Entries
吉田城のイスノキ
豊橋の古名は 「吉田」 である。吉田藩の城下町であり、東海道・吉田の宿場町であった。吉田城は、永正2年 (1505) に今川氏の武将・牧野古白によって創設されたものである。時代は下って、天正18年 (1590) 池田輝政が入城し、15万石に相応しい城郭の拡充と城下町の整備を行なった。江戸時代になると、吉田藩となり、徳川譜代の大名が入れ替わって支配することとなる。

現在は、昭和29年に復元された 「鉄櫓」 が聳えている。この櫓は、本丸の西北隅の位置にあり、外堀の役割を果たす豊川を見下ろしている。城郭は、石垣はあまり多くなく、堀と土塁で構成されている。そのせいか、土塁に植えられた樹木が大きく育っている。櫓近くには 「イスノキ」 の大木が地面を覆いつくすかのように根を張り、この城の歴史の古さを現している。


現在は、昭和29年に復元された 「鉄櫓」 が聳えている。この櫓は、本丸の西北隅の位置にあり、外堀の役割を果たす豊川を見下ろしている。城郭は、石垣はあまり多くなく、堀と土塁で構成されている。そのせいか、土塁に植えられた樹木が大きく育っている。櫓近くには 「イスノキ」 の大木が地面を覆いつくすかのように根を張り、この城の歴史の古さを現している。

御油の松並木
赤坂宿と御油宿の間に堂々とした松並木が残っている。慶長9年に家康の命により整備された東海道松並木の一部で、これだけまとまって見えるところは珍しい。約600mにわたって約300本が並んでいる。周辺がまだ都市化されていない昔ながらの田園地帯で、遠くに望む三河山間地の風景も美しい。昭和19年に、国の天然記念物に指定されている。

並木の東端に、「天然記念物 御油ノ松並木」 と記した石柱が立っている。松の幹を見ると、樹皮の割れ目がくっきりとした亀甲模様になっている。これは 「三河黒松」 の大きな特徴であるという。
ひとつ気になるのが、たくさんの松に 「マツグミ」 が寄生していることである。マツグミは、ヤドリギ科の常緑樹で、マツやモミの枝に根を食い込ませ、水分や養分を奪い取る。松を枯らすことは無いかもしれないが、勢力を弱めることは間違いないものと考えられる。


並木の東端に、「天然記念物 御油ノ松並木」 と記した石柱が立っている。松の幹を見ると、樹皮の割れ目がくっきりとした亀甲模様になっている。これは 「三河黒松」 の大きな特徴であるという。
ひとつ気になるのが、たくさんの松に 「マツグミ」 が寄生していることである。マツグミは、ヤドリギ科の常緑樹で、マツやモミの枝に根を食い込ませ、水分や養分を奪い取る。松を枯らすことは無いかもしれないが、勢力を弱めることは間違いないものと考えられる。

赤坂宿「大橋屋(旅籠屋)」
赤坂宿は、東隣の御油宿とわずか4里 (1.6km) しか離れていない。東海道53次の中で最も短い距離である。赤坂は、幕府の直轄地であり、また、峠の麓にある宿場として大いに賑わったという。享保の時代 (18世紀前半) には、旅籠屋が83軒あった。
宿場の中ほどに、独特の造りをした格子窓やひさしのある2階建ての旅籠屋が残されている。「大橋屋」 といい、つい最近まで旅館として営業を続けてきたが、残念ながらこの3月に閉鎖された。

間口9間、奥行23間という比較的大きな旅籠である。かの有名な松尾芭蕉や歌川 (安藤) 広重も泊まったという。芭蕉は 「夏の月 御油より出でて 赤坂や」 という句を残している。広重が描いた 『東海道五十三次・赤坂』 は、この大橋屋の中庭を描いたものであるという。
中へ入ると、そこは旅人が草鞋を脱ぐ見世間であり、黒光りする階段を登ると多くの部屋が並んでいる。江戸時代初期、1649年に創業して以来360年以上の歴史あるたたずまいを、今も感ずることができる。豊川市の文化財に指定されており、来年から一般公開されるという。

宿場の中ほどに、独特の造りをした格子窓やひさしのある2階建ての旅籠屋が残されている。「大橋屋」 といい、つい最近まで旅館として営業を続けてきたが、残念ながらこの3月に閉鎖された。

間口9間、奥行23間という比較的大きな旅籠である。かの有名な松尾芭蕉や歌川 (安藤) 広重も泊まったという。芭蕉は 「夏の月 御油より出でて 赤坂や」 という句を残している。広重が描いた 『東海道五十三次・赤坂』 は、この大橋屋の中庭を描いたものであるという。
中へ入ると、そこは旅人が草鞋を脱ぐ見世間であり、黒光りする階段を登ると多くの部屋が並んでいる。江戸時代初期、1649年に創業して以来360年以上の歴史あるたたずまいを、今も感ずることができる。豊川市の文化財に指定されており、来年から一般公開されるという。

乗蓮寺の椎の木と「いも川うどん」記念碑
少し戻って刈谷の話です。名鉄富士松駅の近くに乗蓮寺というお寺があり、その境内を覆うように大きなシイノキが繁っています。樹齢は約800年と推定され、幹が太くて根元の洞に子どもが10数人も入れたということです。残念ながら洞窟部分は、伊勢湾台風で壊れてしまいました。

乗蓮寺から少し東へ行った旧東海道沿いに、小さな祠がありました。これは 「いも川うどん」 の記念碑で、説明文が添付してあります。それによれば 「いも川うどん」 とは三河の国・芋川の名物で、江戸時代の紀行文によく登場するとのこと。平打ちの麺で、名古屋のきしめんのルーツであるとの説もあり、東京でいう「ひもかわ」の語源ともいわれています。
記念碑は、小さな祠が御影石の丸い柱に乗った形で、近くに、これまた小さな灯篭が立っています。石柱をよく見ると、丸太と組み合わせられる形をしており、橋脚の基礎部分ではないかと思われます。


乗蓮寺から少し東へ行った旧東海道沿いに、小さな祠がありました。これは 「いも川うどん」 の記念碑で、説明文が添付してあります。それによれば 「いも川うどん」 とは三河の国・芋川の名物で、江戸時代の紀行文によく登場するとのこと。平打ちの麺で、名古屋のきしめんのルーツであるとの説もあり、東京でいう「ひもかわ」の語源ともいわれています。
記念碑は、小さな祠が御影石の丸い柱に乗った形で、近くに、これまた小さな灯篭が立っています。石柱をよく見ると、丸太と組み合わせられる形をしており、橋脚の基礎部分ではないかと思われます。

八丁味噌蔵
「愛知の豆味噌」 といわれるように、この地方 (尾張・三河・美濃・飛騨) は、米麹・麦麹を使わず豆だけでつくる、独特の味噌文化をもっている。その代表格が、岡崎の「八丁味噌」である。その名の由来は、今から600年も昔に、岡崎城から8丁離れた八丁町 (現在は八帖町) で造られ始めたことによる。今でも、お城と矢作川に挟まれた八帖町には、白壁・黒板張りの土蔵 (味噌蔵) の並ぶ見事な蔵屋敷を見ることができる。

八丁味噌は、二夏ニ冬かけてじっくりと熟成される。製法も伝統を守り、吉野杉でつくられた高さ2mの仕込み樽に原料を入れ、その上に重石を円錐状に積み上げるのである。工場の片隅に、樽のための杉板と重石の玉石が保管されていた。


八丁味噌は、二夏ニ冬かけてじっくりと熟成される。製法も伝統を守り、吉野杉でつくられた高さ2mの仕込み樽に原料を入れ、その上に重石を円錐状に積み上げるのである。工場の片隅に、樽のための杉板と重石の玉石が保管されていた。

高隆寺大橋
岡崎市の東部、岡崎中央総合公園と東公園を結ぶ道路、岡崎市民病院近くにこの橋はある。橋の上を走っていると、御影石一枚板の橋名板やコブシの植栽、パンチングプレートの高欄など景観に配慮した橋だと思われるが、橋の下から眺めるとさらに個性と美しさを求めていることがわかる。

橋長170mの鋼床版箱型ラーメン橋である。橋脚は2本あるが、そのうちの1本が非常にユニークな形をしている。Y字型をした鋼橋脚から長短2本の枝が橋軸方向へ斜めに伸び、橋を支えているのである。この構造は、世界でも例のない新形式であるという。2つの公園や市民病院に近いこの橋を、優れたデザインにしたいと思う市当局と、当社(中部復建)の技術陣とが協働した成果である。平成6年3月に完成した。


橋長170mの鋼床版箱型ラーメン橋である。橋脚は2本あるが、そのうちの1本が非常にユニークな形をしている。Y字型をした鋼橋脚から長短2本の枝が橋軸方向へ斜めに伸び、橋を支えているのである。この構造は、世界でも例のない新形式であるという。2つの公園や市民病院に近いこの橋を、優れたデザインにしたいと思う市当局と、当社(中部復建)の技術陣とが協働した成果である。平成6年3月に完成した。
