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事任八幡宮の大木
この神社の創立は未詳であるが、延喜式 (927) に「坂上田村麻呂東征の大同2年 (807) に本宮山より遷座」という記事がある。武家の時代になると八幡信仰が盛んになり、康平5年 (1062) に源頼義が岩清水八幡宮を勧進して、八幡宮を併称するようになった。
江戸期には徳川幕府も信仰し、社殿の改築などを行なっている。明治になって神社ごとに社格が決められ、県社八幡神社と名付けられた。しかし、社格の廃止された戦後は由緒ある 「事任 (ことのまま) 」 という言葉を復活して、「事任八幡宮」 と称している。

神社の歴史の古さは、境内の樹木に現れている。社殿は、うっそうとした古木・大木で覆われているのだ。鳥居をくぐった参道の左にクスノキの大木がある。高さ約31m、幹周りは6mで根の周りは9mもある。枝は三方に広がって、参詣者を包み込むようである。社殿のすぐ右奥にはスギの大木がある。こちらはさらに大きく樹高、太さともクスノキを上回っている。推定樹齢1000年ともいわれ、「八幡宮の大杉さん」 と親しみを込めて呼ばれている。どちらも掛川市の文化財・天然記念物に指定されている。

江戸期には徳川幕府も信仰し、社殿の改築などを行なっている。明治になって神社ごとに社格が決められ、県社八幡神社と名付けられた。しかし、社格の廃止された戦後は由緒ある 「事任 (ことのまま) 」 という言葉を復活して、「事任八幡宮」 と称している。

神社の歴史の古さは、境内の樹木に現れている。社殿は、うっそうとした古木・大木で覆われているのだ。鳥居をくぐった参道の左にクスノキの大木がある。高さ約31m、幹周りは6mで根の周りは9mもある。枝は三方に広がって、参詣者を包み込むようである。社殿のすぐ右奥にはスギの大木がある。こちらはさらに大きく樹高、太さともクスノキを上回っている。推定樹齢1000年ともいわれ、「八幡宮の大杉さん」 と親しみを込めて呼ばれている。どちらも掛川市の文化財・天然記念物に指定されている。

祈りの石仏
旧東海道の路傍に、古い石仏を見かけることがよくある。お堂の中に納められているものもあるが、雨風にさらされた裸のものも多い。現代のように新幹線や高速道路のない時代、江戸から上方まで歩く長い旅には多くの難関があったのであろう。途中で病に倒れることもあっただろうし、山賊などに襲われることもあったかもしれない。旅人は、お地蔵様や観音様に旅の安全を祈ったのである。
仏像の頂上に馬の頭をいただいた馬頭観音は、ヒンズー教の最高神が馬頭に化身して敵を倒したという神話から生まれたもののようである。中部地方の山地の街道によく置かれているのは、馬の背による交通との関係が深いからといわれている。

宿場町の入口には普通、治安を守るために木戸が設けられるが、日坂宿では逆川に架かる細い木橋がその役割を果てしていた。「下木戸(しもきど)」 と呼ばれ、その隣に高札が立てられていた。
その近くの相伝寺というお寺に33体の観音菩薩像がある。遠江には 「三十三観音霊場」 というのがあり、ここはその21番である。今もお祈りをするため、霊場を巡り歩く人々が絶えないという。

仏像の頂上に馬の頭をいただいた馬頭観音は、ヒンズー教の最高神が馬頭に化身して敵を倒したという神話から生まれたもののようである。中部地方の山地の街道によく置かれているのは、馬の背による交通との関係が深いからといわれている。

宿場町の入口には普通、治安を守るために木戸が設けられるが、日坂宿では逆川に架かる細い木橋がその役割を果てしていた。「下木戸(しもきど)」 と呼ばれ、その隣に高札が立てられていた。
その近くの相伝寺というお寺に33体の観音菩薩像がある。遠江には 「三十三観音霊場」 というのがあり、ここはその21番である。今もお祈りをするため、霊場を巡り歩く人々が絶えないという。

一号国道
明治9年 (1876)、太政官の達により国道・県道・里道が指定された。すなわち道路に、重要度によるランク付けが行なわれたことになる。つづいて、明治18年、国道路線に番号が付与された。「一号」 は、東京から横浜まで。「二号」 が東京から大坂港までで、これが今の国道1号に近い路線である。戦後の昭和27年に、新道路法に基づく路線指定がなされ、東京・大阪間が国道1号に指定された。

静岡県掛川市から旧東海道の細道を訪ね歩いて日坂の宿近くまで来ると、路上に見慣れない標識が埋まっているのを見つけた。「一號國道」 と旧い漢字で記した道路標である。計測はしなかったが、一辺が30cm以上の石標で、土に埋まる部分が50cmほどの頑丈なものである。設置位置を見ると官民境界の杭ではなさそうで、何らかの路線名表示であろうと思われる。
かつて、東京銀座近くの日本橋を歩いたときに、「日本国道路元標」 なる銅版を見つけたが、この漢字は現代風であった。「一號國道」 の石標はそれより旧くて、貴重なものかもしれない。


静岡県掛川市から旧東海道の細道を訪ね歩いて日坂の宿近くまで来ると、路上に見慣れない標識が埋まっているのを見つけた。「一號國道」 と旧い漢字で記した道路標である。計測はしなかったが、一辺が30cm以上の石標で、土に埋まる部分が50cmほどの頑丈なものである。設置位置を見ると官民境界の杭ではなさそうで、何らかの路線名表示であろうと思われる。
かつて、東京銀座近くの日本橋を歩いたときに、「日本国道路元標」 なる銅版を見つけたが、この漢字は現代風であった。「一號國道」 の石標はそれより旧くて、貴重なものかもしれない。

6本目の東海道(新東名開通)
「東海道」 を歴史的にみてみよう。
最初は7世紀、律令制の時代に五畿七道が定められた。これは地域分け (北海道というように) で、七道は西海道・山陰道・山陽道・南海道・北陸道・東山道・東海道を指す。そのうちの東海道には、伊賀・伊勢・尾張・三河から常陸までの15か国が含まれている。時代が下ると、それらの国府を貫く “道路” も「東海道」と呼ぶようになった。
2番目は平安末期、新しく誕生した鎌倉幕府と京とを結ぶ道である。「京・鎌倉往還」といい、西暦でいうと1200年頃から1600年頃まで続いた道である。現在は、所々に鎌倉街道と呼ばれるその部分が残っている。
3番目は江戸時代になってから。徳川家康は、江戸を中心とする五街道を整備した。日光街道・奥州街道・中山道・甲州街道そして東海道である。街道には、旅人の便を図るために宿場町や伝馬の制度、並木や一里塚が整備された。
4番目は明治時代、現東海道すなわち国道1号である。5番目は、名神高速道路と東名高速道路。名神は西宮から小牧までの約190km、昭和40年に開通した。東名は小牧から東京までの約350km、昭和44年に開通した。

そしていよいよ 「新東名」 の誕生である。昨日2月13日、浜松いなさJCTから豊田東JCTまでの55kmが開通した。これで、御殿場から豊田までの約200kmが利用できることになり、現東名高速道路の渋滞緩和や、沿道地域の経済的発展などの効果が見込まれている。今後、首都圏との接続や四日市から関西方面への延伸により、第6番目の「東海道」が完成するのである。
≪文章は池田誠一氏の 『なごやの鎌倉街道をさがす』 を参考にした。写真は中日新聞社 ヘリ「あさづる」 から川柳晶寛氏が撮影したものを転載した≫
最初は7世紀、律令制の時代に五畿七道が定められた。これは地域分け (北海道というように) で、七道は西海道・山陰道・山陽道・南海道・北陸道・東山道・東海道を指す。そのうちの東海道には、伊賀・伊勢・尾張・三河から常陸までの15か国が含まれている。時代が下ると、それらの国府を貫く “道路” も「東海道」と呼ぶようになった。
2番目は平安末期、新しく誕生した鎌倉幕府と京とを結ぶ道である。「京・鎌倉往還」といい、西暦でいうと1200年頃から1600年頃まで続いた道である。現在は、所々に鎌倉街道と呼ばれるその部分が残っている。
3番目は江戸時代になってから。徳川家康は、江戸を中心とする五街道を整備した。日光街道・奥州街道・中山道・甲州街道そして東海道である。街道には、旅人の便を図るために宿場町や伝馬の制度、並木や一里塚が整備された。
4番目は明治時代、現東海道すなわち国道1号である。5番目は、名神高速道路と東名高速道路。名神は西宮から小牧までの約190km、昭和40年に開通した。東名は小牧から東京までの約350km、昭和44年に開通した。

そしていよいよ 「新東名」 の誕生である。昨日2月13日、浜松いなさJCTから豊田東JCTまでの55kmが開通した。これで、御殿場から豊田までの約200kmが利用できることになり、現東名高速道路の渋滞緩和や、沿道地域の経済的発展などの効果が見込まれている。今後、首都圏との接続や四日市から関西方面への延伸により、第6番目の「東海道」が完成するのである。
≪文章は池田誠一氏の 『なごやの鎌倉街道をさがす』 を参考にした。写真は中日新聞社 ヘリ「あさづる」 から川柳晶寛氏が撮影したものを転載した≫
丸子宿の茶屋
東海道難所のひとつ宇津ノ谷峠は、道幅も1間半 (約2.7m) と狭いが、丸子では2間半、安倍川に至ると3間半と広くなっていく。丸子宿は、街道の両側に人家が並んでいるだけの細長い町並みであったという。
ここで旅人を慰めたのは、有名な 「とろろ汁」 で、歌川広重の浮世絵 「東海道五十三次」 にもその風景が描かれている。ところが、その絵とまったく同じ茶店が今も残っているのである。茅葺の屋根、手前の庭木、後の丸い山まで同じであるのに驚いた。創業は慶長元年 (1596)、今から400年以上前とのこと。私の訪れた日はお店が休みで、とろろ汁を頂けなかったのが残念である。

手前の丸子川に橋があり、その親柱に 「まりこはし」 との銘板が掛かっている。茶屋前の石碑には「鞠子宿」と刻んであることから、丸子は鞠子とも書いたのであろう。
松尾芭蕉は、この宿で 「梅若菜まりこの宿のとろゝ汁」と詠んでいる。

ここで旅人を慰めたのは、有名な 「とろろ汁」 で、歌川広重の浮世絵 「東海道五十三次」 にもその風景が描かれている。ところが、その絵とまったく同じ茶店が今も残っているのである。茅葺の屋根、手前の庭木、後の丸い山まで同じであるのに驚いた。創業は慶長元年 (1596)、今から400年以上前とのこと。私の訪れた日はお店が休みで、とろろ汁を頂けなかったのが残念である。

手前の丸子川に橋があり、その親柱に 「まりこはし」 との銘板が掛かっている。茶屋前の石碑には「鞠子宿」と刻んであることから、丸子は鞠子とも書いたのであろう。
松尾芭蕉は、この宿で 「梅若菜まりこの宿のとろゝ汁」と詠んでいる。

駿府城
徳川家康は、駿府に3度住んでいる。最初は天文18年 (1549) から10年ほど、今川氏の人質として少年時代を過ごした。2度目は今川氏が滅びた後、天正14年 (1586) に駿府城を居城とし、天守閣を始めとする二ノ丸までを完成させた。ところがわずか4年後には、秀吉の命によって関東へ転封させられてしまった。
最後は江戸に幕府を開いてから、慶長12年 (1607) に秀忠に将軍職を譲って大御所となったときである。このときには全国の大名に命じて (天下普請)、お城と城下町の大幅な改造を行なった。当時の実権は、まだ家康が握っていたので、駿府は江戸を凌ぐ政治の中心地となったのである。

天守閣は寛永12年 (1635) の大火で焼失して以来再建されず、安政元年 (1854) の大地震では、建物や石垣などがほとんど全壊してしまった。明治になって陸軍省に献納されたが、昭和24年に静岡市に払い下げられ、今は 「駿府公園」 と名付けられて市民に親しまれている。平成元年に 「巽櫓」 が、同8年には 「二ノ丸東御門」 が復元された。
≪上の写真は巽櫓から見た東御門橋、下の写真は南西角にある「坤櫓( ひつじさるやぐら) 」 である。下の図は、土佐光成が宝永年間に描いた 「駿府城下鳥瞰図 (部分) 」 である。現在は、駿府博物館に所蔵されている。≫

最後は江戸に幕府を開いてから、慶長12年 (1607) に秀忠に将軍職を譲って大御所となったときである。このときには全国の大名に命じて (天下普請)、お城と城下町の大幅な改造を行なった。当時の実権は、まだ家康が握っていたので、駿府は江戸を凌ぐ政治の中心地となったのである。

天守閣は寛永12年 (1635) の大火で焼失して以来再建されず、安政元年 (1854) の大地震では、建物や石垣などがほとんど全壊してしまった。明治になって陸軍省に献納されたが、昭和24年に静岡市に払い下げられ、今は 「駿府公園」 と名付けられて市民に親しまれている。平成元年に 「巽櫓」 が、同8年には 「二ノ丸東御門」 が復元された。
≪上の写真は巽櫓から見た東御門橋、下の写真は南西角にある「坤櫓( ひつじさるやぐら) 」 である。下の図は、土佐光成が宝永年間に描いた 「駿府城下鳥瞰図 (部分) 」 である。現在は、駿府博物館に所蔵されている。≫
