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大垣赤坂宿のボタン園
美濃赤坂は、中仙道69次の56番目の宿場町で、西の垂井宿、東の美江寺宿に挟まれている。かつては大名が参勤交代の途次宿泊した本陣があったが、今は建物はなく記念の公園になっている。南に見える50mほどの小高い山は、関が原の戦いのときに家康が本陣を構えたところで、勝利に因んで 「勝山」 と名付けられた。
江戸に幕府を開いた家康は、街道を整備して上洛の往復をしたが、この勝山の北側山麓に将軍専用の旅舎を設けた。その建物は、信長が岐阜城に建てた千畳敷御殿を移築したものといわれている。現在は、林業や石灰岩の採掘で財をなした矢橋家のボタン園となっている。

元々この地は、杭瀬川を使った水運交通の要所で、美濃の産物や金生山の石灰などを運ぶ数百艘の船で賑わっていた。赤坂港跡には今も、常夜灯や旧警察屯所が残されている。また、西国三十三霊場最後の地として知られる谷汲山華厳寺へ続く谷汲街道の起点でもあり、分れ道に灯篭を兼ねた道標が建てられている。(下の写真)

江戸に幕府を開いた家康は、街道を整備して上洛の往復をしたが、この勝山の北側山麓に将軍専用の旅舎を設けた。その建物は、信長が岐阜城に建てた千畳敷御殿を移築したものといわれている。現在は、林業や石灰岩の採掘で財をなした矢橋家のボタン園となっている。

元々この地は、杭瀬川を使った水運交通の要所で、美濃の産物や金生山の石灰などを運ぶ数百艘の船で賑わっていた。赤坂港跡には今も、常夜灯や旧警察屯所が残されている。また、西国三十三霊場最後の地として知られる谷汲山華厳寺へ続く谷汲街道の起点でもあり、分れ道に灯篭を兼ねた道標が建てられている。(下の写真)

八幡山古墳と一本松古墳
名古屋城と熱田神宮を結ぶ熱田台地の東、精進川 (現新堀川) の谷をはさんだ対岸に御器所台地がある。ここには古代から人々が住み着いている。南端の笠寺には弥生時代の見晴台遺跡があり、中ごろの鶴舞には聞天閣貝塚が発見されている。少し時代が下った5世紀には大きな古墳が築かれた。
鶴舞公園の飛び地・鶴舞小学校の東に、円墳としては県内最大の 「八幡山古墳」 がある。直径82m、高さ10m、周囲は幅10mほどの堀が廻らされている。戦前には墳丘から埴輪が見つかっているが、戦災で失われてしまったという。

さらに御器所台地の西端、名工大の敷地に 「一本松古墳」 が残っている。全長7~80mの前方後円墳であったともいわれているが、今は直径36m、高さ8mの円墳状である。かつて墳丘の裾を整備した時に、多数の土師質の円筒埴輪が発見された。現在も大学の図書館や名古屋市博物館に保管されている。

鶴舞公園の飛び地・鶴舞小学校の東に、円墳としては県内最大の 「八幡山古墳」 がある。直径82m、高さ10m、周囲は幅10mほどの堀が廻らされている。戦前には墳丘から埴輪が見つかっているが、戦災で失われてしまったという。

さらに御器所台地の西端、名工大の敷地に 「一本松古墳」 が残っている。全長7~80mの前方後円墳であったともいわれているが、今は直径36m、高さ8mの円墳状である。かつて墳丘の裾を整備した時に、多数の土師質の円筒埴輪が発見された。現在も大学の図書館や名古屋市博物館に保管されている。

建築家・鈴木禎次の記念碑
鶴舞公園の東、名古屋工業大学の正門をくぐった直ぐ左側に、鈴木禎次の功績を讃えた記念碑が立っている。桜などの樹木に囲まれた、露壇上の2本のエンタシス石柱である。石板には、「TO COMMEMORATE THE MERIT OF PROF. SUZUKI OCT 1923」 と刻まれている。鈴木禎次は1922年に名古屋高等工業学校を退官したが、その翌年に教え子たちが中心になって建立したものである。

鈴木禎次は明治3年 (1870) の生まれ、帝国大学工科大学造形学科を卒業した後ヨーロッパに留学、明治39年に名工高の建築科教授として着任する。大正11年に退官するまでの16年間、後進の育成に努める傍ら、積極的に建築設計活動を展開した。退官後も設計事務所を開設し、多くの名建築を名古屋中心に残した。
現存する代表作は、鶴舞公園の噴水塔や奏楽堂 (復元) のほか、旧名古屋銀行本店 (前貨幣資料館)、旧中埜家住宅や諸戸精太郎邸などである。鈴木禎次は夏目漱石の義弟に当たるので、漱石の葬儀委員長を務めるとともに、墓石の設計も行った。


鈴木禎次は明治3年 (1870) の生まれ、帝国大学工科大学造形学科を卒業した後ヨーロッパに留学、明治39年に名工高の建築科教授として着任する。大正11年に退官するまでの16年間、後進の育成に努める傍ら、積極的に建築設計活動を展開した。退官後も設計事務所を開設し、多くの名建築を名古屋中心に残した。
現存する代表作は、鶴舞公園の噴水塔や奏楽堂 (復元) のほか、旧名古屋銀行本店 (前貨幣資料館)、旧中埜家住宅や諸戸精太郎邸などである。鈴木禎次は夏目漱石の義弟に当たるので、漱石の葬儀委員長を務めるとともに、墓石の設計も行った。

鶴舞公園の奏楽堂
源氏ボタルは、桜の開花に合わせて水中から這い上がり、水路脇の土中にまゆをつくる。体内時計が気温を知らせてくれるのである。人間も桜が咲くと、野山へ出たくなる。花見の宴は、桜前線につれて北上する。青森の人たちのお花見は5月である。
名古屋では、先週が花見のピークであった。鶴舞公園では露店やビヤガーデンが開店し、ステージイベントやパフォーマンスも行われて大賑わいであった。

鶴舞公園の中央に奏楽堂が聳えている。噴水塔と同じように、明治43年の第10回関西府県連合共進会で中心施設となった建物である。エンタシスの柱に緑青のふいたドーム屋根をのせ、手すりなどの細部はアールヌーボーのデザインが施されている。設計は噴水塔と同じ鈴木禎次である。
この建物は老朽化の上、昭和9年の室戸台風で大被害を受けたので取り壊され、昭和12年から平成7年までは異なるデザインの建物が建てられていた。しかし平成9年、残されていた図面や写真、絵葉書などを参考にして、築造当時の姿に復元された。


名古屋では、先週が花見のピークであった。鶴舞公園では露店やビヤガーデンが開店し、ステージイベントやパフォーマンスも行われて大賑わいであった。

鶴舞公園の中央に奏楽堂が聳えている。噴水塔と同じように、明治43年の第10回関西府県連合共進会で中心施設となった建物である。エンタシスの柱に緑青のふいたドーム屋根をのせ、手すりなどの細部はアールヌーボーのデザインが施されている。設計は噴水塔と同じ鈴木禎次である。
この建物は老朽化の上、昭和9年の室戸台風で大被害を受けたので取り壊され、昭和12年から平成7年までは異なるデザインの建物が建てられていた。しかし平成9年、残されていた図面や写真、絵葉書などを参考にして、築造当時の姿に復元された。


鶴舞公園の噴水塔
名古屋市設置の第1号公園 「鶴舞(つるま)公園」 が誕生したのは、明治42年のことである。我が国では、明治6年に太政官布告により公園制度が設けられた。名古屋にもぜひ大公園をとの市民の願いがあったが、なかなか実現できなかった。折りしも、明治38年から精進川( 現新堀川) の改修工事が始まって土砂が余ることなり、また、明治43年に行われることとなった 「第10回関西府県連合共進会」 の会場が必要となったことから、田園地帯であったこの地を埋め立てて、大公園を造ることとなったのである。

共進会会場の正面を飾った噴水塔は、その後の公園整備に当たっても、そのまま鶴舞公園のシンボルに位置づけられている。形式は、ローマ様式の大理石柱に岩組みという和洋折衷である。設計は名古屋工業大学の前身、名古屋高等工業学校の教授を務めた鈴木禎次工学士である。鶴舞駅東の正門からヒマラヤスギ並木の間に見る噴水塔は、私の大好きな景色である。



共進会会場の正面を飾った噴水塔は、その後の公園整備に当たっても、そのまま鶴舞公園のシンボルに位置づけられている。形式は、ローマ様式の大理石柱に岩組みという和洋折衷である。設計は名古屋工業大学の前身、名古屋高等工業学校の教授を務めた鈴木禎次工学士である。鶴舞駅東の正門からヒマラヤスギ並木の間に見る噴水塔は、私の大好きな景色である。

