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宮の宿(シーボルト)

                                               ≪再掲:2015・4・10≫
 宮の宿には、参勤交代の大名や伊勢参りの旅人など、多くの人々が宿泊した。松尾芭蕉も名古屋の門人たちと交流するため、たびたび熱田を訪れ、この湊から舟遊びなどを楽しんだという。そのとき「この海に 草鞋(わらんじ)捨てん 笠しぐれ」という句を残している。
 また幕末のドイツ人医師・シーボルトも、文政9年(1826)2月にオランダ使節団に随行して江戸に参府する際と、4月に長崎へ帰る際に宿泊している。このとき、名古屋の本草学者・水谷豊文とその門下生・大河内存真、伊藤圭介は、シーボルトから植物学の教えを請うべく、待ち受けて会見した。そのときの様子を「尾三精華帖」(下の図)に見ることができる。

シーボルト

 シーボルトは帰国後、日本の植物研究の集大成を『フローラ・ヤポニカ(日本植物誌)』として出版する。彼が持ち帰った500種類もの植物は、今もその一部がオランダ・ライデン大学の植物園に残されている。ライデンは、運河と緑が美しい町である。ライデン大学の日本庭園には、シーボルトの銅像が建てられている。

シーボルトB

宮の宿

                                               ≪再掲:2015・4・7≫
 熱田神宮の門前町で「熱田宿」ともいう。天保14年(1843)の記録には、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠248軒あったという。桑名への海上7里の渡し場があり、大垣までの佐屋路・岐阜までの美濃路の分岐点であり、さらに62万石の城下町名古屋の表口として、街道一の賑わいを見せていた。
 江戸時代に描かれた数々の絵図が残されていて、当時の宿場町の様子を知ることができる。文化3年(1806)に成立し、文化13年に転写された「熱田宮全図」(西尾市岩瀬文庫蔵、下の図はその部分)を見ると、停泊する舟の様子や常夜灯・浜鳥居・浜御殿・建ち並ぶ旅籠の様子がよくわかる。鳥居から真っ直ぐ通る道は、熱田神宮への参道である。

宮の宿5

 現在、古い建物はほとんど残っていないが、宮の渡し公園のすぐ北に古風な建物がある。名古屋市指定建造物「丹羽家住宅」である。丹羽家は幕末のころ、伊勢久と称し、脇本陣格の旅籠だった。正面の破風の付いた玄関は、当時の格式の高さを偲ばせている。

宮の宿マップの2

東海道(伊勢の国)

 昨年4月1日から、このブログは 「東海道」 をテーマに、旧東海道沿いに残る土木遺産や新しい土木施設のご紹介をしてきました。名古屋市熱田の 「宮の宿」 からスタートし、三河地域、遠江地域、駿河地域を進み 「三島宿」 まで歩きました。
 その先の箱根の山は、相模の国に入りますので「中部の土木文化」としては一応ここまでとし、この後は、西へ向かって伊勢の国を歩こうと思います。再び、「熱田宮の宿」 を出発し、船で 「桑名宿」 まで渡りたいと思います ( 「七里の渡し」 ・・・ 実際には近鉄か関西線で行きます)。

東海道 宮 三島

 伊勢の国は現在の三重県で、桑名・四日市・亀山の方面へ進みます。現在のJR東海道線や名神高速道路が、岐阜県から関ヶ原の方を通っていますので、旧東海道もこちらかと思うのは間違いです。このコースは、名古屋から美濃街道を通り、中山道のルートをたどっているのです。どちらかというと、JR関西線が旧東海道沿いに走っていることになります。
 この道は、鈴鹿山系の谷あいを進みますし、これからの取材は秋に入りますので、美しい紅葉の写真もご紹介できると思います。ご期待ください。

東海道マップ

椙山女学園の五輪記念樹

 この夏のリオデジャネイロ五輪で、金藤理絵選手が女子200m平泳ぎの金メダルを獲得した。今から80年前・昭和11年 (1936) のベルリン五輪でも、同じ200m平泳ぎで優勝した選手がいる。“前畑、頑張れ!” のラジオ放送でも有名な前畑秀子選手である。
 前畑選手は、名古屋市の椙山女子専門学校に在籍していた。この学校は、明治38年 (1905) 名古屋裁縫女学校として創立し、戦後に中学校・高等学校・大学を続けて開校した名門校である。

椙山E

 このオリンピック大会では、優勝者に金メダルとともにカシワ (正確にはヨーロッパナラ) の苗木が贈られた。これは、血の出るような猛練習を繰り返し、ついにゴールドメダリストになった人々を、嵐に倒れても倒れても芽を吹きなおして大木に成長するカシワの木になぞらえたものである。
 前畑選手は、この記念の苗木を母校の椙山女学園 (千種区山添町) に植栽した。当初のものは枯れてしまったが、現在は2代目が正門近くに育っている。その近くには前畑選手と、やはりオリンピックで活躍した同郷 (和歌山県橋本市) の小島一枝選手とが並んだ胸像が立っている。

椙山マップ

ふじおやま道の駅

 富士山の東裾野にある小山 (おやま) 町は、東名高速道路やJR東海道線が通る交通の要所であり、富士山登山道の須走口など観光の拠点でもある。広大な敷地を利用した 「富士スピードウェイ」 があり、F1日本グランプリなども開催される。また、豊富に湧出る清流に育まれた米やお茶、ワサビなどの特産品が収穫される。
 この町を通る国道246号沿いに、道の駅が平成16年に完成した。「ふじおやま道の駅」 という。国道を走るトラックなどのための広い駐車場や休憩のための庭園、レストランや地元の特産品などを売るショップなどがある。建設のための設計は、当社中部復建の建築部が担当した。

おやまD

 この 「道の駅」 の最大の売り物は、美しい富士山が望めることであり、また、水田や茶畑といった田園風景が眺められることである。そのため、建物は切妻屋根とし、色調も黒と白というシンプルなデザインである。周りの風景との調和をコンセプトとした設計である。
 広場の一角に可愛らしい金太郎のモニュメントがあった。台座からは飲料水が噴出していて、水の豊富なことを象徴している。この町は坂田金時の生誕地であり、童話でお馴染みの足柄山 (金時山) も近くに聳えている。

おやまE

三嶋大社のキンモクセイ

 三島は、伊豆国の国府があった地であり、三嶋大社は伊豆国の一宮であった。源頼朝が平家討伐の旗揚げをしたとき、この社で源氏再興を祈願したことは有名で、その多くの史料が今も宝物殿に収蔵されている。
 大鳥居の南を東海道が東西に走っており、旅人からも崇敬を集めていた。三島の町は、宿場町であり、門前町でもあった。鳥居をくぐると鬱蒼とした参道があり、拝殿の奥に本殿がある。拝殿や本堂などは、国の重要文化財に指定されている。

三嶋大社E

 本殿に向かって右側、石造りの柵の中に、根元周りが3mを越える、「キンモクセイ」 としては巨大な樹がある。樹齢1200年ともいわれる老木で、国の天然記念物に指定され、また、「日本の名木百選」 にも選ばれている。
 キンモクセイとは呼ばれているが、植物分類的には近縁の 「ウスギモクセイ」 という種類である。9月の上旬と下旬の2回花が咲き、開花時にはあたり一面、2里 (8km) 四方まで芳香が漂うといわれている。昭和60年代に樹勢が弱り、枯損の危機を迎えたが、土壌改良などの手当てをした結果、今では回復の兆しを見せている。

三嶋大社マップ

三島熔岩流

  日本列島の周辺では、4枚のプレートが重なり合っている。ユーラシアプレートと北アメリカプレートの間へ楔を打ち込むように、フィリピン海プレートが衝突する先端が伊豆半島である。そのため割れ目となったのがフォッサマグナであり、そこに10万年前に噴出したのが富士山である。
 約1万年前の富士山噴火では、大量の熔岩が流れ出した。南へ流れ出した熔岩は、流動性が高かったので、約40kmも離れた三島まで到達して固まった。その露頭は、楽寿園内のいたるところに見ることができる。

熔岩C

 固まった熔岩の形は、餅状とか塚状、あるいは縄状といった名前で表現されるが、楽寿館の裏手には「縄状」の巨大な熔岩が顔を見せている。岩の表面は苔蒸していて、割れ目には木の根がまつわりついている。右の写真は、カゴノキが熔岩に絡んでいる様子である。三島熔岩は硬い玄武岩であるため、石材としての需要も高かった。園内には、過去に切り出された跡も残っている。
 この貴重な自然は保存のため、熔岩・湧水・実生自然林・景観も含めて、昭和29年に国の「天然記念物及び名勝」に指定された。

熔岩D

楽寿園

 三島駅のすぐ南に、うっそうとした森がある。ここは、明治維新で活躍した皇族・小松宮親王が明治23年に造営した別邸である。「楽寿園」 といい、昭和27年からは三島市が管理運営する都市公園である。自然林も残した庭園は、名勝だけでなく天然記念物にも指定されている。
 庭園の中ほどにある池は小浜池と呼び、富士山からの伏流水により満々と水を湛えていた。しかし、昭和30年代中ごろからの地下水汲み上げなどにより、満水となることが少なくなってしまった。私の訪れた日も水位20cmほどで、ほとんど池底が見える状態であった。

楽寿園マップ

 池の畔に建つ瀟洒な建物は「楽寿館」といい、京間風の高床式数寄屋造りである。明治20年代の日本画壇を代表する、野口幽谷などが描いた襖絵や天井画などが飾られている。建物は三島市の、絵画などは県の文化財に指定されている。
 庭園の樹木は、この地に自生する樹木を活かしながら、要所要所に庭木を植えたものである。姿形のよい赤松も多く植えられているが、その内の何本かがマツクイムシのせいで元気のないのが気になった。熔岩の上に重なるように根を伸ばした樹木も多く、この庭の古さを示すとともに 「根張り」 の見所にもなっている。

楽寿園D

三島の三ケ所用水

 三島は、富士山と箱根山の間の谷あいにある。三嶋大社の門前町であり、江戸時代には東海道の宿場町であった。三島駅近くの白滝公園には、富士山の伏流水が湧き出ていて、灌漑用水として南へ流れている。この水は三島宿、錦田村、中郷村の三か所の農業用水として利用されたことから 「三ケ所用水」 と名付けられている。
 水源近くには、水面に張り出すように白滝観音堂が建てられている。ここには平安時代末期からお堂があって、観世音菩薩がお祀りされている。当初はお堂の傍らに、白いしぶきをあげる滝が落ちていたので、白滝観音と尊称されたという。

三島マップ

 富士山の雪解け水が土の下にもぐり、浄化されて湧き出す水なのでとても綺麗である。清流にしか棲まない魚 「はや」 が泳いでいるという。透き通った川底には、これまた綺麗な水にしか生育しないバイカモ (ミシマバイカモ) を見ることができた。用水の横には散策路があり、所々に文学碑が立てられている。写真左に見えるのは、正岡子規の句碑で “面白や どの橋からも 秋の不二” と刻まれている。

三島E
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ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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Author:FC2USER480348EQK
森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
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