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宇賀渓の吊り橋

 員弁川は、鈴鹿山脈と養老山脈の間の平野を流れる川である。鈴鹿山脈北端の御池岳を源流とし、いなべ市や東員町・桑名市を流れて伊勢湾に注ぐ。その中流域の員弁から西に向かう支流・宇賀川が山間部にかかるあたりに 「宇賀渓」 はある。
 宇賀渓キャンプ場の駐車場から見上げると、重なり合った山々の遠くに白い雪を被った竜ヶ岳が見える。宇賀渓は、竜ヶ岳に端を発する宇賀川が花崗岩を浸食してできた渓谷である。数多くの瀑布や深淵、白い砂利の州などがあってハイキングやキャンプ地として人気が高い。

宇賀渓マップ

 遊歩道を登っていくと、いくつかの橋を渡ることとなる。橋の上は視界が開けるので、川原や滝、遠くの山々までの美しい景色を見ることができる。写真左は 「北河内橋」、欄干も含めてコンクリート製で昭和30年に完成した。ここまでは車が通れるが、その先の北河内吊り橋は人のみが通ることができる。昭和31年に開通したこの橋は、延長30m、高さ7m、路面の板張りも簡易で、なかなか冒険心をくすぐる吊り橋である。
 桑名を基点とする国道421号線は、宇賀渓を過ぎるとつづれ折れの石榑峠 (いしぐれとうげ) を越える難所であった。しかし、2011年に延長4.5kmのトンネルができたことにより、八日市や近江八幡方面へ容易に行けるようになった。

宇賀渓G

清水寺背景の照葉樹林

 「清水の舞台から飛び降りる」 とは、“非常な決意をした” ことのたとえである。その清水寺は、広隆寺や鞍馬寺とともに、平安京遷都 (794) 以前からの歴史をもつ、数少ない寺院のひとつである。現在では、同じ東山山系の銀閣寺や西部の嵐山、金閣寺などと並んで、最も人気の高い観光名所になっている。ユネスコの世界遺産にも登録されている。
 両側にお店の並ぶ東山道の坂を上っていくと、正面に仁王門と三重の塔が見えてくる。門をくぐって、鐘楼やいくつかのお堂を過ぎると、いよいよハイライトの本堂に至る。本堂の屋根は、寄棟造りの桧皮葺きである。寛永10年 (1633)、徳川家光の寄進により建てられた。建物の前半分が山の斜面にせり出すように建てられており、ここを 「舞台」 と呼ぶ。上から見ても足がすくむが、下から見上げても、139本のケヤキの柱に支えられた舞台は怖く見える。

清水寺マップ

 石段上の、朱塗りの仁王門 (下左の写真) の背景に、こんもりとした照葉樹林の山が見える。冬でも葉を落とすことなく、緑色を保つ常緑広葉樹の森である。舞台からも、奥の院への道をさらに進んだ 「子安堂」 (下右の写真) を取り巻く、うっそうとした森を見ることができる。
 ここの照葉樹林は、シイノキ・クロバイ・サカキなどを構成種とし、この地域に自然に成立する植生である。しかし、長年、薪炭用として伐採されたため、アカマツや落葉広葉樹の森に変化していた。ところが、近年は松くい虫による松枯れや燃料革命の影響により、再び元のようなシイノキを中心とした照葉樹林に戻りつつあるという。

清水寺G

西本願寺のイチョウ

 京都駅から歩いていける距離に、大きなお寺が2つ並んでいる。向かって右が東本願寺、左が西本願寺である。いずれも浄土真宗のお寺であるが、東は大谷派、西は本願寺派の本山である。京都市民には馴染みの寺院で、それぞれ 「お東さん」 「お西さん」 の愛称で呼ばれている。
 先日北野天満宮へ行った後、西本願寺に立ち寄ってみた。バス停近くにある金色の阿弥陀門 (下右の写真) をくぐると、正面に大きな阿弥陀堂が見える。このお寺は、親鸞の廟堂として文永7年 (1272) に創建された後、各地を転々としたが、天正19年 (1591) に秀吉の寄進によりこの地に落ち着くことができた。

西本願寺マップ

 阿弥陀堂の南に建つ御影堂の前に、目を瞠るほど巨大で異様なイチョウの木を見ることができる。樹形が普通のイチョウと異なり、低い位置から水平に長い枝を伸ばしているのだ。これは植栽時から、剪定などの丁寧な手入れが行なわれたためと思われる。御影堂の建立が寛永13年 (1636) であるので、この木の樹齢は400年以上と推定される。
 この老木は、今日に至るまで何度も大火に遭遇しているが、火の粉をものともせずに生き抜いてきた。イチョウは樹皮も厚く耐火力の強い木である。東京都の街路樹にはイチョウが多く植えられていて、「都の木」 に選ばれている。昭和20年の終戦の年、焼け野原となった本郷あたりを歩いていた一人の植物学者 (矢頭献一) は、黒こげとなったイチョウの幹に芽生えた緑色の葉を発見して、生きる希望を与えられたとその著書 『植物百話』 に書き残している。

西本願寺G

農業センターの枝垂れ梅

 名古屋市天白区・地下鉄平針駅から東の方角に広大な荒池緑地が広がっていて、その中心に農業センターがある。もともとは、農業技術の研究や農家の指導のほか、一般市民にも農業について知ってもらうことを目的に昭和40年に開設された施設である。
 園内では、いろいろな品種の野菜や穀物が栽培されるとともに、牛や羊の放牧といった畜産も行なわれている。特に、この地方特産 「名古屋コーチン」 の最大生産地としても有名である。最近ではもうひとつの側面として、人々が憩い安らぐ「農業公園」としても親しまれている。子どもたちにとっては、東山動植物園と同じように 「生き物」 に出会える場としても人気がある。

農業センターマップ

 農業センターでは今が花の真っ盛りである。12品種700本もの規模をもつ枝垂れ梅の庭園は、全国屈指だといわれている。散策園路や芝生広場もあり、冬の寒さからようやく開放された人々がのびのびと花や陽光を楽しんでいた。
 この期間中には、地元農家の新鮮野菜の即売や動物との触れ合い広場などのイベントも開催されている。搾りたての牛乳やその牛乳を使ったソフトクリームも大人気である。名古屋市民だけでなく、広範囲からの行楽客も増えてきて、周辺道路が大渋滞する現象も起きている。

農業センターG

湯河原の梅林(再掲)

 さらに梅の話題を続けます。(2015・03・07掲載) 

 翌日、湯河原にも梅林があるというので訪ねてみた。この梅林は、谷間にある熱海の梅園とは趣を異とし、山の中腹一帯の斜面に広がっている。そのルーツは、戦後まもなく、崖崩れ対策と将来の観光資源を目的として、地元の人たちが植えたものだという。
 後ろに聳える 「幕山」 は、箱根火山の一部で、粘性の高いマグマが噴出して固まった溶岩ドームである。幕山の名前は、南麓に露出した岸壁が遠くから眺めると、舞台の「幕」のように見えることからの命名である。近くで見ると、縦に割れ目のある「柱状節理」であることがわかる。

湯河原A

 梅の木は、その後何度も補植され、今では4000本もの紅梅・白梅が咲き誇る関東随一の梅林となった。日当たりや土壌にも恵まれ、管理も行き届いているのでのびのびと育ち、花付きも良い。谷部には、飲み物や地元の特産品などを販売するブースやお休み所もあって、楽しい雰囲気を醸し出している。

湯河原マップ

熱海の梅園(再掲)

 梅の話題が続きましたので、2年前に訪れた熱海の梅を振り返ってみます。(2015・03・04掲載) 

 今月の初め、MOA美術館で開催されている尾形光琳の作品展を観るために、熱海へ出かけた。尾形光琳300年忌と銘打った特別展で 「紅白梅図屏風」 と 「燕子花図屏風」 の二大国宝を同時に展示したものである。  
 “カキツバタ” の方は、以前このブログの三河八橋の項 (2014・05・26) で取り上げたことがある。しかし、本物を観るのは初めてで、長年の夢を叶えることができたのである。“ウメ” の方は、数十年前に名古屋市博物館で観た覚えがあり、二度目のご対面である。平日ということもあって鑑賞者も少なくゆっくりと観ることができた。

熱海梅林A

 名画鑑賞の後、ちょうど見ごろだというので、近くにある 「熱海梅園」 を訪れた。明治の初めごろ、「健康の元は、温泉と自然」 という考えの下に開設された庭園である。山林約2.5haを整備して、梅や松、カエデなど3000本が植えられたという。真中を流れる川の水を挟んで、白や紅の梅が咲き誇り、まさに “光琳の屏風” さながらの景色を呈していた。

熱海梅林マップ

月ヶ瀬の梅林

 「梅」 と言うと「月ヶ瀬」を思い起こす。古い吊り橋を取材するため亀山から加太 (かぶと) あたりを走っているとき、「月ヶ瀬」 が近いことを記した道路標識を見つけた。以前から行ってみたい名所であり、季節も花盛りにぴったりであったので、そちら方面にハンドルを切った。
 名阪国道・奈良県入口の五月橋インターチェンジを降り、五月川 (名張川下流域の名称) 沿いに西に向かうと、その対岸に 「月ヶ瀬の梅林」 が広がっている。1969年、下流に高山ダムができたため現在はダム湖となっているが、かつては深く刻まれたV字谷であった。その急な斜面に梅の木が植えられているので、「月ヶ瀬梅渓」 とも呼ばれている。

月ヶ瀬マップ

 この梅林の歴史は古く、南北朝時代まで遡るという。元弘元年 (1331) に起った元弘の乱で、大敗を喫した後醍醐天皇が笠置山から撤退する折に女官の1人が月ヶ瀬に逃れ、村人に助けられてこの地に滞在した。この女官が熟した梅の実を見て、京で使われる 「紅花」 を作るための 「烏梅」 の製法を教えたという。急斜面で耕作地の少ない斜面では貴重な換金作物であることから、15世紀ごろにはこの一帯は梅林で埋め尽くされたという。現在も1万本以上が栽培されており、国の名勝に指定されている。
 昭和40年ごろに、東山植物園では梅林を整備する計画が持ち上がった。参考にしたのがこの月ヶ瀬で、当時造園係の技師であった今枝俊雄氏が現地を視察し、地形の似た斜面地に梅林を造成したという。

月ヶ瀬G

北野天満宮の梅

 京都の北西、“きぬかけの路” 地区に北野天満宮はある。この路は、JR山陰本線 (嵯峨野線) 花園駅を起点に、妙心寺・仁和寺・龍安寺・金閣寺などといった名刹を巡ることのできる歴史街道である。鴨川の東部に連なる東山地区と並ぶ人気スポットで、今回も多くの観光客が歩いていた。特に外国からのお客様が多く、英語や中国語が飛び交っていた。
 北野天満宮は、菅原道真公 (845~903) を祭神とする全国12000か所もの 「天満宮」 の総本社である。道真は天皇の信頼も厚く、右大臣にまで上り詰めたが、謀反の罪を着せられて大宰府へ左遷させられてしまった。道真の死後、都に天変地異が多発したことから、道真の祟りであると見なされ、「天神さま」 として祀られることとなった。現在も学問の神として、また、お参りをすると受験に効果があるとして信仰を集めている。

北野天満宮マップ

 どこの天満宮にも牛の像が横たわっていて、縁起のために人々が触るのでピカピカに光っている。道真にとって牛は、生まれた年が丑年であったり、生前に牛を飼い、あるいは危機に瀕したときに救われたりといろいろに縁があることから、現在も奉納されているのだという。
 道真と梅も縁が深い。道真が大宰府に流されたときに、都で育てていた梅の木を偲んで・・・
“東風(こち)吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主なしとて 春なわすれそ” と詠んだ句は有名である。また、この梅の木は、道真を追って大宰府まで飛んでいったという 「飛梅」 伝説まで残っている。

北野天満宮G

田原の吉胡貝塚史蹟公園

 三河田原駅から1kmほど北へ行ったところ、汐川が三河湾に注ぐ左岸に 「吉胡貝塚 (よしごかいづか)」 がある。貝塚は、市内北部の蔵王山に続く台地から、縄文時代の海進によって形成された 「海堤」 (かいてい:標高2~3m) にかけて分布している。大正11年・12年に京都大学の研究者により発掘調査が行なわれ、縄文人骨が多数出土したことにより大ニュースとなった。昭和26年には、国により史蹟に指定されている。
 下左の写真は、貝塚資料館のある台地から低地方面に向かって撮影した。写真の中央左に、「史蹟吉胡貝塚」 と刻まれた石碑が立っている。写真中央右には発掘現場の断面が展示されていて、雨により傷まないように屋根が設けられている。斜面には、強い季節風によるために幹の傾いたムクノキの大木が何本か生えていた。

吉胡貝塚G

 発掘された現地にそのまま展示されている貝塚断面では、厚く積もった貝殻の化石を見ることができる。穴の底には埋葬人骨(複製?) も展示されている (下左の写真)。ここで見つかる貝は、ハマグリ、マガキ、アサリを始めとした干潟に生息するもののほか、ダンベイキサゴなどといった外洋のものも含まれている。獣の骨も多く、イノシシやニホンジカも食べられていた。
 資料館の館内には、食事の様子や埋蔵の場面など、人々の生活を描いた模型などが展示されていた。その中に石と木材を組み合わせた道具 (石器) が並んでいる。土を掘るためのスクレーパーや木を切り倒す斧などで、充分に頑丈で機能的な道具だと思われるものであった。

吉胡貝塚H

田原城跡と田原市博物館

 田原城が築かれたのは、明文12年 (1480) のことである。この時期というのは後土御門天皇の御世で、戦国時代のきっかけともなった応仁の乱 (応仁元年~文明9年) の直後のことである。この城もその荒波に飲まれ、戦国末期には今川義元に攻められたり、徳川家康に攻略されたりした。
 江戸時代に入ってからは安定して三宅氏の治めるところとなったが、明治になって廃城となり建物は取り壊されてしまった。平成になって桜門とその左右の土塀が復興された。平成5年に桜門を入ったすぐ左手に、田原市博物館が開館した。

田原城マップ

 この博物館には、田原藩をはじめとする歴史資料が豊富に収蔵されている。私が訪ねたときには、田原藩の家老職をも務めた南画家・渡辺崋山の作品や資料がたくさん展示されていた。崋山はかの有名な谷文晁に師事し、後に西洋画法も取り入れた独自の様式を完成させた。
 崋山は蘭学者として西洋事情にも明るく、天保10年 (1839) に幕府が外国船を排斥しようとしたモリソン号事件や、鎖国の非を責めた「慎機論(しんきろん)」を記したため、幕府に蟄居を命ぜられてしまった。蘭方医として有名な高野長英も捕らえられて獄に繋がれることとなったこの言論弾圧事件は、「蛮社の獄」 と呼ばれている。

田原城G
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ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:「園長さんのガーデンライフ」
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