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熱田神宮の信長塀
熱田神宮は、三種の神器の一つ 「草薙御剣 (くさなぎのみつるぎ) 」 を祀る神社である。 「古事記」 によると、日本武尊が東夷平定の途次、叔母であり伊勢神宮の斎王である倭姫命から授けられた剣だという。日本武尊は剣を妃の宮簀媛命に預けたまま西に向かい、伊吹山で病に倒れて伊勢・能褒野で崩じられる。その剣をこの地に祀ったのが熱田神宮の始まりで、約1900年前のことである。
ご神体が草薙御剣ということもあり、源頼朝や織田信長など歴代の武将たちも崇敬を寄せていた。徳川幕府からも大宮司領として、700石近い朱印領を与えられていたという。また、多くの刀剣が奉納されている。鎌倉時代や桃山時代の名刀などもあり、中には重要文化財に指定されるなど、資料的価値の高いものもある。

織田信長は、桶狭間への出陣の途中で熱田神宮に立ち寄り、勝利祈願をしたという。その功あって戦いに大勝したので、そのお礼として塀を奉納した。永禄3年 (1560) に完成した土塀が、参道の中ほどに残っている。土と石灰を油で練り固め、瓦を多数積み重ねた構造である。京都三十三間堂の太閤塀と西宮神社の大練塀と並んで、日本三大土塀と賞されている。

ご神体が草薙御剣ということもあり、源頼朝や織田信長など歴代の武将たちも崇敬を寄せていた。徳川幕府からも大宮司領として、700石近い朱印領を与えられていたという。また、多くの刀剣が奉納されている。鎌倉時代や桃山時代の名刀などもあり、中には重要文化財に指定されるなど、資料的価値の高いものもある。

織田信長は、桶狭間への出陣の途中で熱田神宮に立ち寄り、勝利祈願をしたという。その功あって戦いに大勝したので、そのお礼として塀を奉納した。永禄3年 (1560) に完成した土塀が、参道の中ほどに残っている。土と石灰を油で練り固め、瓦を多数積み重ねた構造である。京都三十三間堂の太閤塀と西宮神社の大練塀と並んで、日本三大土塀と賞されている。

志段見砂防堰堤
「砂防堰堤」 という言葉は、一般の人には馴染みが薄いかも知れない。山間の枝川や谷川から本川に土砂を流出させないためのダムのことである。 「志段見」 は、岐阜県長良川の支流 「岩舟川」 の山裾あたりの地名で、金華山・岐阜城のちょうど北側に位置している。
明治初期、日本政府に請われてオランダから来日し、「砂防・治山の父」 とも謳われたデ・レーケが、木曽川下流の洪水防止工事に先駆けて提案した上流域砂防工事のひとつである。幅約15m、高さ約5m、角度42度に現地の岩を組んだ構造物である。最下層に横たえた丸太の土台が、130年ほど経た今も、しっかりと石積みを支えている。

この日は、木曽三川フォーラムや中部産業遺産研究会などの方々による現地調査があり、当社は三次元測量のお手伝いをするために参加した。3Dレーザースキャナ (下の写真) を使用することにより、対象物に触れることなく地形や構造物の立体的な測量が可能である。複雑な形状の構造物や近寄りがたい土砂崩れの現場などで威力を発揮する新技術である。

明治初期、日本政府に請われてオランダから来日し、「砂防・治山の父」 とも謳われたデ・レーケが、木曽川下流の洪水防止工事に先駆けて提案した上流域砂防工事のひとつである。幅約15m、高さ約5m、角度42度に現地の岩を組んだ構造物である。最下層に横たえた丸太の土台が、130年ほど経た今も、しっかりと石積みを支えている。

この日は、木曽三川フォーラムや中部産業遺産研究会などの方々による現地調査があり、当社は三次元測量のお手伝いをするために参加した。3Dレーザースキャナ (下の写真) を使用することにより、対象物に触れることなく地形や構造物の立体的な測量が可能である。複雑な形状の構造物や近寄りがたい土砂崩れの現場などで威力を発揮する新技術である。

丈山苑
安城市の国道23号線近く、和泉町に 「丈山苑」 がある。石川丈山は、代々松平家に仕えた三河武士で、この地が生誕地である。関が原の戦いや大坂夏の陣などで手柄をたてたが、後に学問を志し、林羅山を介して藤原惺窩に出合い儒学を学んだ。
寛永18年 (1641)、59歳のときに京都洛北の一乗寺に 「詩仙堂」 を開き、和歌や漢詩など風雅を楽しみながら90歳の天寿を全うしたという。 「隷書」 を我が国で最初に取り入れた書家であり、また、作庭家としても有名である。

「丈山苑」 は、丈山ゆかりの 「詩仙堂」 「東本願寺・渉成園」 「一休寺・酬恩庵」 の三庭園をイメージしたもので、唐様・回遊式池泉・枯山水を組み合わせた本格的な庭園である。平成8年に新しく作られた庭園であるが、カエデなどの樹木もよく育っていて、落ち着いた雰囲気を味わうことができる。

寛永18年 (1641)、59歳のときに京都洛北の一乗寺に 「詩仙堂」 を開き、和歌や漢詩など風雅を楽しみながら90歳の天寿を全うしたという。 「隷書」 を我が国で最初に取り入れた書家であり、また、作庭家としても有名である。

「丈山苑」 は、丈山ゆかりの 「詩仙堂」 「東本願寺・渉成園」 「一休寺・酬恩庵」 の三庭園をイメージしたもので、唐様・回遊式池泉・枯山水を組み合わせた本格的な庭園である。平成8年に新しく作られた庭園であるが、カエデなどの樹木もよく育っていて、落ち着いた雰囲気を味わうことができる。

徳川園 「龍門の滝」
名古屋市東区にある徳川園は、今、紅葉の真っ盛りである。徳川園は、もともと尾張二代藩主・光友の隠居所 「大曽根屋敷」 があったところで、明治になって尾張徳川家の邸宅になった。現在は、徳川美術館・蓬左文庫と日本庭園のある公園になっている。
庭園は、うっそうとしたシイノキの森と海に見立てた池とで構成されている。紅葉は、池に注ぐ流れや 「西湖堤」 (写真) 辺りが見事である。この日本庭園は、愛知万博に訪れる観光客へのもてなしとして、万博前年の2004年に整備されたものである。

池の南、レストランやホールのある 「観仙楼」 の近くに滝がある。これは、江戸の尾張藩下屋敷 「戸山荘」 にあった 「龍門の滝」 を再現したものである。滝石組みの切石は、ちょうど徳川園整備が始まろうとする矢先に、戸山荘跡地にある早稲田大学構内の工事中に発掘されたものが使われている。

庭園は、うっそうとしたシイノキの森と海に見立てた池とで構成されている。紅葉は、池に注ぐ流れや 「西湖堤」 (写真) 辺りが見事である。この日本庭園は、愛知万博に訪れる観光客へのもてなしとして、万博前年の2004年に整備されたものである。

池の南、レストランやホールのある 「観仙楼」 の近くに滝がある。これは、江戸の尾張藩下屋敷 「戸山荘」 にあった 「龍門の滝」 を再現したものである。滝石組みの切石は、ちょうど徳川園整備が始まろうとする矢先に、戸山荘跡地にある早稲田大学構内の工事中に発掘されたものが使われている。
