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鯖街道・熊川宿

 若狭の国・小浜から北川沿いの細長い平野を遡ると熊川に至る。この辺りからは山地となり、しばらく行って北へ向きを変え、朽木を経て京へ向かう。この道を 「鯖街道」 と呼ぶ。京都まで18里 (約72km) の行程である。
 日本海に面する小浜は、古くから大陸文化の玄関口になっている。中国や朝鮮半島の高い文化がこの港に上陸し、街道を通って奈良や京へ運ばれたのである。東大寺二月堂で行なわれる 「お水取り」 行事は、小浜・神宮寺からの 「お水送り」 と結びついている。

熊川宿マップ

 若狭湾では、多種多様の海産物が獲れるが、18世紀後半からは大量のサバが水揚げされるようになった。サバは、京都の人々にとって大衆魚であり、いろいろな行事にも欠かせないものである。若狭湾から海産物の運ばれるこの道は、いつの頃からか 「鯖街道」 と呼ばれるようになった。
 宿場町で、印象的な建物を見つけた。破風から窓枠、柱から板張りに至るまで、全て 「紅柄塗り」 された家が何軒かある。紅柄 (べんがら・弁柄とも書く) は、鉄分を含む防腐塗料である。「焼鯖」 を売る店の二階は防火のための 「塗込め窓」 になっている。街道の脇に清流の流れる用水があるが、これは何度も火災を経験した宿場町の防火のための知恵である。

熊川宿C

明治用水「旧頭首工と船通し」その2

 平成26年10月21日にご紹介した明治用水 「旧頭首工」 と 「船通し」 について、岡崎市北野町にお住まいの方からコメントが寄せられました。“以前からこの構造物を見て、何だろうと不思議に思っていたけれど、ブログを見て分かりました” というお礼と、“さらに詳しい資料があれば” というお願いをいただきました。
 現地調査に訪れたときに、施設近くにあった説明版を写真に撮ってきましたので、ここにご紹介します。さらに、詳しい資料が見つかれば、追ってご紹介したいと思います。以下、看板に記されていた文章と写真を掲載しますのでご覧ください。

コメント回答1

コメント回答2

明治用水「旧頭首工」と「船通し」

                                        ≪ 平成26年10月21日の再掲≫
 矢作川下流域の碧海台地は水田に適さない洪積台地であり、長年、用水路による給水が悲願であった。明治13年に通水された明治用水は、台地を美田に変え、人々の豊かな生活を実現した。明治34年にはさらに頑丈な頭首工が完成した。下の絵図は、川幅いっぱいに堰堤が築かれ、右岸側から明治用水へと水を引く様子が描かれている。
 旧頭首工は、新しい頭首工が昭和33年にできた後の昭和41年、矢作川が一級河川になった際に取り壊された。しかし、左岸側の排砂門5門と船通し閘門は壊されずに残っている。コンクリートのない時代に服部長七考案の「人造石」でできており、貴重な土木施設として、平成19年に土木学会が選奨する土木遺産に認定された。

コメント回答3

 陸上交通が発達するまでは、矢作川は物資輸送の大動脈で、多くの川船が海産物、板類、薪炭などを運んでいた。また、木材は筏に組まれて送られていた。明治用水の取水が多い時期には、堰が締め切られるので、川の中央部に船通しが造られた。さらに、重い筏や力の弱い船は左岸の閘門を使って行き来した。閘門には上下に扉があり、松重閘門(平成25年3月13日の当ブログ参照)と同じように水位を調整しながら船を通したのである。現在も扉のための「ひじつぼ」が残されている。

コメント回答4

毘沙門天(香久山妙法寺)

 田子の浦港の東、吉原宿と原宿の間に、個性的なお寺がある。「毘沙門天」、正式名称は 「妙法寺」 である。元々は、祈祷を行なう毘沙門堂と、仏事を行なう妙法寺という性格の異なる二つのお堂から成り立っているという。写真左が毘沙門堂で、右端のドーム屋根が妙法寺の錬成道場である。
 沿革によれば、今から1200年ほど前、山伏たちが海抜0mの海岸から富士山に登るための “みそぎ” をした道場が起源だとある。寺領は広大で、3万坪 (10ha) を越える。戦国時代には、甲斐武田氏の東海道進出の砦となり、江戸時代には、徳川御三家紀伊公が長く逗留したこともあった。

毘沙門天マップ

 お堂の中のご神体は拝見できなかったが、境内に石像が立てられていた。毘沙門天は多聞天とも呼び、須弥山中腹の四方の門を守る四天王 (持国天・増長天・広目天・多聞天) の一人である。四天王の信仰は飛鳥時代からあり、聖徳太子が四天王寺をつくったことは広く知られている。
 階段を登って鳥居をくぐると、四方の屋根に龍の飾られた極彩色のお堂があって目を引きつけられる。中国様式で 「龍神香炉堂」 という。旧正月の3日間開催される 「毘沙門天大祭」 は、数十万人の参拝客で賑わうという。このとき、全国からたくさんのダルマ屋が集まることから、全国一の「だるま市」としても有名である。

毘沙門天D

防災倉庫

 富士市新橋町に防災倉庫を見つけた。老人憩いの家を兼ねた公民館の駐車場に建てられている。中は見ていないが、救助のための道具や医薬品、非常食などが貯えられているのだろう。すぐ近くに海抜を示す標識があった。地表から1mほどのところが3.6mと記してある。
 大地震により5mもの津波に襲われると防災倉庫自体が水を被ってしまう。公民館もコンクリート造りではあるが、2階や屋上に逃げ込めば大丈夫なのだろうか?間近に迫るという南海トラフ地震や、かなり以前から危惧されている東海沖地震を考えると、災害への備えはどれだけやってもやり過ぎということはないように思う。

防災倉庫マップ

 沼津市で「狩野川堤」を歩いてみた。60年ほど前に伊豆半島や関東地域を襲った 「狩野川台風」 を思い出す。昭和33年9月27日、神奈川県東部に上陸した台風22号のことである。風害は比較的軽微であったが、時間120mm、総雨量750mmを越える豪雨が伊豆半島の山地に降り、狩野川流域に大被害をもたらしたのである。
 上流域では、戦中・戦後の木材伐採のために荒れている山地が鉄砲水や土石流を起こし、中流域の修善寺あたりでは橋桁にひっかかった流木がダムとなって水を堰きとめ、そのダムが決壊したために下流域で大水害を発生させたのである。流域だけで800人を超す被害者があったという。災害は忘れた頃にやってくるという。伊勢湾台風や阪神淡路大震災、東日本大震災や熊本地震を永く心に刻み、次の災害に備えなければならない。

防災倉庫D

沼津港と魚市場

 沼津港は、狩野川が駿河湾に注ぐ最下流部に古くから栄えた港である。昭和8年に、主として漁船が停泊する 「内港」 が完成し、その外側に大型船が寄港できる「外港」が昭和45年に造成された。内港と外港との間に、大型水門 「びゅうお」 ができあがったのは平成16年のことである。。
 「びゅうお」 は津波に備えるための水門で、東海沖地震などの際には470トンもの重い扉が閉められることになっている。高さ32mの2つのタワーを結ぶガラス張りの回廊は、港湾・千本松原・遠くは富士山まで眺めることのできる展望台になっている。

沼津港マップ

 沼津港の漁獲量は、静岡県内では清水港に続いて2位、全国でも20番以内を保っている。その中でもアジの干物は、昔から特に有名である。現在はそれに加え、金目鯛・かます・ホッケの干物、イカの一夜干しなどが人気で、干物の生産高では全国1位を誇っている。港の東側、狩野川沿いに魚の市場や料理店が並んでいる。また、全国でも珍しい 「深海水族館」 もあって、観光目的や買物目的の観光バス、乗用車で賑わっている。

沼津港D

富士山と煙突

 東海道新幹線で東京方面へ向かうときの楽しみのひとつは、車窓から富士山を眺めることである。座席が進行方向左の窓際に取れ、天気が良いという好条件が揃ったときに初めて願いが叶う。海外からの観光客でもなく、新幹線初心者でもないけれど、そんな日は写真に収めようとカメラを構えてしまう。
 ところが富士川を渡り、今こそと思ってもなかなか良い写真は撮れない。手前に電線や家屋、ましてや煙を吐く煙突などが写ってしまうと、写真が台無しになるのである。高速で走る列車から撮ろうなどという物草がいけないのだが、なかなか降り立って写真撮影する余裕はない。せっかくの世界遺産なのだから、いっそ景観に配慮して煙突を無くせば良いとも思うのだが、産業との兼ね合いを考えれば無理な願いかもしれない。

製紙工場マップ

 富士山南側の麓、富士市には製紙会社が多い。紙を作るには大量の水が必要であるが、この地は富士山の伏流水という良質な水が得られるのである。また、東名高速道路や田子の浦港など交通の便が良いので、原料となる古紙の運搬や首都圏への製品の輸送にも好都合なのである。現在、日本製紙富士工場など、製紙工場の数は日本一を誇っている。

製糸工場B

沼津市の御成橋

 沼津市を流れる狩野川の下流部、県道139号線が渡る橋を 「御成橋 (おなりばし) 」 という。沼津御用邸に向かう皇族がお通りになることから名付けられた。橋長130m、幅員15.6m、「下路バランス・ソリッド・リブタイドアーチ橋」 という長い名前の型式である。
 狩野川に初めて橋が架けられたのは明治9年のこと。木製の橋で、沼津港に近いことから 「湊橋」と命名された。その後、明治45年に初の鉄橋が架けられた。初代「御成橋」である。現在の橋は、鉄橋としては2代目で、昭和12年に架け替えられた。

御成橋マップ

 橋の中ほどの部材に、強い力で押されたような窪みがある。すぐ上の説明板には 「空襲跡」 とある。昭和20年4月11日、橋の西北端に落ちた爆弾により、橋の欄干が10m以上も吹き飛ばされたという。鉄板の窪みはそのときの傷跡で、“戦争の惨禍を後世に伝えるために” そのままにしてあるのだと記されている。

御成橋C

吉原宿の本国寺とバクチノキ

 田子の浦湾の北方、少し小高い山裾に吉原宿がある。この宿は3度におよぶ津波のために移転を余儀なくされ、東海道を迂回させて今の地に整備された。宿の中には多くの寺社があるが、その中に成就山・本国寺という日蓮宗のお寺がある。日蓮宗は鎌倉時代に起こり、総本山は甲斐の身延山にある。山梨県や静岡県で寺院数の割合が高いといわれ、吉原宿の辺りでも多く見かけた。
 本堂の脇に特色ある樹木を見つけた。バクチノキという名前で、意味は「博打の木」である。牧野図鑑によれば、“樹皮がはがれて朱色の木肌が表れるのを、賭博に負けて丸裸になった人” になぞらえたものだという。確かに、幹肌は鮮やかな朱色である。

本国寺マップ

 分類的には、バラ科の常緑樹である。小さな花が穂になって咲くのでサクラには見えないが、葉の付根に密栓があるのを見ると、確かにサクラの仲間だと実感できる。房総半島以西の暖地に、稀に自生するとあるが、これまで見たことはほとんどない。唯一、鹿児島の薩摩藩主の別邸 「磯庭園」 で大木を見たことがある。ユニークな名前とともに、印象深い樹木である。

本国寺A
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ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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Author:FC2USER480348EQK
森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
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