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土岐の下街道高山宿
土岐の高山は、江戸時代には下街道の宿場町として賑わいを見せていた。下街道は恵那槙ヶ根追分から名古屋城下を結ぶ中山道の脇街道であった。中山道より峠が少ないため利便性がよく、善光寺参りや伊勢神宮参りの人々が盛んに往来した。
信州・美濃・尾張から出荷される荷物も、牛馬によりこの街道を行き来した。高山は下街道15里 (約60km) 2日の行程の中間地点であったため、馬継場や宿場として栄えていた。

明治になって天皇陛下は、全国を6回に亘って大規模な巡行を行なった。明治13年には、東京から中山道を通って京都へ向かわれたが、6月にこの下街道・高山宿に立ち寄られた。そのときの記念碑がいくつか残っている。
上中の写真は南宮神社近くの石碑で、「明治天皇観陶聖跡碑」 とある。陛下が陶器づくりの実演をご覧になった所である。上右は 「明治天皇高山御小休所」 とあり、この地に屋敷のあった深萱邸の跡地である。ここでは陛下にお茶を差し上げている。お茶に使用した水は、慈徳院境内で汲み上げたもので、そこには 「明治帝御供水」 と刻まれた碑 (下中の写真) が立っている。


信州・美濃・尾張から出荷される荷物も、牛馬によりこの街道を行き来した。高山は下街道15里 (約60km) 2日の行程の中間地点であったため、馬継場や宿場として栄えていた。

明治になって天皇陛下は、全国を6回に亘って大規模な巡行を行なった。明治13年には、東京から中山道を通って京都へ向かわれたが、6月にこの下街道・高山宿に立ち寄られた。そのときの記念碑がいくつか残っている。
上中の写真は南宮神社近くの石碑で、「明治天皇観陶聖跡碑」 とある。陛下が陶器づくりの実演をご覧になった所である。上右は 「明治天皇高山御小休所」 とあり、この地に屋敷のあった深萱邸の跡地である。ここでは陛下にお茶を差し上げている。お茶に使用した水は、慈徳院境内で汲み上げたもので、そこには 「明治帝御供水」 と刻まれた碑 (下中の写真) が立っている。


土岐市の高山城跡
庄内川は、岐阜県内では 「土岐川」 と呼ばれている。水源は恵那市の夕立山で、瑞浪・土岐・多治見の盆地を流れ、玉野渓谷を抜けて春日井市高蔵寺で濃尾平野に出る。名古屋市の北と西を迂回して、伊勢湾に注いでいる。
土岐川の氾濫原を見下ろす細長い丘陵の上に、「高山城」 の跡がある。標高183m、麓からの高さは約57mである。通称 「サバ」 と呼ばれる砂岩層の断崖上に築かれていた。山頂の城跡に建てられた展望台から眺めると、土岐川と川沿いの細長い盆地が手に取るように見える。

築城は承久の乱 (じょうきゅうのらん=1221年) の頃という。源氏の流れを汲む美濃源氏・土岐氏一族の高山氏により創建された。時代は下って戦国時代、織田信長の臣下となった高山城主は、この城を強固な要塞と成して守護に当たったが、武田の大軍の前に敗れ去った。
現在、山上の城跡は、市民の憩いの場として整備されている。「高山城高山宿史蹟保存会」 のホームページには、城の想像図が掲載されていて、往時の様子を知ることができる。城跡を取巻く森林は 「城跡の森」 と名付けられて 「自然保護公園」 に位置づけられている。


土岐川の氾濫原を見下ろす細長い丘陵の上に、「高山城」 の跡がある。標高183m、麓からの高さは約57mである。通称 「サバ」 と呼ばれる砂岩層の断崖上に築かれていた。山頂の城跡に建てられた展望台から眺めると、土岐川と川沿いの細長い盆地が手に取るように見える。

築城は承久の乱 (じょうきゅうのらん=1221年) の頃という。源氏の流れを汲む美濃源氏・土岐氏一族の高山氏により創建された。時代は下って戦国時代、織田信長の臣下となった高山城主は、この城を強固な要塞と成して守護に当たったが、武田の大軍の前に敗れ去った。
現在、山上の城跡は、市民の憩いの場として整備されている。「高山城高山宿史蹟保存会」 のホームページには、城の想像図が掲載されていて、往時の様子を知ることができる。城跡を取巻く森林は 「城跡の森」 と名付けられて 「自然保護公園」 に位置づけられている。


甚目寺の伽藍
「津島上街道」 は勝幡・甚目寺・清洲を経由して名古屋に至る。甚目寺近くの道路わきに 「右つしまみち」 と刻まれた古い道標が立っていた。お寺の名前が町名にもなっていた 「甚目寺町」 は、今は七宝町・美和町の3つが合併して 「あま市」 になっている。
“あま” は、もともとの “海部郡” に由来する。海部郡は、尾張の国の西端に位置する広域な平野で、大部分が木曽川の三角州に属し、沖積層と干拓地から成り立っている。古い街道や道端の道標などを見ると、その結びつきの深さを理解できる。

「甚目寺」 はその縁起によれば、推古天皇5年に紫金の聖観音像が安置されたことに始まるという。明治末期に発掘された瓦などにより、奈良時代以前に大伽藍があったことが確認されている。江戸時代には、尾張四観音の筆頭の格をもち、現在も節分会には多くの参拝客で賑わっている。
南大門は、建久7年 (1196) に源頼朝の命により建立されたという。三間一戸の入母屋・柿葺 (こけらぶき) で、左右に仁王様が安置されている。三重塔は、三間三重塔婆で本瓦葺である。擬宝珠の銘に寛永4年 (1627) とあることから、建立年代は明らかである。いずれも国の重要文化財に指定されている。

“あま” は、もともとの “海部郡” に由来する。海部郡は、尾張の国の西端に位置する広域な平野で、大部分が木曽川の三角州に属し、沖積層と干拓地から成り立っている。古い街道や道端の道標などを見ると、その結びつきの深さを理解できる。

「甚目寺」 はその縁起によれば、推古天皇5年に紫金の聖観音像が安置されたことに始まるという。明治末期に発掘された瓦などにより、奈良時代以前に大伽藍があったことが確認されている。江戸時代には、尾張四観音の筆頭の格をもち、現在も節分会には多くの参拝客で賑わっている。
南大門は、建久7年 (1196) に源頼朝の命により建立されたという。三間一戸の入母屋・柿葺 (こけらぶき) で、左右に仁王様が安置されている。三重塔は、三間三重塔婆で本瓦葺である。擬宝珠の銘に寛永4年 (1627) とあることから、建立年代は明らかである。いずれも国の重要文化財に指定されている。

長良川の鵜飼
長良川は、岐阜県郡上の大日ヶ岳に源を発し、下流部で揖斐川と合流して伊勢湾に注ぐ。静岡県の柿田川、高知県の四万十川と並んで日本三大清流といわれている。長良川河口堰を除いて、本流にダムのない川である。
金華山の麓、岐阜公園に近い川原町に鵜飼の屋形船乗り場がある。先日、大学卒業50年 (古い!!) を記念するクラス会があり、旧友とともに鵜飼見物を楽しんだ。乗船前に、鵜匠による説明を聞き、船内で食事をしながら観賞する。真っ暗な川面に、篝火だけを頼りに鵜匠や鵜の動きを見る。幻想的な眺めである。

鵜飼は、古代では有効な漁法のひとつで、稲作とともに大陸から伝わったという説がある。長良川の鵜飼は1300年もの歴史があり、時の権力者に保護されてきた。織田信長は 「鵜匠」 という地位を与え、徳川家康はたびたびこの地を訪れて鵜飼を見物したという。
長良川の鵜飼は、日本で唯一の皇室御用達である。鵜匠は 「宮内庁式部職鵜匠」 に位置づけられ、鵜飼用具一式122点は、国の重要有形民俗文化財に指定されている。長良川堤防の脇に鵜匠の家があり、「鵜小屋」 と看板に書かれた建物があった。

金華山の麓、岐阜公園に近い川原町に鵜飼の屋形船乗り場がある。先日、大学卒業50年 (古い!!) を記念するクラス会があり、旧友とともに鵜飼見物を楽しんだ。乗船前に、鵜匠による説明を聞き、船内で食事をしながら観賞する。真っ暗な川面に、篝火だけを頼りに鵜匠や鵜の動きを見る。幻想的な眺めである。

鵜飼は、古代では有効な漁法のひとつで、稲作とともに大陸から伝わったという説がある。長良川の鵜飼は1300年もの歴史があり、時の権力者に保護されてきた。織田信長は 「鵜匠」 という地位を与え、徳川家康はたびたびこの地を訪れて鵜飼を見物したという。
長良川の鵜飼は、日本で唯一の皇室御用達である。鵜匠は 「宮内庁式部職鵜匠」 に位置づけられ、鵜飼用具一式122点は、国の重要有形民俗文化財に指定されている。長良川堤防の脇に鵜匠の家があり、「鵜小屋」 と看板に書かれた建物があった。

岐阜城と金華山ロープウェー
岐阜城が初めて築かれたのは、鎌倉時代の建仁元年 (1201) だといわれている。しかし、日本史に大きく登場するのは、斉藤道三が居城とした戦国時代になってからのことである。道三は天文8年 (1539) に入城し、続いて子の義龍、孫の龍興が城主となった。
永禄10年(1567) に斉藤龍興を破った織田信長が城主となり、名を稲葉山城から岐阜城へと改めた。城下では 「楽市」 を保護し、「天下布武」 を掲げて天下統一の本拠地とした。山頂にある天守閣からは、長良川流域の山々や濃尾平野を一望することができる。信長は、この景色を眺めながら、天下を治める想を練ったのであろう。

慶長5年 (1600) の関が原の戦いでは、城主・織田秀信は豊臣方に味方したので徳川方に攻められ、開城するに至った。翌慶長6年に岐阜城は廃城となって取り壊され、それ以降江戸時代には建てられることはなかった。明治末になって木造の模擬城が建てられたが、昭和18年に焼失してしまった。現在の天守閣は、昭和31年に鉄筋コンクリートで再建されたものである。
金華山ロープウェーは、麓の岐阜公園からの標高差330mを4分で登るものである。山頂の天守閣からは360度の視界が開け、はるか伊勢湾までも望むことができる。真っ平な平野の向うに僅かに見える突起物は、名古屋駅の超高層ビル群である。


永禄10年(1567) に斉藤龍興を破った織田信長が城主となり、名を稲葉山城から岐阜城へと改めた。城下では 「楽市」 を保護し、「天下布武」 を掲げて天下統一の本拠地とした。山頂にある天守閣からは、長良川流域の山々や濃尾平野を一望することができる。信長は、この景色を眺めながら、天下を治める想を練ったのであろう。

慶長5年 (1600) の関が原の戦いでは、城主・織田秀信は豊臣方に味方したので徳川方に攻められ、開城するに至った。翌慶長6年に岐阜城は廃城となって取り壊され、それ以降江戸時代には建てられることはなかった。明治末になって木造の模擬城が建てられたが、昭和18年に焼失してしまった。現在の天守閣は、昭和31年に鉄筋コンクリートで再建されたものである。
金華山ロープウェーは、麓の岐阜公園からの標高差330mを4分で登るものである。山頂の天守閣からは360度の視界が開け、はるか伊勢湾までも望むことができる。真っ平な平野の向うに僅かに見える突起物は、名古屋駅の超高層ビル群である。


隼人池のイヌナシ
名古屋市昭和区の杁中と八事の間に 「隼人池」 という池があり、周囲を含めて公園になっている。この池は、犬山城主・成瀬正虎が正保3年 (1646) に開発した藤成新田への灌漑を目的に造られたものである。池の名前は、正虎の官位が 「隼人正」 であったことに由来する。
池の水は、壇渓付近に樋 (とい) を架けて山崎川を空中で横断し、藤成新田に運ばれていたという。成瀬隼人正正虎は犬山城主であるが、尾張藩の 「附家老」 でもある。附家老とは、幕府から分家に監督として添えられた家老職のことである。

隼人池の東南隣に宝珠院というお寺があり、その門に蓋い被さるようにイヌナシ (マメナシともいう) の大木が生えている。この地はかつて、隼人池に連なる湿地帯であったことから、水湿地に分布するイヌナシが自生していたものと思われる。
イヌナシは、日本では東海地方にのみ自生する野生のナシで、分類学的にも貴重な種である。明治35年に三重県で発見され、牧野富太郎博士が鑑定した結果、新種であることが認められた。分布地が限られていることから、現在の個体数は500ほどと推定されており、絶滅危惧種に指定されている。

池の水は、壇渓付近に樋 (とい) を架けて山崎川を空中で横断し、藤成新田に運ばれていたという。成瀬隼人正正虎は犬山城主であるが、尾張藩の 「附家老」 でもある。附家老とは、幕府から分家に監督として添えられた家老職のことである。

隼人池の東南隣に宝珠院というお寺があり、その門に蓋い被さるようにイヌナシ (マメナシともいう) の大木が生えている。この地はかつて、隼人池に連なる湿地帯であったことから、水湿地に分布するイヌナシが自生していたものと思われる。
イヌナシは、日本では東海地方にのみ自生する野生のナシで、分類学的にも貴重な種である。明治35年に三重県で発見され、牧野富太郎博士が鑑定した結果、新種であることが認められた。分布地が限られていることから、現在の個体数は500ほどと推定されており、絶滅危惧種に指定されている。

町並みの商店
津島神社や天王川公園の界隈を、自転車で散策してみた。町全体が、「湊町」 や 「門前町」 の雰囲気を漂わせ、大正や昭和といった古くて懐かしいお店が点在している。その建物を見ると、構造や構成に共通したものを見ることができる。
下の写真左はお菓子屋さん、川湊の真ん前にあって旅人へのお土産品を商っていたのであろう。中の写真は参道沿いのお茶屋さん、右は薬局で町の人たちの必需品である。瓦屋根の木造二階建て、ガラス戸も今風のアルミサッシでなく木製である。看板がすでに骨董品のように見える。老朽化も進んでいて耐震性には心配があるが、町並みとしては残して欲しい景観である。

“床屋さんの入口が面白いよ” と教えてくれた人がいる。確かに入口のドアが 「ヘの字」 に窪んでいるのである。道路に接して、平行してガラス窓があるのだけれど、ドアのところだけが斜めになっている。その理由をいろいろと、想像たくましく考えてみた。
上の写真のお菓子屋さんなどは引き戸であるが、床屋さんは洋風に開き戸になっている。外に開くと道路に出てしまうので、空間を取ったのかもしれない。傘を畳むための雨除けにもなっている。他所の町で調べたことがないので一概には言えないが、このあたり共通の大工さんの工夫であったのかも知れない。

下の写真左はお菓子屋さん、川湊の真ん前にあって旅人へのお土産品を商っていたのであろう。中の写真は参道沿いのお茶屋さん、右は薬局で町の人たちの必需品である。瓦屋根の木造二階建て、ガラス戸も今風のアルミサッシでなく木製である。看板がすでに骨董品のように見える。老朽化も進んでいて耐震性には心配があるが、町並みとしては残して欲しい景観である。

“床屋さんの入口が面白いよ” と教えてくれた人がいる。確かに入口のドアが 「ヘの字」 に窪んでいるのである。道路に接して、平行してガラス窓があるのだけれど、ドアのところだけが斜めになっている。その理由をいろいろと、想像たくましく考えてみた。
上の写真のお菓子屋さんなどは引き戸であるが、床屋さんは洋風に開き戸になっている。外に開くと道路に出てしまうので、空間を取ったのかもしれない。傘を畳むための雨除けにもなっている。他所の町で調べたことがないので一概には言えないが、このあたり共通の大工さんの工夫であったのかも知れない。

津島の古い町並み
津島市の中央を南北に走る古い街道を 「本町筋」 という。また、「津島上街道」 「下街道」とも呼ぶ。上街道は勝幡・甚目寺を経由して名古屋へ向かい、下街道は佐屋街道へと繋がっている。この街道沿いには古い町並みが残っていて、神社やお寺、古民家や土蔵を見ることができる。
駅前の自転車屋さんでレンタサイクルを借り、まず観光交流センターに寄って町の散策地図を手に入れる。この観光交流センターも古い建物で、昭和4年 (1929) に建てられた 「津島信用金庫本店」 を再利用したものである。室内に 「まきわら舟」 の4分の1の実物が飾られている。

南へ下った町角に大きな石の標柱があり、「左・津島神社参宮道」 と刻まれている。津島湊あるいは佐屋街道からの旅人を、津島神社へ案内するための道標であろう。ここから300mほどで、本殿東側の楼門・大鳥居へと到達することができる。
道標の向かい側に白漆喰に黒板壁の大きな家があった。屋根の形は、速水御舟が日本画 「京の家・奈良の家」 で描いたように、上方が凸形の 「むくり屋根」 になっている。軒の上に 「屋根神様」 が祀られている。その隣には、町屋と土蔵が一体になっている家があった。


駅前の自転車屋さんでレンタサイクルを借り、まず観光交流センターに寄って町の散策地図を手に入れる。この観光交流センターも古い建物で、昭和4年 (1929) に建てられた 「津島信用金庫本店」 を再利用したものである。室内に 「まきわら舟」 の4分の1の実物が飾られている。

南へ下った町角に大きな石の標柱があり、「左・津島神社参宮道」 と刻まれている。津島湊あるいは佐屋街道からの旅人を、津島神社へ案内するための道標であろう。ここから300mほどで、本殿東側の楼門・大鳥居へと到達することができる。
道標の向かい側に白漆喰に黒板壁の大きな家があった。屋根の形は、速水御舟が日本画 「京の家・奈良の家」 で描いたように、上方が凸形の 「むくり屋根」 になっている。軒の上に 「屋根神様」 が祀られている。その隣には、町屋と土蔵が一体になっている家があった。

