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祐福寺の勅使門
名古屋から岡崎に到る 「岡崎街道」 の中間地点に、祐福寺という古いお寺がある。開創は後鳥羽天皇の御世、建久2年 (1191) のこと。源頼朝の家臣が草庵を結んで道場としたのが始まりという。後醍醐天皇の嘉暦3年 (1328) には、当地・傍示本城主の帰依を受け、大伽藍が建てられた。最盛期には25か寺を有する大道場であった。

現在も阿弥陀堂 (講堂)、勅使門、毘沙門堂、開山堂、鐘楼 (山門)、方丈、庫裏、宝蔵や4院の塔頭が残っている。勅使門は、後奈良天皇 (在位1526~1557) の御願満足のために官寺となり、勅使を遣わされた時に造営されたものである。柿葺一間一戸の中門で、朱塗りの扉には、十六菊花の御紋が金色に輝いている。

境内には、四方八方に長い枝を広げた見事な松の木があった。このお寺の号「玉松山」の由来であるが、残念なことに松くい虫のために枯れてしまった。現在見る松は、その後継樹である。


現在も阿弥陀堂 (講堂)、勅使門、毘沙門堂、開山堂、鐘楼 (山門)、方丈、庫裏、宝蔵や4院の塔頭が残っている。勅使門は、後奈良天皇 (在位1526~1557) の御願満足のために官寺となり、勅使を遣わされた時に造営されたものである。柿葺一間一戸の中門で、朱塗りの扉には、十六菊花の御紋が金色に輝いている。

境内には、四方八方に長い枝を広げた見事な松の木があった。このお寺の号「玉松山」の由来であるが、残念なことに松くい虫のために枯れてしまった。現在見る松は、その後継樹である。

定光寺「源敬公(徳川義直)廟」
尾張初代藩主 「徳川義直」 は家康の9男として、関が原の戦いの年 (1600) に生まれた。義直は大御所・家康のお膝元駿府城で、武芸・学問を嗜む聡明な子供に育ったという。1607年に尾張国清洲藩主となり、1616年には新築 (1610年清洲越し) された名古屋城に入った。
1650年に没した義直の墓地は、定光寺東北の山上に造営された。1651年に円形の墳墓と石標が完成する。廟域の周囲には瓦葺の土塀を巡らせ、正門中央に 「竜の門」 がある。石敷の参道を進むと焼香殿があり、その後の階段を上がったところに石柵と唐門 (写真) がある。その奥が墳墓になっている。

この廟は、明人の陳元贇 (ちんげんぴん) が設計したと伝えられており、建物の構成は、儒教に基づく祠堂に倣っている。ここにも、中国や朝鮮の書物に親しみ儒教を尊んだ、義直の教養を見ることができる。江戸時代における中国建築として貴重な存在で、昭和12年に国の重要文化財として指定されている。
定光寺の山は、ホオノキなどの落葉樹も交ざるが、主としてシイやカシなど照葉樹の森である。しかし、参道や社殿の周辺には、モミジの仲間がたくさん植えられていて、見事な紅葉を見せてくれていた。

1650年に没した義直の墓地は、定光寺東北の山上に造営された。1651年に円形の墳墓と石標が完成する。廟域の周囲には瓦葺の土塀を巡らせ、正門中央に 「竜の門」 がある。石敷の参道を進むと焼香殿があり、その後の階段を上がったところに石柵と唐門 (写真) がある。その奥が墳墓になっている。

この廟は、明人の陳元贇 (ちんげんぴん) が設計したと伝えられており、建物の構成は、儒教に基づく祠堂に倣っている。ここにも、中国や朝鮮の書物に親しみ儒教を尊んだ、義直の教養を見ることができる。江戸時代における中国建築として貴重な存在で、昭和12年に国の重要文化財として指定されている。
定光寺の山は、ホオノキなどの落葉樹も交ざるが、主としてシイやカシなど照葉樹の森である。しかし、参道や社殿の周辺には、モミジの仲間がたくさん植えられていて、見事な紅葉を見せてくれていた。

定光寺 城嶺橋
今年の紅葉は、夏に晴天が続いたことと11月になって急激に冷え込んだこととが影響して、例年よりも美しいという。近いところでと考えた結果、定光寺を紅葉狩りの地に選んだ。鶴舞駅から中央線に乗って約30分、「定光寺駅」 で下車する。定光寺駅は、玉野川渓谷沿いの崖に貼りついたような奇妙な駅である。
「玉野川渓谷」 とは、庄内川の上流、山間部に入ってからの呼び名である。白い岩肌、深い緑、清らかな水、まさに山紫水明の景勝地である。定光寺へは支流の定光寺川に沿って、約1kmの山道である。まず、玉野川を渡る橋が 「城嶺橋」。三径間のコンクリート製アーチ橋、幅員4.5m、長さは72mである。

「城嶺橋」 は、名古屋のお城が見えるところから命名されたという。現在は3代目、最初は明治43年に架けられた木橋であったが、翌年に洪水のため流されてしまった。2代目は吊り橋で大正元年に架けられた。現在の橋は昭和12年に名古屋開府330年の記念として架けられたものである。
石造りの親柱に橋名が彫り込まれている。その頭には緑青色の照明具が載っている。径間ごとの柱の上にも緑青色の照明があり、赤い欄干の手すりとともに洒落たデザインになっている。かつては観光客も大勢で、駅周辺には料理旅館やお土産屋さんが軒を連ねていたという。現在は、新緑や紅葉を楽しむ山歩きの人たちで賑わっている。東海自然歩道 「春日井コース」 の起点でもある。

「玉野川渓谷」 とは、庄内川の上流、山間部に入ってからの呼び名である。白い岩肌、深い緑、清らかな水、まさに山紫水明の景勝地である。定光寺へは支流の定光寺川に沿って、約1kmの山道である。まず、玉野川を渡る橋が 「城嶺橋」。三径間のコンクリート製アーチ橋、幅員4.5m、長さは72mである。

「城嶺橋」 は、名古屋のお城が見えるところから命名されたという。現在は3代目、最初は明治43年に架けられた木橋であったが、翌年に洪水のため流されてしまった。2代目は吊り橋で大正元年に架けられた。現在の橋は昭和12年に名古屋開府330年の記念として架けられたものである。
石造りの親柱に橋名が彫り込まれている。その頭には緑青色の照明具が載っている。径間ごとの柱の上にも緑青色の照明があり、赤い欄干の手すりとともに洒落たデザインになっている。かつては観光客も大勢で、駅周辺には料理旅館やお土産屋さんが軒を連ねていたという。現在は、新緑や紅葉を楽しむ山歩きの人たちで賑わっている。東海自然歩道 「春日井コース」 の起点でもある。

樽見鉄道・樽見線
岐阜県大垣市から根尾川に沿って北上する鉄道がある。樽見鉄道・樽見線という。昭和31年 (1956) に谷汲口まで、昭和33年には神海まで開通。当初は石川県金沢までつなぐ予定であったが、昭和55年の国鉄再建法では、廃止対象路線になってしまった。
しかし、地元の努力により第3セクター 「樽見鉄道」 が設立され、現在も運行を続けている。その後、平成元年に旧鉄建公団の建設線として樽見まで延伸したが、平成18年には住友セメントの貨物輸送が打ち切りになってしまい、厳しい経営が続いている。

沿線住民の通勤・通学や買物のほか、淡墨桜・根尾谷断層・谷汲山華厳寺・織部の里などへの観光客の乗車に支えられている。歴史探訪・花めぐり・自然体験といった行楽ガイドに力を入れるとともに、駅員や運転士のサービス精神も旺盛で、乗客増加に努めている。
大垣駅を出発してしばらくは田園風景が続くが、本巣を過ぎたころから根尾川が近づいてきて、次第に山間 (やまあい) の風景へと変わっていく。いくつかのトンネルをくぐったり、鉄橋を渡りながら、自然の景色が楽しめる約35kmのローカル線である。

しかし、地元の努力により第3セクター 「樽見鉄道」 が設立され、現在も運行を続けている。その後、平成元年に旧鉄建公団の建設線として樽見まで延伸したが、平成18年には住友セメントの貨物輸送が打ち切りになってしまい、厳しい経営が続いている。

沿線住民の通勤・通学や買物のほか、淡墨桜・根尾谷断層・谷汲山華厳寺・織部の里などへの観光客の乗車に支えられている。歴史探訪・花めぐり・自然体験といった行楽ガイドに力を入れるとともに、駅員や運転士のサービス精神も旺盛で、乗客増加に努めている。
大垣駅を出発してしばらくは田園風景が続くが、本巣を過ぎたころから根尾川が近づいてきて、次第に山間 (やまあい) の風景へと変わっていく。いくつかのトンネルをくぐったり、鉄橋を渡りながら、自然の景色が楽しめる約35kmのローカル線である。

文化のみち 旧高等裁判所
名古屋市役所本庁舎を東へ5分ほど進み、外堀に架かる橋を渡ったところにネオ・バロック様式の堂々たる建築がある。この建物は 「名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所庁舎」 として、大正11年 (1922) に建設されたものである。昭和22年からは法制度の改訂により 「名古屋高等・地方裁判所」 となったが、昭和54年に新庁舎へ移転したため空き家となった。
当初は現地での建て替えが計画されたため、取り壊す予定であった。しかし、市民や識者に保存の声が強く、官庁街の小公園との敷地交換が成立して保存できることとなった。昭和59年には国の重要文化財に指定、平成元年に改修工事が完了し、現在は 「名古屋市市政資料館」 として市民に親しまれている。

煉瓦造り3階建の洋風建築で、外壁は赤い煉瓦と白い花崗岩である。屋根は天然スレート葺き、中央のドームは銅版葺きで、現在は美しく緑青 (ろくしょう) 色になっている。
正面の車廻しの柱は、2本は丸いエンタシス、2本は角柱であるが中央が膨らんでいて印象的である。中央の大理石階段を登りきったところに、美しいステンドグラスがはめ込まれている。控訴院は全国に8か所建設されたが、現存するのは札幌とこの名古屋だけ、貴重な存在である。


当初は現地での建て替えが計画されたため、取り壊す予定であった。しかし、市民や識者に保存の声が強く、官庁街の小公園との敷地交換が成立して保存できることとなった。昭和59年には国の重要文化財に指定、平成元年に改修工事が完了し、現在は 「名古屋市市政資料館」 として市民に親しまれている。

煉瓦造り3階建の洋風建築で、外壁は赤い煉瓦と白い花崗岩である。屋根は天然スレート葺き、中央のドームは銅版葺きで、現在は美しく緑青 (ろくしょう) 色になっている。
正面の車廻しの柱は、2本は丸いエンタシス、2本は角柱であるが中央が膨らんでいて印象的である。中央の大理石階段を登りきったところに、美しいステンドグラスがはめ込まれている。控訴院は全国に8か所建設されたが、現存するのは札幌とこの名古屋だけ、貴重な存在である。

