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中津川宿の「うだつ」
中山道は、名の通り山の中を進む道である。全長135里 (約530km) におよび、69の宿場があるが、そのうち28 (40%) もの宿が長野・岐阜両県に置かれていた。中津川宿は、奈良・平安の時代から街道の要所であり、中山道の中でも特に賑わった宿場のひとつである。
全長1100m、本陣・脇本陣・旅籠30が軒を並べていた。中津川と四ツ目川に挟まれ、直角の曲がり角「枡形」に当たる位置に二つの立派な建物が残されている。下の写真は造り酒屋で、4本もの 「うだつ」 が上がっている。「うだつ」 は、隣家からの延焼を防ぐ防火のための壁に屋根を付けたものであるが、裕福な家しか上げることができなかったので「うだつがあがらない」という慣用句ができた。蒸し上げたお米を保温するため、藁縄で丁寧に巻かれた大樽が展示されていた。

造酒屋との対角線に、面白い形をした 「うだつ」 がある。旧中川家の一部で、2軒が連なる長屋になっている。街道に接する壁の上に立つ 「うだつ」 が、2か所で 「への字」 に曲がっていて個性的である。案内看板には説明されていなかったが、道路が同じ形で曲がっており、道路際いっぱいまで家を建てたため、壁・うだつともに曲げて作ったものと思われる。

全長1100m、本陣・脇本陣・旅籠30が軒を並べていた。中津川と四ツ目川に挟まれ、直角の曲がり角「枡形」に当たる位置に二つの立派な建物が残されている。下の写真は造り酒屋で、4本もの 「うだつ」 が上がっている。「うだつ」 は、隣家からの延焼を防ぐ防火のための壁に屋根を付けたものであるが、裕福な家しか上げることができなかったので「うだつがあがらない」という慣用句ができた。蒸し上げたお米を保温するため、藁縄で丁寧に巻かれた大樽が展示されていた。

造酒屋との対角線に、面白い形をした 「うだつ」 がある。旧中川家の一部で、2軒が連なる長屋になっている。街道に接する壁の上に立つ 「うだつ」 が、2か所で 「への字」 に曲がっていて個性的である。案内看板には説明されていなかったが、道路が同じ形で曲がっており、道路際いっぱいまで家を建てたため、壁・うだつともに曲げて作ったものと思われる。

岩村の城下町
駅に隣接する喫茶店で電動のレンタサイクルを借り、岩村の城下町を散策した。城郭自体は急な坂や階段であるが、城下町もお城へ向かって緩やかな登りになっている。寄せ手に対して、坂の上から攻撃できる山城の有利な形態であると思われる。
古い町並みは、近世以来の商業活動によって栄えた商家により構成されている。全体によく保存整備されており、重要伝統的建造物群保存地区 (重伝建) に指定されている。ちょうど、町の文化や楽しみを紹介するテレビレポートのクルーが取材しているところだった。

町の中ごろで、古い建物の改修工事が行なわれていた。「曳家」 により移動するのかと思って近くの人に聞くと、基礎を頑丈にするため一旦持ち上げているのだという。地震に対する備えであろうが、古い建物を保存するには多くの費用も必要である。

江戸時代に建てられ、藩主も度々訪れたという木村邸は、玄関・座敷・書院・庭園などがよく保存されている。囲炉裏のある部屋もあって、町屋の文化と風情を味わうことができる。道路沿いに杉玉を飾っている造り酒屋の奥には、土蔵などで囲まれた中庭があって、地元の山野草などが植え込まれていた。

古い町並みは、近世以来の商業活動によって栄えた商家により構成されている。全体によく保存整備されており、重要伝統的建造物群保存地区 (重伝建) に指定されている。ちょうど、町の文化や楽しみを紹介するテレビレポートのクルーが取材しているところだった。

町の中ごろで、古い建物の改修工事が行なわれていた。「曳家」 により移動するのかと思って近くの人に聞くと、基礎を頑丈にするため一旦持ち上げているのだという。地震に対する備えであろうが、古い建物を保存するには多くの費用も必要である。

江戸時代に建てられ、藩主も度々訪れたという木村邸は、玄関・座敷・書院・庭園などがよく保存されている。囲炉裏のある部屋もあって、町屋の文化と風情を味わうことができる。道路沿いに杉玉を飾っている造り酒屋の奥には、土蔵などで囲まれた中庭があって、地元の山野草などが植え込まれていた。

岩村城
ブログの発信がずいぶんと間が空いてしまいました。12月に入って初めての更新です。実は私のパソコンが壊れてしまったのです。大量の写真やデータが取り出せなくなってしまいましたので、青ざめてしまいましたが、何とか直すことができました。また、気を取り直して発信してまいりますので、アクセスいただきますよろしくお願いいたします。
岩村城の歴史は古く、鎌倉中期の文治元年 (1185) にまで遡るという。頼朝の重臣加藤氏 (後に遠山氏) が代々居城としてきたが、戦国時代に大きな波乱があった。この地は、甲斐の武田氏にとって上洛のためにはどうしても欲しい場所であり、尾張の織田家にとっても、信濃への道筋の拠点に当たる重要な地であった。
女城主として名高い “岩村御前” は、織田信長の叔母に当たる女性だという。武田勢の大軍に包囲されながらよく耐えて戦ったが、ついに和議に応じて武田方に付いてしまった。時移って武田が長篠の合戦で大敗した後、岩村城は信長軍に包囲され、岩村御前も和議を許されずに滅ぼされてしまったという。

岩村城は、日本百名城に選ばれ、また日本三大山城にも数えられている。本丸は、海抜717mもの高地にあり、一之門をくぐってからも更に急な階段や坂道を登ったところにある。右の写真はずっと下方にある太鼓櫓で、藩主の邸宅や藩校「知新館」の近くにある。
知新館正門の横に綺麗に紅葉した樹形の美しい木があった。説明板によると、ウルシ科のトネリコバハゼノキという種類で、中国では「楷樹」といい孔子の墓所に植えられているという。日本には、湯島聖堂など儒学と特別な関係のあるところに分け与えられていて、この木は湯島聖堂から苗木を譲られたものだという。

岩村城の歴史は古く、鎌倉中期の文治元年 (1185) にまで遡るという。頼朝の重臣加藤氏 (後に遠山氏) が代々居城としてきたが、戦国時代に大きな波乱があった。この地は、甲斐の武田氏にとって上洛のためにはどうしても欲しい場所であり、尾張の織田家にとっても、信濃への道筋の拠点に当たる重要な地であった。
女城主として名高い “岩村御前” は、織田信長の叔母に当たる女性だという。武田勢の大軍に包囲されながらよく耐えて戦ったが、ついに和議に応じて武田方に付いてしまった。時移って武田が長篠の合戦で大敗した後、岩村城は信長軍に包囲され、岩村御前も和議を許されずに滅ぼされてしまったという。

岩村城は、日本百名城に選ばれ、また日本三大山城にも数えられている。本丸は、海抜717mもの高地にあり、一之門をくぐってからも更に急な階段や坂道を登ったところにある。右の写真はずっと下方にある太鼓櫓で、藩主の邸宅や藩校「知新館」の近くにある。
知新館正門の横に綺麗に紅葉した樹形の美しい木があった。説明板によると、ウルシ科のトネリコバハゼノキという種類で、中国では「楷樹」といい孔子の墓所に植えられているという。日本には、湯島聖堂など儒学と特別な関係のあるところに分け与えられていて、この木は湯島聖堂から苗木を譲られたものだという。
