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三条通りの商店街
三条通りは近代化の中心地としても発展し、明治期には京都のメインストリートであった。そのため日本銀行の京都支店や中京郵便局が通り沿いに建設された。また、創業300年を越える “ぬい針” で有名な 「福井みすや針」 や京扇子が揃う 「大西京扇堂」 などの老舗も軒を並べている。
京都で最も古いこの商店街は 「三条名店街」 と呼ばれ、古い和風建築と近代的な赤レンガの洋館が入り混じっていて、古都と近代西洋文化の美しい調和の佇まいを残している。

三条大橋のすぐ西には、カリオンのある美しいアーケード街がある。ペーブメントは気品のあるモザイク模様の石張りである。烏丸本通りとの交差点には、京都市の中心地としての象徴 「道路元標」 があるのだが、今度の取材では見逃してしまった。


京都で最も古いこの商店街は 「三条名店街」 と呼ばれ、古い和風建築と近代的な赤レンガの洋館が入り混じっていて、古都と近代西洋文化の美しい調和の佇まいを残している。

三条大橋のすぐ西には、カリオンのある美しいアーケード街がある。ペーブメントは気品のあるモザイク模様の石張りである。烏丸本通りとの交差点には、京都市の中心地としての象徴 「道路元標」 があるのだが、今度の取材では見逃してしまった。


三条通りの近代建築
烏丸御池から三条大橋までも、楽しい街歩きだった。昔ながらの道は幅も狭く、車の往来も少ないので、右へ行ったり左に寄ったり自由に写真を撮ることができる。まず目に入ったのは明治か大正を思わせる近代建築、赤い煉瓦造りの建物が何ともエキゾチックである。
京都といえば、1200年の歴史を感じさせる寺社建造物などを思い浮かべるが、明治以降の近代建築にも優れたものが残っている。名古屋城の天守閣や本丸御殿、都心部の近代建築などが、昭和20年の空襲により焼失してしまったことと思い合わせると、京都が守られたことに羨ましさを感じてしまう。

上の写真は 「京都文化博物館・別館」 である。この建物は、明治39年 (1906) に建てられたもので、当初は 「日本銀行京都支店」 であった。昭和43年からは私立の 「平安博物館」 として使われてきたが、昭和63年に京都府に寄贈され、今は 「京都府京都文化博物館」 として利用されている。設計者は、東京駅などを設計した明治時代を代表する建築家・辰野金吾である。
下の写真は 「中京 (なかぎょう) 郵便局」で ある。建物のエッジの部分や窓枠などを白い御影石で積上げ、壁の部分に赤い煉瓦が積んである。設計は逓信省によるものである。明治35年 (1902) に竣工したルネサンス様式であるが、昭和49年に外壁だけを残して内部は新しい建物に造り変えられている。このような保存方法を 「ファサード保存」 というが、この中京郵便局が日本で初めての試みという。

◆今年の夏至は、3日前の6月21日でした。今日は夏至に因んだ話題です。

京都といえば、1200年の歴史を感じさせる寺社建造物などを思い浮かべるが、明治以降の近代建築にも優れたものが残っている。名古屋城の天守閣や本丸御殿、都心部の近代建築などが、昭和20年の空襲により焼失してしまったことと思い合わせると、京都が守られたことに羨ましさを感じてしまう。

上の写真は 「京都文化博物館・別館」 である。この建物は、明治39年 (1906) に建てられたもので、当初は 「日本銀行京都支店」 であった。昭和43年からは私立の 「平安博物館」 として使われてきたが、昭和63年に京都府に寄贈され、今は 「京都府京都文化博物館」 として利用されている。設計者は、東京駅などを設計した明治時代を代表する建築家・辰野金吾である。
下の写真は 「中京 (なかぎょう) 郵便局」で ある。建物のエッジの部分や窓枠などを白い御影石で積上げ、壁の部分に赤い煉瓦が積んである。設計は逓信省によるものである。明治35年 (1902) に竣工したルネサンス様式であるが、昭和49年に外壁だけを残して内部は新しい建物に造り変えられている。このような保存方法を 「ファサード保存」 というが、この中京郵便局が日本で初めての試みという。

◆今年の夏至は、3日前の6月21日でした。今日は夏至に因んだ話題です。

京都三条大橋
一昨年巡り歩いた旧東海道シリーズの最終段階で、「お江戸日本橋」 についてご紹介した (平成29年3月1日掲載)。ここが東海道五十三次の東の出発点であり、現在は日本の道路元標が置かれている所である。一方で、その終点である 「京都三条大橋」 については、まだ取材しておらずブログ掲載が出来ていなかった。
今回、京都の庭園視察で訪れた折に、烏丸御池から歩き始めて三条大橋に辿り着くことができた。江戸時代、参勤交代の大名を始め、江戸へ下る人々はここから東海道を歩き始めたのである。橋の下を流れる鴨川の水は、あまり遠くない鞍馬方面の山々から流れ出すので、涼しげで透明である。

この橋が最初に架けられた年代は明らかではないが、室町時代前期には簡素な構造のものがあったと推定されている。本格的な橋となったのは天正18年 (1590) で、豊臣秀吉の命により大改造が行なわれたと擬宝珠に記録されている。擬宝珠は天正のものと昭和のものが混用されているが、その銘の中に 「天正十八年」 や 「豊臣」 の文字を読み取ることが出来る。
江戸時代になって東海道の西の起点になると、幕府の公儀橋として維持管理が行われた。元禄以来たびたび改造されてきたが、現在のものは昭和25年に架け替えられたものである。西北の橋詰めに、古い石造りの橋脚が保存・展示されている。

今回、京都の庭園視察で訪れた折に、烏丸御池から歩き始めて三条大橋に辿り着くことができた。江戸時代、参勤交代の大名を始め、江戸へ下る人々はここから東海道を歩き始めたのである。橋の下を流れる鴨川の水は、あまり遠くない鞍馬方面の山々から流れ出すので、涼しげで透明である。

この橋が最初に架けられた年代は明らかではないが、室町時代前期には簡素な構造のものがあったと推定されている。本格的な橋となったのは天正18年 (1590) で、豊臣秀吉の命により大改造が行なわれたと擬宝珠に記録されている。擬宝珠は天正のものと昭和のものが混用されているが、その銘の中に 「天正十八年」 や 「豊臣」 の文字を読み取ることが出来る。
江戸時代になって東海道の西の起点になると、幕府の公儀橋として維持管理が行われた。元禄以来たびたび改造されてきたが、現在のものは昭和25年に架け替えられたものである。西北の橋詰めに、古い石造りの橋脚が保存・展示されている。

JR最古の跨線橋(半田駅)
JR武豊線は、愛知県で初めて敷設された官営鉄道である。明治19年に武豊~熱田間が営業を開始した。もともとは、東海道線整備工事の資材を、武豊港から名古屋まで運搬する目的をもっていた。3年後に東京~神戸間が開通し、その支線となった大府~武豊間は 「武豊線」 と呼ばれるようになったのである。
半田は知多半島の主要都市であり、開通と同時に駅ができた。跨線橋が完成したのは明治43年のこと、単線の線路を跨いで反対側のホームへ渡ることが出来るようになった。現在では、「JR最古の跨線橋」 と位置づけられている。因みに、駅舎そのものが一番古いのは隣の亀崎駅である。(このブログ平成25年4月9日参照)

橋を支える鉄柱は円柱になっていて、階段へのゲートは大理石風の白いエンタシスである。渡り廊下の屋根は鉄製トラス、リベット打ち構造である。腰壁は木製板張りで、ペンキ塗が施されている。煉瓦造りの 「油倉庫」 も含めて全体に古色蒼然としていて、「明治」 を感じる雰囲気である。
駅の外にSLの機関車が保存展示されている。これは昭和45年まで武豊線を走っていた 「C11265」 蒸気機関車である。私は中学二年生まで亀崎に住んでいて、家のすぐ前を走る汽車を見ながら育った。煙を吐いて走る蒸気機関車から、煙の出ないディーゼルカーに切り替わった時には衝撃を受けたことを記憶している。現在は電化されている。


半田は知多半島の主要都市であり、開通と同時に駅ができた。跨線橋が完成したのは明治43年のこと、単線の線路を跨いで反対側のホームへ渡ることが出来るようになった。現在では、「JR最古の跨線橋」 と位置づけられている。因みに、駅舎そのものが一番古いのは隣の亀崎駅である。(このブログ平成25年4月9日参照)

橋を支える鉄柱は円柱になっていて、階段へのゲートは大理石風の白いエンタシスである。渡り廊下の屋根は鉄製トラス、リベット打ち構造である。腰壁は木製板張りで、ペンキ塗が施されている。煉瓦造りの 「油倉庫」 も含めて全体に古色蒼然としていて、「明治」 を感じる雰囲気である。
駅の外にSLの機関車が保存展示されている。これは昭和45年まで武豊線を走っていた 「C11265」 蒸気機関車である。私は中学二年生まで亀崎に住んでいて、家のすぐ前を走る汽車を見ながら育った。煙を吐いて走る蒸気機関車から、煙の出ないディーゼルカーに切り替わった時には衝撃を受けたことを記憶している。現在は電化されている。


新舞子マリンパーク
「新舞子」 と聞くと、砂浜の美しい海水浴場を思い浮かべる。しかし、戦後の産業開発や伊勢湾台風後の復旧事業などにより、埋立地の工場立地や人工的堤防の整備が進み、白砂青松の風景は消えてしまった。味気ない工場地帯だろうと思っていたのだが、現地を訪れてみて少し安心した。
再び砂浜が出来ていたのである。新舞子対岸の南5区埋立地の一角に、平成9年に人工海浜 「新舞子マリンパーク」 がオープンしていた。2本の風力発電塔をシンボルマークとした海浜で、憩いのための芝生広場も備えている。夏には多くの海水浴客が訪れ、海の自然に触れながら水遊びを楽しんでいるという。

手前の海岸も単なる堤防でなく、親水性を考慮した階段状の構造になっている。海水は思ったよりも見た目が美しく、工場地帯というより海のリゾート地としての様相を見せている。和風でなく洋風な海水浴場を思わせる風景である。
堤防際に瀟洒な尖塔をもつ建物があった。教会だろうと思って中を覗くと、どうもレストランのようである。ウェートレスの方にお聞きすると、二階が教会になっていて、結婚式も行なわれると言う。確かに、玄関の扉などにはステンドグラスが嵌っていた。


再び砂浜が出来ていたのである。新舞子対岸の南5区埋立地の一角に、平成9年に人工海浜 「新舞子マリンパーク」 がオープンしていた。2本の風力発電塔をシンボルマークとした海浜で、憩いのための芝生広場も備えている。夏には多くの海水浴客が訪れ、海の自然に触れながら水遊びを楽しんでいるという。

手前の海岸も単なる堤防でなく、親水性を考慮した階段状の構造になっている。海水は思ったよりも見た目が美しく、工場地帯というより海のリゾート地としての様相を見せている。和風でなく洋風な海水浴場を思わせる風景である。
堤防際に瀟洒な尖塔をもつ建物があった。教会だろうと思って中を覗くと、どうもレストランのようである。ウェートレスの方にお聞きすると、二階が教会になっていて、結婚式も行なわれると言う。確かに、玄関の扉などにはステンドグラスが嵌っていた。


知多市の大草城跡
名鉄常滑線・おおのまち駅の近くにこんもりとした小山があり、その山上に 「大草城跡」 がある。この城は、この地を拝領していた織田信長の弟・織田長益が築城しようとしたが途中で断念した “幻の城” である。長益が築き始めた天正10年 (1582) に本能寺の変が勃発し、兄・信長が暗殺されてしまったのである。
長益はその後、長久手の合戦 (1584) からしばらくして秀吉に仕え、摂津の国 (今の大阪) に転封された。そのため築城途中のこの城は、地形 (ちぎょう=土地造成) が終わったところで放棄され、完成することはなかった。長益とは、後に武士をやめて茶人として名を残した 「織田有楽斎」 のことである。

現在も本丸と二の丸周辺の土塁やお堀が、ほぼ完全な形で残っている。このように保存状態の良い城跡は愛知県でも数少ないという。お城の東隣にある地蔵寺 (左) と津島神社 (右) も、かつての絵図そのままの位置に残っている。ただ、天守閣風の建物は史実と異なる建物で、単なる展望台である。また1kmほど南には、大野衆と呼ばれた水軍の拠点 「大野城」 の跡が残っている。

長益はその後、長久手の合戦 (1584) からしばらくして秀吉に仕え、摂津の国 (今の大阪) に転封された。そのため築城途中のこの城は、地形 (ちぎょう=土地造成) が終わったところで放棄され、完成することはなかった。長益とは、後に武士をやめて茶人として名を残した 「織田有楽斎」 のことである。

現在も本丸と二の丸周辺の土塁やお堀が、ほぼ完全な形で残っている。このように保存状態の良い城跡は愛知県でも数少ないという。お城の東隣にある地蔵寺 (左) と津島神社 (右) も、かつての絵図そのままの位置に残っている。ただ、天守閣風の建物は史実と異なる建物で、単なる展望台である。また1kmほど南には、大野衆と呼ばれた水軍の拠点 「大野城」 の跡が残っている。

常滑市の篭池古窯
名鉄常滑線・大野町駅から東へ3kmほど走り、自然林と竹藪とが混交するところにヒッソリとした階段をようやく見つけた。小さな看板があるけれど、なかなか見つけることが出来なかったのである。階段を登りきったすぐにフェンスと上屋に守られた 「篭池古窯」 があった。
篭池3号窯と9号窯が2基並んで横たわっている。知多半島は中世陶器の一大生産地で群を成して分布しており、総数1000基を越えると推測されている。この常滑市久米字篭池にも10数基があったといわれている。

この古窯は、斜面にトンネルを掘り抜いて造られた 「窖窯 (あながま) 」 という構造である。手前 (下) から焚口・燃焼室・分焔柱と続き、焼物を置く焼成室があって煙出しを経て地上に至るものである。焼成室を被っていた天井の部分は陥没して存在しないが、分焔柱は見事に残っている。
この地域では、大甕の生産が盛んであったが、ここでも大半の製品が大甕であったものと考えられている。窯が造られたのは鎌倉時代、13世紀前半と推定されている。昭和36年に愛知県の史蹟に指定された。


篭池3号窯と9号窯が2基並んで横たわっている。知多半島は中世陶器の一大生産地で群を成して分布しており、総数1000基を越えると推測されている。この常滑市久米字篭池にも10数基があったといわれている。

この古窯は、斜面にトンネルを掘り抜いて造られた 「窖窯 (あながま) 」 という構造である。手前 (下) から焚口・燃焼室・分焔柱と続き、焼物を置く焼成室があって煙出しを経て地上に至るものである。焼成室を被っていた天井の部分は陥没して存在しないが、分焔柱は見事に残っている。
この地域では、大甕の生産が盛んであったが、ここでも大半の製品が大甕であったものと考えられている。窯が造られたのは鎌倉時代、13世紀前半と推定されている。昭和36年に愛知県の史蹟に指定された。

