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飛騨古川の瀬戸川と白壁土蔵街

 高山市を過ぎ、富山に向かってさらに北上すると古川の町に至る。この町は戦国時代、秀吉の命を受けた金森氏が飛騨を統一して増島城を築いたのが始まりで、その城下町を基にしてできた町並みである。高山と同様に、飛騨の匠の手による伝統的な木造建築が軒を連ね、新しい建物も周囲との調和を考えて建てられていて、美しい町並みが保存されている。
 町の真ん中を流れる 「瀬戸川」 は、約400年前に増島城の濠の水を利用して、新田開発のために掘られた用水である。まつり会館や匠文化館のあるまつり広場から東に向かって歩くと、美しい水の流れる水路と、平行して軒を並べる白壁土蔵の街を見ることができる

古川水路マップ

 昔の瀬戸川は、野菜なども洗えるきれいな水流だったが、高度成長の時代に著しく汚れてしまった。しかし今は、町の人たちの活動により美しい水を取り戻している。昭和43年に放流された錦鯉が群れを成して泳ぐ風景は、古川の町のシンボルともなっている。
 水路の所々に、水面まで下りることのできる階段が残っているが、これは洗い物のときに使ったなごりであろう。瀬戸川の南側、造り酒屋や和ろうそく店が軒を並べる本通りにも、幅の狭い水路が走っている。この美しい側溝も御影石で造られており、渡りのための石橋もこだわりの造形を見せている。

古川水路A

日本最古の石(放射性同位元素による年代測定)

 放射性同位元素は、α線などの放射線を放射して別の元素に変わっていく。例えば、「ウラン238」 は最終的に 「鉛206」 になる。このときのウランを 「親元素」 といい、鉛を 「娘元素」 という。
 親元素の数が半分になる時間は一定であり、それを 「半減期」 という。ウラン238の半減期は44億6800万年であるという。この性質を利用して、考古学資料や岩石などの年代を測定する方法を 「放射性同位元素による年代測定法」 という。

最古の石マップ

 岐阜県七宗町の飛騨川は、長年の浸食により岩石が削られて川幅の狭い峡谷になっている。水・岩・森・山が美しいので 「飛水峡」 と呼ばれて観光名所となっている。高山本線・上麻生駅近くの国道41号線から青色のトラス橋を渡った対岸に、日本一古いといわれる岩石がある。
 「上麻生礫岩」 といい、昭和45年 (1970) に発見された。その礫岩中に含まれている片麻岩について放射性同位元素による年代測定を行なったところ日本列島最古・20億年前の石であることが判明した。このことは、学術的に地球誕生や列島形成の過程を知る上で、極めて貴重な要素を含んでいると考えられている。

最古の石A

太田宿のヤドリギ

 脇本陣の隣に中山道会館 「宿り木」 があり、その広場に大きなエノキがシンボルツリーとして聳えている。この老大木は美濃加茂市の保存樹に指定されている。興味深いことは、エノキだけでなく、この樹に寄生しているヤドリギも含めて保存が定められていることである。
 エノキの大木も貴重であるし、ヤドリギも珍しい植物であるので、両者を合わせて保存樹に指定したと思われるのだが、今、困った状態になっている。それは、ヤドリギが繁茂しすぎてエノキの樹勢が弱ってきていることである。現在、樹勢回復の方法を探るため、樹木医に依頼して調査を行なっているとの標示が出されていた。

太田宿ヤドリギマップ

 エノキには野鳥の好む実がたくさん成るし、ヤドリギの実も小鳥に餌を運んでもらうために美味しい果実を枝いっぱいに実らせる。越冬のために飛来してくるヒレンジャクなどの野鳥が、この実を目的に集まってくるという。保存は、そのような自然環境全体を保護しようとするものであろう。
 他の樹の枝に自分の根を食い込ませ、水分や養分を奪い取る 「寄生植物」 は、鳥によって種を運ばせるものが多い。「ヤドリギ」 は、エノキやサクラなどに寄生し、大きな球形の株になる。鳥の糞により、高い位置の枝に付着して発芽する。「ヒノキバヤドリギ」 は、ヒノキの葉に似た形の小さな植物で、ツバキやアセビに寄生する。小さな種子は弾けて飛び出し粘質物で近くの枝に着く。グミのような赤い実を付ける 「マツグミ」 は、マツやモミなどに寄生する。以前、御油宿の東海道松並木でご紹介した。(2015・7・21の記事参照)

太田宿ヤドリギE

中山道太田宿の脇本陣

 木曽川が飛騨川と合流し、山地を出たところに美濃太田の平地がある。木曽川は再び鵜沼と犬山の谷間を抜けていよいよ濃尾平野へと流れ出すのである。中山道はここで木曽川を渡ることとなるが、昭和2年 (1927) に太田橋が架かるまでは渡し舟に頼っていた。歌川広重の浮世絵にもその様子が描かれている。平常時で85間 (約155m) もある「太田の渡し」は、中山道の三大難所といわれていた。
 太田の宿は、東西の長さ6町余 (約700m)、本陣・脇本陣・問屋場・旅籠屋など118軒が軒を連ねていた。また宿の西には 「尾張殿地方役人出張役所」 が置かれていた。木曽川を所領する尾張藩にとってこの地は、木曽川を渡った対岸 「美濃」 への橋頭堡であり、中山道を押さえる重要な拠点だったのであろう。

太田宿マップ

 宿場の中ほどに、元本陣の立派な門 (下の写真) が残されている。これは、皇女和宮が徳川14代家茂に嫁ぐため下向した際に新築されたものだという。本陣の門の向い側にある脇本陣は、ほぼ原型のまま保存・使用されている。「旧太田脇本陣林家住宅」 と称し、国の重要文化財に指定されている。主屋は明和6年 (1769) に造られ、表門や袖塀・裏の土蔵などは天保2年 (1831)に建築されたという。主屋の両端には 「うだつ」 があり、この建物の権威を示している。
 この脇本陣には、歴史に残る多くの旅人が宿泊した。槍ヶ岳に初めて登頂して開山した播隆上人は、度々太田宿を訪れ、この林家で没することとなった。板垣退助は明治14年、岐阜で遊説中に刺客に刺され “板垣死すとも自由は死せず” と絶叫して亡くなったが、その前日に逗留したのもこの宿であった。

太田宿A

(ご当主の林由是氏は、昨年末に97歳でお亡くなりになりました。氏は、名古屋花菖蒲会の重鎮として長く会を支えられました。ここに哀悼の意を表します。)

犬山有楽苑の「如庵」

 犬山城の東側、名鉄ホテル南側の庭園 「有楽苑」 の中に国宝 「如庵」 が建てられている。「有楽」 とは、織田有楽斎 (1547~1621) のこと。信長の実弟で 「茶の湯」 創成期に、尾張の生んだ大茶匠である。有楽はもともと武将であったが、晩年は武家を捨て茶人となり、京都建仁寺の正伝院を隠棲の地とした。
 「如庵」 は、その境内に元和4年 (1618) ごろ建てた茶室である。二畳半台目で屋根は柿葺、有楽好みの端正な外観を示している。明治以降は各地を転々とする事態となったが、ようやく有楽の生まれ故郷のこの地に帰りついたのである。隣の建物は、同じように移転してきた 「旧正伝院書院」 であり、国の重要文化財に指定されている。

有楽苑マップ

 建仁寺の塔頭の多くは、明治の廃仏毀釈により廃寺となった。細川家始祖の菩提寺 「永源庵」 も廃止されることとなったが、正伝院と合わせて 「正伝永源院」 とすることにより、その名を残せることとなった。正伝院は、永源庵の地に移転することとなったので、その建物のうち 「如庵」 や 「書院」 は手放さなければならなくなったのであろう。一時は東京に移転していたが、犬山に安住の地を得たのである。
 現在、正伝永源院には、同じような姿形に復元された如庵が建てられている。また、寺の入口近くには、織田有楽斎の石塔が建てられていて、有楽斎の事跡を留めている。

有楽苑B

犬山の鵜飼

 鵜飼は、鵜 (海鵜) を訓練し、鮎などの川魚を捕らせる古代漁法である。日本では1300年もの伝統を誇るという。先だって、犬山の木曽川で見学することができた。鵜舟は舳先にかがり火を焚き、鵜匠と船頭2人 (なか乗りととも乗り) が絶妙なコンビネーションで川を下りながら漁をする。
 鵜匠は手に手縄をつけ、縄が交わらないように巧みな手さばきで10羽ほどの鵜を操る。この日の鵜匠は、この地方初めての女性であった。見学者は、犬山遊園駅近くの乗船場から屋形船に乗り、鵜舟に並走しながら、この歴史絵巻を間近に見ることができる。

犬山鵜飼マップ

 下右の写真 (ブログ「園長さんのガーデンライフ」より転載) は、野生のウである。名古屋港ワイルドフラワーガーデン「ブルーボネット」とガーデン埠頭とを結ぶ、水上バスの船着場で撮影した。名古屋港のこの辺りは、ボラなどの魚が多いため、ウの格好の餌捕り場になっている。朝は数100羽が編隊を組んで飛び回り、午後はグループに分かれて休息している様子が見られる。

犬山鵜飼C

 正月から3回連続で、鳥の話題を掲載しました。「朱雀」 「コウノトリ」 「鵜」 です。
 鳥といえば・・・東山動植物園では、昨年暮れにトリインフルエンザが見つかり、休園を続けてきました。しかし、鳥の隔離や消毒などを行なうことでようやく収拾することができ、この13日から開園できることになりました。動物園を訪れることを楽しみにしている子供たちから、たくさん応援の手紙が寄せられたといいます。

コウノトリと電柱

 ハンガリーからクロアチアへ向かう道で、コウノトリを見つけた。電信棒 (?) の上に大きな巣があり、ヒナが親鳥の運ぶ餌を待っている。普通3羽ほどというが、右の写真は4羽とまっている。体はほとんど親と同じくらいに成長しているので、その中に親鳥がいるのかもしれない。
 このような風景はさほど珍しいものでなく、屋根の煙突の上などにも時々見かけることがある。ヨーロッパの人たちには、身近に見られる鳥であることから、“人の赤ちゃんはコウノトリが運んでくる” といった、寓話が生まれたのかもしれない。

コウノトリE

 ヨーロッパの農村は、ムギやヒマワリなどの 「畑」 と 「牧草地」、そして 「森」 の3つに分かれている。町は一定の区域内にあって、次の町までの間は農地で隔てられている。町の中心には、ひときわ高い尖塔をもつ教会があり、その前には必ず広場があって、人々の集いの場となっている。
 農村のせいか、まだ古い形式の電柱が残っている。日本のコンクリート電柱はほとんどが、「テーパーポール」 という根元が太く上に行くほど細くなる円柱であるが、こちらは角柱である。丸い型枠に鉄骨を組んでコンクリートを入れ、遠心力をかけて成型するという 「テーパーポール」 の技術ができる以前につくられたものと思われる。

コウノトリF

飛鳥「キトラ古墳」

 平成29年・2017年が始まりました。干支 (えと) は酉年ですので、鳥に因んだ話題から・・・
 昨秋、奈良・飛鳥を訪ねました。キトラ古墳の見学が目的です。国営 「飛鳥歴史公園」 5地区のうちキトラ地区は現在整備中でしたが、「四神の館」 「キトラ古墳壁画体験館」 は完成していて観ることができました。
 館内には、キトラ古墳の玄室が実物どおりに再現されており、四方の壁に描かれた四神の壁画を見ることができます。正面・北側の壁には蛇と亀が絡み合う 「玄武」、右側・東には 「青龍」、左側・西は 「白虎」 が描かれています。入口・南の石扉の裏側に「朱雀」 が見事に残っています。鎌倉時代に盗掘されていますが、扉をこじ開けるために破砕した部分が、かろうじて壁画にかからなかったのです。キジのように細身で頭に冠のような飾りをつけた朱雀が、今まさに飛び立たんとする姿が描かれています。

キトラ古墳F

 キトラ古墳は、体験館から少し登った丘の上にありました。古墳からは平地の集落がかなり下方に望めます。斜面上の円墳は、直径9.4m、高さ2.4mという小さくて可愛らしい形をしています。7~8世紀に造られたもので、天武天皇の皇子もしくは側近の高官のお墓だと考えられています。1983年に発見されて、大きな話題を呼びました。大陸風壁画のあるこの古墳は、高松塚古墳に匹敵する重要な遺跡として「特別史跡」に指定されています。

キトラ古墳G
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ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:「園長さんのガーデンライフ」
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