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徳川慶喜屋敷跡
少し歴史のおさらいを・・・ペリーが来航したのが1853年、翌54年に日米・日英・日露和親条約が結ばれる。1859年の安政の大獄を経て翌60年に桜田門外の変、いよいよ日本も鎖国を解き、激動の時代へと入っていく。
14代将軍・徳川家茂が亡くなったのは1866年、その後を継いだのが15代慶喜である。慶喜は水戸藩主斉昭の7男で、御三卿一橋家の当主になっていた。鳥羽伏見の戦いで官軍に敗れた慶喜は、海路江戸に逃れ、慶喜討伐令を受けて上野寛永寺にて謹慎。西郷隆盛・勝海舟の会談により江戸無血開城。1867年王政復古の大号令が出され、68年明治維新を迎えることとなる。

さて、大政奉還した徳川慶喜は、西郷・山岡鉄太郎 (鉄舟=幕臣) の駿府会談により助命を受け、隠居の身となって駿府 (静岡) に移住することとなった。駿府での住居としたのが、元代官屋敷であったこの屋敷である。駿府城の南西、現在の静岡駅にも程近い所である。池を中心とした美しい庭のあるお屋敷に住み、政治を忘れて趣味に没頭する生活を送った。鉄砲を担いで野山での狩猟をしたり、最先端をいく自転車 (前輪の大きい) を乗り回していたという。
そのお屋敷は、現在、料亭 「浮月楼」 として、静岡の迎賓館的役割を果たしている。

14代将軍・徳川家茂が亡くなったのは1866年、その後を継いだのが15代慶喜である。慶喜は水戸藩主斉昭の7男で、御三卿一橋家の当主になっていた。鳥羽伏見の戦いで官軍に敗れた慶喜は、海路江戸に逃れ、慶喜討伐令を受けて上野寛永寺にて謹慎。西郷隆盛・勝海舟の会談により江戸無血開城。1867年王政復古の大号令が出され、68年明治維新を迎えることとなる。

さて、大政奉還した徳川慶喜は、西郷・山岡鉄太郎 (鉄舟=幕臣) の駿府会談により助命を受け、隠居の身となって駿府 (静岡) に移住することとなった。駿府での住居としたのが、元代官屋敷であったこの屋敷である。駿府城の南西、現在の静岡駅にも程近い所である。池を中心とした美しい庭のあるお屋敷に住み、政治を忘れて趣味に没頭する生活を送った。鉄砲を担いで野山での狩猟をしたり、最先端をいく自転車 (前輪の大きい) を乗り回していたという。
そのお屋敷は、現在、料亭 「浮月楼」 として、静岡の迎賓館的役割を果たしている。

小田井遊水地(庄内緑地)
洗堰の近くには、もう1つの洪水対策施設がある。「小田井遊水地」 と呼ぶ “囲繞堤” で囲われた水貯めである。面積約40ha、洪水時には140万㎥もの水を貯えることができる。しかし普段は、庄内緑地という公園であり、人々の憩いの空間となっている。
この遊水地には、いろいろな歴史があった。戦争中の昭和15年には、防空緑地として計画され、愛知県によって用地の買収が行なわれた。しかし、戦後の農地解放制度により耕作地に戻ってしまった。昭和44年ごろから再び民有地の買収が進められた。遊水地として概成したのは平成元年になってからである。

公園の整備は昭和40年代から進められ、完成した区域から順次利用できるようになった。植栽された樹木は、今ではずいぶんと生育が進み、立派な樹林を構成している。写真①は、菜の花畑・ボート池・メタセコイア樹林である。②は正面入口広場の噴水、③は中央広場の芝生とケヤキの大木である。園内にはいくつかの彫刻作品④も設置されている。
写真⑤は「ドッグラン」、犬の鎖を外して自由に駆け回らせることのできる広場である。後方の工作物は水門である。洪水が収まって、庄内川の水位が下がった後に、ゲートを開いて遊水地に貯まった水を本流へ戻す装置である。

この遊水地には、いろいろな歴史があった。戦争中の昭和15年には、防空緑地として計画され、愛知県によって用地の買収が行なわれた。しかし、戦後の農地解放制度により耕作地に戻ってしまった。昭和44年ごろから再び民有地の買収が進められた。遊水地として概成したのは平成元年になってからである。

公園の整備は昭和40年代から進められ、完成した区域から順次利用できるようになった。植栽された樹木は、今ではずいぶんと生育が進み、立派な樹林を構成している。写真①は、菜の花畑・ボート池・メタセコイア樹林である。②は正面入口広場の噴水、③は中央広場の芝生とケヤキの大木である。園内にはいくつかの彫刻作品④も設置されている。
写真⑤は「ドッグラン」、犬の鎖を外して自由に駆け回らせることのできる広場である。後方の工作物は水門である。洪水が収まって、庄内川の水位が下がった後に、ゲートを開いて遊水地に貯まった水を本流へ戻す装置である。

熊本城
古くは 「隈本城」 と呼んだ。新しく壮大な城を造ったのは加藤清正である。慶長5年 (1600) の関が原の合戦で功を立てた清正は、肥後52万石を領することとなった。新城落成は慶長12年 (1607) のこと、名を「熊本」に改めたのもこの年である。
時は流れて明治10年 (1877)、西郷隆盛が野に下って西南戦争を戦ったのがこの城である。ところが開戦3日前に、原因不明の出火によりこの難攻不落の名城は、天守閣をはじめ主要な建物のほとんどを焼失してしまった。現在の天守閣は昭和35年に再建されたものである。

加藤清正は、築城の名手といわれている。特に石垣造りにはその能力を遺憾なく発揮して、名古屋城など各地の城で足跡を残している。自身の城・熊本城でも堅固な石垣を築き上げた。今でも近づくと、威圧感を感ずるほど豪壮である(下左の写真)。
下右の写真は、創建当時から残る「宇土櫓」(国の重要文化財)である。地上5階・地下1階という多層櫓で、普通の城郭なら優に天守に匹敵するほどの規模である。現在、熊本を始め九州は未曾有の大地震に見舞われている。熊本城も大被害を受けているが、この櫓は石垣が壊れることもなくしっかりしているという。
早くこの地震が収まることと、被災された方々の避難生活が、少しでも安楽なものであってほしいと願うばかりである。

時は流れて明治10年 (1877)、西郷隆盛が野に下って西南戦争を戦ったのがこの城である。ところが開戦3日前に、原因不明の出火によりこの難攻不落の名城は、天守閣をはじめ主要な建物のほとんどを焼失してしまった。現在の天守閣は昭和35年に再建されたものである。

加藤清正は、築城の名手といわれている。特に石垣造りにはその能力を遺憾なく発揮して、名古屋城など各地の城で足跡を残している。自身の城・熊本城でも堅固な石垣を築き上げた。今でも近づくと、威圧感を感ずるほど豪壮である(下左の写真)。
下右の写真は、創建当時から残る「宇土櫓」(国の重要文化財)である。地上5階・地下1階という多層櫓で、普通の城郭なら優に天守に匹敵するほどの規模である。現在、熊本を始め九州は未曾有の大地震に見舞われている。熊本城も大被害を受けているが、この櫓は石垣が壊れることもなくしっかりしているという。
早くこの地震が収まることと、被災された方々の避難生活が、少しでも安楽なものであってほしいと願うばかりである。

洗堰
庄内川流域は、江戸時代から頻繁に水害に見舞われてきました。これは、流出土砂の堆積による河床の上昇が一因であるといわれています。特に、味鋺村から五条川までがもっともひどく、庄内川右岸は湿地化していきました。
こうした破堤による水害や湿地化を防ぐために計画されたのが新川の開削です。庄内川の水を分流し、五条川や大山川と合流させて、伊勢湾まで流す延長約20kmの川を掘ろうというものです。着工は天明4年 (1784)、完成したのは天明7年のことです。尾張藩はこのために40万両もの大金を投入し、流域数百の村々が工事に加わったといいます。

大雨などにより庄内川が増水すると、流水の一部をバイパスである新川の方へ流すことにより水害を防ごうとするシステムです。そのために、堤防の一部を低くして、洗堰緑地から新川の方へ越流させる装置が「洗堰」です。長さ56m、一般の堤防より約4m低くなっています。
かつてこの地方には、「小田井人足」 という “怠け者” を表す悪口がありましたが、本当は違うのです。尾張藩は、城下である左岸側を守るため、洪水が起こると右岸側の堤防を小田井の農民に切らせたのです。自分たちの家や田圃を犠牲にせざるを得ない不条理な命令に対して、怠け者のふりをして時間延ばしをし、村を守ろうとする切実な行動だったのです。
《下の写真で、赤い点線のように堤防が窪んでいることが分かりますか?》

こうした破堤による水害や湿地化を防ぐために計画されたのが新川の開削です。庄内川の水を分流し、五条川や大山川と合流させて、伊勢湾まで流す延長約20kmの川を掘ろうというものです。着工は天明4年 (1784)、完成したのは天明7年のことです。尾張藩はこのために40万両もの大金を投入し、流域数百の村々が工事に加わったといいます。

大雨などにより庄内川が増水すると、流水の一部をバイパスである新川の方へ流すことにより水害を防ごうとするシステムです。そのために、堤防の一部を低くして、洗堰緑地から新川の方へ越流させる装置が「洗堰」です。長さ56m、一般の堤防より約4m低くなっています。
かつてこの地方には、「小田井人足」 という “怠け者” を表す悪口がありましたが、本当は違うのです。尾張藩は、城下である左岸側を守るため、洪水が起こると右岸側の堤防を小田井の農民に切らせたのです。自分たちの家や田圃を犠牲にせざるを得ない不条理な命令に対して、怠け者のふりをして時間延ばしをし、村を守ろうとする切実な行動だったのです。
《下の写真で、赤い点線のように堤防が窪んでいることが分かりますか?》

蛇池公園の桜
名古屋市西区の庄内川の北に 「蛇池公園」 がある。正式には洗堰緑地の一部であるが、堤防の陸側にあり、河川敷側の緑地と区別するために別の名前で呼んでいる。中央に 「蛇池」 という、信長にまつわる故事をもつ池があることから、古くから地域の人たちに親しまれてきた。
洗堰緑地から新川にかけての堤防に、500本以上の桜並木があった。地元の人たちが植え、「守る会」 をつくって育てた樹齢70年を越える老樹である。ところが、平成12年の東海豪雨の際に、新川の堤防が壊れて大きな被害が出たことをきっかけに、全て伐採されることになった。新川の堤防は、掘り上げた砂質の土をそのまま積上げた状態だったので、非常に脆弱である。補強するにはシートにより覆う必要があり、そのためには桜は切らざるを得ないという理由である。

そうした中で、蛇池公園に接する部分だけでも何とかならないかという声が上がってきた。公園側に土盛りして、堤防幅を倍にすれば豪雨による決壊も防げるし、桜も残すことができるのではないかというアイデアである。桜を愛する地元、河川管理者の愛知県、公園を管理する名古屋市が何度も相談を重ねて、約80本を残すことにしたのである。
堤防補強工事から約15年が過ぎた現在も、蛇池公園のサクラは元気である。新しい堤防の上は芝生地となっていて、格好のお花見場所になっている。一般にソメイヨシノは寿命が短く、5~60年で衰退してしまうのではという見方もある。しかしここでは、植栽地の土壌条件が良く、育成管理も行き届いているため、まだまだ健全な樹勢を見せている。

洗堰緑地から新川にかけての堤防に、500本以上の桜並木があった。地元の人たちが植え、「守る会」 をつくって育てた樹齢70年を越える老樹である。ところが、平成12年の東海豪雨の際に、新川の堤防が壊れて大きな被害が出たことをきっかけに、全て伐採されることになった。新川の堤防は、掘り上げた砂質の土をそのまま積上げた状態だったので、非常に脆弱である。補強するにはシートにより覆う必要があり、そのためには桜は切らざるを得ないという理由である。

そうした中で、蛇池公園に接する部分だけでも何とかならないかという声が上がってきた。公園側に土盛りして、堤防幅を倍にすれば豪雨による決壊も防げるし、桜も残すことができるのではないかというアイデアである。桜を愛する地元、河川管理者の愛知県、公園を管理する名古屋市が何度も相談を重ねて、約80本を残すことにしたのである。
堤防補強工事から約15年が過ぎた現在も、蛇池公園のサクラは元気である。新しい堤防の上は芝生地となっていて、格好のお花見場所になっている。一般にソメイヨシノは寿命が短く、5~60年で衰退してしまうのではという見方もある。しかしここでは、植栽地の土壌条件が良く、育成管理も行き届いているため、まだまだ健全な樹勢を見せている。

根尾谷の淡墨桜
大垣から樽見鉄道に乗り、終点の樽見までは約1時間の電車旅である。前半は平坦な田園地帯、まだ少し花を残したソメイヨシノや、新葉を開いたばかりの柿の果樹園が眼に入る。途中に、大きなスーパーマーケット 「モレラ岐阜」 の駅や、「織部の里もとす」 近くの織部駅などがある。
残り半分は、美しい水の流れる根尾川渓流と交差しながらの山地である。西国三十三霊場として有名な谷汲山華厳寺の最寄り駅や濃尾大地震の折にできた根尾谷断層観察館近くの駅もある。2両編成の列車には、ハイキング姿の乗客が満席状態である。多くは、淡墨桜が目的なのであろう。

淡墨桜は、植物的には彼岸桜の一種 「エドヒガン」 である。しかし、満開の時には薄ピンクだった花びらが、散り初め時になると 「淡墨(うすずみ)」 のような色になる独特の性質をもっている。樹齢1500年ともいわれる老木で、樹高約17m、枝張りは東西・南北ともに20mを越えている。それよりなにより、根元の幹の太さに感動する。背後のお堂近くには、二世の桜も大きく育っている。
過去には、伊勢湾台風時の枝折れなど、枯死するかと心配されるほどの危機を何度も経験した。しかし、地元民などの熱意により、若木の根接ぎや空洞の外科手術、根元まわりを踏まれないための柵設置などの保護策を施した結果、現在はずいぶんと元気を取り戻している。大正11年に、国の天然記念物に指定された。
≪上の写真は今年4月10日に撮影 下左は5年前の満開時、下右は10年前の夏に撮った写真≫

残り半分は、美しい水の流れる根尾川渓流と交差しながらの山地である。西国三十三霊場として有名な谷汲山華厳寺の最寄り駅や濃尾大地震の折にできた根尾谷断層観察館近くの駅もある。2両編成の列車には、ハイキング姿の乗客が満席状態である。多くは、淡墨桜が目的なのであろう。

淡墨桜は、植物的には彼岸桜の一種 「エドヒガン」 である。しかし、満開の時には薄ピンクだった花びらが、散り初め時になると 「淡墨(うすずみ)」 のような色になる独特の性質をもっている。樹齢1500年ともいわれる老木で、樹高約17m、枝張りは東西・南北ともに20mを越えている。それよりなにより、根元の幹の太さに感動する。背後のお堂近くには、二世の桜も大きく育っている。
過去には、伊勢湾台風時の枝折れなど、枯死するかと心配されるほどの危機を何度も経験した。しかし、地元民などの熱意により、若木の根接ぎや空洞の外科手術、根元まわりを踏まれないための柵設置などの保護策を施した結果、現在はずいぶんと元気を取り戻している。大正11年に、国の天然記念物に指定された。
≪上の写真は今年4月10日に撮影 下左は5年前の満開時、下右は10年前の夏に撮った写真≫

島田宿の大堤
「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」 (箱根馬子唄) と謳われたように、大井川は東海道最大の難所であった。幕府は江戸や駿府の防御のために、あえて橋をつくらなかった。しかし、橋のない大井川を渡る旅人のために馬や人足の肩車などによる 「川越制度」 をつくった。それは元禄9年 (1696) のことである。
島田宿にはこの制度に基づき 「川庄屋」 や 「川会所」 が置かれ、川越賃銭の決定や渡渉順次の割り振りなどの業務運営を行なっていた。川会所をはじめとした建物は、昭和45年に 「島田宿大井川川越遺跡」 (国指定史蹟) としてこの地に復元された。

大井川に平行して、「島田大堤」 が走っている。慶長の大洪水 (1604~1605) により、それまでの堤が決壊して島田宿のすべてが押し流されてしまった。そのため、正保元年 (1644) 頃までに築かれたのがこの大堤である。同時に宿内に3本の灌漑用水も完成したので、米の生産高が以前の20倍にも増えたといわれている。大堤の規模は、高さ2間 (3.6m)、延長3150間 (約5.7km) と記録されている。現在は切れ切れとなって忘れられてしまったが、かつては島田宿や下流の村々にとって非常に重要な存在だったのである。

島田宿にはこの制度に基づき 「川庄屋」 や 「川会所」 が置かれ、川越賃銭の決定や渡渉順次の割り振りなどの業務運営を行なっていた。川会所をはじめとした建物は、昭和45年に 「島田宿大井川川越遺跡」 (国指定史蹟) としてこの地に復元された。

大井川に平行して、「島田大堤」 が走っている。慶長の大洪水 (1604~1605) により、それまでの堤が決壊して島田宿のすべてが押し流されてしまった。そのため、正保元年 (1644) 頃までに築かれたのがこの大堤である。同時に宿内に3本の灌漑用水も完成したので、米の生産高が以前の20倍にも増えたといわれている。大堤の規模は、高さ2間 (3.6m)、延長3150間 (約5.7km) と記録されている。現在は切れ切れとなって忘れられてしまったが、かつては島田宿や下流の村々にとって非常に重要な存在だったのである。
