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勘八水管橋と越戸ダム
国道153号線、大井橋の辺りが 「勘八峡」 である。現在でも、川水に侵食された花崗岩の岩盤を見ることができるが、2kmほど上流の越戸ダムが完成するまでは奇岩・怪石の連続する景勝の地であった。昭和初期までは、観光客相手の筏や遊覧船が往来し、鵜飼も行われる行楽地であったという。
大井橋のすぐ上流に、赤いアーチ橋が架かっている。歩行者専用の通路になっていて、「矢作川ふれあいてくてくウォーキングコース」 (全長4.1km) の終点に位置づけられている。ただし、この橋の目的は農業用水利であり、歩道の左右に直径60cmの水管が渡されている。正式名称を「豊田幹線水路・勘八水管橋」という。昭和57年に竣工した。

水管橋の中ごろから上流を眺めると、越戸 (こしど) ダムが見える。昭和元年に着工し、昭和4年 (1929) に完成した。形式は重力式コンクリート、高さ約23m、長さ約120m、堤体の体積は14000㎥である。堰き止めた水は、下流の中部電力越戸発電所に送られている。ダム湖は面積48ha、カヌーやボートのメッカになっている。

大井橋のすぐ上流に、赤いアーチ橋が架かっている。歩行者専用の通路になっていて、「矢作川ふれあいてくてくウォーキングコース」 (全長4.1km) の終点に位置づけられている。ただし、この橋の目的は農業用水利であり、歩道の左右に直径60cmの水管が渡されている。正式名称を「豊田幹線水路・勘八水管橋」という。昭和57年に竣工した。

水管橋の中ごろから上流を眺めると、越戸 (こしど) ダムが見える。昭和元年に着工し、昭和4年 (1929) に完成した。形式は重力式コンクリート、高さ約23m、長さ約120m、堤体の体積は14000㎥である。堰き止めた水は、下流の中部電力越戸発電所に送られている。ダム湖は面積48ha、カヌーやボートのメッカになっている。

矢作川「百々貯木場」
豊田市勘八峡のすぐ下流に、現在は使われていない貯木場がある。地名をとって 「百々 (どうど) 貯木場」 という。江戸時代から昭和初期までは、上流の山で伐採された樹木は管流し (くだながし:丸太の状態で流す) で下流に送られてきた。百々は矢作川の中流域に当たり、流れも緩くなるので、ここで筏に組み直して下流や三河湾へ送ったのである。
この水中貯木場が完成したのは大正7年のこと、材木商を営む今井善六により建設されたものである。貯水池面積は約5000㎡、樋門から直接流し入れる構造である。木材の仕分けをする突堤や引上げるためのスロープも造られている。近くに製材所も用意されていた。

ただ、この貯木場は昭和5年に役割を終えてしまった。上流に越戸ダムが完成したことや、トラックにより木材が運ばれるようになったためである。長い間、土砂に埋もれていたが、今は整備されて史跡公園になっている。平成20年、全国的にも珍しい施設として土木遺産に選奨された。

この水中貯木場が完成したのは大正7年のこと、材木商を営む今井善六により建設されたものである。貯水池面積は約5000㎡、樋門から直接流し入れる構造である。木材の仕分けをする突堤や引上げるためのスロープも造られている。近くに製材所も用意されていた。

ただ、この貯木場は昭和5年に役割を終えてしまった。上流に越戸ダムが完成したことや、トラックにより木材が運ばれるようになったためである。長い間、土砂に埋もれていたが、今は整備されて史跡公園になっている。平成20年、全国的にも珍しい施設として土木遺産に選奨された。

明治用水「旧頭首工」と「船通し」
矢作川下流域の碧海台地は水田に適さない洪積台地であり、長年、用水路による給水が悲願であった。明治13年に通水された明治用水は、台地を美田に変え、人々の豊かな生活を実現した。明治34年にはさらに頑丈な頭首工が完成した。下の絵図は、川幅いっぱいに堰堤が築かれ、右岸側から明治用水へと水を引く様子が描かれている。
この頭首工は、新しい頭首工が昭和33年にできた後の昭和41年、矢作川が一級河川になった際に取り壊された。しかし、左岸側の排砂門5門と船通し閘門は壊されずに残っている。コンクリートのない時代に服部長七が考案した 「人造石」 でできており、貴重な土木施設として、平成19年に土木学会が選奨する土木遺産に認定された。

陸上交通が発達するまでは、矢作川は物資輸送の大動脈で、多くの川船が海産物、板類、薪炭などを運んでいた。また、丸太は筏に組まれて送られていた。明治用水の取水が多い時期には、堰が締め切られるので、川の中央部に船通しが造られた。さらに、重い筏や力の弱い船は左岸の閘門を使って行き来した。閘門には上下に扉があり、松重閘門 (平成25年3月13日の当ブログ参照) と同じように水位を調整しながら船を通したのである。現在、扉のための 「ひじつぼ」 も残されている。

この頭首工は、新しい頭首工が昭和33年にできた後の昭和41年、矢作川が一級河川になった際に取り壊された。しかし、左岸側の排砂門5門と船通し閘門は壊されずに残っている。コンクリートのない時代に服部長七が考案した 「人造石」 でできており、貴重な土木施設として、平成19年に土木学会が選奨する土木遺産に認定された。

陸上交通が発達するまでは、矢作川は物資輸送の大動脈で、多くの川船が海産物、板類、薪炭などを運んでいた。また、丸太は筏に組まれて送られていた。明治用水の取水が多い時期には、堰が締め切られるので、川の中央部に船通しが造られた。さらに、重い筏や力の弱い船は左岸の閘門を使って行き来した。閘門には上下に扉があり、松重閘門 (平成25年3月13日の当ブログ参照) と同じように水位を調整しながら船を通したのである。現在、扉のための 「ひじつぼ」 も残されている。

明治用水頭首工
矢作川を水源とする明治用水は、江戸時代 (1808) に計画されたが、完成を見たのは明治13年(1880)のことである。この用水により、安城市を中心に8000haもの農地が拓かれ、「日本のデンマーク」 とも呼ばれる農業先進地になった。今でも地域発展の大動脈となっている。
当初は、この地点より2kmほど上流の 「草堰」 から取水していた。2代目は明治34年に築造された、300m上流の石造り堰堤である。これも老朽化したので、昭和32年 (1957) に現在の頭首工が整備されたのである。(下の写真)

川幅いっぱいに水を堰き止める堰堤の長さは167m、高さは14.5mである。7つの水門と、左岸側には魚道、右岸側には土砂吐がある。上部は東行1車線の普通道路になっている。
下の写真は、明治用水の先端部である。堰堤で止められた水が水門をくぐり、まず8つの排砂門に到る。そこから調整門でコントロールされながら幹線水路へと流れて行くのである。

当初は、この地点より2kmほど上流の 「草堰」 から取水していた。2代目は明治34年に築造された、300m上流の石造り堰堤である。これも老朽化したので、昭和32年 (1957) に現在の頭首工が整備されたのである。(下の写真)

川幅いっぱいに水を堰き止める堰堤の長さは167m、高さは14.5mである。7つの水門と、左岸側には魚道、右岸側には土砂吐がある。上部は東行1車線の普通道路になっている。
下の写真は、明治用水の先端部である。堰堤で止められた水が水門をくぐり、まず8つの排砂門に到る。そこから調整門でコントロールされながら幹線水路へと流れて行くのである。

犬山橋
木曽川左岸の小山の頂に、別名 「白帝城」 と呼ばれる犬山城がそびえている。尾張徳川家の付家老・成瀬氏の居城である。犬山は、木曽山で伐採した材木流送の中継地であり、城下で定期的に交易市が開かれるなど繁栄する町であった。
鵜沼への渡し舟が2か所あったが、岐阜県への往来は不便であった。長年望まれていた橋が架かったのは、大正14年 (1925) のこと、愛知県・岐阜県・名鉄3者の費用負担により犬山橋が建設されたのである。橋長223m、幅員16mのトラス橋である。

この橋は、名鉄電車と一般自動車との併用という珍しさで有名であった。狭い橋を電車と車がすれ違うので、速度制限をしたり交通整理員が置かれたりしていた。再び、道路専用の橋が人々の願いとなった。下流側に新しい橋ができたのは、平成12年 (2000) のこと。橋長253m、幅員25m、片側2車線の橋である。その結果、犬山橋は電車専用にすることができた。2つの橋を合わせてツインブリッジと呼ぶ。

鵜沼への渡し舟が2か所あったが、岐阜県への往来は不便であった。長年望まれていた橋が架かったのは、大正14年 (1925) のこと、愛知県・岐阜県・名鉄3者の費用負担により犬山橋が建設されたのである。橋長223m、幅員16mのトラス橋である。

この橋は、名鉄電車と一般自動車との併用という珍しさで有名であった。狭い橋を電車と車がすれ違うので、速度制限をしたり交通整理員が置かれたりしていた。再び、道路専用の橋が人々の願いとなった。下流側に新しい橋ができたのは、平成12年 (2000) のこと。橋長253m、幅員25m、片側2車線の橋である。その結果、犬山橋は電車専用にすることができた。2つの橋を合わせてツインブリッジと呼ぶ。

名古屋市水道取水口
名古屋の水道事業は、明治時代後半から企画されている。明治27年 (1894) に、入鹿池を水源とする案が議論されたが見送りとなった。明治39年ごろから計画された木曽川導水は、同43年着工、大正3年に完成した。最初にできた取水口は犬山城の直下、今も記念碑と手掘りのトンネルが残っている。現在使われているのは、それより上流の第2取水口 (昭和8年完成) とさらに上流の第1取水口 (昭和32年) である。写真は犬山橋より600mほど上った第2取水口である。
ここから名古屋市までは約20km、その導水路の上部は愛知県の管理する公園となっている。「尾張広域緑道」 と呼ぶ。桜などの花やみどりを楽しむ散歩道になっていて、途中にはスポーツ公園も整っている。昭和天皇御在位60周年を記念して整備された。

上の写真は、鵜飼の観覧舟から撮影した。犬山城からこの取水口にかけての水面で、木曽川鵜飼が行われている。鵜飼は、鵜舟に乗った鵜匠が鵜を使って川魚を捕る古代漁法で、1300年もの伝統を伝えているという。船首にはかがり火が焚かれ、とも乗り・なか乗りと3人で舟と鵜を巧みに操る。見物客は鵜舟と並走しながら、幻想的な歴史絵巻を楽しむという趣向である。

ここから名古屋市までは約20km、その導水路の上部は愛知県の管理する公園となっている。「尾張広域緑道」 と呼ぶ。桜などの花やみどりを楽しむ散歩道になっていて、途中にはスポーツ公園も整っている。昭和天皇御在位60周年を記念して整備された。

上の写真は、鵜飼の観覧舟から撮影した。犬山城からこの取水口にかけての水面で、木曽川鵜飼が行われている。鵜飼は、鵜舟に乗った鵜匠が鵜を使って川魚を捕る古代漁法で、1300年もの伝統を伝えているという。船首にはかがり火が焚かれ、とも乗り・なか乗りと3人で舟と鵜を巧みに操る。見物客は鵜舟と並走しながら、幻想的な歴史絵巻を楽しむという趣向である。

水道道(すいどうみち)
名古屋の都心を彩る名古屋まつりは、今年は10月17日~19日に開催され、恒例の3英傑の時代絵巻が展開される。3人の中では信長や秀吉に人気が集まるかも知れないが、名古屋にとって最も貢献したのは家康だと思う。信長は岐阜、安土に城を築き、秀吉は大阪城で権力を振るった。
名古屋に城と町をつくったのは家康である。関が原の戦いから10年後の1610年、西方への守りに備えて、清州から町ごと移転したのである。家康は戦乱の世が終われば、文化や商業が大切であると考えていた。そのため城の南に、東西に区画された99の商人町を整備した。「碁盤割」 と呼ぶ。

第2次世界大戦が終了した後、戦災で焼け果てた町を復興する区画整理が大規模に行われた。そのとき、道路は碁盤割を延長して、東西南北に整然と延伸された。名古屋の町は方眼紙のような、まさにグリッド・シティーなのである。
ところが、今池から東北東に向かって斜めに引かれた道路がある。「水道道」 という。名古屋の水道水は、木曽川から取水して鍋屋上野の浄水場へ流れてくる。ここで浄化された水は、覚王山の山頂にある配水塔 (26年1月18日のブログに掲載) に汲み上げられ、そこから町へと配られる。その水道管を引くためにつくられたのがこの道路である。地下には太い水道管、地表は桜の並木道になっていて、人々の憩いの緑道になっている。

名古屋に城と町をつくったのは家康である。関が原の戦いから10年後の1610年、西方への守りに備えて、清州から町ごと移転したのである。家康は戦乱の世が終われば、文化や商業が大切であると考えていた。そのため城の南に、東西に区画された99の商人町を整備した。「碁盤割」 と呼ぶ。

第2次世界大戦が終了した後、戦災で焼け果てた町を復興する区画整理が大規模に行われた。そのとき、道路は碁盤割を延長して、東西南北に整然と延伸された。名古屋の町は方眼紙のような、まさにグリッド・シティーなのである。
ところが、今池から東北東に向かって斜めに引かれた道路がある。「水道道」 という。名古屋の水道水は、木曽川から取水して鍋屋上野の浄水場へ流れてくる。ここで浄化された水は、覚王山の山頂にある配水塔 (26年1月18日のブログに掲載) に汲み上げられ、そこから町へと配られる。その水道管を引くためにつくられたのがこの道路である。地下には太い水道管、地表は桜の並木道になっていて、人々の憩いの緑道になっている。

新城「旧大野銀行本店」
三河・大野の町は江戸時代から、秋葉神社と鳳来寺山を結ぶ 「秋葉街道」 の宿場町として栄えてきました。明治になると豊橋と別所 (現東栄町) をつなぐ 「別所街道」 が開通し、大正12年には鳳来寺鉄道 (現JR飯田線) の駅ができて、その結節点大野はますます発展したのです。
この地の主産業、林業や養蚕、製糸業などの隆盛を背景に設立されたのが 「大野銀行」 です。明治29年のことで、最初は木造の建物が建てられました。

大正14年 (1925)、新たに鉄筋コンクリート造りに建替えられました。道路の角を、曲線を使った入口にするというモダンなデザインです。設計・施工は志水正太郎、名古屋の陶磁器会館も設計した名建築家です。建物内部も原型を留めながら、喫茶店や美術品展示館として利用されています。平成21年に国の登録有形文化財建造物に登録されました。

この地の主産業、林業や養蚕、製糸業などの隆盛を背景に設立されたのが 「大野銀行」 です。明治29年のことで、最初は木造の建物が建てられました。

大正14年 (1925)、新たに鉄筋コンクリート造りに建替えられました。道路の角を、曲線を使った入口にするというモダンなデザインです。設計・施工は志水正太郎、名古屋の陶磁器会館も設計した名建築家です。建物内部も原型を留めながら、喫茶店や美術品展示館として利用されています。平成21年に国の登録有形文化財建造物に登録されました。
