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月瀬の大杉

 国道153号を飯田方面に向かい、県境を越えてすぐのところ、下伊那郡根羽村に巨大な杉の木がある。「月瀬の大杉」と呼ぶ。幹まわり14m、高さ40m、樹齢は1800年を超えると推定されている。平成元年に行われた環境庁の調査により、長野県で第一の巨木であると確認されている。
 樹形は、杉らしい円錐形で、まだまだ若々しいスタイルを保っている。根元から1本枝が出ているので少し扁平で、その方向から見るとさらに太く見える。少し離れたところに素掘りの水路があり、そこに太い根が洗われて見えている。土壌条件が良くて遠くまで根を張っている様子が見てとれる。

月瀬大杉G

 近くの月瀬神社のご神木として古くから崇敬されてきたが、幾度かの危機はあった。弘化元年(1844)、江戸城本丸焼失後の復興用材として求められ、あるいは明治41年(1908)の村内神社統合の際には売却も検討されたが、住民の団結により回避することができた。昭和19年に、国の天然記念物に指定されており、永久に保存されることとなっている。

月瀬大杉マップ

アボガドロ数

 中日新聞夕刊のコラム欄で名古屋大学の先生が、地球惑星科学科の授業について語っている(6月10日の「紙つぶて」)。内径2cm×高さ2cmの水、すなわち6ミリリットルの水の中に2×1兆×2000億の水分子が入っているという。
 1円玉の直径がちょうど2cmであり、それを13枚重ねると約2cmになる。6ミリリットルの体積を視覚的に認識しようとすれば、下の写真になる。この中に4000万京の水分子が数えられるというのだ。地球惑星科学というのは、何万光年という気の遠くなるような広大な世界から、極微な分子までを学問の範囲としているのだろう。

1円玉

 この記事を読んでいて、はるか昔の高校時代に習った物理か化学の授業を思い出した。「アボガドロ数」である。1モル(mol)という単位があり、物質量を示す。分子量の数字にグラムをつけた質量に含まれる物質量をいう。例えば・・・
 水の分子は、H2 Oであるので2+16=18g(18ミリリットル・・・写真の3倍)が1モルの重さである。1モルの中にある分子の数は・・・≪6×10の23乗≫という数を50年以上経った今も覚えている。ついでに、気体の場合には22.4リットルの体積が1モルである(との記憶である)。
 受験のために必死で覚えたのかもしれないが、それ以上に未知の遠大な(極小な)世界に、好奇心的な興味をもったように思う。そうでなく受験用だったら、とっくの昔に忘れ果てたであろう。さらに、「水兵離別バックの船 なあに間があるシップはすぐ来らあ 閣下はスコッチのバクローマン」というのも思い出した。これは、元素の周期表を暗記する呪文である。

元素


季節通信75雨に咲く花

野間大坊の「義朝廟」

 野間大坊を初めて訪れたのは私が小学校を卒業した春休み、先生2人と同級生15人ほどでサイクリングした時である。亀崎から内海までの、かなりの遠出であった。知多半島中央部の、アップダウンの多い道を自転車で走った覚えがある。もう60年近い大昔!のこと。
 その後何度もこの寺を訪れているが、その印象は初めてのときと少しも変わっていない。源頼朝建立ともいわれる大門だが、両袖に塀がないため孤立したイメージである。入母屋造りの本堂も、宝暦4年(1754)建築と古い造りだが、前面に石畳などがないためか何となくシックリした感じがない。全体の伽藍としてのまとまりが欠けているような気がする。

野間マップ

 印象深いのは「義朝の廟」である。石垣に挟まれた小さな門の向こうに多宝塔型の石塔が見え、その周囲にびっしり木刀が積まれている。下の方には古く朽ちかけたものもあり、表面にはまだ新しい木肌を見せるものもある。
 平治元年(1159)、「平治の乱」に敗れて知多半島まで逃れてきた源義朝(頼朝や義経の父)は、縁者のもとに身を寄せたが、裏切りに遭い湯殿で殺されてしまった。この時義朝は“我に木太刀の一本なりともあれば”と無念を叫んだという。この故事から、後の人々が木刀をささげ続けているのである。

野間季節通信73

上高地の河童橋

 上高地は、焼岳火山群白谷山の噴火活動により梓川が堰き止められてできた、長さ10km・最大幅1kmの堆積平野である。大正時代にも同様の火山噴火があり、大正池ができた。水没した針葉樹が枯れ姿のまま湖の中に立つ、特異な風景をつくっている。(下右の写真)
 上高地は、日本山岳界のメッカであり北アルプス登山の入り口である。ブナ・ミズナラなどの落葉広葉樹やシラビソ・トウヒといった常緑針葉樹の平地林が横尾までつづき、そこから唐沢までは急な登りになる。唐沢には、学生時代に1か月滞在したことがある。松本営林署のアルバイトで「自然保護監視員」だった。
上高地G

 上高地のシンボルが「河童橋」である。上流側には岳沢から穂高連峰、下流には焼岳が見える。全長37m、幅3.1m、カラマツ材でできた吊り橋である。明治24年(1891)に初めて整備され、その後20年ほどごとに架け変えられて、現在は平成9年にできた5代目である。
 「河童橋」の名前の由来は諸説あるが、“昔ここに河童が住みそうな深い淵があったため”というのが一番もっともらしい。橋の周辺には、登山者たちのキャンプ施設や山岳救助隊の基地などがひしめきあっている。ホテルや売店もあるが、その中に「河童の休憩所」というのもあった。


季節通信71落葉松
 


尾瀬ヶ原の木道

♪♪夏が来れば思い出す はるかな尾瀬遠い空・・・水芭蕉の花が咲いている・・・♪♪
江間章子作詞・中田喜直作曲の青春歌謡「夏の思い出」です。この歌に憧れて、いつかは尾瀬に行きたいと思っていました。実現できたのは定年退職後、長年の夢がようやく叶ったのです。

 尾瀬ヶ原は、新潟市で日本海に注ぐ阿賀野川の支流、只見川の源流域にある。東西6km、南北2kmの広大な湿原で、新潟・福島・群馬の3県に跨っている。湿原を囲む燧ヶ岳(ひうちがたけ)や至仏岳などの山々、尾瀬沼を含めて国立公園特別保護地域に指定されている。

尾瀬G

 尾瀬といえばミズバショウであり、木道である。木道は二列に並んでいて、交互に歩けるようになっている。また、立止った人や遅い人を追い越すためにも使われる。とにかく湿原の植物を守るため、湿地に足を踏み入れてはいけないのである。

尾瀬H

 この平らな地形は、何万年か前の火山活動により、川が堰き止められて土砂が堆積したためと考えられている。似たような地形に、北アルプスの上高地がある。ミズバショウ以外でも、高山植物の宝庫である。
 写真は左から ①ミズバショウとリュウキンカ ②コイワカガミ ③エンレイソウ ④シラネアオイ    ⑤サンカヨウ ⑥オオバキスミレ 

尾瀬I


季節通信70尾瀬

伊賀上野の「ゆ」

 伊賀上野城や蓑虫庵を歩き回ったので、汗でグッショリ濡れてしまった。着替えをしたいと思ったところに、ちょうど「ゆ」屋を見つけた。最近のスーパー銭湯でなく、昔ながらの銭湯である。
 石造りの門柱に「一乃湯」の文字と温泉マーク「♨」を象ったネオンが掲げられている。細い石張りの通路の先に、ひらがなの「ゆ」の字が紺暖簾に染めつけてある。昭和の古き時代そのままの風情である。

 ♪♪二人で行った横丁の風呂屋 一緒に出ようねって行ったのに いつも私が待たされた・・・♪♪
南こうせつの「神田川」の一節が思い浮かぶ。下駄をカラコロと鳴らす音が聞こえそうだ。
 ちょうど営業時間の4時だったので、誰もいない一番風呂に入ることができた。入り口の「番台」には、福を招くという「福助人形」が座っている。浴室の壁はもちろん富士山を描いたタイル張りだった。(写真はありません)

 裏へ回ると、高いコンクリートの煙突がある。お湯を炊くのは今でも薪であろうか?この煙突は、伊賀上野のシンボルになっているという。カウンターに立派なパンフレットが置いてあった。古い“銭湯文化?”を大切にするご主人の心意気が伝わってくる。

上野「ゆ」G

◆今日6月10日は「時の記念日」、そこで時間に因んだ「季節通信」をお送りします◆

季節通信74時間


伊賀上野の「蓑虫庵」

 伊賀上野は三重県の西端のまち、奈良や滋賀に近く伊勢や名古屋ともそれほど遠くない。名古屋から関西本線に乗ると亀山まで1時間、乗り換え時間を含めてさらに1時間で伊賀上野駅に着く。“伊賀”の名のとおり忍者の里であり、近くには甲賀という町もある。
 伊賀上野城の天守閣に登ると伊賀の盆地を見渡すことができる。鈴鹿山脈の西、木津川上流の伊賀川・名張川の流域である。木津川は西へ流れて京都南部で淀川と合流する。緑に包まれた城郭の一角に、檜皮葺き屋根の個性的な「俳聖殿」が見える。これは、芭蕉生誕300年を記念して建てられたものである。

蓑虫庵マップ

 伊賀上野は松尾芭蕉生誕の地で、若き日を過ごした故郷である。上野の町なかに芭蕉の高弟、服部土芳の草庵がある。豪商木津家に生まれ、服部家を継いで藤堂藩に仕えたが30歳の若さで官を退き、芭蕉に師事して俳諧一筋の生涯を送った。
 茅葺き屋根の門と焼き丸太の木塀に囲まれた樹林の中に「蓑虫庵」が佇んでいる。この名は、芭蕉から送られた“みの虫の 音を聞にこよ 草の庵”という句から採ったものである。土芳は芭蕉没後に、芭蕉を顕彰した『芭蕉句集』などを、この庵で編んだ。

蓑虫庵G

伊賀上野城の石垣

 伊賀上野城は、伊賀盆地の中ほどにある標高約180mの丘の上に築かれている。北・西・南の3方を川に囲まれた要害の地である。もともとはお寺の伽藍があったが、織田の家臣・筒井氏が城塞の大改修を行い、合わせて城下町の建設も行った。
 江戸時代になって、藤堂高虎が伊賀・伊勢の領主となった。高虎は、大坂方への備えとして城郭を拡張、特に西方に高い石垣を巡らせた。ただし5層の天守閣は、慶長17年(1612)に襲った大暴風のため、建設途中に倒壊してしまった。その3年後の元和元年には、大坂夏の陣により豊臣氏が滅んでしまったので、天守閣は実現しないまま江戸時代を終えた。(写真は昭和初期に造った模擬天守)

上野城G

 昭和42年に、お城は国の史跡に指定され、近隣一帯は上野公園として整備された。芭蕉を顕彰する「俳聖殿」や「芭蕉翁記念館」、「伊賀流忍者博物館」などがあり、観光地としても利用されている。
 築城の名手・藤堂高虎が築いた石垣は高さが30m近くもあり、日本一の高さを大坂城と競っている。その一部が危険になったのか、積み直し工事が行われていた(10年ほど前に撮影)。形の異なる石一つひとつにナンバーが張り付けられていて、元通りの石垣に戻す作業である。

上野城H
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ブログを始めるに当って

 私ども「中部復建」は、戦後から一貫して土木施設の計画設計に携わってきました。地域の皆さんに、より身近に土木を感じて頂きたく先人が残してくれた土木遺産等を訪ね歩き≪中部の『土木文化』見てある記≫として、皆さんに紹介していきたいと思い、このブログを発信する事としました。  

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プロフィール

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森 田 高 尚
昭和21年6月 半田市生まれ
平成12年 東山植物園長
平成17年 名古屋市緑地部長
平成19年 中電ブルーボネット園長
平成24年 中部復建技術顧問
技術士:(建設部門・環境部門)
公園管理運営士 
著書:『園長さんのガーデンライフ』
監修:『世界一うつくしい植物園』
 (著者:木谷美咲)
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