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知多市岡田の古い街並
知多市岡田地区は、江戸時代から昭和20年代まで知多木綿の産地として栄えた町である。今でも、坂道の両側に高い石垣や黒板塀の屋敷、土蔵などを見ることができる。その中でも、一際目立つのが 「知多岡田簡易郵便局」 である。明治35年に造られた建物で、当時としては珍しい洋館風である。懐かしい赤いポストも残されていて、今も現役の郵便局として使われている。昨年、国の登録文化財に指定された。

その隣の 「手織の里・木綿蔵ちた」 は、明治元年に建てられた木綿蔵を利用している。厚い白漆喰壁と瓦屋根の土蔵造りである。長く突き出た軒の下では木綿の梱包作業が行われたという。中に入ると、昔ながらの機織り機が並んでいて、実演も見せてくれるし、機織り体験をすることもできる。ゆるやかなカーブを描く町並みを歩いていると、どこからか機織りの音や、女子工員たちの声が聞こえてきそうな町である。


その隣の 「手織の里・木綿蔵ちた」 は、明治元年に建てられた木綿蔵を利用している。厚い白漆喰壁と瓦屋根の土蔵造りである。長く突き出た軒の下では木綿の梱包作業が行われたという。中に入ると、昔ながらの機織り機が並んでいて、実演も見せてくれるし、機織り体験をすることもできる。ゆるやかなカーブを描く町並みを歩いていると、どこからか機織りの音や、女子工員たちの声が聞こえてきそうな町である。

津の常夜灯
近鉄線 「江戸橋駅」 を降り、三重大学に向かって東へ歩くと、橋の手前に御影石造りの常夜灯がある。橋の名前は津藩主・藤堂氏が参勤交代の折に、ここで見送られたことから 「江戸橋」 という。
この 「江戸橋常夜灯」 は、伊勢神宮参詣の帰路、京へ向かう 「伊勢別街道」 と名古屋、江戸方面へ向かう 「伊勢街道」 の分れ道 (追分) に造られている。石には、安永6年 (1777) と刻まれており、津市内最古の常夜灯として、市指定の史跡になっている。手前の 「高田本山道」 の道標は、ここから2kmほど北にある真宗高田派本山 「専修寺」 を案内するものである。

三重大学の正門近く、栗真町屋町にも常夜灯がある。形式は彫りの荒い 「山燈籠」 である。正面に 「両宮常夜灯」 とあり、左に 「五穀成就」、裏面に 「嘉永4年」 (1851) と刻まれている。私は、大学時代の4年間、この近くに下宿していた。

この 「江戸橋常夜灯」 は、伊勢神宮参詣の帰路、京へ向かう 「伊勢別街道」 と名古屋、江戸方面へ向かう 「伊勢街道」 の分れ道 (追分) に造られている。石には、安永6年 (1777) と刻まれており、津市内最古の常夜灯として、市指定の史跡になっている。手前の 「高田本山道」 の道標は、ここから2kmほど北にある真宗高田派本山 「専修寺」 を案内するものである。

三重大学の正門近く、栗真町屋町にも常夜灯がある。形式は彫りの荒い 「山燈籠」 である。正面に 「両宮常夜灯」 とあり、左に 「五穀成就」、裏面に 「嘉永4年」 (1851) と刻まれている。私は、大学時代の4年間、この近くに下宿していた。

天竜峡の吊り橋
天竜川は、長野県の諏訪湖を源流とし、静岡県の遠州灘にそそぐ延長213kmの大河である。上流は伊那谷という平 (たいら=盆地) をゆったりと流れているが、中ほどからは両側に山が迫り、突然 「峡谷」 の様相を呈する。その入り口が 「天竜峡」 であり、険しい崖や奇岩が古くから観光の名所になっている。
JR飯田線の天竜峡駅から、1周2kmほどの遊歩道が整備されていて、その折り返し点に 吊り橋 「つつじ橋」 がある。ここからは、高さ70mの一枚岩 「龍角峯」 や 「天竜下り」 の舟を見ることができる。

吊り橋の長さは80m、幅は1.5mほど、何人かで歩くと揺れが増幅して肝を冷やす。ときどきテレビのサスペンスドラマにも登場する。橋を渡りきった所に、こんこんと湧き出る泉がある。その岩場に自生のヤマユリが咲いていた。野生とは思えないほど見事な花で、何種類かの園芸品種の親になっている。長野県版レッドリストでは、準絶滅危惧種になっており、大切に保護したい植物である。

JR飯田線の天竜峡駅から、1周2kmほどの遊歩道が整備されていて、その折り返し点に 吊り橋 「つつじ橋」 がある。ここからは、高さ70mの一枚岩 「龍角峯」 や 「天竜下り」 の舟を見ることができる。

吊り橋の長さは80m、幅は1.5mほど、何人かで歩くと揺れが増幅して肝を冷やす。ときどきテレビのサスペンスドラマにも登場する。橋を渡りきった所に、こんこんと湧き出る泉がある。その岩場に自生のヤマユリが咲いていた。野生とは思えないほど見事な花で、何種類かの園芸品種の親になっている。長野県版レッドリストでは、準絶滅危惧種になっており、大切に保護したい植物である。

クロアチアの戦争記念広場
旧ユーゴスラビアは、今は6つの共和国、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアに分かれており、さらにセルビアには、コソボ・メトヒヤとヴォイヴォディナの2つの自治州がある。
クロアチアは、アドレア海に面する国で石灰岩の地層が多い。中央部にある 「プリトヴィツェ湖群国立公園」 は、16の湖が階段状に連なり92もの滝が落ちている。これも石灰岩がつくる不思議な地形であり、世界自然遺産に指定されている。

国立公園近くに宿 (アパルトマンと呼ぶ民宿) をとり、近くを散歩すると“戦争を記念する広場”があった。撃墜された戦闘機や迎撃用の大砲、対戦車用 (?) のコンクリートブロックやトーチカなどが展示されており、破壊された建物もそのままになっている。近所の民家の壁にも、機関銃の弾痕が無数に残されていた。1991年の独立から、1995年の合意まで続いたクロアチア紛争の傷跡である。

クロアチアは、アドレア海に面する国で石灰岩の地層が多い。中央部にある 「プリトヴィツェ湖群国立公園」 は、16の湖が階段状に連なり92もの滝が落ちている。これも石灰岩がつくる不思議な地形であり、世界自然遺産に指定されている。

国立公園近くに宿 (アパルトマンと呼ぶ民宿) をとり、近くを散歩すると“戦争を記念する広場”があった。撃墜された戦闘機や迎撃用の大砲、対戦車用 (?) のコンクリートブロックやトーチカなどが展示されており、破壊された建物もそのままになっている。近所の民家の壁にも、機関銃の弾痕が無数に残されていた。1991年の独立から、1995年の合意まで続いたクロアチア紛争の傷跡である。

笠寺公園 高射砲陣地跡
見晴台は、笠寺台地の東南端にあり、かつては海 (年魚市潟=あゆちがた) に突き出た半島であった。ここには古くから人が住みつき、弥生時代から古墳時代にかけての集落跡が発掘されている。鎌倉時代から室町時代にかけては、隣接する笠寺観音の寺地として、お寺関係の住居群があったという。現在は、笠寺公園となっていて、その中心に見晴台考古資料館が建っている。

この台地は、海抜15mほどと周りより高いので、戦時中には高射砲陣地として使われた。昭和17年 (1942) に一個中隊が配備され、八八式7.5cm高射砲6門が設置された。現在は2基の砲座跡 (上の写真) と砲側弾薬庫 (下の写真) が残っており、悲惨な戦争を忘れないための記念施設として保存されている。


この台地は、海抜15mほどと周りより高いので、戦時中には高射砲陣地として使われた。昭和17年 (1942) に一個中隊が配備され、八八式7.5cm高射砲6門が設置された。現在は2基の砲座跡 (上の写真) と砲側弾薬庫 (下の写真) が残っており、悲惨な戦争を忘れないための記念施設として保存されている。

蒲郡クラシックホテルと竹島
竹島は三河湾に浮かぶ小島、蒲郡の海岸から400mしか離れていない。陸地近くに島があると、別れた波が砂を中央に運ぶため、そこが浅瀬になったり自然がつくった橋のようになったりする。フランスのモンサンミッシェルや鎌倉の江ノ島がその例であり、竹島も浅瀬になっている。
標高22m、周囲680m、面積約2ha、花崗岩でできた島である。こんもりとした緑濃い樹林は、この地域の落葉樹の森とはまるで異なる林相である。シイやタブといった照葉樹がおおっていて、サカキカズラとかカゴノキといった貴重な植物が生育しているので、国の天然記念物に指定されている。全山、日本七弁天のひとつである 「八百富神社」 の境内である。

対岸の丘の上に、瀟洒で豪華な近代建築が建っている。蒲郡クラシックホテルである。今から80年ほど前、昭和9年 (1934) に蒲郡ホテルとして開業した。当時の鉄道省が国際観光旅館として認定した格式の高いホテルであり、昭和天皇・皇后もお泊りになった。設計は、伊勢の宇治山田駅と同じ久野節である。
昭和50年代に一旦廃業となったが、昭和62年にプリンスホテルとして復活し、平成23年からは蒲郡クラシックホテルとして営業している。

標高22m、周囲680m、面積約2ha、花崗岩でできた島である。こんもりとした緑濃い樹林は、この地域の落葉樹の森とはまるで異なる林相である。シイやタブといった照葉樹がおおっていて、サカキカズラとかカゴノキといった貴重な植物が生育しているので、国の天然記念物に指定されている。全山、日本七弁天のひとつである 「八百富神社」 の境内である。

対岸の丘の上に、瀟洒で豪華な近代建築が建っている。蒲郡クラシックホテルである。今から80年ほど前、昭和9年 (1934) に蒲郡ホテルとして開業した。当時の鉄道省が国際観光旅館として認定した格式の高いホテルであり、昭和天皇・皇后もお泊りになった。設計は、伊勢の宇治山田駅と同じ久野節である。
昭和50年代に一旦廃業となったが、昭和62年にプリンスホテルとして復活し、平成23年からは蒲郡クラシックホテルとして営業している。
