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堀川口防潮水門

 堀川は、名古屋城築城時の資材運搬用に開削された運河である。慶長15年 (1610)、徳川家康の命により福島正則が工事を行った。延長は約16km、現在は庄内川水系の1級河川に位置づけられている。昭和34年 (1959) の伊勢湾台風の折には、高潮が堀川を溯上して沿岸に甚大な被害が生じた。
 災害後の復旧・改良事業において、堀川沿岸には川岸いっぱいまで建物が建てられていることから、川岸に防潮堤を新設することは難しい。そこで、河口部に防潮水門を造ることにより被害を防ごうとした。昭和39年8月に完成したのが 「堀川口防潮水門」 である。

堀川口水門マップ

 水門は、名四国道が堀川を跨ぐ 「港新橋」 の下流に位置し、4つのゲートがある。常時は開放されていて、どんな高さの船舶でも航行することができる。高潮や津波の発生時には、下の写真で見るような横向きのジャッキにより扉を閉じる構造になっている。
 平成24年の新聞記事によると、南海トラフ大地震などによる津波には充分に耐えられない恐れがあるという。名港管理組合の発表によると、もともと徐々に水位の上がる高潮を想定して建設された施設であるため、急激に押寄せる津波では変形して閉めることができなくなるかもしれないというのである。補強対策を検討するとあるが、現地を見たところ、水門に続くコンクリート堤防に亀裂が入っており、早期の対策が必要であると考える。

堀川口水門G

とこなめ陶の森小径

 常滑市でも、平成26年に里山整備が行われた。「とこなめ陶の森小径」 という、ちょっとお洒落な名前がついている。この境内森をもつ常石神社は、古くから常滑の地に祀られており、明応3年 (1494) にこの地に遷座したという。煉瓦敷きの長い参道と、高い階段の先に社殿がある。
 小径は、階段の中ごろから横道へ入り、社殿の前を通って境内を一周するコースになっていて、「木かげのこみち」 「陶のこみち」 「ちんじゅの森」 の3ルートに分かれている。この樹林も森厳を守るため太古から斧の入らない森であるため、古木や大木を見ることができる。途中にムクノキ、ツブラジイ、コナラの大木が聳えていた。

常滑の里山G

 この里山のもう一つの特色は、ルートのところどころに焼き物の彫刻が佇んでいることである。休憩所の真ん中や柱の裾にもいくつかの置物が設置されている。園路の脇には、常滑の主要製品である土管にいたずらした (?) ような、愉快な作品があった。
 ルートの途中に、陶芸資料館と陶芸研究所の立派な建物が建っている。資料館では、常滑の人々と焼き物との、古くからのかかわりを知ることができる。研究所では、若い研修生たちが陶業や陶芸の技術を学んでいるという。

常滑の里山マップ

阿久比の里山散策路

 阿久比町では、平成25年と26年にかけて2か所の里山整備が行なわれた。ひとつは多賀神社の境内林、もうひとつは長松山・正盛院の裏山である。多賀社の創建は元和7年 (1621) であり、正盛院の建立は天文13年 (1544) だという。どちらも古い歴史をもつことから、鎮守の森はうっそうと繁る照葉樹林になっている。
 写真左が多賀神社の社殿、右が正盛院の参道と仁王門である。

阿久比

 照葉樹の森は、元々この地方(暖地)に成立する自然植生 (潜在自然植生という) である。シイやカシ、ヤマモモといった常緑広葉樹を主体としているので、“昼なお暗い” 雰囲気の森である。弥生時代以降、人々が生活のために伐採したため、多くの森はマツ、コナラ、アベマキといった明るい二次林に代わっているが、辛うじて寺社の境内にだけ残る森である。
① 多賀社、正盛院、どちらの森でもシイノキが林冠を覆っている。シイノキを外から見ると、モコモコと葉が繁り、まるでブロッコリーのように見える。
② この森を中から見ると、枝葉が競い合って空間を埋め尽くそうとするので、モザイク模様を呈している。葉が厚いので、林内に差し込む光は極端に少ない。
③ 散策路を歩いていて、面白いものを見つけた。シイノキの板根 (ばんこん) である。強風にも耐えられるように、樹木をしっかりと支える目的で発達するもので、熱帯雨林やマングローブの森でよく見るものである。この里山の散策路でも見ることができる、貴重な現象である。

阿久比マップ

知多市岡田の里山散策路

 愛知県では、平成21年から 「あいち森と緑づくり税」 が導入されている。森や緑は、空気の浄化や景観形成など、様々な働きにより人々の暮らしを支えている。ところが近年の都市化や開発により、森や緑の荒廃や減少が著しく進んでいる。将来に向けて樹林を健全な状態で引き継いでいこうとの考えから、この財源を使って様々な事業が行なわれるようになった。
 里山整備もその一環で、民有林や寺社の境内林などを活用して、散策園路づくりなどが行なわれている。知多半島のいくつかの都市において、当社・中部復建 ㈱ が設計に当たったいくつかの里山をご紹介します。まずは知多市岡田地区の「岡田散策路」、“木漏れ日の道” という愛称でも親しまれています。( 「知多市岡田の古い町並み」 については、平成26年8月27日に掲載しました)

里山岡田マップ

 この散策路は、コナラやアベマキを主体とする雑木林と管理の行き届いた竹林などの間を、曲がりくねった山道に導かれていく。入口から ①誘いの森 ②木漏れ日の丘 ③たけのこの里 ④どんぐりの森 ⑤きつねの里 と名付けられた5つのゾーンに分かれている。
 「たけのこの里」 で、可愛らしい訪問者に出会った。近くの保育園園児たちがタケノコ掘りに来ていたのである。たぶん初めての経験であろう楽しい作業に、大声を出してはしゃいでいる。この日のブログ取材には、この事業の設計に当たった当社の職員も同行していましたが、楽しそうに使われている姿を見て仕事のやりがいを感じていました。

里山岡田G


季節通信「タケノコ」

名古屋港の跳上橋

 昨年秋に、名古屋港を船で見学した折 (12月1日に 「ガントリークレーン」 と題してこのブログに掲載)、船中からガーデン埠頭のあたりに、末広橋梁とよく似た跳上橋を遠望した覚えがある。もう1度確認してみようと思い、金山駅周辺の清掃作業 ( 「まちを美しくする会」 の定期活動) の後に名古屋港を訪ねてみた。
 ガーデン埠頭入口にある案内所でマップをもらい、看板図面で位置を確認してから橋があると思われる方向へと歩いていった。堤防沿いがいいと思われたが、工場や倉庫の敷地内になっていて、一般の人では立ち入ることができない。スマホのグーグルマップも見ながら、北側に回りこんで何とか目的地に到達することができた。

名港跳ね上げ橋マップ

 ウィキペディアによれば、この橋は 「名古屋港跳上橋」 と呼ぶとある。説明では、やはり山本卯太郎の設計によるものである。明治42年に、笹島駅と旧2号地の名古屋港駅を結ぶ臨海鉄道・東臨港線が開通した。それを1号地まで延伸するに当たって運河を渡る必要があり、昭和2年 (1927) に運送 (倉庫) 会社の全額寄付により建設されたのだという。橋長63.4m、幅員4.7m。
 当時は頻繁に可動桁が昇降して蒸気機関車や船舶が行き来したが、輸送手段の変遷から次第に使用されなくなり、臨港鉄道そのものが廃線になってしまった。昭和62年からは跳ね上げた状態のまま保存されている。現存する最古の貴重な土木遺産として、平成11年には登録有形文化財に、平成21年には近代化産業遺産に登録されている。
 本体に近い南側へは近づけなかったので見ることが出来なかったのかも知れないけれど、一般道から見ることのできる北側に、説明看板が一つも見当たらなかったのは残念である。

名港跳ね上げ橋G


季節通信「ワラビ」

四日市港の末広橋梁

 明治43年から始まった四日市港修築事業では、埋立てにより末広町と千歳町が出来上がった。その間の水面が千歳運河である。大型船から積み替えられた貨物が、艀 (はしけ) などによりこの運河を行き来した。今も運河の両岸に倉庫が建ち並び、浮き桟橋も設置されている。
 千歳町へは、国鉄線 (JR線) からの引込み線が走っている。この線路が千歳運河を跨ぐのが、「末広橋梁」 である。艀を通すために跳開式の可動橋になっているが、常に跳ね上がった状態で船を通し、列車が来たときだけ橋を降ろすシステムである。下左の写真は運河側から、下右は線路側から見た末広橋梁である。

末広橋梁G

 末広橋梁は、昭和6年 (1931) に架橋されていて、現役としては最古の鉄道可動橋である。全長58m、幅員4mで、全体は5連の桁により構成されている。中央の桁が、第2橋脚の上に建てられた門型鉄柱に、ワイヤーにより跳ね上げられる構造である。第1橋脚の上に小さな小屋があり、この中にいる人により操作される。
 設計は、橋梁コンサルタントとして草分け的存在である山本卯太郎によるものであり、橋梁技術史上も貴重な存在である。また、四日市港の発展の中で、陸上輸送と運河船運が拮抗していた時代状況を物語る土木構造物としても重要な遺産である。現在、国の重要文化財に指定されており、経済産業省からは 「近代化産業遺産」 に認定されている。

末広橋梁マップ

中里貯水池と中里ダム

 員弁の谷の最上流部、岐阜県との県境近くに 「中里貯水池」 がある。この池は、水資源機構が三重用水の水源として昭和52年に建設したもので、総貯水量1600万トン、水深30mである。このあたりは、養老山脈と鈴鹿山脈に挟まれた丘陵地帯で景観もよく、いくつかのゴルフ場が立地している。水面のはるか彼方に見える、真っ白に雪を被るのは伊吹山であろう。
 池の水を堰き止めているのは 「中里ダム」 で、アースダムとしては日本一の規模を誇っている。高さ46m、長さは985m、体積は297万立方メートルにもおよぶという。「アースダム」 というのは最も古典的な形式で、石や土を台形に積んだものである。「土堰堤」 とも呼ぶ。

中里ダムマップ

 池の上流域に 「離郷の碑」 が建てられている。もともとこの地域には、鼎地区深尾の里と呼ばれる村落があった。ゆたかな歴史をもつ集落には、民家や田畑があり、寺社やお墓もあったことであろう。下流域の多くの人々の窮状を救うためとはいえ、先祖伝来の土地を明け渡すには苦渋の決断があったに違いない。
 碑の横には、深尾地区一同と記した 「副碑」 が建てられている。碑文には、“離郷の決意をするに至った心情はまことに断腸の一語につきる” とあり、“我々の犠牲によって満々とたたえられた清冽な水が、多くの人たちを潤す恵みの水にならんことを” との思いが切々と綴られている。

中里ダムG

員弁のセメント工場

 桑名インターを降りて、員弁の谷に入ったときから気になる山があった。鈴鹿山脈の頂のひとつに横縞模様がくっきりと見えているのである。砕石の採掘だろうか、あるいは藤原岳は石灰岩の山であるので、石灰岩採取かも知れないと考えていた。
 宇賀渓を見た後、次の目的地 「中里貯水池」 に向かう途中、車中からセメント工場の煙突が見えてきた。工場の壁にHOKUSEI REMICONの文字が記してある。いなべ市の北勢レミコンの工場である。水平に山を削りながらそのまま工場に運び、生コンを生産している会社である

いなべの石灰岩マップ

 伊吹山の北側にもセメント工場があるのを知っている。大垣・赤坂でも石灰岩の採掘が行なわれているという。このあたりには、豊富な石灰の地層があるのであろう。セメントは、建築や土木にとって必須の材料であるのでやむを得ないが、藤原岳に連なるこの山が、どこまで削られるのか心配にはなる。
 石灰の地層は、大昔には珊瑚礁であったと認識しているが、ヨーロッパの北部にも石灰岩台地があるので驚く。左の写真はアイルランドの西海岸、かつて地球が丸いとは思われていなかった時代に、地の果てと考えられていた。海はアラン諸島の浮かぶ大西洋、ケルンの奥に写る人物は私。不毛の石灰岩台地を4時間も歩いて草臥れ果てた姿である。
 右の写真はイタリア半島の対岸の国クロアチアである。かつてはユーゴスラビアを構成していた国である。アドレア海に面する海岸地方も石灰岩ばかりであった。こういった景色を見ると、石灰岩は無尽蔵かと思えてくる。

いなべの石灰岩G

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ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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Author:FC2USER480348EQK
森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
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