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恵那の「保古の湖」

 岐阜県恵那市と中津川市の境に、保古の湖という人口の湖がある。標高900m、周囲約5km、最も深いところは15mである。ボートに乗り、ワカサギ釣りを楽しむことができる。湖畔には、国民宿舎 「恵那山荘」 を中心に、動植物を展示した 「保古自然館」 があり、芝生の中にはバンガローやバーベキューハウスなども整っている。

保古の湖 A

 明治・大正の時代、木曽川の支流阿木川の流域 「東野村」 は水田が少ないので、上流を堰き止めて水を溜め、開墾地に潅漑すれば飛躍的に生産力が増大すると期待されていた。大正10年から昭和初期にかけて堤防を造ってできたのが「保古の湖」である。貯水量は約60万トン、導水路の延長は、5500mにもおよび、東野村だけでなく大井・坂本方面にも利用されたという。
 戦後の食糧難の時代に、さらに堤防の嵩上げなどを行い、貯水量を76万トンまで増強した。土盛りによる堤防には、色鮮やかな山草が咲いていた。 (左:ウツボグサ 右:ノアザミ)

保古の湖 C

保古の湖マップ


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大井宿・明治天皇行在所

 明治13年 (1880)、明治天皇は民業視察のために全国を巡幸された。岐阜県大井宿を訪ねられたときに、お泊りになったのがこの行在所である。この建物は、大井宿の中でも大規模な旅籠兼商売屋であった。行幸されることが決まって後、この建物には、母屋の隣に新たな座敷や風呂、便所などが増築された。

大井宿行在所マップ

 時代が移り、母屋は郵便局や学習塾などとして改装されていた。しかし、平成23年10月、地元のまちづくり協議会や一般市民の熱意により、明治13年の状態近くに復元された。大井宿の中心的位置にあるこの施設は、宿場の資料館やギャラリーとして観光客にも解放されている。
 明治天皇のお泊りになったお部屋やお風呂は、当時のまま、全くの手付かずで残されている。地元のガイドの方の案内で、隅々まで見学することができる。

大井宿行在所A

大井宿枡形

 旧中山道の大井宿は、現在の恵那駅の東、阿木川を渡った辺りである。大井宿は江戸から46番目の宿場町。天宝14年 (1834) には6町半 (約700m) の間に、41軒もの旅籠があったという。町並みを描いた古絵図には、6か所の「枡形」が見て取れる。枡形とは、敵の侵入を防ぐ目的で直角に曲げた角のことで、大井宿では、ほぼこのままの形が残されている。

大井宿マップ

 宿場へ入る少し手前に 「高札」 (下左の写真) が立っていて、幕府が農民や商人を取り締まる基本的なきまりが公示してあった。最初の枡形には延寿院横薬師という寺院がある。2つ目の角には大井宿本陣があったが現在は門と松しか残されていない (下右の写真) 。3番目近くには脇本陣、4番目には市神神社。5番目には、尾張藩の役人が常駐する 「白木番所」 があった。最後の6番目は阿木川を渡る大井橋である。

大井宿本陣・高札

明知鉄道明知線

 岐阜県恵那駅から明知駅までを走るローカル線である。大井 (今は恵那) から阿木までの10kmが開通したのは昭和8年、延長して岩村、明知まで15kmを伸ばしたのは昭和9年のことである。 
 もともとこの路線は、明治25年 (1892) に改正された鉄道敷設法により計画された。静岡県掛川から愛知県の大野を経て岐阜県大井に至る地方鉄道であった。しかし、1980年に成立した国鉄再建法により廃止路線となり、1985年に第三セクターの明知鉄道に転換された。

明知鉄道A

 木曽川流域の平野部を過ぎて山間部へ入ると、急勾配と急曲線が連続する。途中の飯沼駅と野志駅は、日本で第1位と第2位の急勾配駅として知られている。下の写真は、旧中山道と交差するガードである。道幅も狭いが高さも低く、車高1.6mの車しか通ることができない。しかし、通勤・通学など地域にとっては大切な足であるとともに、各種のイベント企画が行われるなど観光資源としても重要な鉄道である。

明知鉄道マップ

尾張中村・日吉丸生母祈願の地

 地下鉄中村公園駅を降りると、大きな赤い鳥居がある。これは、豊臣秀吉を祀る豊国神社への参道の入口である。今日はそちらへは向かわず、南へと歩を進めていった。この辺りは、戦災復興区画整理の区域外であるので、昔ながらの細い道路が続いている。軽四でも通行不可能、かつて荷車ぐらいが通った道であろう。薬師寺、押木田公園を過ぎたところに日吉公園があり、その隣に 「日の宮神社」 がある。ここが日吉丸ゆかりの地である。

中村・日の宮B

 この神社は、太閤秀吉の生母なか (仲・のちの大政所) が一子を授かりたくて日参したお宮だという。その霊験により天文5年 (1536) に男子が誕生した。日の宮神社は、もと日吉権現と称したので、この子は日吉丸と名づけられた。この故地には、鬱蒼とした樹林の下に灯篭と石碑が残されており、後に造られた石造りの説明板も建っている。

中村・日の宮マップ

大垣の道標・記念碑

 美濃路は、中山道と東海道を結ぶ街道である。垂井から大垣の城下町を抜け、墨俣から尾張へと入り熱田の宮で東海道に通じていた。 「岐阜町道標」 ①は常夜灯を兼ねた道しるべである。
300mほど南に下った 「本町道標」 ②は、美濃路と竹鼻街道との分岐点に建てられている。 “左江戸道” “右京道” と書かれている。
大垣道標写真集
大垣記念碑写真集
 大垣城のお堀に当たる水門川を自転車で廻ってみた。そこここに由緒のある記念碑が建てられている。 「飯沼慾斎邸跡」 ③は、我が国植物学の創始者飯沼慾斎が、蘭方医として医学に従事していたところである。
 「奥の細道むすびの地」 ④、元禄2年 (1689) 3月27日に江戸深川を出発した芭蕉は、奥州から北陸を経て、この地で旅を終えた。 「蛤の ふたみに別 行秋そ」 、奥の細道むすびの句を残している。

 「大垣宿問屋場跡」 ⑤、宿場において人馬の継立の業務を行ったところが 「問屋場」 である。ここには、問屋役を始め助役の年寄、事務担当の帖付や馬指、人馬指などが詰めていた。
 8代藩主戸田采女正氏廉は、藩士の子弟教育のため天保11年 (1840) 辰之口門外に学問所を創設した。のちに 「到道館」 、さらに改め 「敬教堂」 と称した。その跡地に孔子像と並んで 「大垣藩校敬教堂跡」 ⑥と記した記念碑が建てられている。
大垣記念碑マップ


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 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:「園長さんのガーデンライフ」
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