Entries
ナローゲージ(三岐鉄道・北勢線)
三岐鉄道・北勢線は三重県桑名市・西桑名駅から、いなべ市・阿下喜駅までの約20キロを結んでいる。この鉄道は線路幅が762ミリ(30インチ)という、日本では数少ない特殊狭軌の線路である。線路幅(ゲージ)の世界標準は1.435ミリ(56.5インチ)であるが、日本では旧国鉄が1,067ミリ(42インチ)を採用したので、それより狭いものをナローと呼んでいる。

かつて日本の各地にナローゲージの簡便鉄道や森林鉄道などが運行されていたが、昭和40年代にそのほとんどが廃止された。現役で残っているのは黒部峡谷「トロッコ電車」と近鉄内部・八王子線およびこの北勢線の3路線だけである。その意味で、この路線は日本の鉄道史上貴重な存在であるといえよう。

その歴史は大正3年(1914)に始まるが、戦時の統合や運営主体の変更を重ねた後、近畿日本鉄道(近鉄)の経営となった。しかし、営業成績を理由に廃線の危機に瀕したが、地元自治体の支援を受けて、平成15年(2003)からは三岐鉄道が運営を継承している。今年は10周年を迎えて、各種の記念行事を開催している。


かつて日本の各地にナローゲージの簡便鉄道や森林鉄道などが運行されていたが、昭和40年代にそのほとんどが廃止された。現役で残っているのは黒部峡谷「トロッコ電車」と近鉄内部・八王子線およびこの北勢線の3路線だけである。その意味で、この路線は日本の鉄道史上貴重な存在であるといえよう。

その歴史は大正3年(1914)に始まるが、戦時の統合や運営主体の変更を重ねた後、近畿日本鉄道(近鉄)の経営となった。しかし、営業成績を理由に廃線の危機に瀕したが、地元自治体の支援を受けて、平成15年(2003)からは三岐鉄道が運営を継承している。今年は10周年を迎えて、各種の記念行事を開催している。

小堤西池のカキツバタ群落
刈谷市にある愛知教育大学近くの「小堤西池」に、国の天然記念物に指定(昭和13年)されているカキツバタ群落がある。京都の「大田の沢」、鳥取の「岩美町唐川」とともに日本三大自生地に数えられている。面積約2ヘクタール、浅い沼地のような池で、多くの湿性植物が自生している。

この地域は、尾張と三河の間を流れる境川の流域で、穏やかな水田が広がっている。弥生時代の農民が田を開拓する以前には、このような湿地が一面に広がっていたのではと思わせるような風景である。カキツバタの花は5月上旬に咲き始め、中旬が見ごろ、月末まで見ることができる。花色は青紫色が多いけれど、中には赤紫色のものもあり、変化に富んでいる。

湿地の中には外来植物の繁茂なども見られる。地元では「小堤西池のカキツバタを守る会」を結成して、除草などの保護活動を進めている。刈谷市は、昭和53年に水源として重要な東側の丘陵地約4ヘクタールも買収するなど、後世に豊かな自然を引き継ぐこととしている。


この地域は、尾張と三河の間を流れる境川の流域で、穏やかな水田が広がっている。弥生時代の農民が田を開拓する以前には、このような湿地が一面に広がっていたのではと思わせるような風景である。カキツバタの花は5月上旬に咲き始め、中旬が見ごろ、月末まで見ることができる。花色は青紫色が多いけれど、中には赤紫色のものもあり、変化に富んでいる。

湿地の中には外来植物の繁茂なども見られる。地元では「小堤西池のカキツバタを守る会」を結成して、除草などの保護活動を進めている。刈谷市は、昭和53年に水源として重要な東側の丘陵地約4ヘクタールも買収するなど、後世に豊かな自然を引き継ぐこととしている。

衣浦大橋
かつて知多半島と三河を結ぶルートは、刈谷まで迂回するか亀崎―高浜間の渡し船によるしかなかった。昭和31年(1956)、人々が“夢の架け橋”と呼んで、長い間待ち焦がれていた橋梁が開通した。「衣浦大橋」である。
全長650m、当時は海に架かる橋としては日本一と謳われていた。橋の形式はトラス橋であるが、橋の中央で様式が変わるのが特徴である。亀崎側は波型、高浜側は台形である。現在、亀崎側の5径間は残っているが、高浜側は埋立てにより1径間しか残っていない。

開通当時は有料道路であったが、今は無料である。また、1車線の対面通行であったが、昭和53年に南側に新橋ができて、東方面の一方通行になった。現在、塗装工事の真っ最中である。
衣浦大橋の500mほど南の海岸沿いに、石造りの常夜灯が一基佇んでいる。これは、かつての渡し船の港、「亀崎渡船場跡」である。対岸の「森前の渡し」まで約10町(約1,100m)を船で行き来していた。大橋の開通とともに、この渡し船は廃止となった。

絢爛豪華な彫刻と緞帳で有名な「亀崎潮干祭り」の山車は、この常夜灯の横を通って海岸へ引き下ろされる。毎年5月3日・4日に開催されるこのお祭りは、平成18年に国の重要無形民俗文化財に指定された。

全長650m、当時は海に架かる橋としては日本一と謳われていた。橋の形式はトラス橋であるが、橋の中央で様式が変わるのが特徴である。亀崎側は波型、高浜側は台形である。現在、亀崎側の5径間は残っているが、高浜側は埋立てにより1径間しか残っていない。

開通当時は有料道路であったが、今は無料である。また、1車線の対面通行であったが、昭和53年に南側に新橋ができて、東方面の一方通行になった。現在、塗装工事の真っ最中である。
衣浦大橋の500mほど南の海岸沿いに、石造りの常夜灯が一基佇んでいる。これは、かつての渡し船の港、「亀崎渡船場跡」である。対岸の「森前の渡し」まで約10町(約1,100m)を船で行き来していた。大橋の開通とともに、この渡し船は廃止となった。

絢爛豪華な彫刻と緞帳で有名な「亀崎潮干祭り」の山車は、この常夜灯の横を通って海岸へ引き下ろされる。毎年5月3日・4日に開催されるこのお祭りは、平成18年に国の重要無形民俗文化財に指定された。

亀崎駅

半田市亀崎にある武豊線「亀崎駅」は、日本で一番古い駅舎といわれている。明治19年(1886)の武豊線開通に合わせて、同年3月1日に開業した。明治28年に火災があったという記録があるが、開業当時の建物が今も残っているのであろう。
亀崎駅は、大府駅と武豊駅を結ぶ武豊線(19.3km)のちょうど中間地点にある。武豊線は単線であり、亀崎駅は列車のすれ違いのできる駅である。ホームは両側に線路が接する島式である。そのホームへ渡るための跨線橋も日本最古という。

この路線は非電化であり、昭和33年までは蒸気機関車が、現在はディーゼルカーが客車を牽引している。貨物輸送も含めて、蒸気機関車は昭和45年6月30日をもって廃止となった。最後に走った機関車C11-265は、現在、半田市鉄道資料館に保存されている。

武豊停車場と転車台
武豊線終点の武豊駅からさらに1kmほど南へ行くと「武豊停車場の跡地」がある。ここには、車両の方向を変えるための「転車台」が残されている。
明治5年(1872)、新橋―横浜間に我が国初の鉄道が敷かれる。その後、東京―大阪間の鉄道が計画されたため、武豊は鉄道建設資材の輸入基地となったのである。武豊線は武豊港に陸揚げされた資材を熱田駅まで運ぶ目的で明治19年(1886)3月に開通した。
大阪までの路線は、当初中仙道経由で計画されたが、同年7月に東海道経由に変更された。もしこの変更がなければ、名古屋の発展は大きく疎外されていたに違いない。

転車台は、当初は木製で蒸気機関車の向きを前後に変える方式であった。しかし、昭和2年に建造されたものは、切り離された貨車を別の線路へ転送するため、直角に方向転換できる「直角二線式」というたいへんに珍しい形式になっている。昭和40年に廃止となったが、平成11年に、小学生の歴史探訪で発見され、修復保存されることとなった。

直交する線路の下には円形のレールがあり、小さな車輪がついている。車両は人の手で押して回転させるのである。サンフランシスコには有名なケーブルカーが走っているが、その終点には転車台があり、運転手と車掌が前後を手で押して回転している。

明治5年(1872)、新橋―横浜間に我が国初の鉄道が敷かれる。その後、東京―大阪間の鉄道が計画されたため、武豊は鉄道建設資材の輸入基地となったのである。武豊線は武豊港に陸揚げされた資材を熱田駅まで運ぶ目的で明治19年(1886)3月に開通した。
大阪までの路線は、当初中仙道経由で計画されたが、同年7月に東海道経由に変更された。もしこの変更がなければ、名古屋の発展は大きく疎外されていたに違いない。

転車台は、当初は木製で蒸気機関車の向きを前後に変える方式であった。しかし、昭和2年に建造されたものは、切り離された貨車を別の線路へ転送するため、直角に方向転換できる「直角二線式」というたいへんに珍しい形式になっている。昭和40年に廃止となったが、平成11年に、小学生の歴史探訪で発見され、修復保存されることとなった。

直交する線路の下には円形のレールがあり、小さな車輪がついている。車両は人の手で押して回転させるのである。サンフランシスコには有名なケーブルカーが走っているが、その終点には転車台があり、運転手と車掌が前後を手で押して回転している。
