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天竜川橋

 県道261号線「磐田細江線」は、かつての国道1号線である。明治9年に架けられた木橋 「天竜橋」 が老朽化し、鉄橋 「天竜川橋」 に架け替えられたのは昭和8年 (1933) のことである。橋長約920m、幅員7.3m、14連のワーレントラスト橋である。この型式では、橋桁のトラス (三角構造) が交互になっている。
 現在では、その上流側の国道1号線に上り下り2本の 「新天竜川橋」 が架けられているが、下流からは、青く塗装されたトラス橋の美しい姿を見ることができる。橋台部分の取り付け護岸は、今も、建設当時のまま、石積み構造となっている。

天竜川橋3

 この橋は遠景も美しいが、橋を渡るときに見上げても美しい。トラスの斜めに組まれた構造材や天空を覆う部材はもちろんのこと、細部の構造に至るまで全て三角形で構成されている。また、最近使われることのなくなった、リベットの規則正しい配列もリズミカルな景観を呈している。

天竜川橋マップ

天竜川の舟橋跡

 江戸時代には江戸防衛のため、天竜川には橋が架けられておらず、東海道の往来は上流にある 「池田の渡し」 での渡舟によっていた。明治元年 (1868) の天皇御東幸の際には、小舟を並べ、その上に板を敷いた 「舟橋」 が架けられた。六所神社のすぐ南、現在水位計測所のあるところである。

天竜橋マップ

 その後、明治7年には、本流の舟橋と州に架けられた木橋からなる最初の橋が完成し、街道の往来は格段に便利になった。しかし、舟橋は洪水によって度々流されたので、明治9年に完全な木橋 「天竜橋」 に架け替えられた(下の写真・「中野町を考える会」による説明板より)。現地には、「舟橋跡」 と 「天竜川木橋跡」 と記された2本の木柱が立てられている。この木橋は、昭和8年に現在の鉄橋 「天竜川橋」 ができるまで使用されていた。

天竜橋A

金原明善翁生家

 金原明善の名前を見てふと思い出し、50年前に大学で学んだ 「砂防工学」 のノートを探し出してみた。そこにはやはり、治水・治山の偉大な実例として明善の事業が記してあった。彼は天竜川の洪水対策に一生をかけた郷土の偉人だったのである。
 明治元年、“暴れ天竜” の度重なる水害に心を痛めた明善は、民心安定・産業復興のために立ち上がり、全財産を投じて治水事業を完成した。彼は治水事業を行っただけでなく、人を育てることも大切と考え、自家を提供して小学校や水利学校も創設した。

金原A

 さらに、水害を防ぐには下流の治水事業を行うだけでなく、上流の治山事業も必要であるとの思いに達し、山地への植林事業にも乗り出した。明治19年、静岡県磐田郡の官林林相改良に着手したのを手始めに、岐阜県下の植林指導や富士山麓の模範林造成を行うなど、精力的に活動を続けた。
 明善の生まれたこの家は、築後約200年を経て老朽化が著しかったが、平成23年 (2011) に、翁が暮らしていた当時の面影を残しつつ改修された。現在は、偉業を知ることのできる貴重な資料が展示され、一般に公開されている。下の写真で、奥の土蔵は二階建てで家財や米が収蔵され、手前は平屋で重要な書物や書類が保管されていた。いずれも水害を避けるため1mほど高い位置に造られている。

金原マップ

浜松城の井戸

 左の写真は、天守閣のすぐ下にある井戸である。説明板によれば “天守曲輪に1つ” とあるので、これがその井戸であろう。「銀明水」 と名付けられていた。
 天守閣の 「穴蔵」 と呼ばれる地階にも井戸があった。戦の時に籠城になることも想定されるため、最後の拠点としての飲み水確保が必要であったのだろう。構造は井戸の周りに石を積んで崩れないようにする 「石組井戸」 である。昭和33年の再建時に調査され、右の写真のように整備された。

浜松城井戸A

 このほかに、本丸に1つ、二の丸に3つ、作左曲輪に4つ、合計10か所の井戸があったという。安政元年 (1854) の大地震の後に描かれた 「安政元年浜松城絵図」 (浜松史蹟調査顕彰会蔵) を見ると、本丸の中ほどに “丸に井の字” を書いた印があり、曲輪には “清水場” との記述を2か所見つけることができる。

浜松城井戸B

浜松城の石垣

 浜松城は、徳川家康が壮年期 (29歳~45歳) を過ごしたお城である。この間、織田信長と同盟を結び、「姉川の戦い」 「長篠の戦い」 などに参戦して着実に力をつけていった。ただ、31歳の時に武田信玄と戦った 「三方ヶ原の戦い」 では惨敗し、馬にまたがってこの城まで逃げ帰ったという。そのときの憔悴しきった顔を、生涯の戒めとするために肖像画がとして残している。
 城郭は、現在、浜松公園となっている。天守閣は、昭和33年 (1958) に再建されたものであるが、石垣は戦国時代そのままに残されている。

浜松城マップ

 石積みは 「野面積み」 という工法で行なわれている。加工された切り石でなく、自然石をうまく組み合わせながら積み上げていく。ゴツゴツして隙間だらけなので、一見弱そうに見えるけれど、築造してから400年以上経った現在でも、ビクともしないほどに堅固である。下の図 ( 現地の説明版より転用) のように、しっかりした 「根石」 や石の間に挟む 「間石」 「飼石」 、および大量の 「裏込 (栗石) 」 により強度を保っているのである。

浜松城A

澪つくし橋

 浜名湖の北東端、都田川の河口部に、赤い瀟洒な橋が架かっている。浜名湖サイクリングコースのシンボルとして昭和64年に造られた、当社設計による自転車専用橋である。幅員3m、橋長190m、両端は単純鋼箱桁、真中は鋼製のアーチ橋である。アーチから橋桁がワイヤーで吊られているので、その枠内は透けて見える。周辺は山の緑一色であるので、反対色である赤い色が景観にうまくマッチしている。

澪つくし橋A

 橋の名前は 「澪つくし橋」 という。澪 (みお) とは小舟の航路のことであり、標 (つくし) は航路を示す標識のことである。舟が浅瀬に乗り上げないように、深いところを知らせるために立てられた。都田川河口には、1300年前から大正時代まで立てられていたという。
 橋の親柱の上に、澪標の形を描いたモニュメントが飾られている。澪標は、「水の都」 と謳われた大坂に縁が深いことから、現在の大阪市の市章にその形が採り入れられている。

澪つくし橋マップ

大名庭園

 先日、金山の都市センターにおいて、「尾張の殿様が愛した庭園と園芸植物」 と題してシンポジウムが開催された。これは、日本植物園協会設立50周年の記念事業として企画されたものであり、もりころパークで開催中だった 「第32回全国都市緑化あいちフェア」 の応援事業も兼ねたものである。植物園協会における大きなテーマは、「ふるさとの植物をまもろう」 というものであり、園芸が盛んなこの名古屋が会場として選ばれたのである。
 基調講演は、中京大の准教授・白根孝胤氏による 「尾張徳川家の殿様と庭園趣味」 。名古屋城二之丸庭園や大曽根御下屋敷、江戸の戸山御庭などの紹介が語られた。

大名庭園A
   ≪尾張藩江戸 「戸山屋敷の龍門の滝」 (名古屋市博物館特別展の図録より)≫

 続いて、事例紹介として、江戸時代の園芸文化に詳しい名古屋園芸の小笠原左衛門尉亮軒氏から 「名古屋朝顔」 の話題があり、名城つばきの会会長の岡島徳岳氏からは 「名古屋城御殿つばきと尾張の椿」 についての説明があった。
 最後に、3人の講師を交えたパネルディスカッションが行なわれたが、そのコーディネーターは植物園協会の会員である私が務めさせていただいた。尾張の地は、江戸時代の昔から殿様や家臣、町人から農民に至るまで園芸が好まれ、お城から武家屋敷、寺院や町屋にも庭園や花壇がつくられて、花や樹木が栽培されていた。それは、幕末や明治になって尾張本草学として実を結び、園芸生産日本一の愛知として現在にまで引き継がれている。そのような伝統のあるこの地では、大テーマである “ふるさとの植物、すなわち自然植物だけでなく園芸植物も含めて保存していこう” というのがシンポジウムの結論であった。

大名庭園B
        ≪現在の徳川園 (旧大曽根御下屋敷跡地)・・・これから紅葉が綺麗になる≫

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ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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Author:FC2USER480348EQK
森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
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