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明治用水「旧頭首工と船通し」その3

 先月27日にお約束した資料が見つかりましたので、ここに掲載します。資料を探したのは、豊田市中央図書館、豊田市駅のすぐ近くにあります。以下、本の名称と関連記事の頁をお知らせします。
 ◆『明治用水 ~120年の流れ そして21世紀へ~』 平成11年4月
    P143 明治用水堰堤の船通閘門
 ◆『明治用水をたずねて』 文:野暢保 絵:大見功
    P6~P7
 ◆『明治用水百年史』 明治用水百年史編纂委員会編集 昭和54年4月
    P40~P44
 ◆『明治用水』および『資料編』 昭和28年3月(昭和59年の復刻版)
    P223~P231
 ◆『地域を開いて一世紀・・・明治用水』 毎日新聞社 昭和55年

明治用水E
≪水源の船通(ドック)≫ 小笠原金次郎画 豊田市資料館蔵
図面左から明治用水への取水口、堰堤、筏通し、右端に船通が描かれている。
運搬には帆船が使用されていた。

明治用水F
≪使用していた当時の船通閘門≫ 下流側から見たところ。

明治用水G
≪取水口付近の平面図≫ 図面には明治42年1月とある。

明治用水「旧頭首工と船通し」その2

 平成26年10月21日にご紹介した明治用水 「旧頭首工」 と 「船通し」 について、岡崎市北野町にお住まいの方からコメントが寄せられました。“以前からこの構造物を見て、何だろうと不思議に思っていたけれど、ブログを見て分かりました” というお礼と、“さらに詳しい資料があれば” というお願いをいただきました。
 現地調査に訪れたときに、施設近くにあった説明版を写真に撮ってきましたので、ここにご紹介します。さらに、詳しい資料が見つかれば、追ってご紹介したいと思います。以下、看板に記されていた文章と写真を掲載しますのでご覧ください。

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コメント回答2

明治用水「旧頭首工」と「船通し」

                                        ≪ 平成26年10月21日の再掲≫
 矢作川下流域の碧海台地は水田に適さない洪積台地であり、長年、用水路による給水が悲願であった。明治13年に通水された明治用水は、台地を美田に変え、人々の豊かな生活を実現した。明治34年にはさらに頑丈な頭首工が完成した。下の絵図は、川幅いっぱいに堰堤が築かれ、右岸側から明治用水へと水を引く様子が描かれている。
 旧頭首工は、新しい頭首工が昭和33年にできた後の昭和41年、矢作川が一級河川になった際に取り壊された。しかし、左岸側の排砂門5門と船通し閘門は壊されずに残っている。コンクリートのない時代に服部長七考案の「人造石」でできており、貴重な土木施設として、平成19年に土木学会が選奨する土木遺産に認定された。

コメント回答3

 陸上交通が発達するまでは、矢作川は物資輸送の大動脈で、多くの川船が海産物、板類、薪炭などを運んでいた。また、木材は筏に組まれて送られていた。明治用水の取水が多い時期には、堰が締め切られるので、川の中央部に船通しが造られた。さらに、重い筏や力の弱い船は左岸の閘門を使って行き来した。閘門には上下に扉があり、松重閘門(平成25年3月13日の当ブログ参照)と同じように水位を調整しながら船を通したのである。現在も扉のための「ひじつぼ」が残されている。

コメント回答4

浜松城の井戸

 左の写真は、天守閣のすぐ下にある井戸である。説明板によれば “天守曲輪に1つ” とあるので、これがその井戸であろう。「銀明水」 と名付けられていた。
 天守閣の 「穴蔵」 と呼ばれる地階にも井戸があった。戦の時に籠城になることも想定されるため、最後の拠点としての飲み水確保が必要であったのだろう。構造は井戸の周りに石を積んで崩れないようにする 「石組井戸」 である。昭和33年の再建時に調査され、右の写真のように整備された。

浜松城井戸A

 このほかに、本丸に1つ、二の丸に3つ、作左曲輪に4つ、合計10か所の井戸があったという。安政元年 (1854) の大地震の後に描かれた 「安政元年浜松城絵図」 (浜松史蹟調査顕彰会蔵) を見ると、本丸の中ほどに “丸に井の字” を書いた印があり、曲輪には “清水場” との記述を2か所見つけることができる。

浜松城井戸B

草原の井戸

 日本で水平線を見たことはあるが、地平線には出会ったことがない。ヨーロッパ大陸のハンガリー平原で地平線を見た。年間雨量が日本の半分以下であるので、森林は成立せず草原 (ステップ) がどこまでも続いている。そこには、放牧された牛や羊がいて、馬を自由に操る騎馬民族がいた。

草原4枚

 貴重な水を利用するための井戸が掘られていた。休憩小屋の近くに、汲み上げた水が樋を流れて、そのまま家畜の水飲み場として使える井戸があった。高い柱の上部に、天秤棒のような横木があり、つるべ桶の反対側に重りがついている。重い水を楽に汲み上げることのできる工夫である。

草原2枚



松平東照宮と家康産湯の井戸

 豊田市駅の東10kmほどにある松平郷は、徳川家発祥の地である。伝承によれば、時宗の遊行僧 「徳阿弥」 が諸国を流浪した後、松平郷の土豪在原氏の婿となり、松平親氏と名乗ったのが始まりという。現在の松平東照宮は、親氏以来居館とした地であったが、元和5年 (1619) に家康を祀って東照宮となった。地域一帯は山に囲まれた景勝の地で、松平城跡や松平家の菩提寺 「高月院」 などがある。

松平マップ

 東照宮の一角に、松平家が代々産湯に使った井戸がある。家康は天文11年 (1542) に岡崎城で生まれたが、この井戸の水を竹筒に汲んで、早馬で届けたといわれている。樹林の根元に 「フタバアオイ」 の群落があった。徳川家の御紋 「三葉葵」 は3枚の葉を描いているが、三葉のアオイは存在せず、このフタバアオイ(対生で2枚)をデザインしたものである。

松平D

明治用水「旧頭首工」と「船通し」

 矢作川下流域の碧海台地は水田に適さない洪積台地であり、長年、用水路による給水が悲願であった。明治13年に通水された明治用水は、台地を美田に変え、人々の豊かな生活を実現した。明治34年にはさらに頑丈な頭首工が完成した。下の絵図は、川幅いっぱいに堰堤が築かれ、右岸側から明治用水へと水を引く様子が描かれている。
 この頭首工は、新しい頭首工が昭和33年にできた後の昭和41年、矢作川が一級河川になった際に取り壊された。しかし、左岸側の排砂門5門と船通し閘門は壊されずに残っている。コンクリートのない時代に服部長七が考案した 「人造石」 でできており、貴重な土木施設として、平成19年に土木学会が選奨する土木遺産に認定された。

明治用水旧頭首工A

 陸上交通が発達するまでは、矢作川は物資輸送の大動脈で、多くの川船が海産物、板類、薪炭などを運んでいた。また、丸太は筏に組まれて送られていた。明治用水の取水が多い時期には、堰が締め切られるので、川の中央部に船通しが造られた。さらに、重い筏や力の弱い船は左岸の閘門を使って行き来した。閘門には上下に扉があり、松重閘門 (平成25年3月13日の当ブログ参照) と同じように水位を調整しながら船を通したのである。現在、扉のための 「ひじつぼ」 も残されている。

明治用水旧頭首工マップ

明治用水頭首工

 矢作川を水源とする明治用水は、江戸時代 (1808) に計画されたが、完成を見たのは明治13年(1880)のことである。この用水により、安城市を中心に8000haもの農地が拓かれ、「日本のデンマーク」 とも呼ばれる農業先進地になった。今でも地域発展の大動脈となっている。
 当初は、この地点より2kmほど上流の 「草堰」 から取水していた。2代目は明治34年に築造された、300m上流の石造り堰堤である。これも老朽化したので、昭和32年 (1957) に現在の頭首工が整備されたのである。(下の写真)

明治用水B

 川幅いっぱいに水を堰き止める堰堤の長さは167m、高さは14.5mである。7つの水門と、左岸側には魚道、右岸側には土砂吐がある。上部は東行1車線の普通道路になっている。
 下の写真は、明治用水の先端部である。堰堤で止められた水が水門をくぐり、まず8つの排砂門に到る。そこから調整門でコントロールされながら幹線水路へと流れて行くのである。

明治用水マップ

名古屋市水道取水口

 名古屋の水道事業は、明治時代後半から企画されている。明治27年 (1894) に、入鹿池を水源とする案が議論されたが見送りとなった。明治39年ごろから計画された木曽川導水は、同43年着工、大正3年に完成した。最初にできた取水口は犬山城の直下、今も記念碑と手掘りのトンネルが残っている。現在使われているのは、それより上流の第2取水口 (昭和8年完成) とさらに上流の第1取水口 (昭和32年) である。写真は犬山橋より600mほど上った第2取水口である。
 ここから名古屋市までは約20km、その導水路の上部は愛知県の管理する公園となっている。「尾張広域緑道」 と呼ぶ。桜などの花やみどりを楽しむ散歩道になっていて、途中にはスポーツ公園も整っている。昭和天皇御在位60周年を記念して整備された。

犬山取水口A

 上の写真は、鵜飼の観覧舟から撮影した。犬山城からこの取水口にかけての水面で、木曽川鵜飼が行われている。鵜飼は、鵜舟に乗った鵜匠が鵜を使って川魚を捕る古代漁法で、1300年もの伝統を伝えているという。船首にはかがり火が焚かれ、とも乗り・なか乗りと3人で舟と鵜を巧みに操る。見物客は鵜舟と並走しながら、幻想的な歴史絵巻を楽しむという趣向である。

犬山マップ

水道道(すいどうみち)

 名古屋の都心を彩る名古屋まつりは、今年は10月17日~19日に開催され、恒例の3英傑の時代絵巻が展開される。3人の中では信長や秀吉に人気が集まるかも知れないが、名古屋にとって最も貢献したのは家康だと思う。信長は岐阜、安土に城を築き、秀吉は大阪城で権力を振るった。
 名古屋に城と町をつくったのは家康である。関が原の戦いから10年後の1610年、西方への守りに備えて、清州から町ごと移転したのである。家康は戦乱の世が終われば、文化や商業が大切であると考えていた。そのため城の南に、東西に区画された99の商人町を整備した。「碁盤割」 と呼ぶ。

水道道C

 第2次世界大戦が終了した後、戦災で焼け果てた町を復興する区画整理が大規模に行われた。そのとき、道路は碁盤割を延長して、東西南北に整然と延伸された。名古屋の町は方眼紙のような、まさにグリッド・シティーなのである。
 ところが、今池から東北東に向かって斜めに引かれた道路がある。「水道道」 という。名古屋の水道水は、木曽川から取水して鍋屋上野の浄水場へ流れてくる。ここで浄化された水は、覚王山の山頂にある配水塔 (26年1月18日のブログに掲載) に汲み上げられ、そこから町へと配られる。その水道管を引くためにつくられたのがこの道路である。地下には太い水道管、地表は桜の並木道になっていて、人々の憩いの緑道になっている。

水道道マップ

大垣の自噴井戸

 揖斐川は、山地を抜け出て平野に差しかかった所に広大な扇状地を形成している。大垣は、その扇状地の先端部に位置しているため地下水が豊富で、いたるところに自噴井戸が湧いている。
 お城近くの八幡神社にも、こんこんと湧き出る泉があった。四阿により覆われており、また足場もあるので、多くの人々が水を汲みに来る。水質がいいので、コーヒーを入れても、お茶を点てても美味しいのだという。

大垣自噴井戸A

 大垣駅近くにも、「掘抜井戸発祥の地」 というのがあった。その由来は・・・ 「いくら水の都とは言えども、ひどい渇水期には水が枯れ、三清水といわれる泉に人々が集中することとなる。そこで、天明2年 (1782) 、こんにゃく屋の文七が川端に2mほどの穴を掘り、その底から5mの材木を打ち込み、その跡に節を抜いた竹を入れると水が噴出した」 という。これが掘抜井戸の始まりである。現在は、幹線道路の歩道上に説明板とモニュメントが設置されている。

大垣自噴井戸マップ

堀留下水処理場

  久屋大通の南端、若宮大通の南に堀留下水処理場がある。名古屋の下水道は、大正元年 (1912) に供用が始まった。当初は、汚水を堀川や精神川 (しょうじがわ=現在の新堀川) にそのまま放水したので、川の水質悪化の原因となった。下水を浄化するため、昭和5年、熱田とこの堀留に下水処理施設が運用を開始したのである。
 処理の方式は活性汚泥法で、我が国最初の試みであった。写真は熱田ポンプ所に設置されていた 「ゐのくち式渦巻ポンプ」 (東京帝国大学の井口在屋教授が明治38年に発明) で、昭和2年から50年間使用されていたものである。現在は 「下水道供用開始百周年記念」 のモニュメントとして堀留下水処理場の東北角に設置されている。

堀留下水処理場マップ

 戦後、下水の処理量が大幅に増えたので、昭和48年に隣接する前津公園の地下に増設をした。現在は、その上部に 「ランの館」 の庭園部分が設置されている。ランの館は、オープンから15年を経て廃止となり、来年度からは新しい魅力施設として再出発することとなっている。

堀留下水処理場1

旧東山配水塔

 千種区覚王山の山頂に 「東山給水塔」 が聳えている。この塔は昭和5年に建設されたもので、高さ約38mの鉄筋コンクリートづくりである。木曽川の犬山取水口から鍋屋上野浄水場へ送られた水を、覚王山地区の高台に配水するための施設であった。
 しかし、昭和48年にはその役割を終え、昭和54年からは災害時用の応急給水施設になっている。約10万人が1日使用する水量に当たる300トンの水が常時蓄えられている。名称も配水塔から給水塔に変っている。

東山配水塔 トリミング

 建設当時の塔頂部は平らであったが、昭和58年の修繕時に尖塔状の屋根が乗せられた。一般市民が登ることのできる展望施設も併せて造られている。年2回、3月の春分の日と8月1日の水の日に解放される。
 コンクリート壁一面にツタがからみついていて、夏は緑の葉を、秋はみごとな紅葉を見せてくれる。昭和60年には、国の 「近代水道100選」 に選ばれ、平成3年には、名古屋市の 「都市景観重要建築物」 に指定されている。また、土木学会選奨の「土木遺産」にも選定されている。

東山配水塔マップ

旧稲葉地配水塔

 名古屋市中村区の稲葉地公園に、白亜で円筒形の5階建ビルが聳えている。この建物は昭和12年 (1937) に水道の配水塔として建設されたものである。
 この頃、名古屋市は急速に都市化が進み、西部地域の水道需要が大幅に増加した。配水塔は5階部分が水槽になっていて、約4000トンの水を蓄えることができる。夜間電力で汲み上げて、自然流下により供給するのである。その重さを支えるために、16本の円柱をもつ構造となった。

稲葉地1

 ところが、この給水施設は完成してたった7年後の昭和19年に使用休止になってしまった。それは、大治浄水場にポンプ圧送式の給水施設ができたためである。その後この建物は、昭和40年に中村区の図書館として改修され、長く市民に親しまれることとなる。

稲葉地2

 そしてさらに平成3年、中村図書館が中村公園に移転したため、再び空き家になってしまった。名古屋市では、平成元年にすでに 「都市景観重要建築物」 に指定されていたこの建物を再利用すべく検討が進められた。
 この年の暮れに市長と対談した天野鎮雄氏 (愛称アマチンさん) のご意見により市長が決断し、「演劇練習館」 として再出発することとなった。平成7年に改修を終え、「アクテノン」 の愛称で3度目のお役目を果たしているのである。

稲葉地マップ

諸戸水道貯水池遺構

 北勢線 「馬道駅」 から 「西桑名駅」 へ向かう途中に、この遺構があった。桑名の町を見下ろす小高い丘の上、広大な諸戸邸の近くである。明治時代に桑名の豪商諸戸清六氏 (初代) は、水に困っていた地元の人たちのために、私財を投じてこの水道施設を整備したのだという。

諸戸水道

 明治32年 (1899)、自家用の水道を敷設するとともに、町民の使用に耐えうる水量を確保し、明治37年、町内に55か所の給水栓と24か所の消火栓を設置して無料で開放した。煉瓦造の貯水池は、東西13.4m、南北23.2m、深さ3.6m、約950トンの水を蓄えることができる。全国で7番目に建設されたこの水道施設は、大正12年 (1924) には町に寄贈され、昭和4年まで使用された。

諸戸水道B

 貯水池は2つの部屋に分かれており、それぞれの部屋をジグザグに水が流れるような構造になっている。古い図面を見ると、貯水池の上に木造の上屋が描かれている。写真で見る富士山型のレンガ積みが上屋の基礎になっていたのであろう。諸戸邸に接して小さな公園広場があり、そこからフェンスで囲まれた貯水池を見ることができる。

諸戸マップ


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 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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Author:FC2USER480348EQK
森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:「園長さんのガーデンライフ」
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