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長篠城の土塁跡

 天正3年 (1575)、天下を狙う甲斐の武田勝頼は長篠城を大軍勢で取り囲んだ。武田勢は1万5千人、守るは徳川方の武将・奥平信昌率いるわずか5百人である。長篠城は、寒狭川 (現豊川) と大野川 (現宇連川) が合流する断崖絶壁、まさに自然の要塞といえる地形にある。また、鳥居強右衛門のエピソードが語るように守兵の意識も高く、織田・徳川連合軍到着まで何とか持ち堪えた。この後、かの有名な「設楽が原」での鉄砲による戦いが始まるのである。

長篠城B

 長篠城には城郭が残っていない。この戦いの後、信昌は 「新城」 に新しい城をつくり、ここを廃城としたのである。現在本丸跡は芝生地となっていて、わずかに土塁や石垣、堀が残るばかりである。上の写真は、本丸と二之丸の間の堀と土塁である。この奥に飯田線が走っていて、その向こうに宇連川が流れている。(下の縄張図は南が上になっており、右のマップとは反対ですのでご注意ください)

長篠城マップ

新城の「旧黄柳橋」

 かつて、吉田 (豊橋) を起点とし乗本を終点とする、水上運送華やかな時代があった。山村からは材木や薪炭、逆に信州へは塩や綿といった物資が 「羽根河岸」 を中継地として行き来したのである。明治13年 (1880) ごろ、運送馬車を通行可能にする県道の大改修が行われた。その別所街道にかけられたのが 「黄柳橋 (つげばし)」 で、初代は木造であった。
 大正8年 (1919) に、当時としては全国で一番長いコンクリート橋が完成する。アーチスパンは30mであるが、橋長は51.2mであるため、アーチと路面が離れることになる。そこで長い柱が必要となり、耐震性を考慮した井桁状の形態になったのだという。黎明期、大正の時代性色濃い、個性的な橋梁である。

黄柳橋B

 しかし近年の自動車交通事情では、3.6mという幅員はあまりにも狭く、平成6年に3代目の橋梁が下流側に架けられた。「旧黄柳橋」 は、大正時代の生き証人として永久に保存されることになり、現在は歩道橋として使われている。平成10年に国の登録文化財に指定された。

黄柳橋マップ

四日市「近鉄・内部線」

 内部と書いて 「うつべ」 と読む。近鉄四日市駅と内部駅5.7kmの間を結ぶ、単線のローカル線である。三岐鉄道・北勢線 (平成25年4月30日のブログ参照) と同じ762mmのナローゲージ、貴重な存在といえる。明治44年に 「三重軌道」 が設立された後、順次延伸が行われ、内部駅までつながったのは大正11年のことである。

内部線C-2
         ≪紫・ピンク・緑・黄緑・空色 カラフルな車両が楽しい≫

 幾多の変遷の後、昭和40年に近鉄の経営となったが、平成24年には鉄道の廃止とバス路線への転換の方針が打ち出された。しかし、地元民の熱意を受け、近鉄と四日市市の合意により 「公有民営方式」 での存続が決められた。今年3月に 「四日市あすなろう鉄道」 が設立され、来年から運営を開始する予定になっている。駅舎などには 「みんなで乗って内部線を守ろう!!」 といった標語が掲げられている。                                 

内部線マップ
    ≪膝がくっつきそうな座席≫

新城市 四谷の千枚田

 旧鳳来町大代地区に、見事な棚田がある。田の数1296枚、まさに 「千枚田」 と呼ぶにふさわしい。谷のコンターラインに沿って詰まれた石積みが、標高差200mにも積み重なって、美しい田園風景を形づくっている。
 実はこの棚田は、大災害を乗り越えた農民の底力によって造り出されたものなのである。明治37年 (1904)、20日あまりも降り続いた雨が、「鞍掛山」 (標高883m) と通称「びんぼう山」の谷間に山津波となって流れ、田畑と10戸の家屋を押し流したのである。

鳳来町千枚田A

 11人もの犠牲者を出した大災害であったが、村人たちは鍬とモッコで復興に立ち上がり、何年もかかって荒地を田に変えたのだという。一枚あたりの平均面積は約0.9アール (90㎡)、最も多い人は62枚を耕している。平らで広い所に比べれば作業効率は悪いかもしれないが、地域の人にとっては先人から引き継いだ大切な農地なのである。現在、「鞍掛山麓千枚田保存会」 の方々が、毎月 「四谷の千枚田だより」 を発行するなど、保存活動を展開している。

鳳来町千枚田マップ

長篠発電所の堰堤と取水路

 長篠発電所の水は、900mほど上流から取り入れている。高さ8m、長さ46mの堰堤で川をせき止め、そこから川沿いの水路により、発電所の真上まで水を運ぶのである。水路は途中733mものずい道を通る。
 寒狭川に建設された発電所は3つ (布里・横川・長篠) あるが、長篠が最も下流に位置し、また最も古く、明治45年に建設された。 “明治時代に建設されたこの堰堤と取水路は、歴史的土木施設として価値が高い” との評価を受け、平成24年に土木学会選奨の土木遺産に認定された。

ナイヤガラA

 堰堤でせき止められた水は取水路を流れて行くが、水量の多いときには水路から溢れて滝のように落下する。越流する水路の長さは約145mもある。真っ白く躍動するその姿はとても美しく、緑濃い山や川沿いの岩肌とともに見事な景観を形成している。愛称の 「ナイヤガラ」 は、滝の姿がナイヤガラの滝のようだからとも言うが、発電所の型式が 「ナイヤガラ型」 だからという説もある。

ナイヤガラ マップ

新城の長篠発電所

 寒狭川 (豊川の別名) は、愛知県東部の段戸山に源を発し、「長篠城」 の南で宇連川と合流した後、豊橋市で三河湾に注ぐ。長篠の城跡から3kmほど遡ったところ、奇岩からなる渓流に 「長篠発電所」 がある。明治45年、当時の豊橋電気株式会社 (現在は中部電力) により運転が開始された。当初は出力500kwであったが、大正3年、出力750kw (住宅150戸分に相当) に増設された。この発電所は今も現役である。

長篠発電所C

 型式は 「ナイヤガラ型」、水車と発電機を縦軸で結び、水を真直下に落として水車を回す構造である。これは、当時最新鋭の米国 「ナイヤガラ発電所」 をモデルとした画期的なもので、我が国では最初に採用されたものである。下の写真は水の落とし口、ここから内径150cmの鉄管を使い、約23m流下させて発電するのである。

長篠発電所マップ

≪防災の日≫ 東京の清澄庭園

 三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎は、明治11年 (1878) に、荒廃していた大名屋敷など約3万坪を買い上げ、大規模な庭園づくりを始めた。庭園整備の事業は弟の2代目・弥之助が引き継ぎ、完成をみたのは、弥太郎の長男、3代目・久弥の時代、明治24年 (1891) のことである。
 大正12年 (1923) 9月1日の 「関東大震災」 の折、この 「清澄庭園」 に避難した多くの人々は生き延びることができた。それに比べて、墨田区の 「被服廠跡地」 (6.6ha) に逃げ込んだ約4万人の人々は、ほとんど焼け死んでしまった。その違いは、一方が樹林に囲まれ、池などがあるのに対し、もう一方は樹木もない更地であったからといわれている。近年の研究では 「火災旋風」 (炎の竜巻 )に襲われたのではないかとも考えられている。

清澄庭園A

 現在は、東京都の所有する都市公園になっており、震災被害の少なかった東半分は、当時のような 「清澄庭園」 (有料) に、被害の大きかった西半分は、芝生広場を中心とした 「清澄公園」 として開放されている。
 今日9月1日は、関東大震災から91年目、「防災の日」 である

清澄庭園マップ
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ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:「園長さんのガーデンライフ」
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