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天白川の橋 その9

 天白区役所あたりまで来ると、川幅がずいぶんと広くなり芝生地や散歩道などのある公園になっている。河川の断面は、常時水の流れる部分と大雨などの時だけ水に浸かる 「高水敷き」 とに区分される。高水敷きは普段は陸地になっていて、植物などが繁茂している。この部分を、河川管理者から公園管理者が借り受けて (占用許可という) 公園として市民に利用していただいている。このような公園を 「河川敷緑地」 という。

新島田H
新島田マップ

 この緑地を散策したり、近くの保呂公園を利用する人たちがよく渡るのが 「天白緑地橋」 である。人道橋としては道幅も広く、雰囲気の良いレンガ風の舗装が施してある。さらに、散歩の途中で歩を休め、川の景観を眺められるように半円形のデッキが設けられている。最初の写真も、このデッキから撮ったものである。
 名古屋市の都心部では、堀川に架かる「納屋橋」にも同様なデッキがあって、「広ブラ」 (広小路を夕方ブラブラ歩くこと=今では死語?) する人々のちょっとした憩いの空間になっている。

新島田I
新島田J


天白川の橋 その8

 「平子橋」 を渡る路線は、県道59号線を北沢交差点で枝分かれして、野並住宅近くを通って地下鉄桜通線・桜本町駅に至る道路である。青く塗られた桁橋である。
 もうひとつ北を走る菅田橋との間に、人道峡があり 「野中橋」 と呼ぶ。野並住宅から、中根小学校方面へ渡るのに便利な橋である。桁は、鮮やかな緑色に塗られている。
 赤い色の 「菅田橋」 は、東西でなく南北に走って八事へ至る道である。途中、昭和高校前で左に折れ、弥富通りを経て瑞穂運動場方面へ進むことができる。この橋には、欄干の端に親柱があり、レリーフの彫刻が設置されている。

平子橋A
平子橋B
平子橋C

 菅田橋を西に渡ってすぐの左側に、中根公園という1haほどの公園がある。この公園ですぐに目に入るのは、広場の真ん中に座っている真っ赤なタコのモニュメントである。これは、「プレイ-スカルプチュア」 という遊具で、タコの頭が小山、足が滑り台になっている。
 造園の百科事典によれば、北欧で発達したものであるが、単なる鑑賞のための彫刻でなく、子供が体でぶつかって楽しめる造形作品を目指したものだという。ひところ流行りもあり、名古屋でもいくつか造られたが、普通の富士山などの形をした 「石の山」 の方が多く設置されるようになった。
 公園の端に小さなトイレがあるが、これも可愛らしいデザインになっていた。

平子橋マップ

天龍峡大橋(仮称=建設中)

 三遠南信自動車道 (国道474号) は、三河・遠州 (浜松) と南信州 (飯田) を結ぶ、延長約100kmの高規格道路である。飯田方面からは現在、中央自動車道・飯田山本インターから、天竜峡までが共用されているが、その先、龍江へ向けて工事が進んでいる。
 その中でも最も大規模なのは 「天龍峡大橋」 の建設である。来年度の開通を目指して、着々と工事が進んでいる。橋の長さは280m、形式は鋼上式アーチ橋 (バスケットハンドル型固定アーチ) である。架設の方法は、ケーブル工エレクション斜吊り工法という。

天龍峡大橋マップ

 建設場所は、天龍奥三河国定公園の名勝 「天龍峡」 である。天竜川が深く刻み込んだ断崖絶壁が続く渓谷は、新緑・紅葉の美しい風光明媚な観光地である。橋の形状は、渓谷によく調和するように、スレンダーなアーチを採用した。色彩も周辺の景観に馴染むように 「山鳩色」 にする予定である (上の写真:現地に設置された広報看板)。大橋は自動車専用のため自動車しか通行できないが、桁下に幅2mの歩道を設置し、天龍峡周遊歩道の一部として魅力向上を図ることになっている。
 現在、川の両側に仮設の鉄塔が組まれ、ケーブルにより部材を運搬している (下左の写真)。最近、アーチが繋がり、天竜川の上空に完成を予想できるような姿が現れている。散策路途中の吊橋から下流を見ると、橋の下にJR飯田線の鉄橋や 「天龍下り」の船を見ることができる (下右の写真)。
 さらに下の3枚の写真は、天龍峡の渓谷美を写したものである。スリル満点の吊橋は、よくサスペンス・ドラマの舞台として登場する (このブログでも、平成26年8月15日に紹介した)。

天龍峡大橋H
天龍峡大橋I

刈谷の「依佐美送信所」跡地

 かつて刈谷の田園地帯に、高さ250m、名古屋のテレビ等よりはるかに高い鉄塔が聳えていた。「依佐美送信所」 と呼ばれ、8基の鉄塔が長さ1800m、16条の長波アンテナを支えていた。周りに高い建物もないので遠くからでもよく見えて、一種のランドマークにもなっていた。
 第一次世界大戦が始まった大正3年当時は、日本と海外との通信は3本の海底ケーブルのみで、その全てが欧米の通信会社の所有であった。そうした中、大正14年に逓信省が、依佐美村に送信所の建設を決定し、昭和3年着工、4年に完成する運びとなった。同年にワルシャワへの送信が開始されたのである。一時期、短波需要が拡大し依佐美の役割は減ったが、潜水艦への水中の通信のためには長波の方が有利なため、再び利用が活発となった。(写真左は、平成9年に撤去された後に残された鉄塔の基部と記念館、右は、直流の発電機である。)

よさみA

 第二次大戦後は在日アメリカ海軍に接収され、米軍潜水艦の通信に使用されることとなった。しかし、平成6年には役割を終えて日本に返還され、9年に撤去されることとなったのである。跡地は、基礎だけのモニュメントが残され、記念館とともに歴史の語り部となっている。
 約3.5haという広大な敷地は、公園として一般に開放され、遊具広場やイングリッシュガーデンとなっている。利用者の休憩や、ボランティアの人たちの集いのための 「フローラルプラザ」 には、小さなサンルームがあって、サボテンなどが植えられていた。

よさみマップ

天白川の橋 その7

 県道222号は、旧東海道である。このブログのマップから外れてはいるが、少し西には 「笠寺一里塚」 東には千句塚公園など、往時を偲ぶ遺跡がある。笠寺一里塚は平成25年2月19日にご紹介した。千句塚公園には、松尾芭蕉が自ら建立した唯一の石碑 「千鳥塚」 が立っている。貞享4年 (1887)、この地をおとずれたときの歌 “星崎の闇を見よやと啼く千鳥” が刻まれている。天白川を渡る橋は 「天白橋」 という。
 その上流には、地下鉄桜通線が通る 「東海通り」 が走っている。名古屋市東部から都心へ向かう重要な道路であり野並橋が架かっている。橋の西側に野並公園がある。この公園の堤防近くに、鉄塔があり、最上部にカメラが設置されている。分電版の蓋に「CCTV機側装置」と記してあり、野並橋や天白川の水位を絶えず監視する装置であろうか。

野並橋 M

 天白橋と野並橋の中間地点に、支流の藤川が流れ込んでいる。合流地点の2kmほど東に戸笠池があり、この池が源流となっている。小さな川ではあるが、大雨の時には多くの水が流れる重要な河川である。
 河口の名古屋港から5kmあまり遡ってきたが、このあたりまで来ると河川敷に緑が多いことに気づく。水面そのものより、洪水時に水の浸かる河川敷の幅が広い。そこには芝生が張られ、自転車やジョギングなどのできる散策路が通っている。遠く猿投山も見ることができ、なかなか景色の良い天白川である。

野並マップ


天白川の橋 その6

 東海道すなわち国道1号線の 「大慶橋」 から上流を見ると、名鉄本線の鉄橋が見える。名鉄本線は、豊橋から金山・名古屋を経由して岐阜へ向かう路線であるが、途中から河和線・常滑線が合流し、あるいは犬山線・津島線などが乗り入れてくるので、ダイヤは非常に密度が高い。それほど長い時間ではないのに、左右から往復する列車を何本も数えることができた。(上の写真)
 真ん中の写真は、県道36号諸輪名古屋線の 「星園橋」 である。この道路は、愛知郡東郷町と名古屋市港区を結ぶ主要道路で、扇川と並行して走っている。地下鉄徳重駅から名鉄鳴海駅近くを通る便利な道でもある。
 下の写真、淡緑色に塗られているのは自転車・歩行者用で 「星の宮人道橋」 という洒落た名前が付いている。近くに住宅団地もあり、堤防道路とともに散策陽にも使われている。

浦里E

 少し上流の左岸に、鳴海西部土地区画整理事業により生み出された面積約1.5haの近隣公園 「浦里公園」 がある。この公園の一角に立派な銅像が立っている。銘板には 「法学博士雉本朗造先生」 と刻まれている。ドイツに留学して民事訴訟法を学び、大正デモクラシーの時代に活躍した。地元で起きた 「鳴海小作争議」 でも大きな役割を果たしたという。

浦里マップ

天白川の橋その5

 天白川と扇川の合流地点にJR東海道線の鉄橋が架かっている。その10m程上流には、東海道新幹線が走っている。さらに500mほど離れて、東海道すなわち国道1号線が通っている。この3本は、我が国で最も重要な輸送路であり、この地点に災害などが発生して通行止めともなれば、大問題になること間違いない。
 国道1号線に架かる橋を 「大慶橋」 と呼ぶ。緑色に塗られた桁橋に、こげ茶色のガードパイプというシンプルな景観である。橋の端には、いわゆる 「親柱」 というようなものは見当たらず、橋の名前の刻まれた 「橋名板」 もついていない。自動車道路にとって橋は、特別なポイントではなく、通常の路線と同じ通過地点にすぎないのだろうか。

東海道線10

 新幹線のすぐ上流、天白川右岸の堤防の上に 「牛毛神社」 が鎮座している。もともとこの地は、天白川の砂州の発達した所だという。説明版には、創建は文政5年 (1823) と記してあるが、一説によれば太閤検地 (1582~95) のころには既にあったのではないかと考えられている。祭神は須佐之男命とあり、牛頭天王を祀ったものという。
 牛毛の名前は、ここが牛毛海岸のある牛毛村であったことに由来する。昔からの語り伝えによると、津島神社の御神符が毎年のように海岸に流れ着いたことから、村人はこれを神の御神意と解して社を建てたのだという。境内には、大きなムクノキが聳えていた。

東海道線11

豊明の湿地その2

 本命はこちらである。「赤花のナガバノイシモチソウ」、日本固有の新種であり、愛知県の天然記念物に指定されている。白花の種類は各地に自生しているが、赤花はとても珍しく、ここの他には豊橋市の一部に知られているにすぎない。ネットフェンスに囲まれた保護地は、小学校の教室ほどの狭いものであり、植物を踏まないようにデッキが張り巡らされている
 モウセンゴケ科の食虫植物であるが、名のとおり葉が長く、その表面にある腺毛から甘い匂いの粘液を分泌して昆虫を捕まえてしまう。右の写真は、ちょうど飛んできた蝶が粘液に張り付いてしまい身動きできなくなってしまった状態である。

豊明湿地その2マップ

 モウセンゴケ、ミミカキグサや、このイシモチソウなどの食虫植物は、いずれも極々小さな植物である。通常の肥沃な土壌では、とても他の大型植物には太刀打ちのできない弱い植物である。しかし、この湿地などのように、粘土層の表面に酸性の水が湧き出すような条件の悪い土地では、他の植物が生育できないために、昆虫を栄養とするよう進化した食虫植物が勝ち残ったのである。このような植物の分布を 「消極的生存競争」 という。
 知多半島から名古屋東部にかけての丘陵地帯には、このような湿地帯が数多く存在した。しかし、宅地などの開発に飲み込まれて消滅し、わずかな保護地でしか見られなくなってしまった。      
 下の写真は左からナガバノイシモチソウ、サギソウ、ヌマトラノオで、ちょうど花盛りであった

豊明湿地その2A

豊明の湿地その1

 豊明市にある2つの湿地を見学した。夏のこの時期5日間しか公開されない貴重な機会である。横浜からわざわざここを見るために来名した食虫植物研究家をご案内したのである。場所は、名古屋市の東どなりの豊明市、緑区勅使ケ池緑地の近くである。地下鉄徳重駅に近いが、公共交通機関がないので、どうしても車が頼りとなる。
 湿地は2か所あり、ひとつは 「大狭間湿地」 と名付けられている。豊明市側の 「勅使墓苑」 (名古屋市の墓苑 「勅使ケ池緑地」 とは異なる) に近く、その駐車場に車を止めてから徒歩10分ほどのところにある。

豊明湿地その1マップ

 面積は広くて、学校の運動場ほどもある。何本かの細道があり、一部は木道になっている。自然のミズゴケが生え、モウセンゴケやミミカキグサなどの食虫植物も見ることができる。ミズギクやミズギボウシといった湿地の植物も花が咲いていた。8月終わりから9月にかけて、一面を真っ白に染めるというシラタマホシクサは、まだ小さな蕾であった。
 今回の収穫は、ハッチョウトンボの雌を撮影できたことである。これまで、赤くて綺麗な雄は見たことがあるが、地味な色合いの雌は見たことがなかった。
 下に写真を添付します。長さ2cmほどの世界一小さなトンボです。もう2枚は黄色の花が咲くミミカキグサと、紫色のホザキノミミカキグサです。いずれも5cmほどと小さい食虫植物です。

豊明湿地その1A

天白川の橋 その4

 この地域の大動脈 「名四国道」 は、平面道路の橋を両側から挟むように、上下線が分離して架けられていて、3本の橋が重なっている。ここから上流を眺めると、川の中ほどに流れを分離するような中堤が見える。これは、この地点で合流する扇川を分流するための堤防である。
 この両川を跨ぐように、歩道橋が架けられている。青く塗られた2連のアーチ橋で、「大星橋」 という。石の親柱の左側に 「大星橋」、右側に 「天白川・扇川」 と記してある。

大星橋B

 扇川は、緑区藤塚の大池から発してこの地点まで、約10kmを流れる二級河川である。水源の大池は公園と一体となり、上流部の両側は緑道として桜並木の散歩道になっている。植栽後30年ほど過ぎたソメイヨシノはすくすくと育ち、今では新しい桜の名所になりつつある。
 少し戻って、須佐之男神社の隣に 「源兵衛公園」 という街区公園がある。この公園の砂場に、ブルーのシートがかけられている。これは、犬や猫の排便が砂の上で行なわれて、砂が汚染されるのを防ぐ目的で設置されたものという。砂場の外周を柵で囲う方法や、定期的な砂の清掃などが比較検討された結果、最も有効な方法と考えられている。

大星橋C
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ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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Author:FC2USER480348EQK
森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
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