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高蔵寺サイフォン橋

 愛知用水は、岐阜・加茂郡の木曽川から流れて知多半島に注ぐ。その途中、犬山の入鹿池の横に架かる「入鹿水路橋」については先月(4月)3日にご報告した。その後、庄内川を渡るためのサイフォン橋が高蔵寺にあることが分かったので取材することとした。
 前回(4日前)の「東谷山」の写真に、庄内川を渡る水道橋が写っている。美しいアーチのローゼ橋に、青く塗られた水道パイプが乗っている。位置的にもきっとこれだと近寄って見ると「愛知県上水道」の文字が見える。確かに、愛知用水の水量としては細すぎるように思った。

高蔵寺サイフォンG

 もう少し上流を探すと、愛知環状鉄道の近くに巨大な水道管があった。緑色のトラス橋に同じく緑色に塗られたパイプが走っている。「高蔵寺サイフォン橋」という。長さ155m、直径は人の背の2倍ほどの3.3mもある。近寄って見ると驚くほどの太さである。
 「サイフォン」とは、道路の下などに管を通して水を送るシステムをいう。ただし、送る側(入口)の方が出口より高い位置にある必要がある。ここでは、高座山の中腹を流れてきた水が管を潜って流れていくのであろう。幅も深さも大きい愛知用水の水を流すには、これほどの太さが必要なのである。

高蔵寺サイフォンH

宮田導水路

 宮田用水は、「宮田導水路」とも呼ぶ。木曽川からの取水口をもち、他の用水に水を導く役目をもっているからである。大江用水は「大江川」とも言う。この用水の歴史はさらに古く、平安時代(794~1185)に遡ることができる。
 長保3年(1001)尾張の国司大江氏(百人一首でも名高い「赤染衛門」の夫)が江南の宮田から水を引き込み、一宮・稲沢を南下したのち蟹江川となって伊勢湾に注ぐ、長大な用水路を造ったという。江戸時代には普通の川と思われ、「大江川」と呼んでいたのであろう。

宮田導水路マップ

 宮田の辺りは木曽川が膨らんで、まるで蛇が獲物を飲み込んだような形をしている。木曽川本流と南派川の間に広大な中洲があり、川島町と呼ばれている。この複雑な地形が尾張平野西部の農耕地にとって重要な水源であり続けているのである。
 宮田西閘門と南派川との間に宮田導水路の開渠があり、4門の水門(ゲート)があった。ここから大江用水へと導かれていく(暗渠)。導水路に沿って進むと、堤防のところにもうひとつ水門があった。これは取水でなく、余剰水を河川側に排水する施設である。常時は開いていて、洪水時に閉鎖される。

宮田導水路G

季節通信188ひまわり

宮田用水と宮田西閘門

 木曽川の御囲堤については、先回の「入鹿池」の項で少し触れた。御囲堤の整備は、洪水を防ぐだけでなく、家康にとっては大坂方からの防御や木曽山からの木材運搬のためでもあったらしい。堤防が出来たため、大雨時などの氾濫は防げるようになったが、田畑への灌漑はできなくなってしまった。
 そのため、従来の支流に代る「用水」を整備する必要があった。まず東西に走る「宮田用水」ができ、そこから南へ流れる「大江用水」や「般若用水」、「奥村用水」が開削された。
 木曽三川や用水、輪中の様子を一枚にまとめてみた。これは独立行政法人「水資源機構」のホームページに掲載されている3枚の地図を重ね合わせたものである。(なかなかの労作!?)

水路網G 修正

 用水への「取水口(杁)」は、洪水などにより土砂が堆積すると使用できなくなる。宮田用水への取水口は当初、一宮市の「大野杁」(現在は極楽寺公園あたり)であったが、江南市の「宮田西元杁」、「宮田東元杁」に移り、さらに上流の「鹿ノ島杁」へと移った。最終的には、犬山市の「犬山頭首工」が昭和37年(1962)に完成して今に至っている。(2021・11・17「犬山頭首工」参照)
 「宮田杁」の近く、「宮田用水」から「大江用水」へと注ぐ所に「宮田西閘門」がある。船を上下させて進ませる装置である(2013・3・13の「松重黄門」参照)。今は、用水が暗渠化されたため水面はなく、閘門を構成していた石積みと橋だけが残っている。石積みは「長七たたき(人造石工法)」で出来ている。橋の親柱に「宮田西閘門」「明治三十四年改築」の文字が刻んであった。

宮田杁G

季節通信186桜の花びら


犬山浄水場と小野洞砂防公園

 名鉄・犬山遊園駅から東へ2kmほど行った山中に「犬山浄水場」がある。岩屋ダムを水源とし、木曽川の表流水を直接取水する。昭和49年から操業を始めた後、順次拡張をして現在では時間当たり約35万トンの給水を行っている。これは県営浄水場としては最大の量である。
 浄水場の隣にユニークな公園があった。「小野洞(おのぼら)砂防公園」という県営公園である。中央に水の流れがあり、洪水を防ぐための砂防堰堤や法面保護などの施設を展示して、砂防への理解を深めてもらおうとの公園である。管理は河川担当者が行っている。

犬山砂防公園G

 県営公園の隣に犬山市の運営する「ひばりヶ丘公園」がある。このあたり一帯には多くの小鳥が生息していて「野鳥観察スポット」になっている。雑木林にはソヨゴやガマズミ、アズキナシといった赤い実のなる木が生育している。メジロの好むウメの花も咲いていた。
 2つの公園は歩道橋で結ばれていた。「木精橋」と呼び、米松の集成材でできたトラス橋であった。しかし、完成から25年を経た昨年、老朽化のため残念ながら撤去されてしまった。現地にはコンクリート製の橋台と、山のように積まれた残材が残っていた。

入鹿水路橋(愛知用水)

 愛知用水は、岐阜県加茂郡の木曽川から取水して知多半島南端に至る、全長112kmの用水路である。尾張東部から知多半島の丘陵地を流れて、溜池しか頼れなかった広大な農地を潤している。その中間地点の東郷町に、調整池としての「あいち池」があることは平成26年(2014)2月21日にご紹介した。
 取水地から20km地点に「いるか池」がある。入鹿池の堤防近くに「水路橋」があるというので訪ねてみた。初めは、入鹿池に愛知用水が注いでいるのか?とか、水路橋は入鹿池からの水か?とか思ったけれど、愛知用水と入鹿池は全く無縁であった。愛知用水が入鹿池近くを通過するのみであることが分かった。

入鹿水路橋G

 この水路橋も、愛知用水完成の昭和36年(1961)年に完成しているので、昨年「通水60周年」を迎えている。当初の構造は鉄筋コンクリートのアーチ橋と思われるが、現在は鋼板で補強されている。これは、愛知用水第二期工事により水量が増えたため、あるいは耐震性を高めるための改築であろう。

季節通信182サンシュユ

忠節用水第2樋門と御手洗池

 忠節用水は、金華山山麓の鏡岩に取り入れ口をもつ農業用水である。江戸時代からすでにあったと言われている。水量調節や洪水時の締め切りのための樋門が5か所あるという。現在の第2樋門は、昭和8年(1933)に建てられたものである。
 樋門本体は鉄筋コンクリート製、上部にある制御室は煉瓦造りである。水門の壁は、玉石張りであるが、前回掲載した「鏡岩水源地」の建物(昭和5年)とよく似て、長良川の川原石が埋め込まれている。同じ設計者によるものだろうか?ゲートは平成4年に取り換えられた。

忠節樋門I

忠節樋門H

 金華山南麓の忠節用水沿いには、いろいろな施設が立地している。鏡岩水源地の隣には護国神社がある。岐阜公園の南端も伸びていて、中国風の「日中友好庭園」がある。「金華山トンネル」のある国道256号で隔てられているが、螺旋階段のある歩道橋で本園とつながっている。
 中国庭園に接して高い岩壁があり、ここに一条の滝が流れている。滝壺の池を「御手洗池(みたらしいけ)」という。山の裏側には昔「伊奈波神社」があり、この池で手を洗って参拝したことからこの名がついた。関ヶ原合戦で石田方の岐阜城は落城した。その時、奥女中らはこの池に投身したという。

忠節樋門G

岐阜市・鏡岩水源地

 岐阜市には17か所の水源地があるが、最も古くて最も大規模なのが「鏡岩水源地」である。金華山の南麓と長良川に挟まれた位置にある。原水は伏流水と地下水。伏流水は長良川に沿って浅い地下を流れるもので、地下水は雨水や融雪水が地下深く浸透したものである。
 水質が良いので、最低限の消毒のみで配水することができる。鏡岩水源地は、昭和5年から稼働している。水量が多く、今も市内の配水量の30%を占めている。現在の建物は、昭和40年代に建てられたものであるが、当初の建物も残されていて「水の資料館」「水の体験学習館」として再利用されている。

鏡岩水源地G

 入口の門は、アーチ式の凱旋門のような形をしている。門に連なってレンガ造りの長い塀が敷地を囲んでいる。どちらも開設当時のものであろう。現在の建物の裏側に、古い「ポンプ室」と「エンジン室」が保存・活用されている。鉄骨造りおよび鉄筋コンクリート造りの平屋建てである。
 入口や窓はアーチを基調とし、明かり取りは丸窓となっている。外壁全体は長良川の川原石で埋めつくされ、四隅のみ白い花崗岩を積み上げてアクセントとしている。
 敷地の片隅に、古い発電機が展示してある。これは、揖斐川支流の「小宮神発電所」で明治41年から昭和57年まで使われていたアメリカ製の機械である。

水源地マップ

季節通信146徳川園の紅葉

豊橋市「小鷹野浄水場」

 豊川河川敷の「下条取水場」で、取水された伏流水は「小鷹野浄水場」で浄化され、「多米配水場」
から各戸へ配水される。豊橋市独自のこのシステムは昭和5年に構築された。給水を受けるのは、全市の40%におよぶという。
 小鷹野浄水場には、5つの「緩速ろ過池」がある。5つの池を順に流して段階的に浄化するのではなく、それぞれの池で浄化を完成しているという。全国屈指の清流である豊川の水が、河川敷の河床でろ過されて送られてくるので、ゆっくり時間をかけて沈殿・ろ過をすれば足るのである。

豊橋浄水場マップ

ろ過池の面積は、それぞれ1000㎡で合計5000㎡である。浄化能力は約2万6000㎥である。ろ過池の端に古風なコンクリート造りの建物がある。現在は「薬剤注入機室」との看板が付いているが、元々は「ポンプ室」であった。
 建物入口の両脇に古い水道管が展示され、説明看板も設置されている。説明によると、この管は多米配水場から東雲町地内までの「配水管幹線」に使用されたものである。内径50cm、昭和2年に「立型鋳造法」で制作された鋳鉄管である。

豊橋浄水場G

豊橋市「下条取水場」

 豊橋市では、上水道の水源を探すために、大正13年から調査が始められた。2年におよぶ探索の結果、豊川(とよがわ)の伏流水を利用するのが最も適当と結論づけられた。工事は昭和2年から開始され、竣工したのは昭和5年のことである。
 豊橋市街と豊川対岸の下地町12万人に給水が行なわれた。取水方式は、豊川河床2.4mのところに直径1.8cmの穴の開いたコンクリート管を埋めて伏流水を集める「集水埋渠方式」が採用された。この方式の利点は、取水量が安定することと、河床が濾過層の役割を果たすため、きれいな水が得られることである。

下条取水場G

 下条取水場で得られた水は、少し離れた小鷹野浄水場に送られて浄化された後、隣にある多米屏風岩山頂(海抜53m)にある配水場に上げられて各戸に送水されている。豊川での取水量は毎秒243リットルにもおよび、豊橋市全体の給水量の約40%をまかなっているという。

下条取水場マップ


季節通信46古代ハス

松平東照宮と家康産湯の井戸

 豊田の市街地を過ぎ、東に向かって国道301号を走ると矢作川を渡る。左に豊田スタジアムを見ながらさらに進み、東海環状自動車道の高架をくぐると巴川に至る。次第に山が深くなるところに小集落があり、松平郷と呼ぶ。
 戦後になって豊田市に編入されるが、明治初めは松平村と名付けられていた。松平は徳川の元の名、ここは松平家・徳川家発祥の地である。松平家初代の親氏がこの地に居を構え、氏神として若宮八幡宮を勧誘したのが始まりで、二代将軍秀忠の時代に神君家康を合祀して「東照宮」となった。

松平マップ

 東照宮の周りには、松平氏の居館であった当時からの深い堀が築かれている。後背地は深い山地で、防御の固い館だったと思われる。南面の山を登ったところに松平城の跡がある。北東角の山裾には、こんこんと清水の湧く井戸がある。武家屋敷には必須の水であったのであろう。
 天文11年(1542)12月に、家康が岡崎城で生まれた。そのとき、この井戸から水を汲んで竹筒に入れ、岡崎まで早馬で運んで産湯に使ったという伝承が残っている。「家康産湯の井戸」は石柱の柵に囲まれており、立派な門と社により祀られていた。

松平G


季節通信43フタバアオイ

庄内用水「元杁樋門(もといりひもん)」

 守山区の庄内川に「水分橋」という橋がある。名のとおり、庄内川から水を分けて、庄内用水・黒川・堀川へと流す分岐点である。水分橋のすぐ上流にあるダムのような頭首工により水位を上げ、樋門をくぐって庄内用水へと水を運ぶのである。
 この樋門が特殊なのは、単に水の取入れ口だけでなく、舟が通過する機能をもつことである。かつて、木曽川の石や天然氷などを犬山方面から八田川を通り、黒川から名古屋へ運ぶための水運が活発だったという。樋門は2本のアーチ型トンネルになっているが、高さは舟が通れるように3.2mもある。長さ30mのトンネル内では、竿が使えないので、鎖が巡らされていたという。

庄内用水マップ

 黒川が開削されたのは明治10年(1877)、樋門が築造されたのは明治43年(1910)のことである。トンネルの出入り口には、取水量の調節や洪水時の止水のための木製ゲートが設備されている。ゲートは、上半分が観音開きで下はスライド式である。スライドは、歯車とネジにより止水板を上下する方式である。
 昭和63年に新しい樋門が建てられたので現在は役割を終えているが、貴重な土木遺産として保存されている。下右の写真は改造前に上空から撮影したもので、ネットからお借りした。

庄内用水G


季節通信34節分

兼山ダムと愛知用水

 丸山ダムの少し下流に、兼山ダムがある。完成は古く、昭和18年に遡る。重力式コンクリートダムで、ラジアルゲートが14門装備されている。岸から見ると、まるで競馬出走ゲート「発馬機」のように見える。堤高は36m、堤頂長205m、堤体積は10万5千立方メートルである。流域面積約2500平方キロ、湛水面積 (ダム湖の面積) 102ha、総貯水量は940万トンである。
 もともとの用途は発電専用であるが、現在ではさらに大きな役割を果たしている。ダム湖を利用して、3つの愛知用水取水口が設置されている。兼山ダムの上流の木曽川支流に 「牧尾」 「味噌川」 「阿木川」 という3つのダムがあり、ここに蓄えられた水が兼山ダム湖の取水口から愛知用水へと流れていくのである。

兼山ダムマップ

 尾張の東部丘陵地帯や知多半島には大きな河川が無く、田へ引く水は谷の上流を堰きとめた 「ため池」 に頼らざるを得なかった。そこで、木曽川の水を取り入れて農業用水に、さらに飲料水や工業用水にも使おうと考えて整備されたのが愛知用水である。着工は昭和32年、完成は同36年のことである。幹線の延長は112km、支線の延長を合計すると1012kmにも及ぶという。
 先端の知多半島までの中間地点、愛知郡東郷町に水量調整のための 「愛知池」 がある。下の写真は、愛知池を横断する名鉄豊田線の鉄橋と、愛知池に注ぎ込む用水路である。用水路の形状は、最近まで 「逆台形の単断面」 であったが、改良工事により真ん中に分離のための壁を持つ「2つの矩形断面」となった。これは流水量の増加と片側づつでの流水を可能にする目的のためである。

兼山ダム(愛知池)G

明治用水「旧頭首工と船通し」その3

 先月27日にお約束した資料が見つかりましたので、ここに掲載します。資料を探したのは、豊田市中央図書館、豊田市駅のすぐ近くにあります。以下、本の名称と関連記事の頁をお知らせします。
 ◆『明治用水 ~120年の流れ そして21世紀へ~』 平成11年4月
    P143 明治用水堰堤の船通閘門
 ◆『明治用水をたずねて』 文:野暢保 絵:大見功
    P6~P7
 ◆『明治用水百年史』 明治用水百年史編纂委員会編集 昭和54年4月
    P40~P44
 ◆『明治用水』および『資料編』 昭和28年3月(昭和59年の復刻版)
    P223~P231
 ◆『地域を開いて一世紀・・・明治用水』 毎日新聞社 昭和55年

明治用水E
≪水源の船通(ドック)≫ 小笠原金次郎画 豊田市資料館蔵
図面左から明治用水への取水口、堰堤、筏通し、右端に船通が描かれている。
運搬には帆船が使用されていた。

明治用水F
≪使用していた当時の船通閘門≫ 下流側から見たところ。

明治用水G
≪取水口付近の平面図≫ 図面には明治42年1月とある。

明治用水「旧頭首工と船通し」その2

 平成26年10月21日にご紹介した明治用水 「旧頭首工」 と 「船通し」 について、岡崎市北野町にお住まいの方からコメントが寄せられました。“以前からこの構造物を見て、何だろうと不思議に思っていたけれど、ブログを見て分かりました” というお礼と、“さらに詳しい資料があれば” というお願いをいただきました。
 現地調査に訪れたときに、施設近くにあった説明版を写真に撮ってきましたので、ここにご紹介します。さらに、詳しい資料が見つかれば、追ってご紹介したいと思います。以下、看板に記されていた文章と写真を掲載しますのでご覧ください。

コメント回答1

コメント回答2

明治用水「旧頭首工」と「船通し」

                                        ≪ 平成26年10月21日の再掲≫
 矢作川下流域の碧海台地は水田に適さない洪積台地であり、長年、用水路による給水が悲願であった。明治13年に通水された明治用水は、台地を美田に変え、人々の豊かな生活を実現した。明治34年にはさらに頑丈な頭首工が完成した。下の絵図は、川幅いっぱいに堰堤が築かれ、右岸側から明治用水へと水を引く様子が描かれている。
 旧頭首工は、新しい頭首工が昭和33年にできた後の昭和41年、矢作川が一級河川になった際に取り壊された。しかし、左岸側の排砂門5門と船通し閘門は壊されずに残っている。コンクリートのない時代に服部長七考案の「人造石」でできており、貴重な土木施設として、平成19年に土木学会が選奨する土木遺産に認定された。

コメント回答3

 陸上交通が発達するまでは、矢作川は物資輸送の大動脈で、多くの川船が海産物、板類、薪炭などを運んでいた。また、木材は筏に組まれて送られていた。明治用水の取水が多い時期には、堰が締め切られるので、川の中央部に船通しが造られた。さらに、重い筏や力の弱い船は左岸の閘門を使って行き来した。閘門には上下に扉があり、松重閘門(平成25年3月13日の当ブログ参照)と同じように水位を調整しながら船を通したのである。現在も扉のための「ひじつぼ」が残されている。

コメント回答4

浜松城の井戸

 左の写真は、天守閣のすぐ下にある井戸である。説明板によれば “天守曲輪に1つ” とあるので、これがその井戸であろう。「銀明水」 と名付けられていた。
 天守閣の 「穴蔵」 と呼ばれる地階にも井戸があった。戦の時に籠城になることも想定されるため、最後の拠点としての飲み水確保が必要であったのだろう。構造は井戸の周りに石を積んで崩れないようにする 「石組井戸」 である。昭和33年の再建時に調査され、右の写真のように整備された。

浜松城井戸A

 このほかに、本丸に1つ、二の丸に3つ、作左曲輪に4つ、合計10か所の井戸があったという。安政元年 (1854) の大地震の後に描かれた 「安政元年浜松城絵図」 (浜松史蹟調査顕彰会蔵) を見ると、本丸の中ほどに “丸に井の字” を書いた印があり、曲輪には “清水場” との記述を2か所見つけることができる。

浜松城井戸B

草原の井戸

 日本で水平線を見たことはあるが、地平線には出会ったことがない。ヨーロッパ大陸のハンガリー平原で地平線を見た。年間雨量が日本の半分以下であるので、森林は成立せず草原 (ステップ) がどこまでも続いている。そこには、放牧された牛や羊がいて、馬を自由に操る騎馬民族がいた。

草原4枚

 貴重な水を利用するための井戸が掘られていた。休憩小屋の近くに、汲み上げた水が樋を流れて、そのまま家畜の水飲み場として使える井戸があった。高い柱の上部に、天秤棒のような横木があり、つるべ桶の反対側に重りがついている。重い水を楽に汲み上げることのできる工夫である。

草原2枚



松平東照宮と家康産湯の井戸

 豊田市駅の東10kmほどにある松平郷は、徳川家発祥の地である。伝承によれば、時宗の遊行僧 「徳阿弥」 が諸国を流浪した後、松平郷の土豪在原氏の婿となり、松平親氏と名乗ったのが始まりという。現在の松平東照宮は、親氏以来居館とした地であったが、元和5年 (1619) に家康を祀って東照宮となった。地域一帯は山に囲まれた景勝の地で、松平城跡や松平家の菩提寺 「高月院」 などがある。

松平マップ

 東照宮の一角に、松平家が代々産湯に使った井戸がある。家康は天文11年 (1542) に岡崎城で生まれたが、この井戸の水を竹筒に汲んで、早馬で届けたといわれている。樹林の根元に 「フタバアオイ」 の群落があった。徳川家の御紋 「三葉葵」 は3枚の葉を描いているが、三葉のアオイは存在せず、このフタバアオイ(対生で2枚)をデザインしたものである。

松平D

明治用水「旧頭首工」と「船通し」

 矢作川下流域の碧海台地は水田に適さない洪積台地であり、長年、用水路による給水が悲願であった。明治13年に通水された明治用水は、台地を美田に変え、人々の豊かな生活を実現した。明治34年にはさらに頑丈な頭首工が完成した。下の絵図は、川幅いっぱいに堰堤が築かれ、右岸側から明治用水へと水を引く様子が描かれている。
 この頭首工は、新しい頭首工が昭和33年にできた後の昭和41年、矢作川が一級河川になった際に取り壊された。しかし、左岸側の排砂門5門と船通し閘門は壊されずに残っている。コンクリートのない時代に服部長七が考案した 「人造石」 でできており、貴重な土木施設として、平成19年に土木学会が選奨する土木遺産に認定された。

明治用水旧頭首工A

 陸上交通が発達するまでは、矢作川は物資輸送の大動脈で、多くの川船が海産物、板類、薪炭などを運んでいた。また、丸太は筏に組まれて送られていた。明治用水の取水が多い時期には、堰が締め切られるので、川の中央部に船通しが造られた。さらに、重い筏や力の弱い船は左岸の閘門を使って行き来した。閘門には上下に扉があり、松重閘門 (平成25年3月13日の当ブログ参照) と同じように水位を調整しながら船を通したのである。現在、扉のための 「ひじつぼ」 も残されている。

明治用水旧頭首工マップ

明治用水頭首工

 矢作川を水源とする明治用水は、江戸時代 (1808) に計画されたが、完成を見たのは明治13年(1880)のことである。この用水により、安城市を中心に8000haもの農地が拓かれ、「日本のデンマーク」 とも呼ばれる農業先進地になった。今でも地域発展の大動脈となっている。
 当初は、この地点より2kmほど上流の 「草堰」 から取水していた。2代目は明治34年に築造された、300m上流の石造り堰堤である。これも老朽化したので、昭和32年 (1957) に現在の頭首工が整備されたのである。(下の写真)

明治用水B

 川幅いっぱいに水を堰き止める堰堤の長さは167m、高さは14.5mである。7つの水門と、左岸側には魚道、右岸側には土砂吐がある。上部は東行1車線の普通道路になっている。
 下の写真は、明治用水の先端部である。堰堤で止められた水が水門をくぐり、まず8つの排砂門に到る。そこから調整門でコントロールされながら幹線水路へと流れて行くのである。

明治用水マップ

名古屋市水道取水口

 名古屋の水道事業は、明治時代後半から企画されている。明治27年 (1894) に、入鹿池を水源とする案が議論されたが見送りとなった。明治39年ごろから計画された木曽川導水は、同43年着工、大正3年に完成した。最初にできた取水口は犬山城の直下、今も記念碑と手掘りのトンネルが残っている。現在使われているのは、それより上流の第2取水口 (昭和8年完成) とさらに上流の第1取水口 (昭和32年) である。写真は犬山橋より600mほど上った第2取水口である。
 ここから名古屋市までは約20km、その導水路の上部は愛知県の管理する公園となっている。「尾張広域緑道」 と呼ぶ。桜などの花やみどりを楽しむ散歩道になっていて、途中にはスポーツ公園も整っている。昭和天皇御在位60周年を記念して整備された。

犬山取水口A

 上の写真は、鵜飼の観覧舟から撮影した。犬山城からこの取水口にかけての水面で、木曽川鵜飼が行われている。鵜飼は、鵜舟に乗った鵜匠が鵜を使って川魚を捕る古代漁法で、1300年もの伝統を伝えているという。船首にはかがり火が焚かれ、とも乗り・なか乗りと3人で舟と鵜を巧みに操る。見物客は鵜舟と並走しながら、幻想的な歴史絵巻を楽しむという趣向である。

犬山マップ

水道道(すいどうみち)

 名古屋の都心を彩る名古屋まつりは、今年は10月17日~19日に開催され、恒例の3英傑の時代絵巻が展開される。3人の中では信長や秀吉に人気が集まるかも知れないが、名古屋にとって最も貢献したのは家康だと思う。信長は岐阜、安土に城を築き、秀吉は大阪城で権力を振るった。
 名古屋に城と町をつくったのは家康である。関が原の戦いから10年後の1610年、西方への守りに備えて、清州から町ごと移転したのである。家康は戦乱の世が終われば、文化や商業が大切であると考えていた。そのため城の南に、東西に区画された99の商人町を整備した。「碁盤割」 と呼ぶ。

水道道C

 第2次世界大戦が終了した後、戦災で焼け果てた町を復興する区画整理が大規模に行われた。そのとき、道路は碁盤割を延長して、東西南北に整然と延伸された。名古屋の町は方眼紙のような、まさにグリッド・シティーなのである。
 ところが、今池から東北東に向かって斜めに引かれた道路がある。「水道道」 という。名古屋の水道水は、木曽川から取水して鍋屋上野の浄水場へ流れてくる。ここで浄化された水は、覚王山の山頂にある配水塔 (26年1月18日のブログに掲載) に汲み上げられ、そこから町へと配られる。その水道管を引くためにつくられたのがこの道路である。地下には太い水道管、地表は桜の並木道になっていて、人々の憩いの緑道になっている。

水道道マップ

大垣の自噴井戸

 揖斐川は、山地を抜け出て平野に差しかかった所に広大な扇状地を形成している。大垣は、その扇状地の先端部に位置しているため地下水が豊富で、いたるところに自噴井戸が湧いている。
 お城近くの八幡神社にも、こんこんと湧き出る泉があった。四阿により覆われており、また足場もあるので、多くの人々が水を汲みに来る。水質がいいので、コーヒーを入れても、お茶を点てても美味しいのだという。

大垣自噴井戸A

 大垣駅近くにも、「掘抜井戸発祥の地」 というのがあった。その由来は・・・ 「いくら水の都とは言えども、ひどい渇水期には水が枯れ、三清水といわれる泉に人々が集中することとなる。そこで、天明2年 (1782) 、こんにゃく屋の文七が川端に2mほどの穴を掘り、その底から5mの材木を打ち込み、その跡に節を抜いた竹を入れると水が噴出した」 という。これが掘抜井戸の始まりである。現在は、幹線道路の歩道上に説明板とモニュメントが設置されている。

大垣自噴井戸マップ

堀留下水処理場

  久屋大通の南端、若宮大通の南に堀留下水処理場がある。名古屋の下水道は、大正元年 (1912) に供用が始まった。当初は、汚水を堀川や精神川 (しょうじがわ=現在の新堀川) にそのまま放水したので、川の水質悪化の原因となった。下水を浄化するため、昭和5年、熱田とこの堀留に下水処理施設が運用を開始したのである。
 処理の方式は活性汚泥法で、我が国最初の試みであった。写真は熱田ポンプ所に設置されていた 「ゐのくち式渦巻ポンプ」 (東京帝国大学の井口在屋教授が明治38年に発明) で、昭和2年から50年間使用されていたものである。現在は 「下水道供用開始百周年記念」 のモニュメントとして堀留下水処理場の東北角に設置されている。

堀留下水処理場マップ

 戦後、下水の処理量が大幅に増えたので、昭和48年に隣接する前津公園の地下に増設をした。現在は、その上部に 「ランの館」 の庭園部分が設置されている。ランの館は、オープンから15年を経て廃止となり、来年度からは新しい魅力施設として再出発することとなっている。

堀留下水処理場1

旧東山配水塔

 千種区覚王山の山頂に 「東山給水塔」 が聳えている。この塔は昭和5年に建設されたもので、高さ約38mの鉄筋コンクリートづくりである。木曽川の犬山取水口から鍋屋上野浄水場へ送られた水を、覚王山地区の高台に配水するための施設であった。
 しかし、昭和48年にはその役割を終え、昭和54年からは災害時用の応急給水施設になっている。約10万人が1日使用する水量に当たる300トンの水が常時蓄えられている。名称も配水塔から給水塔に変っている。

東山配水塔 トリミング

 建設当時の塔頂部は平らであったが、昭和58年の修繕時に尖塔状の屋根が乗せられた。一般市民が登ることのできる展望施設も併せて造られている。年2回、3月の春分の日と8月1日の水の日に解放される。
 コンクリート壁一面にツタがからみついていて、夏は緑の葉を、秋はみごとな紅葉を見せてくれる。昭和60年には、国の 「近代水道100選」 に選ばれ、平成3年には、名古屋市の 「都市景観重要建築物」 に指定されている。また、土木学会選奨の「土木遺産」にも選定されている。

東山配水塔マップ

旧稲葉地配水塔

 名古屋市中村区の稲葉地公園に、白亜で円筒形の5階建ビルが聳えている。この建物は昭和12年 (1937) に水道の配水塔として建設されたものである。
 この頃、名古屋市は急速に都市化が進み、西部地域の水道需要が大幅に増加した。配水塔は5階部分が水槽になっていて、約4000トンの水を蓄えることができる。夜間電力で汲み上げて、自然流下により供給するのである。その重さを支えるために、16本の円柱をもつ構造となった。

稲葉地1

 ところが、この給水施設は完成してたった7年後の昭和19年に使用休止になってしまった。それは、大治浄水場にポンプ圧送式の給水施設ができたためである。その後この建物は、昭和40年に中村区の図書館として改修され、長く市民に親しまれることとなる。

稲葉地2

 そしてさらに平成3年、中村図書館が中村公園に移転したため、再び空き家になってしまった。名古屋市では、平成元年にすでに 「都市景観重要建築物」 に指定されていたこの建物を再利用すべく検討が進められた。
 この年の暮れに市長と対談した天野鎮雄氏 (愛称アマチンさん) のご意見により市長が決断し、「演劇練習館」 として再出発することとなった。平成7年に改修を終え、「アクテノン」 の愛称で3度目のお役目を果たしているのである。

稲葉地マップ

諸戸水道貯水池遺構

 北勢線 「馬道駅」 から 「西桑名駅」 へ向かう途中に、この遺構があった。桑名の町を見下ろす小高い丘の上、広大な諸戸邸の近くである。明治時代に桑名の豪商諸戸清六氏 (初代) は、水に困っていた地元の人たちのために、私財を投じてこの水道施設を整備したのだという。

諸戸水道

 明治32年 (1899)、自家用の水道を敷設するとともに、町民の使用に耐えうる水量を確保し、明治37年、町内に55か所の給水栓と24か所の消火栓を設置して無料で開放した。煉瓦造の貯水池は、東西13.4m、南北23.2m、深さ3.6m、約950トンの水を蓄えることができる。全国で7番目に建設されたこの水道施設は、大正12年 (1924) には町に寄贈され、昭和4年まで使用された。

諸戸水道B

 貯水池は2つの部屋に分かれており、それぞれの部屋をジグザグに水が流れるような構造になっている。古い図面を見ると、貯水池の上に木造の上屋が描かれている。写真で見る富士山型のレンガ積みが上屋の基礎になっていたのであろう。諸戸邸に接して小さな公園広場があり、そこからフェンスで囲まれた貯水池を見ることができる。

諸戸マップ


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 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
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