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万治の石仏

 春宮の近く、砥川を100mほど遡ったところに、心温まるような石仏がお座りになっている。伝説によると、春宮に石の大鳥居を造るとき、この石を材料にしようとノミを入れたところ傷口から血が流れ出したので、石工たちはおそれを感じて仕事を止めてしまったとのこと。
 その夜石工の夢枕に、上原 (茅野市) に良材があると告げられ、そこで見つけた石材で鳥居を完成することができたのだという。石工たちは、この大石に阿弥陀如来を祀って記念とした。万治3年11月1日 (1660) のことである。

石仏C

 この日本人離れしたお顔の仏さまを地元の人たちは大切に守ってきて、地籍も字石仏としている。昭和になって、かの有名な彫刻家・岡本太郎や小説家・新田次郎が絶賛したことから一躍話題となり、雑誌などに紹介されるとともに、訪れる人も多くなった。
 近くには、諏訪湖に注ぎ込む清流・砥川が流れている。石仏の隣に大きな中州があって、赤い橋で渡れるようになっている。この島は、どんなに大水が出ても絶対に流されないので、下社の七不思議に数えられている。

石仏マップ

諏訪大社(下社・春宮)

 秋宮から、さらに1kmほど奥まった砥川のほとりに、春宮が鎮座している。中山道からの入口には立派な石造りの鳥居があり、その右に大きく諏訪大社と刻まれた石柱が立っている。境内は、本宮、秋宮同様に鬱蒼とした樹林で覆われている。
 このあたりの植生は、ケヤキやカツラなど落葉広葉樹とスギ、ヒノキといった針葉樹との混交林である。その点で、シイノキやクスノキなどの常緑広葉樹に覆われる伊勢神宮や熱田神宮とは、景観を大きく異としている。春宮の御神体は杉である。

春宮マップ

 春宮の中心的建築は、正面中央にある拝殿と門を兼ねたような形式の幣拝殿、その左右にある回廊形式の片拝殿、それらの背後にある東西宝殿からなっている。その配置は秋宮と同じであるが、造営者は異なり地元の大工柴宮が請け負っている。幣拝殿は見事な彫刻で飾られているが、これは秋宮の棟梁と腕を競って彫られたものだという。
 下社の祭神は、2月から7月まで春宮に鎮座し、8月1日の御舟祭で秋宮に遷座して半年を経た後、2月1日に春宮に帰座することになっている。

春宮B

諏訪大社(下社・秋宮)

 下社は、上社とは諏訪湖を挟んだ反対側にある。上社本宮の御神体は山 (守屋山) であるが、下社は樹木で、春宮は杉、秋宮はイチイであるという。いずれも本殿を持たず、自然そのものを御神体とする古い神社形態を残している。
 秋宮の社殿は、中央に幣拝殿があり、その左右に片拝殿がある。どちらも安永10年 (1791)、諏訪高島藩主の命により、立川流初代棟梁が造営したものである。幣拝殿は二重楼門造りで、全体に見事な彫刻が施されている。

秋宮C

 左右の片拝殿の前面に、幹肌の白い珍しい樹木が植えられている。銘板が添えられていて、昭和天皇ご天覧の白松(三葉の松)であるとの説明が記されている。枯れ落ちた松の葉は、ほとんどバラバラになってしまうが、ごく稀に3本揃っているものがあり、それを拾うと縁起が良いとのことである。
 社殿の周りは鬱蒼とした樹林で、神楽殿 (下の写真) の横にはケヤキやスギの大木が聳えている。この日は、空が真っ青な晴天で、その下で見事な菊の展覧会が開かれていた。

秋宮D

諏訪大社(上社)

 天下の奇祭 「御柱祭」 で有名な諏訪大社は、長野県の中央にある諏訪湖の湖畔に鎮座している。
我が国で最も古い神社の一つで、信濃国一之宮に位置付けられ、全国1万を超える諏訪神社の総本社でもある。御祭神として、大国主命の御子 「建御名方神 (たけみなかたのかみ) 」 とその妃 「八坂刀売神 (やさかとめのかみ) 」 が祀られている。
 諏訪大社は、諏訪湖を挟んで南の上社と北の下社からなっている。さらに上社は本宮と前宮、下社は春宮と秋宮に分かれている。この神社の御社殿は、前宮を除いて本殿はなく、幣殿や拝殿、あるいは両方を兼ねた幣拝殿が建てられている。その多くは、国の重要文化財に指定されている。

諏訪上社マップ

 上社本宮の参道を歩き、その両側に生い茂る樹木を調べてみた。最も目を見張るのはケヤキの大木で、直径2mを超すような古木を何本も見ることができた。その中でも 「二の柱」 近くにある 「大欅」 は境内最古といわれ、樹齢1000年と推定されている。次に目立つのはスギ、ヒノキ、サワラ、モミ、ツガといった針葉樹で、直径5~60cmほどの大木が林立している。
 小さな樹でありながら立派な柵で保護されているのは、「榖の木 (かじのき) 」 である。高島藩主諏訪氏の家紋にも使われ、上社、下社の神紋としてもデザイン化されている植物 (コウゾの仲間) である。

諏訪上社A

桑名宿

                                              ≪再掲」2014・3・15≫
 東海道本線や名神高速道路が名古屋から岐阜へ上がり、関が原を抜けて京都・大阪へ向かうので、このルートが“東海道”と思いがちであるが、元々の東海道はもっと南を通る道である。名古屋熱田湊(宮の宿)から渡し舟で桑名まで渡り(「七里の渡し」と言う)亀山を経由するルートであり、現在整備中の新名神高速道路がこれに近い。関が原は、旧中山道の通過点である。

桑名A

 桑名宿も熱田宿同様に、渡し舟を待つ旅人で賑わっていた。湊の西には舟番所や高札場が、南側には舟会所や人馬問屋などがあり、大名などが泊まる本陣もあった。しかし、昭和34年の伊勢湾台風により大被害を受け、港の外側に堤防が築かれたので、今では江戸時代と大きく異なる風景を見せている。
 「宮の渡し」には熱田神宮の最初の鳥居が立っていたが、「桑名の湊」には伊勢神宮への第一の鳥居が立っている。江戸方面からはるばるお伊勢参りに来た旅人が、伊勢の国に到着して最初にくぐる鳥居である。20年ごとに行われる式年遷宮のおり、内宮・外宮古殿の棟持柱は、宇治橋前後の鳥居として再利用される。その時にそれまで立っていた鳥居は、今度は「関宿」と「桑名湊」に移設されて、東海道から伊勢へ向かうための最初の鳥居となるのである。
桑名マップ

飯田市塚原古墳群

 対岸に南アルプスとその手前の伊那山脈を望む、天竜川右岸の河岸段丘に16基の古墳が築かれていた。塚原古墳群という。地名の塚原は、古くから「墓」すなわち「塚」の存在が知られていて、塚のたくさんある「原」であることを示している。
 下の写真は、その中心の「塚原二子塚古墳」で、長さ76mの前方後円墳である。この他に、「鏡塚」や「鎧塚」 など5基の古墳が残されている。そのうちの3基は、長さ50mほどの 「帆立貝型古墳」 という特殊な平面形をしている。

塚原古墳A

 地元の小学校に保管されている馬具などの出土品からみると、造られた年代は、5世紀後半から6世紀の前半ではないかと思われている。この時代、この地の豪族は、馬の生産を通じて中央の政権と深く関わっていたようである。日本全体で見ると、このような狭い山間部に、これほどの古墳文化が花開いていたことは、特異な存在であったと考えられている。
 ソバなどの花が咲く畑の中に、綺麗に草刈された “二子山” があった。周辺には標識やマップの付いた説明版があり、塚の裾にはサルビアの花も植えられていた。

塚原古墳マップ

有松の町並み

 昨日10月2日に、有松小学校の講堂で、「重伝建選定記念 ~有松の町並みを活かして~」 というシンポジウムが開催された。会場では、市長を始め地域の公職者や住民、選定に至るまでの調査を行なった学識者やまちづくりに興味をもつ人たちなど300人ほどが集まり、熱心なディスカッションが行なわれた。
 「重伝建地区」 とは、「重要伝統的建造物群保存地区」の略称である。文化財保護法の中で、伝統的な建造物を単独でなく、群としてその歴史的風致を保存しようとする制度である。そのため、塀、石垣といった工作物や庭園、水路といった環境物件も保存の対象となっている。

有松マップ2

 有松は、慶長13年 (1608) に、尾張藩の移住奨励により桶狭間村から独立して開かれた有松村を起源としている。移住者が考案した 「有松絞 (しぼり) 」 が東海道往来者に知れ渡り、産業として大いに発達した。町並みは、絞り商の豪壮な店舗兼住居が建並ぶところに特徴がある。
 重伝建地区は、すでに全国に112か所指定されている。有松はその111番目、愛知県では、足助に次いで2番目と出遅れたが、町並みを保存するという考え方は、最も先端的であったという。大都会に立地するために選択肢が多様であり、関係する住民も多いことから指定までに時間が必要であったようである。
 この日は、恒例の 「山車まつり」 の当日で、3両の山車が町内を練り歩いていた。

有松E

宮の渡し 

≪再掲:2015・4・7≫
 笠寺から東海道を上ると、次の宿場町は「宮」である。宮とは熱田神宮、宮の渡しとは熱田湊のこと。ここから桑名の渡しまでは東海道唯一の海路で、「七里の渡し」とも呼ばれた。天候による足止めなどもあるため、熱田の宿と桑名の宿は、旅籠の数など全国一二の規模であったという。
 有名な歌川(安藤)広重の「東海道五拾三次」の浮世絵にも、「宮」は港の風景として描かれている。帆船や岸壁の石積みなどが描かれる中、右端には常夜灯や熱田神宮の浜鳥居が描かれ、当時の様子を彷彿とさせている。下方に描かれている城郭風の建築物は「浜御殿」である。

宮の宿1

 現在この地は、堀川と新堀川が合流して名古屋港へと流れる交差点であり、歴史公園「宮の渡し公園」となっている。この公園には、昭和30年に復元されたという「常夜灯」が今も残っている。その隣に聳えている鐘楼は、「時の鐘」という。時の鐘は旅人に正確な時刻を知らせるため、尾張二代藩主徳川光友の命により、熱田神宮南に隣接する蔵福寺に設置されたものである。昭和20年の戦火により消失してしまったが、昭和58年に場所を移してこの公園に復元された。

宮の宿2
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ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:「園長さんのガーデンライフ」
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