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三角州のクリーク(運河)
中国には古くから、「南船北馬」という言葉がある。北部の黄河流域は草原や丘陵が多く、穀物は畑作の麦である。輸送や移動には“馬”が使われる。これに対して南部の揚子江地域は三角州が多く、運河が張り廻されていて交通手段は“船”である。畑に代って田、麦の代わりに米を作っている。
北方の国境には、遊牧民族からの攻撃に備えるために「万里の長城」を造った。南部では網の目のようにクリーク(水路)が造られてきた。また、隋の時代(7世紀ごろ)には、北京と杭州を繋ぐ延長2500kmにもおよぶ大水路、「京杭(けいこう)大運河」が完成している。

三角州のクリークは、稲作の民の移動により、日本にも佐賀平野などに伝わっている。今でも福岡県柳川では、クリークを使って舟遊びが楽しめるようになっている。運河の岸辺には民家が立ち並び、水面に向かって階段をつくるなど、水を生活に取り組んでいる様子を見ることができる。
上と下左の写真は、上海から北へ向かって走る新幹線の中から撮影した。降り立ってクリークの畔を歩くことは出来なかったが、揚子江下流部の水田風景を見ることができた。下右は、北原白秋のふるさと柳川の「水郷川下り」である。

北方の国境には、遊牧民族からの攻撃に備えるために「万里の長城」を造った。南部では網の目のようにクリーク(水路)が造られてきた。また、隋の時代(7世紀ごろ)には、北京と杭州を繋ぐ延長2500kmにもおよぶ大水路、「京杭(けいこう)大運河」が完成している。

三角州のクリークは、稲作の民の移動により、日本にも佐賀平野などに伝わっている。今でも福岡県柳川では、クリークを使って舟遊びが楽しめるようになっている。運河の岸辺には民家が立ち並び、水面に向かって階段をつくるなど、水を生活に取り組んでいる様子を見ることができる。
上と下左の写真は、上海から北へ向かって走る新幹線の中から撮影した。降り立ってクリークの畔を歩くことは出来なかったが、揚子江下流部の水田風景を見ることができた。下右は、北原白秋のふるさと柳川の「水郷川下り」である。

妻籠宿の尾又橋と花飾り
妻籠宿と並行して流れる川を「蘭川」という。大平峠あたりを源流とし、妻籠を過ぎたところで木曽川に合流する。「蘭」は「あららぎ」と読む。アララギとは、常緑の針葉樹イチイ(一位)の別名である。古代日本では、高官の「笏(しゃく)」の材として使用された。このあたりに自生しているのであろう。
宿の南はずれ近くに、コンクリート製のアーチ橋が架かっている。「尾又橋」という。銘板に昭和22年竣工の文字が刻まれている。戦後間もない資材の乏しい時代に造られたものと思われ、幅員が狭く車1台がやっとである。隣に木製の橋があり、歩行者はこちらを歩くこととなっている。

妻籠宿は、「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。この制度は、「建物など建造物」を個としてでなく群として保存するという趣旨であるが、私はそれに加えて景観を形成する植物群も重要だと考えている。周辺の自然樹林や中庭などの庭園樹である。
さらに、軒下に飾られる鉢植えなどの山野草も大切な要素だと思う。宿場町など町屋が連担しているところでも、人々は生活の潤いとして花を育てる気持ちをもっている。これは英国などのハンギングバスケットやコンテナの花飾りに共通した“生活文化”ではないだろうか。

宿の南はずれ近くに、コンクリート製のアーチ橋が架かっている。「尾又橋」という。銘板に昭和22年竣工の文字が刻まれている。戦後間もない資材の乏しい時代に造られたものと思われ、幅員が狭く車1台がやっとである。隣に木製の橋があり、歩行者はこちらを歩くこととなっている。

妻籠宿は、「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。この制度は、「建物など建造物」を個としてでなく群として保存するという趣旨であるが、私はそれに加えて景観を形成する植物群も重要だと考えている。周辺の自然樹林や中庭などの庭園樹である。
さらに、軒下に飾られる鉢植えなどの山野草も大切な要素だと思う。宿場町など町屋が連担しているところでも、人々は生活の潤いとして花を育てる気持ちをもっている。これは英国などのハンギングバスケットやコンテナの花飾りに共通した“生活文化”ではないだろうか。

中山道の妻籠宿
京と江戸をむすぶ中山道は、山深い木曽路を通ることから「木曽街道」とも呼ばれていました。「中山道六十九次」のうち、京から28番目となる「妻籠宿」は、中山道と伊那街道が交叉する交通の要衝として、古くから賑わいを見せていました。
木曽川の支流・蘭川に沿った500mほどの間に、本陣・脇本陣・旅籠31軒が建ち並んでいました。明治になって鉄道や道路が新たにつくられ、宿場としての機能を失って衰退の一途をたどりました。しかし昭和40年代に集落保存と景観修復が行われ、昔ながらの町並みが復活しています。

1軒の旅籠の玄関脇に1本のアオギリが植えられていて、軒先につかえたのでしょうかS字型に折れ曲がっています。樹木を大切にする町の人たちの心が垣間見えて、何とも微笑ましい気持ちになりました。落ち葉が迷惑だとか剪定に予算がないとかの理由で伐採してしまう町とは大違いです。
町並みの中ほどに、「妻籠宿本陣」があります。島崎藤村の母の実家で、明治に至るまでは庄屋を兼ねていました。平成7年に復原された建物は、現在「南木曽町博物館」として使用されています。明治6年に開設された郵便御用取扱所は本陣が兼ね、書状集箱(今のポスト)が置かれていました。

木曽川の支流・蘭川に沿った500mほどの間に、本陣・脇本陣・旅籠31軒が建ち並んでいました。明治になって鉄道や道路が新たにつくられ、宿場としての機能を失って衰退の一途をたどりました。しかし昭和40年代に集落保存と景観修復が行われ、昔ながらの町並みが復活しています。

1軒の旅籠の玄関脇に1本のアオギリが植えられていて、軒先につかえたのでしょうかS字型に折れ曲がっています。樹木を大切にする町の人たちの心が垣間見えて、何とも微笑ましい気持ちになりました。落ち葉が迷惑だとか剪定に予算がないとかの理由で伐採してしまう町とは大違いです。
町並みの中ほどに、「妻籠宿本陣」があります。島崎藤村の母の実家で、明治に至るまでは庄屋を兼ねていました。平成7年に復原された建物は、現在「南木曽町博物館」として使用されています。明治6年に開設された郵便御用取扱所は本陣が兼ね、書状集箱(今のポスト)が置かれていました。

横井也有宅跡のムクノキ巨木
名古屋城外堀の南、那古野神社の西に東照ビルがある。その南の中庭にムクノキの巨木がある。根元には小さな祠が祀られており、太い幹にはしめ縄も張られている。幹まわり5m、高さは20m、樹齢は400年と推定されている。ただ、幹に大きな洞があり、コンクリートが埋め込まれている。
ビルの道路側に、この木の説明版が立っている。この地は、横井也有(1702~1783)宅の跡地であるという。也有は三の丸西隅(現愛知県図書館)に居を構えていたが、53歳で隠居した後、この地に移住したという。

横井也有は、知行1000石の尾張藩重臣であるが、和歌・俳諧・書画などを嗜む文人として有名である。特に俳句は「うずら衣」の作者として、俳文の新生面を開拓したと言われている。也有の俳句は、芭蕉やその門人とは一味異なり、洒脱でユーモアな人間批評が含まれている。
東山植物園の日本庭園の一部に「也有園」があることは1月3日のブログでご紹介した。也有園は、自然林の中にポッカリ開けた明るい林泉で、個性的な八つ橋や鄙びた四阿(あずまや)が点在している。風流人・也有に相応しい、雅趣に富んだ雰囲気を醸し出している。

ビルの道路側に、この木の説明版が立っている。この地は、横井也有(1702~1783)宅の跡地であるという。也有は三の丸西隅(現愛知県図書館)に居を構えていたが、53歳で隠居した後、この地に移住したという。

横井也有は、知行1000石の尾張藩重臣であるが、和歌・俳諧・書画などを嗜む文人として有名である。特に俳句は「うずら衣」の作者として、俳文の新生面を開拓したと言われている。也有の俳句は、芭蕉やその門人とは一味異なり、洒脱でユーモアな人間批評が含まれている。
東山植物園の日本庭園の一部に「也有園」があることは1月3日のブログでご紹介した。也有園は、自然林の中にポッカリ開けた明るい林泉で、個性的な八つ橋や鄙びた四阿(あずまや)が点在している。風流人・也有に相応しい、雅趣に富んだ雰囲気を醸し出している。

鶴岡八幡宮の参道
鶴岡八幡宮は鎌倉八幡宮とも称し、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(1147~1199)ゆかりの神社である。頼朝の先祖である河内源氏2代目棟梁・頼義が、康平6年(1063)にこの地に勧請したのが始まりという。この神社も新年の参拝客が多く、初詣ベスト10の常連である。
(有名な大銀杏につきましては、昨年の11月11日に掲載しましたのでご覧ください)
由比ヶ浜から八幡宮まで、鎌倉の中心をほぼ南北に貫く参道を「若宮大路」という。中央の一段高い歩道と並木を「段葛(だんかずら)」と呼び、八幡宮の境内に位置づけられている。京の朱雀大路を模して、源頼朝が自ら築いたのだという。大型バスも行き来するメイン通りである。

大路に面して大きな酒屋がある。創業は明治33年(1900)、建物は昭和2年に建てられている。伝統的な出桁造りで、重なり合う屋根や長大な差鴨居など重厚な雰囲気である。敷地奥の蔵や運搬用トロッコも残されていて、近代商文化を伝える貴重な遺産となっている。
1本西側には狭くて歩行者優先の「小町通り」が通っている。比較的大きなお店が多い大路に比べて小町の方は小さな店舗で、テイクアウトフードの店やこだわりグッズの店が並んでいる。日傘や帽子を商う各店舗の表情も個性的で、ついつい引き込まれて買いたくなってしまう。


(有名な大銀杏につきましては、昨年の11月11日に掲載しましたのでご覧ください)
由比ヶ浜から八幡宮まで、鎌倉の中心をほぼ南北に貫く参道を「若宮大路」という。中央の一段高い歩道と並木を「段葛(だんかずら)」と呼び、八幡宮の境内に位置づけられている。京の朱雀大路を模して、源頼朝が自ら築いたのだという。大型バスも行き来するメイン通りである。

大路に面して大きな酒屋がある。創業は明治33年(1900)、建物は昭和2年に建てられている。伝統的な出桁造りで、重なり合う屋根や長大な差鴨居など重厚な雰囲気である。敷地奥の蔵や運搬用トロッコも残されていて、近代商文化を伝える貴重な遺産となっている。
1本西側には狭くて歩行者優先の「小町通り」が通っている。比較的大きなお店が多い大路に比べて小町の方は小さな店舗で、テイクアウトフードの店やこだわりグッズの店が並んでいる。日傘や帽子を商う各店舗の表情も個性的で、ついつい引き込まれて買いたくなってしまう。


初詣(川崎大師)
この三が日、皆さんはどこかへ初詣に行かれましたか?近くの氏神様や菩提寺、あるいは有名な寺社でしょうか?全国の神社・仏閣で、初詣客が最も多いベスト10を選ぶと「川崎大師」は必ず名を連ねるそうです。東京では明治神宮、大阪では住吉大社、名古屋では熱田神宮などが常連です。
川崎大師の正式名称は「平間寺(へいけんじ)」である。社伝によれば、平間兼乗(ひらまかねのり)という武士が、海中から弘法大師の木像を引揚げて小堂を構えたのだという。大治3年(1128)に、諸国遊化(ゆけ)を行っていた高野山の上人と力を合わせてお寺を建てたのが始まりである。

歴史は古いが、堂宇は新しいものが多い。太平洋戦争により、ほとんどが焼け落ちてしまったからである。大本堂(下左の写真)は昭和39年に落慶した。大山門(上右)は昭和52年、中興塔と呼ばれる八角五重塔(下右)は昭和59年に完成している。
大山門に向かって150mもの長い参道(上左)が続いている。「仲見世通り」と呼ぶ。厄除けの品や煎餅、饅頭や咳止めの飴などを売る店が軒を連ねている。近郊近在だけでなく、遠くからも信徒が集まる。京浜急行電鉄は東京や横浜に多くの路線をもつが、その元は、明治32年(1899)に川崎駅から大師駅まで開通した大師電気鉄道である。


川崎大師の正式名称は「平間寺(へいけんじ)」である。社伝によれば、平間兼乗(ひらまかねのり)という武士が、海中から弘法大師の木像を引揚げて小堂を構えたのだという。大治3年(1128)に、諸国遊化(ゆけ)を行っていた高野山の上人と力を合わせてお寺を建てたのが始まりである。

歴史は古いが、堂宇は新しいものが多い。太平洋戦争により、ほとんどが焼け落ちてしまったからである。大本堂(下左の写真)は昭和39年に落慶した。大山門(上右)は昭和52年、中興塔と呼ばれる八角五重塔(下右)は昭和59年に完成している。
大山門に向かって150mもの長い参道(上左)が続いている。「仲見世通り」と呼ぶ。厄除けの品や煎餅、饅頭や咳止めの飴などを売る店が軒を連ねている。近郊近在だけでなく、遠くからも信徒が集まる。京浜急行電鉄は東京や横浜に多くの路線をもつが、その元は、明治32年(1899)に川崎駅から大師駅まで開通した大師電気鉄道である。


東山植物園の門松
徳川園の門松はユニークであるが、さらに個性的なのは東山植物園のものである。現在改修工事中の大温室北側一帯に広がる日本庭園、その入り口にも当たる「武家屋敷門」の前に真竹と葦(アシあるいはヨシともいう)で出来た門松が立っている。
この武家門は、東区筒井に建てられていた兼松家の門で、昭和42年に寄付を受けこの地に復元されている。元亀元年(1570)「姉川の合戦」のとき、兼松又四郎は信長軍の一員として戦った。陣中で正月を迎えたので河原に生えていた葦で簡素な門松をつくったという。兼松家では代々この習わしを守り、植物園でも受け継いでいる。《門松の写真は、植物園提供》

武家屋敷門をくぐると「也有園」で、曲水の流れを中心に芝生の庭が広がっている。そこここの植物には、尾張藩士で俳人でもあった横井也有翁の句碑が立っている。“曲水に猪口も流れるる椿かな” “柿ひとつ落ちてつぶれて秋の暮れ”。也有は多くの植物を俳句に詠い込んでおり、その植物を集めた庭である。
也有園を過ぎると奥池があり、そのほとりに「合掌造りの家」がある。この古民家は岐阜県白川村に建てられていた。鳩ケ谷ダム建設のため水没することとなったので、昭和31年に移築された。その奥はこの建物に相応しい深山風の庭で、渓谷や魚止めの滝にまで行きつくことができる。(手前味噌ですが、也有園・渓流・滝は50年前に私が設計しました)


この武家門は、東区筒井に建てられていた兼松家の門で、昭和42年に寄付を受けこの地に復元されている。元亀元年(1570)「姉川の合戦」のとき、兼松又四郎は信長軍の一員として戦った。陣中で正月を迎えたので河原に生えていた葦で簡素な門松をつくったという。兼松家では代々この習わしを守り、植物園でも受け継いでいる。《門松の写真は、植物園提供》

武家屋敷門をくぐると「也有園」で、曲水の流れを中心に芝生の庭が広がっている。そこここの植物には、尾張藩士で俳人でもあった横井也有翁の句碑が立っている。“曲水に猪口も流れるる椿かな” “柿ひとつ落ちてつぶれて秋の暮れ”。也有は多くの植物を俳句に詠い込んでおり、その植物を集めた庭である。
也有園を過ぎると奥池があり、そのほとりに「合掌造りの家」がある。この古民家は岐阜県白川村に建てられていた。鳩ケ谷ダム建設のため水没することとなったので、昭和31年に移築された。その奥はこの建物に相応しい深山風の庭で、渓谷や魚止めの滝にまで行きつくことができる。(手前味噌ですが、也有園・渓流・滝は50年前に私が設計しました)


徳川園の門松
明けましておめでとうございます。令和はじめての元旦です。今年もよろしくお願いいたします。
新年最初のブログですので、何かお正月らしい話題をと考え、徳川園の門松の写真を撮ってきました。ここの門松は、大変珍しく中央の竹が1本なのです。
徳川園は東区徳川町にある庭園で、尾張2代藩主光友の隠居所「大曽根御下屋敷(おしたやしき)」の跡地にあります。近世武家文化の殿堂「徳川美術館」と古典籍の宝庫「蓬左文庫」を含み、日本庭園で構成されています。春の新緑、秋の紅葉、5月の牡丹や6月の花菖蒲の名所としても知られています。

門松は、庭園の正面玄関「黒門」の前に据えられています。そもそも門松は、その年の安泰と収穫の無事を祈ってトシガミサマ(正月神)をお迎えする、そのご降臨される場所を示す目印(依代)として立てられます。12月の13日以降に、山から縁起の良い松の木を伐って「松迎え」をします。
竹は、真横に切った「寸胴(ずんどう)」が元でしたが、斜めに切る「そぎ」を家康が始めました。家康が唯一敗戦をした「三方ヶ原の戦い」の後、武田信玄に対して、“次は斬る”という念を込めたのが始まりだと言います。徳川園では、尾張徳川家が伝えてきた「竹1本の門松」を模して作成しています。


新年最初のブログですので、何かお正月らしい話題をと考え、徳川園の門松の写真を撮ってきました。ここの門松は、大変珍しく中央の竹が1本なのです。
徳川園は東区徳川町にある庭園で、尾張2代藩主光友の隠居所「大曽根御下屋敷(おしたやしき)」の跡地にあります。近世武家文化の殿堂「徳川美術館」と古典籍の宝庫「蓬左文庫」を含み、日本庭園で構成されています。春の新緑、秋の紅葉、5月の牡丹や6月の花菖蒲の名所としても知られています。

門松は、庭園の正面玄関「黒門」の前に据えられています。そもそも門松は、その年の安泰と収穫の無事を祈ってトシガミサマ(正月神)をお迎えする、そのご降臨される場所を示す目印(依代)として立てられます。12月の13日以降に、山から縁起の良い松の木を伐って「松迎え」をします。
竹は、真横に切った「寸胴(ずんどう)」が元でしたが、斜めに切る「そぎ」を家康が始めました。家康が唯一敗戦をした「三方ヶ原の戦い」の後、武田信玄に対して、“次は斬る”という念を込めたのが始まりだと言います。徳川園では、尾張徳川家が伝えてきた「竹1本の門松」を模して作成しています。

