FC2ブログ

Entries

宇連ダム

 豊川は、上流の長篠の地点で宇連川と合流している。合流地点は自然の要害となっていて、織田・武田の合戦で有名な長篠城 (このブログ26・9・28を参照) があった。宇連川を遡り、景勝地として名高い鳳来峡や湯谷温泉を過ぎ、三河川合から左に折れたところに 「宇連ダム」 がある。
 東三河地方は、昔から旱魃に悩まされてきた。そこで 「豊川用水」が計画され、終戦直後の昭和24年 (1949) に事業が始まった。その水がめとなる宇連ダムが完成したのは昭和33年である。豊川用水は、豊川・豊橋の平野を流れて渥美半島の先端まで、また西部に流れる水は蒲郡まで到達している。

宇連ダムG

 ダムの型式は重力式コンクリートダム、高さ約65m、水を集める流域面積は26万平方km、有効貯水量は2800万トンにも及んでいる。ダム湖は「鳳来湖」と名付けられており、満水時の面積は123haである。今年は7月・8月の降雨が少なかったので、湖の水位はかなり下がっていた。
 ダムのすぐ真下に「宇連ダム発電所」がある(上右の写真)。落差50mの水を、毎秒2トン流して「横軸フランシス水車」を回す。毎時760kwの発電をするが、この数字を見て思うこと・・・我が家の「太陽光発電機」は、毎時最大6kwの発電をする。1軒では小さいかもしれないが、多くの家で採用すれば、けっこう大きな数字になるのではなかろうか?

宇連ダムマップ


季節通信18ヒマワリ


湯谷の「水車製材所」跡

 豊川の河口部には、上流から流れてきた 「いかだ」 の集積地があり、板や柱に加工する製材所が たくさんあった。明治末になって鉄道が通るようになると材木を陸送できるようになり、山間部にも製材所が設置された。
 湯谷にあった 「東川製材所」 もそのひとつで、明治42年 (1909) に建設されたものである。戦後まもなく工場は焼失したが、水車や石組みが残っているという。赤い吊り橋から眺めると、川中の巨石 「馬の背岩」 の左岸にそれらしい痕跡を見ることができる。

湯谷水車G

 国道151号線から回り込んで近くへ行ってみると、確かに鉄製の大きな水車がわずかに頭だけを見せている。土砂や草に埋もれて全貌を見ることはできないが、水車の直径は5.5m、幅は1.22mもあったとのこと。水の力を利用して、ノコギリを回したのであろう。
 水車の水源は、280mもの上流にあった。小さな堰が今も残っていて、川の端に取水口跡がある。水路はすでに埋め立てられていて、今は 「ささやきの小径」 と呼ぶ散策路になっている。この古い温泉郷には、手筒花火や五平餅、天下の奇祭と言われる 「花まつり」 などの伝統的な文化が息づいている。

湯谷水車H

湯谷温泉駅

 湯谷温泉は、鳳来峡の宇連川沿いに広がっていて、日本百名泉にも選ばれている。温泉の歴史は古く、1300年前には開湯されていた。伝説によれば、鳳来寺の開祖・利修仙人により発見されたとある。仙人は温泉の効用により、308歳もの長寿を全うしたという。
 宇連川のこの辺りは、川底に岩盤が露出して砂や砂利も無いため 「板敷川」 とも呼ばれている。長い年月の間に削られた岩が、大きな滝や小さな滝を形成して、美しい景観を形つくっている。水深が浅いところでは、子供の水遊び場ができていた。

湯谷マップ

 鳳来寺駅は、JR飯田線の前身 「鳳来寺鉄道」 の開通とともに、明治32年 (1899) に建設された。現在は無人駅になっているため、乗り降りのホームへ行くのはフリーであり、車掌さんに切符を渡すようになっている。
 木造の駅舎は、窓や入口が板張りで閉ざされており、利用はできないようである。かつては、鉄道利用により訪れた観光客も、今は川むこうの国道151号線を利用するようで、新館は国道沿いに建てられている。駅前に建てられた歓迎アーチは、いかにもレトロな昭和の雰囲気である。

湯谷G

山車の独楽(ごま)

 半田市亀崎の 「潮干祭」 は、5輌の山車を潮干の浜へ “曳き下ろし” することで有名です。その昔、神武天皇が東征する折に、海からこの地に上陸したとの伝説に因んだ行事です。毎年5月3日・4日 (雨天順延) に開催されます。今年は久しぶりに、4日の日曜日に訪れてみました。
 世界遺産に登録されたこともあって、年々行楽客が増えています。曳き下ろしの浜辺は黒山の人だかりで、写真を写す隙間がありません。そこで、カメラを頭の上に持ち上げ、手探りで撮ったのがこの一枚です。何とか勇壮な曳き下ろしの様子を、皆さまにお届けすることができました

亀崎祭りマップ

 街中を引き回すときには、豪華な山車を間近に見ることができます。柱や梁の細緻な木彫や、金糸・銀糸による刺繍模様の豪華な幔幕などが見事です。下の写真の先頭は西組 「花王車」、2輌目が田中組 「神楽車」 です。そのほかに中切組 「力神車」、石橋組 「青龍車」、東組 「宮本車」 があります。
 「山車」 は、一般的には 「ダシ」 と読みますが、ここ亀崎では 「ヤマ」 あるいは 「ヤマグルマ」 と呼びます。約200もの部品から構成されていますが、毎年分解して大切に保管されています。車輪は 「独楽 (ごま) 」 といい、直径90センチ、厚さ30~40センチで、黒松の丸太材を用います。普段は消耗や亀裂を防ぐために海の干潟に埋めておき、一ヶ月ほど前に掘り出します。沿道に、神楽車の古い「独楽」が飾ってありました。

亀崎祭りG

宮島・厳島神社の大鳥居

 厳島神社の創建は、推古元年 (593) と伝えられている。その後、仁安3年 (1168) に、平清盛によって現在のような社殿に造営された。建築様式は 「寝殿造り」、平安貴族の住居のつくりである。浅瀬の海中に回廊が伸び、「池泉」 が設けられる前面は瀬戸内の海という趣向である。
 清楚に配列された柱や梁は鮮やかな朱塗り、屋根は荘厳な檜皮葺である。床は厚みのある板敷き、柱の立つ土台は平らな面をもつ自然石になっている。木柱の根元は、打ち寄せる海水にさらされている。平家滅亡後も鎌倉時代に再建され、その後も毛利氏や豊臣氏などの庇護に支えられて今日に伝えられている。

宮島G

 本社の拝殿から108間 (約200m) 沖に大鳥居が立っている。高さ約16m、棟の長さは24mである。主柱の太さは、周り31尺 (約9m)、4本の控柱 (稚児柱という) に支えられながら
自重で立っているという。満潮時は海中に浮かんでいるように見えるが、潮が引くと砂浜を渡って根元まで近寄ることができる。
 現在の大鳥居は8代目、明治8年 (1875) に完成した。材は 「楠 (くすのき)」 で、宮崎県と香川県から伐り出されたものである。昭和26年に根元の大修理が行なわれたが、その時に切り取られた部分が社殿の前に展示されていた。私の背丈よりもはるかに高く、直径3mはあろうかと思われる。厳島神社および前面の海、背後に聳える弥山原始林を含む約430haの森林は、平成8年にユネスコの世界遺産に登録された。

宮島G2


季節通信17木曽駒

岩国徴古館

 岩国城から下るロープウェーから見ると、眼下に吉香公園が広がっている。この公園は城主の居館跡や武家屋敷跡などが明治になって市民開放されたものである。桜・紅葉・牡丹など四季折々の花が植えられているが、6月末だったので花菖蒲や紫陽花がきれいに咲いていた。
 その一角に 「岩国徴古館」 が建っている。物資統制下の戦時中に、旧藩主吉川家が “郷土に博物館を” という熱い思いで取組んだもので、昭和17年に起工し20年に完成した。設計した佐藤武夫は名古屋生まれ、岩国中学卒業後早稲田大学で建築学を専攻し、後に教授となる。建築音響学の分野を開拓し、日本建築学界の会長まで勤めた名建築家である。

岩国マップ

 この建物は、佐藤武夫が若い学究心を燃やして初めて手がけた作品で、ヨーロッパの古典主義を基本としながらも、自身の建築家としての才気を表したものである。外観はシンプルな直線で構成され、壁面は豪華な石張りなどではなくコンクリートのブロックを積んだような景観である。
 展示室内部は白い漆喰塗りであるが、アーチ状の梁や下部の広がった列柱、木製の階段などに個性が発揮されている。物資の乏しい戦争中につくったとは思えない、豊かさを感じさせる建築である。

岩国G



広島の原爆ドーム

 73年前の今日8月6日午前8時15分、この真上で原子爆弾がさく裂しました。この 「原爆ドーム」 を “土木文化” などの範疇に入れて良いのか迷うところですが、世界遺産にも登録され、人々に注目されることが “核兵器禁止” や “世界平和” にも繋がるものと考え、ここに掲載します。
 高校の修学旅行以来、3度目の訪問になります。毎年の慰霊祭などにより映像ではよく見ますが、改めてドームの前に立つと不思議な感情が込み上げてきます。悲しみ、怒り、恐怖、一つの言葉では言い表せない複雑な感情です。夕方訪れたのですが、かなり長い時間佇んでしまいました。

原爆ドームG

 帰宅時間だったため、会社帰りの市民が川沿いの道、ドームの横を普通に歩いています。広島の人たちには、この強烈なモニュメントも生活の中に取り込まれているのでしょう。私のような観光客、特に外国からの人も多く訪れています。川を挟んだ対岸に座って、ドームを感じている若い人たちもいました。
 原爆ドームから南に向かって一直線に、「原爆の子の像」(上の写真=以前は千羽鶴が架かっていました)・「平和の灯」・「原爆死没者慰霊碑」・「広島平和記念資料館」 (7月までリニューアル工事中) が並んでいます。慰霊碑の前には花がたくさん供えられていました。バラの花壇もちょうど花盛りでした。

原爆ドームG2

山口県岩国の「錦帯橋」

 錦帯橋が完成したのは、延宝元年 (1673) のことである。その美しさは、江戸時代中期から評判になっていたという。当時の山陽道から外れているのにわざわざ迂回し、見物してから江戸へ向かう参勤交代の大名もいたほどであった。
 現代でも、広島・山口旅行の計画には、ここ岩国が加えられることが多い。ちなみに私の高校修学旅行 (古い!50年以上も昔のこと) は、広島の平和公園、安芸の宮島、そして錦帯橋というコースであった。先だって(6月)広島県で開催された 「日本植物園協会」 の総会・大会に出席した機会に、久しぶりに同じコース巡りをしてみた。

錦帯橋マップ

 岩国の城下町は錦川を挟んで、両側の平野にある。河川が蛇行するところでは、カーブの外側が削られて、内側に土砂を堆積する。山上の岩国城から見ると、堆積平野に家並みが集まっていることがよく分かる。錦帯橋は、両岸の城下町をつなぐためにどうしても必要だったのである。
 しかし、流れの激しい錦川の、川幅200m近いところに橋を掛けることはとても困難な事業であった。藩主吉川広嘉は研究に研究を重ね、明 (中国) の「西湖」の橋をヒントに、5連のアーチ橋を造ることを思い立った。この反り橋の構造は巧妙かつ独創的で、現代の橋梁工学からみても非の打ち所がないと言われている。現在、国の名勝に指定されている。

錦帯橋G


季節通信16ストロー
▲ページトップ

Appendix

カレンダー

07 | 2018/08 | 09
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -

ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

コンパクト月別アーカイブ

最新記事

         

建設・補償コンサルタント

ランキングに参加しています!

プロフィール

FC2USER480348EQK

Author:FC2USER480348EQK
森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:「園長さんのガーデンライフ」
FC2ブログへようこそ!

最新トラックバック

        

検索フォーム

QRコード

QR
▲ページトップ