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東海道「藤川宿」跡
≪再掲:2014・11・11≫
東海道「藤川宿」は、江戸品川から数えて37番目の宿場町である。三河山間部が終わり、西の平野への入口に当たり、中世から交通の要所であった。慶長6年に伝馬朱印状が与えられて宿場となったが、規模が小さかったので、山中郷から68戸を移転させて体裁を整えたという。
天保14年の「宿村大概帳」によれば、家並みは約1km、戸数302,本陣・脇本陣のほかに旅籠36軒が記されている。宿場町の中ほどに、旧脇本陣の跡があり、現在は「藤川宿資料館」が建てられている(写真右)。

宿場の出入口を「棒鼻」(棒端とも書く)という。地元に保存されている街道往還図によれば、
「宿囲石垣」と記されている。安藤(歌川)広重の「東海道五十三次」には、この棒鼻が描かれている。朝廷へ馬を献上する幕府の一行が、ちょうど差しかかった場面である。

東海道「藤川宿」は、江戸品川から数えて37番目の宿場町である。三河山間部が終わり、西の平野への入口に当たり、中世から交通の要所であった。慶長6年に伝馬朱印状が与えられて宿場となったが、規模が小さかったので、山中郷から68戸を移転させて体裁を整えたという。
天保14年の「宿村大概帳」によれば、家並みは約1km、戸数302,本陣・脇本陣のほかに旅籠36軒が記されている。宿場町の中ほどに、旧脇本陣の跡があり、現在は「藤川宿資料館」が建てられている(写真右)。

宿場の出入口を「棒鼻」(棒端とも書く)という。地元に保存されている街道往還図によれば、
「宿囲石垣」と記されている。安藤(歌川)広重の「東海道五十三次」には、この棒鼻が描かれている。朝廷へ馬を献上する幕府の一行が、ちょうど差しかかった場面である。

岡崎城の堀と石垣
“5万石でも岡崎さまは、お城下まで船がつく” と古謡にも謡われたように、矢作川支流の菅生川 (現在は乙川)は、城の真下まで帆掛け舟が往来していた。菅生川は、また、伊賀川とともに外堀の役割も果たしていた。
築城されたのは康正元年 (1455)のこと。その後、家康の祖父・松平清康がこの地を本拠地とした。天文11年 (1542) この地で生誕した家康は、桶狭間の戦いの後、岡崎城を本城として三河武士を率いつつ戦国武将の道を歩んでいく。

戦国時代のお城であるが、様式は平城である。城の縄張りは (平面構成)、天然の要害ともいえる菅生川を活用しながら、お堀や石垣、土塁を配して複雑な形をした曲輪を形づくっている。
明治になって徳川の時代が去ると、城郭の大部分は取り壊されてしまった。しかし、堀や石垣は今も往時の姿を留めている。現在は桜の名所となっており、多くの市民が花見を楽しんでいる。今年は 「家康没後400年」 に当たり、一年を通じて各種のイベントが開催されている。

築城されたのは康正元年 (1455)のこと。その後、家康の祖父・松平清康がこの地を本拠地とした。天文11年 (1542) この地で生誕した家康は、桶狭間の戦いの後、岡崎城を本城として三河武士を率いつつ戦国武将の道を歩んでいく。

戦国時代のお城であるが、様式は平城である。城の縄張りは (平面構成)、天然の要害ともいえる菅生川を活用しながら、お堀や石垣、土塁を配して複雑な形をした曲輪を形づくっている。
明治になって徳川の時代が去ると、城郭の大部分は取り壊されてしまった。しかし、堀や石垣は今も往時の姿を留めている。現在は桜の名所となっており、多くの市民が花見を楽しんでいる。今年は 「家康没後400年」 に当たり、一年を通じて各種のイベントが開催されている。

知立の来迎寺一里塚
≪再掲:2014・03・04≫
平成24年2月にスタートしたこのブログも3年3か月が経過し、これまでに165回の記事を発信しました。内容は、国の「重要文化財」 や土木学会選奨の「土木遺産」といった著名なものから、あまり注目されない隠れたものまで、様々な施設を取り上げてきました。ジャンルも建築物や橋梁といった構造的なものから、並木や湿地といった自然的なものまで、多岐にわたっています。
最近では月に1000件を超えるアクセスをいただいています。当初の目的の項で書きましたように、“地域の皆さんが、身近に土木文化を感じていただければ” と思いますので、さらに続けてまいります。

知立の来迎寺一里塚は江戸から数えて84番目、その前は安城市の尾崎一里塚、次は刈谷市の刈谷一里塚である。明治以降の歴史の中で失われたり、残っても片側だけという所が多い中で、ここは両側が残る珍しい一里塚である。塚の上に植えられる木はほとんどが榎(エノキ)であるが、ここは黒松であることもユニークである。

平成24年2月にスタートしたこのブログも3年3か月が経過し、これまでに165回の記事を発信しました。内容は、国の「重要文化財」 や土木学会選奨の「土木遺産」といった著名なものから、あまり注目されない隠れたものまで、様々な施設を取り上げてきました。ジャンルも建築物や橋梁といった構造的なものから、並木や湿地といった自然的なものまで、多岐にわたっています。
最近では月に1000件を超えるアクセスをいただいています。当初の目的の項で書きましたように、“地域の皆さんが、身近に土木文化を感じていただければ” と思いますので、さらに続けてまいります。

知立の来迎寺一里塚は江戸から数えて84番目、その前は安城市の尾崎一里塚、次は刈谷市の刈谷一里塚である。明治以降の歴史の中で失われたり、残っても片側だけという所が多い中で、ここは両側が残る珍しい一里塚である。塚の上に植えられる木はほとんどが榎(エノキ)であるが、ここは黒松であることもユニークである。
