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東海道金谷宿の石畳
徳川家康は、関が原の戦い直後の慶長6年 (1601) に 「五街道」 を制定した。街道には、一里塚や宿場町、伝馬制度などが設けられ、「東海道五十三次」 もその一つとして整備されたのである。
静岡県島田市にある金谷宿は、江戸から51里 (約204km)、品川から数えて24番目の宿場町である。23番目の島田宿との間には大井川があり、洪水時の足止めなどのため、どちらも宿泊客で大いに賑わったという。

大井川沿岸の金谷宿から西へ向かうと、牧之原の台地に到るが、その間はとても急な坂道である。さらに、土質が粘土質であるので雨のたびに滑りやすくなり、旅人も馬も難儀を極めたという。そこで文久年間 (1800年ころ) に玉石による石畳が整備された。
その道も近年は、コンクリートやアスファルトに置き換わってしまった。しかし、平成3年、地域の方々の熱意により、その一部が昔のような石畳に整備された。一人一石、71000人の参加により430㎡が復元されたのである。この事業は 「平成の道普請」 と呼ばれている。

静岡県島田市にある金谷宿は、江戸から51里 (約204km)、品川から数えて24番目の宿場町である。23番目の島田宿との間には大井川があり、洪水時の足止めなどのため、どちらも宿泊客で大いに賑わったという。

大井川沿岸の金谷宿から西へ向かうと、牧之原の台地に到るが、その間はとても急な坂道である。さらに、土質が粘土質であるので雨のたびに滑りやすくなり、旅人も馬も難儀を極めたという。そこで文久年間 (1800年ころ) に玉石による石畳が整備された。
その道も近年は、コンクリートやアスファルトに置き換わってしまった。しかし、平成3年、地域の方々の熱意により、その一部が昔のような石畳に整備された。一人一石、71000人の参加により430㎡が復元されたのである。この事業は 「平成の道普請」 と呼ばれている。

大井川の蓬莱橋
“箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川” と謳われたように、小舟や人足の肩でしか渡る方法のない大井川は、東海道一の交通の難所であった。明治になって、初めて架けられたのがこの 「蓬莱橋」 である。明治12年 (1879)、牧之原台地の開拓農民の出資により建設された。
最後まで将軍徳川慶喜を護衛してきた幕臣たちは、大井川右岸の牧之原を開拓してお茶を作り始めた。当初は苦労の連続であったが、次第に順調に栽培ができるようになった。生活も安定してきた彼らは、対岸の島田の方へも行き来するようになり、静岡県令 (今の知事) に願いを出して許可されたのだという。

しかし、橋脚の多いこの木造橋は、大井川の増水の度に被害を受けてきた。そこで、昭和40年に、橋脚をコンクリートパイルに変え、今日の姿になっている。橋長897m、幅員2.7mの木造橋は世界にも例がなく、平成23年に 「世界一の長さを誇る木造歩道橋」 としてギネスブックに認定された。

最後まで将軍徳川慶喜を護衛してきた幕臣たちは、大井川右岸の牧之原を開拓してお茶を作り始めた。当初は苦労の連続であったが、次第に順調に栽培ができるようになった。生活も安定してきた彼らは、対岸の島田の方へも行き来するようになり、静岡県令 (今の知事) に願いを出して許可されたのだという。

しかし、橋脚の多いこの木造橋は、大井川の増水の度に被害を受けてきた。そこで、昭和40年に、橋脚をコンクリートパイルに変え、今日の姿になっている。橋長897m、幅員2.7mの木造橋は世界にも例がなく、平成23年に 「世界一の長さを誇る木造歩道橋」 としてギネスブックに認定された。

三重県紀北町の防風石垣
熊野灘に面する紀伊長島は漁業の町である。今年3月に紀勢自動車道が開通したことにより、名古屋からも、より身近な存在となった。その海に 「赤羽川」 が注いでいる。平成16年の大雨により、この川の流域が大洪水の被害にあったことは記憶に新しい。
この地域の山裾には、農家が点在している。その家の周りに一風変わった石垣が積まれている。普通、石垣は法面の段差解消のために積まれるものと考えていた。ところが、この地の石積みは前も後ろも同じ高さの地盤である。土地の人に聞いてみると、台風の時などとても風当たりが強いので、家を守るために石垣を造るのだという。

地図で見ると、確かに農家の裏山は大台ケ原の峰々に連なっている。大台ケ原、大杉谷、尾鷲といえば、日本で一番雨の多いところとして知られている。熊野灘から吹上げる風は、よほど強烈なのであろう。
クレーンなどのない時代に積上げられた石垣の石は、人の手で持ち上がるほどの大きさである。その中に、お地蔵さまの組込まれた石積みを見つけた。なんとも、心あたたまる風景である。

この地域の山裾には、農家が点在している。その家の周りに一風変わった石垣が積まれている。普通、石垣は法面の段差解消のために積まれるものと考えていた。ところが、この地の石積みは前も後ろも同じ高さの地盤である。土地の人に聞いてみると、台風の時などとても風当たりが強いので、家を守るために石垣を造るのだという。

地図で見ると、確かに農家の裏山は大台ケ原の峰々に連なっている。大台ケ原、大杉谷、尾鷲といえば、日本で一番雨の多いところとして知られている。熊野灘から吹上げる風は、よほど強烈なのであろう。
クレーンなどのない時代に積上げられた石垣の石は、人の手で持ち上がるほどの大きさである。その中に、お地蔵さまの組込まれた石積みを見つけた。なんとも、心あたたまる風景である。

熊野古道(馬越峠)
熊野周辺は、日本書紀にも記されている自然崇拝の地であり、熊野古道は、熊野三山 (熊野本宮大社、熊野連玉大社、熊野那智大社) へと通ずる参詣道である。平安時代、宇多法皇 (867~931) が行幸したのが最初という。白河上皇 (1053~1129) が足繁く参詣したころから、京の貴族たちにも流行することとなった。江戸時代には、庶民にとっても伊勢詣と並ぶ人気の参詣道であった。明治になって人々の足は急速に遠のいてしまったが、平成16年の世界遺産登録を契機に、ふたたび、人々の注目を浴びるようになった。

熊野古道は、京や伊勢からいくつかのルートがあるが、伊勢から熊野連玉大社までの道を 「伊勢路」 という。紀伊半島は、大きな山塊が海まで迫っているので、古くから交通ルートは限られている。古道は時代とともに新しい道に置き換わり、今は国道などが走っている。しかし、峠道は開発の波に乗ることがなかったので、今も昔の姿を留めている。 「馬越峠 (まごせとうげ) 」 はそのひとつ、紀伊長島から尾鷲への国道42号線沿いに駐車場があり、そこから古い石畳の道を歩くことができる。



熊野古道は、京や伊勢からいくつかのルートがあるが、伊勢から熊野連玉大社までの道を 「伊勢路」 という。紀伊半島は、大きな山塊が海まで迫っているので、古くから交通ルートは限られている。古道は時代とともに新しい道に置き換わり、今は国道などが走っている。しかし、峠道は開発の波に乗ることがなかったので、今も昔の姿を留めている。 「馬越峠 (まごせとうげ) 」 はそのひとつ、紀伊長島から尾鷲への国道42号線沿いに駐車場があり、そこから古い石畳の道を歩くことができる。

