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松坂城「御城番屋敷」
本丸の南東にある裏門を出てしばらく行くと、お城番の屋敷が並んでいる。瓦葺の長屋が二棟、東棟が10戸、西棟は9戸、合わせて19戸である。建物は高い槇(マキ)の生垣で囲まれ、現在も住む人々の生活を、観光客の目から守っている。真ん中の小路は景観を配慮して、電柱はなく石畳が施されている。
西棟の最北の1戸は松阪市が借用し、内部を創建当時の姿に復元して一般公開している。建物は5間×5間、いわゆる「田の字」になっており、裏面に角屋が付随して厠などになっている。築後140年を越え、老朽化も進んでいるので、鉄の円柱と鉄線などで補強が行われていた。

元々の住民の方が案内員として常駐され、細かく説明してくれた。それによると、“紀州藩主から松坂に遣わされた与力(2~300石取りの藩士)が、家老家の陪臣となるように命ぜられたことに抗議して、安政3年(1856)に脱藩して浪人になった。”
“その6年後、藩主の直臣として帰参が許され、40石取りの御城番に就いてこの屋敷を与えられた。” のだという。明治になって住民たちは、合資会社「苗秀社」を設立して建物の維持管理に当たってきた。現在は、国の重要文化財に指定されている。

西棟の最北の1戸は松阪市が借用し、内部を創建当時の姿に復元して一般公開している。建物は5間×5間、いわゆる「田の字」になっており、裏面に角屋が付随して厠などになっている。築後140年を越え、老朽化も進んでいるので、鉄の円柱と鉄線などで補強が行われていた。

元々の住民の方が案内員として常駐され、細かく説明してくれた。それによると、“紀州藩主から松坂に遣わされた与力(2~300石取りの藩士)が、家老家の陪臣となるように命ぜられたことに抗議して、安政3年(1856)に脱藩して浪人になった。”
“その6年後、藩主の直臣として帰参が許され、40石取りの御城番に就いてこの屋敷を与えられた。” のだという。明治になって住民たちは、合資会社「苗秀社」を設立して建物の維持管理に当たってきた。現在は、国の重要文化財に指定されている。

松坂城跡
松坂城は、秀吉の家臣・蒲生氏郷が天正16年(1588)に築城した。松阪の地は伊勢平野の津と伊勢との中間地にあり、奈良・京都方面へ向かう街道の分岐点に当たる。松坂城は、この交通の要所の小高い「四五百森」(よいほのもり)につくられた平山城である。城跡に立つと、松阪の町並みとその向こうに紀伊の山々を望むことができる。
氏郷が陸奥黒川(今の福島県)に移封された後、何人かの城主が入城した。元和5年(1619)に徳川頼宜が和歌山城主になると、松坂は和歌山藩領となり、18万石を領する城代が置かれていた。この状態は明治になるまで続き、廃藩後の明治14年に松阪公園となって現在に至っている。

城は、本丸・二ノ丸・三ノ丸・隠居丸・きたい丸からなり、三層の天守が聳えていたが正保元年(1644)の台風で倒壊したと伝えられる。その後、天守閣は再建されることはなく、現在は石垣を残すのみである。公園利用者は階段を登り、石垣の上に立つことができるが、全く柵がなく、安全は〝自己責任?”ということになっている。
表門を入った遠見櫓の近くに、個性的な建物がある。明治43年の皇太子行啓を記念して飯南郡図書館として建てられたものである。入母屋造りの二階建てが左右対称にあり、真ん中は唐破風の玄関である。昭和52年に図書館が移転した後は、松阪市立歴史民俗資料館として使用されている。


氏郷が陸奥黒川(今の福島県)に移封された後、何人かの城主が入城した。元和5年(1619)に徳川頼宜が和歌山城主になると、松坂は和歌山藩領となり、18万石を領する城代が置かれていた。この状態は明治になるまで続き、廃藩後の明治14年に松阪公園となって現在に至っている。

城は、本丸・二ノ丸・三ノ丸・隠居丸・きたい丸からなり、三層の天守が聳えていたが正保元年(1644)の台風で倒壊したと伝えられる。その後、天守閣は再建されることはなく、現在は石垣を残すのみである。公園利用者は階段を登り、石垣の上に立つことができるが、全く柵がなく、安全は〝自己責任?”ということになっている。
表門を入った遠見櫓の近くに、個性的な建物がある。明治43年の皇太子行啓を記念して飯南郡図書館として建てられたものである。入母屋造りの二階建てが左右対称にあり、真ん中は唐破風の玄関である。昭和52年に図書館が移転した後は、松阪市立歴史民俗資料館として使用されている。


そらさんぽ天竜峡
三遠南信自動車道の天竜峡ICから竜江ICが、11月17日に開通した。さっそく翌日の18日に車で走り、天竜峡ICから千代ICまでを往復してみた。千代ICはハーフ・インターチェンジで、天竜峡方面へは登り降りできるが、竜江方面へは行くことができない。
その1週間前の10日には、天竜峡大橋が完成し渡り初めが行われた。この橋の下部には人の歩ける通路があり「そらさんぽ天竜峡」と名付けられている。幅は2mほど、両側は天井から床までが網状になっており、外の景色がよく見える。天竜峡ICの駐車場から行くことができる。

橋の中間点が少し広くなっていて、天竜川の真上に当たっている。ここからは、大きく蛇行する峡谷やちょうど色づき始めた雑木林を見ることができる。また、JR飯田線の線路や鉄橋も見える。川面に映る影は、スレンダーな形のアーチ橋の姿そのものである。

その1週間前の10日には、天竜峡大橋が完成し渡り初めが行われた。この橋の下部には人の歩ける通路があり「そらさんぽ天竜峡」と名付けられている。幅は2mほど、両側は天井から床までが網状になっており、外の景色がよく見える。天竜峡ICの駐車場から行くことができる。

橋の中間点が少し広くなっていて、天竜川の真上に当たっている。ここからは、大きく蛇行する峡谷やちょうど色づき始めた雑木林を見ることができる。また、JR飯田線の線路や鉄橋も見える。川面に映る影は、スレンダーな形のアーチ橋の姿そのものである。

揖斐川の横山ダム
木曽三川についての言い伝えに「四刻・八刻・十二刻」というのがある。揖斐川は急流であるので、上流で大雨が降ると四刻(約8時間)で下流が洪水になるとの意味。長良川では16時間、木曽川では24時間かかるということである。(ちなみに欧州のドナウ川では、1週間以上かかる)
揖斐川は、福井県との県境「冠山」(標高1275m)を源流とし、濃尾平野の西側を流れて伊勢湾に注ぐ。延長121km、流域面積1840平方kmの一級河川である。大垣市を中心とする下流域には、文化・産業面で重要な役割を果たすとともに、たびたび洪水被害をもたらしてきた。

横山ダムは、治水や水資源に対する地域要請により建設された。昭和26年から調査が始められ、昭和34年に着工、昭和39年に完成した。堤高約80m、堤頂長220mで型式は「中空重力式コンクリートダム」である。発電能力は、最大出力7万kwである。(下左の写真が発電所)
“中空”というのは大変珍しい形式で、全国3000あるダムの中で13か所しかないという。昭和30年代には貴重であったコンクリートを節約するため、ダム内部に空洞をつくることでコンクリート量を減らす設計になっているのである。(下右の写真がダム中空の内部)
平成20年、横山ダムの約10km上流に「徳山ダム」が完成した。高さも長さや発電量も2倍近い大型のロックフィルダムである。両ダムは連携しながら、地域の人々を洪水の危険から守っている。

揖斐川は、福井県との県境「冠山」(標高1275m)を源流とし、濃尾平野の西側を流れて伊勢湾に注ぐ。延長121km、流域面積1840平方kmの一級河川である。大垣市を中心とする下流域には、文化・産業面で重要な役割を果たすとともに、たびたび洪水被害をもたらしてきた。

横山ダムは、治水や水資源に対する地域要請により建設された。昭和26年から調査が始められ、昭和34年に着工、昭和39年に完成した。堤高約80m、堤頂長220mで型式は「中空重力式コンクリートダム」である。発電能力は、最大出力7万kwである。(下左の写真が発電所)
“中空”というのは大変珍しい形式で、全国3000あるダムの中で13か所しかないという。昭和30年代には貴重であったコンクリートを節約するため、ダム内部に空洞をつくることでコンクリート量を減らす設計になっているのである。(下右の写真がダム中空の内部)
平成20年、横山ダムの約10km上流に「徳山ダム」が完成した。高さも長さや発電量も2倍近い大型のロックフィルダムである。両ダムは連携しながら、地域の人々を洪水の危険から守っている。

三遠南信自動車道「イタチ川大橋」(再掲)
天竜峡大橋は一足早く、11月10日に開通した。明後日17日には、天竜峡ICから竜江ICまでが開通する。この区間には、3年前の2016年11月21日に掲載した「イタチ川大橋」も含まれている。ユニークな橋ですので、ここに再掲してご紹介します。
長野県飯田市で行なわれている 「イタチ川大橋」 の工事現場を見学させていただいた。三遠南信自動車道というのは、愛知県三河、静岡県浜松 (遠州) と長野県飯田 (南信州) を結ぶことからの命名である。現在、南からは鳳来峡ICまで、北からは天竜峡ICまで開通しており、それぞれ、その先が工事中となっている。
飯田では、天竜川を跨ぐ橋と、もう少し山へ入った 「イタチ川」 に架かる橋を整備中である。「イタチ川大橋」 は、一本の橋脚の両側へ片持ち梁を伸ばす 「Tラーメン橋」 という構造である。現在下部工は完成し、梁の左右バランスを取りながら延伸しているところであった。橋脚の高さは約75m、箱桁の長さは206mである。コンクリートの総量は、約2500㎥にもおよぶという。この形式の橋としては全国2番目の長さであると、国道事務所監督官の方から説明していただいた。

作業用のエレベーターに載せていただいて、橋の上に登ることができた。工事用の資材が整然と置かれており、横断幕には安全を喚起するため 「指差呼称で危険ゼロ」 と記してある。高所での作業による転落などの危険も多く、安全に対する厳しい姿勢が伝わってくる。
橋の上からの景色が素晴らしい。手前の山から天竜川沿いの町や田園を越えて、ピラミッド型の風越山 (飯田の人たちは親しみを込めて 「権現山」 と呼ぶ) や中央アルプスの峰々が見える。道路が完成すれば、春の新緑や秋の紅葉が楽しめるドライブコースになるものと思われる。

長野県飯田市で行なわれている 「イタチ川大橋」 の工事現場を見学させていただいた。三遠南信自動車道というのは、愛知県三河、静岡県浜松 (遠州) と長野県飯田 (南信州) を結ぶことからの命名である。現在、南からは鳳来峡ICまで、北からは天竜峡ICまで開通しており、それぞれ、その先が工事中となっている。
飯田では、天竜川を跨ぐ橋と、もう少し山へ入った 「イタチ川」 に架かる橋を整備中である。「イタチ川大橋」 は、一本の橋脚の両側へ片持ち梁を伸ばす 「Tラーメン橋」 という構造である。現在下部工は完成し、梁の左右バランスを取りながら延伸しているところであった。橋脚の高さは約75m、箱桁の長さは206mである。コンクリートの総量は、約2500㎥にもおよぶという。この形式の橋としては全国2番目の長さであると、国道事務所監督官の方から説明していただいた。

作業用のエレベーターに載せていただいて、橋の上に登ることができた。工事用の資材が整然と置かれており、横断幕には安全を喚起するため 「指差呼称で危険ゼロ」 と記してある。高所での作業による転落などの危険も多く、安全に対する厳しい姿勢が伝わってくる。
橋の上からの景色が素晴らしい。手前の山から天竜川沿いの町や田園を越えて、ピラミッド型の風越山 (飯田の人たちは親しみを込めて 「権現山」 と呼ぶ) や中央アルプスの峰々が見える。道路が完成すれば、春の新緑や秋の紅葉が楽しめるドライブコースになるものと思われる。

鎌倉・鶴岡八幡宮の大銀杏
今日は令和1年11月11日、何と1が5つも並んでいる。改元の年しか巡り会えない珍しい事象である。さらに10年後には、令和11年11月11日という日がやってくる。このブログは現在530回の発信を数えるが、10年後まで書き続けて1000回を超えたいものと願っている。
人の命は長くても100年ほどであるが、長寿の樹木イチョウは1000年以上も生き続けるという。鎌倉・鶴岡八幡宮の大石段の脇に1000年を超えると言われる大イチョウがあった。3代将軍源実朝を暗殺(1219)した公暁が隠れていたとも言われる有名なイチョウである。

ところが平成22年(2010)3月10日未明、強風に煽られて、この老樹は根元から倒伏してしまった。鶴岡八幡宮では再生・再起を願って、根元の幹は10mほど西側に移植し(上右の写真)、残された根株(下2枚の写真)も囲いをして保全をすることとした。
約10年を経た今年秋に訪れてみると、移植した幹の根元から萌芽(ヤゴ)が何本も出ていた。元の位置に残された根株の方からも1本の若木が芽生え、すでに10mほどにも伸びている。イチョウは、進化の過程から見ると原始的な種で、それだけに強靭な生命力をもっているようだ。


人の命は長くても100年ほどであるが、長寿の樹木イチョウは1000年以上も生き続けるという。鎌倉・鶴岡八幡宮の大石段の脇に1000年を超えると言われる大イチョウがあった。3代将軍源実朝を暗殺(1219)した公暁が隠れていたとも言われる有名なイチョウである。

ところが平成22年(2010)3月10日未明、強風に煽られて、この老樹は根元から倒伏してしまった。鶴岡八幡宮では再生・再起を願って、根元の幹は10mほど西側に移植し(上右の写真)、残された根株(下2枚の写真)も囲いをして保全をすることとした。
約10年を経た今年秋に訪れてみると、移植した幹の根元から萌芽(ヤゴ)が何本も出ていた。元の位置に残された根株の方からも1本の若木が芽生え、すでに10mほどにも伸びている。イチョウは、進化の過程から見ると原始的な種で、それだけに強靭な生命力をもっているようだ。


根尾谷断層
明治24年(1891)10月28日午前6時37分、天地をひっくり返すような激震が起きた。根尾谷を震源とする「濃尾地震」である。推定マグニチュード8.0、震度7は、日本の内陸部で起きた最大級の直下型地震である。14万戸の家屋が倒壊し、7000人以上の人が亡くなった。
地震を引き起こした「根尾谷断層系」は、延長約80kmという長い断層である。このうち根尾水島地区では上下に6m、長さが1000mにも及ぶ「断層崖」が出現した。このような大規模な断層崖は世界的にも珍しく、地震研究のきっかけにもなり、国の特別天然記念物にもなっている。

樽見鉄道の水島駅と高尾駅の間の車窓から、「地震断層観察館」の建物が見える。正方形で三角の屋根と、円筒形の2棟を組み合わせた瀟洒な建物である。円形の建物には、地震資料館と地震体験館があり、三角屋根の下には、実際の断層面を保存展示する地下観察館がある。
地下観察館では深さが10m近い方形の穴が掘られていて、6mもの地層のずれを目の当たりに見ることができる。土の色の違いや礫の大小により、右と左の地層の違いがはっきりと確認できる。今、南海トラフの巨大地震や内陸の直下型地震がいつ発生しても不思議でないという。6mもの亀裂ができるような地震が起これば、その被害は測り知れないものとなるであろう。

地震を引き起こした「根尾谷断層系」は、延長約80kmという長い断層である。このうち根尾水島地区では上下に6m、長さが1000mにも及ぶ「断層崖」が出現した。このような大規模な断層崖は世界的にも珍しく、地震研究のきっかけにもなり、国の特別天然記念物にもなっている。

樽見鉄道の水島駅と高尾駅の間の車窓から、「地震断層観察館」の建物が見える。正方形で三角の屋根と、円筒形の2棟を組み合わせた瀟洒な建物である。円形の建物には、地震資料館と地震体験館があり、三角屋根の下には、実際の断層面を保存展示する地下観察館がある。
地下観察館では深さが10m近い方形の穴が掘られていて、6mもの地層のずれを目の当たりに見ることができる。土の色の違いや礫の大小により、右と左の地層の違いがはっきりと確認できる。今、南海トラフの巨大地震や内陸の直下型地震がいつ発生しても不思議でないという。6mもの亀裂ができるような地震が起これば、その被害は測り知れないものとなるであろう。

天竜峡大橋とラウンドアバウト
三遠・南信自動車道の天竜峡ICと千代ICを結ぶ「天竜峡大橋」が、明日11月10日に開通する。期せずして天皇陛下の即位祝賀パレードと同じ日になった。長さ280m、天竜川からの高さは約80mである。この開通により、中央自動車道から喬木方面へのアクセスが格段に便利になる。
アーチ橋ではあるが、独特のスレンダーなシルエットにデザインされている。これは名勝地「天竜峡」の美しい自然景観との調和を考えたものである。また、車道の真下に歩行者通路が設けられているのも特色である。中間点の展望スポットからは天竜峡の絶景を見渡すことができる。

天竜峡インターチェンジの一角に新たな「ラウンドアバウト」が整備されている。ロータリーとも呼ぶ信号のない交差点である。国道151号から、天竜峡大橋へ向かう道路と地域道路との交差点に位置する。飯田市では、有名なリンゴ並木近くにも、既に2か所設置されている。
ヨーロッパ諸国では、郊外の交差点はラウンドアバウトが主流である。交通量も少なく見通しの良い農村地帯では、信号を設置するよりよほど効率的なのであろう。ただ日本では、まだ数も少ないことから運転手が戸惑うことも多く、交差点前にたくさんの注意看板が立っていた。

◆2年前に、施工中の記事を掲載しましたので、ここに「再掲」します◆
三遠南信自動車道 (国道474号) は、三河・遠州 (浜松) と南信州 (飯田) を結ぶ、延長約100kmの高規格道路である。飯田方面からは現在、中央自動車道・飯田山本インターから、天竜峡までが共用されているが、その先、龍江へ向けて工事が進んでいる。
その中でも最も大規模なのは 「天龍峡大橋」 の建設である。来年度の開通を目指して、着々と工事が進んでいる。橋の長さは280m、形式は鋼上式アーチ橋 (バスケットハンドル型固定アーチ) である。架設の方法は、ケーブル工エレクション斜吊り工法という。

建設場所は、天龍奥三河国定公園の名勝 「天龍峡」 である。天竜川が深く刻み込んだ断崖絶壁が続く渓谷は、新緑・紅葉の美しい風光明媚な観光地である。橋の形状は、渓谷によく調和するように、スレンダーなアーチを採用した。色彩も周辺の景観に馴染むように 「山鳩色」 にする予定である (上の写真:現地に設置された広報看板)。大橋は自動車専用のため自動車しか通行できないが、桁下に幅2mの歩道を設置し、天龍峡周遊歩道の一部として魅力向上を図ることになっている。
現在、川の両側に仮設の鉄塔が組まれ、ケーブルにより部材を運搬している (下左の写真)。最近、アーチが繋がり、天竜川の上空に完成を予想できるような姿が現れている。散策路途中の吊橋から下流を見ると、橋の下にJR飯田線の鉄橋や 「天龍下り」の船を見ることができる (下右の写真)。
さらに下の3枚の写真は、天龍峡の渓谷美を写したものである。スリル満点の吊橋は、よくサスペンス・ドラマの舞台として登場する (このブログでも、平成26年8月15日に紹介した)。


アーチ橋ではあるが、独特のスレンダーなシルエットにデザインされている。これは名勝地「天竜峡」の美しい自然景観との調和を考えたものである。また、車道の真下に歩行者通路が設けられているのも特色である。中間点の展望スポットからは天竜峡の絶景を見渡すことができる。

天竜峡インターチェンジの一角に新たな「ラウンドアバウト」が整備されている。ロータリーとも呼ぶ信号のない交差点である。国道151号から、天竜峡大橋へ向かう道路と地域道路との交差点に位置する。飯田市では、有名なリンゴ並木近くにも、既に2か所設置されている。
ヨーロッパ諸国では、郊外の交差点はラウンドアバウトが主流である。交通量も少なく見通しの良い農村地帯では、信号を設置するよりよほど効率的なのであろう。ただ日本では、まだ数も少ないことから運転手が戸惑うことも多く、交差点前にたくさんの注意看板が立っていた。

◆2年前に、施工中の記事を掲載しましたので、ここに「再掲」します◆
三遠南信自動車道 (国道474号) は、三河・遠州 (浜松) と南信州 (飯田) を結ぶ、延長約100kmの高規格道路である。飯田方面からは現在、中央自動車道・飯田山本インターから、天竜峡までが共用されているが、その先、龍江へ向けて工事が進んでいる。
その中でも最も大規模なのは 「天龍峡大橋」 の建設である。来年度の開通を目指して、着々と工事が進んでいる。橋の長さは280m、形式は鋼上式アーチ橋 (バスケットハンドル型固定アーチ) である。架設の方法は、ケーブル工エレクション斜吊り工法という。

建設場所は、天龍奥三河国定公園の名勝 「天龍峡」 である。天竜川が深く刻み込んだ断崖絶壁が続く渓谷は、新緑・紅葉の美しい風光明媚な観光地である。橋の形状は、渓谷によく調和するように、スレンダーなアーチを採用した。色彩も周辺の景観に馴染むように 「山鳩色」 にする予定である (上の写真:現地に設置された広報看板)。大橋は自動車専用のため自動車しか通行できないが、桁下に幅2mの歩道を設置し、天龍峡周遊歩道の一部として魅力向上を図ることになっている。
現在、川の両側に仮設の鉄塔が組まれ、ケーブルにより部材を運搬している (下左の写真)。最近、アーチが繋がり、天竜川の上空に完成を予想できるような姿が現れている。散策路途中の吊橋から下流を見ると、橋の下にJR飯田線の鉄橋や 「天龍下り」の船を見ることができる (下右の写真)。
さらに下の3枚の写真は、天龍峡の渓谷美を写したものである。スリル満点の吊橋は、よくサスペンス・ドラマの舞台として登場する (このブログでも、平成26年8月15日に紹介した)。


瑞穂公園ラグビー場(再掲)
ラグビーワールドカップ日本大会も、いよいよ終盤である。3連覇が確実視されていたニュージーランド「オールブラックス」が、準決勝でイングランドにまさかの敗北をした。しかし、今日の3位決定戦でさすがの試合展開を見せ、ウェールズに快勝した。明日の決勝戦イングランド対南アフリカの試合をもって、1か月半に亘る長い大会が終了となる。
アジアでの初めての開催となったワールドカップは、日本ラグビー界にとって大きな意義のあるものとなった。初めてベスト8に輝いた戦績も素晴らしいが、長らく低迷していたラグビー人気が「にわかファン」かも知れないが、多くのラグビーファンを獲得したことが大きな成果であろう。
この人気を定着させるためには、今後の活動「スーパーラグビー」「社会人トップリーグ」「大学ラグビー」花園の「高校ラグビー」などのアピールが大切だと思う。各地で開催されている子供向け「ラグビースクール」などにより裾野を広げることも大切であろう。名古屋の瑞穂ラグビー場でも、もっと大きな大会が開催されることを願うばかりである。
瑞穂ラグビー場については、2014年1月5日にこのブログでご紹介しました。以下に再掲します。
昭和25年 (1950)、名古屋市を中心に愛知県下7都市において、第5回国民体育大会が開催された。開催のきっかけは、まだ終戦間もない昭和23年ごろ、“荒れ果てた町は殺風景だし、市民の心も荒んでいるので、国体を誘致して元気を出そうじゃないか” と市長や当局者が考えたことに始まる。
会場は、瑞穂運動場を拡大整備するとともに、金山体育館 (現在、市民ホールのある場所) を新設したり振甫プールを改造して充てることとした。瑞穂公園には、5万人収容のメイン会場たる陸上競技場を整備し、また、3千人規模のスタンドを持つラグビー場を新設することとなった。(平成2年に改築され、現在は1万5千人収容)

国内では、東京・秩父の宮ラグビー場や大阪・花園ラグビー場に並ぶ歴史のあるグランドであり、各種の大会が行われている。「全国地区対抗大学ラグビーフットボール大会」 は、瑞穂ラグビー場創設とともに始まり、今年で第64回を数えている。毎年正月2日、4日、6日が開催日となっている。全国レベルの 「トップリーグ」 が開催されるとともに、地元の学生や社会人のラグビーメッカでもある。
かつて、ラグビーの人気は高く、早・慶・明などの大学対抗戦は国立競技場を満員にするほどであった。ところが、Jリーグが始まったころからサッカー人気に押され、また、“きつい・きたない (泥だらけ) ・ケガがつきもの” といった3Kが若者に嫌われるせいか長く低迷が続いてきた。しかし、2019年 (東京オリンピックの前年) にワールドカップの日本開催が決まっており、再び人気が高まることが期待されている。

アジアでの初めての開催となったワールドカップは、日本ラグビー界にとって大きな意義のあるものとなった。初めてベスト8に輝いた戦績も素晴らしいが、長らく低迷していたラグビー人気が「にわかファン」かも知れないが、多くのラグビーファンを獲得したことが大きな成果であろう。
この人気を定着させるためには、今後の活動「スーパーラグビー」「社会人トップリーグ」「大学ラグビー」花園の「高校ラグビー」などのアピールが大切だと思う。各地で開催されている子供向け「ラグビースクール」などにより裾野を広げることも大切であろう。名古屋の瑞穂ラグビー場でも、もっと大きな大会が開催されることを願うばかりである。
瑞穂ラグビー場については、2014年1月5日にこのブログでご紹介しました。以下に再掲します。
昭和25年 (1950)、名古屋市を中心に愛知県下7都市において、第5回国民体育大会が開催された。開催のきっかけは、まだ終戦間もない昭和23年ごろ、“荒れ果てた町は殺風景だし、市民の心も荒んでいるので、国体を誘致して元気を出そうじゃないか” と市長や当局者が考えたことに始まる。
会場は、瑞穂運動場を拡大整備するとともに、金山体育館 (現在、市民ホールのある場所) を新設したり振甫プールを改造して充てることとした。瑞穂公園には、5万人収容のメイン会場たる陸上競技場を整備し、また、3千人規模のスタンドを持つラグビー場を新設することとなった。(平成2年に改築され、現在は1万5千人収容)

国内では、東京・秩父の宮ラグビー場や大阪・花園ラグビー場に並ぶ歴史のあるグランドであり、各種の大会が行われている。「全国地区対抗大学ラグビーフットボール大会」 は、瑞穂ラグビー場創設とともに始まり、今年で第64回を数えている。毎年正月2日、4日、6日が開催日となっている。全国レベルの 「トップリーグ」 が開催されるとともに、地元の学生や社会人のラグビーメッカでもある。
かつて、ラグビーの人気は高く、早・慶・明などの大学対抗戦は国立競技場を満員にするほどであった。ところが、Jリーグが始まったころからサッカー人気に押され、また、“きつい・きたない (泥だらけ) ・ケガがつきもの” といった3Kが若者に嫌われるせいか長く低迷が続いてきた。しかし、2019年 (東京オリンピックの前年) にワールドカップの日本開催が決まっており、再び人気が高まることが期待されている。
