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知立市・三河八橋のカキツバタ
“から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思う”
平安時代を代表する歌人・在原業平は、東国への旅の途中で三河国八橋に立ち寄り、句の頭に 「か・き・つ・は・た」 の5文字を据えて名句を残しました。これ以後八橋は、カキツバタの名勝地として天下に喧伝されることとなりました。今も毎年5月になると、八橋山無量寿寺の庭園に数万本のカキツバタが咲き誇ります。

江戸中期の画家・尾形光琳は、八橋や杜若にかかわる名画を数多く残しています。国宝 「燕子花図屏風」 は、東京・根津美術館に所蔵されていますが、その限定版の写しが 「知立市八橋史跡保存館」 に展示されています。この保存館には、在原寺や無量寿寺を再興し、煎茶による茶道を確立した 「方巌売茶翁」 の資料も所蔵されています。

平安時代を代表する歌人・在原業平は、東国への旅の途中で三河国八橋に立ち寄り、句の頭に 「か・き・つ・は・た」 の5文字を据えて名句を残しました。これ以後八橋は、カキツバタの名勝地として天下に喧伝されることとなりました。今も毎年5月になると、八橋山無量寿寺の庭園に数万本のカキツバタが咲き誇ります。

江戸中期の画家・尾形光琳は、八橋や杜若にかかわる名画を数多く残しています。国宝 「燕子花図屏風」 は、東京・根津美術館に所蔵されていますが、その限定版の写しが 「知立市八橋史跡保存館」 に展示されています。この保存館には、在原寺や無量寿寺を再興し、煎茶による茶道を確立した 「方巌売茶翁」 の資料も所蔵されています。

加納宿の旧町役場
加納宿は、中山道の宿場の中で数少ない城下町でもあり、美濃16宿の中で最大の規模を誇っていた。この宿は、21の町からできていて街道沿いに軒が並ぶ細長い町である。現在の道路は舗装されてはいるが、道すじや幅員はほとんど変わっておらず、鍵状の折れ曲がりや道標なども残っていて往時を偲ぶことができる。

町の中ごろに、廃墟のような建物 (失礼) を見つけた。説明書きには、“岐阜市が誇る歴史的建造物 「旧加納町役場」 ” とある。国内屈指の和傘生産地で、文教の町でもあった旧稲葉郡加納町を象徴する建物である。昭和15年に合併した後、岐阜市役所加納支所となった。
完成は大正15年 (1926)、京都帝国大学教授の武田五一が設計した。様式は 「イスパニア式」、鉄筋コンクリート造りで基礎は 「フーチング式」、当時の最先端技術を駆使している。現在は、国の登録文化財に指定されているが、耐震性が不足しているので立ち入りは禁止されている。


町の中ごろに、廃墟のような建物 (失礼) を見つけた。説明書きには、“岐阜市が誇る歴史的建造物 「旧加納町役場」 ” とある。国内屈指の和傘生産地で、文教の町でもあった旧稲葉郡加納町を象徴する建物である。昭和15年に合併した後、岐阜市役所加納支所となった。
完成は大正15年 (1926)、京都帝国大学教授の武田五一が設計した。様式は 「イスパニア式」、鉄筋コンクリート造りで基礎は 「フーチング式」、当時の最先端技術を駆使している。現在は、国の登録文化財に指定されているが、耐震性が不足しているので立ち入りは禁止されている。

岐阜の加納城跡
岐阜のお城というと、私たちは織田信長の居城した金華山の岐阜城を思い浮かべますが、岐阜にはもうひとつのお城があったのです。JR岐阜駅の北側一帯は、 「加納城」 の城下町であり、合わせて中山道「加納宿」の宿場町でもありました。
加納城は、慶長5年 (1600) の関が原合戦直後に、家康の命により築城されました。それは、豊臣秀頼の残る大坂方への備えに他なりません。新荒田川とお堀に囲まれた5つの曲輪からなる城郭は、まるで 「水に浮かぶお城」 といった景観だったといわれています。

初代城主は、家康の長女亀姫の婿・奥平信昌で10万石を与えられました。その後、歴代の城主は譜代大名を務めましたが、明治維新の後、建物は全て取り壊され、堀も埋められてしまいました。今は、本丸や二の丸・三の丸の石垣がわずかに残るのみです。この本丸跡は、昭和58年に国の史跡に指定されています。

加納城は、慶長5年 (1600) の関が原合戦直後に、家康の命により築城されました。それは、豊臣秀頼の残る大坂方への備えに他なりません。新荒田川とお堀に囲まれた5つの曲輪からなる城郭は、まるで 「水に浮かぶお城」 といった景観だったといわれています。

初代城主は、家康の長女亀姫の婿・奥平信昌で10万石を与えられました。その後、歴代の城主は譜代大名を務めましたが、明治維新の後、建物は全て取り壊され、堀も埋められてしまいました。今は、本丸や二の丸・三の丸の石垣がわずかに残るのみです。この本丸跡は、昭和58年に国の史跡に指定されています。

徳川園蓬左文庫の旧書庫
名古屋市東区の徳川園には、徳川美術館とともに 「蓬左文庫」 がある。この文庫には、尾張徳川家の旧蔵書を中心に、日本、中国、朝鮮の古典籍約10万点が所蔵されている。中でも有名なのは 「源氏物語 (河内本) 」、最古の写本として重要文化財にも指定されている。
大御所家康が駿府で亡くなった後、約3000冊の蔵書が初代藩主義直に相続された。「駿河御譲本」 と呼ぶ。義直は学問を好み、その後も書物を集め続けたが、それらが「 蓬左文庫」 の元になっている。戦後( 昭和25年)、徳川黎明会は文庫を手放すこととなったが、名古屋市にまとめて移管されたので散逸することなく、この地で博物館として公開されている。

「旧書庫」 は、尾張徳川家大曽根邸創建時 (明治20年代) に建てられた土蔵2棟を、昭和10年に合体したものである。平成13年の徳川園再整備で曳家移転するまでは、収蔵庫として使用されていた。現在は、美術館と連結した蓬左文庫側のエントランスとして利用されている。今年3月に、園内の黒門や蘇山荘などとともに、国の登録文化財に指定された。
徳川園の日本庭園は、「春の牡丹」 や 「秋の紅葉」 の名所となっている。

大御所家康が駿府で亡くなった後、約3000冊の蔵書が初代藩主義直に相続された。「駿河御譲本」 と呼ぶ。義直は学問を好み、その後も書物を集め続けたが、それらが「 蓬左文庫」 の元になっている。戦後( 昭和25年)、徳川黎明会は文庫を手放すこととなったが、名古屋市にまとめて移管されたので散逸することなく、この地で博物館として公開されている。

「旧書庫」 は、尾張徳川家大曽根邸創建時 (明治20年代) に建てられた土蔵2棟を、昭和10年に合体したものである。平成13年の徳川園再整備で曳家移転するまでは、収蔵庫として使用されていた。現在は、美術館と連結した蓬左文庫側のエントランスとして利用されている。今年3月に、園内の黒門や蘇山荘などとともに、国の登録文化財に指定された。
徳川園の日本庭園は、「春の牡丹」 や 「秋の紅葉」 の名所となっている。
