FC2ブログ

Entries

火の見櫓

 大井川流域、大井川鐵道沿線の集落を歩くと、“昭和の匂い”がする。鉄道駅や踏み切り、民家や商店街などなど。そのひとつに遠くからでも見ることのできる「火の見櫓」がある。都市ではとっくに無くなってしまったけれども、このような山里ではまだ大切に活用されているのであろう。
 都市でもかつては、消防団の拠点となる詰め所や集会所の近くに火の見櫓があった。消防団とは、消防組織法(昭和23年)に基づいて設置される消防機関である。消防団員は別に本業を持つ一般市民で、非常勤の地方公務員に位置づけられている。

火の見櫓G

 起源は江戸中期に大岡忠相が組織した「町火消し」で、半鐘をもつ火の見櫓もつくられたという。明治27年(1894)になって、消防組規則が交付されて全国に「消防組」が設置された。戦時中は空襲に対応するために「警防団」に改編され、戦後になって「消防団」となったのである。
 江戸時代は木造の高楼であったが、昭和初期にはほとんどの地域で鉄骨製の火の見櫓が整備された。町内で火災を発見したらすぐに半鐘を鳴らす施設である。その後、大都市では消防署などに消防団が収斂され、サイレンや防災無線などが整備されるに従って火の見櫓は役目を終えたのである。

市代吊橋と奥大井湖上駅

 アプトいちしろ駅は、「大井川ダム」のつくるダム湖の脇にある。大井川ダムとは立派な名前であるが、大きさは長さ約66m、高さ33m、湛水面積13haとけっして大きなダムではない。それは完成が昭和11年であり、大井川本流では早期にできたダムであることからの命名であろう。
 このダム湖に、吊り橋としては不釣合いなほど頑丈そうな橋がある。「市代吊橋」という。大井川ダム建設に伴い、木材流送を補償するための鉄道用に建設されたものである。型式はサスペンショントラス、長さ約107m、8トンまでの加重に耐えることができる。昭和11年の完成以来、若干の改造は行なわれたがほとんど元通りで、鉄道用の吊り橋の構造を残す貴重な産業遺産である。

市代吊橋G

 その上流の長島ダムは、蛇行の多い地形に建設されたので、ダム湖の形も複雑に曲がりくねっている。このあたりの地名をとって「接岨湖」と呼ぶ。井川線が一旦左岸に渡り、すぐにまた右岸に戻る橋がある。この2つの橋梁(奥大井レインボーブリッジ)は、接岨湖に突き出た細長い半島に橋台を置いていて、そこが駅になっている。
 まるで湖の上に乗っているように見えることから「奥大井湖上駅」という。駅といっても周辺に民家はなく、利用者は全員観光客である。上流側に併設されている歩道を渡ると、接岨峡温泉まで続くウォーキングコースになっている。まさに「秘境駅」と呼ぶに相応しい。

市代吊橋マップ

長島ダム

 大井川では明治35年(1902)以来、盛んに電源開発が行なわれ、大井川本流だけでも田代ダムや大井川ダムなど6か所のダムが建設され、一大電源地帯となった。また利水においては、昭和22年より国による事業が始まり、昭和43年に大井川用水が完成するなど、茶畑を始め広大な農地に水が供給されている。
 しかし、治水面では多目的ダムなどの総合開発は行なわれていなかった。そのため、年間降雨量が3000mmを越える大井川地方では度々洪水を引き起こし、流域に甚大な被害を及ぼしていた。昭和49年から総合的な事業が始められたが、その中核施設となったのが長島ダムである。

長島ダムG

 型式は重力式コンクリートダム、高さ109m・幅308mである。目的は洪水調整や上水道供給などの利水で、水力発電は目的としていない。平成14年に完成した。このダムの建設により、井川線の一部が水没することとなり、急勾配を昇り降りできる「アプト式」の採用に至る。ダムのすぐ横に赤い屋根の瀟洒な「長島ダム駅」があり、ここで機関車の脱着が行なわれる。
 ダムの下流側で放水が行なわれていた。長島ダムの目的の一つは洪水調整であるので、常時、ダム湖水面の水位を下げておき、洪水を溜める余力が必要である。そのため「常用洪水吐ゲート」が6門整備されている。昭和36年に完成した「塩郷ダム」以来の「水枯れ」状態を緩和するため、河川維持放流の役割も担っている。

大井川鐵道井川線(南アルプスあぷとライン)

 千頭から井川に至る井川線は全長25.5km、始発駅から終点駅まで14の駅を数える。その中で、「アプトいちしろ駅」から「長島ダム駅」の間、1.5kmがラック式(歯車式)鉄道になっている。この間は、90パーミルという急勾配を昇り降りする必要があるからである。
 ラック式鉄道は、機関車の床下にある「ラックホイールピニオン(ラックギア)」と、線路の真ん中に敷設された「ラックレール」をかみあわせて急坂を走る方式である。その一種の「アプト式」は、スイスの技術者カール・ローマン・アプトが考え出したもので、複数の歯形をずらすことにより駆動力を円滑化するように工夫したものである。井川線では3枚のラックレールになっている。

アプトラインG

 井川線のミニ列車が「アプトいちしろ駅」に到着すると、重くて大形なアプト式の機関車が列車の後に連結され、押し上げる形で急斜面を登っていく。90パーミル(=9%)とは1000m進む間に、90mの高さを登る勾配のことである。
 この珍しい鉄道が日本で始めて採用されたのは、国鉄信越本線の横川駅から軽井沢駅までで、明治26年(1893)のことである。しかし、昭和38年には廃止になっているので、現在この姿を見ることができるのは、平成2年から設置されたこの井川線だけである。

アプトラインH


千頭の森林鉄道

 千頭といえば、木曽と同様に活発な「林業」が頭に浮かぶ。国有林の面積は260平方キロ、名古屋市域に近い広大な広がりである。しかもそのほとんどが標高1000m以上という奥山の森林であり、モミ・ツガ、ブナ・ナラなどの天然林である。
 千頭の林業は、江戸時代や明治以降にも盛んであったが、戦後、スギ・ヒノキ・カラマツなどの拡大造林が行なわれ、昭和30年代には年間伐採量が10万立方メートルをも越していたという。大井川下流の島田や金谷地域には、パルプやチップ、板を生産する産業が栄えていた。

森林鉄道マップ

 伐採された木材は、千頭川を利用した筏(いかだ)流しの方法で運搬していた。ところが昭和10年に千頭ダムができたことにより、それが不可能となった。その保障として建設されたのが森林鉄道である。昭和6年に沢間~大間の間が開通した。(沢間からは川根電力索道に積み替えられた。)その後徐々に距離を伸ばし、最終的には柴沢までの44kmを運行していた。
 もちろん、電力会社のダムや発電所工事の資材運搬にも使われていた。昭和13年、大間発電所完成とともに、電力会社から営林署に無償譲渡されて木材運搬専用となった。しかし、木材産業も下火となり、昭和44年に全線廃止となったのである。千頭温泉の広場に、トロッコの機関車と木材を積んだ貨車が展示してあった。

森林鉄道G

大間ダムと「夢の吊り橋」

 大井川の支流「寸又川」は、千頭あたりで大井川と合流する。寸又川を県道77号で坂登ると「寸又峡温泉」に至る。南アルプスの麓から湧き出る良質な天然温泉である。温泉郷を過ぎたあたりに道標があって、「夢の吊り橋」へと誘ってくれる。朝日岳や前黒法師岳への登山口でもある。
 夢の吊り橋は「大間ダム」に架かる橋である。長さ90m、ダム湖からの高さは8mである。エメラルドグリーンの水面と、秋には美しい峡谷の紅葉が見られることなどから“夢”と名付けられている。旅行専門家のトリップ・アドバイザーが選ぶ「死ぬまでに渡りたい世界の吊り橋10」にも選ばれている。

大間ダムマップ

 大間ダムは、寸又川にある3つのダムの真ん中に位置している。下流には寸又川ダムがあり、上流には千頭ダムがある。堤の長さ107m、高さは46m、総貯水量は約150万立方である。昭和13年(1938)に完成。デザインがよいので「近代土木遺産2800選」に選定されている。
 いつもは“チンダル現象”によって青くて底の見えるような湖水であるが、昨年9月の台風・大雨により、土砂が流れ込んで水が濁っているのが残念だった。チンダル現象とは、きれいな水のわずかな微粒子により、波長の短い青色だけが反射される現象である。

小山発電所

 航空写真を見て、驚いてしまった。蛇行する大井川が、もう少しでくっついてしまいそうである。ロシアなどの平原で蛇行する川が短絡すると、残された部分が「三日月湖」になるという話は聞くし、飛行機の窓から見たことはある。しかし、このような山岳地帯でも起るのであろうか。
 この地形と大井川の水位の差を利用して、日英水電株式会社が明治43年(1910)に発電所をつくった。「小山発電所」である。蛇行する川の最も狭いところは「牛の頸」と呼ばれている。この上流側と下流側では、25mの水位差がある。上流側に堰堤を設け、そこからトンネルで下流側の発電所まで流すのである。

小山発電所マップ

 出力は1400kw、中部5県では初の発電所、もちろん大井川水系でも初めてである。電気は島田、相良、さらに浜松方面まで送られた。この地域では、大正2年頃から電灯が使用されたという。昭和11年(1936)になって、10km下流に6万8200kwの「大井川発電所」が完成し、その役割を終えたのである。
 下左の写真は発電所跡、今はコンクリートの基礎が残るのみである。傍らに現在の管理者・中部電力の説明板が立っていた。下右は、発電所跡から土手を登ったところにあるトンネル。上流からここまで水を流し、発電機まで水を落としたのであろう。

小山発電所G


両国吊り橋と川根茶

 千頭駅近くの踏み切りで、井川線のミニ列車が走る姿を見た。「南アルプスあぷとライン」という。山の斜面の擁壁と、民家の間の狭い空間をすり抜けていく。平均時速は20km以下で、自転車と同じくらいのスピード感という。ゆっくり景色を楽しむことができる。
 次の川根両国駅の北に、「両国吊り橋」が架かっている。長さ145m、川面からの高さ8m、県道77号と並行して走っている。幅員は90cmと狭いが、全面に板が貼られているので、あまり揺れることはない。

川根茶マップ

 川根本町は、お茶の生産が盛んで日本三大銘茶「川根茶」を育てている。大井川の清流に沿った山間斜面の茶畑は、平地に比べて日照時間が短いので、お茶の渋みが抑えられる。また、昼夜の温度差が大きいので、茶葉の中に旨みとなる養分が残りやすいともいう。
 この地域に茶づくりが伝えられたのは、13世紀のころと推測されている。古くからの手摘みや手揉みの技術に磨きをかけ、丁寧に生産している。明治中ごろに「川根茶業組合」が創設され、戦後「農林センター」や「茶業技術研修センター」などを開設して、品質向上に取り組んでいる。

川根茶G


千頭駅の転車台

 千頭駅の改札からホームの奥深くに、蒸気機関車の転車台(ターンテーブル)がある。ちょうど転向の作業が始まるというので、走って現地まで行った。乗車客など一般の人も見ることができるので、同じように急ぐ人たちがいた。
 客車から切り離された機関車だけが、後ろ向きに進んでいく。複雑な操車線路を経て、前向きで転車台に入ってきた。ターンテーブルにすっぽり乗るといよいよ転向の始まりである。ここは新金谷駅と違って、電力を使わずに人力のみで回す方式である。

千頭転車台G

 驚いたことに、女性の駅員がたった1人で回転させている。(実は後ろ側で男性2人が押していたし、通常は4~6人で押す)それにしても重量感あふれる機関車を、いとも簡単(そう)に動かすので感動してしまう。180度向きを変えた機関車は、また、前向きに進んで行き、バックで客車と連結するのである。
 この転車台は、明治30年(1897)に英国のランソン&ラピア社で製造されたものである。日本に輸入された当初は東北線で使われ、その後、新潟県の国鉄赤谷線東赤谷駅に設置されていた。そして、昭和55年(1980)に千頭駅へ移設されたものである。日本に現存し、活用されているものとしては最も古く、平成13年に国の登録文化財に登録された。

千頭転車台H

千頭駅

 川根本町は、静岡市・浜松市・島田市といった県内の大きな市と、長野県の飯田市に境を接している。面積は約500平方キロ、名古屋市の約1.5倍である。人口は約6500人、大井川と大井川鐵道沿いにいくつかの集落があり、その中心が「千頭」である。
 千頭は交通の拠点でもある。現在は大井川本線の終点であり、「南アルプスあぷとライン」井川線の始発駅である。かつて「川根電力索道」が荷物を運んでいたことは先だってご紹介した。さらに、昭和40年代まで活況だった木材運搬のため、森林鉄道(昭和44年全線廃止)の拠点でもあった。

千頭駅G

 千頭駅ではいろいろな車両を見ることができる。SLの蒸気機関車や「きかんしゃトーマス号」のほか、他の鉄道で使われていた古い電車の、再活用された姿も見ることができる。例えば、「近鉄16000系」「南海21000系」「東急7200系」などで、鉄道ファンを喜ばせている。
 さらにホームの反対側には、「南アルプスあぷとライン」井川線の列車も止まっていた。千頭から約25km離れた井川駅まで1時間50分の旅である。この路線のトンネルは断面が小さい。それにあわせた車両も小さいので、「ミニ列車」とか「トロッコ列車」などと呼ばれている。

千頭駅H

青部吊り橋と中電大井川発電所

 千頭から2つ手前の「青部駅」も、開業当時の昭和6年につくられた古い駅舎である。改札のある駅舎と屋根のある待合とが離れて建てられているのが特色である。待合上屋にも木製のプランターが置いてあり、綺麗に花が植えられていた。
 駅から少し離れたところに吊り橋がある。この橋は対岸にある中部電力の大井川発電所へ行く通路であるが、現在は柵が張られて通行止めになっている。少し高い橋台に向けて、コンクリート舗装のスロープになっている。これは自転車で渡るためと思われるが、写真のように細い板の上をサーカスのように渡ったのであろうか。

川地蔵G

 大井川発電所は、昭和11年に大井川電力株式会社が運用を開始したものである。戦中・戦後の変遷を経て、現在は中部電力の所有となっている。上流の大井川ダムや寸又川ダムなどから水を流して発電している。有効落差約113m、最大出力は約6万8000kwである。
 川岸の近くに、赤い帽子を被った「川地蔵」が佇んでいる。文久2年(1861)ごろに、近在に水難事故が多発したので、青部村の人たちが発起人となって供養と安全祈願のために建立したものである。川原で拾った赤い石を奉納すると、短命・夭折を逃れることができるという。

川地蔵H


季節通信49ラグビー

田野口駅と「無人駅の芸術祭」

 大井川鐵道・本線では、19駅のうち①金谷、②新金谷、⑨家山、⑯駿河徳山、⑲千頭以外の14駅は全て無人駅である。いくつかの駅を見てまわったが、どの駅も掃除が行き届いており、花壇をつくって花を植えているところもある。駿河徳山駅では枝垂桜を植え、神尾駅では信楽焼きのタヌキを並べて特色を出している。
 田野口駅は昭和6年開業からの駅であるが、近年、何度かの補修が行なわれて良い状態で維持されている。平成22年には、静岡県の都市景観最優秀賞にも選ばれている。道路側からの窓枠が緑色に塗装され、アンティークの中にもモダンなイメージを演出している。

田野口駅G

 線路側の駅舎の横に、竹で作った長い梯子が立てかけてあった。電柱や電線など高所の点検や修繕に使用するのであろう。現代風であれば、アルミ製の伸縮するハシゴが普通であろうが、昭和の景色にこだわっているのだろうと思われる。
 入口の近くに、赤と白の縞模様の布看板が眼についた。文字が染め付けてあって「無人駅の芸術祭/大井川」とある。今年の3月に開催された若いアーティストたちによる「アート・フェスティバル」の幟(のぼり)である。右下の写真は、駅で配っていたパンフレットである。

田野口駅H

恋金橋と塩郷ダム

 家山、川根の先に塩郷・久野脇地区がある。塩郷駅の近くに吊り橋が架かっている。愛称「恋金(こいがね)橋」という。大井川上流部にはたくさんの吊り橋があるが、この橋が一番長いという。延長220m、水面からの高さは11mである。吊り橋の上からSL列車や県道を走る車を見ることができる名所である。
 昭和6年(1931)に塩郷地区と対岸の久野脇地区を結ぶ生活道路として建設された。久野脇地区の人が塩郷駅から電車に乗るにも便利だし、中学生が自転車通学にも利用していたという。この光景は昭和36年(1961)、上流に塩郷ダムができて車が通れるようになるまで続いていた。

恋金橋マップ

 塩郷・久野脇地区には縁結びのパワースポットがたくさんある。吊り橋の向こう岸には「恋の鐘」があり、手前の塩郷駅近くには「夫婦滝」がある。「おさんぽMAP」の看板を見ると、1時間ほどのコースの中に、縁結びの神社やお堂が数か所描かれている。「恋金橋」は地元の提案で名付けられたという。
 塩郷ダムは水力発電用の取水ダムである。ダムとは呼ぶものの、堤高が3.2mしかないので、河川法上は「堰(せき)」として扱われる。この堰で取水された水は支流の笹間川ダムに送水され、ダム湖に一旦貯水された後、再度トンネルで最下流の川口発電所に送られて発電に利用される。

恋金橋G


季節通信48五百羅漢

地名のトンネルと川根電力索道

 川根温泉笹間駅も過ぎ、大井川第一橋梁を渡るとすぐに地名(じな)駅がある。この駅も木造で無人、可愛らしい駅舎である。地名駅のすぐ近く、茶畑の中に不思議な形のトンネルがある。日本で一番短いともいわれる「地名のトンネル」である。
 不思議なのは、トンネルにつきものの山がないこと。線路と斜めに交差しているので、空からみると平行四辺形の形をしていること。屋根の上に草や小さな木が生えていることなどである。実はこのトンネルは、上からの落下物から鉄道を保護するための構造物なのである。

地名トンネルマップ

 かつて、このトンネルの上を「川根電力索道」(ロープウェー)が通っていた。索道に吊下げられた荷物が落下して、列車や乗客に被害が及ぶ危険を回避する必要があったのである。ただし、この索道は、昭和13年に閉鎖されているので、現在は無用の施設となっている。
 川根電力索道は、山をひとつ越えた藤枝方面の滝沢から地名・千頭を通って、沢間まで荷物を運んでいた。大正14年に運用を開始し、延長を重ねて昭和5年に全線開通した。しかし、昭和6年に大井川鐵道が開通すると経営が困難となり、昭和13年にその役割を終えたのである。

地名トンネルG

大井川第一橋梁

 大井川鐵道は金谷駅を出てから、大井川の右岸(川の流れの方向から見て右側)を走り続けている。国道473号も線路と並行して右岸を走っている。家山駅の西、道路の両側約1kmの間に400本ほどの桜が植えられていて、3月下旬から4月上旬にかけて見ごろとなる。「家山の桜トンネル」と呼ばれている。
 家山駅の次の抜里駅と川根温泉笹間駅の間で、初めて大井川を渡る。この橋を「大井川第一橋梁」と呼ぶ。大井川鐵道は、終点までの間に第一から第四までの橋梁で大井川を渡っている。通常、道路に架かる橋は「○○橋」と呼び、鉄道に架けられる橋は「□□橋梁」と名付けられるようである

大井川第一橋梁マップ

 橋の型式は「桁橋」、「ガーダー橋」ともいう。橋を支えるための「アーチ」や「トラス」を用いない方法である。この橋梁は昭和5年に建設された。大井川を斜めに横断するために長大であり、途中湾曲することもあって、当時としては有名な橋であった。
 現在は、SLを撮影する絶好のスポットとして有名である。左岸側からも撮影できるが、川幅が広いので、砂利の河川敷から見上げるアングルでも撮ることができる。川根温泉の露天風呂からもSLの走る姿を見ることができるという。
  ≪右下の写真は「家山の桜トンネルを走るSL列車」=大井川鐵道㈱提供≫

大井川第一橋梁G


季節通信47高山のユリ

家山駅

 大井川を遡り、9番目の駅が「家山駅」である。大井川鐵道が開業した昭和4年に建てられてそのまま、といった雰囲気である。外観は日本家屋風の木造・瓦屋根である。構内の片隅に、鋳鉄製の赤い郵便ポストが立っているのも懐かしい。
 駅舎内部も昔ながらの設えである。待合室には6角形の木製ベンチが据えられている。木枠のガラス窓や天井の長い蛍光灯も昭和時代そのものである。歴史を感じさせるこの駅舎は、度々、映画やテレビドラマの場面に登場しているという。

家山駅G

 屋根の上には、自然木の厚板に駅名が墨書されている。切符切りの駅員が立つ場所も木枠でできている。最近は自動改札によりICカードで出入りするので、定期券を見せたり切符をやり取りする方法が、何か新鮮な感じがする。
 この駅は、上下線がすれちがうこともできるように、線路が複数設置されている。また、SL列車が停車する駅でもある。線路の脇に、大きなタンクが高い位置に据えられている。これは蒸気機関車に水を補給するための装置であろう。

家山駅マップ

大井川橋(再掲2016・03・20)

 金谷駅から北へしばらく進むと、かつては国道1号であった県道381号島田岡部線に出る。この旧国道1号に架かる橋が「大井川橋」である。橋長1026m、幅員8.3m、17連のトラス橋で、完成したのは昭和3年 (1928) のことである。トロッコでコンクリートなどの資材を運搬する時代であり、橋脚を建設するのは大変に難工事であったという。
 江戸時代、大井川に橋が架かっていなかったのは、江戸防衛のためでもあったが、この川の自然条件が悪いことも理由であった。すなわち、洪水時の水流が速く、川底に砂礫が多いので、橋脚や橋本体が壊されてしまうのである。実際、明治9年(1875)に建設された木造の仮設橋や明治16年建設の本橋も流失の憂き目に遭っている。

大井川橋マップ

 下の写真左は「大井川橋」、右は「天竜川橋」(本ブログ2015・11・28掲載)である。いずれも、走る車の中から撮影した。同じような青色のペンキで塗装されているので、前にも渡ったのではないかと錯覚してしまうが、よく見ると橋桁の構造が異なっていることが分かる。大井川はトラス (三角構造)、天竜川の方は、桁の傾斜が交互になるワーレントラスという型式である。
 大井川橋は平成15年に、土木学会選奨の土木遺産に指定されている。

大井川橋A

新金谷駅のSLターンテーブル

 大井川本線の出発駅は金谷駅だが、大井川鐵道の拠点は新金谷駅である。「SL」や「トーマス号」の発着駅でもある。広大な駅の構内には、SLの整備工場や露天の石炭置場もある。機関士や整備士がSLの整備をしたり、移動させる姿を見ることができる。
 その一角に機関車のターンテーブル(転車台)がある。新幹線などの電車は、前と後に機関車がついているので必要ないが、蒸気機関車では片側にしか運転台がついていないので、始終点駅で向きを変える必要がある。この転車台は、平成23年に完成した。桁の長さ17.5m、自重22.8トン、ハイブリッド方式で、電気で回転させるが人力でも動かすことができる。

新金谷駅

 真っ黒で重そうな機関車が転向する姿は、見ていて楽しいものである。かつてサンフランシスコで、有名なケーブルカーに乗ったことがある。その始終点駅で車両を転向させるのを見た。乗車待ちの人々がグルリと取巻いて見物していた。武豊線の廃駅・武豊停車場にも古い転車台がある。(このブログの平成25年4月2日参照)
 新金谷駅の駅舎は、大井川鐵道開通とともにできた古い建物である。木造、アメリカ下見板張りで上げ下げ窓の洋風建築である。黄土色の屋根瓦もレトロな雰囲気を醸し出している。昨年(平成30年)国指定の登録有形文化財に認定された。私の訪れた日には、壁のペンキ塗りが行なわれていた。

新金谷駅G

大井川鐵道 金谷駅

 南アルプス(赤石山脈)は大きな分水嶺で、西に流れた水は天竜川を下り、東へ向かった水は大井川となって、いずれも太平洋に注ぎます。鉄道は、天竜川側は豊橋駅からJR飯田線が、大井川沿いは金谷駅から大井川鐵道が、北へ向かって運行しています。
 今年3月に、大井川に沿って上流の寸又峡まで歩いてみました。大井川鐵道は、SL(蒸気機関車)の走る本線と、日本唯一のアプト式鉄道の井川線からなり、「動く鉄道博物館」とも呼ばれています。今回から数度に亘り、スリルあふれる吊り橋や深い渓谷の景色とともに、大井川沿いの「土木文化」をお届けします。

金谷駅マップ

 大井川鐵道が創立されたのは、大正14年(1925)のことである。金谷~千頭間が開通したのは昭和6年(1931)、もともとは、大井川上流部に建設する発電所やダムの建設資材輸送、あるいは森林資源の木材搬出が主体の「貨物輸送」が目的であった。(上の写真は中間地点の家山駅)
 大井川本線の玄関口は「金谷駅」、JR東海道本線の乗換駅である。ここから、昔懐かしいレトロな雰囲気の列車での旅が始まる。次の新金谷駅からは、「SL列車」や「きかんしゃトーマス号」にも乗ることができる。駅のホームでは、単線の線路の端末を見ることができる。

金谷駅G

暗渠・土留壁と落石防止柵

 愛岐トンネル群・第5号トンネルの手前に、大きくて深い煉瓦造りの穴がある。これは、「暗渠」の上部で、大きな沢の水を線路の下を通して川へ流す装置である。鉄道用語では「暗橋」と呼ばれている。明治33年の建設当時、谷に高さ10mの盛土をするために水を抜く必要があった。
 昭和32年の豪雨では、盛土が砂防ダムの役割を果たしてしまい、谷に流れ込んだ土石流により暗渠が埋まってしまった。そこで暗渠上部の竪穴をコンクリートで嵩上げするとともに、大規模なコンクリート壁(下左の写真)が設けられた。

暗渠G

 鉄道の下、川沿いに続く「玉野古道」からは暗渠下部を見ることができる。さらに、狭い入口を潜ると暗渠内部に入ることもできる。細いアーチ型の水路 (上の写真) は全て煉瓦で造られている。建設からすでに120年近く経過しているのに美しい赤い輝きを留めているのは、ほとんど陽に晒されていないからだという。
 3号と4号のトンネルの間、見学コースとなっている廃線敷きの崖側に、落石防止のための柵が設置されている。これは古いレールを再利用したものである。レールには、1911年の八幡製鉄や1919年のアメリカ・カーネギー社の刻印が確認できる。

暗渠H


季節通信29落葉

岐阜城と金華山ロープウェー

 岐阜城が初めて築かれたのは、鎌倉時代の建仁元年 (1201) だといわれている。しかし、日本史に大きく登場するのは、斉藤道三が居城とした戦国時代になってからのことである。道三は天文8年 (1539) に入城し、続いて子の義龍、孫の龍興が城主となった。
 永禄10年(1567) に斉藤龍興を破った織田信長が城主となり、名を稲葉山城から岐阜城へと改めた。城下では 「楽市」 を保護し、「天下布武」 を掲げて天下統一の本拠地とした。山頂にある天守閣からは、長良川流域の山々や濃尾平野を一望することができる。信長は、この景色を眺めながら、天下を治める想を練ったのであろう。

岐阜城マップ

 慶長5年 (1600) の関が原の戦いでは、城主・織田秀信は豊臣方に味方したので徳川方に攻められ、開城するに至った。翌慶長6年に岐阜城は廃城となって取り壊され、それ以降江戸時代には建てられることはなかった。明治末になって木造の模擬城が建てられたが、昭和18年に焼失してしまった。現在の天守閣は、昭和31年に鉄筋コンクリートで再建されたものである。
 金華山ロープウェーは、麓の岐阜公園からの標高差330mを4分で登るものである。山頂の天守閣からは360度の視界が開け、はるか伊勢湾までも望むことができる。真っ平な平野の向うに僅かに見える突起物は、名古屋駅の超高層ビル群である。

岐阜城G


季節通信21ドングリ


駒ケ岳ロープウェー

 木曽駒ケ岳は中央アルプス (木曽山脈) の最高峰、標高2956mの高山である。前岳や中岳などいくつかの頂きをもつが、その中の 「宝剣岳」 (2931m) は象徴的な存在である。北アルプスの槍ヶ岳に匹敵するように鋭く尖った山容は、伊那谷を走る中央道からも遠望することができる。
 宝剣岳の東斜面に広がる一帯は 「千畳敷カール」 と呼ばれている。カール (圏谷) とは、氷河時代に形成された地形のことで、氷河に削られた急斜面とモレーンと呼ばれる堆積した岩とで構成されている。カールの下部には緩やかな斜面や小さな池のある平らな部分があり、少々足の弱い人でも歩くことができて高山の雰囲気を楽しむことができる

木曽駒マップ

 千畳敷カールまでは、バスとロープウェーで行く。ロープウェー駅までの山道は道幅も狭く、急な曲がりが多いので専用のバスでしか行くことができない。JR飯田線の駒ヶ根駅や中央道インター近くの菅の台バスセンター (駐車場あり) から乗ることができる。
 「中央アルプス駒ケ岳ロープウェー」 の標高差950mは日本最高である。また千畳敷駅は標高2612mで、我が国最高地点にある駅である。夏の高山植物も多いに見どころがあるが、秋のナナカマドやダケカンバの紅葉も見事である。簡単に行けるからとはいえ、やはり高山には絶えず危険が伴うものである。気象や体調、靴や服装には充分に注意をする責任はある。

木曽駒G

木曽駒H
【白馬五竜岳と木曽駒ヶ岳で撮影した高山植物】
 (上)カライトソウ クガイソウ クルマユリ 
 (中)ササユリ シモツケソウ タマガワホトトギス
 (下)チングルマ ニッコウキスゲ ヤナギラン

湯谷温泉駅

 湯谷温泉は、鳳来峡の宇連川沿いに広がっていて、日本百名泉にも選ばれている。温泉の歴史は古く、1300年前には開湯されていた。伝説によれば、鳳来寺の開祖・利修仙人により発見されたとある。仙人は温泉の効用により、308歳もの長寿を全うしたという。
 宇連川のこの辺りは、川底に岩盤が露出して砂や砂利も無いため 「板敷川」 とも呼ばれている。長い年月の間に削られた岩が、大きな滝や小さな滝を形成して、美しい景観を形つくっている。水深が浅いところでは、子供の水遊び場ができていた。

湯谷マップ

 鳳来寺駅は、JR飯田線の前身 「鳳来寺鉄道」 の開通とともに、明治32年 (1899) に建設された。現在は無人駅になっているため、乗り降りのホームへ行くのはフリーであり、車掌さんに切符を渡すようになっている。
 木造の駅舎は、窓や入口が板張りで閉ざされており、利用はできないようである。かつては、鉄道利用により訪れた観光客も、今は川むこうの国道151号線を利用するようで、新館は国道沿いに建てられている。駅前に建てられた歓迎アーチは、いかにもレトロな昭和の雰囲気である。

湯谷G

JR最古の跨線橋(半田駅)

 JR武豊線は、愛知県で初めて敷設された官営鉄道である。明治19年に武豊~熱田間が営業を開始した。もともとは、東海道線整備工事の資材を、武豊港から名古屋まで運搬する目的をもっていた。3年後に東京~神戸間が開通し、その支線となった大府~武豊間は 「武豊線」 と呼ばれるようになったのである。
 半田は知多半島の主要都市であり、開通と同時に駅ができた。跨線橋が完成したのは明治43年のこと、単線の線路を跨いで反対側のホームへ渡ることが出来るようになった。現在では、「JR最古の跨線橋」 と位置づけられている。因みに、駅舎そのものが一番古いのは隣の亀崎駅である。(このブログ平成25年4月9日参照)

半田駅マップ

 橋を支える鉄柱は円柱になっていて、階段へのゲートは大理石風の白いエンタシスである。渡り廊下の屋根は鉄製トラス、リベット打ち構造である。腰壁は木製板張りで、ペンキ塗が施されている。煉瓦造りの 「油倉庫」 も含めて全体に古色蒼然としていて、「明治」 を感じる雰囲気である。
 駅の外にSLの機関車が保存展示されている。これは昭和45年まで武豊線を走っていた 「C11265」 蒸気機関車である。私は中学二年生まで亀崎に住んでいて、家のすぐ前を走る汽車を見ながら育った。煙を吐いて走る蒸気機関車から、煙の出ないディーゼルカーに切り替わった時には衝撃を受けたことを記憶している。現在は電化されている。

半田駅G


季節通信8百合

東京駅

 道路の起点は日本橋であるが、鉄道の起点は東京駅である。東海道本線・同新幹線、東北本線・同新幹線の始発駅になっている。また、乗換えをせずに全国32の都道府県と直結し、1日の発着数が3000回という巨大なハブ・ステーションである。そのためのプラットホームが、JR線だけで14面28線もあるという。
 東海道線の新橋・神戸間が全線開通したのは、明治22年 (1889) のことである。ちょうどその頃、私鉄の日本鉄道が上野・青森間の東北本線を建設していた。そこで、新橋と上野を高架鉄道で結ぶ事業が計画され、その途中の中央停車場として 「東京駅」 が建設されたのである。完成は大正3年 (1914) 12月であった。

東京駅E

 駅の正面玄関 (丸の内側) は皇居の正面に当たり、国家の象徴的な事業と位置づけられた。設計は、当時もっとも力量のある建築家・辰野金吾と葛西萬司に委ねられた。白い御影石で縁取りされた赤レンガ造りの3階建て、長さ330m面積約9500㎡である。
 昭和20年 (1945 )5月の東京大空襲の際に焼夷弾が直撃し、大火災となって鉄骨造りの屋根は焼け落ちてしまった。昭和22年に修復した建物は、2階建てでドーム屋根でなく、八角形の木造屋根であった。平成になって、創建当時の形態に復元しようとの都民の思いが募り、平成19年から5年をかけて工事が行なわれ、平成24年10月1日に完成を見ることができた。この費用約500億円は、低層であるために余剰となった上空の容積率、いわゆる 「空中権」 を周辺の高層ビルに移転することにより捻出できたという。

東京駅F

明知鉄道と極楽駅

 明知鉄道は、中央線と分岐して恵那から明智までの約25kmをつなぐローカル線である。もともとは、改正鉄道敷設法により静岡県掛川から愛知県武節を経て岐阜県大井 (恵那) まで結ぶ計画であった。昭和8年 (1933)、その部分として明智までが開業したものである。
 昭和43年に、国鉄再生のため赤字83線が廃止の提言を受けたが、その中の一つに加えられた。しかし、地元の人々の強い願いを受け、岐阜県や恵那市、中津川市、地元銀行などが中心となって出資し、第三セクターとして存続することとなった。開業は昭和60年 (1985) のことである。

明知鉄道マップ

 経営を助けるための様々な工夫が施されている。「寒天列車」 や 「きのこ列車」 といったイベントを開催したり、地元企業の協力を得てラッピング列車を走らせるなどである。左の写真は、様々な色や模様で飾られたラッピング列車がすれちがうところである。
 駅の名前も、地元の関心を高めるため一般募集を行なっている。「極楽駅」 は、平安末期から室町時代に建てられていた「極楽寺」に因んだネーミングである。かつて大いに繁栄した民衆寺で、地域に慣れ親しまれて字名として残っている。跡地には夥しい出土品が発掘されているという。駅名表示板の横に、「幸せ地蔵」 と呼ぶ可愛らしい石像が立っていて、台座には“あしたもいい日になりますように” と刻まれていた。

明知鉄道A

名松線(全線復旧)

 今日 (平成28年3月26日)、三重県の名松線が全線復旧した。平成21年10月8日の台風18号により大被害を受けて以来、家城駅から伊勢奥津駅までの6区間がストップし、バスによる代行運転が行なわれていたのである。過去に何度も廃線の危機があったが、その都度、苦難を乗り越えて存続を続けてきた。地元では、「名松線を元気にする会」 を組織して、再び廃線論が起きないように、来訪者増を図るなどの地域活性化運動を展開している。
 名松線は昭和4年 (1929) 年に開通した、雲出川の渓流沿に走るローカル線である。当初は名張から松阪までを結ぶ予定だったので、両方の頭文字をとって 「名松線」 と名付けられた。全線で約45km、起終点を含めて15の駅がある。

名松線マップ

 私の出身校・三重大学は、興津のさらに奥にある美杉の山に、林業実習用の演習林を持っている。昨年の夏、懐かしい演習林を数十年ぶりに訪れるクラス会が開催された。その途中で、開通の日を迎えるために改築された、新しい駅舎を見ることができた。
 線路の終点近くに、朽ち果てた (失礼!) 構造物を見つけた。これは、昭和40年に気動車化される以前、蒸気機関車が走っていた時代の遺物で、機関車に水を供給するための水槽である。右の写真で、煙に半分隠れているが、この水槽らしいものが写っている。

名松線B

ブダペストの市電とトロリーバス

 番外編:この7月に旅行したハンガリーの話題を少々・・・

 ブダペストはハンガリーの首都。人口約200万人は、名古屋とほぼ同じである。ドナウ川を挟んで、西側のブダと東側のペストが一緒になってブタペストとなった。とても魅力的な街で 「ドナウの真珠」 と賞されている。
 この街の主要な交通手段に市電がある。カラフルな車両が、5~6両編成で走る姿も美しいが、架線を支える電柱のデザインも素晴らしい。下の写真は、ドナウ川の真中に横たわるマルギット島への橋を渡っているところであるが、橋の親柱や街路灯・信号機も含めて調和のある景観である。

ブダペストの交通1

 もうひとつ、トロリーバスも走っている。レールのない電車とも言えるし、電気で走るバスとも言うことができる。ちょっと古めかしい姿が、伝統的な建物を大切にする街並みに似合っている。  
 このトロリーバスが、名古屋にも走っていたことを知る人はかなり少ないのではないか? 昭和18年~26年の9年間、東大曽根から桜山までの一路線だけに導入されていたのである。 

ブダペストの交通マップ

養老鉄道養老線

 養老といえば養老の滝。滝の水がお酒になったという孝子物語で有名である。古くから広く知られていて、続日本紀にも、元正天皇が噂を聞いて行幸されたとの記事がある。また、江戸時代には、葛飾北斎が浮世絵として書き残してもいる。高さ約30m、幅約4mの滝が巨岩・老樹の中を流れ落ちる。尋ねたのは11月末、ちょうど紅葉の真っ盛りであった。

養老マップ

 養老鉄道は、岐阜県・揖斐駅を発し、途中大垣駅で東海道本線と交差した後、三重県・桑名駅へと進む約58kmの地方鉄道である。養老山脈と揖斐川に挟まれた細長い平野の真ん中を通っている。ところが中ごろの鳥江駅を過ぎると急に直角に曲がって山へと向かって行く。たぶん、養老の滝への観光客を、滝の近くまで運ぶ役割をもっているのだろう。養老駅のホームには、孝行息子がお酒を酌んだという瓢箪がたくさん吊り下げられていた。

養老E

四日市「近鉄・内部線」

 内部と書いて 「うつべ」 と読む。近鉄四日市駅と内部駅5.7kmの間を結ぶ、単線のローカル線である。三岐鉄道・北勢線 (平成25年4月30日のブログ参照) と同じ762mmのナローゲージ、貴重な存在といえる。明治44年に 「三重軌道」 が設立された後、順次延伸が行われ、内部駅までつながったのは大正11年のことである。

内部線C-2
         ≪紫・ピンク・緑・黄緑・空色 カラフルな車両が楽しい≫

 幾多の変遷の後、昭和40年に近鉄の経営となったが、平成24年には鉄道の廃止とバス路線への転換の方針が打ち出された。しかし、地元民の熱意を受け、近鉄と四日市市の合意により 「公有民営方式」 での存続が決められた。今年3月に 「四日市あすなろう鉄道」 が設立され、来年から運営を開始する予定になっている。駅舎などには 「みんなで乗って内部線を守ろう!!」 といった標語が掲げられている。                                 

内部線マップ
    ≪膝がくっつきそうな座席≫
▲ページトップ

Appendix

カレンダー

09 | 2019/10 | 11
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

コンパクト月別アーカイブ

最新記事

         

建設・補償コンサルタント

ランキングに参加しています!

プロフィール

FC2USER480348EQK

Author:FC2USER480348EQK
森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
FC2ブログへようこそ!

最新トラックバック

        

検索フォーム

QRコード

QR
▲ページトップ