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由比の宿本陣
由比の宿は、お江戸日本橋から数えて16番目の宿場町である。江戸時代には、大名が宿泊する本陣1軒、それを補完する脇本陣1軒、普通の人々が泊まる旅籠が32軒あり、相当な賑わいを見せていたという。明治になって本陣は取り壊されてしまったが、表門、石垣、木塀などが残されていて、往時のたたずまいを彷彿とさせている。
特に、外塀の石積みは堅固なだけでなく、デザイン性にも富んでいる。お施主と石工との美的感性が凝縮されたものであろう。現在は 「由比本陣公園」 の外柵として利用されている。公園内には、浮世絵師・歌川広重の作品などを集めた 「東海道広重美術館」 や観光情報を発信し食事もできる「東海道由比宿交流館」、庭園や芝生広場などが整えられている。

由比本陣公園の、道路を挟んだ反対側に、藍染の布製品を売る店があった。「正雪紺屋」 と呼ぶ、江戸初期から400年近くも続く染物屋である。手ぬぐいや暖簾といった商品の並ぶ店舗の横に、昔ながらの藍甕 (あいがめ) の並ぶ作業場が残されていて、染物作業の様子を偲ぶことができる。
「正雪」 とは由比正雪のことで、この紺屋が生家だという。慶安4年 (1651) 江戸幕府改革のため乱 (由比正雪の乱) を起こして久能山に立篭もったが、未然に露見し自刃して果てた。近くの正覚寺に首塚が残っているという。

特に、外塀の石積みは堅固なだけでなく、デザイン性にも富んでいる。お施主と石工との美的感性が凝縮されたものであろう。現在は 「由比本陣公園」 の外柵として利用されている。公園内には、浮世絵師・歌川広重の作品などを集めた 「東海道広重美術館」 や観光情報を発信し食事もできる「東海道由比宿交流館」、庭園や芝生広場などが整えられている。

由比本陣公園の、道路を挟んだ反対側に、藍染の布製品を売る店があった。「正雪紺屋」 と呼ぶ、江戸初期から400年近くも続く染物屋である。手ぬぐいや暖簾といった商品の並ぶ店舗の横に、昔ながらの藍甕 (あいがめ) の並ぶ作業場が残されていて、染物作業の様子を偲ぶことができる。
「正雪」 とは由比正雪のことで、この紺屋が生家だという。慶安4年 (1651) 江戸幕府改革のため乱 (由比正雪の乱) を起こして久能山に立篭もったが、未然に露見し自刃して果てた。近くの正覚寺に首塚が残っているという。

伊勢神宮 宇治橋
≪2014・03・12の再掲≫
20年に一度の式年遷宮を平成26年秋に終えた伊勢神宮には、例年にも増して多くの参詣者が訪れている。内宮 (ないくう) をお参りするときに、最初に渡るのが五十鈴川に架かる 「宇治橋」 である。長さ101.8m、幅8.42m、総ヒノキ造り純和風の橋である。丸い欄干の上には、16基の銅製の擬宝珠が付く。橋脚は三本立て13組、合計39本のケヤキ丸太である。

宇治橋も20年ごとに架け替えられる (造替という) 。今回は、平成25年の社殿遷宮に先立って、平成21年に渡始式が行われた。社殿のための御用材も、大径木のヒノキ丸太の入手が困難になっているが、橋脚のケヤキはそれ以上に見つけるのが難しいという。宇治橋を渡る前に大きな鳥居をくぐる。ここは俗界と聖界の境であり、身も心も清浄な雰囲気に包まれる。この鳥居は、外宮古殿の棟持柱が再利用されたものである。同じように渡り切ったところの鳥居は、内宮古殿の棟持柱が使われている。

今日と明日、主要国首脳会議 (サミット) が伊勢志摩で開催される。中部国際空港に降り立った首脳たちは伊勢市に集まり、会議に先立って内宮の参拝を行った。内宮の入り口広場から順番に宇治橋を渡る各国の大統領や首相たちの姿がテレビに大きく映し出されていた。真っ直ぐ前を見て歩く人もあれば、五十鈴川の清流や照葉樹の森を眺めながら歩く方もある。西洋の人たちの目には、日本本来の自然や日本文化の粋ともいえる伊勢神宮がどのように映ったのであろう。
20年に一度の式年遷宮を平成26年秋に終えた伊勢神宮には、例年にも増して多くの参詣者が訪れている。内宮 (ないくう) をお参りするときに、最初に渡るのが五十鈴川に架かる 「宇治橋」 である。長さ101.8m、幅8.42m、総ヒノキ造り純和風の橋である。丸い欄干の上には、16基の銅製の擬宝珠が付く。橋脚は三本立て13組、合計39本のケヤキ丸太である。

宇治橋も20年ごとに架け替えられる (造替という) 。今回は、平成25年の社殿遷宮に先立って、平成21年に渡始式が行われた。社殿のための御用材も、大径木のヒノキ丸太の入手が困難になっているが、橋脚のケヤキはそれ以上に見つけるのが難しいという。宇治橋を渡る前に大きな鳥居をくぐる。ここは俗界と聖界の境であり、身も心も清浄な雰囲気に包まれる。この鳥居は、外宮古殿の棟持柱が再利用されたものである。同じように渡り切ったところの鳥居は、内宮古殿の棟持柱が使われている。

今日と明日、主要国首脳会議 (サミット) が伊勢志摩で開催される。中部国際空港に降り立った首脳たちは伊勢市に集まり、会議に先立って内宮の参拝を行った。内宮の入り口広場から順番に宇治橋を渡る各国の大統領や首相たちの姿がテレビに大きく映し出されていた。真っ直ぐ前を見て歩く人もあれば、五十鈴川の清流や照葉樹の森を眺めながら歩く方もある。西洋の人たちの目には、日本本来の自然や日本文化の粋ともいえる伊勢神宮がどのように映ったのであろう。
曼荼羅寺公園のフジ
江南市にある曼荼羅寺公園は、尾張の名刹 「曼荼羅寺」 境内約4haの内にある。ここでは毎年、津島の天王寺と並ぶ 「二大藤まつり」 が開催される。4月中旬から5月上旬までが見ごろであり、同時にボタンやツツジの花も見ることができる。
園内に設えられた藤棚は4500㎡と規模が大きく、九尺藤をはじめ野田藤、カピタン藤 (山藤)、八重咲きなど品種も多い。紫・白・ピンクなどの色も豊富であり、特に房の長い花は見事で、まるでオーロラ (見たことはないが) のように揺れている。あたり一面に、甘い香りが漂っている

曼荼羅寺は後醍醐天皇の勅願寺で、正中元年 (1324) から5年をかけて造営されたという。唐門をくぐると、塔頭寺院8寺が甍を並べ、その奥に曼荼羅寺正堂が建っている。現在の建物は寛永9年 (1632) に、阿波国主・蜂須賀氏が寄進したものである。入母屋造り、総檜皮葺きで間口13間という重厚なもので、国の重要文化財に指定されている。

園内に設えられた藤棚は4500㎡と規模が大きく、九尺藤をはじめ野田藤、カピタン藤 (山藤)、八重咲きなど品種も多い。紫・白・ピンクなどの色も豊富であり、特に房の長い花は見事で、まるでオーロラ (見たことはないが) のように揺れている。あたり一面に、甘い香りが漂っている

曼荼羅寺は後醍醐天皇の勅願寺で、正中元年 (1324) から5年をかけて造営されたという。唐門をくぐると、塔頭寺院8寺が甍を並べ、その奥に曼荼羅寺正堂が建っている。現在の建物は寛永9年 (1632) に、阿波国主・蜂須賀氏が寄進したものである。入母屋造り、総檜皮葺きで間口13間という重厚なもので、国の重要文化財に指定されている。

亀崎海浜緑地(人工海浜)
日本一古いといわれる武豊線亀崎駅 (このブログ2013・04・09参照) を降り、掘割を通り抜けると海岸通に至る。ここで毎年5月3日・4日の両日行なわれる 「潮干祭」 は、かつて 「県社」 にも格づけられた 「神前(かみさき)神社」 の祭礼である。その昔、神武天皇東征の折、海からこの地に上陸したとの伝説に因み、5輌の山車を潮干の浜に曳き下ろすことからこの名がついている。
曳き下ろしを行なう海岸は、かつては堤防がなく、人家の石垣がそのまま波に洗われていた。ところが昭和34年の伊勢湾台風により、海岸沿いの民家は高潮に飲まれてほとんど倒壊してしまった。その後の復旧工事により高い堤防ができたため、この祭礼最大の見せ場である曳き下ろしはできなくなってしまった。その復活は平成5年、堤防にゲートを設けて人口海浜を造成するまで、30年以上の歳月を待たねばならなかったのである。

この祭の山車は、知多半島中部から南部に広く伝わる 「知多型」 と呼ばれる形態である。構造は、上山と胴山の二層に分かれ、上山には唐破風の屋根がついている。胴山を構成する梁や柱には、細緻な彫刻が施されるとともに、側面と後方の幕は金糸銀糸による豪壮な刺繍で飾られている。かつてこの地を訪れた永六輔氏は、「山辺の高山、海辺の亀崎」 とこの見事な山車を讃えている。
平成18年に地元の念願が叶って、山車を含めた祭全体が国重要無形民族文化財に指定された。私事ではあるが、筆者は中学生になるまでこの地で育ち、法被を着て山車を曳いたこともある。
≪下左の白黒写真は、平成17年に刊行された 「亀崎潮干祭総合調査報告書」 から抜粋した。下右の図面は、平成18年に配布されたパンフレットから写したものである。≫

曳き下ろしを行なう海岸は、かつては堤防がなく、人家の石垣がそのまま波に洗われていた。ところが昭和34年の伊勢湾台風により、海岸沿いの民家は高潮に飲まれてほとんど倒壊してしまった。その後の復旧工事により高い堤防ができたため、この祭礼最大の見せ場である曳き下ろしはできなくなってしまった。その復活は平成5年、堤防にゲートを設けて人口海浜を造成するまで、30年以上の歳月を待たねばならなかったのである。

この祭の山車は、知多半島中部から南部に広く伝わる 「知多型」 と呼ばれる形態である。構造は、上山と胴山の二層に分かれ、上山には唐破風の屋根がついている。胴山を構成する梁や柱には、細緻な彫刻が施されるとともに、側面と後方の幕は金糸銀糸による豪壮な刺繍で飾られている。かつてこの地を訪れた永六輔氏は、「山辺の高山、海辺の亀崎」 とこの見事な山車を讃えている。
平成18年に地元の念願が叶って、山車を含めた祭全体が国重要無形民族文化財に指定された。私事ではあるが、筆者は中学生になるまでこの地で育ち、法被を着て山車を曳いたこともある。
≪下左の白黒写真は、平成17年に刊行された 「亀崎潮干祭総合調査報告書」 から抜粋した。下右の図面は、平成18年に配布されたパンフレットから写したものである。≫
