Entries
坂本の里坊と穴太積み
琵琶湖の西岸、比叡山の麓に坂本の町はある。この門前町には約50の里坊が集まっている。里坊とは、山上の延暦寺での修行を終えた老僧が余生をおくる坊舎で、いずれの里坊も見事な庭園をもつ。左の写真はその中でも最も広大な「旧竹林院」境内、曲水のある回遊式庭園である。
赤い個性的な形の鳥居は、山王信仰の総本山「日吉大社」の「山王鳥居(合掌鳥居)」である。文献によれば日吉神社は、崇神天皇7年に日枝の山(ひえのやま:後の比叡山)から移されたという。平安京に都が遷ると、この地が京の鬼門に当たることから、災難除けの社として崇敬されるようになった。

里坊の外周は、自然石を積み上げた石積みに囲われている。この石積みは「穴太積み(あのうづみ)」と呼ばれるもので、穴太の里に住む石垣職人「穴太衆」が手掛けたものである。自然石(野面の石)を巧みに組み合わせ、それぞれの石が噛み合うことによりビクともしない堅固な構造となる。
穴太衆は、古墳の築造などを行っていた石工の末裔ともいう。寺院の石積みなどを行っていたが、安土城の石垣を施工したことで信長や秀吉の城郭づくりを任されるようになり、江戸時代初頭まで多くの城郭の石垣を築いた。構造的に合理的なだけでなく、大小の石が描く模様は景観的にも美しいと思う。

赤い個性的な形の鳥居は、山王信仰の総本山「日吉大社」の「山王鳥居(合掌鳥居)」である。文献によれば日吉神社は、崇神天皇7年に日枝の山(ひえのやま:後の比叡山)から移されたという。平安京に都が遷ると、この地が京の鬼門に当たることから、災難除けの社として崇敬されるようになった。

里坊の外周は、自然石を積み上げた石積みに囲われている。この石積みは「穴太積み(あのうづみ)」と呼ばれるもので、穴太の里に住む石垣職人「穴太衆」が手掛けたものである。自然石(野面の石)を巧みに組み合わせ、それぞれの石が噛み合うことによりビクともしない堅固な構造となる。
穴太衆は、古墳の築造などを行っていた石工の末裔ともいう。寺院の石積みなどを行っていたが、安土城の石垣を施工したことで信長や秀吉の城郭づくりを任されるようになり、江戸時代初頭まで多くの城郭の石垣を築いた。構造的に合理的なだけでなく、大小の石が描く模様は景観的にも美しいと思う。

石山寺の石と経蔵
“石山の 石より白し 秋の風”、芭蕉が石川県の那谷寺で詠った。奇岩のある那谷寺の石を詠んだともいうが、“石山寺の石よりも白い”とする説もある。芭蕉は石山寺に一夏を過ごしたことがあるので、どちらの寺にも縁が深いのであろう。
石山寺は、琵琶湖から流れ出る唯一の川「瀬田川」のほとりにある。本堂は「石山寺珪灰岩」と呼ぶ巨大な岩盤の上に建っている。この岩石は、石灰岩に花崗岩などのマグマが貫入した際にできるもので、非常に珍しく、ここの岩は国の天然記念物になっている。

寺の歴史は非常に古く、聖武天皇の発願により天平19年(747)に創建されたという。平安時代になって、紫式部は石山寺参篭の折に『源氏物語』の着想を得たという伝承がある。本堂の一部に「紫式部源氏の間」という部屋があり、等身大の人形が展示されていた。 近くに、式部の供養塔もある。
多宝塔や鐘楼など多くの堂宇があるが、その中のひとつに目が留まった。小さな経蔵であるが、校倉造りだろうと思われる。東大寺の正倉院と同じ構造である。東大寺の大仏は聖武天皇の発願で天平17年(745)に制作が開始されたというが、石山寺の創建とも時期を一にしている。


石山寺は、琵琶湖から流れ出る唯一の川「瀬田川」のほとりにある。本堂は「石山寺珪灰岩」と呼ぶ巨大な岩盤の上に建っている。この岩石は、石灰岩に花崗岩などのマグマが貫入した際にできるもので、非常に珍しく、ここの岩は国の天然記念物になっている。

寺の歴史は非常に古く、聖武天皇の発願により天平19年(747)に創建されたという。平安時代になって、紫式部は石山寺参篭の折に『源氏物語』の着想を得たという伝承がある。本堂の一部に「紫式部源氏の間」という部屋があり、等身大の人形が展示されていた。 近くに、式部の供養塔もある。
多宝塔や鐘楼など多くの堂宇があるが、その中のひとつに目が留まった。小さな経蔵であるが、校倉造りだろうと思われる。東大寺の正倉院と同じ構造である。東大寺の大仏は聖武天皇の発願で天平17年(745)に制作が開始されたというが、石山寺の創建とも時期を一にしている。


教林坊の庭園
琵琶湖・西の湖の東に安土城があり、さらに東に観音寺の山がある。その山裾の森の中に、“詫び・さびのかくれ里”といわれる通りの「教林坊」がひっそりと佇んでいる。二つの門と本堂、書院と経蔵が狭い庭園を取り囲むような配置で建つだけの小さなお寺である。
門から書院までの細い苑路に心温まる看板を見つけた。地表に出た木の根を囲むように丸太が縛ってあり、「もみじの根を保護しています」と記されている。住職の、自然や植物に対する愛情が伝わってくる。パンフレットにも、「苔を踏まないでください」などと書かれている。

由来書を読むと、推古13年(605)に聖徳太子によって創建されたのだという。寺名は、太子が林の中で教えを説かれたことに由来する。葦葺き屋根の書院は、江戸前期の様式を伝える貴重なものである。その裏側に立つ経蔵が、とても良い。田舎家の土蔵のように、壁は漆喰のない荒壁のままである。
多くの観光客を招きたいと考えていないのか、公開されるのは4月・5月の休日と11月から12月10日までである。この寺を世に紹介したのは白洲正子の『かくれ里石の寺』、その一節がこの寺の庭園を見事に語っている。~~ここで私の興味をひいたのは、慶長時代の石庭で、いきなり山へつづく急勾配に作ってあり~~日本庭園のおいたちを見せられたような気がする~~


門から書院までの細い苑路に心温まる看板を見つけた。地表に出た木の根を囲むように丸太が縛ってあり、「もみじの根を保護しています」と記されている。住職の、自然や植物に対する愛情が伝わってくる。パンフレットにも、「苔を踏まないでください」などと書かれている。

由来書を読むと、推古13年(605)に聖徳太子によって創建されたのだという。寺名は、太子が林の中で教えを説かれたことに由来する。葦葺き屋根の書院は、江戸前期の様式を伝える貴重なものである。その裏側に立つ経蔵が、とても良い。田舎家の土蔵のように、壁は漆喰のない荒壁のままである。
多くの観光客を招きたいと考えていないのか、公開されるのは4月・5月の休日と11月から12月10日までである。この寺を世に紹介したのは白洲正子の『かくれ里石の寺』、その一節がこの寺の庭園を見事に語っている。~~ここで私の興味をひいたのは、慶長時代の石庭で、いきなり山へつづく急勾配に作ってあり~~日本庭園のおいたちを見せられたような気がする~~


永源寺・方丈の屋根

永源寺は、琵琶湖に流れる「愛知川」に沿って広大な伽藍をもつ。“あいち”でなく“えちがわ”と読む。擬宝珠のある旦度橋からは、自然豊かな瑞石山と愛知川の間に、静かに佇む永源寺を望むことができる。少し上流には50年ほど前にできた、かんがいと発電のための永源寺ダムがある。
総門を過ぎ、山門を入ると左手に大きな本堂が見えてくる。康安元年(1361)創建時の建物は火災により焼失し、現在は明和2年(1765)に井伊氏の援助で建立されたものである。屋根は、琵琶湖に生える葦(ヨシ:アシともいう)で葺かれている。これほどの規模の葦葺き屋根は、全国でも珍しいという。
法堂近くの小さな池に銅で鋳造された噴水があり、その横に「永源寺」と逆さに書かれた看板がある。池に写った文字が、きちんと寺の名前を示している。寂室元光禅師が開山した禅寺であるので、何か禅問答を仕掛けているのだろうか?

湖東・西明寺の「蓬莱庭」
湖東というのは琵琶湖の東、名古屋側から見ると鈴鹿山脈を超えた山裾一帯のことである。昨秋、紅葉の綺麗な3つのお寺巡りをする日帰りバスツアーに参加した。お仕着せにはなるが、自分の車で探し歩くより気楽で簡単に行ける。昼食にビールが飲めるというのも楽しみのひとつになる。
西明寺は承和元年(834)に、伊吹山を開山したことでも知られる三修上人が開いた。現存する本堂、三重塔(いずれも国宝)は鎌倉時代の建築という。階段の多い長い参道を登ると仁王様の立つ二天門があり、くぐって中に入ると正面に本堂、右に三重塔がある。

二天門の手前に名勝に指定されている「蓬莱庭」がある。心の字を象った池には、中央に折り鶴に模した鶴島、左(上の写真では右下)に亀島が並んでいる。背後の築山にある立石群は、本堂に安置されている薬師如来や日光・月光菩薩などを表すという。まさに蓬莱の庭である。
境内一帯には歳を経たモミジが多く、紅葉の名所となっている。冬は日本海からの雪があり、一年中湿り気が多いと思われるので、林床は美しいコケで覆われていた。この美しいお寺は、アメリカのニュース専門放送局・CNNのウェブ特集で「日本の最も美しい場所31選」に選出されている。

西明寺は承和元年(834)に、伊吹山を開山したことでも知られる三修上人が開いた。現存する本堂、三重塔(いずれも国宝)は鎌倉時代の建築という。階段の多い長い参道を登ると仁王様の立つ二天門があり、くぐって中に入ると正面に本堂、右に三重塔がある。

二天門の手前に名勝に指定されている「蓬莱庭」がある。心の字を象った池には、中央に折り鶴に模した鶴島、左(上の写真では右下)に亀島が並んでいる。背後の築山にある立石群は、本堂に安置されている薬師如来や日光・月光菩薩などを表すという。まさに蓬莱の庭である。
境内一帯には歳を経たモミジが多く、紅葉の名所となっている。冬は日本海からの雪があり、一年中湿り気が多いと思われるので、林床は美しいコケで覆われていた。この美しいお寺は、アメリカのニュース専門放送局・CNNのウェブ特集で「日本の最も美しい場所31選」に選出されている。

等比級数(トウヒキュウスウ)
◆◆毎日家に居るのも辛いことで、同じことの繰り返しは人の脳を疲れさせるようです。そこで頭に刺激を・・・苦手な人も多い数学で一遊び!!◆◆
皆さんは曽呂利新左衛門のお話をご存知でしょうか。私たちの子供の頃の少年漫画雑誌(月刊誌)にはなぜか「豊臣もの」が多かったように思います(家康を腹黒い狸親父にしたかった?)。真田十勇士とか豪傑・塙団右衛門(ばんだんえもん)とか。その中に曽呂利新左衛門の逸話がありました。
彼は太閤・秀吉のお伽衆で、お気に入りの侍だったようです(落語の始祖という説もあります)。あるとき秀吉に“好きなだけ褒美を摂らす”と言われ、それなら“米粒1粒、明日は2粒、毎日倍々で100日間”と。それくらいなら大したことはないと秀吉は思ったけれど、それはとんでもないことに・・・

今の計算なら、2の99乗ということで大変な量となります。ところが西洋にも同じような話があるのです。チェスを考案した人が王様に褒められ、ご褒美にチェス盤に麦1粒を選びました。チェス盤は8×8なので64桝あります(このお話は、今、日本の高校に留学中の孫娘から教えられました)。

そこへ麦粒を倍々に乗せていくと2の63乗・・・9,223,372,036,854,775,808粒ということになります。すなわち922京、「京(けい)」は「兆」の1万倍ですから莫大な数。先だって、スーパーコンピューターの名前としても話題になりましたね。
◆◆頭の体操になりましたか? エッ!かえって頭が痛くなった!?◆◆
皆さんは曽呂利新左衛門のお話をご存知でしょうか。私たちの子供の頃の少年漫画雑誌(月刊誌)にはなぜか「豊臣もの」が多かったように思います(家康を腹黒い狸親父にしたかった?)。真田十勇士とか豪傑・塙団右衛門(ばんだんえもん)とか。その中に曽呂利新左衛門の逸話がありました。
彼は太閤・秀吉のお伽衆で、お気に入りの侍だったようです(落語の始祖という説もあります)。あるとき秀吉に“好きなだけ褒美を摂らす”と言われ、それなら“米粒1粒、明日は2粒、毎日倍々で100日間”と。それくらいなら大したことはないと秀吉は思ったけれど、それはとんでもないことに・・・

今の計算なら、2の99乗ということで大変な量となります。ところが西洋にも同じような話があるのです。チェスを考案した人が王様に褒められ、ご褒美にチェス盤に麦1粒を選びました。チェス盤は8×8なので64桝あります(このお話は、今、日本の高校に留学中の孫娘から教えられました)。

そこへ麦粒を倍々に乗せていくと2の63乗・・・9,223,372,036,854,775,808粒ということになります。すなわち922京、「京(けい)」は「兆」の1万倍ですから莫大な数。先だって、スーパーコンピューターの名前としても話題になりましたね。
◆◆頭の体操になりましたか? エッ!かえって頭が痛くなった!?◆◆
高月院の土塀と氷池跡
松平郷の「高月院」は、いつ訪れても気持ちがいい。人が込み合うなどということはないが、今はさらに閑散としている。この静かなたたずまいが好きだ。特に庭園といったつくりはないが、棚田がしだいに下がってくる途中に、土塀に挟まれた参道がある。心憎いばかりの造形である。
土塀がいい。腰あたりの高さなので、上(右)を向いても下を見ても広々として遮るものがない。ご住職の話しでは、かなり老朽化しているので近々修理するという。国指定の史跡である墓所の石垣修理なども行っているので、古色蒼然とした土塀もイメージを壊すことなく復元されることと思われる。

棚田の一番下あたりは浅い池や湿地になっている。毎年4月には、ここに水芭蕉の花が咲く。尾瀬のような高層湿原に分布する植物であるので、この地はかなり涼しく水がきれいなのであろう。ちょっと山際に入るとこれほど豊かな自然をもつ豊田市を、羨ましく感ずる。
池の上の石垣に看板があり、「氷池跡」との説明がある。この池では、明治20年ごろから戦争の始まる昭和16年まで、天然氷を生産していたという。1月から2月末までの間に、池に張った氷を3回ほど切り取り、山かげの氷室に保存して夏に岡崎方面に出荷していた。

土塀がいい。腰あたりの高さなので、上(右)を向いても下を見ても広々として遮るものがない。ご住職の話しでは、かなり老朽化しているので近々修理するという。国指定の史跡である墓所の石垣修理なども行っているので、古色蒼然とした土塀もイメージを壊すことなく復元されることと思われる。

棚田の一番下あたりは浅い池や湿地になっている。毎年4月には、ここに水芭蕉の花が咲く。尾瀬のような高層湿原に分布する植物であるので、この地はかなり涼しく水がきれいなのであろう。ちょっと山際に入るとこれほど豊かな自然をもつ豊田市を、羨ましく感ずる。
池の上の石垣に看板があり、「氷池跡」との説明がある。この池では、明治20年ごろから戦争の始まる昭和16年まで、天然氷を生産していたという。1月から2月末までの間に、池に張った氷を3回ほど切り取り、山かげの氷室に保存して夏に岡崎方面に出荷していた。

建仁寺の庭
◆◆まだ京都を歩いています。ブログ発信のための取材散歩ができませんので、古い京都旅行の“ネタ”を使って書いています。もともと東山植物園や徳川園の設計・計画にも携わってきましたので、日本庭園には興味があり、京都からの先生による講習会もいくつか受講しています。◆◆
京都での研修で建仁寺を見学した。祇園から花見通りを南へ進んで突き当ると、建仁寺の東の門に至る。門を入って右へ曲がると方丈が見え、その前面に白砂を使った枯山水がある。土塀の真ん中に唐破風の勅使門?があるのは高台寺方丈の庭に似ているが、この波模様の庭園に違和感はない。(単なる好み?)

入り組んだ建物の廊下を渡り歩いていくと、方丈の東に小さな中庭がある。「○△□乃庭」と書かれ、見取り図まで記された木製の看板があった。この閉ざされた空間の中に、大宇宙があるという。中央の樹木の根元周りと砂の描く模様が「丸」、石の井戸が「四角」、手前の砂が「三角」になっている。
説明版には、「単純な三つの図形は宇宙の根源的形態を示し、密教の6大思想(地水火風空識)を地(□)水(○)火(△)で象徴したものとも言われる」と記されている。建仁寺は建仁2年(1191)に栄西が開山したもので、日本で最初の禅寺と言われている。さすが、庭にも禅問答が隠れている。


京都での研修で建仁寺を見学した。祇園から花見通りを南へ進んで突き当ると、建仁寺の東の門に至る。門を入って右へ曲がると方丈が見え、その前面に白砂を使った枯山水がある。土塀の真ん中に唐破風の勅使門?があるのは高台寺方丈の庭に似ているが、この波模様の庭園に違和感はない。(単なる好み?)

入り組んだ建物の廊下を渡り歩いていくと、方丈の東に小さな中庭がある。「○△□乃庭」と書かれ、見取り図まで記された木製の看板があった。この閉ざされた空間の中に、大宇宙があるという。中央の樹木の根元周りと砂の描く模様が「丸」、石の井戸が「四角」、手前の砂が「三角」になっている。
説明版には、「単純な三つの図形は宇宙の根源的形態を示し、密教の6大思想(地水火風空識)を地(□)水(○)火(△)で象徴したものとも言われる」と記されている。建仁寺は建仁2年(1191)に栄西が開山したもので、日本で最初の禅寺と言われている。さすが、庭にも禅問答が隠れている。


絵っSAY(エッセイ)
名古屋市を退職してのち、中部電力の名古屋港ワイルドフラワーガーデン「ブルーボネット」に5年弱勤務しました。その間に「園長さんのガーデンライフ」と題するブログを377回発信しました。これは植物や庭園に関する“よもやま話”です。(同名の本も自費出版しました)

中電を退職し、中部復建に技術顧問として勤め始めて早や8年にもなります。その間「中部の土木文化見てある記」というこのブログを550回ほど更新しています。すなわち13年間に亘っての“ブロガー”生活を続けていることになります。(仕事ではありますが、ほとんど趣味か生甲斐?の域に達しています)

テーマは異なりますが、私のブログには共通することがあります。文章は短めで、必ず写真を添付することです。むしろ、写真が多くを語る主役であり、文章の方が従です。私はこの方式を・・・・・「絵っSAY」と名付けました。絵(写真)が喋るという意味です。
エッセイ(随筆)と言えるほどのものか否かは読者のご判断にお任せすることにして、本人はそのつもりで書いています。英文学者の福原麟太郎という人が、『叡智の文学』という本の中で次のように述べています。「随筆は知識を書き残すことでなく、意見を吐露することでなく、叡智を人情の乳に溶かしてしたたらせる事である」と。“叡智を人情の乳に溶かす”とは意味深い言葉ですが、私もその心がけでブログを続けていきたいと思っています。

中電を退職し、中部復建に技術顧問として勤め始めて早や8年にもなります。その間「中部の土木文化見てある記」というこのブログを550回ほど更新しています。すなわち13年間に亘っての“ブロガー”生活を続けていることになります。(仕事ではありますが、ほとんど趣味か生甲斐?の域に達しています)

テーマは異なりますが、私のブログには共通することがあります。文章は短めで、必ず写真を添付することです。むしろ、写真が多くを語る主役であり、文章の方が従です。私はこの方式を・・・・・「絵っSAY」と名付けました。絵(写真)が喋るという意味です。
エッセイ(随筆)と言えるほどのものか否かは読者のご判断にお任せすることにして、本人はそのつもりで書いています。英文学者の福原麟太郎という人が、『叡智の文学』という本の中で次のように述べています。「随筆は知識を書き残すことでなく、意見を吐露することでなく、叡智を人情の乳に溶かしてしたたらせる事である」と。“叡智を人情の乳に溶かす”とは意味深い言葉ですが、私もその心がけでブログを続けていきたいと思っています。