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大井川橋梁
県道381号に架かる大井川橋の少し下流に、2本の鉄橋が並んでいる。「大井川橋梁」 と呼ぶJR東海道本線の橋である。金谷から島田へ向かう上り線は、昭和34年 (1959) に完成した。橋長1062mの曲弦トラスで橋脚は鉄筋コンクリートづくりである。真正面に富士山を見ることができる。
下り線は、ずっと古く大正4年 (1915) に完成している。橋脚は煉瓦づくりで、明治21年 (1888) に造られたものを鋼板で補強して再利用している。両橋は、見た目にはほとんど同じであることから、昭和の工事では従前のものに合わせたのであろう。

明治の始めごろの東西を結ぶ鉄道は、明治5年の新橋・横浜間を走る我が国最初の鉄道と、明治10年の京都・神戸間ができたが、その間のルートは中山道案と東海道案の2つがあった。明治16年には中山道案に決定し、同19年に武豊と木曽川駅を結ぶ資材輸送用の鉄道ができた。
しかし、中山道のルートは工事の難航が予測され、工期も大幅に遅れることから、この年に東海道ルートに変更された。国鉄東海道線の全線が開通したのは明治22年 (1889) のことである。この経緯からみると、大井川橋梁下り線の橋脚は、このときにできたものであろう。
(写真左の上り線は昭和34年のRC製 右の下り線は明治21年の煉瓦づくりの橋脚である)

下り線は、ずっと古く大正4年 (1915) に完成している。橋脚は煉瓦づくりで、明治21年 (1888) に造られたものを鋼板で補強して再利用している。両橋は、見た目にはほとんど同じであることから、昭和の工事では従前のものに合わせたのであろう。

明治の始めごろの東西を結ぶ鉄道は、明治5年の新橋・横浜間を走る我が国最初の鉄道と、明治10年の京都・神戸間ができたが、その間のルートは中山道案と東海道案の2つがあった。明治16年には中山道案に決定し、同19年に武豊と木曽川駅を結ぶ資材輸送用の鉄道ができた。
しかし、中山道のルートは工事の難航が予測され、工期も大幅に遅れることから、この年に東海道ルートに変更された。国鉄東海道線の全線が開通したのは明治22年 (1889) のことである。この経緯からみると、大井川橋梁下り線の橋脚は、このときにできたものであろう。
(写真左の上り線は昭和34年のRC製 右の下り線は明治21年の煉瓦づくりの橋脚である)

名松線(全線復旧)
今日 (平成28年3月26日)、三重県の名松線が全線復旧した。平成21年10月8日の台風18号により大被害を受けて以来、家城駅から伊勢奥津駅までの6区間がストップし、バスによる代行運転が行なわれていたのである。過去に何度も廃線の危機があったが、その都度、苦難を乗り越えて存続を続けてきた。地元では、「名松線を元気にする会」 を組織して、再び廃線論が起きないように、来訪者増を図るなどの地域活性化運動を展開している。
名松線は昭和4年 (1929) 年に開通した、雲出川の渓流沿に走るローカル線である。当初は名張から松阪までを結ぶ予定だったので、両方の頭文字をとって 「名松線」 と名付けられた。全線で約45km、起終点を含めて15の駅がある。

私の出身校・三重大学は、興津のさらに奥にある美杉の山に、林業実習用の演習林を持っている。昨年の夏、懐かしい演習林を数十年ぶりに訪れるクラス会が開催された。その途中で、開通の日を迎えるために改築された、新しい駅舎を見ることができた。
線路の終点近くに、朽ち果てた (失礼!) 構造物を見つけた。これは、昭和40年に気動車化される以前、蒸気機関車が走っていた時代の遺物で、機関車に水を供給するための水槽である。右の写真で、煙に半分隠れているが、この水槽らしいものが写っている。

名松線は昭和4年 (1929) 年に開通した、雲出川の渓流沿に走るローカル線である。当初は名張から松阪までを結ぶ予定だったので、両方の頭文字をとって 「名松線」 と名付けられた。全線で約45km、起終点を含めて15の駅がある。

私の出身校・三重大学は、興津のさらに奥にある美杉の山に、林業実習用の演習林を持っている。昨年の夏、懐かしい演習林を数十年ぶりに訪れるクラス会が開催された。その途中で、開通の日を迎えるために改築された、新しい駅舎を見ることができた。
線路の終点近くに、朽ち果てた (失礼!) 構造物を見つけた。これは、昭和40年に気動車化される以前、蒸気機関車が走っていた時代の遺物で、機関車に水を供給するための水槽である。右の写真で、煙に半分隠れているが、この水槽らしいものが写っている。

大井川橋
県道381号島田岡部線 (旧国道1号) に架かる橋である。橋長1026m、幅員8.3m、17連のトラス橋で、完成したのは昭和3年 (1928) のことである。トロッコでコンクリートなどの資材を運搬する時代であり、橋脚を建設するのは大変に難工事であったという。
江戸時代において大井川に橋が架かっていなかったのは、江戸防衛のためでもあったが、この川の自然条件が悪いことも理由であった。すなわち、洪水時の水流が速く、川底に砂礫が多いので、橋脚や橋本体が壊されてしまうのである。実際、明治9年(1875)に建設された木造の仮設橋や明治16年建設の本橋も流失の憂き目に遭っている。

下の写真左は「大井川橋」、右は「天竜川橋」(本ブログ2015・11・28掲載)である。いずれも、走る車の中から撮影した。同じような青色のペンキで塗装されているので、前にも渡ったのではないかと錯覚してしまうが、よく見ると橋桁の構造が異なっていることが分かる。大井川はトラス (三角構造)、天竜川の方は、桁の傾斜が交互になっているワーレントラスという型式である。
大井川橋は平成15年に、土木学会選奨の土木遺産に指定されている。

江戸時代において大井川に橋が架かっていなかったのは、江戸防衛のためでもあったが、この川の自然条件が悪いことも理由であった。すなわち、洪水時の水流が速く、川底に砂礫が多いので、橋脚や橋本体が壊されてしまうのである。実際、明治9年(1875)に建設された木造の仮設橋や明治16年建設の本橋も流失の憂き目に遭っている。

下の写真左は「大井川橋」、右は「天竜川橋」(本ブログ2015・11・28掲載)である。いずれも、走る車の中から撮影した。同じような青色のペンキで塗装されているので、前にも渡ったのではないかと錯覚してしまうが、よく見ると橋桁の構造が異なっていることが分かる。大井川はトラス (三角構造)、天竜川の方は、桁の傾斜が交互になっているワーレントラスという型式である。
大井川橋は平成15年に、土木学会選奨の土木遺産に指定されている。

富士山静岡空港
島田市と牧之原市に跨る広大な台地に新しくできた、地方管理の空港である。正式名称は静岡空港であるが、愛称の富士山静岡空港と呼ばれることが多い。静岡県民の望み叶って開港したのは、平成21年のことである。1900億円の巨費が投じられ、2500mの滑走路とガラス張りのターミナルビルをもつ空港である。
現在は13路線、週47便の発着がある。計画では国内便を多く見込んでいたが、関東・関西のちょうど真中に位置することもあって、中国などからの国際便の方が多くの人を運んでいる。昨年は約70万人の旅行客が利用した。

空港の真下を東海道新幹線が走っている。地元の願いは、空港近くに新幹線の駅をつくることだという。訪れた日は天気がよく、真っ青な空の下にターミナルビルと管制塔が銀色に輝いていた。ちょうど中国東方航空の旅客機が飛び立つところを見た。一瞬のチャンスを逃さぬカメラワークで、富士山と飛行機を同一画面に捉えることができた。

現在は13路線、週47便の発着がある。計画では国内便を多く見込んでいたが、関東・関西のちょうど真中に位置することもあって、中国などからの国際便の方が多くの人を運んでいる。昨年は約70万人の旅行客が利用した。

空港の真下を東海道新幹線が走っている。地元の願いは、空港近くに新幹線の駅をつくることだという。訪れた日は天気がよく、真っ青な空の下にターミナルビルと管制塔が銀色に輝いていた。ちょうど中国東方航空の旅客機が飛び立つところを見た。一瞬のチャンスを逃さぬカメラワークで、富士山と飛行機を同一画面に捉えることができた。

諏訪原城跡
天正元年 (1573)、武田勝頼は遠州攻略の拠点とするために、牧ノ原台地に城を築いた。城内に諏訪大明神を祀ったことから 「諏訪原城」 の名がついたといわれている。この城は、駿河から遠江に向う要衝の地にあり、掛川の高天神城攻略のための役割を担っていた。
天正3年に武田軍が長篠の戦いで敗れると、諏訪原城は徳川家康によって攻め落とされ、牧野城と改名されてしまう。天正9年に、家康は武田に奪われていた高天神城を奪回する。翌年、勝頼は甲府にて自害し、武田家は滅亡することとなる。

諏訪原城は、武田流の築城術を駆使した壮大な山城である。武田流の築城方法などが記された 「甲陽軍鑑」 にもこの城のことが記されている。大きな特徴に 「丸馬出」 がある。これは、城の出入り口 「虎口」 の前に設けられた三日月型の堀のことで、防御にも出撃にも使われる拠点のことである。
今、NHKの大河ドラマで 「真田丸」 が人気を集めているが、真田幸村が大阪城の出城として構築し、徳川軍を大苦戦させた真田丸もこの形式だったと考えられている。
諏訪原城跡は、現在、国の史跡に指定されている。

天正3年に武田軍が長篠の戦いで敗れると、諏訪原城は徳川家康によって攻め落とされ、牧野城と改名されてしまう。天正9年に、家康は武田に奪われていた高天神城を奪回する。翌年、勝頼は甲府にて自害し、武田家は滅亡することとなる。

諏訪原城は、武田流の築城術を駆使した壮大な山城である。武田流の築城方法などが記された 「甲陽軍鑑」 にもこの城のことが記されている。大きな特徴に 「丸馬出」 がある。これは、城の出入り口 「虎口」 の前に設けられた三日月型の堀のことで、防御にも出撃にも使われる拠点のことである。
今、NHKの大河ドラマで 「真田丸」 が人気を集めているが、真田幸村が大阪城の出城として構築し、徳川軍を大苦戦させた真田丸もこの形式だったと考えられている。
諏訪原城跡は、現在、国の史跡に指定されている。

菊川坂の石畳
日坂の急な上り坂を息せき切って登ると、しばらくは平らな台地 「小夜の中山峠」 である。東海道では、箱根峠、鈴鹿峠と並ぶ三大難所に数えられていた。峠付近には真言宗の久延寺があり、悲しい物語をもつ 「夜泣石」 が祀ってある。
峠を過ぎると、今度は急な下り坂になる。菊川へ向かっての細道は、歩きやすいように玉石の石畳になっている。これは江戸時代後期につくられたもので、長さは380間 (約700m) もあったという。当時は 「助郷」 という制度があって、様々な仕事が地元に命ぜられていた。この石畳は、近隣12か村の農民に割り当てられたものである。

以前、熊野古道 (2013・8・5) の石畳を歩いたことがあるが、そこは1㎡はあろうかと思われる大きな岩を並べたものであった。ここ菊川は、ひとりで持ち上げられるほどの玉石である。道幅は2間 (3.6m) ほどであるが、大量の石を運び上げて敷設するには、大変な困難があったであろう。
眼下に菊川宿の集落を見るこの石畳は、昭和30~40年代の工事により、多くが破損してしまった。現在は約160mが残るのみである。平成12年に発掘調査が行なわれ、翌年、県の文化財に指定された。

峠を過ぎると、今度は急な下り坂になる。菊川へ向かっての細道は、歩きやすいように玉石の石畳になっている。これは江戸時代後期につくられたもので、長さは380間 (約700m) もあったという。当時は 「助郷」 という制度があって、様々な仕事が地元に命ぜられていた。この石畳は、近隣12か村の農民に割り当てられたものである。

以前、熊野古道 (2013・8・5) の石畳を歩いたことがあるが、そこは1㎡はあろうかと思われる大きな岩を並べたものであった。ここ菊川は、ひとりで持ち上げられるほどの玉石である。道幅は2間 (3.6m) ほどであるが、大量の石を運び上げて敷設するには、大変な困難があったであろう。
眼下に菊川宿の集落を見るこの石畳は、昭和30~40年代の工事により、多くが破損してしまった。現在は約160mが残るのみである。平成12年に発掘調査が行なわれ、翌年、県の文化財に指定された。

牧之原の茶畑
牧之原から島田、菊川一帯には、見事な茶畑が広がっている。遠く富士山を望み、大井川を見下ろす標高40mから200mの台地は、古くは大井川の扇状地であったと考えられている。水はけの良い赤土で弱酸性のこの土地は、水利もないため水田には不向きで、入会地としての草刈場であった。
この地を開発したのは、明治になってからの徳川家家臣たちである。慶応3年 (1867) に大政奉還した最後の将軍慶喜は、江戸を離れて駿府に隠居することとなった。ともに移住した家臣たちは、明治2年の版籍奉還により職を失い武士を捨てることになる。彼らは一大決心をしてこの荒地を開墾し、幾多の艱難を乗り越えて茶畑をつくったのである。

年中暖かく、日照時間の長い静岡はチャの生育に適しており、ミカンとともに一大生産地となっている。また、適度な勾配の斜面に、コンターラインを描くよう綺麗に刈り込まれた茶畑は、景観としても美しく 「人と自然が織りなす日本の風景百選」 にも選ばれている。
茶畑に等間隔で設置された送風機は防霜ファンといい、遅霜による新芽の被害を防ぐため空気を撹拌する装置である。

この地を開発したのは、明治になってからの徳川家家臣たちである。慶応3年 (1867) に大政奉還した最後の将軍慶喜は、江戸を離れて駿府に隠居することとなった。ともに移住した家臣たちは、明治2年の版籍奉還により職を失い武士を捨てることになる。彼らは一大決心をしてこの荒地を開墾し、幾多の艱難を乗り越えて茶畑をつくったのである。

年中暖かく、日照時間の長い静岡はチャの生育に適しており、ミカンとともに一大生産地となっている。また、適度な勾配の斜面に、コンターラインを描くよう綺麗に刈り込まれた茶畑は、景観としても美しく 「人と自然が織りなす日本の風景百選」 にも選ばれている。
茶畑に等間隔で設置された送風機は防霜ファンといい、遅霜による新芽の被害を防ぐため空気を撹拌する装置である。
