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文化のみち 豊田佐助邸と春田鉄次郎邸

 名古屋城の東から、建中寺・徳川園へ到る一帯は、中・下級武士のお屋敷や多くのお寺が軒を並べていました。今でも、絢爛豪華な山車祭りや、白壁町とか百人町といった地名などにその名残を留めています。
 明治になると、この地区には先端産業が興ります。時計やバイオリンの制作、各種の機械生産や陶磁器の絵付け産業などの中心地になりました。大正時代になると、この地区は起業家たちの屋敷町に変身します。

文化のみち 佐助邸

 発明王の佐吉を支えた弟の豊田佐助邸や陶磁器輸出の貿易商として成功した春田鉄次郎の邸宅などは今も残っています。この地域一帯は 「文化のみち」 と名付けられ、貴重な建築遺産の保存・活用がすすめられています。

文化のみち 春田邸

文化のみち マップ2

名古屋市東区 旧川上貞奴邸

 電力王・福沢桃介のパートナーとして、また自らも事業家として活躍した川上貞奴が、大正9年ごろから暮らした邸宅。当時は 「二葉御殿」 とも呼ばれ、名古屋の財界人や文化人のサロン的存在であった。元々は、現在地よりもう少し北側に建っていたが、平成17年に現在地に移設・復元され、近代文化の情報発信拠点 「文化のみち・二葉館」 として活用されている。

貞奴邸1

 川上貞奴は、明治4年 (1871) 東京日本橋の生まれ、16歳で芸妓となり伊藤博文などの贔屓を得た。23歳で “オッペケペー節” で有名な演劇家・川上音二郎と結婚。川上一座のアメリカ巡業では、日本初の女優として舞台に立った。明治33年のパリ万博では 「マダム貞奴」 として大いに人気を集めたという。音二郎の死後、桃介のパートナーとなり、名古屋で活躍したのである。
 この建物は、我が国初の住宅専門会社 「あめりか屋」 の設計による。木造二階建て、朱色の瓦屋根にモルタル塗りの壁である。一階が食堂で二階が書斎となっている部分の “兜造り” 風の屋根がこの建物の個性を象徴している。室内も、ステンドグラスや螺旋階段を設置するなど、デザイン上の工夫が施されている。

貞奴邸マップ

清内路村のハナモモ

 長野県の中央アルプス南端に、伊那谷と木曽谷を結ぶ国道256号線が通じている。飯田から清内路を通って南木曽へ行く道路である。この道を4月中旬から5月中旬に走ると、美しい3色咲き分けのハナモモに出会うことができる。「はなもも街道」 と呼ぶ。海抜が500mから1500mほどと差があり、上に行くほど花の時期が遅くなるので、長い期間楽しむことができる。

清内路2

 最初に植え始めたのは清内路村の住民。村を美しくしようとの思いで苗を増やし、道路沿いや庭、畑の土手などに植えていった。その後、賛同する人達が増え、昼神温泉や月川温泉にも名所ができて多くの人を集めている。今では全国にも広まっているという。
 この珍しい品種は、発電王・福沢桃介が導入したものである。ヨーロッパを視察した桃介は、ドイツ・ミュンヘンでこの木を見つけ、3本の苗木を持ち帰った。大正11年のこと。自分の名前の 「桃」 に因んだのだろう、南木曽の別荘に植えて可愛がったという。

ハナモモ マップ

「土木の日」

 今日、11月18日は 「土木の日」 である。土木学会の前身 「工学会」 の創立が明治12年 (1879) 11月18日であることに因み、昭和62年に制定された。また、「土木学会」 の創立記念日11月24日までの1週間を 「くらしと土木の週間」 と定め、各地で多彩な行事を開催している

土木の日

 「土木」 の文字を分解すると、「十一」 と 「十八」 になることから、工学会の創立もこの日としたのだろうか? 「土木」 とは、道路・上下水道・住宅・公園・街づくりなど、社会資本の整備や蓄積をするための事業である。市民生活のアメニティーを向上し、安全の確保や福祉の促進を行い、豊かで質の高い生活をつくりだすことを目的としている。
 だれもが、家の中に居ても、一歩外へ出ても 「土木施設」 とは身近に触れ合っているはずである。しかしあまりに身近すぎるせいか、なかなか意識的に 「土木」 を考えることがない。 「土木の日」 「くらしと土木の週間」 は、土木技術や土木事業への認識や理解を深めていただくきっかけになればとの思いで制定されたのである。

 ◆このブログは、3月にスタートして以来ちょうど50回目の更新です。アクセスして
  くださる方の数は月間約1000人ほど。今後も皆さまに関心をお持ちいただくよう
  頑張ってまいります。

能登 輪島の塩田

 昔、地理の授業で先生から “塩はどこで採れるか?” との質問があった。大学受験を終えたばかりの学生たちは教科書どおりに “瀬戸内海” と答えた。しかし・・・“日本が多くの国 (藩) に分かれていた時代には、敵国に塩を譲るわけはなく、どの国も独立して生活必需品 (塩も) を生産していた” というのが正解であった。山国は、海沿いの友好国から塩を送ってもらっていたのだろう。各地に 「塩の道」 (三河から信濃への足助街道など) が存在した。

輪島の塩1

 輪島を過ぎて、さらに半島の先端部へ向かう途中、今も製塩業を営む 「塩田」 があった。世界農業遺産にも認定されている 「揚げ浜式」 と呼ばれる製塩方法である。400年も前から、変わらぬ手作業でつくり続けているという。
 能登の海水を何度も汲み上げては塩田に撒き、濃度の高くなった塩水を長時間じっくりと炊き上げる。カルシウムや無機質の含まれた深い旨みのある塩が採れるという。100年以上使用している鉄の大釜や水撒き用の桶、砂を均すレーキ (?)、出来たての塩も見せていただいた。

輪島の塩2
輪島の塩マップ

能登西海岸 滝ノ澗の石積み

 福浦灯台を見たあとで海岸に沿って走っていると、家々の隙間から不思議な景色が見える。豪壮な住宅 (別荘?) の石垣が、とても美しいのだ。近寄って見ようと思うのだが、細い道が迷路のようになっているので、到着するのにかなりの時間がかかった。

能登石積み3

 六角形の白い切石が、目地の隙間に剃刀の刃も入らぬほどの精緻さで積み上げられている。さらに、少し膨らみのある “おもて面” が、何ともいえない優しい雰囲気を醸し出しているのだ。石の一つに、制作の年月と石工の名前が掘り込んである。よほど精魂込めて造ったのであろうし、また誇りにも思っているのであろう。

能登石積み5

 石積みの上、住宅の庭と思しき広場に立派な石碑が立っていて、この石垣建設の由来が記してある。それによると 「滝ノ澗・玉藻前」 との表題があり、以下次のような文章である。「明治のはじめ、帆船で遠く樺太島へ航行、サケ・マス漁場を開拓した二津屋水野彌平が、明治・大正の二代にわたって築いた石垣から海を眺める・・・」 
 ちなみに、この石積みのことは、観光案内書にも記載が無く、帰ってからネットで調べても見当たらなかった。

能登石積みマップ

能登 白米千枚田

 “耕して天に到る。以って貧なるを知るべし” 雲南省などの険しい耕作地を見て、中国清朝末期の政治家李鴻章が語った言葉である。同じように、急傾斜地に石積や土手を築いて造り上げた田畑が日本にもある。愛媛県宇和島や瀬戸内海の島々に見られる段畑、長野県の姨捨や石川県能登輪島の棚田などである。

能登千枚田2

 能登北岸を走る国道249号線と海岸との間の “崖” に 「白米 (しろよね) 千枚田」 がある。“田が千枚あるというので、数えてみたがどうしても1枚足らない。ふと、蓑 (みの) と笠を取り除いて見たら、そこに1枚隠れていた” という昔話がある。この千枚田も実際に1004枚あり、面積で最も狭いものは0.2㎡だという。
 国道沿いに、狭いけれども駐車スペースや展望広場があり、観光バスは必ず立ち寄るという観光スポットになっている。平成11年に 「日本の棚田100選」 に選ばれ、同13年には 「国の名勝」 に指定された。

2能登千枚田マップ

能登 旧福浦灯台

 能登半島西岸の福浦港は、深い入り江のある自然の良港である。古く奈良時代には、大陸との交流が行われていたといい、江戸時代には 「北前船」 の寄港地として栄えたという。この入り江の突端に、現存する日本で一番古い木造の灯台がある。「旧福浦灯台」 という。現在は新しい灯台ができたために使われていないが、石川県指定の史跡として保存されている。

福浦灯台マップ

 この地の灯台の歴史は古く、今から400年以上もの昔、慶長13年 (1608) にかがり火を焚いて船の安全を図ったのが始まりという。明治9年 (1876) に建てられたのがこの灯台で、昭和52年に新灯台が完成するまで、100年近く利用されていた。
 切石積みの上に建ち、瓦屋根を乗せた和風の建物は、お寺の鐘楼を思わせるデザインである。灯台のすぐ前にいくつかの自然石が並べてある。小さな木札が立っていて 「炊火の炉 (濃霧の時に昭和25年まで使用) 」 と書いてあった。

福浦灯台1

潮岬の灯台

 ペリーが黒船で来航した翌年の安政元年 (1854) 年に、日本はアメリカと 「日米和親条約」 を締結した。200年を越える鎖国から醒めて開国したのである。その12年後の慶応2年には、米・英・仏およびオランダとの間に 「改税条約 (江戸条約) 」 が結ばれたが、その中に8か所の灯台を整備することが決められている。観音埼・野島埼・樫野埼・神子元島・剱埼・伊王島・佐多岬そして潮岬である。
 潮岬の灯台は、機材到着の遅れなどもあり、この中では最も遅くに完成した。明治6年のことである。当初は木造8角形の建物であったが、明治11年に現在見るような石造りの塔に改造された。海面から30mの断崖の上に立つ、高さ22mの白亜の灯台である。

潮岬 2

 紀伊国屋文左衛門が、苦難の末に江戸まで荷物を運んだという物語が残っているように、紀伊半島南端の潮岬の沖は、船の航行の難所である。諸外国としても日本と交易するには、どうしても安全のための灯台が欲しかったのであろう。
 黒潮が洗う荒々しい岩壁には、ツワブキ・ハマウドなどの草本やトベラ・ヤブツバキといった常緑の広葉樹がへばりついたように生育している。いずれも暖地性の植物であるが、その中に野生のウチワサボテンが生えていた。たぶん栽培されていたものが逃げ出したのであろう。

潮岬 1

《灯台記念日》 出雲 日御碕灯台

 出雲大社を詣でた後、島根半島の最西部にある「日御碕 (ひごみさき) 」を訪ねた。出雲大社同様に、古くから祀られている「日御碕神社」の参拝をしたかったからである。出雲風土記に 「美佐伎社」 と記され、天照大御神を祀る 「日沈の宮」 と神素盞嗚尊を祀る 「神の宮」 の二社からなる古社である。
 その先に、日本一高い灯台があると教えていただいた。「日御碕灯台」である。高さ 約43m、硬い岩の絶壁の上に立っていて、海面からの高さは63mもあるという。国内最大級のレンズを持ち、わずか6か所だけの「第1等灯台」に数えられている。照度は48万カンデラ、沖合40kmまで光が届くという。

ひごみさき1

 明治36年(1903)に完成。外壁は、地元松江から切り出した真っ白で硬質な石材、内壁はレンガという2重壁の構造である。163段のラセン階段を登ると、日本海、島根半島全域、晴れた日には隠岐島までが一望できる。この重要な灯台は、「日本の灯台50選」 に選ばれただけでなく、「世界の灯台100選」 にも選ばれている。
 宿へ帰る途中、「日沈む」 地に相応しい美しい夕日を撮影することができた。

ひごみさき2

 ◆今日11月1日が 「灯台記念日」 だと知り、この記事を掲載しました。
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ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:「園長さんのガーデンライフ」
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