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松平・高月院
東照宮を奥へ進んだ山際に、落ち着いた佇まいのお寺がある。南北朝時代の正平22年 (1367)に足助の寛立上人が建立した 「寂静寺」 を、松平初代親氏の時代 (1377) に 「高月院」 と改めたお寺である。松平家の菩提寺となっている。松平9代目の家康によって寺領100石を与えられて以来、将軍家から厚い保護を受けてきた。

山門や本堂は、三代将軍・家光により寛永18年 (1641) に建てられたものといわれている。山門に続く土塀や石垣、石段も落ち着いていて、創立した当時の名称「寂静」そのものの雰囲気を醸し出している。最奥の親氏の墓所は、地盤の緩みなどから石垣も歪んでいたが、平成22年から3年間に亘って修理復旧が行われた。
松平氏館跡 (現在の松平東照宮)、高月院、松平城跡などは 「松平氏遺跡」と して、国の史跡に指定されている。


山門や本堂は、三代将軍・家光により寛永18年 (1641) に建てられたものといわれている。山門に続く土塀や石垣、石段も落ち着いていて、創立した当時の名称「寂静」そのものの雰囲気を醸し出している。最奥の親氏の墓所は、地盤の緩みなどから石垣も歪んでいたが、平成22年から3年間に亘って修理復旧が行われた。
松平氏館跡 (現在の松平東照宮)、高月院、松平城跡などは 「松平氏遺跡」と して、国の史跡に指定されている。

松平東照宮と家康産湯の井戸
豊田市駅の東10kmほどにある松平郷は、徳川家発祥の地である。伝承によれば、時宗の遊行僧 「徳阿弥」 が諸国を流浪した後、松平郷の土豪在原氏の婿となり、松平親氏と名乗ったのが始まりという。現在の松平東照宮は、親氏以来居館とした地であったが、元和5年 (1619) に家康を祀って東照宮となった。地域一帯は山に囲まれた景勝の地で、松平城跡や松平家の菩提寺 「高月院」 などがある。

東照宮の一角に、松平家が代々産湯に使った井戸がある。家康は天文11年 (1542) に岡崎城で生まれたが、この井戸の水を竹筒に汲んで、早馬で届けたといわれている。樹林の根元に 「フタバアオイ」 の群落があった。徳川家の御紋 「三葉葵」 は3枚の葉を描いているが、三葉のアオイは存在せず、このフタバアオイ(対生で2枚)をデザインしたものである。


東照宮の一角に、松平家が代々産湯に使った井戸がある。家康は天文11年 (1542) に岡崎城で生まれたが、この井戸の水を竹筒に汲んで、早馬で届けたといわれている。樹林の根元に 「フタバアオイ」 の群落があった。徳川家の御紋 「三葉葵」 は3枚の葉を描いているが、三葉のアオイは存在せず、このフタバアオイ(対生で2枚)をデザインしたものである。

祖父江の銀杏
祖父江町 (現稲沢市) は、今、町中が黄金色に染まっている。特産品 「ぎんなん」 を採るためのイチョウの木が町中に植えられており、今その黄葉が真っ盛りなのである。この地域は、冬期に伊吹おろしが吹きつけるため、古くから寺社や屋敷の周りにイチョウを植えてきた。100年ほど前から、ぎんなん生産のための栽培が始まり、次第に大粒品種が普及するようになったという。

イチョウは、太古に繁栄した植物の仲間、現在は1科1属1種しか残っていないので、“生きている化石” といわれている。雌雄異株 (雄花と雌花が別々の木に咲く) であるので、もちろん雌の木にしか実 (ぎんなん) はならない。祖父江では、大きな実のなる木を選択し、接木で増やす品種改良をしてきたのである。ある農家の作業場で、ぎんなんの実の乾燥作業を見せてもらった。


イチョウは、太古に繁栄した植物の仲間、現在は1科1属1種しか残っていないので、“生きている化石” といわれている。雌雄異株 (雄花と雌花が別々の木に咲く) であるので、もちろん雌の木にしか実 (ぎんなん) はならない。祖父江では、大きな実のなる木を選択し、接木で増やす品種改良をしてきたのである。ある農家の作業場で、ぎんなんの実の乾燥作業を見せてもらった。

東海道「藤川宿」跡
東海道 「藤川宿」 は、江戸品川から数えて37番目の宿場町である。三河山間部が終わり、西の平野への入口に当たり、中世から交通の要所であった。慶長6年 (1601) に伝馬朱印状が与えられて宿場となったが、規模が小さかったので、山中郷から68戸を移転させて体裁を整えたという。
天保14年 (1843) の 「宿村大概帳」 によれば、家並みは約1km、戸数302,本陣・脇本陣のほかに旅籠36軒が記されている。宿場町の中ほどに、旧脇本陣の跡があり、現在は 「藤川宿資料館」 が建てられている (写真右)。

宿場の出入口を 「棒鼻」 (棒端とも書く) という。地元に保存されている街道往還図によれば、「宿囲石垣」 と記されている。安藤 (歌川) 広重の 「東海道五十三次」 には、この棒鼻が描かれている。朝廷へ馬を献上する幕府の一行が、ちょうど差しかかった場面である。

天保14年 (1843) の 「宿村大概帳」 によれば、家並みは約1km、戸数302,本陣・脇本陣のほかに旅籠36軒が記されている。宿場町の中ほどに、旧脇本陣の跡があり、現在は 「藤川宿資料館」 が建てられている (写真右)。

宿場の出入口を 「棒鼻」 (棒端とも書く) という。地元に保存されている街道往還図によれば、「宿囲石垣」 と記されている。安藤 (歌川) 広重の 「東海道五十三次」 には、この棒鼻が描かれている。朝廷へ馬を献上する幕府の一行が、ちょうど差しかかった場面である。

一宮・起渡船場跡
一宮市の木曽川沿い 「起(おこし)」 地区は、かつて美濃路の宿場町であった。美濃路は、中山道垂井宿と東海道宮宿を結ぶ脇往還である。東海道の宮から桑名までは、「七里の渡し」 と呼ばれる海上の道であり、この難所を避けるために利用された街道である。
木曽川を渡るため起には、上流から 「定渡船場」 「宮河戸」 「船橋河戸」 の3渡船場があった。その中で、常時旅人に利用されていたのは 「定渡船場」 であり、4艘の渡し舟と20人の船頭が用意されていたという。

この渡し舟は、愛知と岐阜を結ぶ重要な交通手段だったので、昭和31年に濃尾大橋が完成するまで利用されていた。船着場へ通ずる道は、現在、堤防を抜けて川原に出るための閘門として残っている。昭和29年に造られた 「起第一陸閘」 である。「陸閘」 とは、普段は開放されているが洪水時には扉が閉まって、暫定的に堤防の役割を果たす施設のことである。

木曽川を渡るため起には、上流から 「定渡船場」 「宮河戸」 「船橋河戸」 の3渡船場があった。その中で、常時旅人に利用されていたのは 「定渡船場」 であり、4艘の渡し舟と20人の船頭が用意されていたという。

この渡し舟は、愛知と岐阜を結ぶ重要な交通手段だったので、昭和31年に濃尾大橋が完成するまで利用されていた。船着場へ通ずる道は、現在、堤防を抜けて川原に出るための閘門として残っている。昭和29年に造られた 「起第一陸閘」 である。「陸閘」 とは、普段は開放されているが洪水時には扉が閉まって、暫定的に堤防の役割を果たす施設のことである。
