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知立神社の多宝塔
東海道を往来する参勤交代の諸大名が、必ず立ち寄るという神社がある。東海道三大社に数えられる 「知立神社」 である。別名 「池鯉鮒大明神」 ともいう。第12代景行天皇の御代、日本武尊命が東国平定に向かう際に祈願をしたという、古くから祀られる神社である。
鳥居をくぐって参道を進むと、右側に柿葺 (こけらぶき) の多宝塔 (重要文化財) を見ることが出来る。嘉祥3年 (850) 慈覚大師が創建したと伝えられている。お堀に架かる太鼓橋を渡ると、桧皮葺( ひわだぶき)で荘厳な雰囲気をもつ本殿がある。

東海道との分岐点に、道標を兼ねた灯篭が佇んでいる。旅人はこの目印を見て道を曲がり、知立城の前を通ってお参りしたのであろう。蝮(まむし)よけに効果があるという。街道沿いにお寺や山車蔵などがあり、往時の雰囲気をもつ町であるが、現在は広い道路により分断されている。

鳥居をくぐって参道を進むと、右側に柿葺 (こけらぶき) の多宝塔 (重要文化財) を見ることが出来る。嘉祥3年 (850) 慈覚大師が創建したと伝えられている。お堀に架かる太鼓橋を渡ると、桧皮葺( ひわだぶき)で荘厳な雰囲気をもつ本殿がある。

東海道との分岐点に、道標を兼ねた灯篭が佇んでいる。旅人はこの目印を見て道を曲がり、知立城の前を通ってお参りしたのであろう。蝮(まむし)よけに効果があるという。街道沿いにお寺や山車蔵などがあり、往時の雰囲気をもつ町であるが、現在は広い道路により分断されている。

知立の東海道松並木
関が原の戦いから間もない慶長9年 (1604)、徳川幕府は東海道を含む五街道を整備した。東海道には53の宿場があるが、知立 (昔は池鯉鮒と書いた) は、江戸日本橋から数えて39番目、岡崎宿と鳴海宿との間に位置している。ここでは 「馬の市」 が有名で、歌川広重の浮世絵 「東海道五拾三次」 でも "首夏(陰暦4月)馬市" と題した風景が描かれている。

東海道には、旅人を日差しや風雨から守るために、道の両側に松の木が植えられた。そのほとんどは、新しい自動車道や建物の整備により失われてしまったが、知立市牛田地区には今も約170本が残されている。戦前までは、昼なお暗いほどの大木が繁っていたが、昭和34年の伊勢湾台風により多くが倒れてしまった。昭和45年に150本ほどの補植が行われたが、その後の手入れもよく、今では立派な並木に育っている。


東海道には、旅人を日差しや風雨から守るために、道の両側に松の木が植えられた。そのほとんどは、新しい自動車道や建物の整備により失われてしまったが、知立市牛田地区には今も約170本が残されている。戦前までは、昼なお暗いほどの大木が繁っていたが、昭和34年の伊勢湾台風により多くが倒れてしまった。昭和45年に150本ほどの補植が行われたが、その後の手入れもよく、今では立派な並木に育っている。

愛知用水あいち池
春日井・瀬戸・名古屋東部から知多半島にかけての丘陵地帯には大きな河川がなく、田畑に使う水は谷の上部を堰き止めた溜め池に頼っていた。“木曽川から水が引けたら” との想いは、土地の人々の長い間の悲願であった。夢が叶ったのは昭和36年、「愛知用水」 が完成した時である。
長野県王滝村に牧尾ダムを造って水を溜め、岐阜県八百津町の取水口から水を引き入れて、知多半島の先端まで延々112kmを流れる用水である。途中、下流へ流す水量を調整するために造られたのが 「あいち池」 である。面積約97ha、貯水量は900万m3。堤防の高さ31m、長さは975m、土盛した体積は104万m3にも上る。

下の写真は、あいち池への流入口 「細口池暗渠」 である。用水の断面は、最初は逆台形であったが、昭和58年から始められた第2期事業により2列の長方形に変えられた。これは、需要の増加に応えるとともに、災害や工事のときにも供給を継続するための措置である。

長野県王滝村に牧尾ダムを造って水を溜め、岐阜県八百津町の取水口から水を引き入れて、知多半島の先端まで延々112kmを流れる用水である。途中、下流へ流す水量を調整するために造られたのが 「あいち池」 である。面積約97ha、貯水量は900万m3。堤防の高さ31m、長さは975m、土盛した体積は104万m3にも上る。

下の写真は、あいち池への流入口 「細口池暗渠」 である。用水の断面は、最初は逆台形であったが、昭和58年から始められた第2期事業により2列の長方形に変えられた。これは、需要の増加に応えるとともに、災害や工事のときにも供給を継続するための措置である。

旧大浜警察署
「藤井達吉現代美術館」 を南に下ると、大浜漁港の運河 「堀川」 に到る。そこに架かる 「湊橋」 を越えると、左側に古風な洋風建築が建っている。この建物はかつての大浜警察署で、現在は 「大浜下区民館」として使われている。
最初は明治20年に、岡崎警察署大浜分署として木造の庁舎が建てられたが、老朽化のため大正13年に鉄筋コンクリートで建替えられた。建築様式は、「セセッション様式」 を部分的に取り入れたものである。セセッション様式とは、大正時代に日本で流行した建築様式で、直線的な幾何学模様を取り入れたデザインである。八角形の3階と屋上は、火の見櫓の役割も果たしていた。

その敷地の角に、「バロメートル」 と刻まれた石の柱が立っている。ガラス張りの小窓の中には、気圧計と温度計が入っている。港から漁に出る時に、漁師が天気を予測するのに利用した。大正13年に撮影された警察署の写真に写っているので、それ以前に設置されたものであろう。
「湊橋」 の橋詰め広場にも、高さ1mほどの石柱が4本立っている。これは、この橋がかつて木橋だった時の親柱をモニュメントとして残したものである。

最初は明治20年に、岡崎警察署大浜分署として木造の庁舎が建てられたが、老朽化のため大正13年に鉄筋コンクリートで建替えられた。建築様式は、「セセッション様式」 を部分的に取り入れたものである。セセッション様式とは、大正時代に日本で流行した建築様式で、直線的な幾何学模様を取り入れたデザインである。八角形の3階と屋上は、火の見櫓の役割も果たしていた。

その敷地の角に、「バロメートル」 と刻まれた石の柱が立っている。ガラス張りの小窓の中には、気圧計と温度計が入っている。港から漁に出る時に、漁師が天気を予測するのに利用した。大正13年に撮影された警察署の写真に写っているので、それ以前に設置されたものであろう。
「湊橋」 の橋詰め広場にも、高さ1mほどの石柱が4本立っている。これは、この橋がかつて木橋だった時の親柱をモニュメントとして残したものである。

てらまち大浜
大浜漁港の周辺には、お寺や蔵、黒塀にはさまれた路地などの古い町並みがある。明和5年 (1768) に1万3千石取りの水野忠友がこの地に陣屋を構えるなど、碧南の中心地として栄えてきた。大浜港は、漁港としてだけでなくこの地域特産 「三州瓦」 の積出し港でもあった。また、矢作川の良質な水を利用して、みりん・酒・しょうゆ・たまり・味噌などの醸造業も発展した。

この地区のほぼ中央に、新しい美術館が建っている。平成20年に開館した 「藤井達吉現代美術館」 である。地元出身の美術工芸家・藤井達吉の作品を常設展示するほか、各種の企画展を開催する。この美術館の建物は、現代風でありながら周辺の町並みとしっくり馴染んでいる。館内レストランのガラス窓は、向かい側の西方寺太鼓堂を景色としながら、天井からは新宮晋の “動く彫刻” が飾られていて、古風と現代とが見事にマッチしている。


この地区のほぼ中央に、新しい美術館が建っている。平成20年に開館した 「藤井達吉現代美術館」 である。地元出身の美術工芸家・藤井達吉の作品を常設展示するほか、各種の企画展を開催する。この美術館の建物は、現代風でありながら周辺の町並みとしっくり馴染んでいる。館内レストランのガラス窓は、向かい側の西方寺太鼓堂を景色としながら、天井からは新宮晋の “動く彫刻” が飾られていて、古風と現代とが見事にマッチしている。

碧南の高潮防波堤
昭和34年9月26日、東海地方は未曾有の大災害に見舞われた。5000人を越える犠牲者を出した伊勢湾台風である。この台風では、高潮による家屋の流失が大きかった。台風の低い気圧が、おりから満潮時だった海水を持ち上げ、さらに、V字型をした伊勢湾に向かって吹き付けた強風が海水を押し上げたのである。名古屋市南部を中心に大被害となった。
知多半島と西三河に挟まれた衣浦湾でも同様な現象が起こり、半田や碧南に大きな被害が出た。堤防をはるかに越えた海水が沿岸部に襲い掛かったのである。

伊勢湾台風から4年後の昭和38年、碧南の大浜地区に 「高潮防波堤」 が完成した。二度と高潮による災害が起こらないようにとの対策事業である。これにより、大浜漁港を中心に発展した古い町並み 「大浜てらまち地区」 は、高潮から守られることとなったのである。
堤外地の埋立地には臨海公園が整備され、臨海体育館 (写真) や碧南海浜水族館、青少年海の科学館などが設置されている。また、その南には衣浦海底トンネルがあり、半田市と行き来することができるようになっている。

知多半島と西三河に挟まれた衣浦湾でも同様な現象が起こり、半田や碧南に大きな被害が出た。堤防をはるかに越えた海水が沿岸部に襲い掛かったのである。

伊勢湾台風から4年後の昭和38年、碧南の大浜地区に 「高潮防波堤」 が完成した。二度と高潮による災害が起こらないようにとの対策事業である。これにより、大浜漁港を中心に発展した古い町並み 「大浜てらまち地区」 は、高潮から守られることとなったのである。
堤外地の埋立地には臨海公園が整備され、臨海体育館 (写真) や碧南海浜水族館、青少年海の科学館などが設置されている。また、その南には衣浦海底トンネルがあり、半田市と行き来することができるようになっている。

大垣城と大洪水記念碑
関が原をはさんだ西の彦根城と東の大垣城は、東西の勢力にとって重要な位置を占めている。慶長5年 (1600)、石田三成は大垣城に入城して西軍の本拠とした。そして、中山道を大阪へ向かおうとする徳川軍と、城から見下ろす赤坂の地で緒戦を開いた。「杭瀬川の戦い」 といい、ここでは西軍が勝利を収めた。その後、両軍は戦いを関が原に移して、天下分け目の決戦が行われたのである。
大垣城は天文4年 (1535) に宮川安定が築城した。水門川を利用して外堀とした平城である。天守閣は慶長元年 (1596) に造営、四重四層建て総塗りこめの優美な城である。時代が下って、昭和11年には国宝に指定されたが、昭和20年の戦災で焼失してしまった。現在の城郭は、昭和34年に鉄筋コンクリート造りで再建されたものである。

木曽・揖斐・長良川の流れる西美濃の輪中地帯は、長年に亘って洪水との戦いに明けくれてきた。明治29年(1896) の7月には大雨が、9月には台風が襲来して大垣の町は水浸しとなった。天守閣の北西角に小さな記念碑が立っている。災害を永く忘れないようにと建てた石碑で、石垣にもその時の水位が刻まれている。 (赤い矢印)

大垣城は天文4年 (1535) に宮川安定が築城した。水門川を利用して外堀とした平城である。天守閣は慶長元年 (1596) に造営、四重四層建て総塗りこめの優美な城である。時代が下って、昭和11年には国宝に指定されたが、昭和20年の戦災で焼失してしまった。現在の城郭は、昭和34年に鉄筋コンクリート造りで再建されたものである。

木曽・揖斐・長良川の流れる西美濃の輪中地帯は、長年に亘って洪水との戦いに明けくれてきた。明治29年(1896) の7月には大雨が、9月には台風が襲来して大垣の町は水浸しとなった。天守閣の北西角に小さな記念碑が立っている。災害を永く忘れないようにと建てた石碑で、石垣にもその時の水位が刻まれている。 (赤い矢印)

旧揖斐川橋梁
国鉄東海道線の岐阜・大垣間を建設するに当たり、揖斐川を渡るために架けられた鉄橋である。明治20年 (1887) に供用開始された。橋長325m、形式はピン結合構造をもつ200フィートの錬鉄製5連ダブルワーレントラストである。橋脚も、今では珍しい煉瓦積みである。

当時はまだ、日本の技術では設計できなかったので、来日していた英国人技師ポーナルに依頼した。鉄材も製作できなかったので英国P・C&アックスレトリー社から輸入したものである。

明治41年の複線化に伴い、下流に新しい橋梁が架けられたので、鉄道橋としては廃止された。現在は、人と自転車の専用橋として使用されている。我が国の鉄道建設初期に、高度な技術を駆使した橋梁であり、もともとの位置に現存する大変貴重なものとして、国の重要文化財に指定されている。


当時はまだ、日本の技術では設計できなかったので、来日していた英国人技師ポーナルに依頼した。鉄材も製作できなかったので英国P・C&アックスレトリー社から輸入したものである。

明治41年の複線化に伴い、下流に新しい橋梁が架けられたので、鉄道橋としては廃止された。現在は、人と自転車の専用橋として使用されている。我が国の鉄道建設初期に、高度な技術を駆使した橋梁であり、もともとの位置に現存する大変貴重なものとして、国の重要文化財に指定されている。
