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作手の大木
作手には、いくつかの城跡と数多くの神社・仏閣があり、その境内や裏山に古木・大木がありますのでご紹介します。
◆ サクラ・・・石橋城跡は、今は石橋山慈昌寺というお寺になっている。石橋城は奥平氏二代目の弾昌久勝が最初の城主であったが、主君への謀反が露見して攻められ、討ち死にしてしまった。後世、当山の第二世和尚が一族の滅亡を哀れみ、この地を貰い受けて寺にしたという。墓所の斜面に植えられたサクラの大木は、久勝に因んで「弾昌桜」と呼ばれている。

◆ ヒノキ・・・白鳥神社は日本武命を祭神とし、村民は「古宮」と称して崇敬してきた。神社の裏山が「古宮城」で、元亀2年(1573)に甲斐の武田信玄が三河攻略の拠点として築城したものである。境内右手の山への登り口が、古宮城の「虎口」のあったところである。裏山はスギやヒノキの樹林となっているが、その中に一際目立つのが「大ヒノキ」で御神木になっている。樹高29m・幹周り5.8m・樹齢600年といわれている。

◆ コウヤマキ・・・翔龍山甘泉寺は、その境内に「鳥居強右衛門」の墓所があることでも有名である。本堂左手の山裾に国内一の巨樹といわれるコウヤマキがある。この樹は、この寺を開山した和尚が、高野山からついてきた杖を差したところ根付いて成長したのだという。今から600年ほど昔の話である。
樹高27m・幹周り6.3m、国の天然記念物であり「新・日本名木百選」にも選ばれている。「コウヤマキ」はスギ科コウヤマキ属の常緑針葉樹で、日本と済州島のみに自生する固有種である。平成18年に誕生した悠仁親王の「お印」になっている。

◆ サクラ・・・石橋城跡は、今は石橋山慈昌寺というお寺になっている。石橋城は奥平氏二代目の弾昌久勝が最初の城主であったが、主君への謀反が露見して攻められ、討ち死にしてしまった。後世、当山の第二世和尚が一族の滅亡を哀れみ、この地を貰い受けて寺にしたという。墓所の斜面に植えられたサクラの大木は、久勝に因んで「弾昌桜」と呼ばれている。

◆ ヒノキ・・・白鳥神社は日本武命を祭神とし、村民は「古宮」と称して崇敬してきた。神社の裏山が「古宮城」で、元亀2年(1573)に甲斐の武田信玄が三河攻略の拠点として築城したものである。境内右手の山への登り口が、古宮城の「虎口」のあったところである。裏山はスギやヒノキの樹林となっているが、その中に一際目立つのが「大ヒノキ」で御神木になっている。樹高29m・幹周り5.8m・樹齢600年といわれている。

◆ コウヤマキ・・・翔龍山甘泉寺は、その境内に「鳥居強右衛門」の墓所があることでも有名である。本堂左手の山裾に国内一の巨樹といわれるコウヤマキがある。この樹は、この寺を開山した和尚が、高野山からついてきた杖を差したところ根付いて成長したのだという。今から600年ほど昔の話である。
樹高27m・幹周り6.3m、国の天然記念物であり「新・日本名木百選」にも選ばれている。「コウヤマキ」はスギ科コウヤマキ属の常緑針葉樹で、日本と済州島のみに自生する固有種である。平成18年に誕生した悠仁親王の「お印」になっている。

作手の湿地
作手にはたくさんの湿地が残っている。先々回の記事で書いたように、作手の盆地は、太古の湖が次第に湿地に変わり、人の手が入った後に水田になったものと思われる。分水点のあたりは「大野原湿地」と呼ばれた最大の湿地であったが、今は水田になっている。
長い間湿地状態が続くと、枯れた草が堆積して泥炭層(ピート層)となる。大野原湿地では最も深いところで4mもの厚さだという。丘陵地の麓近くにある「長ノ山湿原」(左の写真)の泥炭層は、約2mである。この湿原は水位が高い所と低い所を併せもつ典型的な「中間湿原」である。

山間の浅い谷にある「黒瀬原湿地」(右の写真)は棚田状の水田であったが、長年耕作が行なわれずに放置されたために元の湿地状態に戻ったのだという。見学ができるように園路や木道などが整備され、植物や昆虫、魚などの説明看板も設置されている。
幼虫の時代に水中で生息する(ヤゴと呼ぶ)トンボの仲間が豊富で、世界一小さな「ハッチョウトンボ」(2017年8月11日掲載の「豊明の湿地その1」参照)も見られる。植物では、スイレンの野生種ヒツジグサや食虫植物のタヌキモ・ミミカキグサなどが生えている。下の4枚は、この地に自生する種であるが、他所で撮影した写真である。

長い間湿地状態が続くと、枯れた草が堆積して泥炭層(ピート層)となる。大野原湿地では最も深いところで4mもの厚さだという。丘陵地の麓近くにある「長ノ山湿原」(左の写真)の泥炭層は、約2mである。この湿原は水位が高い所と低い所を併せもつ典型的な「中間湿原」である。

山間の浅い谷にある「黒瀬原湿地」(右の写真)は棚田状の水田であったが、長年耕作が行なわれずに放置されたために元の湿地状態に戻ったのだという。見学ができるように園路や木道などが整備され、植物や昆虫、魚などの説明看板も設置されている。
幼虫の時代に水中で生息する(ヤゴと呼ぶ)トンボの仲間が豊富で、世界一小さな「ハッチョウトンボ」(2017年8月11日掲載の「豊明の湿地その1」参照)も見られる。植物では、スイレンの野生種ヒツジグサや食虫植物のタヌキモ・ミミカキグサなどが生えている。下の4枚は、この地に自生する種であるが、他所で撮影した写真である。

作手の見代発電所跡
本宮山スカイライン入口のある和田峠を北東に進んだところに、愛知県では2番目にできた発電所の跡がある。見代発電所という。日本での水力発電所は、明治21年(1888)に宮城県でできたのが最初であるが、この発電所も古く、明治41年(1908)に送電を開始した。
水源は約2.5km離れたところにあり、木や鉄の樋、石の開渠などによって貯水槽に運ばれ、約100mの落差を使って横軸2基の発電機を回す。電気は豊橋の変電所に送られたが、地元集落21戸の電灯にも使われたという。

昭和34年(1959)に発電を停止して機械設備はなくなったが、木造平屋の建物は今も残っている。アメリカ下見板張りで上げ下げ窓の洋風建築である。土台石積みの下方に、半円形の排水口が見える。ここから巴川に直接水を流していた。
水の取入れ側の壁面は石造りである。落差100mもの水の勢いを受け止めるため、頑丈な造りとしたのであろう。廃止後は茶工場などに使われていたが、今は空き家になっている。しかし最近、建物内に「薪ストーブ」を設置し、間伐財などを利用した「再生エネルギー塾」が動き出している。若い人たちの体験活動の場として再利用されるようになった。


水源は約2.5km離れたところにあり、木や鉄の樋、石の開渠などによって貯水槽に運ばれ、約100mの落差を使って横軸2基の発電機を回す。電気は豊橋の変電所に送られたが、地元集落21戸の電灯にも使われたという。

昭和34年(1959)に発電を停止して機械設備はなくなったが、木造平屋の建物は今も残っている。アメリカ下見板張りで上げ下げ窓の洋風建築である。土台石積みの下方に、半円形の排水口が見える。ここから巴川に直接水を流していた。
水の取入れ側の壁面は石造りである。落差100mもの水の勢いを受け止めるため、頑丈な造りとしたのであろう。廃止後は茶工場などに使われていたが、今は空き家になっている。しかし最近、建物内に「薪ストーブ」を設置し、間伐財などを利用した「再生エネルギー塾」が動き出している。若い人たちの体験活動の場として再利用されるようになった。


新城・作手の分水点
三河の中央地点、作手(平成17年までは作手村、現在は合併して新城市)に2本の川が流れている。ところが、名前はどちらも「巴川」である。西に向かう方は矢作川につながって、豊田・西尾方面へと流れていく。東へ向かった流れは、豊川に注いで豊橋に至る。
作手盆地の中央あたりに不思議な標柱が建っていて、「分水点」と記されている。普通、「分水嶺」という言葉はよく耳にする。山の稜線を境に、右は日本海へ、左は太平洋に別れるなどの「嶺(みね)」である。しかし、ここは平らな田圃の真ん中にある。ここで流れが左右に分かれるとは不思議な光景である。

作手盆地は標高550mの高原で、周りを700~800mの山々、本宮山・竜頭山・巴山などに囲まれている。太古にあった大きな湖が干上がって、広大な湿地に化したのだという説がある。少なくとも荘園時代から、水田があったともいわれている。
東へ流れる巴川のほとりに旭小学校の跡地があり、そこに大きなイチョウの木があって根元に看板が立っていた。とても珍しいもので、「オハツキイチョウ」と呼ばれる変種である。“お葉付き”の意で、葉の先端に「おしべ」と同様のヤク(葯=花粉をつくる)が付いているのである。雄の木では全国に2例しかない貴重な木だとの説明が書かれていた。

作手盆地の中央あたりに不思議な標柱が建っていて、「分水点」と記されている。普通、「分水嶺」という言葉はよく耳にする。山の稜線を境に、右は日本海へ、左は太平洋に別れるなどの「嶺(みね)」である。しかし、ここは平らな田圃の真ん中にある。ここで流れが左右に分かれるとは不思議な光景である。

作手盆地は標高550mの高原で、周りを700~800mの山々、本宮山・竜頭山・巴山などに囲まれている。太古にあった大きな湖が干上がって、広大な湿地に化したのだという説がある。少なくとも荘園時代から、水田があったともいわれている。
東へ流れる巴川のほとりに旭小学校の跡地があり、そこに大きなイチョウの木があって根元に看板が立っていた。とても珍しいもので、「オハツキイチョウ」と呼ばれる変種である。“お葉付き”の意で、葉の先端に「おしべ」と同様のヤク(葯=花粉をつくる)が付いているのである。雄の木では全国に2例しかない貴重な木だとの説明が書かれていた。

蒲郡・稲生港石積防波堤
蒲郡の海岸には、たくさんの港が並んでいる。東からラグーナ蒲郡・三谷漁港・蒲郡港・形原漁港・倉舞港・知柄漁港・東幡豆港などである。三河湾のゆたかな魚介類の水揚げのために古くから立地している。
三河湾に突き出した西浦半島の東海岸、形原漁港の南に「稲生港」がある。この港の歴史は古く、文亀年間(1501~1503)には突堤が築かれたという。明治28年(1895)に船囲堤が修築されたが、これは半円形に水面を囲む小規模なものであった。

現在残されている「稲生港石積防波堤」は長さ171m、高さ6m、花崗岩を積上げた堂々たる堤防である。建造は大正9年(1920)、船主仲間で造ったという石碑が残っており、地元漁民も工事を手伝ったという。平成17年(2005)に土木学会選奨土木遺産に指定された。
花崗岩は「幡豆石」と呼ばれるものであるが、地元の人たちはこの地に産する「西浦石」であり、このふたつは違うのだという。西浦石は割れやすいのが特徴で、大坂城や名古屋城の石垣にも使われている。防波堤の天端には、石で造った「繋船柱」が5間(9m)間隔で建っているが、これは全国的にも珍しいものという。

三河湾に突き出した西浦半島の東海岸、形原漁港の南に「稲生港」がある。この港の歴史は古く、文亀年間(1501~1503)には突堤が築かれたという。明治28年(1895)に船囲堤が修築されたが、これは半円形に水面を囲む小規模なものであった。

現在残されている「稲生港石積防波堤」は長さ171m、高さ6m、花崗岩を積上げた堂々たる堤防である。建造は大正9年(1920)、船主仲間で造ったという石碑が残っており、地元漁民も工事を手伝ったという。平成17年(2005)に土木学会選奨土木遺産に指定された。
花崗岩は「幡豆石」と呼ばれるものであるが、地元の人たちはこの地に産する「西浦石」であり、このふたつは違うのだという。西浦石は割れやすいのが特徴で、大坂城や名古屋城の石垣にも使われている。防波堤の天端には、石で造った「繋船柱」が5間(9m)間隔で建っているが、これは全国的にも珍しいものという。

木曽川・トンボ池の「聖牛」
「トンボ池」は、木曽川の本流が取り残されてできた池で、「河跡湖」と呼ばれるものである。西に向かって流れていた木曽川が、南へ向きを変えるあたりの右岸、岐阜県笠松町にある。この池の干上がったところに「聖牛」が設置されている。「ひじりうし」と読む。
「聖牛」とは、角の生えた牛が寝そべっているような形に見えるところからの命名である。元々は丸太を三角錘に組み合わせるが、ここでは耐久性を考えてコンクリート製の四角い柱を鉄線で縛り付けている。根元は、大きな玉石で支えられている。

この砂防施設は、武田信玄が創案したといわれている。洪水時に上流から流されてきた土砂を、岸側に堆積させることで堤防を守ることができる。江戸時代から盛んに築かれ、山梨県の釜無川・笛吹川や静岡県の天竜川・富士川などに設置されている。木曽川の聖牛は大正13年から昭和13年にかけて設置された。
現在のトンボ池は本流からかなり離れているので、地盤も安定して大きな樹木が繁茂している。このような水湿地にはヤナギのような水を好む植物が自生する。その中に「アカメヤナギ(マルバヤナギ)」の群生があった。この木は、鶴舞公園のベビーゴルフ場にも2本残っている。ここはかつての「鯱ヶ池」の跡地で、やはり水湿地であった。

「聖牛」とは、角の生えた牛が寝そべっているような形に見えるところからの命名である。元々は丸太を三角錘に組み合わせるが、ここでは耐久性を考えてコンクリート製の四角い柱を鉄線で縛り付けている。根元は、大きな玉石で支えられている。

この砂防施設は、武田信玄が創案したといわれている。洪水時に上流から流されてきた土砂を、岸側に堆積させることで堤防を守ることができる。江戸時代から盛んに築かれ、山梨県の釜無川・笛吹川や静岡県の天竜川・富士川などに設置されている。木曽川の聖牛は大正13年から昭和13年にかけて設置された。
現在のトンボ池は本流からかなり離れているので、地盤も安定して大きな樹木が繁茂している。このような水湿地にはヤナギのような水を好む植物が自生する。その中に「アカメヤナギ(マルバヤナギ)」の群生があった。この木は、鶴舞公園のベビーゴルフ場にも2本残っている。ここはかつての「鯱ヶ池」の跡地で、やはり水湿地であった。

庄内用水「元杁樋門(もといりひもん)」
守山区の庄内川に「水分橋」という橋がある。名のとおり、庄内川から水を分けて、庄内用水・黒川・堀川へと流す分岐点である。水分橋のすぐ上流にあるダムのような頭首工により水位を上げ、樋門をくぐって庄内用水へと水を運ぶのである。
この樋門が特殊なのは、単に水の取入れ口だけでなく、舟が通過する機能をもつことである。かつて、木曽川の石や天然氷などを犬山方面から八田川を通り、黒川から名古屋へ運ぶための水運が活発だったという。樋門は2本のアーチ型トンネルになっているが、高さは舟が通れるように3.2mもある。長さ30mのトンネル内では、竿が使えないので、鎖が巡らされていたという。

黒川が開削されたのは明治10年(1877)、樋門が築造されたのは明治43年(1910)のことである。トンネルの出入り口には、取水量の調節や洪水時の止水のための木製ゲートが設備されている。ゲートは、上半分が観音開きで下はスライド式である。スライドは、歯車とネジにより止水板を上下する方式である。
昭和63年に新しい樋門が建てられたので現在は役割を終えているが、貴重な土木遺産として保存されている。下右の写真は改造前に上空から撮影したもので、ネットからお借りした。


この樋門が特殊なのは、単に水の取入れ口だけでなく、舟が通過する機能をもつことである。かつて、木曽川の石や天然氷などを犬山方面から八田川を通り、黒川から名古屋へ運ぶための水運が活発だったという。樋門は2本のアーチ型トンネルになっているが、高さは舟が通れるように3.2mもある。長さ30mのトンネル内では、竿が使えないので、鎖が巡らされていたという。

黒川が開削されたのは明治10年(1877)、樋門が築造されたのは明治43年(1910)のことである。トンネルの出入り口には、取水量の調節や洪水時の止水のための木製ゲートが設備されている。ゲートは、上半分が観音開きで下はスライド式である。スライドは、歯車とネジにより止水板を上下する方式である。
昭和63年に新しい樋門が建てられたので現在は役割を終えているが、貴重な土木遺産として保存されている。下右の写真は改造前に上空から撮影したもので、ネットからお借りした。

