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新居関所と今切渡船場
三河国と遠江国の境界を流れる 「境川」 を渡ると、いよいよ静岡県である。白須賀宿を越え、新居宿を過ぎると遠江 (浜名湖) を船で渡ることになる。その手前で関所を通らなければならない。新居関所という。まず枡形に掲げられた高札を読み、次に瓦葺の大御門をくぐる。
関所を通行するには、通行手形 (証文、切手ともいう) が必要である。大御門の左手に面番所があり、ここで関所役人の取調べを受ける。江戸幕府は、「入り鉄砲と出女」 を特別厳重に監視していた。すなわち、武器が江戸へ持ち込まれることと、江戸に住む大名の奥方が国許へ帰ることを取り締まったのである。そのための 「女改(おんなあらため)長屋」 という部屋も用意されていた。

この関所は、関が原の戦い直後の慶長5年 (1600) に設置された。当初は、今より少し南側に建てられたが、度重なる災害により2度の移転を繰り返した。現在の建物は安政2年 (1855) に建てられたもので、明治2年 (1869) に廃止されるまで使われてきた。その後は小学校や役場として利用されてきたが、昭和46年に解体修理を行い展示館として公開されている。今では現存する唯一の関所建物として、国の特別史跡に指定されている。
関所の通過を許されると、いよいよ 「今切の渡船場」 から渡し舟に乗ることになる。対岸は、舞坂渡船場、舞坂宿である。

関所を通行するには、通行手形 (証文、切手ともいう) が必要である。大御門の左手に面番所があり、ここで関所役人の取調べを受ける。江戸幕府は、「入り鉄砲と出女」 を特別厳重に監視していた。すなわち、武器が江戸へ持ち込まれることと、江戸に住む大名の奥方が国許へ帰ることを取り締まったのである。そのための 「女改(おんなあらため)長屋」 という部屋も用意されていた。

この関所は、関が原の戦い直後の慶長5年 (1600) に設置された。当初は、今より少し南側に建てられたが、度重なる災害により2度の移転を繰り返した。現在の建物は安政2年 (1855) に建てられたもので、明治2年 (1869) に廃止されるまで使われてきた。その後は小学校や役場として利用されてきたが、昭和46年に解体修理を行い展示館として公開されている。今では現存する唯一の関所建物として、国の特別史跡に指定されている。
関所の通過を許されると、いよいよ 「今切の渡船場」 から渡し舟に乗ることになる。対岸は、舞坂渡船場、舞坂宿である。

二川宿の「旅籠と商家」
本陣資料館には、本陣に隣接する 「清明屋」 という旅籠屋も公開されている。この建物は、文化14年 (1817)に建てられたもので、主屋・繋ぎの間・奥座敷で構成された旅籠屋建築の様式をよく残している。平成14年より改修工事が行なわれ、間取図の残る江戸時代末期の姿に復元された。入口を入ると上り框があり、草鞋を脱ぐ旅人の姿を再現する人形が展示されていて、往時の様子を見ることができる。狭い土間を奥に進むと奥座敷の手前につるべ井戸がある。

本陣や清明屋と道を挟んだ反対側に、間口6間半、奥行6間という堂々たる商家がある。味噌・醤油の醸造業 「西駒屋」 である。切妻造桟瓦葺で街道沿いは格子窓となっている。注目されるのは、非常に丁寧に加工された五角形の二段石積みである。お施主とその意を受けた石工とのこだわりが創り上げた、まさに 「いい仕事」 であろう。明治後期に建てられたもので、現在、国登録有形文化財になっている。


本陣や清明屋と道を挟んだ反対側に、間口6間半、奥行6間という堂々たる商家がある。味噌・醤油の醸造業 「西駒屋」 である。切妻造桟瓦葺で街道沿いは格子窓となっている。注目されるのは、非常に丁寧に加工された五角形の二段石積みである。お施主とその意を受けた石工とのこだわりが創り上げた、まさに 「いい仕事」 であろう。明治後期に建てられたもので、現在、国登録有形文化財になっている。

二川宿の「本陣」
本陣とは、宿場町で大名が泊まる宿のことである。明治3年の本陣廃止令によりほとんどの建物は取り壊されてしまい、東海道で残っているのはわずか2か所のみにすぎない。ニ川 (ふたがわ) はそのひとつ、邸内に表門・玄関棟・主屋 (しゅおく) ・東土蔵・西土蔵を残す貴重な存在である。昭和63年から改修復元工事を行い、江戸時代末期の姿が再現されている。

平成3年からは、「二川宿本陣資料館」 として開館し、近世交通史や郷土文化などの常設展・企画展を開催している。下の写真は、大名の座る上段の間・そこから眺められる中庭・台所の食器類・かまどである。このほかに風呂や雪隠も展示されていて、往時の大名が行なっていた旅の様子を知ることができる。


平成3年からは、「二川宿本陣資料館」 として開館し、近世交通史や郷土文化などの常設展・企画展を開催している。下の写真は、大名の座る上段の間・そこから眺められる中庭・台所の食器類・かまどである。このほかに風呂や雪隠も展示されていて、往時の大名が行なっていた旅の様子を知ることができる。

豊橋市の葦毛湿原(その2)
少し寄り道をしましたが、ふたたび東海道を歩きます・・・
豊橋駅の東南約7km、丘陵地の裾野に広大な湿原がある。面積約3ha、葦毛湿原という。このあたり一帯の里山は、縄文時代の昔から人が住みついてきた。しかし、農業用ため池のさらに上流にある痩せ地であるため、人の手が入らないまま今に至っている。
平成に入って、多様な植物の自生地としての価値が見出されて、小規模な保全活動が行なわれるようになった。しかし、乾燥化や森林の侵入が進んで、イヌツゲやコシダなどが、かよわい食虫植物などの湿地植物を圧迫するようになってきた。

元の多様な環境に戻すための大規模な復元作業が3年前から始まっている。この作業には、市文化財センターの専門家やボランティアの人たちが協力している。表面にかぶさってしまった土を取り除くと、沢から流れ込む水と日照が回復し、眠っていた 「埋土種子」 が芽吹いてくる。作業をまだ数年つづけ、豊かな湿原を取り戻すのだという。

≪白い花はシラタマホシクサ:黄色い花はミミカキグサ:赤い葉はモウセンゴケ≫
豊橋駅の東南約7km、丘陵地の裾野に広大な湿原がある。面積約3ha、葦毛湿原という。このあたり一帯の里山は、縄文時代の昔から人が住みついてきた。しかし、農業用ため池のさらに上流にある痩せ地であるため、人の手が入らないまま今に至っている。
平成に入って、多様な植物の自生地としての価値が見出されて、小規模な保全活動が行なわれるようになった。しかし、乾燥化や森林の侵入が進んで、イヌツゲやコシダなどが、かよわい食虫植物などの湿地植物を圧迫するようになってきた。

元の多様な環境に戻すための大規模な復元作業が3年前から始まっている。この作業には、市文化財センターの専門家やボランティアの人たちが協力している。表面にかぶさってしまった土を取り除くと、沢から流れ込む水と日照が回復し、眠っていた 「埋土種子」 が芽吹いてくる。作業をまだ数年つづけ、豊かな湿原を取り戻すのだという。

≪白い花はシラタマホシクサ:黄色い花はミミカキグサ:赤い葉はモウセンゴケ≫
草原の井戸
世界遺産の村「ホッロークー」
ブダペストから、東北へ100kmほど行ったところに、世界で始めて 「世界遺産」 に認定された 「ホッロークー」 の村落がある。13世紀、蒙古の攻撃から逃れてきたトルコ系クマン人の末裔パローツ人が住む村である。彼らはハンガリー人の邪魔にならないよう、冬は雪に閉ざされてしまうような、この奥地に定住したのだという。

そのことが独自の文化を育むこととなり、今も個性的な民族衣装や舞踊、陶器や食事などに残されている。建物は木造で、泥と藁に石灰を塗った白壁と赤褐色の屋根瓦が特徴である。入母屋造り風の破風面に、家ごとに異なる模様がついているのも興味深い。
古民家は60軒ほど保存され、300人ほどが生活している。道路も古風な石張りで、井戸や柵、標識やマンホールにまで景観的配慮が行き届いている。建物の維持・補修に多額の費用が必要であり、むしろ新築する方が安価であるという。ちなみに、「ホッロー」 はカラスのことで、「クー」 というのは石のことである。村の伝説に由来する名前である。


そのことが独自の文化を育むこととなり、今も個性的な民族衣装や舞踊、陶器や食事などに残されている。建物は木造で、泥と藁に石灰を塗った白壁と赤褐色の屋根瓦が特徴である。入母屋造り風の破風面に、家ごとに異なる模様がついているのも興味深い。
古民家は60軒ほど保存され、300人ほどが生活している。道路も古風な石張りで、井戸や柵、標識やマンホールにまで景観的配慮が行き届いている。建物の維持・補修に多額の費用が必要であり、むしろ新築する方が安価であるという。ちなみに、「ホッロー」 はカラスのことで、「クー」 というのは石のことである。村の伝説に由来する名前である。
