、トンネルと橋梁の連続です。とにかく景色の良い路線です。
 飯田線が開通したのは明治30年、全通したのは昭和12年のことです。起点の豊橋から終点の辰野まで約196km、その間に94の駅があります。住民にとって重要な交通機関なので、各集落に1つの駅ができました。駅と駅の平均距離は2.1kmと短く、市街地の路線並みです。

 この路線は連結していたものの、もともとは4つの私鉄に分かれていました。豊川鉄道・鳳来寺鉄道・三信鉄道・伊那電気鐵道です。天竜川は早くから電源開発が行われたため、その資材を運ぶのに利用されました。第二次大戦中に国有化が図られ、一体的な運営が行われるようになりました。
 浦川の町は、合併により浜松市に属し、天竜区佐久間町浦川というのが正式名称です。この集落は、かつては木材生産で活気があり、料理屋・映画館・喫茶店やビリーヤード場までが並んでいたそうです。今は静かな住宅地であり、浦川駅の乗客も1日100人に満たないそうです。

浦川マップ

下呂駅と六見橋

 中山七里の終点はこの辺り。川幅も広く、堆積平野も広大である。豊富な温泉が湧くので有名な観光地となった。「日本三大名泉」に数えられる「下呂温泉」である。ただ、湯壺が川底にあり、水害の度に逸失してしまうので、温泉街として確立したのは源泉が技術的に安定した大正時代以降という。
 国鉄高山線が下呂まで延伸したのは昭和5年(1930)、交通の便ができて観光熱は一層高まった。下呂駅は終着駅として開業した。島式も含め3線のプラットホームがあり、跨線橋で渡る。木造平屋の駅舎とともに、建設当初の雰囲気を保っている。

下呂駅G

 下呂駅より600mほど下流に「六見橋(ろくみばし)」がある。架橋は昭和6年、高山線の開通と期を合わせている。鉄道線路が右岸にあるので、左岸側の湯之島地区への行き来を図ったのであろう。この地には、それ以前に吊り橋があり、さらにその前は「塚田の渡し」という渡船場があった。
 型式は2連の弓弦状アーチトラス、細い部材で構成されているので瀟洒な雰囲気である。現在は県営であるが、建設は下呂町(当時)が行った。昭和の時代は鉄道による観光客も多かったが、道路整備が進んだ近年は激減し、下呂駅の乗降客は1日1000人以下、観光客はその20%ほどという。

下呂駅H

高山線・白川口駅と名倉ダム

 「JR高山本線」は、岐阜と高山を結んでいる。開業の歴史は・・・「高山線」は大正9年(1920)に岐阜から小坂まで、そして徐々に北上。北からは「飛越線」として昭和2年に富山から越中八尾まで、徐々に南下。全線が開通したのは昭和9年のことである。
 白川口駅は、木造平屋の可愛らしい建物である。大正15年に上麻布から延伸したとき、その終着駅として開業した。加茂郡「白川町」は、合掌造りで有名な「飛騨・白川村」と紛らわしいが、こちらは美濃の国に属す。北のはずれに、美濃と飛騨の国境がある。人口7千人ほどの町である。

高山線G

 白川口駅と飛騨金山駅との間に、「名倉ダム」がある。ダムとは言うものの、高さの低い取水用の堰堤である。6km下流の名倉発電所まで送水して発電する。落差は約35m、出力は約2万kwである。昭和11年に運用を開始した。
 水門の上部にアーチトラスの鉄橋があり、管理用通路となっている。国道から階段があって、一般の人も通行することができる。対岸の住民の便宜を考えてのことだろう。狭い通路は一部がトンネルになっている。前回の上麻布ダムのところで記した「ローリング・ゲート」の「ドラム」を間近に見ることができる。

高山線H

瀬戸電(お堀電車)

 外堀の最も西南、堀川・景雲橋の近くに土塁の断面がはっきり見える場所がある。御園橋から100mほど歩いたところである。ここに、かつて瀬戸電の終点「堀川駅」があった。現在は、名城公園の一部であり、綺麗に草刈りがしてある。
 瀬戸電(現在は名鉄瀬戸線)は、明治38年(1905)に瀬戸駅から矢田駅までの区間が開通した。瀬戸で作られた焼き物の輸送をするためである。翌年大曽根駅まで延伸され、さらに明治44年に堀川の水運を利用するために、この地まで整備されたのである。

瀬戸電マップ

 土塁の脇に説明看板があり、平面図と2枚の古い写真が掲載されている。1枚は堀川駅の駅舎と電車が写っており、もう1枚は瀬戸物を船に積み込む様子が見てとれる。当時焼き物は、輸出品の花形であり、ここから堀川を下って名古屋港まで運ばれたのである。
 時代が変わって、水運からトラック輸送が主流となった昭和53年、瀬戸線はコースを変えて栄町駅に乗り入れることとなった。東大手駅からは地下トンネルとなり、堀川駅までは廃止となった。全国的にも珍しいお堀の中を走る電車「お堀電車」は、見られなくなってしまった。

瀬戸電G

養老鉄道・養老駅と牧田橋梁保存展示

 養老鉄道・養老線は、岐阜県・揖斐駅から養老駅を経由して三重県・桑名駅に至る57.5kmのローカル線である。大正2年(1913)に大垣に近い池野駅~養老駅が開通した。桑名駅まで延伸したのは大正8年になってからである。その年に駅舎の改築が行われ、現在の建物となった。
 木造平屋建て日本瓦葺き、正面玄関は入母屋屋根である。全体に和風の建物だが、屋根に尖塔をもつ丸窓がある。当時の風潮「大正ロマン」を表現しているのだろうか。観光客のために線路を大きく迂回させるほど人気があった「養老の滝」、その最寄り駅としてデザインに力が入っている。

養老駅マップ

 長い間近鉄が運営していたが、平成19年(2007)からは養老鉄道株式会社が経営している。自転車も乗せられるサイクルトレインや「薬膳列車」など魅力づくりに取り組んでいる。駅のホームに養老のシンボル「瓢箪」が吊るしてあった。(2015・1・9参照)
 鳥江駅の線路脇に古い橋梁の一部が保存展示されている。「牧田橋梁」という。これは、明治21年(1888)に英国パテント・シャフト社で造られたもの(揖斐川橋梁と同じ)で、当初は東海道線で使われていた。大正2年に、養老線に払い下げられたものである。平成9年の牧田川改修に伴い撤去され、、その一部が保存展示されているのである。

養老駅G

岩村の城下町

 岩村へ行くには、明知鉄道を使うのが楽しい。中央線で恵那まで行き、明知鉄道に乗り替える。岐阜県には、樽見鉄道・長良川鉄道・養老鉄道そして明知鉄道と4つのローカル鉄道があり、「ぎふローカル鉄道」という連絡会議をつくって活性化に努めている。車体に企業広告のラッピングがしてあった。
 岩村の城下町は、近世以来、商業活動の中心地として栄えた商家群の町並みである。重厚な塗屋造りの主屋やなまこ壁の土蔵などが、往時の繁栄を物語っている。伝統的建造物群保存地区に指定されている。通りの中ほどに造り酒屋があって、シンボルともいう杉玉や背丈ほどもある大甕が飾ってあった。

岩村の城下町マップ

 一軒の町屋で、何やら工事が行われている。土台を地面から切り離し、ジャッキで持ち上げている。よく、建物を移動する「曳き屋」に用いられる工法だが、どうもここは移動ではなくて基礎の補強を行うようである。持ち上げておいて頑丈なコンクリート基礎を造るのだろう。耐震補強かもしれない。
 どこかのテレビ局の取材ロケ班が、町屋の商店を撮影していた。“古い町並み”での食事やショッピングを紹介する番組であろうか?ディレクター・カメラマン・音声さん・照明用のレフを持った人など、テレビ画面に登場するゲストや司会者以外の人の働きが良い番組に繋がるのだと思う。

季節通信115ラベンダー

新交通システム「ガイドウェイバス」

 大曽根駅から砂田橋方面へ向かって高架道路が走っている。これは高速道路ではなく、路線バス専用の高架橋である。バスは「ガイドウェイバス」という新交通システムである。バスに装着された「案内輪」(下左の写真)により、「ガイドレール」(下中)という専用軌道に沿って走行する。「ゆとりーとライン」という愛称で、平成13年(2001)に開通した。
 バスの運転手は、ハンドルに手を触れることのない半自動で運転する。高架道路は、大曽根を起点として庄内川を渡り、小幡緑地まで続く。上左の写真は大曽根のバス回転場、右は小幡緑地駅で、最寄りに守山スポーツセンターがある。駅の乗り場には、エレベーターで昇り降りする。

ガイドウェイバスマップ

 バスは、小幡緑地駅から斜路により地上の一般道路へ降りる。ここからは普通の路線バスに様変わりする。龍泉寺から高蔵寺まで、志段味方面を廻るルートもある。この2面性が新しい方式であり、メリットでもある。従前は、小幡から大曽根までは渋滞により1時間以上もかかることがあった。今は専用軌道を13分で通過することができる。
 このガイドウェイという方式は、ドイツで初めて採用されたという。しかし高架の専用レーンをもつのは名古屋が最初で唯一である。これまでの交通手段はJR中央線と名鉄瀬戸線に頼っていたが、新システムによって志段味へは格段に便利になった。志段味は、大規模な区画整理が進行中である。

季節通信113ウバユリ




国鉄「武豊線」あれこれ

 先月の6月5日に、半田駅の跨線橋が撤去された。駅舎とホームをつなぐ階段と橋である。建設されたのは明治43年(1910)、日本最古の跨線橋と言われていた。惜しむ声も多かったが、路線の高架化事業が始まるので止むを得ないのであろう。駅前公園への移転が決まっているという。

半田駅再掲

 もう一つ最古の施設は、亀崎駅である。武豊線開通とともに建てられたというので、明治19年(1886)以来の建物である。武豊線は、我が国最初の鉄道「新橋―横浜間」(明治5年=1872)からわずか14年後の開通である。これは、東海道線建設のために、武豊港から熱田駅まで資材を運ぶために敷設されたものである。

亀崎駅再掲

 終点の武豊停車場(旧駅)には、転車台が保存されている。機関車の方向を変える装置である。かつてサンフランシスコを訪れたときに、有名なケーブルカーの始終点で、手動で回転させるのを見たことがある。最近では、大井川鐵道の新金谷駅と千頭駅で体験した。

武豊駅再掲

◆「JR最古の跨線橋」・・・2018・6・16参照
◆「亀崎駅」・・・2013・4・9参照
◆「武豊停車場と転車台」・・・2013・4・2参照
◆「新金谷駅のSLターンテーブル」・・・2019・7・25参照
◆「千頭駅の転車台」・・・2019・8・29参照

四日市あすなろう鉄道「内部線」「八王子線」

 近鉄四日市駅に隣接して「あすなろう四日市駅」がある。この駅は、「四日市あすなろう鉄道」(第2種鉄道事業者)が経営する「内部(うつべ)線」「八王子線」、二つの路線の始発駅である。かつては近鉄が運営していたが、平成27年(2015)からは近鉄と四日市市が共同で運営することとなった。
 内部線は、四日市市南部の内部駅まで約6kmの路線である。八王子線は、途中、日永駅から枝分かれして西日野駅までを走る。合わせて9つの駅がある。いずれも、線路幅が762mm(30インチ)の特殊な狭軌の軽便鉄道である。

内部マップ

 このような狭軌道は、全国でも「三岐鉄道・北勢線」と「黒部峡谷・トロッコ電車」だけと珍しい。線路幅も狭いが車両も小ぶりで、横一列の座席両側に人が座ると、真ん中の通路は歩きづらいほどである。しかし、そのことがむしろ、客同士の親密な雰囲気をつくり出すのかも知れない。
 四日市市に合併する前の旧内部村は、内部川流域の農村で野菜などを栽培していた。今もトマトなどの生産をしているが、平成に入って山間部を中心に住宅化が進んでいる。あすなろう鉄道は、ニュータウンに住む人たちの大切な足になっている。

季節通信111ネムノキ

名鉄三河線の廃線敷きと西中金駅

 名鉄三河線は、旧三河鉄道(株)により、大正3年(1914)に南部の刈谷から碧南市大浜まで開通したのが皮切りである。その後、北部へ延伸され、豊田市猿投まで完成したのは大正13年のことであった。さらに、足助までの延長計画が樹立され、西中金までは昭和2年に開通した。
 時は流れ、昭和40年代になりモータリゼーション(死語?)の時代になると、鉄道利用者の減少が始まった。猿投から西中金までは昭和60年からレールバスに変り、平成16年には営業廃止になってしまった。現在は代替の路線バスが走っている。

名鉄三河線

 廃線敷きは、今もレールが敷かれたまま残っている。架線は外されているが、鉄骨の電柱は立ったままである。枕木はないが砕石はそのままで、散歩道として使われている。民家の軒先をかすめながら走っていた三河線の、在りし日の姿を彷彿とさせる景色である。
 終点駅の「西中金駅」の駅舎は、昭和5年建設の切妻屋根木造建築である。平成26年の歩道拡幅工事に伴い2mほど曳家されたが、その際に腐食が激しい材木の取り替えなどの修復が施された。花崗岩の切り石が積まれたプラットホームや線路敷きとともに、国の登録文化財に指定されて保存されている

季節通信88カラスウリ訂正

伊賀鉄道の橋とトンネル

 今年7月、伊賀鉄道の4つの施設が国の登録有形文化財に認定されました。ひとつは9月26日にご紹介した上野市駅舎です。残りの3つは線路の上に架かる橋と下を潜るトンネルです。いずれも大正時代の建設でアンティークな趣を湛えています。
① 桑町跨線橋 総煉瓦造りのアーチ橋です。欄干の煉瓦にも傷んだところがありません。
② 小田拱橋 下部は御影石積み、上部は煉瓦積みです。「拱橋」とはアーチ橋のことを言います。
③ 小田第二暗渠 人だけが潜れる狭いトンネルです。石積みの上に石桁の架かる珍しい構造です。

伊賀鉄道G

JR伊賀上野駅

 JR関西本線で伊賀上野まで行くには、亀山で乗り替える必要がある。亀山まで約1時間、10分ほどの待ち時間があって、さらに小1時間かかる。直通はないものかと調べてみた。亀山まではJR東海、それ以西はJR西日本という違いはあるが、理由は亀山~加茂間が非電化だからであろう。
 関西本線には、古い駅舎がいくつか残っている。柘植駅が最も古く明治23年築、伊賀上野駅と加茂駅は明治30年の開業だという。(ただし、加茂駅は途中で初代駅が焼失したとの記録がある)伊賀上野駅は、シンプルな切妻・瓦葺であるが、落ち着いた雰囲気のある建物だと思った。

伊賀上野駅G

 伊賀上野駅は、JRだけでなく伊賀鉄道の駅舎も兼ねている。伊賀鉄道は伊賀上野から近鉄伊賀神戸まで16.6kmの民間ローカル鉄道である。途中の上野市駅は、伊賀市のメインターミナルとなっている。写真下左は、古レールで造られた跨線橋、停車中の列車は伊賀鉄道の車両である。
 この駅にも、松尾芭蕉のモニュメントがあった。「月宿塚」という石碑である。“月ぞしるへ こなたへ入せ 旅の宿”。芭蕉20歳の時の作で「この明るい月の光が道案内です。どうぞこちらへおいでください。この旅の宿へ。」との意であると説明されていた。

伊賀上野駅マップ

伊賀鉄道上野市駅舎

 伊賀上野を歩くのはこれで3回目だが、これまでの2回は電車での旅だった。JR関西線の「伊賀上野駅」しか降りたことがなかったので、伊賀鉄道に「上野市駅」があることを知らなかった。関西線は町の北方を走っており、上野市駅の方が城や旧市街地に近い所であることを、今回初めて知った。
 「伊賀鉄道・上野市駅舎」は赤い屋根の個性的な建物である。屋根の型式は「ギャンブレル屋根」という。「切妻二段勾配屋根」のことをいうが、途中で折れ曲がっているので「腰折屋根」あるいは将棋の駒に似ているので「駒形切妻」とも呼ぶ。

上野市駅G

 二つの屋根が直角に交差しているので、上から見ると十字形に見える。開業は大正5年(1916)、3階建で伊賀鉄道の本社も入っている。開業時には終点駅であったので、ホームは島式で行違い可能である。令和元年に愛称を「忍者市駅」とした。今年、国の有形登録文化財に認定された。
 駅前の広場は、三重交通のバスターミナルになっている。広場の中央に、台座の高い「松尾芭蕉翁」の銅像が立っていた。駅の東近くに、芭蕉の生家が残っている。広場から南へ向かって、アーケードのある商店街が伸びている。「新天地商店街」と呼ぶ。

上野市駅マップ

JR飯田線「天竜峡駅」

 JR飯田線には長い歴史がある。南からは、明治30年(1897)に豊川鉄道が豊橋・豊川間を開通させたのを皮切りに、鳳来寺鉄道、三信鉄道などの造った路線をつなぎ合わせて、天竜峡駅まで全通したのは昭和12年(1937)のことである。40年の年月がかかっている。
 北からは伊那電気軌道が辰野・松島間を明治42年(1909)に開通させた。その後、社名を伊那電気鉄道と改め、天竜峡まで全通させたのは昭和2年(1927)のことである。こちらも20年近い。各社の所有していた路線が国有化され、国鉄「飯田線」となったのは昭和18年(1943)のことである。

飯田線G

一方名古屋と東京を結ぶ中央線は、明治22年(1909)に建設が始まり、こちらも昭和2年(1927)に全通している。路線は伊那谷でなく木曽谷が選ばれ、塩尻まで北上して甲府・東京へとつながってゆく。当時は中央・南の高いアルプスを越えることができなかったためと思われる。
 トンネル掘削技術の進歩した現在では、新しいリニア新幹線はアルプスの下を掘ってなるべく直線的に走るルートが選ばれた。途中各県に一つ新駅が設けられることとなり、長野県では飯田が選ばれた。太い幹線から取り残されていた南信・飯田が日の目を見るときが来たと言えよう。

飯田線マップ

南アルプスあぷとライン

 大井川鐵道「南アルプスあぷとライン」については、昨年秋に(2019・09・18参照)このブログでご紹介した。90パーミルの急勾配を登るためのラックレールやラックギアの写真も掲載した。
 先回は車での取材だったので乗車は果たせなかったが、今回は鉄道旅だったのでアプト式鉄道に乗ることができた。小型な車両は、二人掛けと一人掛けのシートの3列である。歯車で登るときには、大きな音や振動があるのかと思っていたが、あまり感ずることはなかった。

井川G

 車窓から長島ダムやダム湖を眺めることができる。先回道路側から見た、不思議な形態の「奥大井湖上駅」(2019・09・26参照)を、今回は列車から見ることとなる。赤い鉄橋がダム湖に突き出た半島に突き刺さるように見える。
 「アプトいちしろ駅」では、アプト式電気機関車が列車に連結されるシーンを見た。車掌さんの手旗に従って機関車と列車が静かに合体する。乗客のほとんどが、降りて写真を撮っている。帰りの「長島ダム駅」でも連結シーンが見える。下の写真は、機関車(矢印)が迎えに来る場面である。

井川H

火の見櫓

 大井川流域、大井川鐵道沿線の集落を歩くと、“昭和の匂い”がする。鉄道駅や踏み切り、民家や商店街などなど。そのひとつに遠くからでも見ることのできる「火の見櫓」がある。都市ではとっくに無くなってしまったけれども、このような山里ではまだ大切に活用されているのであろう。
 都市でもかつては、消防団の拠点となる詰め所や集会所の近くに火の見櫓があった。消防団とは、消防組織法(昭和23年)に基づいて設置される消防機関である。消防団員は別に本業を持つ一般市民で、非常勤の地方公務員に位置づけられている。

火の見櫓G

 起源は江戸中期に大岡忠相が組織した「町火消し」で、半鐘をもつ火の見櫓もつくられたという。明治27年(1894)になって、消防組規則が交付されて全国に「消防組」が設置された。戦時中は空襲に対応するために「警防団」に改編され、戦後になって「消防団」となったのである。
 江戸時代は木造の高楼であったが、昭和初期にはほとんどの地域で鉄骨製の火の見櫓が整備された。町内で火災を発見したらすぐに半鐘を鳴らす施設である。その後、大都市では消防署などに消防団が収斂され、サイレンや防災無線などが整備されるに従って火の見櫓は役目を終えたのである。

市代吊橋と奥大井湖上駅

 アプトいちしろ駅は、「大井川ダム」のつくるダム湖の脇にある。大井川ダムとは立派な名前であるが、大きさは長さ約66m、高さ33m、湛水面積13haとけっして大きなダムではない。それは完成が昭和11年であり、大井川本流では早期にできたダムであることからの命名であろう。
 このダム湖に、吊り橋としては不釣合いなほど頑丈そうな橋がある。「市代吊橋」という。大井川ダム建設に伴い、木材流送を補償するための鉄道用に建設されたものである。型式はサスペンショントラス、長さ約107m、8トンまでの加重に耐えることができる。昭和11年の完成以来、若干の改造は行なわれたがほとんど元通りで、鉄道用の吊り橋の構造を残す貴重な産業遺産である。

市代吊橋G

 その上流の長島ダムは、蛇行の多い地形に建設されたので、ダム湖の形も複雑に曲がりくねっている。このあたりの地名をとって「接岨湖」と呼ぶ。井川線が一旦左岸に渡り、すぐにまた右岸に戻る橋がある。この2つの橋梁(奥大井レインボーブリッジ)は、接岨湖に突き出た細長い半島に橋台を置いていて、そこが駅になっている。
 まるで湖の上に乗っているように見えることから「奥大井湖上駅」という。駅といっても周辺に民家はなく、利用者は全員観光客である。上流側に併設されている歩道を渡ると、接岨峡温泉まで続くウォーキングコースになっている。まさに「秘境駅」と呼ぶに相応しい。

市代吊橋マップ

長島ダム

 大井川では明治35年(1902)以来、盛んに電源開発が行なわれ、大井川本流だけでも田代ダムや大井川ダムなど6か所のダムが建設され、一大電源地帯となった。また利水においては、昭和22年より国による事業が始まり、昭和43年に大井川用水が完成するなど、茶畑を始め広大な農地に水が供給されている。
 しかし、治水面では多目的ダムなどの総合開発は行なわれていなかった。そのため、年間降雨量が3000mmを越える大井川地方では度々洪水を引き起こし、流域に甚大な被害を及ぼしていた。昭和49年から総合的な事業が始められたが、その中核施設となったのが長島ダムである。

長島ダムG

 型式は重力式コンクリートダム、高さ109m・幅308mである。目的は洪水調整や上水道供給などの利水で、水力発電は目的としていない。平成14年に完成した。このダムの建設により、井川線の一部が水没することとなり、急勾配を昇り降りできる「アプト式」の採用に至る。ダムのすぐ横に赤い屋根の瀟洒な「長島ダム駅」があり、ここで機関車の脱着が行なわれる。
 ダムの下流側で放水が行なわれていた。長島ダムの目的の一つは洪水調整であるので、常時、ダム湖水面の水位を下げておき、洪水を溜める余力が必要である。そのため「常用洪水吐ゲート」が6門整備されている。昭和36年に完成した「塩郷ダム」以来の「水枯れ」状態を緩和するため、河川維持放流の役割も担っている。

大井川鐵道井川線(南アルプスあぷとライン)

 千頭から井川に至る井川線は全長25.5km、始発駅から終点駅まで14の駅を数える。その中で、「アプトいちしろ駅」から「長島ダム駅」の間、1.5kmがラック式(歯車式)鉄道になっている。この間は、90パーミルという急勾配を昇り降りする必要があるからである。
 ラック式鉄道は、機関車の床下にある「ラックホイールピニオン(ラックギア)」と、線路の真ん中に敷設された「ラックレール」をかみあわせて急坂を走る方式である。その一種の「アプト式」は、スイスの技術者カール・ローマン・アプトが考え出したもので、複数の歯形をずらすことにより駆動力を円滑化するように工夫したものである。井川線では3枚のラックレールになっている。

アプトラインG

 井川線のミニ列車が「アプトいちしろ駅」に到着すると、重くて大形なアプト式の機関車が列車の後に連結され、押し上げる形で急斜面を登っていく。90パーミル(=9%)とは1000m進む間に、90mの高さを登る勾配のことである。
 この珍しい鉄道が日本で始めて採用されたのは、国鉄信越本線の横川駅から軽井沢駅までで、明治26年(1893)のことである。しかし、昭和38年には廃止になっているので、現在この姿を見ることができるのは、平成2年から設置されたこの井川線だけである。

アプトラインH


千頭の森林鉄道

 千頭といえば、木曽と同様に活発な「林業」が頭に浮かぶ。国有林の面積は260平方キロ、名古屋市域に近い広大な広がりである。しかもそのほとんどが標高1000m以上という奥山の森林であり、モミ・ツガ、ブナ・ナラなどの天然林である。
 千頭の林業は、江戸時代や明治以降にも盛んであったが、戦後、スギ・ヒノキ・カラマツなどの拡大造林が行なわれ、昭和30年代には年間伐採量が10万立方メートルをも越していたという。大井川下流の島田や金谷地域には、パルプやチップ、板を生産する産業が栄えていた。

森林鉄道マップ

 伐採された木材は、千頭川を利用した筏(いかだ)流しの方法で運搬していた。ところが昭和10年に千頭ダムができたことにより、それが不可能となった。その保障として建設されたのが森林鉄道である。昭和6年に沢間~大間の間が開通した。(沢間からは川根電力索道に積み替えられた。)その後徐々に距離を伸ばし、最終的には柴沢までの44kmを運行していた。
 もちろん、電力会社のダムや発電所工事の資材運搬にも使われていた。昭和13年、大間発電所完成とともに、電力会社から営林署に無償譲渡されて木材運搬専用となった。しかし、木材産業も下火となり、昭和44年に全線廃止となったのである。千頭温泉の広場に、トロッコの機関車と木材を積んだ貨車が展示してあった。

森林鉄道G

大間ダムと「夢の吊り橋」

 大井川の支流「寸又川」は、千頭あたりで大井川と合流する。寸又川を県道77号で坂登ると「寸又峡温泉」に至る。南アルプスの麓から湧き出る良質な天然温泉である。温泉郷を過ぎたあたりに道標があって、「夢の吊り橋」へと誘ってくれる。朝日岳や前黒法師岳への登山口でもある。
 夢の吊り橋は「大間ダム」に架かる橋である。長さ90m、ダム湖からの高さは8mである。エメラルドグリーンの水面と、秋には美しい峡谷の紅葉が見られることなどから“夢”と名付けられている。旅行専門家のトリップ・アドバイザーが選ぶ「死ぬまでに渡りたい世界の吊り橋10」にも選ばれている。

大間ダムマップ

 大間ダムは、寸又川にある3つのダムの真ん中に位置している。下流には寸又川ダムがあり、上流には千頭ダムがある。堤の長さ107m、高さは46m、総貯水量は約150万立方である。昭和13年(1938)に完成。デザインがよいので「近代土木遺産2800選」に選定されている。
 いつもは“チンダル現象”によって青くて底の見えるような湖水であるが、昨年9月の台風・大雨により、土砂が流れ込んで水が濁っているのが残念だった。チンダル現象とは、きれいな水のわずかな微粒子により、波長の短い青色だけが反射される現象である。

小山発電所

 航空写真を見て、驚いてしまった。蛇行する大井川が、もう少しでくっついてしまいそうである。ロシアなどの平原で蛇行する川が短絡すると、残された部分が「三日月湖」になるという話は聞くし、飛行機の窓から見たことはある。しかし、このような山岳地帯でも起るのであろうか。
 この地形と大井川の水位の差を利用して、日英水電株式会社が明治43年(1910)に発電所をつくった。「小山発電所」である。蛇行する川の最も狭いところは「牛の頸」と呼ばれている。この上流側と下流側では、25mの水位差がある。上流側に堰堤を設け、そこからトンネルで下流側の発電所まで流すのである。

小山発電所マップ

 出力は1400kw、中部5県では初の発電所、もちろん大井川水系でも初めてである。電気は島田、相良、さらに浜松方面まで送られた。この地域では、大正2年頃から電灯が使用されたという。昭和11年(1936)になって、10km下流に6万8200kwの「大井川発電所」が完成し、その役割を終えたのである。
 下左の写真は発電所跡、今はコンクリートの基礎が残るのみである。傍らに現在の管理者・中部電力の説明板が立っていた。下右は、発電所跡から土手を登ったところにあるトンネル。上流からここまで水を流し、発電機まで水を落としたのであろう。

小山発電所G


両国吊り橋と川根茶

 千頭駅近くの踏み切りで、井川線のミニ列車が走る姿を見た。「南アルプスあぷとライン」という。山の斜面の擁壁と、民家の間の狭い空間をすり抜けていく。平均時速は20km以下で、自転車と同じくらいのスピード感という。ゆっくり景色を楽しむことができる。
 次の川根両国駅の北に、「両国吊り橋」が架かっている。長さ145m、川面からの高さ8m、県道77号と並行して走っている。幅員は90cmと狭いが、全面に板が貼られているので、あまり揺れることはない。

川根茶マップ

 川根本町は、お茶の生産が盛んで日本三大銘茶「川根茶」を育てている。大井川の清流に沿った山間斜面の茶畑は、平地に比べて日照時間が短いので、お茶の渋みが抑えられる。また、昼夜の温度差が大きいので、茶葉の中に旨みとなる養分が残りやすいともいう。
 この地域に茶づくりが伝えられたのは、13世紀のころと推測されている。古くからの手摘みや手揉みの技術に磨きをかけ、丁寧に生産している。明治中ごろに「川根茶業組合」が創設され、戦後「農林センター」や「茶業技術研修センター」などを開設して、品質向上に取り組んでいる。

川根茶G


千頭駅の転車台

 千頭駅の改札からホームの奥深くに、蒸気機関車の転車台(ターンテーブル)がある。ちょうど転向の作業が始まるというので、走って現地まで行った。乗車客など一般の人も見ることができるので、同じように急ぐ人たちがいた。
 客車から切り離された機関車だけが、後ろ向きに進んでいく。複雑な操車線路を経て、前向きで転車台に入ってきた。ターンテーブルにすっぽり乗るといよいよ転向の始まりである。ここは新金谷駅と違って、電力を使わずに人力のみで回す方式である。

千頭転車台G

 驚いたことに、女性の駅員がたった1人で回転させている。(実は後ろ側で男性2人が押していたし、通常は4~6人で押す)それにしても重量感あふれる機関車を、いとも簡単(そう)に動かすので感動してしまう。180度向きを変えた機関車は、また、前向きに進んで行き、バックで客車と連結するのである。
 この転車台は、明治30年(1897)に英国のランソン&ラピア社で製造されたものである。日本に輸入された当初は東北線で使われ、その後、新潟県の国鉄赤谷線東赤谷駅に設置されていた。そして、昭和55年(1980)に千頭駅へ移設されたものである。日本に現存し、活用されているものとしては最も古く、平成13年に国の登録文化財に登録された。

千頭転車台H

千頭駅

 川根本町は、静岡市・浜松市・島田市といった県内の大きな市と、長野県の飯田市に境を接している。面積は約500平方キロ、名古屋市の約1.5倍である。人口は約6500人、大井川と大井川鐵道沿いにいくつかの集落があり、その中心が「千頭」である。
 千頭は交通の拠点でもある。現在は大井川本線の終点であり、「南アルプスあぷとライン」井川線の始発駅である。かつて「川根電力索道」が荷物を運んでいたことは先だってご紹介した。さらに、昭和40年代まで活況だった木材運搬のため、森林鉄道(昭和44年全線廃止)の拠点でもあった。

千頭駅G

 千頭駅ではいろいろな車両を見ることができる。SLの蒸気機関車や「きかんしゃトーマス号」のほか、他の鉄道で使われていた古い電車の、再活用された姿も見ることができる。例えば、「近鉄16000系」「南海21000系」「東急7200系」などで、鉄道ファンを喜ばせている。
 さらにホームの反対側には、「南アルプスあぷとライン」井川線の列車も止まっていた。千頭から約25km離れた井川駅まで1時間50分の旅である。この路線のトンネルは断面が小さい。それにあわせた車両も小さいので、「ミニ列車」とか「トロッコ列車」などと呼ばれている。

千頭駅H

青部吊り橋と中電大井川発電所

 千頭から2つ手前の「青部駅」も、開業当時の昭和6年につくられた古い駅舎である。改札のある駅舎と屋根のある待合とが離れて建てられているのが特色である。待合上屋にも木製のプランターが置いてあり、綺麗に花が植えられていた。
 駅から少し離れたところに吊り橋がある。この橋は対岸にある中部電力の大井川発電所へ行く通路であるが、現在は柵が張られて通行止めになっている。少し高い橋台に向けて、コンクリート舗装のスロープになっている。これは自転車で渡るためと思われるが、写真のように細い板の上をサーカスのように渡ったのであろうか。

川地蔵G

 大井川発電所は、昭和11年に大井川電力株式会社が運用を開始したものである。戦中・戦後の変遷を経て、現在は中部電力の所有となっている。上流の大井川ダムや寸又川ダムなどから水を流して発電している。有効落差約113m、最大出力は約6万8000kwである。
 川岸の近くに、赤い帽子を被った「川地蔵」が佇んでいる。文久2年(1861)ごろに、近在に水難事故が多発したので、青部村の人たちが発起人となって供養と安全祈願のために建立したものである。川原で拾った赤い石を奉納すると、短命・夭折を逃れることができるという。

川地蔵H


季節通信49ラグビー

田野口駅と「無人駅の芸術祭」

 大井川鐵道・本線では、19駅のうち①金谷、②新金谷、⑨家山、⑯駿河徳山、⑲千頭以外の14駅は全て無人駅である。いくつかの駅を見てまわったが、どの駅も掃除が行き届いており、花壇をつくって花を植えているところもある。駿河徳山駅では枝垂桜を植え、神尾駅では信楽焼きのタヌキを並べて特色を出している。
 田野口駅は昭和6年開業からの駅であるが、近年、何度かの補修が行なわれて良い状態で維持されている。平成22年には、静岡県の都市景観最優秀賞にも選ばれている。道路側からの窓枠が緑色に塗装され、アンティークの中にもモダンなイメージを演出している。

田野口駅G

 線路側の駅舎の横に、竹で作った長い梯子が立てかけてあった。電柱や電線など高所の点検や修繕に使用するのであろう。現代風であれば、アルミ製の伸縮するハシゴが普通であろうが、昭和の景色にこだわっているのだろうと思われる。
 入口の近くに、赤と白の縞模様の布看板が眼についた。文字が染め付けてあって「無人駅の芸術祭/大井川」とある。今年の3月に開催された若いアーティストたちによる「アート・フェスティバル」の幟(のぼり)である。右下の写真は、駅で配っていたパンフレットである。

田野口駅H

恋金橋と塩郷ダム

 家山、川根の先に塩郷・久野脇地区がある。塩郷駅の近くに吊り橋が架かっている。愛称「恋金(こいがね)橋」という。大井川上流部にはたくさんの吊り橋があるが、この橋が一番長いという。延長220m、水面からの高さは11mである。吊り橋の上からSL列車や県道を走る車を見ることができる名所である。
 昭和6年(1931)に塩郷地区と対岸の久野脇地区を結ぶ生活道路として建設された。久野脇地区の人が塩郷駅から電車に乗るにも便利だし、中学生が自転車通学にも利用していたという。この光景は昭和36年(1961)、上流に塩郷ダムができて車が通れるようになるまで続いていた。

恋金橋マップ

 塩郷・久野脇地区には縁結びのパワースポットがたくさんある。吊り橋の向こう岸には「恋の鐘」があり、手前の塩郷駅近くには「夫婦滝」がある。「おさんぽMAP」の看板を見ると、1時間ほどのコースの中に、縁結びの神社やお堂が数か所描かれている。「恋金橋」は地元の提案で名付けられたという。
 塩郷ダムは水力発電用の取水ダムである。ダムとは呼ぶものの、堤高が3.2mしかないので、河川法上は「堰(せき)」として扱われる。この堰で取水された水は支流の笹間川ダムに送水され、ダム湖に一旦貯水された後、再度トンネルで最下流の川口発電所に送られて発電に利用される。

恋金橋G


季節通信48五百羅漢

地名のトンネルと川根電力索道

 川根温泉笹間駅も過ぎ、大井川第一橋梁を渡るとすぐに地名(じな)駅がある。この駅も木造で無人、可愛らしい駅舎である。地名駅のすぐ近く、茶畑の中に不思議な形のトンネルがある。日本で一番短いともいわれる「地名のトンネル」である。
 不思議なのは、トンネルにつきものの山がないこと。線路と斜めに交差しているので、空からみると平行四辺形の形をしていること。屋根の上に草や小さな木が生えていることなどである。実はこのトンネルは、上からの落下物から鉄道を保護するための構造物なのである。

地名トンネルマップ

 かつて、このトンネルの上を「川根電力索道」(ロープウェー)が通っていた。索道に吊下げられた荷物が落下して、列車や乗客に被害が及ぶ危険を回避する必要があったのである。ただし、この索道は、昭和13年に閉鎖されているので、現在は無用の施設となっている。
 川根電力索道は、山をひとつ越えた藤枝方面の滝沢から地名・千頭を通って、沢間まで荷物を運んでいた。大正14年に運用を開始し、延長を重ねて昭和5年に全線開通した。しかし、昭和6年に大井川鐵道が開通すると経営が困難となり、昭和13年にその役割を終えたのである。

地名トンネルG

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 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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Author:FC2USER480348EQK
森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
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